【”I Need U Back” [Official video] by 藤井風】を分析する (Analyzing “I Need U Back” [Official video] by Fujii Kaze)

2025年10月9日、夜、藤井風の『I Need U Back』の動画をYouTubeより公開した。
 

 
冒頭から藤井風が、マイケル・ジャクソンの『Thriller』級のメイクアップで映し出され、動画の最後まで藤井はメイクの仮面を一切剥ぎ取ることなく主役を演じ通して行く。
 

 
楽曲『I Need U Back』は曲調の観点では、80年代に流行ったロックに同時代のアメリカン・ポップスを足したような一曲で、特に目新しさは感じない。
おそらくこれは藤井風と言う一風宗教的なアーティストを欧米圏に無難に浸透させる為の、プロデューサーサイドの戦略とも言えそうだ。
 
ふと、この動画を視ながら私は、メキシコの祭り『死者の日(ディア・デ・ムエルトス)』を思い出した。実際に一度だけ私はこのお祭りに足を運んでおり、当時の空気感が藤井風の『I Need U Back』のオフィシャルビデオにかなり色濃く反映されているように感じた。
 

※メキシコには「死者の日(ディア・デ・ムエルトス)」という、故人を偲び、明るく楽しく祝うお祭りが毎年11月1日と2日に開催されます。お盆に似た行事で、マリーゴールドの花やロウソク、ガイコツの砂糖菓子、パンで祭壇や墓を飾り付け、家族の絆を祝います。街中ではパレードやガイコツメイクの人が溢れ、メキシコを代表する伝統的な文化の一つです。
(AI説明より)

 

 
勿論、藤井風の『I Need U Back』オフィシャル動画の中にはリオのカーニバルをも彷彿させる衣装を着た演者も居れば、ハードロックテイストの衣装を着た演者等も紛れているが、時期的な条件を考えるとやはりメキシコの『死者の日』を強く意識した作りになっているように思われる。 
 

 
これまでの藤井風のインド色を徹底的に封印し、動画にはロザリオ (十字架) をあえてシンボルとして印象付けるような演出も施され、最近SNS等で声高にささやかれている『藤井風 ⇨ サイババ二世 ⇨ ステルス布教』の風向きを頑なに否定するような向きも感じられる。
 
確かに曲調がアメリカンロックを強く意識しているのだから、この楽曲にインドカラーは不向きであろう。とは言え、のっけから藤井風がギャンギャンにメイクを施し、若かった頃のデヴィッド・ボウイみたいな顔で現れると流石に違和感が先に立つ。
 
 
デヴィッド・ボウイ

 
 
藤井風

 
さらにこれまでの藤井風の持ち曲と一線を画すものがあるとすれば、それは歌詞の内容だろう。『I Need U Back』では死の色よりも「生」とか「躍動」と言った、死生観で言うところの「生」の側が生々しく描かれている。
だが、やはり背景にはメキシコの『死者の日(ディア・デ・ムエルトス)』の影が立ち込めている辺りは、やはり藤井風の中にも捨て切れない宗教観のギリギリのラインだけは維持したいと言う、意地のようなものがあったと見るのが妥当かもしれない。
 

Spotifyで聴くとM-1: Casket Girl からM-2: I Need U Back が曲続きになっており、単体では聴かないでよ‥ と言う藤井風のアルバム試聴に対する裏の意図が見えるが、この演出が果たしてどのくらいリスナーに影響を与えているかについては判然としない。

さらにこれは偶然とも必然とも付かないタイミングだが、ふと‥ Michael Jackson のBlood On The Dance Floor X Dangerousの動画がこのタイミングでYouTubeのぶら下がりに浮かび上がって来たので視てみると、なになに‥
藤井風の『I Need U Back』の動画構成とかなりかぶっているではないか!!(笑)。
 

 
これこそ神にお導きとでも言うべきか否かは私には分からないが、藤井風が仰ぐ神とは一体何者なのか‥、各動画を視ながら私なりにさらに分析を進めて行きたいと言う好奇心に駆られたことは言うまでもない。
 
残念なことに、藤井風はダンスもヴォーカルもカリスマ性に及ぶ全てに於いて、マイケル・ジャクソンの足元にも及ばない。どんなに動画構成を真似たところで、両方を見比べたリスナーは結果的にご本尊を選び取るだろうし、マイケル・ジャクソンの神々しさを追い掛けることぐらいしか藤井風にはなすすべがないだろう。
 
最後に付け加えるとするならば私は、藤井風のファンでもアンチでもない、ただの芸術家であり音楽評論家である。なので音楽 (ないしは表現) と言う切り口で物事を分析し、粛々とそれらを評論しているに過ぎない。
その上で、藤井風の新しい動画『I Need U Back』の出来栄えを点数にするならば、百点満点の63点と言ったところだろうか‥。
この記事ではあえて藤井風 VS マイケル・ジャクソンと言う切り口で綴ってみたが、意外に分かりやすい表現分析ではなかったかと思っている💃
 
 

 
 

■ 追記 ■

SNS界隈でも噂になっていた番組、「完全版」藤井風 NHK MUSIC SPECIAL【藤井風 いま、世界へ】 Fujii Kaze 2025.10.9を、遅ればせながら (2025年10月10日の早朝に) YouTubeで試聴した。
 

 
この動画の中にも、やはり藤井風に潜む多くの人格がスポットに現れては消え、又現れては消える‥ を繰り返していたように見える。
 
一つ分かりやすい彼の動向の癖を挙げるとするならば、「実際には何も無いところに物があるように見せ掛ける小技 (こわざ) 」が非常に巧みであると言うことだろう。
そもそも彼には音楽の基礎教育すらないわけだし、英語がネイティブ言語と言うわけでもない。だが、そこに才能とスキルとアイディアが元々あったように、動画の中でも後付けの見せ掛けを企んだ箇所が随所に見受けられた。
 

 
特に250 (イオゴン) との作業風景にそれが特徴的に現れており、藤井の行動の大半が過去の情報やデータの再編集で成り立っている点が悪い意味で印象的だと感じた。
 
無いものをあるように見せ掛けて商品として完成させて行くプロセスは昭和の時代からそのまま引き継がれて来た商業音楽の定番スタイルであり、ディレクターの存在がほぼ皆無でも音楽制作が成立するようになった現在の音楽シーンではむしろ、致命的な欠落を見落としたまま商品を完成させてしまう悪状況を引き寄せる。
250 (イオゴン) との作業に於いてはそれが顕著に露呈しており、そのプロセスが藤井風の新譜『Prema』全域に及ぶ過去の『焼き直し感』に直結したように、私には視える。
当然のこと、NewJeansを担当した時の250 (イオゴン) の切れが冴え渡る筈もなくそれが、藤井風の『Prema』に於いてはアルバム全体のさびれた印象を増長させた。
 
そもそも250 (イオゴン) の特性として、新しいものを懐かしく魅せて行く演出や編曲、ミックス等を得意とする人ではないかと思うが、元々古くて懐かしいサウンドをノスタルジックに焼き直す作業を250 (イオゴン) はむしろイオゴン自身、苦手とするスキルではないだろうか。
その苦手な方のデメリットが藤井風のニューアルバム『Prema』に露呈した結果、音楽単体では日持ちのしない作風に繋がったように思えてならない‥。
 

【■ 追記 ■】から後は、一度完成させたブログ記事とは別に付け足した箇所である。
記事を割っても良かったが、私のブログが藤井風ネタばかりになる状況にはしたくなかったので、繋げて加筆しました。

 
 

関連記事:


noteからの記事の移動について

SNS note から、順次記事を移動しています。
私はブログをもう一つ (ディディエメラの音楽倉庫) 持っていますが、内容と記事の性質等を考慮しながらブログ各誌に相応しい場所に記事を配置~移動しています。
 
noteのアカウントの削除等も考えていましたが、ブログに書く程のものではないエッセイは ‘note’ に、内容の重い記事はDidier Merah Blogへ、短文を添えた音楽紹介記事はディディエメラの音楽倉庫へ綴っています。
 
最近移動した記事は、’note’ 上で更新した日付をそのままに移動しています。
noteのダッシュボードで現在も上位にランキングされている主な記事のリンクを下に貼っておきますので、是非関心のある方は読んでみて下さい。
 

 

 

 

 

 

 

 

ディディエ・メラへのお仕事依頼は、info@didier-merah.jp 迄お寄せ下さい。
仕事内容はラジオ番組等の「選曲」を始め、音楽評論、コラムやライナーノートの執筆等多岐に渡ります。
尚、飲食店舗用のプレイリストの作成にも応じます。作成価格に関しましては、メンテナンス等を含み月額制とさせて頂きます。
 
各ご相談は上記メールアドレス迄お寄せ下さい。
 
『X』のメインアカウントが凍結された為、現在稼働中のSNSは、以下になります 。
Threads: https://www.threads.com/@didiermerah
Facebook: https://www.facebook.com/didier.merah.2019

黒い闇 (The dark fog that shrouds music culture)

ブログの更新は滞ってはいたが私自身の活動は順調で、自身の創作活動の下準備を始めとする毎週末の『世界の音楽』の新譜チェックはコンスタントに進めていた。
現在、その様子は毎週末に一斉に更新している新しいブログディディエ・メラの音楽倉庫に収めている。
 
余り良いニュースではないが先月中旬、(恐らくKポ絡みの事情と思われるが‥) Xの私のメインアカウントがいきなり凍結された。それまでXのメインで進めて来た『世界の音楽』、新譜チェック ⇨ 音楽評論メモが出来ない状況に陥ったが私は転んでもただでは起きない(笑)。
直ぐに音楽紹介/ 音楽評論を発信する新しいブログで仕切り直しを図り、そのブログを一望するだけで私の脳内の音楽倉庫の厚みがよく分かるだろう。
 

https://didiermerahbox.wordpress.com/
 
ここ最近の世界の新譜を一望しながら、あらためて気付いたことがある。

それは地球の人口が過剰に増えすぎたことだ。

これは音楽文化の衰退とも関連付けて考えなければいけないことだし、もっと別の側面を挙げるとしたら人と人との出会いやコミュニケーションの質の劣化とも深く関わっているかもしれない。
 

先週、タイの若手女性シンガーソングライター “Millie Snow” の新譜『You are the star (Japanese Ver.) (君は星)』を聴いた時にも痛感したが、今地球上には人で溢れ返るほど人口が増え過ぎたことの影響で、本来出会うべき人同士が互いを見失ったまますれ違ってしまう現象があちらこちらで起きているように思う。
余程神経を研ぎ澄まさなければソウルメイトの気配に気付けない状況になっており、かと言って人間の感性の芯はそう長期的に研ぎ澄ませ続けることも難しい。
 


その時の思い付きや直感を脳や記憶に鮮明に保管しておくには技術 (スキル) が絶対的に必要であり、日々の労働のルーティーンに押し潰されながらそのスキルを磨き込むことは、思った以上に難しい。
 

思うに一種類の生き物、生物、生命体が過剰繁殖することと、その種が暴徒化/ 狂暴化することとは無関係ではないだろう。これはものの例えではあるが、スズメバチも女王バチ単体ではただの一匹の蜂に過ぎない。だが、仲間を増やし徒党を組んだ状態で一個の仮想敵或いは外敵を定めた段階でそもそもの性質を逸脱し、狂暴になり、仮想敵に攻撃を仕掛ける別の集団に変質する。
特に狂暴の想念は温厚なそれとは異なり、仲間を募って狂暴の先にあるネガティブな目的を持った時に異様なエネルギーを放ち、同種でそのエネルギーを共有し、目的の達成を悲願として目論む歪んだ性質やマインドが暴走する。
人類が今、その状態に変質を遂げる寸前に来たのではないかと、私はシュールな存在からもその旨に於ける警告を受け取っている。
 

一見全く関係のない作業のように見えるかもしれないが、最近の私の『世界の音楽』の毎週末の新譜評論は、上記にも触れた地球上の異変とも深く関連している。
溢れかえる人々、溢れかえる音楽、溢れかえる物質や様々な現象の中で誰かが大きな代償を背負い正解を唱えなければいけない。
余りに物が溢れかえってしまったことで、正しい答えを探そうとしている一部の人々は自力で正解に辿り着けなくなってしまった‥。私にはそんな風に見えて仕方がない。
 

 
その時々の世界中の音楽を聴いて、それらを集めてプレイリストを作って世に放つ。
文字に書くとそれを「自分の好きな世界観を他人に押し付けたいだけでしょ?」と歪んだ解釈に走る人たちが必ず現れるが、別にそう思われても私は一向に構わない。

どこぞの国で私の真似をしてプレイリストを必死に作ってSNSに放っている某著名人の噂も漏れ伝わって来るが、私と彼らの違いは音楽の発信者であるか否かと言う点だ。
多くの音楽家は自分の宣伝だけを行い、仕事で絡まない限り他者の作品を称賛することもなければ評論もしない。
「精査をする」ことで自身の評判を貶めたくはないだろうし、むしろ精査を加えず無暗に (手放しで) 相手の作品を褒めたふりをしながら、その動作を自身の高評価に転じることだけを必死で考えている。
 

或る人物に質問された。『あなたはなぜ、他の人の作品をピックアップして論評し、それをコレクションしたチャンネルをSNSやブログで紹介しているのですか?』と。
理由を正確に伝えるには、多くの人たちが私のことを余りにも知らなさすぎるし、理解しようとも思わなさ過ぎる。
一行の質問に数分で回答出来るほど、私の人生は薄くない。
一つはっきりしていることは、私が一連の作業を「神々との密約」の元に継続していることだ。
今話せるのは、一先ずここまでだ。
 

音楽文化が明らかに衰退を始めた。

私はその現象をことさら止めたいとは思っていない。なぜならば今、この地球上には「どうでもいいもの」や「要らないもの」が溢れかえってしまったからだ。
特に、商品としての音楽が多すぎる。地上の商業音楽は、いつか一掃しなければいけなくなるだろう。それを流れ行く時間に託すかマンパワーに託すか、或いはその両輪で音楽文化の一掃を試みるか。
答えは神のみぞ、知る。
 

私は予言者であるが、どちらかと言うと「預言者」と呼ぶ方が相応しい。
人々はそれをシャーマンと言ったり霊能者等と例えてみたりもするようだが、どの単語にも私は当てはまらない。
ただ「私」と言う霊体が肉体を纏って数十年間の生をまっとうし、その生命が終わっても又私はここに戻って来るだろう。それもこれも全て、神々との密約なのだから。
 

 
関連記事:

“3days of Charlie” – Arabesque Choche (表現と鎧と)

かれこれ2011年の大地震の直後からひっそりと応援しているArabesque Chocheは、チェコ人の父と日本人の母を持つ作曲家 兼 映像作家だ。そのArabesque Chocheが、ピアノの小品3曲をスクラップした小さなアルバム 3days of Charlie をリリースした。
 

思うにこの作品集は全曲生のグランドピアノで録音されたであろうに、最近流行りの「空間を狭く捉えてピアノのハンマーに徹底的に接近した音質を聴かせる “思い出ピアノ”」の音質で全曲まとめられている。
折角一定水準以上の演奏技術を持つ人なのに、どうしても彼は何かしらの小細工に偏ってしまう傾向が最近日増しに強くなっているように見える。
 
特に決まった定型のモチーフを決めないで作られたアルバム3曲は、何れアラベスク氏の妻であるjuliet HeberleのヴォーカルをTopに乗せた全くの別曲を、同じトラックから再構築する予定があるのだろう。だからピアノのパートはあくまでパートとして割り切って、マイナスワンのようにして完成させたような気もするが、実際はどうなのだろう‥。
 


Arabesque Choche とその妻 juliet Heberle は夫婦で Chouchou と言うユニットを、かなり長く続けている。私はアラベスク氏のソロ活動よりもChouchouとして紡ぎ出す彼の世界観の方が、断然好いと思っている。
アラベスク氏が単独で全面に出ようとするとどうしてもオレオレな空気が漂って、同氏がそもそもがソリストの気質を持たない人だけに、あれもこれも‥ 家じゅうのアクセサリーを一気に持ち出して並べてしまったような雑多な感触が楽曲を占有する。
 
逆に、妻 juliet の表現はか弱い声質からさらに雑味を徹底的に削ぎ落して、歌唱表現に徹している。彼女の声の響きこそか弱くて危ういが全体を通して音楽を俯瞰している分、表現の統一感がハンパなく優れている。
引きの芸術とも言うべきセンスが夫 アラベスク氏にごっそり抜け落ちている点は否めず、それは新作 3days of Charlie にも重く影を落としている。
たった3曲なのに素材がごちゃごちゃしていて無駄なパッセージが多く、あれもこれも‥ と多くのテイストを一曲の中に詰め込んでしまうから、お腹いっぱいになって若干胃もたれする印象が否めない。
 
最近のアラベスク氏は神秘主義に傾倒していると言う噂も伝え聞くが、アラベスク氏の肉声Live等を聴く限り、彼の持つ音声からは神秘主義の気配は殆ど感じられない。

音楽表現はむしろ徹底して素のまま、ありのままの方が好印象ではないかと思うのだが、やはり何かしら不思議系の鎧が彼にはどうしても必要らしい。それが逆に作品性を削いでしまう要因を作ってしまっている事に、何れ本人が気づくまで私は黙って視ている他なさそうだ。
 

“3days of Charlie” by Arabesque Choche

“GLASS TOMORROW” by 横山起朗 (お遊戯表現と日本のインストゥルメンタルを考察する)

毎週末の『世界の新譜チェック』が、今回は大幅に遅延した。私の体調不良に加え方々からの色々な問題に於ける質問や相談事が絶えることなく押し寄せ、相談者のいい加減な態度や体たらくな生き様等を見ているうちに私の側が怒りを募らせ、それが大きなストレスを生んでしまった。
余計な口出しをした私もいけなかったが、穏やかな私の口調が相談者のマインドをつけ上がらせてしまったことも又否めない。
 
反省だらけの週末に、これ又私の余り好きではない日本人のピアニスト (兼 作曲家) の放つ偽善者表現或いはお遊戯表現に、私の怒りはさらに過熱して行く。
 

往々にして日本人は大勢に “いい人に見られたい” と言う心情が働くようで、それが音楽や表現にも露骨に顔を出す。粛々と自らの道を行くことがとても苦手で、随所随所に “私ってこんなにいいことしてるのよ?こんなに努力してるのよ?” と言うマインドが顔を出す。それがとてつもなく鼻につく。
横山起朗氏の表現ももれなく上記のタイプにあてはまる。
 
所々良いパッセージも飛び出すが、直ぐに (良くない意味で) 素面に立ち返る。
もしかすると彼は、とても飽きっぽい性格なのだろうか?
一つ一つのテーマが持続しない。あっちを向いたりこっちを向いたり、何と言うか‥ 集中力が欠けているような印象を持つ。
 


最初に横山起朗の音楽を知った切っ掛けは、彼の SHE WAS THE SEA と言うアルバムだった。空間をたっぷり取ったTime、そして分かりやすいモチーフを連携させた、比較的メロディアスな楽曲が並んでいた。
 
何より近年流行りのアップライトのハンマー音をカタカタ言わせてそのハンマー音をわざとマイクに拾わせるタイプの “思い出ピアノ” ではなく、正規のグランドピアノの音質を存分に生かした音色が良かった。
 

 
アルバム “SHE WAS THE SEA” は全曲がとても素直な楽曲で構成されている。所々坂本龍一の影を感じさせながらも、水面下では足をバタつかせながらサカモトの影から必死に離脱しようとする、声にならない声がリスナーに届いて好感が持てた。
その後のアルバムは正直、殆ど印象に残っていない。そして今回の新譜 GLASS TOMORROW で私は彼の音楽と再会するが、楽曲の随所にペンライトを右に左に振るような幼稚な音楽性が顔を出すので、一曲を通して音楽に集中出来なくなるのが難点だ。

ふと、最近の西村由紀江の作品の方向性を彷彿とさせるのを感じたので念のため確認したが、やはり私のカンは間違っていないと思った。
韻と陽の違いこそあるが、アルバム構成や楽曲の配置等のタイプがこの二人はよく似てると思う。
 

 
ファンやリスナーがペンライトで表現者を鼓舞して応援するスタイルは、J-PopやK-Pop等だけで十分だろう。特に器楽曲は静かに目を閉じて聴きたいと思う。
なのでくれぐれも、器楽曲を作って演奏する音楽家や表現者は “客席から目視出来る方法でファンに応援して貰おう” 等と考えず、ステージに一人で出て来て一人で静かに去って行って欲しい。仮に誰の拍手を浴びることがなかったとしても、耳の奥で鳴りやまぬ音楽の残響をけっして壊さぬようにステージを立ち去って欲しいと、願わずにはいられない。
 
欲を言えば、ステージパフォーマンスそのものから足を洗って欲しい。
記録された音源だけをリスナーの手元にそっと置いて、顔もパフォーマンスも人目に晒すことなく空気の様にその場から消えて欲しい。その方が、音楽が音楽と言う形状を失うことなくそのまま空気中に残り続ける筈だから‥。
 

[表現評論] Nada Personal (Sesión en Vivo) by Juan Pablo Vega & Catalina García

コロンビアの音楽シーン最強の二人がタッグを組んだ新譜 “Nada Personal (Sesion en Vivo)” が、世界に放たれた。
アーティスト表記の Catalina Garcíaとは、あの Monsieur Perine のヴォーカリストのこと。次いでこの作品で華麗かつ上品な演奏を繰り広げているピアニストの詳細を知りたくて調べてはみるものの、これも私の語学力のボキャブラリーの無さが原因で現在のところ情報を掴み切れていない。
誰か分かる方がいらしたら是非、この記事のコメント欄だけは解放しておくので情報を頂けるとありがたい。
 
日本国内産の “ヴォーカル & ピアノ” のセッションにはかなりうんざりしつつも、こうして本物を聴くとまだまだこの組み合わせも捨てたものじゃないな‥ とホッとする。
Liveとかセッションとはどこかその場の空気感や作業の流れやノリがかなり演奏に影響を及ぼすが、最初から “Live” ではなくレコーディングだと軸を決めて表現に及ぶと、この作品の様にハイクオリティーな音源を記録することが出来ることが分かる。

かなしいかな、一度伴奏者として歌手やバンドのサポートに回ったミュージシャンはその後メインの座に舞い戻ることが難しくなるが、個々が表現の主軸を失わなければこうして “セッション” として成り立つと言う良い見本をここに見ることが出来る。
 


“Monsieur Perine” と言えば最近の作品の中で強く印象に残っているのは、Prométeme と言う作品だ。
この作品の中では環境汚染に対する警鐘を強く訴えかけているが、今まさに人類がこの危機に直面していることを音楽と映像でしんしんと表現している。しいては最近の作為的な人口削減ワクチンによる人口激減に於ける予言まで、この一曲でまとめて彼らは記録している。
 
勿論大幅人口削減に関する予言は日本のアーティスト Didier Merah もかなり前から放っているが、それもこれもこの世界からにぎやかしの音楽やイベント、ライブやコンサートや舞台演劇等がごっそり消滅しない限り、いつかは必ず悲劇的な状況に着地することが目に見えていたからだ。
多くの表現者や聴衆等がその現実から目を背け、快楽的かつ刹那的な生き方を止めようとしない以上、いつかは自然神等の粛清を免れられない事態に陥るだろう。
 
そんな未来の状況を彼ら “Monsieur Perine” が音楽及びMVとして世に放ってくれたことは、音楽評論家のみならず音楽を愛し音楽史の軌道修正を試みる一人として、とても頼もしいと思う。
それに加えJuan Pablo Vegaとのコラボセッションで音楽の最小単位のセッションを記録してくれたことにも、敬意を表したい。
 


音楽とは本来こういうことを指し、カネの為の豪華なセットも必要ない筈。
世界最小オーケストラとも言われるピアノ一本と “声” だけでV (ビデオ) で全ての音楽が配信されるならば、もう誰も飛行機に乗る必要もないし高速爆音を発する陸の乗り物を利用する必要もなくなる。
 
全ての音楽が室内でひっそりと、出来れば空間に音の一つも発することなく各々の世界に閉じ込めながら堪能することが理想的で、望ましい。むしろそのやり方の方が未来的だし、環境破壊を起こさずに済むことに、さらに多くの人たちに気づいて欲しいと願わずにはいられない。
そうなれば今巷にあふれ返る借り物、偽物、しいては原作者の許可なしに勝手な翻訳詞や作詞などを着せられた泥棒さながらの再演に遭遇することもなくなり、いいことずくめに違いない。
きっと全てが上手く行くだろう‥。
 

“Juan Pablo Vega” (songwriting by Juan Pablo Vega)

変わり果てた歌 [MIRACLE SHIP (LIVE 2023) – 吉田美奈子/ 井上鑑

恒例の「世界の新譜」チェックを粛々と進めているが、今週はやたらEPサイズの新譜が多いなぁ‥ 等と思いながらもうそろそろ休もうかと思っていたところにこれが飛び出して来た。
私は如何なる作品であっても差別感情や偏見を持たぬことに決めており、勿論先入観も全てかなぐり捨てて新譜に向き合うと決めている。だからこそ時に、衝撃を受けるような作品に遭遇することも多々起こり得る。

まさに今がその瞬間だったと言っても過言ではないだろう。
 

この人、吉田美奈子さん。
既に私が17歳の頃からの密かなファンだった。
勿論私にも活動の過渡期や転換期等も多々訪れ、美奈子さんがavexに所属していた頃の作品にはリアルタイムで触れることが出来なかった。

そして私がアーティストとしての別名を引っ提げて活動を始めた2008年頃からは歌の音楽から少し遠ざかり、器楽作品の方を主に聴くようになって行く。
吉田美奈子さんがジャズ歌手に転身したことをある日風の便りに聞いた時は、正直かなりショックだった‥。
 
話を戻してこの作品『MIRACLE SHIP (LIVE 2023)』の評論へ。
 


そもそも『MIRACLE SHIP』は美奈子さんが1996年にリリースしたアルバムKeyに収録された作品であり、私も大好きな曲だ。
それが2023年にどのような状況に進化したのかと半ばワクワクしながらSpotifyのボタンを押したが、そこに現れたのは最早老婆の声質に変わり果てた歌声のその曲だった。
 
彼女の持つうねり声は「唸り声」へと変わり、どこか能の発声にも通ずる迫力が足されているが、それは私が愛した吉田美奈子の声とは最早別物だ。
ある種の振り切れっぷりが王者の貫禄をも醸し出しているようにも聴こえなくもないが、これこそが「ジャパニーズ・ソウル」の末路だとしたらそれはそれで圧巻で、尚且つ悲しい。
 

このところ日本発信のアニメやコミックやそのテーマ曲等が世界の音楽シーンを大きくリードしており、吉田美奈子さんもその波に乗った‥ と言う考え方にシフトすることも不可能ではないが、やはり原曲をかなりの回数聴いた後に今回の『MIRACLE SHIP (LIVE 2023)』に触れると衝撃が大きすぎる。
 


丁度二ヶ月前頃に聴いた『細野晴臣ストレンジ・ソング・ブック Tribute to Haruomi Hosono 2(2CD+DVD) [CD]』に収録されている、「ガラスの林檎」の吉田美奈子さんの圧巻の仕上がりには感動もしたが、やはりその頃から彼女の質の劣化には薄々気が付いていた。
勿論美奈子さんのバックを完璧以上のクオリティーで支えているオルガン奏者 河合代介氏のPlayの迫力も、彼女の表現にこれでもかと言う程の華を添えていることは分かり切っているが、何より松田聖子の世界観を完全にぶち壊してしまった吉田美奈子さんの感性にはある種リスナーの私の方が完敗だった。
 
その感動の記憶が脳内に今も渦巻いている最中での、今回の『MIRACLE SHIP (LIVE 2023)』はネガティブな意味で私の美奈子氏への落胆の方を更新した形となってしまったようだ。
 

吉田美奈子さんの作品の多くは物理CD販売がメインで、YouTube等から個人が配信した音源等の大半が削除されている状況だ。
あえて若い頃の音源をwebから削除することで彼女は「現在の自身」へのフォーカスを促しているとも解釈出来るが、結果的に不特定多数の目に触れる場所から活動の痕跡を消してしまえば、そのアーティストがこの世界から別の世界へ旅立ってしまった後に残るものは何も無くなってしまうだろう。
 
既にマイケル・ジャクソンやプリンスでさえ影が薄くなり始めていることを考えると、今活動している多くの日本の歌手やミュージシャンの足跡が消えてしまうのはきっとあっと言う間のことだろう。
全ては泡沫(うたかた)‥。
 
吉田美奈子さんの全盛期の歌声や作品は、出来れば長くこの世に残って欲しいと私は願ってやまないのだが、当の本人がそれを望んでいないのだから私がどれだけその旨を望んでも仕方がない。
 

この記事の最後に吉田美奈子 & 井上鑑のコラボ作品、『MIRACLE SHIP (LIVE 2023)』のYouTubeリンクを貼っておく。
井上鑑さんもかなり枯れて来たように見えるが、編曲も音もまだまだ衰えではなさそうだ。この作品の解釈は、私個人的にはツボだった。
 

エッセイ “天空の壁” (普遍性の定義)

この一ヶ月間色々周辺が賑やかだったが、その賑やかさの中に一抹の虚しさを感じていたことは事実だった。
私には予知能力があるので、大概事前に未来が読める。だとしても他の人たちがそうではない以上、時に歩調を相手に合わせなければならないことが度々起きる。
 
私が歩幅を相手に合わせた時は、余り良い結果に結びつかない。今までもそうだったし、今回も同様の結果に終わった。
  
良い音楽は本物の音楽。私が思う「本物」とは、無から創作する人や作品を意味する。
一人のアーティスト、一個のグループの未来を託されることは重責が大きいので、極力私は「売り物は作っていません。」と言い続けている。
だがなまじ私が「売れている人」の背後に立っていることもある為に、相手の方がどうしても私を誤解するようだ。今回もそうだった。
 
私は自身の内面の引き出しを増やしたい為に、多くの民族音楽からアッパーテクノ(勿論クラシック音楽を始め)まで聴き倒しているだけで、私自身がDJみたいなことがしたいわけではない。だが、相手が誤解するしその勢いでマウントまで仕掛けて来るのだからたまったものじゃない(笑)。
 


昨日は久々に Tribute to Taeko Onuki (2枚組)” を聴いた。
  
なんと言っても冒頭の【『都会』- 岡村靖幸, 坂本龍一】の、ヴォーカルの弾け感が良い。
その勢いでザ~っと2枚目も飛ばし聴きしているが、特にDisk 2に良いヴォーカルが集まっている印象が強かった。
けっして好きな歌手ではないが、Disk 2 – M1 “突然の贈り物” を歌っている竹内まりやの表現が朴訥である意味投げ遣りで、私は好きだった。
 
同じDisk2 – M6 “夏に恋する女たち” を担当した中谷美紀の、ある種の棒読み歌唱も逆にインパクトがあったし、Disk1 – M10 “色彩都市” を何と “松任谷由実 with キャラメル・ママ” が担当しており、そのぶっきら棒な歌い方がかえって楽曲をシンプルに際立たせているように感じた。
 
このCDには他にも奥田民生や薬師丸ひろ子、EPOやKIRINJI、高橋幸宏等が大貫妙子の作品のカバーに取り組んでいるが、そのメンバーは所謂個性的な歌い方をする歌手陣で彼等の個性がノイズになって楽曲のメロディーラインの根幹をかき回してしまい、音楽でも日本語でもない別ものになってしまった感が拭えない。
私は個人的には好きではなかったが‥。
 


編曲で最も新しさを感じたのは、KIRINJIが担当した Disk 1 – M4 “黒のクレール” だった。
フランス音楽のテイストを持つ大貫妙子の原曲のテイストを、再解釈した新たなフランス音楽へと進化させたような印象が後を引く。ある意味シャンソン的で、その狭間にファドやフォルクローレ或いは讃美歌等の隠し味が冴え渡っていた。
田村玄一氏のスティール・パンが楽曲のもの悲しさを深め、そこはかとなくアンリ・サルヴァドールの香りが漂う不思議な仕上がりになっていた。
 

良い音楽、良い表現は常にシンプルで、個性の壁を突き抜けた先の「普遍性」に到達する。
個性の壁を突き抜けられない凡庸な個性は、時を越えることに必ず失敗する。勿論目先の目新しさだけを我が儘に追及しただけの作品も同様に、時代の壁の内側で悶絶しながらその一生を終えて行く。
 
私が芸術家 Didier Merah として追及しているものは、個性の先の普遍性である。逆に私が「売り物」に関与する時は、その一つ手前の個性の壁の上限を目指す。
 
先日の会合で私が出したNGの意味を、先方はどう捉えているか‥ なんてことはもうどうでも良い。
私は上の上の、その先の上を既に走っている。それはもしかすると、普通の人間の目には映らない「上」かもしれないが、私にはそれを操ることが出来ると確信している。
 
その確信を形にすることが、私の次のミッションかもしれない。
その手法が果たして音楽作品なのか、それともそれ以外の何かなのかは未だ分からないが、うっすらとその輪郭だけは天空の壁の向こう側に透けて見えている。
 

続編/ 歌えない校歌「KAMIYAMA」- アカデミックを考察する

昨日の明け方から少し風邪気味で、今日の夕方に開催される会食迄には治してしまいたいと思い、ずっと体を休めています。
 
布団の中で丸二日を過ごしているわけですがそんな中、先日更新したブログ記事『歌えない校歌「KAMIYAMA」』の閲覧者数が右肩上がりで伸び続け、大きな手応えを感じています。
 


『有名人の遺作として書かれた校歌だ』と言うだけで、多くのリスナーはその音楽の本質にたどり着く前に『名曲だ。』と言ってしまおうとするようです。
ジャッジメントよりも偽善の方が強くマインドを突き動かし、周囲の放つ有名税の波にあやかりたくなるのでしょう。
その一歩手前で私が先にアンチテーゼの声を上げた事は、今回の場合に於いては『吉』と出たように感じています。
 
中には反論や冷やかし或いは茶化しのコメントもFacebookの個人ページの記事へ複数寄せられていますが、それも『波』が立つから届く声。
反響の一つと捉え、私はただ冷静に次の波を起こすのみです。
 


音楽家が他の音楽家の作品をジャッジメントする事は、これまではタブーとされていました。その証拠に、自らが作品を生み出す音楽家(芸術家)たちは他者の作品に対し自身の作品でリベンジを図るのが、これまでのスタイルとされていました。
それでは何の改善も為されません。
音楽家同士の小競り合いからは、思考停止と退化しか生み出せないからです。
 
私が坂本龍一の作品にあえて斬り込む事には(多分これまでの業界の流れをご存知の方々もおられるとは思いますが)、他の人たちには考えも及ばない私なりの理由があります。
 
勿論守秘義務の範疇には触れず、いわゆる『音楽業界のディープステート』の闇を暴き出す必要性を私は今、このタイミングだからこそ痛感しています。
その意味に於いても、ブログ記事『歌えない校歌「KAMIYAMA」』の執筆は現在の音楽業界やそれを取り巻く人たちの中に、大きな一石を投じたように思います。

私自身が音楽を作り出す人間だからこそ、この記事の執筆に踏み切る事に意義があるのです。
音楽作品に対する「好き/ 嫌い」等と言う好みではなく音楽理論や世界中の全ての音楽を網羅している人間が書く文献だからこそ、大きな反響が寄せられるのです。
 
思うに「音楽を生み出す人々に聴衆はやたら品行方正な善人を求めたがり、それが音楽家の表現を妨害している」と、私は思います。
真実が闇の中に在るのだとしたら、音楽を生み出す音楽家たちの心の闇や「毒」にももっとスポットを当てて、それを理解するリスナー層を育成しなければなりません。
 


ですがそれとは逆に、例えば「校歌」の場合には、その作品には必然的に普遍性が必要になります。
 
「校歌」には、個性と言う名の汚れを纏わせてはいけないのです。
 
校歌『KAMIYAMA』に於いては、その肝心要の清潔感がゴッソリ抜け落ちてしまったようです。
それに対し、その汚れた作品性を「歌手や作詞家の個性だ云々‥ 」だと思い込ませようとするのは、ひとえにこの作品が商業作品を超えられないと言う最たる証拠を業界全体でメディアを介して露呈させている事と同じです。
 

本物の個性は、個性をさらに洗練させた普遍性に到達しなければなりません。
私が申し上げたいこととはつまりそういうことであり、古い体質の軍歌風の校歌を良しとする‥ と言う話ではありません。
 
くれぐれもそこを履き違えずに、ブログ記事『歌えない校歌「KAMIYAMA」』をあらためてお読み頂ければ幸いです。
 

 

※動画のコメント欄を見ていると、中には「歌わない校歌があっても良いではないか‥」等と言うつぶやきも幾つか見られますが、問題は坂本龍一と言うアカデミックを売りに転じた音楽家に於ける聴衆への洗脳が如何に危険であるかと言う点です。
少なくとも初演の歌手として、UAのようなタイプの歌手をセレクトしたところに大きな人選ミスが生じている点を、日本人として見過ごしてはいけないでしょう。
 
私ならば誰をセレクトしたでしょうか‥。
適任者がお一人おられますが、その方のお名前はここでは伏せます。
 
そして楽曲面で言えば、校歌がポップスであってはいけないのです。
古典音楽の楽典とコード進行をしっかり踏んだ古典的で、尚且つそれが時代を超えて行く美しさを持つものでなければなりません。
作曲者/ 坂本龍一自身、「教授」と自らを名乗らなければならなかった本当の理由を知っている筈です。彼こそ、音楽のアカデミズムを脱落し、敗北した人だからです。
 
ですが百歩譲って教授が校歌を作曲するのであれば、彼は最後の最後で彼自身のアカデミズムを呼び覚まし、全身全霊で校歌『KAMIYAMA』に刻印しなければなりませんでしたが、残念ながらそれは叶わなかったようです。

[音楽評論] “E penso a te” – Lica Cecato et Carlo Morena

毎週金曜日に世界の新譜が発信されるSpotify。私は酷く体調を壊し、数日間ずれ込んでおずおずと新譜を端から捲って行く。
 
今週は競合が音楽の軒を連ねているが、その大半が余り日本では知られていないアーティスト勢の新譜だ。
思えば9歳になるかならないか‥ と言う頃に既に私は世界の音楽に目覚め、AMラジオでその動向を追い始めてから一体今年で何十年が経過しただろう。
 
まさか50歳を過ぎてから音楽評論を始めるなどとは夢にも思わなかったがそれもこれも、きっと恩師: 三善晃氏の導きではないかと思っている。

タイトルの「E penso a te」はイタリアは Lucio Battisti が1972年に生み出した有名なカンツォーネで、カンツォーネを愛する多くの歌手たちにカバーされている。
今回はイタリア人ではなく、ブラジル人歌手: Lica Cecato のヴォーカルを背後からイタリア人ピアニスト: Carlo Morena がしっかりと支えて音楽を編み込んで行く。

歌詞は原語のイタリア語ではなく、恐らくポルトガル語辺りで訳されたものだと思われるが、小気味よく悲しげな言葉の響きが郷愁を誘う。

本国イタリアでは後に Fiorella Mannoia やカンツォーネの王者 MINA がカバーしている。
 

 

 
イタリア語から歌詞を簡単に和訳してみたので、ここに貼っておこう。
 

“A penso a te” (邦題: [ そして君を想う ]

仕事をしながら 君を想う
家に帰って 君を想う
彼女に電話していても 君を想う

どうしている? 君を想う
どこに行くの? 君を想う
視線をはずして彼女に微笑みながら 
君を想う

君が今誰といるのか知らない
君が何をしているのか知らない
でも確かに君の想いが伝わって来る

この街は大きすぎる
ぼくらのような二人には
望みはないけれど互いを探している 
探している

ごめん もう遅いね でも君を想う
君の影を追いかけながら 君を想う
ぼくは今の暮らしを 少しも楽しんでいない 
だから君を想う

闇の中で 君を想う
目を閉じて 君を想う
遂に一睡も出来ずに 君を想い続ける

 
これはあくまで私の解釈に過ぎないが、これは不倫や浮気などではなく(一見そう読み取れる箇所もあるが)‥、ひょっとすると同性愛者の苦悩を表現した作品ではないかと感じてならない。
 
本命のパートナーが居る身で「彼女」と「君」と言う別々の存在を同時に思うとすれば、それは二人の異性に対する同時恋愛ではなく、男が一人の女性と同時にもう一人の同性を愛する心情を描いた作品ではないか‥。

そう解釈しながら聴くと、この作品のこれまでとは違った側面が見えて来る。
日本人のカンツォーネ歌手の中にもこの曲をカバーして歌っている歌手をこれまでにも大勢サポート(伴奏)して来たが、上に触れたような解釈に触れながら歌唱している歌手には遂に一人も出くわさなかった。
 
音楽や歌詞は多方向からそれを見比べることで、これまでにはない新たな発見をすることがある。
だがこの作品「E penso a te」を不倫の歌詞から同性愛者の心情を切々と歌った歌詞として再解釈しながら聴き返すと、この作品の根底を脈々と流れて行く深く険しくいたたまれない表現の根源に触れることが出来るだろう。

それは言い知れない、そして目的の無いゴールに向かって走り続けている形のない魂に不意に触れてしまった後の後悔のように、リスナーの心情をも呆気なく変えてしまうかもしれない。

 
最後の「La La La La ‥」と果てしなく続いて行く言葉にならない言葉が数秒後には力尽きて行く様を私も受け止め切れずに何度も何度もこの曲を伴奏しながら、「どこで終着点を決めるべきか」について悩まされたか知れない。

それは私が演奏者から音楽評論家或いはリスナーに転じた現在も、変わらずに河のように心の奥深くにたゆたい続けている。