彼の「掴みどころのない世界観」に魅入られながら、過去アルバム『Sounds of My Life』も聴いてみるが、此方も秀作である。 印象としてはどこか、遠い過去に捨てられたままの廃屋に迷い込んだままその中で一つの生を振り返るような、本当に不思議なサウンドが広がって行く。
中でもM-11『這樣好嗎 How About This』が個人的にはドストライクで、何度も何度もこの作品を聴いている。 この作品にはPVも存在するが、私個人的には映像を通さずに音楽だけを聴いていたいと思った。あえて映像化しない方が、作品の持つ曖昧なところに想像力がかきたてられ、解釈にむしろ深みを与えてくれるような気がしたからだ。
物真似ソングの伴奏者には、否が応でも同様に「物真似」を要求されることになる。古賀力氏が歌う “Que reste-t-il de nos amours” に於いても同様で、最初は良い曲だ‥ と思いながらも次第に物真似臭さが鼻に付いて来て、最終的には大っ嫌いな一曲となって行った。
話しを「声のないシャンソン」に戻すと、最初のリンク “Que reste-t-il de nos amours” (Paolo Fresu | Richard Galliano | Jan Lundgren) 版は、Live録音とは言え「作品性」に特化した録音版であり、表現の全てが細やかでナイーヴで洗練されており、その上シャンソンにありがちな「崩れ」や「泥酔感」が一切見られない。
そしてこのアルバムのオオトリは、フルオーケストラが楽曲全編を包み込んで抱きしめて行く『Y Ya Te Quería』。この曲で、アルバム『Sanz』が静かに幕を下ろす。
M-10『Y Ya Te Quería』を翻訳にかけてみると、まるで神々の人類への愛を感じさせる内容であることに気付く。 タイトルは「そして、私はすでにあなたを愛していた」と言う意味。 「わたしたちの中に、既に神々は種として宿っている、私は既に愛されていたのだ‥」と言う意味のセンテンスがリフレインで繰り返され、これは人類への新たな目覚めを呼び掛ける内容のバラードの大作だと言わざるを得ない。
感情やエモーションを音楽で突き抜けて行くには、全てに於けるエモーショナルな感覚を一旦手放す必要が生じる。 特にロマン派の音楽を演奏する人たちはその点をはき違えていることが多く、音楽のダイナミズムを感情で表現しようとする為音楽の全体像が崩壊して行く。その場その場の音をどう叩き込むか‥ に意識を奪われ、その楽曲の全体像に対してのピアニッシモ或いはフォルティッシモをどう弾き込んで行くべきか‥ と言うロマン派を演奏する上で最も重要な観点が抜け落ちてしまう。 それがJ J JUN LI BUI 氏の、特に「Ballade in F major, Op. 38」では顕著に顕れてしまったようにも見える。
BRUCE (XIAOYU) LIU 氏の場合、解釈の個性を誇張する為の「表現手法のクセ」を随所に感じる。 唯一彼の長所を挙げるとするならば、それは大所帯のオーケストラを引っ張り込んで行く力とも言えるだろう。だがこれには気を付けなければならない点がある。
先ず、BRUCE (XIAOYU) LIU 氏は完全に自分の世界に引き籠ったままショパン或いはショパンのピアノ・コンツェルトと向き合っており、指揮者の鼓動もオーケストラの呼吸も全く聴いていない。文字通り、完全に自分だけの音楽になっており、時折癇癪を起こしながら鍵盤を殴打し、その間に瞬時的に美しいパッセージも現れるがこれはあくまでピアノ「FAZIOLI」の持つ音色のマジックであり、半分以上は彼自身の音色ではないとも言える。
ピアノ・コンツェルトが終わり、アンコールの『Waltz in A flat major, Op. 42』を演奏しているところだが、ワルツと言うには速度が速すぎるし、何とも言えない品の無さを感じて仕方がない。 もう少し優雅に弾けないものだろうか‥。シャカシャカと先に進んでばかりではなく、例えばワツルと言う舞曲を考えたならばパートナーと共に踊り進んで行く楽曲が先ず私ならば思い浮かぶ。 女性たちならば鯨の骨が入った重いドレスを着て、髪を重く大きくてっぺんからふわりと結ってしゃなりしゃなりと踊るワルツは、もっと厳かで優雅でドレスの裾を引きずりながらゆっくりと進んで行く筈だ。