神と聴く音楽


先日作成したプレイリストCollect Pietro 1.を、少しずつテコ入れ中である。勿論私の好みではなく、これは「とある神」の意向を聴きながら作成しているプレイリストなので、選曲の主体は「神」である。
 


人が聴く為のプレイリストはこれまでにも複数作成して来たが、流石に神々が聴く為のプレイリストの作成は人生初だ。色々迷いながら (勿論私だけではなく神々も) 楽曲を抽出して行くうちに、段々と思わぬ楽曲のセレクトにも手が伸びて行く。
その過程がとても面白い。
 
とある女神が言うには、「人々がお願いを叶える為に神に祈りを捧げる以前に、本当に祈りを叶えて欲しいのは我々、神の側です。」との話。
これは言い得て妙であり、多くの霊能者や自称「神と交信する者」たちが気付いていない。

神々はアイディアの宝庫だと言うが、彼らが生きたのは太古の時代。そこからのアップデートが為されないまま現在に至るのだから、当然のこと現代人が神々の思いをくみ取り、彼らの思いや願いを形にしなければいけないのに逆の現象が続いている状況に、神々は嘆きを隠さない。
 

今回私が作成したプレイリストCollect Pietro 1.もその (神々の願いを実現させる為の) 一環であり、音楽に集中していると少しずつ神々の意向が視えて来る。それを何度も何度も感じ取り、その動作とルーティーンを繰り返して行くとその先に、神々の真の思いや願い、祈りの根幹が姿を現して行く。
 


神々はけっして、やたら無暗に荘厳な扱いを受けたがっているわけではない。今私たちが生きている時代の素の状況を、彼らはもっと堪能し、共有したいと願っているのだ。

このプレイリストの作成は一つの過程に過ぎず、既に私たち (私と神々との間) には新しい約束が存在する。その内容については今世で語るつもりはないが、その時が来たら必ず形になるに違いない。
その日の為のこれは、単なる準備に過ぎない。現在はその、盛大な準備を粛々と進めている真っ最中で、それは未だ始まったばかりだ。

A playlist for the loving My God (愛する神のためのプレイリスト)

毎週末の度にSpotifyから (主に) 更新される世界の音楽の新譜から、良曲だけを選び抜いてコレクションしているDidier Merahのプレイリスト『Cafe Didier』シリーズ。これについてはサブブログ『ディディエメラの音楽倉庫』に更新していますが‥。


何と今回初めて、愛する自然神のお一方の為にコレクションしたプレイリストを作成しました。先方のお名前は公表出来ませんが、意外な自然神がこういうノリの良い音楽を好まれるとは、私も驚きでした。
いつも夫とのドライブの際に神々同士でプレイリストの取り合いになり、正直困っていました。なので今回そうならないように‥ との配慮も込めて、自然神専用のプレイリストの作成を思い付きました。
 
実際に、リアルタイムで神と交信しながら都度都度音楽を取り出して、お伺いを立てながらのプレイリストの作成にはかなりのエネルギーを使いました。ですが先方はノリノリなので、最後には此方まで楽しくなって来て調子こいてしまいました(笑)。
 
これも私だから出来るプレイリストかもしれません。
先方から「一人でも多くの人々に聴いて頂きたい。それが自身のエネルギーに返って行くことになるので、人間のエナジーを吸わせて欲しい。」との要望があり、本来ならば私一人で楽しもうと思っていたのですがここに開放します。
 

このプレイリストは主に、キューバンサルサ (アフリカ、キューバ~プエルトリコ周辺)、イタリアンポップ (古いカンツォーネを含む)、スペインのポップス (フラメンコ含む)、Tango、そしてブラジルの音楽の5つのリズム体構成を中心に作成しています。
楽曲についてはあくまで自然神の要望を重視していますので、新旧織り交ぜてスクラップしています。
 
Let’s enjoy!!!💃
 

蘇る日々 (“Mosaico” – Andrea Sannino)

イタリア発祥のものは先ず口に、脳に、入れてみる。過去世の記憶が蘇り、いつしか私はトスカーナの並木道に佇んでいる。
甘い木の実と春間近の草の匂いを風が遠くに運び出す朝。直前の過去世に、私はそこで息絶えた‥。

アンドレア・サニーニョ (Andrea Sannino) が新譜をリリースした。彼の声はほんの少しだけ枯れ始め、それは夏の終わりの太陽の香りを脳裏にもたらす。
甘い夢と痛みが交差する私の中に、復活する私自身。

懐かしい顔ぶれが黄泉の国から戻ると、煙った記憶はたちまち輪郭を強め、これは夢ではないよ‥と言って私を強く抱きしめる。
愛した人はもうこの世界には居ない筈なのに失った筈の感覚はとても現実的で、悲しみよりもよろこびを幾つも幾つも連れて来る。
 


思い出が全てを美化し、風化させるとは限らない。それでも蘇るのは美しい記憶の中に響く音楽や会話ばかりなのは、逝った人の心の痛みを和らげようとする神々の甘い計らいかもしれない。

アンドレア・サニーニョも39歳になり、油が乗ったと言うよりは少し秋風を感じる年齢に差し掛かって来た。だがイタリア男はここからが見せ場と言うように、彼は時に泣き、咽びながら声をしぼり上げる。
私も心の声で後を追う。そう‥ あの日一羽のアヒルを追いかけた農道で一台のトラックが私の上を通過する直前まで、人生は輝きに満ちていた。そして最後に見上げた遠い空と雲が私の息を塞ぐまで、夏の終わりの甘い風が私を、痛みから遠ざけるように吹いていた。

アルバム “Mosaico” は冒頭はどこかリッキー・マーティンのスパニッシュな音色を思わせる作品で始まり、途中、ただの甘口なメロディーに留まらずイタリアン・フォークとでも言うべき作品等が挟まる。
M-7: Duje core はとてもオーソドックスなイタリアのメロディーで、おそらくこのアルバムの盛り上がり部分にあたる曲。共演歌手を務めるMr. Hydeの低音が背骨に響く。

M-11: “Vommero che curaggio” でアンドレアは少しだけリスナーを落ち着かせて行こうとするが、どうにも私はここで涙があふれて止まらなくなる。
 


来世で生まれる場所を、私は既に決めて今を生きている。生と死は日に日に距離を縮めて、その度に私は「もう少しだけ、あと数十年は生きていたい」と神々に願い、祈る。
愛したイタリアの神父の御霊を思う気持ちと、生まれ変わった神父の将来への祈りが複雑な形を成して交差する胸の中。
 

明日のことは分からない。だから今を精一杯生きることしか出来ない。

美しく、痛みをともなう思い出を昨日の出来事のように復活させて行くこのアルバムが、少しだけ憎くて、そして愛おしい。
 

燃える火、消えゆく灯、そして祈り

あけましておめでとうございます🎍

今年もよろしくお願い致します。

 
我が家はいたって普通通りの年末年始を迎え、明けて1月3日に今年最初の神人共食の儀を執り行いました。
神界の神々の多くは古い時代に人として生きており、その当時の食生活は今と比べてとても質素で、少ない食材の中で工夫を凝らしていたようです。なので私たちが日常的に食しているお料理の大半が神々にとってはとても珍しく、そして貴重だと話しています。

2025年1月3日の神人共食の献立は、イタリア料理でした。
我が家では殆ど毎日神人共食を執り行っており、時にはジャンクフードもあり、時にはファミレスのステーキもあり‥ とバラエティーに富んでいます。古い神様方は最初こそ難色を示されたものの、最近は私たち夫婦が味わう多くの料理に興味を示されますし、少しずつ味覚のアップデートが進んでいる様子が伝わって来ます。

ですがそのような状況を快く思わない原理主義的な価値観を持つ神々や宇宙自然神等も存在するらしく、昨夜の神人共食時には私たち人間のみならず神々にも圧がかかり、特に食事中盤で夫が強い倦怠感を示す等、過酷な状況下で儀式は進んで行きました。
 

 
私がことさらイタリア料理に拘るには理由があります。
勿論既にご存じの方々もおられると思いますが、私の直前の過去世はイタリア人でした。その時の私は交通事故で命を落としています。その交通事故で私は大型トラックに轢かれて死んだわけですが、そのトラックの助手席に乗車していたのがサビノ神父でした。
サビノ神父はその件が切っ掛けで後に聖職者の道を選んだと、彼の御霊から最近その事実を聞きました。

私が日本人の血を引く両親から生まれた時、彼はそれが私とは知らずに言い様のない感覚の痺れを感じたそうです。なぜそのような感覚に襲われるのかについては、最近まで、‥夫がサビノ神父の霊体の患部を治療するまでは気付くことが出来なかったようです。

サビノ神父の霊体の患部を夫 天野玄斎 が治療して取り除いた時、彼の意識がようやく明確になり、それまで起きた色々な出来事を思い出して整理する状況に至ったそうです。
私に、私とサビノ神父が最後に会った場所を彼の霊体から直接聞くことが出来たのも、夫のヒーリングのお陰です。
 

 
話を戻して‥。

上の写真ですが、母が写り込んでいなければまるで、父と娘の写真のように私とサビノ神父の雰囲気がとても似ているように見えます。そして時々ご質問頂くのですが、後ろに写っている人形の中には、リラ星時代の私の (当時の第二巫女候補だった) 妹の魂が完全に入り込んでいます。

当時から私は両親に「顔の傷のせいで人前に出せない子」だと言われていたのですが、この写真を見る限りそのようには見えません。勿論若干の傷跡のようなものが顔にはあるのかもしれませんが、この写真の少女のどこが「人前に出せない子」なのでしょうか‥。
でもそんな両親の言葉を真に受けて私を遠ざけた人が他にも複数いたのは、完全に毒親であった父母の洗脳がネガティブな意味で周囲に行き届いたからと言わざるを得ません。

私がサビノ神父に最後に会ったのが、私が18歳の誕生日でした。なのでこの写真を母の遺品から発掘するまでには、42年もの月日が経過したことになります。

でも、祈りは必ず通じます。勿論サビノ神父はこの世を既に去ってしまいましたけど、彼の霊体は実在し、私たちは再会を果たすことが叶いました。そして2024年の2月末日に、サビノ神父は次の生を得てこの世に転生しています。
今度は私が、現世のサビノ神父との再会を待つ番だと思っています。

 
思えば色んな事が起きた2024年。深めたい親睦が上手く深まらず、黒を絶対に白にひっくり返さない私の性格が全てを叩き割ったような一年が経過しました。
せっかく今世で再会を目前に控えていたリラ星時代の妹を見つけたにも関わらず、彼女は心に大きな混乱を来たし、実際の再会は叶わず現在に至ります。

黒を白にひっくり返さない私の性格が災いしたのか、多くの人たちが私や夫の傍から離れて行きました。妥協と虚偽にまみれた人間関係を築くことは私の哲学に反するので、それも致し方ないのでしょう。
 

 
文字通り、私は音楽家・芸術家でありながらもやはり、巫女のような人生をこれからも歩んで行くことになるでしょう。それが人々から理解されない生き方・生きざまだとしても、それをする為に私はここに戻って来た自負があります。

今年は自身の新しいアルバムの企画に着手し、早ければ今年末~来年頃には制作に入るつもりで居ます。
並行して音楽評論と音楽研究にも集中し、特にイタリア音楽 (カンツォーネやイタリアンポップス) をさらに極めたいと思っています。私の魂には今でも強いイタリアが流れており、その強烈な引力に今は流されていたいと願ってやみません。

又音楽やクリエイトと言う観点で、企業戦略的なアドバイス業も担って行けたら‥ と、予定はびっしり詰まっています。法律や社会学、社会心理学等も勉強し、豊かな精神性を培って行かなければなりません。

この記事の最後に、未だ作りかけではありますが、『Collection “SABINO” Ⅴ (2025′)』と題したプレイリスト (on Spotify) のリンクを貼っておきます。
私の中に流れるイタリアを、共にシェア出来たら嬉しいです。
 

蘇るクロード・ヌガロ (Claude Nougaro) – Claude Nougaro Returns.

毎週末の “世界の新譜” チェックは相変わらず続いており、この半年間で私が各プレイリストにラインナップする楽曲の質が大きく変化していることに、Didier PL Fanの方々はきっとお気づきだろう。
以前のPL (プレイリストの略称) に多かったチルアウトやDeep House系の音楽がグっと減り、いわゆる純粋にワールド・ミュージックと言える楽曲が増えていることに。
 
コロナ禍以降世界は暗闇に包まれている。政治の腐敗はもとより環境汚染による気候変動や天変地異が多発しており、創作活動がままならなくなったアーティストの話も多数聴こえて来る。
勿論此方の世界からあちらの世界への移動を余儀なくされたアーティストも多く、ただただ寂しい限りだ。
 

 


今日この記事でご紹介するのは “Une voix, six cordes – De Claude à Nougaro” と言うアルバムだ。
表現者としてYvan Cujious、そしてLouis Winsbergと言う二人のフランスのミュージシャンが表記されており、オールドスタイルのジャズ・フランセとも言うべきフレンチスタイルのジャズソングが収録されている。
全曲がClaude Nougaroの作品でまとめられている。
 

 

クロード・ヌガロと言えば、とても苦い思い出が一つだけある。
未だ私が前職で和製シャンソンの世界に深く関わっていた頃、お世話になっていたシャンソニエ “BOUM” のオーナーのご厚意でクロード・ヌガロのコンサートの (記憶では2002年だったか) チケットを手配して頂き、楽しみに会場に向かったのだが‥。
 
ほぼ真っ暗な照明の中にピアノ一台をバックに、クロード・ヌガロがオリジナルを歌い始めたのだがどうにも私の感性に彼の表現がフィットせず、冒頭の4曲だけを聴いて会場を飛び出した。
Pf.のモーリス・ヴァンデールのバッキングのテイストも何となくしみったれており、ほぼ暗転状態の照明の陰鬱さも手伝って私の精神の方が参ってしまいそうだったのだ。これ以上会場に居るには周囲に知り合いがあまりにも多すぎて、”拍手はしない” と言う意思表示すら難しいと思った。
 
後日談を聴くと皆一様に「素晴らしかった‥」としか言わない。たった一人を除いては。その “たった一人” の名前はここではあえて伏せておくが。
 

アルバム “Une voix, six cordes – De Claude à Nougaro” の中の一曲が丁度先週末の新譜の渦の中に登場し、先入観なく聴いていた私の心臓を一撃した。
垢抜けたヴォーカルに深い音色のギター、それらがあの、忌まわしい記憶の中のクロード・ヌガロの楽曲だと分かったが、表現や解釈によってはここまでカラっと爽やかで切れ味鋭い音楽に豹変するのかと、ある意味感動しながら今も未だアルバムを聴いている。
 


M-7: “Rimes” はイントロがどこかStingの “Fragile” を彷彿とさせる作りになっており、それが血の半分がアジア人の私にとっては何ともたまらない気持ちになる。
私の残りの血の何分の1がスコットランドで、残りはきっととても複雑な血が入り混じっているのだから、一体私自身のルーツの根源はどこなのかとも思うが人間なんてそんなもの。
どこかのどこかでアダムとイヴのどちらかに到達する。その先はプレアデス星人、そしてリラ星人へと辿り着くわけだから、もう誰がどこの血筋だ国籍だと訝しがること自体馬鹿げた話だ(笑)。
 

それにしても “Rimes” 、良い曲だ。
 

Rimes (歌詞)
J’aime la vie quand elle rime à quelque chose
J’aime les épines quand elles riment avec la rose
J’aimerais même la mort si j’en sais la cause

Rimes ou prose

J’aime ma chanson quand elle rime avec ta bouche
Comme les ponts de Paris avec bateau-mouche
Et la perle des pleurs avec l’œil des biches

Rimes tristes

J’aime les manèges quand ils riment avec la neige
J’aime les nains qui riment avec Blanche-Neige
Rimons rimons tous les deux
Rimons rimons si tu veux
Même si c’est pas des rimes riches
Arrimons-nous on s’en fiche

J’aime les manèges quand ils riment avec la neige
J’aime les nains qui riment avec Blanche-Neige
Rimons rimons tous les deux
Rimons rimons si tu veux
Même si c’est pas des rimes riches
Arrimons-nous on s’en fiche
 
J’aime la vie quand elle rime à quelque chose
J’aime les épines quand elles riment avec la rose
J’aimerais même la mort si j’en sais la cause

Rimes ou prose

J’aime ma chanson quand elle rime avec ta bouche
Comme les ponts de Paris avec bateau-mouche
Et la perle des pleurs avec l’œil des biches

Rimes tristes

J’aime les manèges quand ils riment avec la neige
J’aime les nains qui riment avec Blanche-Neige
Rimons rimons tous les deux
Rimons rimons si tu veux
Même si c’est pas des rimes riches
Arrimons-nous on s’en fiche

J’aime la vie quand elle rime à quelque chose
J’aime les épines quand elles riment avec la rose
Rimons rimons belle dame
Rimons rimons jusqu’à l’âme
Et que ma poésie
Rime à ta peau aussi…

https://genius.com/Claude-nougaro-rimes-lyrics

 
歌詞をめくってみると、タイトルが邦題だと『韻を踏む』と言う意味を持つ言葉だと分かる。クロード・ヌガロが元々詩人 (作詞家) として始まったことが、この歌詞からも感じ取れる。
 
アルバム “Une voix, six cordes – De Claude à Nougaro” のM-2: “Cécile ma fille” も、なかなかに痺れる曲だ。この曲のクロード本人の動画をあらためて視聴してみたが、どうもモーリス・ヴァンデール (Pf.) と言う人は聴衆やその時々の事情によって奏法を完全に使い分けているのではないかと、私は疑ってしまう。
勿論そういう噂を実際に聞いたこともあったが、動画を見る限り日本はPARCO劇場のあの時の演奏とは打って変わって冴えているから悔しい限りだ。
 


日本はPARCO劇場でのクロード・ヌガロの動画を探してみたが、見つけることが出来なかった。実際に両方のモーリス・ヴァンデール (Pf.) の演奏を聴き比べてみれば私の記憶が正しいか否か、はっきりするのだが、それは出来なかった‥。
 

作曲者本人よりも表現に特化して活動している面子の再演の方が原作者のそれを勝ってしまうと言う話は、よくあることだ。だがここまで歴然と表現の差を見せつけらるとは、流石のクロード・ヌガロ本人がそれを予想しただろうか‥(笑)。
ともあれ以下にアルバム “Une voix, six cordes – De Claude à Nougaro” のリンクを貼っておくので、(シャンソン嫌いの私が言うのもなんだが) 是非とも蘇ったクロード・ヌガロの世界をご堪能頂きたい。
 
くれぐれもこのアルバムを聴いた後に、ニッポン人のシャンソンだけは絶対に聴かない方が良いだろう。
ニッポン人のシャンソン歌手等の殆どが原作者に無断で歌詞を訳詞して、原作者に無断で楽曲を失敬して盗んで使用してカネ (ギャラ) を得ている面々だ。彼らは表現者でも歌手でもなくただの盗っ人だと私は認識しているし、このブログの読者層にもその旨肝に銘じて頂ければ幸いである ^ ^ゝ
 

 

To mark the 20th anniversary of Claude Nougaro’s death, Yvan Cujious and Louis Winsberg have decided to pay tribute to him with an album entitled “Une voix, six cordes – de Claude à Nougaro”, which revisits Claude’s incredible repertoire on guitar and vocals, a repertoire we’re more used to hearing on piano.
For this project, Yvan Cujious and Louis Winsberg surround themselves with prestigious guest friends: Francis Cabrel, Thomas Dutronc, Anne Sila, the Toulousans Bigflo and Oli, as well as great musicians like Rocky Gresset and Jean-Marie Ecay, all united by a shared love of Claude Nougaro.

This album, this wonderful adventure, is ultimately nothing more than a story of friendship, almost a family affair…

Thank you, Claude!
https://www.wowhd.co.uk/yvan-cujious-1-voix-6-cordes-hommage-a-claude-nougaro/3700398731100

K-Popとイタリアンポップスの関連性について

この週末の金曜日から少し遅れて昨日の夜、2023年8月4日分の世界の新譜をチェックしながら、私は幾つかのプレイリストの試聴を渡り歩いていた。
最近のもっぱらの推しがNewJeansであることには変わりないが、そんな中偶然イタリアンポップスの女王 Giorgiaの新作 “Senza confine” で暫し作業の手を止めた。
 
少し遅れて2023年8月4日分の世界の新譜をチェックしながら、私は幾つかのプレイリストの試聴を渡り歩いていた。
最近のもっぱらの推しはやはりNewJeansであることには変わりないが、そんな中偶然イタリアンポップスの女王 Giorgiaの新作 “Senza confine” で暫し作業の手を止めた。
 


イタリアンポップス(或いはカンツォーネ)と言うと直ぐに演歌臭い「男と女の恋物語」を脳内想起するカンツォーネフリークが多いのだが、そういう生き物が私は大っ嫌いである(笑)。
 
Giorgiaの新作 “Senza confine” の歌詞をページ翻訳で一旦英語に翻訳し、それをさらに和訳しながら読んでみると、如何にも音楽の歌詞らしく明確な理由付けなど不毛と思える程の抽象的な名刺が並んでいる。
だがこの動画を視ている限りGiorgiaが暗に今の地球や地球環境或いは人類の意識の低下に対する危機感を意図してこの歌詞を書いたのではないかと、うっすらとこの作品の全体像の一端が垣間見えて来る。
 
J-Pop以外のポップスの作品に最近この兆候が強く見え隠れする、そのことに対して多くの人類が鈍感になっていやしないかと私は別の危機感に時折心が震えて仕方がない。
 
サンバやショーロ、その他タンゴからスペインのポップス等の歌詞を紐解いて行くと、激しく燃えるようなビートの彼方に実は悪しき政治体制への批判や人類の朦朧とした意識に対する危機感、さらには人類の滅亡に対する危機感(絶望感)等を意外に素直に表現している楽曲を数多く見掛ける。
例えばコロンビアのアーティスト Monsieur Periné も新曲 “Prométeme” のP/Vを通じて、人類滅亡に対する危機意識や現政治体制へのアンチテーゼを明るいメロディーに乗せて高らかに歌い上げている好い例かもしれない。
 


少し視点をずらして、あのK-Popのグループ “NewJeans” の新作 “ETA” の中身を見てみると、やはり男女関係を通じて少々怖い内容のメッセージが込められていることが分かる。

動画の中の主役は欧米人と思える女性で、彼女の恋人の浮気現場をNewJeans扮する親友5人が彼女たちのライブの最中に目撃すると言う内容になっている。主役の女性は既に恋人を殺害しており、男性の遺体を車で移動する最中の妄想を含めた脳内ストーリーとして動画が進行して行く。
映像や表現形態は異なるが、何れも人の「命」の行方について描かれており、見ていて背筋が寒くなる。
 
実は動画の映像描写だけでなく、イタリアンポップスとK-Popにはコード展開やメロディーメイクにも多数の共通点が見られる。
両者はある種 “トニック” と呼ばれるメインのコード(Ⅰ度)に解決せず、サブコードをうろうろするコードの連携で楽曲が進んで行く特徴が見られる。
Ⅱ度 ⇨ Ⅲ度セブンス ⇨ Ⅲ度マイナー ⇨ Ⅵ度(マイナー)、分かりやすく砕くと、Dm ⇨ E7 ⇨ Emin. ⇨ A7sus4 (A7)‥ と言う感じだろう。
これは今世界中のK-Popフリークをこれでもかと泣かせまくっている新しい王道コードとも言える。それを私は「涙の王道コード」と命名して呼んでいる。
 
トニック(Ⅰ度)には絶対に解決しないコード展開は、どこか現在‥ 絶対に平和な解決に向かおうとしない人類の意識の酩酊状態に似ており、それはJ-Pop以外の多くの世界の音楽で共通項のようにコードプログレッションに用いられている。
 


もっともっと内容を膨らませて綴ることも出来るが、余り話を膨らませ過ぎると焦点が大きくブレてしまいかねないので、早速この記事の最後にNewJeansの新譜 “ETA” ともう一つ、私がずっと気になっているNewJeansのM/V “Ditto” (side B) を掲載しておきたい。
 
これは私の個人的な解釈に過ぎないが、どう逆立ちしてこの動画を視ても私にはこれが「死者の思い出」を描写した内容に思えて仕方がない。
だが多くの音楽ライターやYouTuberがこの “Ditto” (side B) の動画を「思春期の男女が恋愛を成就させる迄のプロセスだ」と話しているのを見ると、何とも心の古傷をかきむしられるようでたまらない気持ちになる。
 

 

[音楽評論] Mario Biondi – “Brasil” (album)

良い音楽は良いなりに、そうではない音楽は理論武装をしつつそれなりに紹介出来れば良い。そう思ってこのブログをSNS “note” のアカウントと共に立ち上げたが、そもそも私は「自身が売れる」為と言う目的を一切持たない。
 
「多くの人々に認知されなければプロとは言えない‥」
私に対しそのような言葉を放つ人々もけっして少なくないが、私はそうは思わない。
 
正しい評価を下すこと。
音楽評論家はそう在るべきだ。その為には他者からカネを取らないで各々の音楽作品や表現等に対しジャッジメントを下す方が、より精度の高い評論に到達出来ると確信している。
 
カネを取るからプロ‥ ではない。
料理にも「時価」と言う価格設定の方式があるように、私は「タダより怖いものはない」と言う価格を自らに設定している。
誰に対する忖度を一切しないところに、本物の価値観が出現する。私はその英断を振るう、世界でただ一人の音楽評論家で在りたいと思う。
 


久々にMario Biondiのアルバム『Brasil』を聴いている。
たまたま私の好きなシャンソン『Jardin D’Hiver』が収録されており、『Jardin D’Hiver』を検索していたらMarioのアルバム『Brasil』が逆ヒットしたからだ。
 

最初この人の声を聴いた時は背骨が折れそうな程痺れたものだったが、段々と飽きて来た(笑)。
表現が一色だからかもしれない。

喉の奥を絞って発音をくぐもらせたようなある種のクセは、段々と日を追う毎に食傷気味になって行く。クセとはそういうものかもしれない。
それはどこか豚骨ラーメンをある日いきなり好きになり、ある日いきなり胸やけを起こす程嫌いになる様子にも似ているかもしれない。
 

アルバム『Brasil』と言うタイトルから想像するのは、どの曲のどの箇所を切り取ってもブラジルであることだったが、このアルバムはその期待をあっさりくったり裏切ってくれた。
良くも悪くもチルアウト的であり、UKやイタリア、或いはオランダ辺りの緩いチルアウトミュージックを率先してコレクションして繋ぎ合わせてチャンネルを作っている、DJ界隈に好まれそうな音楽が数珠繋ぎに集まっているアルバムだ。
 

それもその筈。Mario Biondiは最初欧米のチルアウトミュージック系のDJ辺りから火が着いた人で、私が最初に聴いた彼の作品はこの曲だった。
 


非常に口当たりの良いワイン(ロゼ)と言う感じの曲だが、未だある種の彼の発音の癖がこの頃は然程気にならなかった。
良質な楽曲にも恵まれていたからかもしれないが、Mario歴を重ねて行くうちに段々と彼の声質が鼻について来て最近は滅多なことでもない限りはMarioの作品には触れなくなった。
 
最近の作品と上のYouTubeのWhat Have You Done to Meを聴き比べてみると、若干最近のMarioの声質の劣化(現在Marioは52歳)が見られ、それが理由で彼の発音のくぐもりが悪い意味で際立って来たのかもしれないと気付いた。
 


アルバム『Brasil』には英語の楽曲も多数収録されているが、そもそも母国語の表現力すらも一本調子のMarioに英語を巧みに表現出来る筈もなく、何とも空振り感がハンパない。

英語曲と言えば私がパっと思い付く推し歌手にStingが居る。Stingも楽曲にはかなりムラがあり、良い曲とそうではない曲のインプレッションの差が激しい。
だがStingは時折フランス語等の楽曲のリリースもあり、そんな時のStingの表現は本当に冴え渡っている。
 


『L’amour c’est comme un jour』、これはシャルル・アズナヴールとStingがデュオを取る形で楽曲のパートを交互に歌って収録されている。
Stingのフランス語が聴ける貴重な音源だが、勿論ネイティブではないStingの表現がアズナヴールとは異なるある種の高みに到達しているように聴こえてならない。
本当に素晴らしい。
 
Mario Biondiの『Brasil』に対しても同様に期待をしたことがいけなかったのか、音楽に対する消化不全のMarioの表現がいけないのかはもう問いようもないが、やはりヴォーカルものはフロントの歌手が音楽全体を牽引して行く使命があると言う点では、かなしい結果であることは否めない。
 
唯一M-8 “Deixa eu dizer” がブラジル中のブラジルと言っても良い出来栄えだったがそれもその筈、歌手に Ivan LinsClàudya と言うブラジルを代表する強豪が歌手として参加しているわけだから、その意味では出来栄えが良くなければ嘘になる(笑)。
 
 
上記の点を踏まえながら、極力冷静に平常心でMario BiondiのBrasilをご堪能あれ。
 

 

[音楽評論] “E penso a te” – Lica Cecato et Carlo Morena

毎週金曜日に世界の新譜が発信されるSpotify。私は酷く体調を壊し、数日間ずれ込んでおずおずと新譜を端から捲って行く。
 
今週は競合が音楽の軒を連ねているが、その大半が余り日本では知られていないアーティスト勢の新譜だ。
思えば9歳になるかならないか‥ と言う頃に既に私は世界の音楽に目覚め、AMラジオでその動向を追い始めてから一体今年で何十年が経過しただろう。
 
まさか50歳を過ぎてから音楽評論を始めるなどとは夢にも思わなかったがそれもこれも、きっと恩師: 三善晃氏の導きではないかと思っている。

タイトルの「E penso a te」はイタリアは Lucio Battisti が1972年に生み出した有名なカンツォーネで、カンツォーネを愛する多くの歌手たちにカバーされている。
今回はイタリア人ではなく、ブラジル人歌手: Lica Cecato のヴォーカルを背後からイタリア人ピアニスト: Carlo Morena がしっかりと支えて音楽を編み込んで行く。

歌詞は原語のイタリア語ではなく、恐らくポルトガル語辺りで訳されたものだと思われるが、小気味よく悲しげな言葉の響きが郷愁を誘う。

本国イタリアでは後に Fiorella Mannoia やカンツォーネの王者 MINA がカバーしている。
 

 

 
イタリア語から歌詞を簡単に和訳してみたので、ここに貼っておこう。
 

“A penso a te” (邦題: [ そして君を想う ]

仕事をしながら 君を想う
家に帰って 君を想う
彼女に電話していても 君を想う

どうしている? 君を想う
どこに行くの? 君を想う
視線をはずして彼女に微笑みながら 
君を想う

君が今誰といるのか知らない
君が何をしているのか知らない
でも確かに君の想いが伝わって来る

この街は大きすぎる
ぼくらのような二人には
望みはないけれど互いを探している 
探している

ごめん もう遅いね でも君を想う
君の影を追いかけながら 君を想う
ぼくは今の暮らしを 少しも楽しんでいない 
だから君を想う

闇の中で 君を想う
目を閉じて 君を想う
遂に一睡も出来ずに 君を想い続ける

 
これはあくまで私の解釈に過ぎないが、これは不倫や浮気などではなく(一見そう読み取れる箇所もあるが)‥、ひょっとすると同性愛者の苦悩を表現した作品ではないかと感じてならない。
 
本命のパートナーが居る身で「彼女」と「君」と言う別々の存在を同時に思うとすれば、それは二人の異性に対する同時恋愛ではなく、男が一人の女性と同時にもう一人の同性を愛する心情を描いた作品ではないか‥。

そう解釈しながら聴くと、この作品のこれまでとは違った側面が見えて来る。
日本人のカンツォーネ歌手の中にもこの曲をカバーして歌っている歌手をこれまでにも大勢サポート(伴奏)して来たが、上に触れたような解釈に触れながら歌唱している歌手には遂に一人も出くわさなかった。
 
音楽や歌詞は多方向からそれを見比べることで、これまでにはない新たな発見をすることがある。
だがこの作品「E penso a te」を不倫の歌詞から同性愛者の心情を切々と歌った歌詞として再解釈しながら聴き返すと、この作品の根底を脈々と流れて行く深く険しくいたたまれない表現の根源に触れることが出来るだろう。

それは言い知れない、そして目的の無いゴールに向かって走り続けている形のない魂に不意に触れてしまった後の後悔のように、リスナーの心情をも呆気なく変えてしまうかもしれない。

 
最後の「La La La La ‥」と果てしなく続いて行く言葉にならない言葉が数秒後には力尽きて行く様を私も受け止め切れずに何度も何度もこの曲を伴奏しながら、「どこで終着点を決めるべきか」について悩まされたか知れない。

それは私が演奏者から音楽評論家或いはリスナーに転じた現在も、変わらずに河のように心の奥深くにたゆたい続けている。
 

[音楽評論] Sergio Cammariere – “Una Sola giornata”

既に他界した日本のカンツォーネ歌手 後藤啓子さんよりご紹介頂いた、イタリアのシンガーソングライターのセルジォ・カンマリエーレの新譜がお目見えした。
暫く息を潜めていたのでどうしたのかと心配していたが、意外に元気そうで安心した。

良くも悪くも「変化しない」歌手(兼 作曲家, ジャズピアニスト)の新譜は、「安定」の一文字で評価出来るだろう。
この「変化しない」ことが意外に難しい。多くのシンガーソングライターや歌手が過剰なまでの変化を模索したがるが、リスナーはそれを案外望んでいないものなのだ。

その辺りを(多分彼自身は計算などしていないだろう‥)見事に突いて来る辺りに、むしろ本物を感じる。
 


王道循環コードで全編塗り潰してはいるものの、セルジォ独特の風通しの良さはむしろ彼のヴォーカル力の無さが為せる技。

下手で素人臭いからこそ醸し出せるこの、風通しの良さを今後も徹底して貫き通して欲しいものだ。
 

 

オススメはM-6: “se tu non mi amerai” ~以降の流れ。

音楽から読み解く世界情勢 [2022.04.26]

どこか緊迫感を高めながら世界中が一進一退する2022年、春。
地球はどこに向かって加速しているのか、それとも失速しているのか‥。数年前のシリアに続いて、再び瓦礫の国が増えて行く。
 

音楽は全てを物語る。
毎週末に世界中から配信されるあらゆるジャンルの新譜を追っていると、誰もが不安を抱えながらその場でフリーズしかけているように見える。
相変わらず今週も単曲での新譜が多く、次いでミニアルバム・スタイルの新譜が続いて行く。Lofiの新譜のクオリティーが先週よりも若干落ちているのが気になりつつ、その一方でやはりダブ・ステップの新譜が先週より増えているように感じる。
 

私がコレクションしているメインのプレイリストには、ダブ・ステップのようなある種、戦争の音声を意識させるような音楽をあえてリストインしていない。音楽はあくまで心の癒しの役割を果たすべきであり、尚且つ私は音楽の中に「祈り」の有無を強く求めたいと願っている。だからダブ・ステップやDeep House系の音楽をコレクションしない方向で、PLを作成している。
 

今シーズンのメインのPLは此方。
 

 
今週の更新は、M-45 “About Love” – The Soultrend Orchestra · Papik · Alan Scaffardi から。
 

About Love · The Soultrend Orchestra · Papik · Alan Scaffardi

 

各ジャンル、各アーティスト等の新譜からアルバムを辿り、実際に紹介されているアルバムリードの楽曲とは異なる別の楽曲をPLにコレクションする事も度ある。

先週末、一人Sufiの大物が過去アルバムのリマスター版をサブスクから再配信していたので、それをここにご紹介しておきたい。

Omar Faruk Tekbilek のアルバムSound of the Sultans (Remaster)である。
 

 
アルバムタイトルに『Remaster』と書かれてあるが、最初のリリースは私の記憶だと10年近くは過去の遡るだろう。だが正確な最初のリリース年月日がいくら調べても見つからないので、明言は避けておく。
 
Sufiについて、又、Omar Faruk Tekbilek氏についての記載はあらためて、別記事で触れることにしよう。本記事は私が編集しているPL(プレイリスト)についてと、ここ数週間の世界から配信される音楽の傾向と世界情勢との関係性について、内容を集約したいので。

 
もう一人、イタリアはカンツォーネ歌手、ロッサナ・カサーレの新譜Trialogoも良い。この作品はアルバム全体を通して聴く方が、印象が良いかもしれない。
 

 

このアルバムの中でも、特にオススメ作品を挙げるとしたらアルバム・タイトルの『Trialogo』だ。

歌手、ロッサナ・カサーレとの出会いは当時渋谷にあった大型CDショップ「HMV」の試聴コーナーだった。アルバムタイトルはLo Stato Naturale。ジャケ写が何とも色っぽく、仕事の合間にその写真を見てしまった後暫く私は、現実の世界から意識が遠退いてしまったことを今でも忘れない。

 

Lo Stato Naturale – Rossana Casale


度々私が書いている「メインのプレイリスト」の他に、ジャンル別に仕分けしている専用のPL(プレイリスト)が複数あり、特に今年の3月以降は若干コレクションのジャンル分けのスタイルを変えている。

リズム主体で主メロが曖昧なチルアウト系やLofi系の新譜は、メインのPLではなくBGM用のPL『⛪️New Chillout Times 2022′ ②』の方にコレクションする用、仕分けを変更している。

 

 
とは言え音楽のカテゴライズとはとても難しく、又各楽曲が単一のジャンルに仕分け出来ない場合も多々ある為随所に例外は発生するが、全体が一つのまとまったラジオ・ステーションとして成立するよう、毎週のコレクションにはこれでも苦労しているのが現状だ。
勿論リスナーとは何の関係もない話しと言ってしまえば身も蓋も無いが、自身が音楽家・作曲家でありながらこれ程までに他のアーティストの作品を大量に紹介している音楽家も珍しいだろう(笑)。
 

そうこうしながら先週は、私自身の次のアルバムに収録したい新曲のモチーフを幾つも五線紙にメモしており、そろそろ手の負傷と向き合いながら鍵盤練習の復帰を狙って行きたい気持ちも山々だが、兎に角無理は出来ない。

プライベートの大きな変化も続いている為、身体以上にメンタルのコンディションを度々大きく崩している事にも注意を払いながら、少しスローペースで音楽と関わって行くことが今はベターだ。

 

Kim Oki

 
さて、この記事の最後を飾るのは、最近私が注目している韓国のオルタナティブ・ジャズ系のサックス奏者 & 作曲者のKim Okiのアルバム『Greeting』からMoonlightともう一曲、韓国はパンソリ歌手のLee Hee MoonとKim Okiが共演しているPV『어랑브루지』の2作品で締めくくりたい。

 

 

 

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