“3days of Charlie” – Arabesque Choche (表現と鎧と)

かれこれ2011年の大地震の直後からひっそりと応援しているArabesque Chocheは、チェコ人の父と日本人の母を持つ作曲家 兼 映像作家だ。そのArabesque Chocheが、ピアノの小品3曲をスクラップした小さなアルバム 3days of Charlie をリリースした。
 

思うにこの作品集は全曲生のグランドピアノで録音されたであろうに、最近流行りの「空間を狭く捉えてピアノのハンマーに徹底的に接近した音質を聴かせる “思い出ピアノ”」の音質で全曲まとめられている。
折角一定水準以上の演奏技術を持つ人なのに、どうしても彼は何かしらの小細工に偏ってしまう傾向が最近日増しに強くなっているように見える。
 
特に決まった定型のモチーフを決めないで作られたアルバム3曲は、何れアラベスク氏の妻であるjuliet HeberleのヴォーカルをTopに乗せた全くの別曲を、同じトラックから再構築する予定があるのだろう。だからピアノのパートはあくまでパートとして割り切って、マイナスワンのようにして完成させたような気もするが、実際はどうなのだろう‥。
 


Arabesque Choche とその妻 juliet Heberle は夫婦で Chouchou と言うユニットを、かなり長く続けている。私はアラベスク氏のソロ活動よりもChouchouとして紡ぎ出す彼の世界観の方が、断然好いと思っている。
アラベスク氏が単独で全面に出ようとするとどうしてもオレオレな空気が漂って、同氏がそもそもがソリストの気質を持たない人だけに、あれもこれも‥ 家じゅうのアクセサリーを一気に持ち出して並べてしまったような雑多な感触が楽曲を占有する。
 
逆に、妻 juliet の表現はか弱い声質からさらに雑味を徹底的に削ぎ落して、歌唱表現に徹している。彼女の声の響きこそか弱くて危ういが全体を通して音楽を俯瞰している分、表現の統一感がハンパなく優れている。
引きの芸術とも言うべきセンスが夫 アラベスク氏にごっそり抜け落ちている点は否めず、それは新作 3days of Charlie にも重く影を落としている。
たった3曲なのに素材がごちゃごちゃしていて無駄なパッセージが多く、あれもこれも‥ と多くのテイストを一曲の中に詰め込んでしまうから、お腹いっぱいになって若干胃もたれする印象が否めない。
 
最近のアラベスク氏は神秘主義に傾倒していると言う噂も伝え聞くが、アラベスク氏の肉声Live等を聴く限り、彼の持つ音声からは神秘主義の気配は殆ど感じられない。

音楽表現はむしろ徹底して素のまま、ありのままの方が好印象ではないかと思うのだが、やはり何かしら不思議系の鎧が彼にはどうしても必要らしい。それが逆に作品性を削いでしまう要因を作ってしまっている事に、何れ本人が気づくまで私は黙って視ている他なさそうだ。
 

“3days of Charlie” by Arabesque Choche

“GLASS TOMORROW” by 横山起朗 (お遊戯表現と日本のインストゥルメンタルを考察する)

毎週末の『世界の新譜チェック』が、今回は大幅に遅延した。私の体調不良に加え方々からの色々な問題に於ける質問や相談事が絶えることなく押し寄せ、相談者のいい加減な態度や体たらくな生き様等を見ているうちに私の側が怒りを募らせ、それが大きなストレスを生んでしまった。
余計な口出しをした私もいけなかったが、穏やかな私の口調が相談者のマインドをつけ上がらせてしまったことも又否めない。
 
反省だらけの週末に、これ又私の余り好きではない日本人のピアニスト (兼 作曲家) の放つ偽善者表現或いはお遊戯表現に、私の怒りはさらに過熱して行く。
 

往々にして日本人は大勢に “いい人に見られたい” と言う心情が働くようで、それが音楽や表現にも露骨に顔を出す。粛々と自らの道を行くことがとても苦手で、随所随所に “私ってこんなにいいことしてるのよ?こんなに努力してるのよ?” と言うマインドが顔を出す。それがとてつもなく鼻につく。
横山起朗氏の表現ももれなく上記のタイプにあてはまる。
 
所々良いパッセージも飛び出すが、直ぐに (良くない意味で) 素面に立ち返る。
もしかすると彼は、とても飽きっぽい性格なのだろうか?
一つ一つのテーマが持続しない。あっちを向いたりこっちを向いたり、何と言うか‥ 集中力が欠けているような印象を持つ。
 


最初に横山起朗の音楽を知った切っ掛けは、彼の SHE WAS THE SEA と言うアルバムだった。空間をたっぷり取ったTime、そして分かりやすいモチーフを連携させた、比較的メロディアスな楽曲が並んでいた。
 
何より近年流行りのアップライトのハンマー音をカタカタ言わせてそのハンマー音をわざとマイクに拾わせるタイプの “思い出ピアノ” ではなく、正規のグランドピアノの音質を存分に生かした音色が良かった。
 

 
アルバム “SHE WAS THE SEA” は全曲がとても素直な楽曲で構成されている。所々坂本龍一の影を感じさせながらも、水面下では足をバタつかせながらサカモトの影から必死に離脱しようとする、声にならない声がリスナーに届いて好感が持てた。
その後のアルバムは正直、殆ど印象に残っていない。そして今回の新譜 GLASS TOMORROW で私は彼の音楽と再会するが、楽曲の随所にペンライトを右に左に振るような幼稚な音楽性が顔を出すので、一曲を通して音楽に集中出来なくなるのが難点だ。

ふと、最近の西村由紀江の作品の方向性を彷彿とさせるのを感じたので念のため確認したが、やはり私のカンは間違っていないと思った。
韻と陽の違いこそあるが、アルバム構成や楽曲の配置等のタイプがこの二人はよく似てると思う。
 

 
ファンやリスナーがペンライトで表現者を鼓舞して応援するスタイルは、J-PopやK-Pop等だけで十分だろう。特に器楽曲は静かに目を閉じて聴きたいと思う。
なのでくれぐれも、器楽曲を作って演奏する音楽家や表現者は “客席から目視出来る方法でファンに応援して貰おう” 等と考えず、ステージに一人で出て来て一人で静かに去って行って欲しい。仮に誰の拍手を浴びることがなかったとしても、耳の奥で鳴りやまぬ音楽の残響をけっして壊さぬようにステージを立ち去って欲しいと、願わずにはいられない。
 
欲を言えば、ステージパフォーマンスそのものから足を洗って欲しい。
記録された音源だけをリスナーの手元にそっと置いて、顔もパフォーマンスも人目に晒すことなく空気の様にその場から消えて欲しい。その方が、音楽が音楽と言う形状を失うことなくそのまま空気中に残り続ける筈だから‥。
 

中森明菜 – 瀕死の黒鳥の歌声

数年前だったかファンサイトを立ち上げたままピクリとも新譜を出さずに居た中森明菜が、遂に活動を再開した。‥と思いきや、息も絶え絶えの瀕死の黒鳥の如く、全てが変わり果てていたので驚いた。
 
特に女性歌手の場合、女性特有の体調の変化で障害が発生しやすいことは百も承知だ。元々歌が上手な人であればある程、それは顕著に出やすいと言えるだろう。
松田聖子しかりNOKKOしかり飯島真理しかり、例外として八神純子のような圧倒的な声量を現在も保持しているケースも見られるが、往々にして女性は「ある時」を機に急激に声が衰えて行く。
 
中森明菜も例外ではなかった。
個人的に彼女の音楽性が余り好きではないので入念に明菜の音楽をウォッチはしていなかったが、2015年リリース作品の歌姫4 – My Eggs Benedictの頃には既に地声の音域の大半が裏声にひっくり返ってしまっていたので、この先の彼女の歌手人生もそう長くはないなぁと予想はしていたが‥。
  


それにしてもサポーターに一体誰が付いているのか、選曲だけは攻めて来る(笑)。
やめときゃいいのにサルサだロックだジャズだ、賑々しいバンドに弱弱しい明菜の声が乗るともうそれだけで、高温の天麩羅鍋の中に崩れ落ちたシュークリームのようで胸が苦しくなる。
 

2024年4月11日の、おそらく一日前に公式から放たれた「BLONDE-JAZZ-」の明菜の声は、例えて言うならば、息を吸いながら声を出しているような‥ マッチポンプ発声で聴いている此方が呼吸困難になりそうで苦しい。
 


誰かがおだてて彼女がそれに乗った。‥そんな光景が薄目を開けると見えて来るような動画だが、一体日々のトレーニングの状況はどうなっているのだろうか。
そんなことは一切お構いなしに、まさか好きなように怠けて生きて来たのではあるまいかと思わせる程、明菜の声の劣化は明らかだ。
 
所々エッジヴォイス風な何かで語尾を誤魔化そうとしているが、声帯が割れて乾いてしまっているのがむしろ、彼女がかなりマイクに接近してレコーディングしているからバレてしまう。
元々短気な性格なのだろうか‥、ワンセンテンスごとに違う音楽に聴こえる。全体としてのまとまりに欠けるし、各メロの連携が全く為されていないので、継ぎ接ぎだらけの乾いた生地のパッチワークさながらだ。
 


動画でバックを務めているミュージシャンはall Japaneseのミュージシャンの面々だが、アレンジもスッカスカで原曲が華やかだけにかなり侘しい印象を聴き手に与える。
 
つい最近飯島真理の直近の撮影動画、『愛・おぼえていますか』で腰を抜かしたばかりだったが、女性歌手は何故その年齢、その時のコンディションに適したアレンジや音域、表現に向かって行かないのだろうかと疑問に思う。
 


若かりし頃の声質が脳内ポップアップで回ってはいるが、実際に聴かされているのはそれとは程遠い別ものである点を、誰か指摘してあげて欲しいと思う。
私がプロデューサーだったら上の動画等、絶対に表には出させない。NGだ(笑)。
 

そんなこんなで私が今日一番びっくりした中森明菜の『TATTOU-JAZZ-』を、この記事の最後にご紹介しておきたい。
中森明菜の声は勿論ガッサガサだし、この曲に関してはバックのジャズ・アレンジもスッカスカで音楽には聴こえないレベルだ。
[Arranged by Mamoru Ishida (Pf.), Keisuke Nakamura (Trp.)]
 


あと口直し用に原曲の『TATTOO』をどうぞ。

( 作詞: 森 由里子/ 作曲: 関根 安里/ 編曲: 是永 巧一 )

音楽は何処から生まれるのか‥ (Where does music come from?)

普段は極力和製の音楽、特に黒玉のアタック音の衝撃だけで構成されたピアノ曲の試聴を避けているが、偶然先週末に原摩利彦の直近のアルバム『デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士 – オリジナルサウンドトラック』に触れ、まだまだ日本の音楽シーンも捨てたものじゃないと言う心境に至る。
 

先ず冒頭の作品を聴いて救われたことは、最近流行りのノスタルジー・ピアノの枯れた音色ではなかった点だ。
 
このところアップライトピアノの蓋を開け、あえてマイクをハンマーの近くまで寄せてカタカタと言うハンマーの動作を音源として捉えて録音する、実際には音楽には聴こえないものを音楽として配信しているピアニストが急増している。
この現象は現代人の未来への失望感を現しているように思い、楽曲開始から5~6秒で次の曲にスイッチを切り替えることが増えていた。
 


例えば上の楽曲もその一つ。
表現している人はこの音色に半ばのめり込んでいるようにも見えるが、聴く人を必ずしも幸福にする音色や音楽に聴こえないと言う観点が完全に抜け落ちているのではないか‥。
 
日本のみならず海外の “ピアニスト” と称する表現者の間でもこのノスタルジー・ピアノの音色で音楽を配信する人たちが後を絶たず、この現象は一種の音楽文化の衰退を暗示しているように、私には思えてならない。
 


そんな中、ようやく希望の光を見つけた。
勿論、原摩利彦の全ての作品が好いと言う訳ではないが、少なくともアルバム『デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士 – オリジナルサウンドトラック』はここ最近のピアノ系のサウンドトラックの中でも、群を抜いて秀作だ。
 
サウンドトラックと言えばこれまでは坂本龍一がその世界の第一人者のように語られていたようだが、サカモトの音楽は音楽としての独立性を持たない。映像ありきで作成されており、その大半が1分とか2分、場合によっては数十秒と言う中途半端なジングルで埋められており、一つの音楽として聴ける楽曲はアルバムの中に一曲か二曲もあれば良い方だ。
 
ジングルの欠点は、映像や映画のそのシーンと記憶を連動させなければ聴けない点にある。
単体の音楽として認識するには楽曲として未熟で未完成であり、そういう楽曲がずらりと並んだ作品集を音楽のアルバムとして認識するにはかなり骨が折れる。
 
坂本龍一の場合は映画や自身の顔をアイコンとして音楽作品にくっつけて販売(配信)している為、多くの彼のファンは音楽を聴く前の段階で既に「素晴らしいもの」だと洗脳の蓋を開けたまま思考停止に陥り、その状態でサカモトの顔アイコンを見たり妄想しながら彼の音楽に触っているから、個々の音楽を単体で聴く状況には至っていないのが現状だ。
 


思えば1980年代には既にクラシック音楽の主流が現代音楽へと移行しており、調性音楽を馬鹿にしたり「時代遅れ」の産物と認識する音楽の専門家がクラシック音楽界の過半数を占めた。
さらには調性音楽に於ける「メロディー」はもう出尽くした‥ と言うことを当たり前に口にする専門家も大多数居て、実際私も業界に居場所を失った。
 
美しい旋律や調性音楽を起点とした楽曲の作成に関わりたければ、ニューエイジやジャズ、映画音楽やCM業界ないしは歌謡曲やそれを初めとする軽音楽の世界に身を寄せる以外に出口が見つからなかった。
 
結局多くの音楽家志望の若い作曲家たちが音楽に未来も救いも見い出せず、時間稼ぎにゴーストラーターに手を染めたりスタジオ・ミュージシャンになり外国語の教材用のBGMでアメリカナイズなAOR的な音楽を多数レコーディングして糧を得る人たちも大勢現れたが、殆どのミュージシャン等は夢が叶わず枯れ落ちて年を取って行った。
 

音楽は宇宙からもたらされると私は思う。
この大いなる宇宙の闇の中に、音楽のヒントは無数に散りばめられている。
 
だが最近の多くの作曲家たちは、AやBを聴きながらそれに身の丈を当てはめて刹那的な世界観に自分の感性を漬け込みながら、「AとBを足したもの」を作り出そうとする。いつか、誰もが耳にしたことのある音楽を作り出さないと、発注者サイドが納得しないからだ。
そうこうしているうちに段々と音楽のパズル化が進み、音楽理論もクラシック音楽の基礎知識も何も無い人たちがパズル形式でメロディーを作り、それをエッジのきいた歌手に歌わせれば売れる‥ と言う勘違いの方が一人歩きを始めた。
 
だが実際にはメロディーラインもコードプログレッションもグチャグチャで、理論も美しさも何もない音楽がメディアや素人音楽ライターの美辞麗句で誤って飛んでしまうと言った、半ば放送事故のような状態が当たり前のように起きているのが現状だ。
 
歌ものの中にも良いものもあり、藤井風や椎名林檎等は未だ良い方だ。両者共に音楽に対するこれでもかと言う程の固執が見られるし、おそらく両者共に音楽の基礎教育を受けているだろうと言うことが傍目にも分かる。
だが宇多田ヒカルに至っては、メロディーも表現解釈も断片的で刹那的であり、彼女がただの七光りで音楽シーンに引っ張り出されたことの副反応が今頃になって、彼女の無教養なメロディーメイクに強烈に反映されて来た。
 


原摩利彦に話を戻そう。
勿論アルバム『デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士 – オリジナルサウンドトラック』が最高峰の作品集だ‥ とまでは言わないが、彼が誠実な音楽家であることはしんしんと伝わって来る。
何よりピアノの音粒と残響の使い方に、未来の光を感じずには居られない。
 
残響と言えば最近 Didier Merah がその片鱗を漂わせているが、彼女の作品の特徴として「頑固なまでにスローテンポの曲調を変えない」と言う点が挙げられる。
Didier Merahが生み出す残響のマジックはこの、徹底的なスローテンポから生み出されて行く。そして何より言語。
Didier Merahがもしもフランス人やスペイン人だったら、この様なスローテンポで残響同士を重ね合わせて響きを繋げて行くような音楽は生まれなかっただろう。
 
その辺りは又追々、別の記事で模索探求して行きたい。
 

残念ながら私はドラマの方の『デフ・ヴォイス 法廷の通訳士』を観なかった。
そもそも普段殆どTVを観ない生活にシフトしており、それに付け加え人が作り出したドラマに全く興味が無いのだ(笑)。
 
なので、このアルバム『デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士 – オリジナルサウンドトラック』がサウンドトラックとして作成されたことが、とても驚きだった。
アルバムの中には一曲の捨て曲もジングルもなく、個々がそれぞれ一個の世界観を表現した音楽として完成され、尚且つとても洗練された出来栄えだと私は感じている。
 

 
冨田勲 が日本のシンセサイザー・ミュージック界を大きくリードした時代はとうの昔に終わり、次世代の坂本龍一もこの世を去った。
アンビエント・ミュージックも細分化し、最近ではドローン・ミュージック等とも呼ばれるようになり、私も個人的にドローン系の楽曲を複数集めてプレイリストを作り、アカウントの事情でDidier Merah名義でプレイリストを放っている。
 
原摩利彦の作品も数曲その中にスクラップされているので、興味のある方は是非、Didier MerahのSpotifyチャンネルをフォローして、お目当てのプレイリストを探してみては如何だろうか。
 
本記事の最後に原摩利彦の最新アルバム『デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士 – オリジナルサウンドトラック』より、ピアノの音色が美しい M-1: Coda、そしてM-12: Enigma Ⅱ の壮大なドローン・ミュージックの2曲をピックアップしておこう。
 

 

夏の思い出 (“Old Folks” – Chris Botti を聴きながら)

私は自身が作曲をし、それをピアノを通じて表現する人。なので再現音楽の類いを好まない。
時々あっいいな‥ と思う人、例えばダイアナ・クラールとかキース・ジャレットとかそういう人の演奏や表現には徹底的に心を持って行かれるが、それ以外の再現音楽奏者には殆ど興味が無いのだ。
 

久々にChris Botti (クリス・ボッティ) のジャズを聴いた。と言うより、クリス・ボッティが遂にジャズを演り始めてしまったか‥ と言う失望の方が感動よりも完全に上回っている。

かつてはポップスやフュージョン等をグイグイ演奏していた音楽家が年を重ねて、気力体力が追い付かなくなって来ると決まってジャズメンに転向するのは何故だろう。
オリジナル曲を持っているのにその再演を回避して、多くのミュージシャンたちがジャズを歌い奏で始める度に私は、一人の音楽家(作曲家)として落胆する。
 

最近はそれまで大好きだったヴァイオリニストのLucia Micarelli (ルシア・ミカレリ) がヴァイオリンを脇に置いてジャズを歌い始める始末だ。それがけっして上手ではないし良い声質と言うわけでもないのにドヤ顔で歌い切る姿はどう見ても、器楽奏者と言う脇役の負のループからの脱却を狙っているように見えて辛くなる。
 
 

 

そんな中、まさかのクリス・ボッティのジャズらしいジャズがリリースされたので、もしかするとクリスも今後ジャズ・トランペッターに段階的にシフトして行くのではないかと正直不安になった。
 
私が大好きだったのは、あのStingとのコラボの “La Belle Dame Sans Regrets” を悲しげに吹いていた頃のクリス・ボッティだった。
リリース時期を調べてみたら、2004年だ。つまり今日から遡ること19年前のクリスが、私の中では最高の音色を出しているように思う。ざっと計算するとクリス・ボッティが41歳の時の音が、程好く尖がっていて程好く花びらが散り始めたような、そんな印象が強い。
 
 

 
先日久々に「売り物」の音楽やそれを制作している素晴らしいプロデューサーに接して、色々なアイディアを出させて頂くと言う貴重な体験をしたばかりだ。
勿論私が売り物に関わる時には、私自身の音楽は一切出さない。自分のことは自分が一番よく分かっているし、私は自身の作品に於ける他者の「ダメ出し」を絶対に許さない。
 
神さまからのギフトにケチをつける人は居ない。それと同じ話。
私の音楽は一人の人間が作ったものではなく、おそらく神々の思いやアイディアが私の中に降りて来てそれを再現していると認識しており、作曲者は私であって私ではないと思っているから。
 
昨年秋の終わり頃から或る記事を機に先方のマネージャーや通訳の人と繋がり、それが段々と発展して世界的なミラクルへと繋がって行った。
 

私自身の音楽性もデビューの2009年からかなり変容(変化)した。
私の中の本物を見つけるのに、少なくとも4年から5年は経過しただろうか‥。自分の中に自分を見つけた後はさらに無駄を削ぎ落して削ぎ落として‥ の繰り返しだった。
勿論私自身も少しばかり年を重ね、もともと運動神経が良くない私が今さらショパンのスケルツォやリストの「ラ・カンパネラ」など弾けるわけでもないし、その必要すら全くなかった。
 
運動神経で奏でる音楽ではなく私は、美しい残響に残響を重ね合わせるような、そんな音楽を目指している。
既に9歳の時に過去世の音色を思い出して、気付いて、その音楽に向かい始めていた。当時ピアノの教授らには「ペダルが汚い」とか「もっと細かくペダルを踏み替えなさい」等と何度も注意された。だがそれでは大聖堂で響いて来るような荘厳なピアノの音色など再現出来る筈もなく、私は他の同年代の学生たちに次第に置いてきぼりを喰らいながら、私の記憶の中に在る音楽をずっと一人で探し続けていた。
 

年老いたからと言っていきなり既存のクラシック音楽を弾くなどもっての外で、気付けば私は最初っから、百年後の自分に捧げる音楽を作っていた。
 
未来はその時間、その時点に到着しなければ分からないことが沢山あるかもしれない。だが私は9歳の夏に、今の自分をおそらく知っていたように思う。
私を常に奮い立たせてくれるものがあるとすれば、それは「自分と世界の音楽家とを比較する貪欲な精神」だった。それが小さな町の酒場での演奏の瞬間であっても私は、その瞬間を録音しては心に鞭を振るい、「もっと世界の真ん中へ行け!」と自分を叱咤し続けた。
 
 
ものの真ん中を見た人ならば分かると思うが、真ん中は常に空洞で人っこ一人居ないのだ。比較する相手も居ないし、私が今心に思い描いている音楽と同じ素材を作る人も存在しない。
真ん中とはそういう場所だ。

 
 

 
リスナーとしての私の中の「真ん中」に居た筈のクリス・ボッティが、気付けば脇道を歩み始めている。彼が彼自身の音色を放棄してジャズと言うカテゴリーの中に収まることに、クリスは何を見い出しているのだろうか。
 
勿論未だにクリス・ボッティの音色は美しく清らかであることに変わりはないが、音楽や表現手法を老いさせる世の音楽家の一人になり下がって欲しくないと言う私の願いは、もしかすると叶わないかもしれない。
 

 

 
そんなクリス・ボッティとヴァイオリニストルシア・ミカレリが共演した「Emmanuel」の中では、二人それぞれの頂点の音が記録されている。2009年、クリス・ボッティが47歳の時の音楽は既に5年前の華やかさや煌びやかさを失い始めているものの、今のクリス・ボッティよりも音色が澄んでいて憂いがあったように感じてならない。
 

人は誰しも老いて変わって行き、いつかは土に還って行く運命に於いては万人が平等だ。
私にもいつかその時は訪れるが、出来ることならば私が残響の音楽に気付いてそれを思い出した9歳の夏の自分を失わずに居たい。
 

この記事の最後にクリス・ボッティが2023年8月にリリースしたシングル『My Funny Valentine』の2曲目にトラックされている、此方も有名なジャズのスタンダード・ナンバーの『Old Folks』のYouTubeを貼っておく。
 
 

 
 

音楽評論 “The Song Is You” – Rava, Enrico / Hersch, Fred

昨年暮れから個人的な生活環境の変化で何かと忙しくなってしまい、暫くの期間音楽評論記事も書けていませんでした。
転居が挟まり自宅のパソコンではなく新居に持ち込んだノートパソコンで日々の作業をしている為、未だしっかりと音楽を聴ける環境が整備されていません。
 
今日はそんな日々の合間に一時的に旧宅に戻り、操作しやすいデスクトップで作業をしています。
新曲の構想を練ったりリハビリを兼ねて鍵盤に触れたり‥ と色々課題山積の中、この記事を書いています。
 

“The Song Is You” – Rava, Enrico / Hersch, Fred

 
思うところがあり、表向きは当面お休みを頂いていた「世界の音楽 / 新譜チェック」ですが、実は自分自身の感性のブラッシュアップを兼ねて密かに続けていました。
ですが特に世界的に新型コロナウィルスの陽性者の人数が右肩上がりになってから、良質な楽曲に出会う確率が激減しています。
 
目立って配信曲数が目立つジャンルを挙げるならば、作成が意外に楽なチルアウトミュージック系、Lo-Fi系、そしてカバー曲の配信等でしょうか‥。
 
この記事のアートワークは久々にスケールの大きいジャズ・アルバム「“The Song Is You” – Rava, Enrico / Hersch, Fred」。
フレッド・ハーシュは1955年10月21日 生まれ、アメリカ在住の66歳の現役ジャズ・ピアニスト。
エンリコ・ラヴァは何と御年83歳、イタリア出身のジャズ・トランペッター。
 

 
先に申し上げておきますが、私はジャズと言う概念もジャズ自体も好きではありません。
あの何ともムズカシそうに考え深げな表情で実は「え~っと、えっとえっと、え~っと‥」みたいに迷いながらアドリブを探る状況には、ほとほとむず痒さ以外の何も感じられません。
 
このアルバム『The Song Is You』の冒頭の作品Retrato em Branco e Pretoで一瞬だけ瞬殺された私でしたが、2曲目辺りから胃もたれを誘発せんばかりのムズいアドリブに苛々しながらも、やはりイタリアものに弱い私は結局ズルズルと最後まで後ろ髪を引かれながら一先ずアルバムを完走しました(笑)。
 
‥と言うのも、フレッド・ハーシュの上品なコード・プログレッションはなかなか素晴らしく芳醇で、退屈さの中にも一寸先の展開を見逃すことが惜しくて結局「えっとえっと‥ え~っと‥」的なエンリコ・ラヴァのアドリブに嫌々渋々とは言えないほのかなスリリングを求めながらアルバムに引っ張り回されました。
 
フレッド・ハーシュがマイルス・デイヴィスの音色に触れたことが切っ掛けで、トロンボーンから思い切ってトランペットに楽器を持ち替えたと書かれているように、アルバム全編のどこかしこにマイルスの黒い輝きが見え隠れしますが、ともすると土臭さだけが先に立ちそうなトランペットを繊細なパイ生地で包み込んで行くようなフレッド・ハーシュの解釈は圧巻でした。
 

  
残念ながらアルバム “The Song Is You” で最も楽曲が冴え渡っていたのは、冒頭曲のRetrato em Branco e Pretoだけでした。
 
楽しみだったラスト曲の『Round Midnight』に至る残り全曲が迷走するように音楽が刹那的であり、そこに私の大嫌いな現代音楽の「ヒョロ~ン!ピロ~ン!ガッチャ~ン!」みたいな非論理的かつ暴力的な音の断片が乱用され、折角の冒頭のメロディアスで理知的な流れは完全に叩き割られたまま、脱輪車両が崖から落ちる寸前で止まったようにアルバムが終了した感は否めません。

現代音楽を愛好する人達の多くが「音楽の権威主義者」だと私は思っており、そんなこと(一種の自己満ごっこ?)は仲間内だけでやって欲しいと常々感じていました。
権威を袈裟に着させて音楽が美しくなるなどある筈もなく、音楽はただ無垢で純粋で美しくメロディアスでノスタルジックな音の最小限の粒に託すだけで十分なのです。
その意味で私はジャズと現代音楽に対しては、同じボルテージの嫌悪感を感じるわけです。
 

音楽に戦争と葛藤は不要です。
ショパンが今一つ庶民に愛されない理由もそれに似ており、冒頭の美しいメロディとノスタルジックなコードで織りなす音楽を展開部でいきなり始まる「戦闘モード」で叩き割る作風が、リスナークラスの音楽愛好家には全く嫌悪されていることにはそろそろ専門家や音楽評論家等には気付いて、その旨発信して頂きたいところです。

 

Enrico Rava & Fred Hersch

 
と言うわけで、この記事の最後にアルバム『The Song Is You』のSpotifyのリンクを貼っておきます。
私の音楽評論と重ね合わせながら、各々の感性でお楽しみ頂ければ幸いです。
  

“Mare Nostrum III, JazzBaltica 2019 Official Live”から読み解くアカデミック・ジャズの在り方

その昔私は “和製 シャンソン & カンツォーネ” なる業界に平然と君臨し、分不相応とも知らずにかなりの鼻息で威張り散らしながら生きていた。
たかだか伴奏者の端くれだと言うにも関わらず、当時はその業界では全ての老舗に出番を確保した‥ と言うだけで、天下を取ったみたいな勘違い甚だしく、今となってはとても恥ずかしい限りである(笑)。

だがその時代は私にとって闇と空白の時代でもあり、仕事中の休憩時間になると寸暇を惜しんで近くのCDストアーを駆け回り、その日その週その月にリリースされた多くの海外の音楽の見本盤を聴き漁り、気に行ったCDは必ず購入して行った。
 

Verginメガ・ストアーズ 新宿店、渋谷は世界の民族音楽を扱っていた “エルスール・レコード“、HMV渋谷店TOWER RECORDS 渋谷店新星堂 吉祥寺店、新星堂 新宿店‥、この他にもまだまだ沢山のCDストアーを駆け回り、伴奏が本業だったのかそれともCD探しが本業だったのかすら分からなくなる程音楽と言う音楽にのめり込んでは片っ端から聴き倒して行ったものだった。
 

 

和製ジャズ業界が当時から余りに体たらくだったことが原因なのか、私は兎に角ジャズが大っ嫌いだった(笑)。
何でもかんでもテキトーにスイングさせればそれで良し‥ みたいな馴れ合い感覚にどうしてもついて行けず、少しずつジャズとは距離を置くようになった。
シャンソニエでジャズ歌手と出番がアタってしまう時程憂鬱なものはなく、兎に角一曲が最短のタイムで終了すれば良いとさえ思っており、アドリブパートも極力短く最低限の長さで終えられるよう歌手に「私、アドリブが出来ないので‥」と嘘を言いソロパートを回避出来る限り回避したものだった。
 

業界の中に居るとどうしてもその世界の欠点だけが目立って視えるようになってしまうもので、当時の私もそうやって多くの音楽を拒絶しながら生き長らえて来たのだろう。

その業界を離れてしまえばなんってことのない些細な粗がどうしても許せなくなり、結局キューバン・サルサもタンゴもボサノヴァもジャズもシャンソンも、何一つ愛せないサポート・ピアニストに進化したまま2011年の冬の或る日、同業のカンツォーネ歌手にこの世界に入って最大の嫌がらせを受けたことが原因で業界を完全撤退した。
  

 
折角シャンソンと言う世界に深く入り浸っていたのに、その業界でかなり身近に居たボタン・アコーデオン奏者の 桑山哲也 氏とも余り上手く交流が出来ないまま今日に至るが、その理由がこの記事のテーマとなるYouTube Mare Nostrum III (Paolo Fresu, Richard Galliano, Jan Lundgren) – JazzBaltica 2019 Official Liveを聴いた時にようやく理解出来た。
 

 

彼等3人の紡ぎ出す芳醇で上品な音色を前に、日本の全てのアコーデオン奏者の存在は簡単に吹き飛んでしまうだろう。
あれだけ嫌いだったアコルデオンの音色がこんなに美しく心に響く日が来ようとは、想像すらしなかった。

Richard Galliano(リシャール・ガリアーノ)のシンプルかつ上品なコニャックのようなアコルデオンの音色は、私の古傷を少しだけかすりながらその傷跡の上に「希望」と「癒し」のテーピングを施して行く。
 

 

Mare Nostrum III (Paolo Fresu, Richard Galliano, Jan Lundgren) – JazzBaltica 2019 Official LivePaolo Fresu, Richard Galliano, Jan Lundgren の3人で奏でられるシンプルなジャズ・コンサートを収録した動画だが、私は彼等の音色をあえて『アカデミック・ジャズ』と命名したい。
 

楽曲の全体をヨーロピアン・ジャズの空気が覆っているが、それは最早ジャズと言う喧噪の生み出す産物を超えて、超絶なアカデミズムに裏打ちされた品行方正なクラシカル・ジャズと言っても過言ではないだろう。

そういう正統派のジャズが日本には殆ど見られなかったことで、恐らく私のようなジャズ嫌いが多く現れたのではなかろうかとさえ思われる。
『ジャズ=煙草と夜と喧噪と迷いと葛藤が生み出すアンダーグラウンドな音楽』‥ 等とは思いたくないのだが、どうしてもそのようなイメージが付き纏わずにはいられない大衆音楽のいちジャンルと言う歪んだ価値観は、彼等 Paolo Fresu, Richard Galliano, Jan Lundgren の音楽の前ではかなぐり捨てなければならない。
 

 

そもそも「スウィング」と言う、ジャズ独特の演奏形態の定義がとても曖昧であり、日本人ジャズ奏者の多くが「ダウンビート」の亡霊に日夜悩まされ続け、結局ダウンビートがネイティブに感じられないコンプレックスとの戦いに明け暮れる羽目に陥っているようにも見て取れる。
だが、この考えこそが現在の和製ジャズ業界含む世界のジャズ観を歪めている大きな要因であり、表ビートのスウィングであってもそれは紛れもないスウィングだと言って、ジャズの神様の誰かがその概念を是非赦すべきだと私は思っている。
 

スウィングとはそもそも「揺れる」と言う語源を持つ言葉であり、その揺れ方を一個の表現スタイルに限定した価値観が蔓延している方こそ変なのだ。
縦に揺れようが横に揺れようが、斜めに揺れようが‥ その人の感ずるままに揺れれば良いだけの話しだ。
だが、これが「ジャズ」と表現形態が限定された途端に2拍目と4拍目にアクセントを持たせなければならないと言う制約が生じる為、ネイティブの英語圏以外のジャズ奏者たちがダウンビートの、まるで舟が沈みそうな揺れ感覚に共感出来ずにどんなに苦しんだことか‥(笑)⛵
 

 

それにしても Paolo Fresu の何とも上品な音色と相反する、どこかチーターを思わせる野性味にはタジタジするばかりである。
まさに「役者が揃う」とはこのことで、他の、何となく舞台に演奏者が揃って「カッコよくジャズってやろう」等と言う無駄な野心が全く見られない。
まるで大学で講義でも始める前の独特の静寂が彼等と会場を包み込み、授業の代わりのように「正しい音楽」「正しいジャズ」が厳かに始まる光景は見ていてただただ神がかっている‥ としか言いようがない。

薬品も音楽も「正しく取り扱う」に限る。

 
ところで彼等が放つ “Mare Nostrum” はシリーズで音源化されており、全部で3枚のアルバムがリリースされている。
折角なのでここにその3枚を一気に貼り付けておきたい。

 

 

 

 

この際「どれが一番良いですか?」等と言う野暮な質問はなしにして(笑)、時間の許す限り全部のアルバムを是非聴いて頂ければと思う。
 
兎に角どれも良いが、最もシャンソンを感じるのは Mare Nostrum III ではないだろうか。
ま、私がフランス音楽が大好きなので、Mare Nostrum IIIを聴いているとどこか古巣に帰って来たような、 懐かしさを感じてならないのかもしれないが。
 

 

最後に。

音楽も薬も、定められたとおりの用法・用量を守りましょう。

と言うことで、宝塚の劇歌にもあるように私も「清く正しく美しく」をモットーに、これからの創作活動及び音楽評論活動を継続して行きたいものである。

 

  

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音楽とスピリチュアル

ここのところの急激な寒さで体調が若干優れず、今日(2022年1月24日)月曜日は朝からほんの少しだけ部屋の掃除を済ませた後はこのSNS 【note】を巡っていた。
音楽評論、そして音のライターとして今後の自分のスタンスをもう少し明確にしたい‥ 等と考えながら、次のアルバム制作のことやその原案、そして音楽評論家及び比較音楽学者としての執筆のスタンス等についても思いを巡らせ、そうこうしている間にあっと言う間に朝は過ぎて行った。

考え事をしたい時に限って、人からのお誘いが絶えない(笑)。だが今日会える人とは今日会っておきたいと最近は考えるようになり、極力お誘いにはお断りは入れないようこれでも努めている。
 

そんな折、待ち合わせ場所に先に到着した私はやはりスマホをポチポチと触りながら、ふと‥ 気になっていたワード「スピリチュアルジャズ」について調べてみると、どことなくそれらしい文献を書いている人の記事に遭遇したが、どうにも記事の内容には納得が行かなかった。

https://note.com/elis_ragina/n/n17f9a89aeae0

 

それもその筈で、私は芸術家とスピリチュアリストを兼ねて仕事をしている、恐らく日本ではただ一人の人材ではないかと思う程スピリチュアルには深く精通しているのだから、上記の記事に異論を感じても致し方ないのだ。

 
そもそも【スピリチュアル】と音楽とを掛け合わせるには両方のスキルを習得している必要が生じるが、未だ私はそのような人を見たことが無い。
なんちゃってスピリチュアルの域に在る人ならば数名見聞きしたことはあるが、それもあくまで「なんちゃって」のレベルを出ない(有名人含む)人達なので、ここでの名前の列挙は控えておきたい。
良からぬ霊的な呪詛を仕掛けられても割に合わないので‥(笑)。
 

音楽は音楽、スピリチュアルはスピリチュアル。仮にその両方を掛け合わせて行くのであれば、私はその人達に両方のスキルをそれぞれ確認したい‥ と思う。
ムードやイメージ、印象操作のレベルのスピリチュアルで音の聴き手を威嚇するような音楽家に限って、ろくなものではない‥ と私は思っている。
 

あ。。あの黄色い髪をした人や、大食い系霊能者のことではないですよ(笑)

 

記事スピリチュアルジャズって何? – カマシ・ワシントン以降、多用されるキーワード”Spiritual Jazz”のこと に書かれていた「スピリチュアルジャズ」の定義はあくまで音楽そのものの話しではなく、その名称を立ち上げた人達の言葉が綴られているに過ぎない。
既存の文献の文字を追ってそれを二次創作し、それらしく綴った記事なので、読んでいてピンと来なかった。

少なくとも「スピリチュアルジャズ」と言うのであれば、そこに何かしらのシャーマンにも通ずる要素があれば良いのだが、該当記事に掲載されているYouTube等を端から捲って行っても全てが「ただのジャズ」にしか聴こえないし、ジャズと言うだけあって都会的なノイズの洪水と行き当たりばったりなアドリブだけが展開される、音楽としては未熟としか言いようのない音源ばかりが掲載されている。
 

🐬
 

ところでKamalと言う、(多分ドイツ出身だと記憶しているが)スピリチュアル系のアンビエント・ミュージックを多く手掛けるアーティストをご存じだろうか?
1990年の後半から日本でも「精神世界」や「スピリチュアル」熱が過熱し、日本中の至るところで「すぴこん」(現在は「スピマ」に改名)が開催され賑わいを見せていた頃、私もそんな奇妙な世界の一員として音楽家とは別の名前でその界隈をブイブイ言わせて活動した時期があった(笑)。

当時は度々表参道や渋谷辺りの天然石店やアロマオイルの店舗や、或いはオーラソーマショップ等に足を運んだものだった。
そんな折、オーラソーマのワークショップ中に出会ったのがKamalQuiet EarthReiki Whale Song等で、その頃流行っていたビート系の音楽とは一線を画していたので直ぐにのめり込んだ。
 

LAと東京を諸事情で度々往復していた時期とも重なり、私自身がPTSDを患っており心を深く病んでいた。
視えない世界に未だ経験が余り無かった私が唯一音のスピリチュアルに傾倒し、中でもこの人Kamalの生み出す癒しの音色がとても好きで、CDでさえ傷だらけになる程何十回も何百回も聴き込んだものだった。
 

 

基本的に「音楽」に「スピリチュアル」をくっつけて活動する人に対しては私は懐疑的であり否定的だが、Kamalに関しては彼の持つ潜在的なスピリチュアルの力を信じるに至った。
彼の音楽がそれを物語っており、あえてここでは分かりやすく「スピリチュアルな人」を Kamal と言うアーティストをリンクさせて記載してみたが、彼の作品に「スピリチュアル」の文字が仮に無かったとしても十分に、彼の音楽からは尽きることのないスピリチュアルを感じ取ることが出来る。

 
ところで私の思うスピリチュアルジャズについて一つだけ補足するが、そもそも「ジャズ」とは、迷いと葛藤と反骨精神が生み出す音楽(ジャンル)であり、とても現世的な音楽だと私は認識している。
酒、タバコ、夜の店‥ 等を連想しやすく、スピリチュアルが提唱するところの不確定要素の共通項を探すとしたら、それは際限のない「アドリブ」に集約されるだろう。

だがそのアドリブもヒトの脳内の迷いが音楽に転じた信号に過ぎず、えっとえっと‥ え~~っと‥ と言う結論に到達出来ない音符のループ以上でも以下でもない。
出来ることならジャズからアドリブが無くなったらどんなにすっきりするだろうかと、私はいっつもジャズを聴く度に苛々したものだった。

料理に例えると分かりやすいが、料理とは予め完成形があるところからスタートするから、その料理が完成する。
調理を開始してから暫くして炒めて、煮て‥ と言う過程でもしも完成形に変更が生じてそれでも優れた料理に辿り着くとしたら、それはかなりの料理の達人の域に在る人に限定されるだろう。
音楽も同じである。
 

ジャズとは現場の再現性に多くを託される音楽ジャンルであり、上記で少しだけ触れたシャーマンと「ジャズと言う現実」とが合わさることは通常殆ど無いと言っても良いだろう。

仮にアンビエント・ジャズ‥ と言う定義をここに持ち出せばその可能性はゼロではないが、記事スピリチュアルジャズって何? – カマシ・ワシントン以降、多用されるキーワード”Spiritual Jazz”のこと で書かれている「スピリチュアルジャズ」の音楽(説明含む)自体は普通のジャズ以上ではないので、これ以上の解説は割愛する。
 

 

さて、この記事の最後に Kamal の作品の中でもう一つ、私が好きな作品を貼ってこの記事を終わりにしよう。
アルバムShamanic Healingは1999年にリリースされており、私は最初このアルバムを恐らく当時頻繁に往復していたL.A.の、メキシコ人が経営するタロットカードやワンド、天然石等を販売しているショップの中で聴いたと記憶している。

不可思議なお香の匂いと煙が立ち込める店内と言う、現実離れしたシチュエーションが功を奏したのかそれとも否か‥、兎に角このアルバムの醸し出すシャーマニックな音色が当時の私の心の病(闇)に深く刺さった。
今でもあの瞬間の衝撃を、私は忘れることが出来ない。
とても良い思い出として、今は当時の自分を穏やかに語れるようになり、同時にこのアルバムを当時とは又違った視点で聴くことも出来るようになった。
 

本当に素晴らしいアルバムなので、是非リラックスして聴いて頂ければ幸いである。
 

 

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My Season will come soon

 

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さながら枯葉のように燃え尽きながら、私は一足先にこの夏を彷徨い続けていた。
色々なことが立て続けに私の身に起きたが、それは他言の出来ない出来事ばかりで目まぐるしく私の生活を包囲した。

だが私には夫が付いている。私の身に起きる多々の悪しき出来事を彼は誰よりも早く察知し、そして確実に私を救い出してくれる。常に冷静で、尚且つ頼もしい人だ。

 

アルバム『Wa Jazz』が無事にリリースの時を迎えられたのも、彼が居てくれたからこそ、である。

今回『Wa Jazz』についての文字解説や音楽解説の補足は、一切出して居ない。音楽は説明書きで理解するのではなく、先ず感覚に降りて来るイメージをリスナーには大切にして頂きたいと言う、これも私の密かな願いであり意図でもあるとご理解頂ければ幸いだ。

 

冒頭にもお伝えした通りこの夏の私は悉く体調と気分の不調に見舞われ、殆どブログも書けずSNSにも余り顔を出せず、時折知人とこじんまりとメッセージのやり取りをする以外の多くの時間を眠って過ごした。

眠っている間の私にも、ミッションは付き纏う。むしろ眠っている間、感性が他の世界にスイッチしている時の私のリアリティーの方がとても強いと言っても過言ではないが、かと言ってそういう話を知人とは共有しないことに決めているので、このブログを書くタイミングも大幅に遅れてしまった。

 

Wa Jazz』を注意深く聴いて頂いている方々は既にお気づきだろうと思うが、これまで世界には一つと存在しない和の音楽の新しいかたちがあのアルバムの中で実現した。
日本人の音楽家として必ず為さなければならないこと、日本のモード、和声その他編曲面で、『Wa Jazz』の中に託された可能性は無限大である。

 

勿論アルバム全体には一つのストーリーが流れているが、それは文字で補足するよりもリスナー各々の中に降りて来る映像やインスピレーションに委ねたい。

 

 

溶け落ちるような夏がもう直ぐ終わり、やがて私の季節がやって来る。
それまでの時間をこれまでよりももっと静かに厳かに、そして慎重に過ごして行きたいと今強く願って止まない。