[音楽評論] “E penso a te” – Lica Cecato et Carlo Morena

毎週金曜日に世界の新譜が発信されるSpotify。私は酷く体調を壊し、数日間ずれ込んでおずおずと新譜を端から捲って行く。
 
今週は競合が音楽の軒を連ねているが、その大半が余り日本では知られていないアーティスト勢の新譜だ。
思えば9歳になるかならないか‥ と言う頃に既に私は世界の音楽に目覚め、AMラジオでその動向を追い始めてから一体今年で何十年が経過しただろう。
 
まさか50歳を過ぎてから音楽評論を始めるなどとは夢にも思わなかったがそれもこれも、きっと恩師: 三善晃氏の導きではないかと思っている。

タイトルの「E penso a te」はイタリアは Lucio Battisti が1972年に生み出した有名なカンツォーネで、カンツォーネを愛する多くの歌手たちにカバーされている。
今回はイタリア人ではなく、ブラジル人歌手: Lica Cecato のヴォーカルを背後からイタリア人ピアニスト: Carlo Morena がしっかりと支えて音楽を編み込んで行く。

歌詞は原語のイタリア語ではなく、恐らくポルトガル語辺りで訳されたものだと思われるが、小気味よく悲しげな言葉の響きが郷愁を誘う。

本国イタリアでは後に Fiorella Mannoia やカンツォーネの王者 MINA がカバーしている。
 

 

 
イタリア語から歌詞を簡単に和訳してみたので、ここに貼っておこう。
 

“A penso a te” (邦題: [ そして君を想う ]

仕事をしながら 君を想う
家に帰って 君を想う
彼女に電話していても 君を想う

どうしている? 君を想う
どこに行くの? 君を想う
視線をはずして彼女に微笑みながら 
君を想う

君が今誰といるのか知らない
君が何をしているのか知らない
でも確かに君の想いが伝わって来る

この街は大きすぎる
ぼくらのような二人には
望みはないけれど互いを探している 
探している

ごめん もう遅いね でも君を想う
君の影を追いかけながら 君を想う
ぼくは今の暮らしを 少しも楽しんでいない 
だから君を想う

闇の中で 君を想う
目を閉じて 君を想う
遂に一睡も出来ずに 君を想い続ける

 
これはあくまで私の解釈に過ぎないが、これは不倫や浮気などではなく(一見そう読み取れる箇所もあるが)‥、ひょっとすると同性愛者の苦悩を表現した作品ではないかと感じてならない。
 
本命のパートナーが居る身で「彼女」と「君」と言う別々の存在を同時に思うとすれば、それは二人の異性に対する同時恋愛ではなく、男が一人の女性と同時にもう一人の同性を愛する心情を描いた作品ではないか‥。

そう解釈しながら聴くと、この作品のこれまでとは違った側面が見えて来る。
日本人のカンツォーネ歌手の中にもこの曲をカバーして歌っている歌手をこれまでにも大勢サポート(伴奏)して来たが、上に触れたような解釈に触れながら歌唱している歌手には遂に一人も出くわさなかった。
 
音楽や歌詞は多方向からそれを見比べることで、これまでにはない新たな発見をすることがある。
だがこの作品「E penso a te」を不倫の歌詞から同性愛者の心情を切々と歌った歌詞として再解釈しながら聴き返すと、この作品の根底を脈々と流れて行く深く険しくいたたまれない表現の根源に触れることが出来るだろう。

それは言い知れない、そして目的の無いゴールに向かって走り続けている形のない魂に不意に触れてしまった後の後悔のように、リスナーの心情をも呆気なく変えてしまうかもしれない。

 
最後の「La La La La ‥」と果てしなく続いて行く言葉にならない言葉が数秒後には力尽きて行く様を私も受け止め切れずに何度も何度もこの曲を伴奏しながら、「どこで終着点を決めるべきか」について悩まされたか知れない。

それは私が演奏者から音楽評論家或いはリスナーに転じた現在も、変わらずに河のように心の奥深くにたゆたい続けている。
 

[音楽評論] “E penso a te” – Claudio Capéo

「E Penso A Te」はイタリアのカンツォーネ、Lucio Battisti の名曲中の名曲です。

作詞: Rapetti Mogol Giulio
作曲: Lucio Battisti

 

 
そもそもYouTubeとSpotifyで曲名「E Penso A Te」を検索して色々聴いていた中で、特にこの人 Claudio Capéo 氏のPVが妙に心に突き刺さりましたが、特にClaudio氏が推しと言うわけではなく、あくまで私が「E Penso A Te」を個人的に好きだった中の一つと言った方が適切でしょう。
 
かれこれこの作品を私が最初に知ったのは、確か東京都内の今はもう無いシャンソニエの「にんじんくらぶ」(Linkを貼ろうにも存在履歴自体がGoogleに残って居ない状態です)で「階見ルイジ」さん(この方もレコーディング作品が無い為、Link出来ません)が歌っていたのを聴いた時か、或いは日仏会館で当時定期的に開催されていたシャンソンの集いでやはり階見ルイジさんが熱唱していたのを聴いた時かの何れかでした。
 

良い作品に出会った時、私は必ず作品の原曲を聴くように心がけています。


その作品が再演者によって再解釈されたことでクオリティーを増しているのか、或いはそうではなくそもそも原曲のパワーが優れているのか‥。そこは絶対に見失わないよう気を付けています。

確か階見さんが歌っていた「E Penso A Te」の原型はRafのバージョンだったと、以前聞いたことがありました。確かにRaf、この曲だけ別人が歌っているように冴えてます。
 

 

 
原曲に出会った後はもう、原曲に忠実に表現を突き詰めて行くだけです。
とは言えもう、今の私は再現音楽や再解釈ものからは完全に遠ざかり、自らの作品が「再解釈・再演される側」に在る為、2011年の秋の終わりを機に再演作業を撤退し、現在に至ります。

その記念すべき、私の再演音楽最後の共演者が「階見ルイジ」さんだったことは、何か因縁めいたものを感じずには居られません。
私の直前の過去世がイタリア人だったことは、遂に階見さんには話さず仕舞いでしたが、それを仮に彼が知っても現状が変わっていたとは思えません。

結局後世に遺るものは、オリジナルの原曲とその原曲を生み出した人の名前だけだと言うのが今の私の結論であり、現に私の過去世のJ.S.Bachも楽曲だけがこの時代の音楽史に留まっているので、きっとこの結論に間違いは無さそうですね。

さて、この記事の最後に原作者 Lucio Battisti 自らが歌う「E Penso A Te」を貼っておきましょう。
注)トピックの原曲を貼り付けたかったのですが、YouTubeの規約で有料会員にしか動画が表示されないと判明し、違う動画をセレクトしました。

注目すべきはこの作品の後半の、ハミング(スキャット)が表情を変えながらループし続けるところかもしれません。
ただ声を張り上げ、盛り上げるのではなく、最後の最後でストンと歌手もリスナーも我に返されます。人の人生も恋も、最後の最後は孤独に回帰するしか無い、人間とはいかにもかなしい生き物だと言わんばかりのこの結末は、再演者の多くが案外見逃している重要なポイントかもしれません。

原作は、自分とはいかに崇高でありながらもいかに醜く哀れな存在かと言う現実を、まざまざと見せつけられるような構成になっています。
 

 
Spotifyのリンクも貼っておきます。
 

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