表現者は作品だけで勝負しなさい

昔から油絵が大好きで絵画の個展にもよく出掛けたものだったが、最近それをピタリとやめた。『在廊』している画家の質 (人間性) が酷く低下したからだ。
※他界した画家の名画は素晴らしいが、存命中の画家の精神性が緩すぎる。

そもそも画家の在廊を、私は求めていない。むしろ居なくていい。
画家は絵だけで勝負しなさい、と思う。同様に、音楽家は音楽だけで勝負しろ、とも言いたい。

作品と関係ないものをチラつかせて客やファンの同情を煽る行為。

(或る画家の例だが) SNS等で、個展を控えて精神的に酷く混乱している大芝居を打って行く。
だが‥、客に会場に来させた途端に、『ありがとう!』『涙が出ました』等と言って態度を激変させる偽物の表現者たちを見ていると、心から虫唾が走る。
仮にそれをメンヘラだとして、メンヘラを売りにしてはいけないですよ。それは病いなのだから。

 

‥とは言え世の大半の表現者等がこの体たらくだから、現在活躍していると言われる多くの音楽家、舞踏家やら画家の作品も五百年後には殆ど消えているだろう。

それを確かめる為に私も、五百年後のこの世に戻って来ようと思っているが‥。

(スマホから投稿 📱)

https://www.threads.net/@didiermerah/post/DIstyx1yVLZ?xmt=AQGz35a3CINa8HZD_VptMlc2EGV8nfyklDcNn7xbEzafXw

私が私らしく居られる条件

一人で居たい日もあれば誰かと話したい日もあって、そうかと思えば馴染んだ相手にだけ心を開きたい日もある。
この世にもあの世にも、いつも同じ様に居られる存在は無いと言う事は、日々神々と接していればよく分かる⛩️

但しどんな時であっても、『相手は実在する』事だけは忘れてはならないと思う。相手はけっしてバーチャルでも架空の存在でもなく、リアルに実在すると言う事は忘れてはいけないと思う。
そのルールを逸脱したい時は、第三者が関わらずに済む空間で、表現に徹すれば良いと思う。
むしろ私は他者不介在の場所で、一人粛々と表現している方が向いている。

ブログとか、noteとか、そういう場所で他者の目や評価を一切意識しないで、浮き世から離れてものを書く、音楽に没頭するとか。

毒と表現 – 槇原敬之 “Hungry Spider”

「毒にも薬にもならない」と言う言葉があるが、その逆に「毒が洗練されると薬になる」と説いたのは我が夫 天野玄斎氏である。

あることを機にこの数日間、マッキーこと槇原敬之のHungry Spiderを聴き込んでいる。何故こんなにもこの旧作に惹かれるのか‥等と言うことは棚に上げ、兎に角聴き込んで行くとあることに気付く。
 

 

この作品がリリースされたのは1999年、J-Pop界隈が少し右肩下がりに流れを変え始めた頃に遡る。当時私は東京とL.A.とを往復しながらメンタル(PTSD)の治療に集中していた頃で、私が当時先に「Hungry Spider」の英語バージョンを聴いたように記憶している。
 

 

2022年、春。世界人類が前代未聞の強毒ウィルスと戦い続けている今だから、尚更感じることも多々ある。
マッキーのこの作品からはきらきらと光り輝く希望ともう一つ、強烈なまでの毒性を感じてならない。この「毒」こそがマッキーの最大の武器・魅力であり、毒のない反省人種の槇原敬之には何の魅力も無いと言っても過言ではないだろう。

だが彼の容姿がマッキーが強く胸に秘めている毒性の障害壁となり、口から多くの毒液を吐く時に初めて放たれる玉虫色のオーラは年々軽減され、彼自身がまるで血液を体からごっそり抜かれたように時間をかけながら生気を失って行ったように見える。
 

多くの人々がマッキーに求めたものは一体何だったのだろうか?
恐らく芸歴が増えて行くと多くの表現者たちはそれにともなう「人柄」や「人格」を求められるようになり、本来不完全な美を武器にする表現者たちが周囲からの軋轢の中で窒息しながら、自らの武器を置いてしまう。

周囲はその「武器を置いた表現者」を完成品だと歪んだ認識をし、表現者たちは次第に「みんなの歌」のような何の変哲もない歌を無難に歌い(作り)始めるが、内面は悶々としている。それを周囲は知らないし、感じ取ろうとする人達も殆ど居なくなる。
 

「宣候」-アートワーク

 

そんな折、2021年10月25日、彼自身の物々しい空気が解かれる前にアルバム宣候がリリースされた。
未だ夜が明けない朝に空に飛び立って行った鳥の気配を纏いながらも、一見それまでとは何ら変わりないルーティーンのようにこのアルバムが世界にお目見えしたが、このアルバムでマッキーは先ずは謝罪のような音楽からスタートして行く。
 

 

世が彼に要求するように反省に反省を重ねながら、それでももうこれ以上は同じ場所に留まることが出来ない渇いた獣のようにマッキーは世界に新たな一歩を繰り出して行くが、その背中はどこか痛々しく悲しげだ。
 
このアルバムの中で個人的に特に気になった曲は、M-10「好きなものに変えるだけ、そしてM-11「HOMEの2曲だ。
特に「好きなものに変えるだけ」には1999年、「Hungry Spider」を自由自在に歌っていた頃のマッキー本来の毒性の欠片がほんの少しだけ見え隠れする。その「ほんの少しの毒性」がどこか痛々しく情けなくて、こうして人の表現世界は常識と言う凶器によって打ち砕かれて行くのだと言うサンプルをまざまざと見せつけられているようだ。
 
M-11「HOME」では、マッキーが元々持っていると思われる「虹色の旋律」が復活している。みずみずしくきらびやかでメロウなメロディーラインとコードプログレッションが見事に合体し、どこか初期の荒井由実に似た時代の煌めきが復活する。
 

「好きなものに変えるだけ」歌詞より抜粋

 

この歌詞を読んだ時、同じ時代を別の場所で生きていた私が知っている、キラっと光る毒性を前歯と瞳の奥に潜ませながらTVに毎日のように出演していた槇原敬之の片鱗が仄見えて、年甲斐もなくうるっと来てしまった。
 

そう言えばこの曲を調べている最中に、2017年12月13日に開催された「FNS歌謡祭」でマッキーがこの作品を、miwa・山本彩・鷲尾伶菜の3人と共演している動画を見つけることが出来た。
期待しながら動画の再生ボタンを押したが、「Hungry Spider」の持つ毒々しさは既に失われ、いいオジサン「槇原敬之」が自身の中に微かに蠢く毒性の欠片を振り絞らんと戦っているように見えて泣けて来る。
 

 

共演している3人の女性歌手の中で、マッキーと対等の毒性を持っているのは恐らく山本彩だけだ。だが山本彩には毒性こそマッキーと対等でも歌唱力・表現力が追い付かず、尚更いいオジサン未満のマッキーが舞台中央にポツンと孤立している感は拭えない。
 
槇原敬之が描こうとした「毒」を彼自身が存分に発揮する機会をとことん奪われた結果、彼は恐らくそれを別の形で発散する以外の道を絶たれたのかもしれない。
それに似た表現者を私は他にもごまんと見て来たが、ここまで露骨に毒性と言う武器を削がれた表現者としては、マッキーはかなりレアなケースかもしれない。
 

 

さて、この記事の最後に、多分生演奏のアレンジをミックスしたと思われる「Hungry Spider」のPVを見つけた(公式ではない)ので、それを最後に貼っておきたい。
 
毒蜘蛛マッキーと真人間風マッキーが交互に映し出されるが、結局のところどちらが彼自身なのか‥。各々様々思いを巡らせながら新たな発見に至れば幸いである。