4. ピアノソロの楽曲から演奏者を読み解く

【前書き】
前記事3. ショパンの表現についての評論では主に、ショパンのピアノ・コンツェルトを聴く時に気を付けなければならない点を含む、コンツェルトの楽曲全体を先導して行く指揮者にもスポットを当てながら解説を進めて行った。

本記事では私が今回気になった出場者5名にスポットを当て、「第18回ショパン国際ピアノコンクール」は三次予選のピアノソロの演奏に於ける各々の解釈へとさらに焦点を絞り込み、評論・解説を進めて行く。

(以上 前書きにて。)

 

 
一人目はこの人、ALEXANDER GADJIEV(アレクサンダー・ガジエフ)氏。イタリアはゴリツィア市生まれの26歳。
丁度YouTube『ALEXANDER GADJIEV – third round (18th Chopin Competition, Warsaw)』の冒頭を聴いている最中だが、特徴としてはどこか印象派の絵画のように、あえて音のアタックを不鮮明にしたところからスモークのような、柔らかく怪しい打鍵が醸し出す音色がとても印象的である。
それはどこかモネやルノワールの絵画のぼやけ感を想起させ、ロマン派からその後の近代派(スクリャビンないしはエリック・サティー)辺りの楽曲がこの人には似合うような気がして来る。
 
この動画の中で彼は「Shigeru Kawai」のピアノをセレクトしているが、このピアノが意外にショパンを演奏するには有利である。
中音域では「FAZIOLI」のまろやかさに似たソフト感を持ち、高音域に行くに従って「Steinway & Sons」の持つ華と「FAZIOLI」のくぐもり感の両方を兼ね備えている為、打鍵が素直に音色に反映される危ういデメリットをも併せ持つ楽器と言えるだろう。
個人的には「KAWAI」のピアノには余り好い印象を持っていないのだが、この「Shigeru Kawai」は良くも悪くも憎たらしささえ感じる。要は、うっかりすると惚れ込んでしまいそうに、所々好きな音色が浮き上がって来る‥ と言う意味で。
 
この難解で憎たらしい楽器をこの方 ALEXANDER GADJIEV(アレクサンダー・ガジエフ)氏は見事に使いこなしている。
逆に楽器が変わると途端に表現がゴツくなり、実際にSpotifyでリリースされている音源には正直私は余り惹かれなかった。

上の動画で特に好きだったプログラムは、Mazurkas, Op. 56/ No. 1 in B major (13:57~)。気になる方はカーソルを動かして、是非聴いてみて頂きたい。

 

 
二人目はこの人、JAKUB KUSZLIK(ポーランド出身)の演奏者。1996年12月23日生まれ、24歳。冬の神と二日違いで生まれた、文字通り見るからに神のような演奏者だ。どこか風貌が似ている(笑)。

ショパンと同じ祖国の血を持ち、ふくよかな体から生まれ出る柔らかで深みのある、ある種樹液のような深くて渋い音色が特徴だ。
 
この動画では若干ミスタッチも目立つが、冒頭の『Fantasy in F minor, Op. 49』の解釈は嫌いではなかった。嫌いではなかったと言うことは特に「好きでもなかった」と言う意味になるが、表現がやや短絡的でその場その場で感情が移り変わるのか、一個の世界観が持続しないのが欠点と言えるだろう。
 
三次予選でセレクトした楽器は「Steinway & Sons」。
オーソドックスな音色を持つピアノだが、どうにもこの楽器は何を演奏しても「Steinway & Sons」の音楽を再構築してしまうようだ。なので楽曲冒頭のインプレッションが良い分、曲が進んで行くにつれてリスナーを飽きさせてしまう欠点も併せ持っているように私は感じてならない。
 
だが、そんな「聴き手を飽きさせる楽器」を JAKUB KUSZLIK は比較的上手く使いこなしている。だが反面、彼自身の解釈のクセが段々鼻に付いて来る。
スタッカートの出し入れに特徴があり、けっしてスタッカートの音色が良くないわけではないが、兎に角クセが強いので段々と、あ~又か、あ~又あのスタッカートが来た‥ と思うと後半に向けて苛つきが生じて来る。
ここは好みの問題なので、彼のような表現スタイルを好むリスナーはさながら唐辛子の強い料理を好む人の如く、きっとたまらない演奏者だと夢中になるに違いない。
※残念ながら私はそこまで惹かれることはなさそうだ(笑)。
 
唯一決定的な長所を挙げるとしたら、ショパニストの多くが勘違いして身に付けてしまう「クラシック演奏家のエゴのない点」である。オレオレ、凄い俺様‥ と言う、多くのショパニストが持つ独特のエゴが全く見られないので、長時間聴いていても疲れない。
行く行くこれは彼の、大きな武器になるだろう。

 

 
三人目は二次予選の時から妙に気になっていたこの人、EVA GEVORGYAN。なんと、アルメニアとロシアの血を引く17歳の高校生だ。
 
17歳とは思えない舞台度胸を持ち、若さゆえの猛々しさが時折音楽のアウトラインを崩しそうにもなるが、今回の演奏では彼女の持つ「若さ」が意外にも武器になったと言って良いだろう。
良くも悪くもリベンジ能力に長けている。演奏も解釈も若い分所々で解釈の気紛れ感が音楽に小さな隙間を空けて行くのだが、その都度その度にそれを取り返すかのような表現の荒業を使ってリベンジを掛けて来る。
 
彼女の武器は、なんと言っても音色だろう。それもただ、女性らしい美しく柔らかい‥ と言うだけでなく、どこか数学者が奏でる「音の緻密さ」を感じさせる。ショパンも良いが、むしろ私は EVA GEVORGYAN の古典ものを聴いてみたいと思った。
ベートーヴェンやブラームス、或いはシューベルトからシューマン辺りをどんな風に演奏するのか是非聴いてみたい。
 
動画冒頭の楽曲『Fantasy in F minor, Op. 49』、途中からかなり派手にぶちかまして来る。若干荒さもありつつ、やはり音色に華があるので何とか楽曲のラインの乱れをそれでリカバーすることに成功している。
 
彼女も「Steinway & Sons」をセレクトしているが、もしかすると『Bösendorfer(ベーゼンドルファー)』が彼女の音色には合っているかもしれない。

唯一の欠点は、表情が汚い点。他の演奏家の「クラシックを演奏する時の妙な表情」を真似しているのか、楽曲の進行とは関係のない変顔が段々気になって来る。この変顔パフォーマンスの癖は、出来ればそれが体に沁み付く前に取り除いておいた方が良さそうだ。

 

 
4人目はこの人、MARTÍN GARCÍA GARCÍA。スペイン出身の24歳。24歳の割にはどこか年齢不相応の「老け感」のある演奏者だ。
 
お国柄がスペインと言うだけあって、舞曲にはそれなりの芯とコシと粘りを感じさせるが、兎に角演奏中のハミングが煩い。それにこの演奏者もよくある「クラシック演奏者の変顔パフォーマンス」が完全に板についてしまっており、ヴィジュアルと言う点では私は落第点を付けたくなる程気分が悪い。
パっパっパ‥ と口を鳥のように大きく開けてメロディーをなぞる辺りは、名前を出して申し訳ないが若い頃の仲道郁代さんを彷彿させるものがあり、見ている此方が段々と呼吸困難になりそうで苦しくなる。
 
恐らく両者の共通項として、「呼吸が浅い」か或いは「呼吸が短い」と言う致命的な欠点を持っている。一個のセンテンスが短いので、常に犬のようにはぁはぁ息が切れんばかりの浅い呼吸が癖になっているのだろう。
 
又、ショパンと言うよりネオ・フラメンコでも聴いているようなスパニッシュなこぶしが効いており、それを当の作曲者であるショパンは余り快く思っていないようだ。
ただ、『Sonata in B minor, Op. 58』の解釈は思ったよりは悪くない。表現に立体感があり、内旋律の際立たせ方が独特で、音楽の伏線をしっかりと出して来る辺りに表現スキルの個性と熟達さを垣間見ることが出来る。
 
だが如何せん変顔と歌声がもれなく付いて来るので、どうにも私はそれが気になって気になってショパンの楽曲に集中出来ない。

 

 
5人目はこの人、角野隼斗さん。千葉県出身の26歳。
私がこの演奏者を取り上げた理由は、他でもない彼の演奏がなんともクラシックには全く不向きなのに、本人が「俺様ってカッコいいぜ!」と思い込んでいる滑稽さである。
 
彼は既にYouTuberとして多くのファンを持つ人であるが、それが仇になっている感は否めない。
そもそもクラシックよりはロック魂の方が突出しているが、それだって本家 エリック・クラプトンと比較すると骨の髄までロック魂、ブルース魂が浸透しているわけではなく、全てが中途半端でええカッコしいの性格が「何をやっても頂点を極められない弱さ」の要因を生み出していると言える。
 
なまじ指が動くからか、「こんなのチョロいぜ!」と思いながらショパンを弾いているのが傍目には完全にバレているのに、本人だけがそれに気付いていない。まさに「裸の王様」のようだ。
 
Mazurkas, Op. 24 / No. 4 in B flat minor』 (7:20~) の演奏も、表面的には一見上手く行っているように聴こえるが、解釈の彫りが浅く、殆ど何も考えずにひたすら身体能力を武器に弾き進めている。
ショパンが最も嫌うタイプの演奏者だ。

特にこの曲『Mazurkas, Op. 24 / No. 4 in B flat minor』は民族音楽によく見られる同主短調がふんだんに用いられており、コードで言う第三音が上下する度にエキゾチックなコード(和声)をなぞって行くが、それをここまで無頓着に弾いて平然としていられる神経の太さはある意味圧巻だ(勿論悪い意味で)。
 
又トップのメロディーが他の音色にかき消され、表現が平面的であっても本人はさほど気にしていないらしく、この状態だったらむしろ自動演奏で鳴らして頂いた方が聴き手の気持ちが乱れることもない。
高級ホテルのバーのBGMにゲーム音楽が流れているみたいで、本当に不快感だけが湧き出て仕方がない。不適切感きわまりない‥(笑)。
 
まぁ本人も職業欄に「YouTuber」と書いているので、暫くは持って生まれたルックスと恐ろしいまでの自信に支えられてそこそこ音楽業界を賑わせてくれるだろう。
後世に残る音楽家になれないであろうことは本人もきっと知っているだろうし、最初からそれを求めていないだろうから、せいぜい若いファンたちにちやほやされながらこの先そう長くはないミュージシャン・ライフを謳歌すれば良いと思う。
 

 
とまぁ長々と評論して来たが、これでもまだまだ書き足りない。
でも流石に他の演奏家の演奏を聴き続けるには体力の限界なので、本記事はここで終わりにさせて頂きたい。
  

2. アナザー・フォレスト – ショパンが本当に伝えたかったこと(表現手法・表現解釈について)

【前書き】
前記事シリーズ『ショパンを読み解く』 1. ショパンをリーディング(霊視)する – Spiritual Channeling of CHOPINでは先ず、ショパンと言う人物がこの世界に置いて行ったもの、そこから彼の霊体にまで触手を伸ばし、私なりのショパン像の実体に迫って行った。
 
この記事では前記事を起点とした「ショパンが本当に伝えたかったこと」を、作曲家目線で紐解いて行く。
 
(以上 前書きにて。)

 

 
「第18回ショパン国際ピアノコンクール」を私は、途中から観戦し始めた。コロナ禍の最中に於いて私はいかなるイベント、コンサートその他大音量の音声を放つ全ての演目に対し否定的な態度を通している。それは今も変わることがない。

だがそんな中、知人との食事中のテーブルで頻繁に同コンクールの予選の話題が尽きず、よくよく話しの中身を訊いてみると、今YouTuberとして活躍している若手ホープとも言われる角野隼斗(すみのはやと)氏、反田恭平氏、小林愛実さん等の、既に日本国内ではプロとして活動している面々があえての同コンクールへエントリーしている辺りに、どうやら注目が集まっていることを知り、色々な意味でこれは掴みどころ満載かもしれないと思い、観戦を開始した。

 

唐突だがここで、自分のことについ少々お話ししておきたい。

最初に付け加えておくと、私自身が学生時代に多種目で音楽コンクールには頻繁にエントリーして来た経緯がある。なので「競技向きの演奏解釈」と「そうではない解釈」との大きな差には、常に悩まされて来た。
 
同じ楽曲を数種類の解釈で弾き分けながら、さらに大先生の他に複数名の「下見の先生」に稽古に付けられ、各指導者毎に解釈を変えて弾き分けながらレッスンを進めて行くと、段々と自分自身の音楽を見失い演奏が迷走し始める。
精神状態が混沌とし始めた頃に夏が訪れ、概ね学生音楽コンクールの予選は夏の終わり頃に開催されると決まっているので、半ば深酒をして酩酊状態になった中年オヤジのような感覚に陥りつつ、その中でも自分の「芯」をしっかりキープしながら最初の予選に臨むことになる。
 
当然そんな精神状態で良い演奏など出来るわけがない。だが神様は時に皮肉な決断をするもので、そんな酩酊状態の私に次なる試練をお与えになる‥。
予選でバッハやツェルニー等を難なく弾きこなして二次予選に勝ち残ったとしても、日頃のレッスンで複数パターンの解釈を各指導者毎に弾き分けなくてはならない私は、最近流行りの言葉で言うところの「自分軸」ではなく「他人軸」の演奏をし続けていたことが災いし、どうにも本選に勝ち進むことが出来ないまま学生時代を終えることとなった。
 
(以下省略)

 

 
さて話をショパンに戻そう。
 
今回「第18回ショパン国際ピアノコンクール」にエントリーした(優勝者を除く)全ての演奏者について感じたことは、多くのショパン奏者が陥る、逃れることのきわめて難しいトラップに見事に足を取られてしまっている‥ ことだった。
 
これは解釈の一つと言われればそうかもしれないが、チャネラー及びコンタクティーである私が直接ショパン本人の霊体から語り掛けられたことを、ここに記したい。

 

彼はそれはそれは過酷な日常の中で音楽を生み出して来たが、その間だけは全ての現実の不毛や不条理を忘れることが出来たと言う。
遠くにたとえ大砲の爆音が轟く朝でも、ひとたびショパンがピアノや五線紙に向かうと彼を包囲している忌わしい日常は遠く彼方へと押しやられ、彼の部屋には深い緑の森が現れて神々が入れ替わり立ち替わり降臨した。
 
小鳥が囀り、それは彼の五線紙をあっと言う間に細かく鮮やかなアルペジオに姿を変えて埋め尽くして行った。小鳥たちは互いに会話を始め、そこに古い時代から森を司る精霊たちが現れてオーケストラを奏で始めた。
乾いた小枝を指揮棒代わりに、ショパンは自ら森のオーケストラの指揮者となり、時にはピアノをそこに重ね合わせて弾き振りを試みる。
そこでは何もかもが上手く行く。肉体から霊体だけが少しだけ抜け出しては、森のオーケストラの団員たちを一個に束ね、無重力の世界を心ゆくまで堪能した。
 
ショパンの霊体 談

 
作曲家の気質にもよるが、この時代の多くの作曲家たちが革命運動や戦争等の社会情勢に悩まされ続けて来た。その中で音楽と言ういわば非日常的な営みを続けている、それが作曲家である。
 
「第18回ショパン国際ピアノコンクール」にエントリーした殆どの競技者たちは、本当に勉強熱心でありショパンをとことん学習しようと試みた形跡も見られるが、その大半が仇となり表現の足を引っ張り続けていることをどのくらいの審査員やリスナーたちが感じただろうか。
 
ショパン ・・・・・
⇨ 華やか(派手) ⇨ 時折激昂して激しく荒ぶった殴打のような打鍵をする‥ ⇨ 当時の戦争を彷彿させるような表現解釈を信じて止まない‥

実際にそういう解釈で演奏されたショパンを聴いている人たちが、こんな表現法に救われる筈がない。だが「第18回ショパン国際ピアノコンクール」の競技者たちの多くがこの、癇癪持ちの表現解釈を過信しており、それを当のショパン本人が全く以て快く思っていない‥ と言う事をここに付け加えておきたい。
 
 

 
丁度今私がこの記事を綴っている間、上の小林愛実さんの競技の模様をヘッドフォンで追い掛けているが、やはり随所に殴打するような打鍵が見られ、そこに彼女の唸り声が挟まって来るので何やら聴いている私の方が拷問にでも遭っているような切迫感に苛まれる。
 
ショパンが描きたかった「アナザーワールドの森」はどこにも存在せず、音楽の背景にかつてのかなしいポーランドの風景が黒い煙のように立ち込めて来る。
小林愛実さんは「それ」を表現することが正しいと信じているようだが、それはあくまで「ショパン・コンクール」の競技中に仕込まれた瞬時のルールに過ぎない。
 
最後の最後で三回鳴り響く乱暴な重低音の「D」の後、いきなり会場からは喝采が上がるが、それはさながらよく跳べるフィギュアスケーターが何の色気もないトリプルアクセルを飛んで着氷した瞬間同様で、演奏と言うよりはスポーツ競技としてショパンと言う音楽を滑走しただけに私には視えて仕方がない。
 
概ねコンクールは「身体能力の有無」が審査基準になっており、一先ず運動性に対して評価をし、表現力は後から何とでもなると、多くの審査員たちがそう思っている点が、コンクールとして如何なものかと私は常々感じて来た。
結果として小回りが利くか、或いは力仕事の得意な競技者だけが本選に残る為、突出して豊かな表現力を兼ね備えてた競技者の大半が振るい落とされるコンクールに存在意義があるかと言われたら、私は声を大にして「No!」と叫びたい。

 

 
私の耳元でショパンがこうささやいている。

 森で遊ぼうよ。
 小鳥たちやリスたちが天使と集う森には、大きな木の神様がいてね‥。
 朝から晩まで音楽会が開かれるんだよ。
 
 僕はそこで小枝を操って、自由自在に音楽の輪を回すんだ。
 一度回り始めた音の輪は、僕が疲れて音楽を止めようと言うまで回り続けるんだよ。