少しだけ応援しているユニットの作曲担当の男性が坂本龍一のニューアルバム「12」を聴いている‥とツイートしていたので、私は別の意味を込めて同アルバムを視聴している。
とりとめのない各音楽の上に、坂本が思う「特別な日付け」がタイトルに乗っている。
音楽にはそれぞれ(きっと)誕生秘話があると思うが、さしずめこのアルバム全体を見回すとそれが彼自身の未来を指し示すようなダークな楽曲が並んでいるので、きっとそういう意味の音楽を集めたのだろう‥。
正直私はこの世界観には参加したくないと感じる。

表現とは、素直に越したことはない。
技を見せつけんとして本当ならばすんなりサブドミナントからドミナントに移行すれば好いところを、あえてそうはせずに不協和音なんかを入れてコード進行やメロディーをこねくり回してみたりする‥。
そんな作曲法が「知的な作曲技法だ」等と持て囃されたのも、かれこれ3~40年も前の話。そうやって練り出された音楽の大半が土に還り、現在に至る。
思うに坂本龍一は上に書いた時代を疾走した一人であり、当の彼自身が「素直ではない音楽の世界」に背を向けて時代を逆光していた。
だがそんな坂本龍一が自ら、かつては背を向けた筈の時代の溝に立ち返って来たのは何故だろうか‥。
ニューアルバム「12」のM-8 “20220302 – sarabande” からは、淡々とピアノ曲が並ぶ。どこかハンガリーの作曲家 バルトークのようでもあり、その音色が段々とM-10 “20220307” に向かって壊れて行く。
音楽を娯楽として認識する人もあれば、「叫び」或いは「世への訴えかけ」として扱う人も居る。中には「祈り」を音楽に乗せて飛ばす芸術家も存在する。
勿論どれもありだが、少なくとも大自然の中でその音を鳴らした時に心地の好くない音楽を、自然も宇宙も受け入れることはないだろう。
その意味に於いては、坂本龍一のニューアルバム「12」は、大自然も宇宙も毛嫌いするアルバムと言っても過言ではないだろう。
あくまで彼「坂本龍一」にカリスマ性を感じて止まない人たちの為だけのグッズであり、これを音楽と呼ぶことは少なくとも私には出来ない。
その意味ではこのアルバム「12」を(極端に表現すれば)「宗教グッズ」とでも言った方が、より正確かもしれない。
特定のシチュエーションにしか通用しない「音の羅列」を、私は「音楽」とは呼ばないことに決めている。音楽とはもっと普遍性を帯びるべきであり、いかなるシチュエーションに於いても受け入れられるよう在るのが理想的だ。

YMO解散後、坂本龍一は映画音楽の作曲に長い時間を費やして来た。映画音楽は映像や俳優、映画のストーリーに主役が渡る為、どうしても音楽はそれらの背景以上の効力を発揮出来なくなる。
脇役として主を引き立てる為に多くのジングルも作成しなければならず、その蓄積が余り好くない形でこのアルバムに反映された感は否めない。
野菜の浅漬けが単体では食べられず、どうあがいても白米がそこに無ければ浅漬けも引き立たない、それに似ている。
このアルバムにはどうしたって「映像」が欲しくなる。映像が無ければ如何せん喉が渇いて渇いて仕方がない、そんなアルバムだ。
最高の音楽とは「Simple is Best.」を極めたものだと、私は思っている。
シンプルなものは絵画でも料理でも彫刻でも舞踏でも、勿論音楽に於いても、そこからあえて「個性」の部分だけを綺麗に拭き取った痕跡が視て取れる。
坂本龍一のアルバム「12」が上の条件を満たしているかどうかについては、この評論の読了後に各々の素直な感覚で是非とも確認して頂ければ幸いだ。

