[音楽評論] “Ravel: The Complete Solo Piano Works” by Seong-Jin Cho (チョ・ソンジン)

久しぶりに目が覚めるようなクラシック音楽を聴いた。

本記事で紹介するのは、韓国から世界に放たれた近代音楽、モーリス・ラヴェルのピアノ曲集。
基本的にクラシック音楽のガチャガチャした感じが個人的に好きではないので、冒頭2曲で止めようと思った。だがM-3: “亡き王女のためのパヴァーヌ” で演奏者 チョ・ソンジンが覚醒する。

日本の近代音楽ピアニストの権威、安川加壽子(やすかわ かずこ) の影響が強く染み付いた私にとって、近代音楽は「感情を一切込めない冷酷な音楽」と言う強いトラウマを植え付けらえる切っ掛けだった。
彼女の公開レッスンに実際に演奏者として参加した私は、そこで一気にドビュッシーもモーリス・ラヴェルも嫌いになった。

彼女の言う「感情を一切込めない音楽」とは半ば、エモーションを完全に手放したロボット的解釈のそれだった。だが肝心のラヴェルの音楽には緩急があり、程好い加減を心得た最低限のエモーションは必須だと言うことは、わずか小学校2年生の私でさえ理解に至った。
 

チョ・ソンジンの新譜 “Ravel: The Complete Solo Piano Works” を聴く限り、彼は安川加壽子の言う近代音楽の解釈は取り入れておらず、むしろ彼の解釈は感情過多に陥ることなく、その先のエモーションに到達しているように思える。

M-4: Jeux d’eau (邦題『水の戯れ』の解釈は、個人的にツボだ。
 

 
何を隠そう学生時代の私はこの曲を得意曲としており、数十種の解釈で日々演奏し分けていた。と言うのも複数人のピアノ教師に師事していた為、否応なく一曲を各々の教師の好みに弾き分けることを余儀なくされたからだった(笑)。
桐朋大学の権威者の元にレッスンに行く時は、いかにも権威主義的でいかつい近代音楽を大げさな身振り手振りで演奏しなければならなかったし、かと思えば藤井一興氏の自宅レッスンに行けばまるで私が元からフランス人に生まれた人みたく、流しそうめんをつるつる飲み込むようなラヴェルやオリビエ・メシアンを演奏しなくてはいけなかった‥。
 

兎に角私は何が忙しいかと言えばこの「弾き分け」で、母 (毒親) はそんなこととはつゆ知らず毎日私の練習中ミスタッチを見つけ出してはヒステリックに私の腕に爪を立て、皮膚を抉り、握りこぶしの関節が当たるように右目の眼球を殴り続け、そんな中で私がクラシック音楽など好きになれる筈もなかったわけだ‥。
 

 

ここで一つだけ余談を。
私が学生時代の頃は主のピアノメーカーはと言えば、YAMAHAかスタインウェイ (Steinway & Sons) だった。YAMAHAは高音域の音質が金属丸出しで上品さを欠いており、一方当時のスタインウェイの鍵盤は象牙が使用されているものが多かった。これが鬼門だった。
上記に触れたモーリス・ラヴェルの「水の戯れ」の中盤の盛り上がりで一カ所だけ、グリッサンドが書かれた箇所がある。グリッサンドとは、鍵盤を滑りながら打鍵する奏法で、これを象牙が完全に妨害するのだ。
 
そもそも象牙と言う材質は滑りにくい素材で、その上をあえて “f” (フォルテ) で滑り落ちるように手を移動させなければならなかったから、スタインウェイでこの曲を演奏した後には必ず右手人差し指の側面が真っ赤に皮が剥けて、包帯が欠かせなかった。
特にこの曲の場合は黒鍵を指のはらで滑らせて、高音から低音まで下降しなければならず、本番一回の演奏だけで人差し指の側面の皮膚が赤くただれてボロボロになる。

 
話をチョ・ソンジンのモーリス・ラヴェルに戻そう。
普段私は他の人のクラシック演奏をあえて聴かないようにしているが、それもこれもクラシック音楽の未進化具合に苛々して精神衛生上良くないからであり、クラシック音楽が良い意味でもっと進化すれば本当はもっと色々な音楽を聴きたくなる筈で‥。
 
チョ・ソンジンのこのアルバム “Ravel: The Complete Solo Piano Works” を今もヘッドホンで聴き進めているが、全体的にヒステリックさはなく、クラシック音楽奏者が持つエゴイスティックな嫌味を感じない。

世の中も音楽も同様に、実のところ「何も起きない」ことがベターなのだ。
だが多くのクラシック音楽の楽曲も解釈もドッタンバッタンと大げさなドラマを作り出し、これみよがしに権威主義を見せ付ける。それが「クラシック音楽の醍醐味」だと思い込んでいる現役の音楽家も、そしてクラシック音楽愛好家も共に多く、「何もない音楽」「何のドラマも起きない音楽」‥ つまり事件性の薄い音楽には価値を見出さない人たちが多数存在する。
だがそのような音楽を地球の外に持ち出すことは不可能だと言う現実の壁を、殆どの人々が知らずにいるようだ。
 
なぜならば、私が知る多くの地球外生命体たちは地球人よりも聴力と鼓膜が弱く、大きな音量には耐えられない。勿論そんな地球外生命体の面々に現在の地球上の音楽を聴かせようものなら、おそらく彼らは耳を強く抑えて、大きな声で「やめてくれ!」と叫ばずにはいられなくなるだろう。
 

ある意味私にとっても外敵さながらの現在の地球上のクラシック音楽集の中でも、幸いチョ・ソンジンのこのアルバムはギリギリ、地球外に持ち出せるクラシック音楽の一つとして地球外生命体の音楽愛好家等にも推奨出来そうだ。
但し音量はぐっと抑えめにして、彼らに聴かせなくてはいけないだろう🛸
 

“Pavane pour une infante defunte, M. 19” – Lang Lang (album “Saint-Seans”より)

先週末の「世界の新譜チェック」は、未だ完了していない。
今週は丹念に一曲一曲を精査しながらの新譜チェックを継続しているが、そんな中私が余り好きではない中国のピアニスト Lang Lang (ラン・ラン) の新譜が飛び込んで来た。
 
元々大好きなモーリス・ラヴェルの名曲なので耳をダンボにして聴いているが、ラン・ランの表現の粗さがこの作品では特に目立ったように思う。

 
この人の持ち味はpppの音色にあるが、表情過多、感情過多な表現に陥ると手が付けられないほど気持ち悪い。
とりわけこの作品の解釈ではf (フォルテ) 部分が荒々しく演奏されており、表現としては未完成だ。 他の奏者との格差を図り過ぎたことによる表現の粗は、数年もすれば角が取れて丸くなると思われる。
 
だが如何せん、平たい顔族がそうではないかのような、あたかもお家芸でもないのにお家芸であるような過剰な演技をごっそり削ぎ落とすと言う大きな課題が、彼には残されているのではないか‥。
 


フランス音楽と言えば日本人で思い付くのが、安川 加壽子さんだ。私も何度かレッスンをして頂いたことがあったが、彼女とは感性や楽曲の解釈等の価値観も含めて合わなかった。
 
「フランス音楽は徹底的に感情解釈を除去することが基本です。」と言うのが安川氏の決まり文句だったが、それもやり過ぎると余りに無機質で音楽性を欠いた音楽になってしまうから困ったものだ。
かと言って感情解釈を過剰に音楽に持ち込むと作曲者の意図を踏み外した、全く別物に仕上がってしまうし、その匙加減が絶妙に難しい。
 


だとしてもだ。
ラン・ランの感情過多な楽曲解釈は私には到底受け容れ難い。
折角ピアニッシモの音色がとことん美しいとしてもその他の表現が余りに荒削りなので、表現バランスがガタピシになってしまって全体的なまとまりに欠ける。
感情やエモーショナルな表現をもっと洗練させて行けば、ラン・ランのフランス音楽に表現の新たな道が開けるのかもしれないが、それを聴き手として待てるのはしいて言えばラン・ランの「推し」だけだろう。
 
「推し」の為の音楽は、クラシック音楽シーンには最早不要だ。もっと客観的な表現解釈がクラシック音楽には求められる筈であり、多くのクラシック音楽奏者たちはそう言った「推し」たちの為の商業音楽手法から早々に抜け出さなくてはいけない。
そこにラン・ランも当然含まれる。
 
付け加えるならばこの曲「亡き王女のためのパヴァーヌ」を再現する際のフォルテの音色には、細心の注意を払うべきだ。
実際にはフォルテの概念を新たに、ピアノのボディーをフル活用した『重厚感のあるp (ピアノ) ないしはpp (ピアニッシモ) 』と言う解釈に到達することが望ましい。
宇宙からゆっくりと地上に落ちて来る隕石を表現する時に、打鍵の速度を上げてフォルテで鍵盤を叩くことが相応しくないように、モーリス・ラヴェルがこの作品に求めるフォルテ (f) も同様に、重力を失った物体を動かす時のような打鍵の絶妙な速度感が求められるように、それがむしろ当然の解釈だと私には思えてならない。