“Ditto” – NewJeans 🇰🇷 (PVに隠された暗示)


2022年12月19日にYG PLUSを通じてADORから配信された、NewJeansの大ヒット曲。
最初ヘインのスキャットを経て、Aメロの冒頭をハニ (Hanni) が担当する辺りはどこか、今の世情とは異なり明るく希望に満ちていて健康的だ。

それまでのKPopのガールズ・グループの陰鬱かつヒール (悪役) のイメージを、この一曲が完璧なまでに塗り替えた。
この曲の出現でKPop界隈は、二度と『NewJeans以前』には戻れなくなったと言っても過言ではない。

一方このPVの演出はどこか不穏が隠れており、特に ‘Ditto’ Official MV (side B) には死の影を思わせる演出が随所に施されている。
(※監督: シン・ウソク)
 
NewJeansの各楽曲のサウンドメイクの特徴は、重たいドラムを使わない点だ。
一説には当時のNewJeansの楽曲選びの際、ミン・ヒジン氏からは様々なリファレンスの楽曲が提示され、その大半が日本のシティーポップだったと言うから、NewJeans以降の新しいKPopの原点はJPopだと言っても過言ではないだろう。
 

ダイエットをしない。
緩いダンスで誰にでも踊れそうな振付が付いている。
高音を地声で張り上げない、声帯に負担のない発声でメンバーが交互に歌って行く。
楽曲とは一見無関係な可愛い衣装が多いが、何を着てもNewJeansカラーに仕上げて行く。

何よりコロナ禍の最中に一曲につきかなり多くのPVがリリースされ、引き籠り族を存分に楽しませる企画が活きていた。

 

その後、NewJeansはこれまでには類を見ない攻め方をして来た新世代のガールズグループとして一世を風靡する直前で、残念ながら既存の「ファンの目線とステージライトを浴びてパフォーマンスを行う」だけの、至って平凡なKPopガールズグループに転落して行った。
 

現在のNewJeansは「ADORと契約解除をした」と言い張り、独自の活動を行うニュータイプのアーティストの体 (てい) を取ろうと必死になっているが、最近では (ADORの旧CEO) ミン・ヒジンのタンパリング疑惑が表沙汰になり、闇深いミン・ヒジンの洗脳でがっつりマインドを拘束された彼女たちはもはや自力で暴走を止められなくなった。

曲が作れるわけでもなく、振付を生み出せるわけでもなければ各々がタレント活動以外の音楽の基礎を持たないのであれば、彼女たちはそう遠くない日に大衆から忘れ去られて行くだろう。

私は元バニーズだったが、今は違う。社会のルールを守らずに身勝手な状況解釈によって暴走し続けるうさぎは、いつか必ず高い崖の上に追い詰められて行くことになる。

まるで ‘Ditto’ Official MV (side B) に描かれている「学校の屋上から落ちてこっぱみじんになったビデオカメラ」がそれを暗示するようで、仮に彼女たちがいずれ莫大な損害金を背負うことになったとしても、シン・ウソクが描いたこの曲のPVが現実にならないようにと祈るばかりだ。

 

 

 

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発想の転換 [NewJeans(뉴진스) – Ditto / Plastic Love (Citypop ver.)]

これは恐らく二次創作にカテゴライズされる代物かもしれない‥ としても、その中でも面白いことを考える人が居るものだ。

バッキング(伴奏)は竹内まりやの「Plastic Love」のKeyチェンジされたオケ、ヴォーカルのラインがNewJeansの「Ditto」
何とも荒業なのに、これが妙にマッチするのはひとえに「Ditto」のメロディーが頑丈に出来ているからだろう。
 
「Ditto」と言えばさっき、偶然ではあるがBoysチームのダンスカバーの動画を見つけた。
動画配信者であるチームのTKBzを少し調べてみたが、詳しい情報を探し出せなかった。
 

 
男性が女性のモノマネをする時、往々にして女性的な仕草の部分だけを若干長めのTimeとオーバーアクションに転じることが多いが、彼等TKBzや最近私が推しているおじさんチームのODOOJIもそこをキュートな笑顔と手の「にゃん‥」ポーズ等で小気味好い表現に抑え込んでいる辺り、両者一歩も引けを取らないクオリティーだ。

言うなればこれは現代人の感性の兆候として、段々と感覚(感性)の男女差が縮まって来た現象の一つと言えるかもしれない。
 

 
このところ音楽紹介や音楽評論の発信が上手く出来ていないと感じているが、その要因の一つとして、特に2020年の秋以降世界の良質な新譜が激減していることが挙げられる。

それまでの過熱気味の配信が新型コロナウィルスに端を発するパンデミックや、各地で勃発したコロナ規制等の要因で、それまでコンスタントに活動していたアーティストやミュージシャン及びバンドやユニットの活動にも同時に制限が生じたからだろう。
世界各国で楽曲やダンスのカバー動画が増えた要因も、恐らくこの辺りにありそうだ。

自らものを考え生み出す思考サイクルが、私も含めこの数年間で圧倒的にかき乱された感が拭えない。
‥ならば手っ取り早く誰かが作った作品をカバーして、それをアーティスト等が生存証明代わりに代用したとしてもそれはそれで文句は言えない‥。

大のカンツォーネ好き、Dub好きの私が特に昨年初頭から良質な新曲に出会えなくなり、最近ではもっぱらNewJeans周辺の動向調査に集中している私‥。
先週も今週も、そもそも好きだったイタリア~スペイン周辺からの新譜は皆無だ。

その代りにアジア周辺が賑やかだ。
 

 
世界中が春を探し求めている、2023年。
だが、良かった頃の春はもう二度と訪れないだろう‥。

コロナが全てを変えたのではなく、そこに至るまでの人類総勢のアクティビティーに要因が潜んでいる。
私たち人類は、やりたいようにやり過ぎたのだ。だから大気が汚れ、多くの木々が伐採され、それにともない地球全体の環境のバランスが大きく乱れ、水温は上昇し四季のサイクルが壊れてしまった。

昔のような四季を再び取り戻すには、行動と祈りの両方の側面から調整を進めて行かなければならないだろう。
この両輪が揃わなければ恐らく、地球は自らの意思で破滅の未来へと進んで行く。誰かが何とかしてくれる‥のではなく、各々が自分の意思で地球の意識と向き合って対話をしながら、地球のモチベーションを再度向上させる為の手助けをする必要がある。

その為には静かな音楽、静かな時間、澄んだ空気を地球上のテクノロジーの力を借りながら創造~リサイクルし、昔の人類が地球の環境に深く励まされ癒されたように、次は人類がその逆の作用を地球の意識に向けて発信しなければならない。

さて、この記事の最後に、タイトルチューンのNewJeans(뉴진스) – Ditto x Plastic Love (Citypop ver.)の動画を貼っておく。
これはあくまで「発想の転換」とでも言うべき、人や意識の繋がりを疑似的に言い表すように、2つの楽曲を組み合わせて音源をリサイクルしている一つの例と言えるだろう。

視方を変えると非常に暗示めいた‥ とでも言うべき内容で、同じ借り物同じ二次創作でも、こういうやり方があるのだなぁと勉強させられる。

80年代の日本のシティポップと現代の若きK-POPのニューフィエイスとの、香しい遭遇とでも言うべきハイブリッド・ミュージックである。
 

 
追記:
上記の動画NewJeans(뉴진스) – Ditto x Plastic Love (Citypop ver.)を配信しているYeguguが、何と同曲を自身でカバーしている動画が配信されていた。
その空気感がとても軽やかで、何より音楽を心から楽しんでいる表情と飾り気のない歌声に好感度Max。

そちらもここに貼っておくので、是非お楽しみ頂きたい。
 

NewJeans (뉴진스) ‘Ditto’ [sideB] MV評論

韓流若手ガールズグループ NewJeans (뉴진스) が、YouTubeに新譜「Ditto」のMVを公開した。このMVは私が知る限り2種類存在するが、両方共にとてもダークで内容が重い。
勿論見方や各々の心情解釈にもよるが、どう見ても明るい表現がされたものとは言い難い。
映像全般がMVと言うより、むしろホラー映画を彷彿とさせる構成(或いは映像の質感)になっている。
 


左腕に太い包帯を巻いた少女がホームビデオを片手に、クラスメイトがダンスを楽しむ様子を撮影して行く。その合間合間に一人の男性がクローズアップされ、その男性も少女の存在を意識している。
 


軽快で無機質なパーカッションが楽曲全体を先導し、極めて明るいメロディーとコードプログレッションで楽曲が進行して行く。

MVはと言えばNewJeansの5人が高校生に扮し、制服姿で学生生活をエンジョイする姿が包帯少女のホームビデオに収められて行く進行になっているが、高校生に扮するNewJeansの5人は殆ど少女とは目が合わない。
 


場面場面が日常生活にはあり得ないようなアングルを絶妙に捉え、ともするとそれは生きることへの絶望をも意味しているのではないか‥ と言う明確な表現へと突き進んで行く。
 


楽曲はとても明るくリズミカルだが、映像の空気はどこかこの世のものではないような匂いが立ち込めている。
ヒントがあるとすれば、楽曲冒頭から断片的に表れる女性の裏声のハミングではないだろうか‥。黄泉の世界から届くシグナルのようにその声はとても濡れて切なく、木霊を放つ亡霊のようでもの悲しい。
 


生命のよろこびとは真逆の世界を、NewJeansと言うハイティーンの女の子たちが無頓着に歌う様は、どこかお気に入りのマニキュアを乾かしている時の危険な風の匂いに思えて、途中からめまいがして心が重くなる。
気を失いそうになりながら、何度も何度も画面に触れながら動画を見進めて行く‥。

むしろこれまでに感じたことのないシュールな感覚‥ 例えばいきなり霊感が開花するような恐怖を沸き立たせ、中盤以降のMVの意味が各々の中で全く別のものにすり替わって行くように思えてならない。
 


そしてこの、壊れたホームビデオ機器の映像は一体何を言い表しているのだろうか‥。絶対に声にしてはいけない何かが、この映像の最も強烈なインパクトとなって動画全体を埋め尽くして行く。
 
少女にとって将来を絶たれた瞬間か、失恋のショックを表す心情なのか、或いは絶望か、それとも包帯の少女がこの世には既に存在しないことを表すこれは、ひじょうにネガティブなメッセージのように思えて、それがやがて確信を帯びて心を押し潰そうとするのだ‥。
 

 
アングルは益々ダークな内容へと加速し、草の陰から5人の内緒話を見つめるようなこの瞬間にまで到達すれば、恐らく誰もが良からぬメッセージを心に受け取り息を呑むに違いない。
 


最後の最後に登場するこの鹿だけが、真っすぐに少女と目が合っている。
日本では鹿は「神の使い」として象徴されるが、恐らくその辺りをこのMVでも間接的に表現したかったのではないだろうか‥。

このご時世。物騒な記述にはなるが今、ここに来て多くの人々の心身に異変が起きている。明日が全く見えなくなって来た。
若い世代の人たちが未来の見えない世界を生き抜くことは、これ以上の苦痛がないほどのあまりに悲しいサバイバルだ。
 
もういいよ、一緒においで‥。そう言っているように一匹の鹿と一匹の猫が現れ、少女の心を少しだけ解きほぐすのだが‥。
 

 
動画3:12辺りから、楽曲のないシネマ仕立ての後編が始まる。
少女の左手には包帯はなく、誰もいない部屋で少女は一人思い出のビデオを見始める。
その時のこの目が何とも言えず、重苦しい時間を飲み込んでそのまま凍り付いたように動画を見ている。

4:03から後は、恐らく亡霊が思い出を見つめる設定で撮影されたのではないだろうか‥。
思い出はいつもキラキラと輝いて、この世界に希望を感じられない者の心を締め付け、さらに人を絶望へと追い詰めて行く。
 

 
もしかするとこのMVは近日中に、問題作として広くメディアに取り上げられることになるかもしれない。

‥必ずしも楽しくワクワクする表現だけが作品とは言えず、言葉を持たない者の心を代弁するような、まさにこの動画のような作品があってもいいと私は思うのだが‥。
 

この記事の最後には、NewJeansの新作 ‘Ditto’ のMV – sideBの方を貼っておきたい。
映像監修はシン・ウソク (Wooseok Shin) 氏。