‘SPAGHETTI (feat. j-hope of BTS)’ by LE SSERAFIM (르세라핌)

ショパン国際ピアノコンクール関連の記事が未だ未完成ではあるが、毎週末の禊である「世界の音楽/ 新譜チェック」は絶対に欠かせないので、昨夜から聴いた数千曲の中でもひと際目を引いたLE SSERAFIMの新譜『SPAGHETTI』の表現評論その他を此方のブログに抜粋して書いておきたい。
それ以外の音楽紹介及び音楽評論記事は、サブブログディディエ・メラの音楽倉庫に格納しているので、是非そちらをどうぞ。
 

https://didiermerahbox.wordpress.com/

 
さて、最近やや勢いが止まりつつあるKPopから、LE SSERAFIMが一歩飛び出したような印象がある。新譜‘SPAGHETTI (feat. j-hope of BTS)’ のM/Vを見る限り、グループとしてまとまった感+宮脇咲良と末っ子ウンチェの描き方が突出して良くなった印象を受けた。
 
この曲 ‘SPAGHETTI’ はラップ部分が多く、これまで何かとヴォーカルの格差が目立っていたLE SSERAFIMの短所が綺麗にカバーされている。
又メンバーの数名が短く髪をカットし、特に宮脇咲良の表情に芯が出て来たのが印象的だ。
キム・チェヲンホ・ユンジンの二名が突出してヴォーカル力及び表現力を持っている為、両名になかなか追い付けずに居た他のメンバーがネット上でファンダムに叩かれる現象が後を絶たなかった。
そもそも人の能力にはデコボコがあるからこそそれが個性となって輝いて行く筈が、多くのファンがそれをネガティブ要因として捉えていたのはやはりHYBEの戦略ミスによるメディアのイジメ体質の誘発とも言えるだろう。
 
新曲 ‘SPAGHETTI’ 、楽曲も悪くない。
 

 
作詞/作曲にはj-hope宮脇咲良ホ・ユンジンの名前がクレジットされているようだ。

NewJeansのユニット名には「老若男女、誰からも愛される新しいジーンズのように」‥と言う名前の由来があったようだが、LE SSERAFIMの新曲 ‘SPAGHETTI’ を例えるならば「誰でも好きになるスパゲッティーのように‥」みたいな一曲と言えるだろう。
 

途中のj-hopeのラップや抜き出し方もジャンキーながらもなかなか切れが良くて、ジャンク嫌いの私でさえも楽しめる。
 

 
個人的には宮脇咲良のショートヘアが気になって、そればっかり視ていた気がする(笑)。
今回のM/Vでは咲良のショットも多く使用されており、隠れファンとしては非常に嬉しい。
 
最近色々不穏な噂がささやかれているHYBEだが、噂とは裏腹に意外に元気そうではないか。
HYBE Latinの新しいボーイズグループ「サントス・ブラボス」がデビューを間近に控えていると言う話もあるが、そちらは (これはあくまで直感ではあるが‥) 余り上手く行くような気がしない。
 


やはりKPopは韓国の産物であり、それを筋肉ムキムキの韓国 (日本含む) 以外の汗臭さ満載の外国籍のアーティストが歌ったり踊ったりしても、さほど面白くはない。
それはKATSEYEが全く面白くなかったのと同様で、今はNewJeansの活動休止の穴を複数のKポアイドルグループが埋めているような状況だと言えるだろう。
 
その中で、LE SSERAFIMは比較的頑張っている方だと思う。
 

 
この記事はこれで終わりだが、他の音楽評論記事のリンクも一部載せておきたい。⇩
 

 

 

 
毎週末に更新しているSpotifyのメインのプレイリストのリンクは此方から。


この記事で紹介したLE SSERAFIM の ‘SPAGHETTI (feat. j-hope of BTS)’ は、以下のプレイリスト Romantic Seoul 2025. 1. M-86に格納しています。


予言 – Kpopの破滅

 

ひとつの文明が終焉を迎えようとしています。

栄枯盛衰。
その文明の樹立が偽造や搾取によって為されたものだとすれば、必ず終わりを迎えます。

やがてKPop全体が荒地となり、何も棲息出来ない広大なスペースが忽然と現れます。
文明の痕跡さえ残すことなく、そこは永遠の荒野となって存続し続けるでしょう。

LE SSERAFIM “KAZUHA”の表現と美声

私、Didier Merahは3月12日から14日まで、思い出の地 箱根に小旅行に出掛けていた。SNS用のプロフィール写真を1枚でも撮影出来ればと思いきや、現地は物凄い花粉の渦‥。
度重なるくしゃみの影響で、遂に二泊目の夜にこともあろうにギックリ腰を発症し、今日に至る(笑)。
 
まぁ箱根の旅について書きたいことは一旦棚上げし、昨夜YouTubeで聴いたばかりのLE SSERAFIMのKAZUHAの上品な表現と歌声に、私は完全に痺れている。
ここ数年はNewJeansを色々な方法で応援していたが、一連の事件が日に日に表面化して来る毎に彼女たちの人間性にも活動形態にも強く失望し、付け加え私の予知ではKポップ産業全体が近い将来衰退するだろうと察知しており、そろそろKポの推し活も潮時だろうと思っている。
そんな私を、Kポ産業で活躍している日本人女性の歌声の火球が直撃した🌠
 

 
YouTubeでコンスタントに配信されている『リムジンサービス』は、キャスターのイ・ムジンが好きで時々視ているが、今回のKAZUHA特集には痺れた。
 

 
何より選曲が良い。
冒頭の『Impurities』をピアノ一本でキメて来る辺り、KAZUHAの音楽性と教養の高さをモロに見せ付けて来るではないか。楽曲の大半を裏声を使って表現して行く様は、歌曲アリアを歌う手法に寄せており、動画後半でイ・ムジンがその旨を突っ込んで解説している。
そもそもKAZUHAがバレリーナを志していた女性と言うこともあり、クラシック音楽に精通していたことは当初から感じて居たが、彼女の、特に「声」の表現が身体表現を楽に超えて来た辺りは同じ日本人として心から誇りに思う。
 
楽曲が進み、私を完全に痺れさせたのが『Angel』27:11~ だった。
これは韓国ドラマ『ボーイフレンド』の劇中歌として数年前に流行ったそうだが、丁度私は自身の音楽活動が過熱して来たタイミングと重なりこのドラマを未だ視ていないが、原曲も良曲だ。
 

 
勿論原曲『Angel』も最高だが、KAZUHAのカバーが原曲を超えて来たところが圧巻だ。
彼女がもしも日本からデビューしていたら、彼女本来の能力はここまで発揮 (評価) されなかっただろう。そう思うと、日本の音楽文化水準の低さに腹立たしさを感じずには居られないが、やはり神はKAZUHAを放ってはおかなかった。
 
ただ、残念なことに今回のLE SSERAFIMのカムバック曲Come Over他‥ が何ともチープで情けなくて、音声を切った状態で映像だけを観ているとどこかストリップ性の高い下品な内容に見えて来る。そこに今回の『リムジンサービス』が体当たりでバッティングして来たことで、聴衆がどちら側の現象を真実として吸収して行くか、或いはKAZUHAの真の才能はどちら側の側面に潜んでいるのか‥、その辺りの評価の分断に対しては幾ばくかの危機感も感じてはいるが‥。
 

音楽的なことを付け加えるならば、『Angel』はどこかEnnio Morricone (エンニオ・モリコーネ) の名曲『シネマ・パラダイス』にも通ずるテイストを持つ楽曲だ。
名曲へのリスペクトがさらなる名曲を生み出したと言っても、過言ではないだろう。
 

 
何れもクラシック音楽のエッセンスを存分に含んだ楽曲を、バレリーナを志していた女性 KAZUHAがヴォーカルでカバーして行く流れは、偶然を超えた必然だ。
複数の奇跡が同時進行で動いて行くこの瞬間瞬間の出来事を、多くの人たちがありふれた出来事として見過ごして行くのが、音楽家である私にはただただ悔やまれる‥。
 

この記事の最後に、LE SSERAFIMのレパートリーの中で最も私が好きな曲『Impurities』のMVを貼っておきたい。
動画は原曲のバージョンにアクティブな映像がくっついているが、むしろ本記事の冒頭に貼ったKAZUHAのセルフカバーの方が音楽的に優れている。
 

 

ここからはほんの余談である。
私の法律に携わる家系に生まれているが最近、YouTubeチャンネル進撃のコ弁を運営する、コ・サンロク弁護士の活動に強く触発されている。
両者は方向性も手法も勿論全く異なるが、意図するところがとても近い。そして何より法解釈の緻密さに於いては、右に出る者は居ないだろう。
 
私は法の専門家ではないので適切な表記からは外れるかもしれないが、コ・サンロク弁護士の法解釈は既存の解釈は判例を法の解釈によって覆して行く可能性を感じており、それが私の音楽活動に大きな (ポジティブな意味で) 打撃を与えてくれる。
辛うじて両者が同じ星に同時に存在している事も、ただの偶然とは思えない。

Hearts2Hearts ‘The Chase’ – 新たなる挑戦状

SMエンターテイメントから5年ぶりに輩出された韓国のガールズグループ “Hearts2Hearts” が、デビューEP “The Chase” をお披露目した。
ざっと楽曲を聴いたところこれまでのKPopにありがちな音でもなければ、NewJeansの劣化版と言う感じでもない、若干風通しの良いサウンドが展開された印象を持った。
 
それもその筈。作曲者欄には二人のイギリスのソングライター等の名前が表記されている。
 

Lauren Faith: 作曲/ 編曲/ プロデュース 🇬🇧
Hannah Yadi: 作曲 🇬🇧


EPには2曲が収録されており、先にタイトルチューンの “The Chase” がMVでYouTubeから配信されている。だが私はタイトル曲 “The Chase” よりももう一曲の “Butterflies” の方が個人的には好みだ。
 


印象としてはやはり華の薄い8人と言う感じだろうか。皆そこそこ美人で顔立ちは整っており、声質もヴィジュアライズも上手く整えて切り揃えられているが、兎に角誰一人突出したものを持ち合わせていないのがかなり大きなデメリットとも言える。

楽曲面で印象的に感じたことは、冒頭からずっと継続する同じベースライン (オルゲルプンクト) の上にグラデーションで移り変わるコードプログレッション‥。
さらに本曲ではコーラスパートがかなり細かく組み立てられており、どこかしこにマイケル・ジャクソンが多用したコーラスワークを感じ取ることが出来て、聴く人が聴けばそこに懐かしさを感じる作りになっている。
だが、それだけなのだ、良くも悪くも。
 


SMエンターテインメントが満を持して粛々と準備を整えて、NewJeansに逆風が吹き始めたタイミングで世に放った8人‥ と言う意気込みは感じられるものの、特に突出した「売り」や方向性が感じられないのはやはり、素材の華の無さゆえなのだろう。
 
先行シングル曲 “The Chase” の背後には先に書いたようにマイケル・ジャクソンの吐息の他に、ケイト・ブッシュや Robbie Nevil のエッジを想起させる音列が見え隠れする。恐らく “The Chase” を作曲した作曲家両者が強く影響を受けたのが、その時代のサウンドではないかと推測出来る。
 


特に “The Chase” のコーラス部分を聴いてふと思い立ったのが、マイケル・ジャクソンの “Blood on the Dance Floor” だったが、皆さんはどう思われただろうか?
 


むしろここまで想像や憶測を膨らませた後にあらためて “Hearts2Hearts” のデビュー曲 “The Chase” を聴くのは、かなり危険だ‥(笑)。
私は既に脳内でマッチングシステムが発動してしまったので、比較・検証の衝動を止められなくなっているが、そのマインドで“The Chase” を聴くとただただ緩くて緩慢で、食い足りなさ以外の何も感じることが出来ない状況だ。
 
まぁ”Hearts2Hearts”の方はマイケル・ジャクソンのダンサブルなテイストからごっそりエッジを抜き取った「お花畑ダンス・ミュージック」なわけだし、なにせKPopと言うジャンルの中に一先ず収まった状態で世に放たれたわけだから、ストイックに出来栄えを世界の最高峰に底上げすること自体無謀な話であるが‥。
 
“The Chase” を聴く限り、SMエンタ側は恐らく “Hearts2Hearts” をKPopの籠の外に羽ばたかせようとしているように、私には感じてならない。グローバルKPopとも言うべき企画なのか‥、もしもそうだとしたらそれは余り上手く行かないだろう。
とは言えSMエンタの技術をもってすれば、作りに作り込めばそれも可能ではないとは言えないが、かなり無謀な挑戦だ。
 

 
付け加えるならば、“The Chase” のMVの冒頭に突如映し出されたアルパカの画像、NewJeansのファンダム「Bunnies」に対する挑戦状のように見えて来る。
“Hearts2Hearts”のファンダムがまさか「Alpacas」‥ とか言うネーミングにならないとも限らず、可愛い動物たちがこうしてKPopのライバル争いに巻き込まれて行くことは本意ではないのだが、どうも私の予感はこれまでもかなり高確率で的中して来た経緯があるので、不安が尽きない。
 

本記事の最後に、“Hearts2Hearts”“The Chase” のパフォーマンス動画と、その下にSpotifyのEPのリンクを貼っておく。

(※この記事を綴っている最中にマイケル・ジャクソンのBlood on the Dance Floorをリピートで聴いてしまったことを今、痛く後悔している。)

 

 


関連記事:

“Bubble Gum” – NewJeans (思い出作りの始まり)

2024年5月に正式にリリースされたNewJeansの “Bubble Gum” は、日本では同年3月に某シャンプーのCM曲として世界で最初にお披露目された。
私の記憶が正しければ、日本で最初にこの楽曲が紹介された時の歌詞は大半が日本語で構成されていた。だがその後 (ヘインの怪我により) 4人でパフォーマンスされた時には、その部分がごっそり英語と韓国語に変わっていた。
 

 
この曲も冒頭はハニ (Hanni) のヴォーカルでスタートするので、楽曲が華やかに聴こえる。
そもそもこの曲に関してはさほど派手な曲ではなく、NewJeansの持ち曲としては地味な部類かもしれない。ミディアムテンポでメロディー構成は緩め。

とは言えPVのインプレッションは強く、きらきらと光る波に相反してNewJeansのメンバーが古びたフィルムに映り込んだ思い出のシーンのように表現されているので、むしろもの悲しさを感じてたまらない気持ちになる。
この独特なもの悲しさを見事に映し取ったミン・ヒジンの才能を、あらためてまざまざと感じた作品だった。
 

既にこの頃からADOR 対 ミン・ヒジン、ADOR (HYBE) 対 NewJeansの戦いは始まっていたが、むしろ私が気になったことと言えば、丁度この頃からミン・ヒジンもNewJeansの5人も大きなステージを意識した活動に固執し始めたことの方だった。
大舞台でスポットライトを浴びて、そこに大勢のファン (バニーズ) 等の声援が飛ぶ独特な環境は、その後の彼女たちの精神を急速に蝕んで行ったように思う。
 

 
ミン・ヒジンの海を切り取った映像は、抜群に美しい。

彼女は時を超えてここに来た存在だ。それは彼女自身すら気付いていない真実かもしれない。
だが別の映像を見た時に、私は彼女の転生に気が付いた。その事を勿論本人は知る由もないが、今のミン・ヒジンを見ているとかえって自身の魂のルーツを知らないでいる方が良さそうな気もする。
 

傲慢な言動、闇に堕ちたと言っても過言ではないミン・ヒジンの最近の言動は、歪んだ自信に基づくものかもしれない。その過信を脱ぎ捨ててしまえばそこに才能の輪郭だけが浮き彫りになる筈だが、もう時すでに遅し‥。
思い出ノートは全て書き終えた。
丁度この作品 “Bubble Gum” がリリースされた頃からNewJeanz (ミン・ヒジン含む) の思い出作りが加速し、東京ドームのコンサートで彼女たちはその頂点を迎えたようだ。
 

日本の5人と韓国の5人、‥それぞれの形で彼ら自身も終焉を間近に控え、各々の音楽業界やメディア等全てを巻き込みながら、世界が急激に変わろうとしている。
この曲の “Bubble” ~風船のように、それは高く高く上がって行くがいつかどこかで割れて壊れてしまう。その残骸はあとかたもなく波間のやわかな泡となり、押し流されて、いつかひっそりと海の底で眠りにつくのだろう。
 

“Ditto” – NewJeans 🇰🇷 (PVに隠された暗示)


2022年12月19日にYG PLUSを通じてADORから配信された、NewJeansの大ヒット曲。
最初ヘインのスキャットを経て、Aメロの冒頭をハニ (Hanni) が担当する辺りはどこか、今の世情とは異なり明るく希望に満ちていて健康的だ。

それまでのKPopのガールズ・グループの陰鬱かつヒール (悪役) のイメージを、この一曲が完璧なまでに塗り替えた。
この曲の出現でKPop界隈は、二度と『NewJeans以前』には戻れなくなったと言っても過言ではない。

一方このPVの演出はどこか不穏が隠れており、特に ‘Ditto’ Official MV (side B) には死の影を思わせる演出が随所に施されている。
(※監督: シン・ウソク)
 
NewJeansの各楽曲のサウンドメイクの特徴は、重たいドラムを使わない点だ。
一説には当時のNewJeansの楽曲選びの際、ミン・ヒジン氏からは様々なリファレンスの楽曲が提示され、その大半が日本のシティーポップだったと言うから、NewJeans以降の新しいKPopの原点はJPopだと言っても過言ではないだろう。
 

ダイエットをしない。
緩いダンスで誰にでも踊れそうな振付が付いている。
高音を地声で張り上げない、声帯に負担のない発声でメンバーが交互に歌って行く。
楽曲とは一見無関係な可愛い衣装が多いが、何を着てもNewJeansカラーに仕上げて行く。

何よりコロナ禍の最中に一曲につきかなり多くのPVがリリースされ、引き籠り族を存分に楽しませる企画が活きていた。

 

その後、NewJeansはこれまでには類を見ない攻め方をして来た新世代のガールズグループとして一世を風靡する直前で、残念ながら既存の「ファンの目線とステージライトを浴びてパフォーマンスを行う」だけの、至って平凡なKPopガールズグループに転落して行った。
 

現在のNewJeansは「ADORと契約解除をした」と言い張り、独自の活動を行うニュータイプのアーティストの体 (てい) を取ろうと必死になっているが、最近では (ADORの旧CEO) ミン・ヒジンのタンパリング疑惑が表沙汰になり、闇深いミン・ヒジンの洗脳でがっつりマインドを拘束された彼女たちはもはや自力で暴走を止められなくなった。

曲が作れるわけでもなく、振付を生み出せるわけでもなければ各々がタレント活動以外の音楽の基礎を持たないのであれば、彼女たちはそう遠くない日に大衆から忘れ去られて行くだろう。

私は元バニーズだったが、今は違う。社会のルールを守らずに身勝手な状況解釈によって暴走し続けるうさぎは、いつか必ず高い崖の上に追い詰められて行くことになる。

まるで ‘Ditto’ Official MV (side B) に描かれている「学校の屋上から落ちてこっぱみじんになったビデオカメラ」がそれを暗示するようで、仮に彼女たちがいずれ莫大な損害金を背負うことになったとしても、シン・ウソクが描いたこの曲のPVが現実にならないようにと祈るばかりだ。

 

 

 

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注目曲 “Countach” by 轟はじめ

K-Popの終焉を目前に、2025年1月12日 午前零時に不思議な楽曲がアップロードされた模様だ。
 

『Countach』 by 轟はじめ
Vocal & Choreography (振付): 轟はじめ
Lyrics: 浦島健太
Composed & Arranged: 山元祐介
Mixing Engineer: 片山博文


K-Popのヒール (悪役的な‥の意味) なメロディーメイクに、アラビックなサウンドトラックが折り重なる本作品。
ここで既存のK-Popであればエッジヴォイスを合わせて、より強烈なヒール性を演出するところだが、轟はじめはなんとほぼ99%エッジヴォイスを使わずに歌い切っている。むしろエッジヴォイスを使わない歌い方が、聴き手に新しい時代を感じさせる。

歌唱表現のみならず、作詞/作曲/サウンドトラックも秀逸だ。
作詞を担当している浦島健太氏の名前には見覚えがあり調べてみたところ、なんとあの欅坂46の 『アンビバレント』を作曲している。楽曲そのもののテイストは『アンビバレント』と『Countach』共に同質とみることも出来るが、歌唱表現の点で轟はじめが首一つ二つ勝っていることで、 両方を比較すると『Countach』の方が作曲技術の進化をより色濃く感じ取れる出来栄えだ。
 


サウンドトラック面 (編曲) も良い出来栄えで、通常このテイストのサウンドトラックにはダブステップが必要以上に乱用されることが多いが、『Countach』ではダブステップのエレメントをかなり制御した使い方をしているのが特徴的だ。ダブの持つ独特の汚しや不潔感を軽快に回避した音作りに徹しており、他のダブステップに比べてマインドが汚染された感じがしない。
コード進行もほぼワンコードで構成されており、あっちこっちに意識が引っ張り回されない分、聴いていて疲れない。


一方メロディーメイクの点に於いては同じようなフレーズをリフレインさせながら、各コーラスの最後で一気に一オクターブ音域を上昇させて行く箇所が魅力的だ。
轟はじめも無理なく、最高音の『F』まで余裕で声を上昇させる。地声を張り上げるでもなく、かと言って裏声に完全に声質を変えることもなくその中間の声質で逃げ切るでもなく、普通に音域を締めくくって行く辺りはなかなかのテクニックだ。

私はダンサーではないのでダンス評論はここでは行わないが、最近のK-Popのキレッキレのダンスに辟易しているところにこのサウンドの上に比較的緩~いダンスを無理なく乗せて行く轟はじめの振付センスは流石としか言い様がない。
見ている此方も息切れすることなく、尚且つ歌いながら踊るに無理のない振付けで意外にハイスピード感を出して行く轟の振付センスに、キラリと光るものを感じる。

まさにK-Popの夕暮れと同時に東の空に煌々と輝く夜の朝日を見ているような、不思議な現象はまさに神がかりとしか言い様がない。
 

これまで私はこの種の二次元VTuberと言う領域を回避していたが、この楽曲の出現は希望と次の音楽シーンへの可能性を強く感じさせてくれた。
VTuberで二次元と言う点が今後どう作用して行くかは私には読めないが、この楽曲に於いては間違いなく売れると見ている。

K-Popの侵食で疲れ切った多くの音楽愛好家たちに、新たな開眼の切っ掛けを与えてくれるに違いない。
 


サウンドトラックonlyのバージョンも貼っておきます。
 


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ディストピアへの警鐘 – ‘Love wins all’ (IU with Taehyung)

諸々の事情で音楽活動を緩めていた韓国のディーヴァ IUが帰って来た。
2024年1月24日、新曲 “Love wins all” のPVも世に放たれた。

最初に綴っておくが私はこの種のレビューや音楽評論を書く際に、巷の解説や音楽ライターや映像評論家等のレビューを事前に読まないことに決めている。その為他の人たちとは若干異なる内容を書くこともあるかもしれないが、そもそも表現に回答等存在しない筈だからそれで好し。
それが私の考えなので、先に述べておく。

前述を踏まえた上で、ここからの私のレビュー(音楽評論及び表現評論)をお読み頂ければありがたい。
 


物語はディストピア世界に舞台を移し、そこで生き残った二人の男女にスポットを当てて進んで行く。
彼等の最期まで、そう長い時間は残されてはいないだろう。演じる女性はIU、男性はテヒョン(BTSの ‘V’)だ。女性は声を持たず、男は片眼が視えないと言う設定だ。その二人が廃墟と化した会場で空想上の人生最後の結婚式を挙げる。
 
黒いタイツに身を包んだ大勢の人々が途中登場し、結婚式上を盛り上げて行くが、韓国通のサイトではこれを「ネトウヨを表現したものだ」等と取り上げている。だが、私にはそういう風には視えない。
つい先日まで黒タイツの人々は生きていた、男女二人の友人や家族たちだったのだろう。
 
動画冒頭にも登場する四角い箱は、この世から自由とそれを謳歌しようとする生命と魂の全てを駆逐することをミッションとし、この世界の侵略を進めて行く存在。愛し合う男女二人も、死の箱の標的だ。
 
劇中のテヒョンの手に握られた小さなビデオデッキは、幸せしか写さない。ビデオデッキの中には色彩が生まれ、廃墟に色と光と愛し合う男女の笑顔と生気が灯る。
男女二人にとって、この世の最期を記録するやさしい相棒だ。
 


劇中テヒョン演じる男性は、視えている方の目でビデオを覗き込む。そこに彼女が写り込み、そこからPVは二人の人生最期の結婚式へと進んで行く。
 
こういう時の幸せの描写は一瞬だ。
四角い死の箱が間もなく標的の二人を捉え、箱のミッション通りに男女二人の生気を奪い取って行く。
そしてそれが二人の最期の証しのようにビデオには最期の瞬間までが写し撮られ、生気と肉体を消滅させられた後の二人の衣服だけが廃墟の衣服の残骸の山の中へと吸い込まれて物語は終わる。
 

 

“Love wins all”
singer: 아이유(IU) アイユー
作詞: 아이유(IU)
作曲 & 編曲: 서동환
映像監督: オム・テファ

 
映像及びストーリー性は一個の映画を観るような壮大さをここまで湛えているにも関わらず、一歩俯瞰して楽曲及び音楽作品単体に焦点を当てようとすると、どこか月並みで「可もなく不可もなく」しいてはわざわざIUに奏らせなくても良さそうなクオリティーであることに、誰もが気付くだろう。
 
勿論テヒョンに於いては声も出さずセリフもなく、ただ彼の表情だけが粛々と描写されるのみ。だがこの動画の中のテヒョンは繊細でか細くて情けなくて、兎に角最高だ。
勿論IUの歌唱力は申し分なく、高音の描写も際立って美しい。
にも関わらず、兎に角楽曲が良くない。それだけがただただ残念としか、もはや言いようがない‥。
 

今私はこの記事の背景にSpotifyで音を出して楽曲を何度もリプレイしているが、映像のインパクトが余りに凄いので楽曲がどうだ‥とか、もうそんなことはどうでも良くなっている。
つまりは楽曲が全く耳に入らないし、残らないのだ。
ある意味この作品はPVとしては大成功で、「その程度の楽曲」でも大きな成果を叩き出すことになるだろう。
 
でもこのブログの読者の方々ならば、そこで終わらないと私は信じたい。
このブログの読者ならばきっちりと、最後まで、一個の音楽に対する自身の熱量とジャッジメントを下し結論を出すところまで手を抜いて欲しくないと、私は願わずにはいられない。
 


さて。この動画を視た方々は恐らくお気付きだと思うが、これが単なる物語上の設定を超えて、現実世界で今現に起きていることを代弁した内容であることに震え上がったのではないだろうか。
 
勿論色々な考えがあるので私はあえて思想の統制を図る意図はないと前置きを述べた上でここに書かせて頂くと、これは現在の地球上に実際に起きている出来事ととても符合していると思っている。
 
某ワクチンの危険性を予め知らされることなく、一部の富裕層の中で方向付けられた「人類削減計画」が粛々と進められている。
地球人の大半はメディア洗脳が完成された状態なので、TVやCMで言われていることにまさか間違いなどないだろうと思い込んでおり、情報操作が個人の自由を奪い去った世界の中で出来得ることを先ず良心的に考えようとする。
その結果、これだけ多くの人々が、治験中の危険性きわまりないワクチンを「みんなで打てば怖くない」の精神で接種してしまった。
 
その結果、多くの犠牲者が出ており、2024年の現在の超過死亡数が大変なことになっている。
 

話を戻すとこの動画の最後に真っ赤に燃え上がるような「四角い死の箱」は、人類の「血」を意味する描写ではないかと私には思えてならない。
 


全てのヒントは、意外にも日常生活の近くにそっと置かれている。
エンターテイメントの中にもそれはあり、常々頭を捻りながら、日常の些細な現象に敏感かつ疑り深く生きることが身についていれば、小さな現象の変化或いは未来からのシグナルも、きっと見逃すことはないだろう。
 
勿論文学や映像、音楽の中にもシュールなヒントが沢山隠されている。

音楽家が仮に神秘主義者だったとして、それを露骨に世に放てばその表現者は世の反感を買うことにもなりかねない。場合によっては獄中に放り込まれる、そんなことにもなるだろう。いわゆる魔女狩りだ。
だから音楽家や映像作家、詩人や作詞家、画家等に及ぶ表現者やクリエイターたちは、こうした危機感をそっと作品の中へ偶然を装って投影し、その作品に触れる人たちの感性に揺さぶりを掛けて行こうと必死なのだ。
 
‘Love wins all’ も例外ではない。
なのでこの作品 ‘Love wins all‘ が楽曲として未完成だとしても、私はそれをただジャッジメントするだけに留めたくはないと思い、この記事を綴っている。
 
最後に動画本編を掲載したい。
各々の思いを心に留めながら、観て頂ければ幸いだ。
 

[音楽評論エッセイ] Night Tempoを分析する – K-Pop plus New渋谷系

最近CDショップが軒並み閉店続きで、先日新しくデジタル楽器を購入しようと都内某所の山野楽器の閉店時間を調べようとしたら、該当のショップが既に閉店していることを知って唖然とした。
記憶が合っていれば既に10年程前から、都内のCDショップの多くが縮小を繰り返しており、銀座の山野楽器本店もほぼ楽器売り場しか残っていない状況だ。
 
AKB48が握手券込みで複数パターンのCDを乱売し始めた頃から、日本の音楽シーンは目に見えて混乱期に突入し始めた。丁度その頃海外発祥の音楽サブスクリプション “Spotify” が海外ではじわじわと着火し始め、日本は一歩二歩出遅れてSpotifyが解禁となった。
 
Spotify初期に日本国内でSpotifyに堂々音楽配信を開始したのが、坂本龍一(故)と今メキメキと新しい音楽シーンを開拓中のDidier Merahの二人だけだった。
他の多くの邦人ミュージシャン等は「権利」と「利益」を重要視し、その結果さめざめと物理CD販売に執着し続けた。だがその一方で市場は粛々と縮小傾向を加速させ、今では実店舗自体右肩上がりの閉鎖閉店の嵐だ。
 

 
最近「アナログ盤」‥ つまり昭和で言うところの「レコード」盤の旧作再販が復活の兆しを見せていると言う話を方々から伝え聞くが、おそらくそれはCDショップの実店舗の閉鎖閉店の嵐の副反応のような現象だと私は感じている。
 
わざわざ元の音源に汚しを加えた音楽を、さらに「アナログプレイヤー」と言うしち面倒臭い機材で針を落とすと言う手間暇をかけて、今の若けぇもんの誰が聴きたがるだろうか。
殆どのリスナーが、良い音質で音楽を聴きたいに決まってる。なのでアナログ盤の旧作再販の小さな嵐は言ってみれば、ちょっとした小さなつむじ風程度のブームで終わるだろう。
 

そんな折り、やはりお隣韓国のNight Tempoがアルバム『Neo Standard』を引っ提げ、CD、アナログ盤、勿論サブスクリプションからの配信を含む色々な媒体から配信を開始したようだ。
  

 
嗚呼‥ この人又韓国ネタで攻めて来たかと溜め息をついているそこのアナタ!
それ程隣国は強敵なんだと認識して頂きたい。
日本の音楽も音楽シーンも、間もなく沈没します。私は日本人の血を引きつつ同時に外国の血も入り混じる「過去世 巫女」であり予言者なので、殆どの出来事は私の思うように流れて行くのです。
 

Night Tempoの新譜『Neo Standard』で特徴的なことがあるとすれば、以下の二点。
 

・ヴォーカルに日本の歌謡曲世代の中年以降の歌手をセレクトしていること。
・殆どの楽曲がNight Tempoのオリジナルであり、尚且つその曲調(曲風)が日本は昭和のシティー・ポップの流れを踏んだ二次創作であること。

 
これをやられたら多分、多くのその当時の音楽を愛して来たリスナー層は涙腺を徹底的に攻撃されるだけで、為すすべもないだろう。
勿論私も、このアルバム全編を通じて大好きだ(笑)。
一つビックリしたのは数ある昭和の歌謡曲の女性歌手陣の中に「鈴木杏樹」が混じっていたことだろう。本当にこの人、Night Tempoと言う男は色々よく調査していると感心する。
 
日本人は殆ど知らないと思うが、鈴木杏樹は「Kakko」と言う名前で全米をブイブイ言わせていた時期があった。
知らなかったでしょ。今の彼女のイメージとは違って、バリバリの英語の歌を何曲かリリースしていたので、私も1996~2000年頃に渡米していた時には何度もカーラジオで聴いたものだった。
 
その辺りを今さら引っ張り出して来るNight Tempoと言う黒船が、地味に地味に日本の臍を攻めて来る。アルバムに参加した殆どの女性が彼、Night Tempoに賛辞を送り、最早日本国内の作曲家陣は放置プレイと相成っているようだ。
 
同アルバムにはこのブログでも先日触れた中山美穂の『Ninna Nanna』も収録されている。私の推しはやはりミポリンだが、渡辺満里奈や渋谷系の元祖、野宮真貴も捨てがたい。
 

 

 
丁度さっきまで週末恒例の「世界の新譜チェック」をひっそり開催していたが、このところヨーロッパ勢が影を潜めている。おそらく例の注射の影響と、異常気象や天変地異の影響がそこに折り重なっているのだろう。
 
私は外出の際にはマスク派だが、なるべくマスクを着用しないで済むようなロケーションを選んで生活をエンジョイしている。
外出をして「マスクなんてしないぞ!」と叫んでいる人たちを見ているとただただ滑稽で、何を無駄なマッチポンプをやっているのかと侘しくなって来る。
人に文句を言っているそこのあなたも、文句を言っている相手と同じ穴の貉だと気付きなさい!と言いたくなる。
 
音楽は室内で楽しむ娯楽にシフトしつつある。室内で楽しむ音楽とは何か‥。その心地いいツボを、Night Tempoは熟知している。
だが、ここで負けてはいられない。
 
 
サブスク先人の日本人アーティストの坂本龍一(故)やDidier Merahの功績がこれ以上無駄にならぬよう、日本人アーティスト達にはもっと頑張って戦って欲しいと思うが、今のところは上に書いた二人のうち残る生存者が国内の音楽シーンを牽引して行くに違いない。
 
良い戦いを展開するには先ず、敵をよく知ることだ。これは全ての戦に通ずる。そして何より人智を超えた力を発揮する為の土壌を、自ら耕して構築することだ。
私がこのブログ上に多くの隣国を含む海外アーティストの秀作を臆することなく紹介している理由は、日本の今の腐敗した音楽シーンの水底の泥を一掃し、新しい知識と新しい戦術をもって国内の若いアーティスト達の小さな芽を守ること、それに尽きる。
 

私は世界中、古今東西の全ジャンルの音楽を熟知し、さらにそれらを年じゅう分析し続け、そして新譜情報や音楽理論のアップデートを毎日繰り返している。
おそらく無敵だ。
デビューや音楽の方向性に行き詰った若い音楽家たちの、良い道しるべを指し示せる世界唯一の音楽評論家であると言っても良いだろう。
 

先ずは上記に触れた意味合いも込めて、皆でNight Tempoの新作を徹底的に分析しようではないか。
 

[ライブ評論] V ‘Love Me Again’ Band Session

BTSはテテこと “V” の “Love Me Again” のセッション動画が配信された。Twitterには既に簡易版音楽評論をポストしたが、何と私がパソコンの作業を開始する5分前に公開された動画だ。
とても期待しながら動画に耳を澄ましていたが正直な感想を言わせて貰うと、完全に期待を裏切られた。

原曲の繊細さが全く削れ、いわゆるニューヨークの街角のジャズを匂わせる演出が余り上手く行っていない。勿論バックバンドのクオリティーにもかなり問題はありそうだが、要はフロントに立っている “V” がこのセッションに対して消極的とも言えるマインドが表現の壁になってしまった感が否めない。
 


今自分は何をしに、何の為にこの音楽、この状況に遭遇しているのかと言う表現者としての軸を、この動画からは殆ど感じられない。
同時にサポートを務めるミュージシャン等もマネーで雇われた感がハンパなくて、アドリブにせよコードプログレッションにせよ彼等から愛情の微塵も感じ取れない。
 
兎に角目まぐるしく場所と環境を変えてリスナーの目新しさをそそってはみるが、Vの、この一種の無感情な表現がライブやセッションには全く不向きである点に果たして彼のプロデューサーは気付いているのか、否か‥。
 

“V” の別の曲 “Slow Dancing” を何と、NewJeansHYEIN(ヘイン)がカバーしているが、むしろそちらの方が原曲とは異なる別の世界観を創造しているように私は感じた。
移調したKeyが原曲の “E♭” に対して “G♭” に移行したことが吉と出たのか、若干15歳のヘインのカバーの方が原曲のもの悲しさを上手く表現しているような気がする。
 


二人に共通している欠点が一つある。それは楽曲後半の時間の使い方だ。
双方共に楽曲後半の楽器アドリブが入った途端に無言になり、楽曲終盤までインストの終わりをただじっと待っている‥ と言う動作に入って行くが、本当はそこが歌手の見せ所。
 
カバーならば尚更後半に、原曲には無いスキャットなどを入れることを再演する際に考えた方が、リスナーをもっと楽しませられると私ならば考える。
無駄なことをしないのも一つの策ではあるが、それならば原曲(レコーディングされた記録)を超えることは不可能だ。だったら再演自体、一切やらない方が良いだろう。
 

但し一個の楽曲を様々な切り口で魅せると言う意味では、一つの実験音楽/ 実験演出と言っても良さそうな企画かもしれない。 (如何せん個人的には、この解釈はあんまりだなーと思う。 )

 
テテはいつも通りに作業をし、周囲はテテのヴォーカルが抜けた隙間で悪戯を仕掛ける感じ。 作業とアドリブのバッドなせめぎ合いがリスナーの心を、むしろ締め付けて来る。
歌手本人がクールにキメている分、音楽的には虚しさが後を引く。
 
ズッコケ覚悟で「生きた人間」として再演に臨まないのであれば、この曲は再演すればする程鮮度を失って行く。
音楽が演りたいのか、それとも音楽を道具として扱う歌手のヴィジュアルを見せたいだけなのか、その辺りについて総括プロデューサーはもう少し真剣に考えた方が良いのではないか。
 
まだまだ問題山積の状態だ‥。
ヴィジュアルで音楽は成立しないと言う、この動画は非常に分かりやすい例だ。