最近日本での活動が盛んなLiberaだが、そもそも彼らは「イギリス、サウスロンドンに住む7歳から18歳までの少年達のなかからオーディションにより選抜され結成されたボーイ・ソプラノによるユニット」の筈だった。
日本人の作曲家 村松崇継とタッグを組んだ辺りから、Liberaの音楽・表現の質が圧倒的に劣化した印象を私は持っている。勿論Liberaの高音域の透明感は健在ではあるが、その透明感を存分に活かせるだけの楽曲に恵まれないまま月日だけが過ぎて行った。
そんな彼ら Liberaが2024年11月、新しいアルバム「DREAM」を引っ提げて帰って来た。
あの名曲「Libera」の時のようなトキメキをもう一度私の中に蘇らせてくれるかと思いきや、やはり今回もそれは叶わなかった。
ニューアルバム『DREAM』に対する色々なレビュー等を見て回ると、普段はあまり音楽と親密ではなさそうなリスナーがここぞとばかり声を上げてLiberaを持ち上げるようなコメントが散見された。だがコメンターの過半数がLiberaのコンサートに足を運んだであろう人たちで、音楽そのものではなく「生でLiberaを見た」と言う視覚的な感動と感傷的なマインドに浸っている様子がひと目で分かる。
日本の音楽リスナーの多くが「生演奏主義者」だと言っても過言ではないが、それは日本人の多くが音楽に於ける教育を殆ど受けていないからだろう。
多くは演奏者がミスをしないか‥とか、超絶技巧的なマジックを余すとこなく披露してくれるだろうか‥等、それに付け加え容姿やヘアスタイル、衣装等を音楽以上に観たいが為にコンサート会場に足を運び、その時の感動を脳内リプレイする為にCDを聴いている。
勿論日本人だけではなくこれは世界的に主流の「音楽の聴き方」のように蔓延している。だから最近のコロナ禍を機に世界的に音楽業界が衰退した、それが要因となっている。
Liberaのニューアルバム『DREAM』で辛うじて目を引いたのは、[M-7: 永遠のひととき(Merry Christmas Mr. Lawrenceカバー)/Once (Merry Christmas Mr. Lawrence) ] だった。
この曲は最近IVEの新曲『Supernova Love』でもサンプリングが使用された件でネット上でも炎上している、原曲は坂本龍一 (故) の「戦場のメリークリスマス」である。
勿論IVEのカバー程の劣化はLiberaのカバーソングには見られないが、「整った装丁の綺麗な合唱曲」以上の出来栄えの良さは全く感じられなかった。
アルバム「DREAM」ではLiberaの旧メンバーが作詞/作曲にも参加し、all Liberaなアルバムが完成した‥ とのSNSの告知にも目を通したが、その熱量が完成した音楽に反映されていないと感じたのは何故だろう。
これは一種のグループ・ミュージックの限界で、越えられない壁がLiberaの目前に立ちはだかったからだ。
ボーイ・ソプラノの合唱団の場合変声と同時にそのメンバーは退団を余儀なくされる。そして同じパートを新しいメンバーが入れ替わりに支えて行くのがグループ・ミュージックの仕組みだが、その多くが余り上手く行っていない。
これはLiberaに限らず日本では「モーニング娘。」やAKB48等でも度々見られた現象であり、「モーニング娘。」も初代メンバーが最も華があった。AKB48の場合も、前田敦子や大島優子等がセンターを務めた時期が最も華やいだ。
似たことがLiberaにも当てはまる。
特に日本の作曲家 村松崇継がLiberaに深く関わるようになってからのLiberaは、日本人特有の偽善性の高い音楽性に強く引っ張られ、楽曲と表現のクオリティーが著しく低下した感は否めない。
確かにアルバム「DREAM」にはそこそこ綺麗な音楽が取り揃えられており、オーケストレーションもそこそこのクオリティーを維持してはいるが、ただそれだけのことで感動もトキメキも全く感じられない。
村松崇継の音楽や音楽活動の方向性は、ある意味では角野隼斗と共通している。両者共にポップミュージック的なラベルに強い固執が見られる要因の一つとして、学歴の問題が挙げられる。
村松は国立音楽大学作曲学科を卒業しており、正直なところを申し上げれば国立音大の作曲科にはさして優秀な講師も居ないし、天下の芸大や桐朋音楽大学に比べて学科のグレードはかなり劣る。
一方の角野は音楽とは全く関係のない一般大学の出身者であり、此方も正規の音楽教育を受けてはいない。両者共に学歴の未達成 (教養も含まれる) の点が共通しており、その影響なのかonly クラシック音楽の活動には強いコンプレックスが垣間見える。
あくまで私の推測だが、これまで上記のタイプのミュージシャンを多く見て来たので、これは中らずといえども遠からずだろう。
上記、両者の根底では「クラシック音楽はつまらない」と言う認識があり、それがクラシック音楽をポップスの業界で再現する‥ と言う動機に直結しているように見えるが、それが音楽表現をジャンキーで質を低下させている要因となっている点については、音楽の専門家でなければ指摘することが難しい。
私は作曲と表現、音楽評論の三つの視点から音楽を分析・解析し評論して行くことが出来るし、その活動に於けるスポンサーを持たない分、かなり辛辣で信憑性のある評論を展開出来る立場にある。
その立場を駆使して言えることを各々の人間性に立ち入らない範囲で論評して行けるので、本記事ではかなり深堀りをして書かせて頂いたが、各個人の人間性には一切触れてはいないのでくれぐれも記事の読み解き方だけは間違えないで頂きたい。
プロデューサーが「美しい音楽の標本のようなものを意図した」とも言えそうなLiberaのニューアルバム「DREAM」はさながら、ただ美しいだけで何の奥行きも感じない、タイトル通りに夢から覚めたら記憶からすっぽり抜け落ちていることすら気付かせない、極めて存在感の薄いアルバムだ。
デビュー当初の「強い祈りを秘めた音楽」から、ただの商業音楽へと堕落した結果のLiberaの現在がある。
祈りを手放したLiberaはもはや、Liberaではない。Liberaの原点は「天界から降りて来た精霊の歌声」と、彼らの魂そのものだった筈である。









