[表現評論] Nada Personal (Sesión en Vivo) by Juan Pablo Vega & Catalina García

コロンビアの音楽シーン最強の二人がタッグを組んだ新譜 “Nada Personal (Sesion en Vivo)” が、世界に放たれた。
アーティスト表記の Catalina Garcíaとは、あの Monsieur Perine のヴォーカリストのこと。次いでこの作品で華麗かつ上品な演奏を繰り広げているピアニストの詳細を知りたくて調べてはみるものの、これも私の語学力のボキャブラリーの無さが原因で現在のところ情報を掴み切れていない。
誰か分かる方がいらしたら是非、この記事のコメント欄だけは解放しておくので情報を頂けるとありがたい。
 
日本国内産の “ヴォーカル & ピアノ” のセッションにはかなりうんざりしつつも、こうして本物を聴くとまだまだこの組み合わせも捨てたものじゃないな‥ とホッとする。
Liveとかセッションとはどこかその場の空気感や作業の流れやノリがかなり演奏に影響を及ぼすが、最初から “Live” ではなくレコーディングだと軸を決めて表現に及ぶと、この作品の様にハイクオリティーな音源を記録することが出来ることが分かる。

かなしいかな、一度伴奏者として歌手やバンドのサポートに回ったミュージシャンはその後メインの座に舞い戻ることが難しくなるが、個々が表現の主軸を失わなければこうして “セッション” として成り立つと言う良い見本をここに見ることが出来る。
 


“Monsieur Perine” と言えば最近の作品の中で強く印象に残っているのは、Prométeme と言う作品だ。
この作品の中では環境汚染に対する警鐘を強く訴えかけているが、今まさに人類がこの危機に直面していることを音楽と映像でしんしんと表現している。しいては最近の作為的な人口削減ワクチンによる人口激減に於ける予言まで、この一曲でまとめて彼らは記録している。
 
勿論大幅人口削減に関する予言は日本のアーティスト Didier Merah もかなり前から放っているが、それもこれもこの世界からにぎやかしの音楽やイベント、ライブやコンサートや舞台演劇等がごっそり消滅しない限り、いつかは必ず悲劇的な状況に着地することが目に見えていたからだ。
多くの表現者や聴衆等がその現実から目を背け、快楽的かつ刹那的な生き方を止めようとしない以上、いつかは自然神等の粛清を免れられない事態に陥るだろう。
 
そんな未来の状況を彼ら “Monsieur Perine” が音楽及びMVとして世に放ってくれたことは、音楽評論家のみならず音楽を愛し音楽史の軌道修正を試みる一人として、とても頼もしいと思う。
それに加えJuan Pablo Vegaとのコラボセッションで音楽の最小単位のセッションを記録してくれたことにも、敬意を表したい。
 


音楽とは本来こういうことを指し、カネの為の豪華なセットも必要ない筈。
世界最小オーケストラとも言われるピアノ一本と “声” だけでV (ビデオ) で全ての音楽が配信されるならば、もう誰も飛行機に乗る必要もないし高速爆音を発する陸の乗り物を利用する必要もなくなる。
 
全ての音楽が室内でひっそりと、出来れば空間に音の一つも発することなく各々の世界に閉じ込めながら堪能することが理想的で、望ましい。むしろそのやり方の方が未来的だし、環境破壊を起こさずに済むことに、さらに多くの人たちに気づいて欲しいと願わずにはいられない。
そうなれば今巷にあふれ返る借り物、偽物、しいては原作者の許可なしに勝手な翻訳詞や作詞などを着せられた泥棒さながらの再演に遭遇することもなくなり、いいことずくめに違いない。
きっと全てが上手く行くだろう‥。
 

“Juan Pablo Vega” (songwriting by Juan Pablo Vega)

K-Pop “Heize”と音楽のソコヂカラ

以前から大好きでウォッチしていた韓国のシンガー・ソングライター “Heize” が、新曲『일로 (Undo)』をリリースした。
『일로 (Undo)』シングル曲アルバムタイトルの両方で更新され、特にシングル曲の『일로 (Undo)』は楽曲として秀逸と言っても過言ではないだろう。
 
タイトル『일로 (Undo)』は和訳すると、どうやら「なかったことに」と言うような意味になるようだ。
偶然アメブロに和訳を見つけたので、歌詞の意味を日本語で読みたい方は是非そちらを参考にして頂けたらと思う。
 

https://ameblo.jp/sullun114/entry-12751060771.html
 

 
PVを見ると一瞬「ルックス主義」のカワイ子ちゃん系韓流歌手かと勘違いしそうになるが、それは間違いだ。
さり気なく正確な音程に依存せず、細やかな表現を随所で巧みに使い分けながら、尚且つそれをけっして売りにはしないのは彼女がそれ以上の潜在的な能力を秘めているからだ。
 

多くの歌手や表現者が現れては消えて行くその境界線は、「自ら作品を生み出せる者」と「既に誰かの手によって生み出された作品を再現する者」。そこには大きな段差があり、後世に自身の名と作品を共に残せるのは前者一択と言って良いだろう。
 

私が度々「ライブ」を否定している理由も、ここにある。
勿論「生み出せる人」が奏でる再現音楽は、「生み出さない人」の再現音楽とは全く質が違う。なので私は前者「生み出せる人」があえて挑む再現音楽に於いては、一切否定も拒絶もするつもりはない。
だが作品が生まれるエネルギーは出産時の赤子同様に、羊水から空気の世界に旅立つ瞬間にのみ放たれる特別な力を持つ。なので厳密には作品がレコーディングされた時のエネルギーを、後のライブが超えることはほぼ皆無と私は思っている。

その意味で「ライブ」、いわゆる再現音楽を私は特殊な例を除き、殆ど否定し、拒絶するスタンスを今も変えていない。
 

 
Heizeは新曲『일로 (Undo)』と言うある種のダンス系要素の高い作品を、マイク一本「歌のみ」で勝負に挑むように様々な番組で歌唱している。
勿論バックバンドは打ち込みだが、声は生声で、その都度都度でエフェクトも演出も変えてパフォーマンスに挑んでいる。
 
ダンス・ミュージックをあえてダンスで魅せない、ある種の勝負心を彼女の中に感じる度に、私の評論家魂に呆気なく火が着いて行くのを感じる。
 

 
「生み出せる人」は表現に於いて、いつも限りなく自由で居ることが出来る。
何が正解で何が不正解なのか‥ と言う枠にがんじがらめに囚われることが無いから、いつ、どのタイミングでアドリブを仕掛けようが全ては自分自身の気分でどうにでも料理が可能だから。
 
さながらモーツァルトがコンツェルトの最後の「カデンツァ」の音列を楽譜上では指定しなかったように、モーツァルトは常にその時々の気分や状況に応じて内容の異なるカデンツァを自由に演奏していた。
‥つまりそれこそが即興演奏の醍醐味であり、そうした完成度(創作性も失わない)と即興性の高いライブこそが価値のあるライブだと言うのが、私のライブ美学だ。
つまり完成度も即興性も、まして創作性のどれもが全く当てはまらないライブは、存在価値すらないと言っても過言ではない。
 

 
誤解して欲しくないのは、ここで私がある種「ライブ」の存在価値の有無を説いている真の理由についてである。
 
最近「音楽とビールは生が一番だ」等と言う人達が増えており、どんなにアレンジが悪くても、どれだけ歌唱力が酷くても、それが「生演奏(Live)」であると言うだけで視聴者が勝手に脳内変換で目の前の質の良くないパフォーマンスのグレードを過大評価してしまう。
そういう視聴者の脳内誤動作を出来る限り少なくする為、良いものとそうではないものの理由と境界線を明示する必要を私は強く感じて、こうした記事を書き続けているわけだ。
 

 
さて、この記事の最後に、私が大好きなHeizeの2017年リリースの作品You, Clouds, Rainの美しいLive動画を貼っておきたい。
動画冒頭がその作品である。

どこか小田和正にも通ずるノスタルジーを感じさせる、とても美しいメロディーラインとパフォーマンスを是非ご堪能頂ければ幸いだ。
 

 

内容を限定し、お仕事の依頼も承っております。
音楽配信を目的とした楽曲作成のオーダーの他、音楽評論、レビュー or ライナーノート執筆、ラジオ番組用のBGM選曲、雑誌連載執筆及びYouTube出演や対談等、諸々用件・案件は、Twitter のDMないしは 📨[info@didier-merah.jp] ⇦ までお寄せ下さい。

音楽評論に関しては、世界中(演歌とヘヴィメタル以外)の音楽を分析・検証し、語り尽くします。
オーダーを遥かに上回るクールで奇想天外な記事を、筆者の豊富な脳内データから導き出して綴ります!