“GLASS TOMORROW” by 横山起朗 (お遊戯表現と日本のインストゥルメンタルを考察する)

毎週末の『世界の新譜チェック』が、今回は大幅に遅延した。私の体調不良に加え方々からの色々な問題に於ける質問や相談事が絶えることなく押し寄せ、相談者のいい加減な態度や体たらくな生き様等を見ているうちに私の側が怒りを募らせ、それが大きなストレスを生んでしまった。
余計な口出しをした私もいけなかったが、穏やかな私の口調が相談者のマインドをつけ上がらせてしまったことも又否めない。
 
反省だらけの週末に、これ又私の余り好きではない日本人のピアニスト (兼 作曲家) の放つ偽善者表現或いはお遊戯表現に、私の怒りはさらに過熱して行く。
 

往々にして日本人は大勢に “いい人に見られたい” と言う心情が働くようで、それが音楽や表現にも露骨に顔を出す。粛々と自らの道を行くことがとても苦手で、随所随所に “私ってこんなにいいことしてるのよ?こんなに努力してるのよ?” と言うマインドが顔を出す。それがとてつもなく鼻につく。
横山起朗氏の表現ももれなく上記のタイプにあてはまる。
 
所々良いパッセージも飛び出すが、直ぐに (良くない意味で) 素面に立ち返る。
もしかすると彼は、とても飽きっぽい性格なのだろうか?
一つ一つのテーマが持続しない。あっちを向いたりこっちを向いたり、何と言うか‥ 集中力が欠けているような印象を持つ。
 


最初に横山起朗の音楽を知った切っ掛けは、彼の SHE WAS THE SEA と言うアルバムだった。空間をたっぷり取ったTime、そして分かりやすいモチーフを連携させた、比較的メロディアスな楽曲が並んでいた。
 
何より近年流行りのアップライトのハンマー音をカタカタ言わせてそのハンマー音をわざとマイクに拾わせるタイプの “思い出ピアノ” ではなく、正規のグランドピアノの音質を存分に生かした音色が良かった。
 

 
アルバム “SHE WAS THE SEA” は全曲がとても素直な楽曲で構成されている。所々坂本龍一の影を感じさせながらも、水面下では足をバタつかせながらサカモトの影から必死に離脱しようとする、声にならない声がリスナーに届いて好感が持てた。
その後のアルバムは正直、殆ど印象に残っていない。そして今回の新譜 GLASS TOMORROW で私は彼の音楽と再会するが、楽曲の随所にペンライトを右に左に振るような幼稚な音楽性が顔を出すので、一曲を通して音楽に集中出来なくなるのが難点だ。

ふと、最近の西村由紀江の作品の方向性を彷彿とさせるのを感じたので念のため確認したが、やはり私のカンは間違っていないと思った。
韻と陽の違いこそあるが、アルバム構成や楽曲の配置等のタイプがこの二人はよく似てると思う。
 

 
ファンやリスナーがペンライトで表現者を鼓舞して応援するスタイルは、J-PopやK-Pop等だけで十分だろう。特に器楽曲は静かに目を閉じて聴きたいと思う。
なのでくれぐれも、器楽曲を作って演奏する音楽家や表現者は “客席から目視出来る方法でファンに応援して貰おう” 等と考えず、ステージに一人で出て来て一人で静かに去って行って欲しい。仮に誰の拍手を浴びることがなかったとしても、耳の奥で鳴りやまぬ音楽の残響をけっして壊さぬようにステージを立ち去って欲しいと、願わずにはいられない。
 
欲を言えば、ステージパフォーマンスそのものから足を洗って欲しい。
記録された音源だけをリスナーの手元にそっと置いて、顔もパフォーマンスも人目に晒すことなく空気の様にその場から消えて欲しい。その方が、音楽が音楽と言う形状を失うことなくそのまま空気中に残り続ける筈だから‥。