AI生成音楽 VS 藤井風

週末、音楽探索をしている過程で見つけたAI生成音楽動画に、足を取られた。
素材はSMAPの「夜空ノムコウ」(作詞: スガシカオ/作曲: 川村結花) 、それをニューヨーク・ジャズのテイストで編曲されており、そこに此方もAIと思われる黒人系ヴォーカリストの声が乗っている。
 

 
昭和~平成生まれの多くのポップス愛好家ならば、この曲を知らない人は先ず居ないだろう。
編曲も上手く出来ているし、むしろ原曲よりも此方の方が耳障りもテイストも良い。何度でも聴いていたい程の出来栄えだ。
 
‥と、この曲を聴いていると私の脳内マッチングシステムが作動し、藤井風PREMAを指さした。
 

 
明らかにAIと藤井風は接近しており、上の2曲が同じ曲のように聴こえて来る。
 
最近AI生成音楽が一気に増殖している。それ自体を高く称賛することは出来ないが、製作者サイド或いはクリエイターサイドに居る多くの人材が出口を失い窒息しているのを感じてならない。

日本の売れ曲の上位を、アニソンが占めている。
アニソンの多くはテンポの速い楽曲が多く、尺が決まっていると聞く。およそ90秒/1曲の中にAメロ、Bメロ、サビからエンディングまでを仕舞い込んで行くには、当然一曲の速度を上げる必要が生じるだろう。
だが私の周囲のポップス愛好家たちの多くが、このハイスピードの曲に疲れている。
 
そこに速度の緩いR&Bのようなテイストの音楽が侵入して来れば、当然のこと、心変わりは避けられない。
私も同様の心境だ。
 
それにしても ‘AI MUSIC BOX‘ から配信された夜空ノムコウと藤井風のPREMAの酷似性が何故生じてしまったのか‥、そこに大きな疑問を感じずには居られない。
もしもコピーが起きたとしたら、藤井風の方が夜空ノムコウにインスパイアされた結果PREMAが誕生したと考えるのが、自然の流れだろう。もっと平たく言えば、藤井風の音楽自体が既にAI生成音楽の可能性が大だと言うことになる‥。
 

 
これは昔から続いている現象だが、良い音楽、良いメロディーを生み出すクリエイターの出口を、既存のレコード会社のディレクター職の人たちが頑なに塞いで来た。
これは私が身をもって経験して来たことなので、断言出来る。中には不適切な方法で仕事を勝ち取ったクリエイターも居ただろうが、長続きしなかったと思われる‥。
そうこうしているうちに「創作」や「リスニング」の基準が移り変わり、多くの音楽リスナーたちが最近では自分の満足の行く音楽に出会えない状況が増えている。
 
毎週末に更新されるディディエ・メラ監修の「世界の音楽」(主に新譜を中心に) を集めたプレイリストを聴いている人たちから、時々メールを頂く。そこには「ゆっくりと、尺が長くてメロウな音楽に触れられるのは、ディディエさんが監修したPLの中だけな気がします。」と言う内容のメールも多数見られる。
 
思うに今、シティーポップとR&B周辺の音楽に渇望している音楽リスナーが、急増しているかもしれない。
そこには理想のメロディーとコードがパッキングされた音楽があふれて居るが、そうしたテイストの音楽が日本のメジャーレーベルからは殆どリリースされていない。
従って、良い音楽に渇いて我慢が出来なくなった、実際には音楽の再現スキルを持たない人たちが、‥だったらAIと過去の名曲をカップリングして新しいスタイルのR&Bを機械生成してやろうじゃないかと立ち上がり始めた、まさに「イマココ」の状況だ。
 

 
YouTubeチャンネル ‘AI MUSIC BOX‘ は未だチャンネル開設から間がないが、多くの過去の日本の名曲と言われるポップスが新しい形のR&Bにジャズをハイブリッド化させたAI生成音楽が配信されているが、これらが仮にボタン一個で完成させられるとしても、ある程度知識がなければこの状況を完成形として配信することは難しいだろう。
年代的には昭和の空気を存分に吸った世代が、音楽ギョーカイへのリベンジのエネルギーを煮えたぎらせながら、卓をいじり倒しているように思えてならない。
 

 
但し‥。
AIにこのまま音楽業界を侵食させておいては、とても危険な状況になるだろう。何よりAIのクリエイトスキルでは、人間の作曲スキルを越えられない。
ヒトの脳の緻密さを、侮ってはいけない。
 
良曲や才能のある人材を卵になる前の段階で見抜ける人が、ディレクター職の中に居ない現状は致命的だ。要は、その階層をゼロから育成しなければ、何れJ-Pop界隈はAI音楽生成機器に駆逐される。
音楽家としては、それだけは何としても阻止しなければならないと思っている。
 
さらに付け加えるならば、藤井風の音楽が良い‥ 等と感じる感性はあながち間違いではないと言うこと。
良質なリスナーが、AI音楽生成機器とせめぎ合っているかもしれない藤井風の周辺に群がっているとしたら、’AI MUSIC BOX‘ や ‘Funny J-POP‘ 或いは ‘TOKYO BEATZ‘ 辺りに群れているリスナーがAI音楽の毒牙にヤられる前に、元ある音楽の聴き方、感じ方を取り戻させる必要に迫られている。

このところのAI生成音楽の性能が良いだけに、それは急を要する事態だと私は見ている。
 

 

 
 
以下に、ディディエ・メラ監修の最新のプレイリストのリンクを貼っておく。
 

 

【”I Need U Back” [Official video] by 藤井風】を分析する (Analyzing “I Need U Back” [Official video] by Fujii Kaze)

2025年10月9日、夜、藤井風の『I Need U Back』の動画をYouTubeより公開した。
 

 
冒頭から藤井風が、マイケル・ジャクソンの『Thriller』級のメイクアップで映し出され、動画の最後まで藤井はメイクの仮面を一切剥ぎ取ることなく主役を演じ通して行く。
 

 
楽曲『I Need U Back』は曲調の観点では、80年代に流行ったロックに同時代のアメリカン・ポップスを足したような一曲で、特に目新しさは感じない。
おそらくこれは藤井風と言う一風宗教的なアーティストを欧米圏に無難に浸透させる為の、プロデューサーサイドの戦略とも言えそうだ。
 
ふと、この動画を視ながら私は、メキシコの祭り『死者の日(ディア・デ・ムエルトス)』を思い出した。実際に一度だけ私はこのお祭りに足を運んでおり、当時の空気感が藤井風の『I Need U Back』のオフィシャルビデオにかなり色濃く反映されているように感じた。
 

※メキシコには「死者の日(ディア・デ・ムエルトス)」という、故人を偲び、明るく楽しく祝うお祭りが毎年11月1日と2日に開催されます。お盆に似た行事で、マリーゴールドの花やロウソク、ガイコツの砂糖菓子、パンで祭壇や墓を飾り付け、家族の絆を祝います。街中ではパレードやガイコツメイクの人が溢れ、メキシコを代表する伝統的な文化の一つです。
(AI説明より)

 

 
勿論、藤井風の『I Need U Back』オフィシャル動画の中にはリオのカーニバルをも彷彿させる衣装を着た演者も居れば、ハードロックテイストの衣装を着た演者等も紛れているが、時期的な条件を考えるとやはりメキシコの『死者の日』を強く意識した作りになっているように思われる。 
 

 
これまでの藤井風のインド色を徹底的に封印し、動画にはロザリオ (十字架) をあえてシンボルとして印象付けるような演出も施され、最近SNS等で声高にささやかれている『藤井風 ⇨ サイババ二世 ⇨ ステルス布教』の風向きを頑なに否定するような向きも感じられる。
 
確かに曲調がアメリカンロックを強く意識しているのだから、この楽曲にインドカラーは不向きであろう。とは言え、のっけから藤井風がギャンギャンにメイクを施し、若かった頃のデヴィッド・ボウイみたいな顔で現れると流石に違和感が先に立つ。
 
 
デヴィッド・ボウイ

 
 
藤井風

 
さらにこれまでの藤井風の持ち曲と一線を画すものがあるとすれば、それは歌詞の内容だろう。『I Need U Back』では死の色よりも「生」とか「躍動」と言った、死生観で言うところの「生」の側が生々しく描かれている。
だが、やはり背景にはメキシコの『死者の日(ディア・デ・ムエルトス)』の影が立ち込めている辺りは、やはり藤井風の中にも捨て切れない宗教観のギリギリのラインだけは維持したいと言う、意地のようなものがあったと見るのが妥当かもしれない。
 

Spotifyで聴くとM-1: Casket Girl からM-2: I Need U Back が曲続きになっており、単体では聴かないでよ‥ と言う藤井風のアルバム試聴に対する裏の意図が見えるが、この演出が果たしてどのくらいリスナーに影響を与えているかについては判然としない。

さらにこれは偶然とも必然とも付かないタイミングだが、ふと‥ Michael Jackson のBlood On The Dance Floor X Dangerousの動画がこのタイミングでYouTubeのぶら下がりに浮かび上がって来たので視てみると、なになに‥
藤井風の『I Need U Back』の動画構成とかなりかぶっているではないか!!(笑)。
 

 
これこそ神にお導きとでも言うべきか否かは私には分からないが、藤井風が仰ぐ神とは一体何者なのか‥、各動画を視ながら私なりにさらに分析を進めて行きたいと言う好奇心に駆られたことは言うまでもない。
 
残念なことに、藤井風はダンスもヴォーカルもカリスマ性に及ぶ全てに於いて、マイケル・ジャクソンの足元にも及ばない。どんなに動画構成を真似たところで、両方を見比べたリスナーは結果的にご本尊を選び取るだろうし、マイケル・ジャクソンの神々しさを追い掛けることぐらいしか藤井風にはなすすべがないだろう。
 
最後に付け加えるとするならば私は、藤井風のファンでもアンチでもない、ただの芸術家であり音楽評論家である。なので音楽 (ないしは表現) と言う切り口で物事を分析し、粛々とそれらを評論しているに過ぎない。
その上で、藤井風の新しい動画『I Need U Back』の出来栄えを点数にするならば、百点満点の63点と言ったところだろうか‥。
この記事ではあえて藤井風 VS マイケル・ジャクソンと言う切り口で綴ってみたが、意外に分かりやすい表現分析ではなかったかと思っている💃
 
 

 
 

■ 追記 ■

SNS界隈でも噂になっていた番組、「完全版」藤井風 NHK MUSIC SPECIAL【藤井風 いま、世界へ】 Fujii Kaze 2025.10.9を、遅ればせながら (2025年10月10日の早朝に) YouTubeで試聴した。
 

 
この動画の中にも、やはり藤井風に潜む多くの人格がスポットに現れては消え、又現れては消える‥ を繰り返していたように見える。
 
一つ分かりやすい彼の動向の癖を挙げるとするならば、「実際には何も無いところに物があるように見せ掛ける小技 (こわざ) 」が非常に巧みであると言うことだろう。
そもそも彼には音楽の基礎教育すらないわけだし、英語がネイティブ言語と言うわけでもない。だが、そこに才能とスキルとアイディアが元々あったように、動画の中でも後付けの見せ掛けを企んだ箇所が随所に見受けられた。
 

 
特に250 (イオゴン) との作業風景にそれが特徴的に現れており、藤井の行動の大半が過去の情報やデータの再編集で成り立っている点が悪い意味で印象的だと感じた。
 
無いものをあるように見せ掛けて商品として完成させて行くプロセスは昭和の時代からそのまま引き継がれて来た商業音楽の定番スタイルであり、ディレクターの存在がほぼ皆無でも音楽制作が成立するようになった現在の音楽シーンではむしろ、致命的な欠落を見落としたまま商品を完成させてしまう悪状況を引き寄せる。
250 (イオゴン) との作業に於いてはそれが顕著に露呈しており、そのプロセスが藤井風の新譜『Prema』全域に及ぶ過去の『焼き直し感』に直結したように、私には視える。
当然のこと、NewJeansを担当した時の250 (イオゴン) の切れが冴え渡る筈もなくそれが、藤井風の『Prema』に於いてはアルバム全体のさびれた印象を増長させた。
 
そもそも250 (イオゴン) の特性として、新しいものを懐かしく魅せて行く演出や編曲、ミックス等を得意とする人ではないかと思うが、元々古くて懐かしいサウンドをノスタルジックに焼き直す作業を250 (イオゴン) はむしろイオゴン自身、苦手とするスキルではないだろうか。
その苦手な方のデメリットが藤井風のニューアルバム『Prema』に露呈した結果、音楽単体では日持ちのしない作風に繋がったように思えてならない‥。
 

【■ 追記 ■】から後は、一度完成させたブログ記事とは別に付け足した箇所である。
記事を割っても良かったが、私のブログが藤井風ネタばかりになる状況にはしたくなかったので、繋げて加筆しました。

 
 

関連記事:


歌いたい人と歌うだけの人 (People who want to sing and people who just only sing)

先日の神人共食の疲れがなかなか癒えず、週末の日曜日は全ての作業を放り出してほぼ18時間近く床に伏していた。その間、色々な情報が静止画像と化した私の上を通過して行った。

日付が変わり、2025年10月6日 (月)。
先ず吉報として、サブスクリプション “Spotify” にロスレス音源が実装されたことを知り、書斎のパソコンの設定を思い切り変更し、ディディエ・メラ (Didier Merah) のアルバムを粛々と聴き進めて行く。
昨日までは聴こえて居なかった新たな世界が、目の前に開けて行く。
嬉しい瞬間が到来。ほぼ10年遅れで時代が追い付いて来た。
 

その流れでYouTubeを開けて、取り遅れていた情報を片っ端から拾って行く。
ふと目に入ったのが、(ショパン・コンクールの近影と中森明菜をすっ飛ばして‥) LE SSERAFIMのインタビュー ~ 歌唱動画だった。
 

 
嗚呼又この人「Kポ」ばっかり視てるのね‥ と思った人も多いと思うが、私はただそれだけの観点でこういった動画を視ているわけではない。

たった5人‥ と言えばそろそろ (預言通りに) 消え始めたNewJeansのことも頭の片隅に無いわけではないけど、今回はLE SSERAFIMの5人に焦点を当ててみる。

向かって視聴者から左端がユンジン、隣にチェウォン、中央がカズハ、並んで宮脇咲良ウンチェ‥。実際に歌唱している動画を視れば一目瞭然だが、特に中央カズハから右側3人には表現したいものを体の中に持っていない。
与えられたパートをおシゴトとして歌うだけで、体から、感性から湧き上がるものが何も無い様子が伝わって来る。
だが、特に左二人には歌いたい熱い何かが体の中に燃え滾っており、与えられたパートの中にはそれを収め込むことが難しそうに見える。
一見ただのKポップ。だが「ただのKポップ」でも表現は十人十色で、私には視覚的に左側二人が炎の色に映り込む。特に左端のユンジンは、グループの中にそもそも収まり切れていない程の熱量で攻めて来るので、振付等がないこのようなシーンだと声が前のめりにリスナーに届いて来るから不思議だ。
 

 
一方最近何かとお騒がせ状態の藤井風関連を追って行くと、ふと、こんな記事に目が留まる。

藤井 風『Prema』評 哲学者・柳澤田実:音楽の根底にある“終わり”=“死”の感覚
https://realsound.jp/2025/10/post-2175246.html
 

筆者は柳澤田実 (やなぎさわ たみ) さん、日本の哲学者とプロフィールに記載された人である。 
 

 
SNS “X” でも一部藤井風フリークとアンチが対立しており、私は中庸のスタンスを貫いているがそのスタンスに対して物申して来る輩が断続的に現れる。

私は昭和のど真ん中の世代なので、シティ・ポップも昭和の往年のアイドルの面々も含め、業界のど真ん中で業界を一望し、関わって来た一人である。
勿論私自身が音大出身者であり尚且つ一時的に作詞家でもあったので、昭和世代の人たちの中にはかつての私を知る人も大勢居るだろう。
 
そんな世代の私から見て、藤井風がZ世代や悟り世代が大騒ぎする程の大物にはとうてい見えない。だが彼ら (Z世代~悟り世代) は良くも悪くも大騒ぎしており、メディアの悪しき戦略にまんまとハマっているのだから、学が足りないと言うか教養が足りてないと言うか‥。
ただただ言葉を失い落胆するだけで、特に何とも思わないと言うのが本音であるが。
 
それよりもむしろお隣韓国から250 (イオゴン)FRNK (Jinsu Park) 等が出現し、NewJeansの背後から業界を突き動かして来た時の方が脅威だった。
 

 
話を記事『藤井 風『Prema』評 哲学者・柳澤田実:音楽の根底にある“終わり”=“死”の感覚』に戻して、記事自体はとても詳細に藤井風を熱弁しており、調査も細かく書かれていると感じた。
だが、藤井風の死生観の観察については筆者の感動や興奮が先に立つばかりで、冷静さを欠いているように見受けられた。

特に章『“死”を起点として眺める現在』に至っては、藤井風の急激な世界進出がコロナ禍を起因とするものであることや、藤井の音楽に大きくまたがる『死』の概念がリスナーに大きく響いたのではないか‥ と言うような記述も見られるが、それは私個人の見解とは全く異なる内容であり、驚きも物珍しさもなかった。
 

そもそも音楽と死生観を発見として捉える感性が、私には全くないのだろう。
生まれてからずっと私の中には、宇宙の真ん中の無音空間を漂流した記憶が当たり前のように根付いており、死は常に隣り合わせに存在していた。
毒親の暴力に耐え抜くことよりも、もしかしたらその毒に当たって命を落とせたらどんなに楽だろうか‥ と、実際にそれを模索した時期もあった。確か一度目は高校生の時で、二度目はホームレスになりかけた時期と重なるが‥。
 

Xでは藤井風のサイババ布教 (ステルス布教とも言われているが) の危険性を切々と訴えかける声も多く散見されるが、正直そこに共鳴する人は何を見ても逆の情報には共鳴しないだろう。
生きたいと願う人は生きることに真剣な人の文字を追うだろうし、逆に死にたいと願う人たちはその結果に直結しそうな文字に心酔するのだと思う。
 

 
藤井風がカルトか‥? と言われると、正直微妙だ。何故って、彼はファンに出家を強制しているわけでもないし、藤井風が書いたとされるサイババ教義の切り抜きを音読しろとも言ってなければ、歌詞の暗唱を強要しているわけでもない。
その微妙なスタンスを「カルト」と言う位置づけで確定するのであれば、世に蔓延る多くのカソリック圏の音楽や某創価学会信者の音楽も同様だ。
 
だが如何せん音楽は、歌詞よりも音楽の方が先に耳に届く。
これは多くの音楽ライターが意図的に外して書いているようだが、現実問題音楽 (メロディーライン) は言語よりも鼓膜への到達が速いから、むしろサイババ教義なんかよりも中東の音楽のような、コーランの音節をそのまま音符化した楽曲の方が余程人への浸透が高速だと言えるだろう。
 
私はそちらの方がサイババ某よりも危険だと認識しており、それゆえ自身が監修する音楽のプレイリストには最近中東関連の音楽をスクラップしていない。
これは私のPLを聴いて下さるリスナーへの配慮を含め、私の宗教的 (自身は無宗教である) スタンスの意思表明も兼ねている。
 

他の記事にも綴ったかもしれないが藤井風の音楽はジャンクフードと同様であり、音楽の基礎が彼には備わっていない。
確かに藤井は近所のピアノ教師にピアノの弾き方くらいは教わったかもしれないが、後は亜流であり、近年藤井自身が接して来た音楽のメロディーやコードの切れ端を分解して再編集したような音楽が主であり、それ以上でもそれ以下でもないただの「音声」に過ぎない。
 
確かに料理でもマクドナルドを好む人も居るだろうし、二郎ラーメンのような背脂ゴッテゴテの危険な食べ物をこよなく愛する人も居るだろう。
私だって時にはマクドナルドの月見バーガーを食べるし、油多めの味噌ラーメンを食べる日もあるが、あくまでそれは多忙時に空腹を満たす為の目的に限定される。それらの料理をけっして好きにはならないし、ファンになることもない(笑)。
 

藤井風の音楽を「素晴らしい」と思う人たちは、概ねそれ以外の世界中の良曲を知らないのだろう。勿論言葉の問題もあるかもしれないが、良いものを知ったらそれ以前に人は絶対に後戻りすることが出来なくなる。
だったら藤井某のジャンク・ミュージックを飛び越えて、もっと良い音楽に接すれば良いだけの話だと私は思っている。
そういった良曲に触れる機会の少ない音楽リスナーの為に私は、毎週せっせと世界の音楽から良曲だけをピックアップして、自身監修のPL (プレイリスト) にスクラップしているので、是非そちらを聴いて頂くことをお勧めしたい。
 

 

 
LE SSERAFIMからNewJerans、そして藤井風‥ とネタがかなり広範囲に広がって行ったが、要はこの記事を簡単にまとめるとこうなる。
 
上記お三方の中に、表現者は一人も存在しないと言うことだ。
LE SSERAFIMの中に若干表現したい側の人と「ただ歌っているだけの人」とに分けてはみたが、大きく括れば全てが『自身のアイコンを売って糧にしているだけの人』にカテゴライズされる。
 
本物の音楽とは、自分以外の物事や人々の為に一心不乱に思いを致しながら生み出されたものだと私は思っている。

当然のこと、それらは自身の利を度外視して生み出されたものでなければならない。

 
それはとても難しい高みの領域に在るように一見見えるが、意外にとても身近に、世の中の切れ間や世の中心域からは少し離れたところにぽつんと点在している。人を嫌い、ひとけのない場所を好んで棲息している。
出来ればそういった良い音楽に自力で到達して欲しいと、私は願って止まない。
 
仮に世界にどれほどの数の宗教があり、それがどれだけ身近に襲って来ようが、良いもの、正しい価値観を自身の軸に置いておけば振り回されること等ないだろう。

社会現象の観点から考察する藤井風 そしてNewJeans

2025年9月11日、午後1時からソウル中央地裁で開催された公聴会にて、NewJeans 対 ADOR専属契約を巡る訴訟はメンバー不在の中20分で終了し、双方合意に至らず決裂した。
(同日、ミン・ヒジン関連の別の口頭期日も開催されていた。)
 

 
 
彼女たちも万策尽きた状況だが、その後に判決が下ると言う実感が未だ湧いてはいないようだ。現状NewJeansの5人は、兎に角ゴネ得で外界から目を逸らせばそれでやり過ごせるとでも思い込んでいるようだが、法律はそこまでアマくない。
 

音楽も音楽業界も、共に荒れている。

 
特に私が2025年9月11日未明に更新した記事藤井風と多重人格の可能性についての記事訪問者数がとんでもないことになっている他、それまでアンチ藤井風側に一見立ち位置を取っていたように見えていた私に豪雨のような、言葉にならない不満を含めた現実的な『圧』が押し寄せた。
一度藤井風を『サイババ二世がサイババの教義をコピペした詞で音楽をリリースし、信者を増やしているのだから、どれだけ叩いてもいいではないか!』と声を荒げて叩き屋と化した藤井アンチたちにとっては、上記の記事はその後のバッシング活動をやり辛くする内容を存分に孕んでいたのだろう。
 
問題は藤井風自身の闇の深さ、その闇の周囲に立ちはだかる藤井風の父親 (つまり毒親であると推測される‥) の存在。
父親が喜ぶことをしなければ藤井風が家庭の中、世の中に居場所を失うかもしれない‥ と言う藤井風自身の危機感及び強迫観念。‥彼の強迫観念の行く先がつまりはサイババへの帰依であったことや、重度のPTSD発症とそれにともなう多重人格障害の可能性について。
藤井風は今、本当の意味での拠り所を失った状態だ。
 
ざっと目に見えている状況を列挙するだけで、これだけの (藤井風の) 闇が露出している。
 

 
昨日外出中にふと気になることがあり、外出先でスマホから音楽年表を検索してみた。

「藤井風の音楽が良い」と言うファンが、今年になって急増したように私には見える。
藤井風が『死ぬのがいいわ』を紅白で歌ったのが2022年の年末だったが丁度その年は、KPopのガールズグループ、NewJeansのデビューの年と重なっている。

NewJeansのデビュー曲『Attention』は2022年8月1日にリリースされ、瞬く間に旋風を巻き起こした。
 

 
剛腕プロデューサー/ミン・ヒジンのセンスは当初から高く評価されていた。
NewJeansはその後『Ditto』『omg』等、それまでのKpopにはないヒール色の薄い、爽やかでポップかつメロディアスな楽曲を立て続けにリリースして行った。
勿論タレント性は元々備わった彼女たちだが、それより何よりもNewJeansの楽曲は世界中のポップスの中でも際立って光っていた。
 
世界の音楽の空洞化をNewJeansの5人が見事に埋めていた期間、多くのポップス愛好者たちはNewJeansの音楽性とその音楽性を深くユニークに掘り下げて演出 (& プロデュース) に集中したミン・ヒジンの魅力に取り憑かれて行った。
その流れに乗るようにして、特に2022年~2024年の2年間は世界中がKPop一色に染まった時期だったように思う。
 

一方藤井風は2021年4月22日にきらりをリリースしており、某バイクメーカーのCMに起用されたことで一躍脚光を浴びる存在となった。
但し検索して行くとOfficial MVの公開は2022年と表記されており、正確には2021年と2022年のどちらかがやや曖昧になっている。
 
丁度その頃目に付いたのが、Vaundyの台頭と多数のアニソンが売り上げランキングの上位を占めている状況だ。
試しに2022年のヒットソングランキングを捲ってみたが、これと言って目立つ楽曲は見当たらない。翌年2023年にはYoasobiのアイドルが爆発的なヒットを遂げるが、此方はアニソン縛りと言うこともありコアな音楽ファン層の評価は低い。
 

2022年にデビューしたKPop/ガールズグループと言えばもう一組、LE SSERAFIMが記憶に新しい。(その頃から世界がKPopで溢れかえるような現象が加速して行くが) 既に韓国はHYBEでは『ミン・ヒジン率いるNewJeans 対 パン・シヒョク率いるLE SSERAFIM』の、後に言う「ヒジンの乱」の火ぶたが切られ、それが記事冒頭のニュースへと繋がっている。
丁度2022年~2025年の期間、藤井風はそれなりに音楽活動を続けて来てはいたが、2025年9月の騒動のような熱量は見られなかった。だがその間にも藤井風のPTSDと思われる症状は進行しており、それが先に私が記事に書いたような深刻な多重人格障害を発症させ、そちらも急激に病状が悪化したように見受けられる。
 
藤井風の背後には名前の上では「厳しい教育」を藤井に施す父親の強大な存在があり、いわゆる洗脳教育と藤井風のメンタル面に侵食して行ったであろう暴力のような行為が行われていた可能性を否定出来ない。
 

 
この間私はと言えば世界中の音楽を聴き漁り、それをSpotifyのプレイリストに粛々とスクラップし、それをSNS等に告知しながら音楽リスナーの底上げを試みていたが、色々な事情で露出をセーヴしている私の知名度の低さが災いし、私の活動が一部のファンに訴求した以外には大きな旋風を巻き起こすには至らなかった。
 
仕込みは万全だったが結果にコミット出来なかったこの期間、特に2024年明けの1月にはミン・ヒジン対 HYBEのトラブルが表面化し、同年11月末日のNewJeansの契約解除記者会見へと此方も又自体を一気に悪化させて行った。
 

 
一方現在の音楽シーンで目立つには、1980年代~1990年代に日本で爆発的にヒットした『シティ・ポップ』のカバーソングの台頭で、これは2025年現在も記録を更新している状況だ。
NewJeansのヘリンも2024年の6月26日/27日に東京ドームで開催された「NewJeans Fan Meeting \’Bunnies Camp 2024 Tokyo Dome\’」で、竹内まりやの『Plastic Love』を熱唱している。
 

 
近年良質な楽曲が激減している様子は私も、毎週末の「世界の音楽」の新譜をくまなくチェックしているので痛感している。
 
藤井風ファンが言う「藤井風の音楽が良い」と言う発言は方々に散見されるが、これはおそらく他に競争相手が居ない、現状は藤井ひとり圧勝の状況が招いた結果かもしれない。
確かに一見藤井風のメロディーは爽やかかつ独特のクセがあり、それがリスナーの中毒症状を引き起こす引き金にもなっている。だが多くの音楽リスナーは雑誌やメディアで持て囃されたミュージシャンの音楽しか聴いていないし、世界の音楽を探索して聴き倒すには彼らは余りにも仕事や社会に忙殺されているので、音楽を探す時間を確保出来ない状況にあるようだ。
 
世界の良質な音楽を常に耳にしていれば、藤井風如きのジャンキーな音楽を好きになる筈がないと私ならば思うのだが、手っ取り早く美味しい音楽が聴きたい層の音楽リスナーたちは「とりあえず」の感覚でメディアが紹介するところの、藤井風や椎名林檎や宇多田ヒカル辺りを聴いて周辺のリスナーとの同調を図ろうとする。
一人だけ無名のアーティストなんか応援していたらそれこそSNSや職場等で恥をかきかねないし、「とりあえず」誰もが知っているであろうアーティストの数名の新譜をごそごそと漁っているうちに、調味料で言うところの味の素をガンガン使って出来上がったカップラーメンのような藤井風のメロディーにハマり込んで行ったと見るのが妥当だ。
 

日本の教育状況や社会状況にも、大きな問題が山積している。
受験に必要な科目以外は授業内容が軽視されており、特に美術や音楽の授業は「どうでも良い科目」だと認識させるような風潮がある。
一部の合唱好きが毎週末集まるような部活がある以外、義務教育機関の中で本格的に音楽に接する機会はほぼ皆無だ。
 
そんな学生時代の日々の蓄積を経た若年層にとって、藤井風のメロディーは過剰なまでに甘美で心地好いだろう。
 

 
記事『藤井風と多重人格の可能性についてでも綴ったように、藤井風の言動や表情は誰が見ても変だ。
勿論彼がサイババ二世として活動を更新して行くことには賛同出来ないが、だからと言って心を病んでいる可能性が濃厚な藤井風を闇雲にバッシングし続けて良い理由にはならない。
むしろ今の彼を、これ以上追い詰めてはいけない。
 
問題を解決したいのか、それともアンチ活動を介して活動家たちが大勢の匿名集団を先導することで承認欲求を満たしたいのか‥。その境界線を各自が厳しく見極め、そういった一連の藤井風バッシングの波に便乗しない方が、社会的な意味での二次災害を防ぐ近道だと私は思っている。
 
寄ってたかって特定の人物を叩きのめしている輩の大半は、匿名で活動している。自分には火の粉が及ばないよう、完全防備の状態でSNSに網を張っている。
だがそこまで藤井風バッシング活動を継続したいのであれば、バッシングする側にも覚悟と責任を負う必要があるのではないか‥。
 
味の素を常習的に使用している料理人に味の素を否定するような言葉を吐いたら、当然のことその料理人は怒りキレて反撃に出るだけだ。‥ならばそこまで信仰が進んだ人々に関しては、「一人一人摘まみ上げて真実を伝える」と言うような偽善的にも見える言動は無駄に思える。
 
 
サイババ二世の藤井風が危険人物だと感じるならば、大勢で徒党を組んだりせずに各々の言葉で客観的にその旨を発信すれば良いと思う。
心ある人はその言葉に反応を示すだろうし、そうではない人たちは唾を吐くか離れるかの何れかの反応を示すだろう。それ以上を求めるべきではない。
藤井風を応援する側も応援しない人々も、反発したい人たちも、「足ることを知る」精神を胸に留め置く必要性を感じてならない。
 

 
思うに一連のトラブルは、良質な音楽家と音楽を輩出することで解決可能だ。
是非各々の意思で、良い音楽を探して吸収して欲しい。
 
世界はあなた方が思っているよりは広い。そこには未だ出会ったことのない良い音楽が静かな寝息を立てて、リスナーを待っている。
 

 

関連記事:

藤井風 – ニューアルバム『Prema』 表現解説

 
光を操るリラ星最後の巫女の私が、あえてこの人物に逆光をあてることには大きな意味がある。

2025年9月5日、藤井風のニューアルバム『Prema』がリリースされた。
私はこの作品をSpotifyで試聴する前々から、編曲 & サウンドメイクに深く関わったとされる韓国の電子系ミュージシャン250 (イオゴン)に着目していた。イオゴンが日本の問題児/藤井風の音楽をどのように料理するのか、その結果を先ず見てみたいと思っていた。
 
勿論問題児/藤井風の問題とは彼の宗教観をここでは意味し、藤井はサイババ二世として有名であるばかりでなく、藤井風の綴る歌詞の中にサイババ教義をふんだんに引用し、それを藤井風のオリジナルであるように偽装して何も知らない若年層に訴求している点を、藤井自身も最近ではさほど隠していないようにも見える。
それはけっして看過出来ない行為であることについては何ら変わりないし、長年音楽に携わり分析/解析を続けて来た私からすればここで藤井風の音楽を仮に何十回聴いたとして、それで揺らぐほど私の音楽スキルは軟じゃない。
 

 
アルバム『Prema』をざっと全曲試聴した印象は、兎に角鈍いし弱いし響かない‥ と言う一言に尽きる。

楽曲全曲がアメリカ進出を念頭に作られていると見て間違いないだろう。
だが、楽曲全体が強いアタックを必要とする構成になっているにも関わらず、藤井風の声質が余りに弱くて鈍くて、日本人向けの英語の教科書みたいになってしまっている点は松田聖子の『SEIKO JAZZ2』の冴えない出来栄え同様か、それ以上に冴えない出来栄えだと言わざるを得ない。
 

 
日本人の英語コンプレックスは藤井風には余り当てはまらないだろうと思っていたが、とんでもない話だったようだ。
兎に角声のアタリも鈍く聴こえるし、英語もだらしない。
使い古しのランニングシャツ同様に、藤井風自身も「ハーレムに舞い降りた聖者」を意識しているだろうから、成功しなかった側のBohoファッションとでも言うような倦怠感が彼の英語にも強く滲み出ており、音楽全体を一層疲労させ、貧困に見せて行く。
 

 
このアルバムの売り曲はどれだろうか?
『250 (イオゴン)』のサウンドメイクを聴く限り (私の推測が合っていれば) 、やはり『M-3: Hachikō』以外にイオゴンの熱量を殆ど感じ取ることが出来なかった。

藤井風のアルバム『Prema』のラスト曲、 『M-9: Forever Youngを聴いた時はふと、1994年にリリースされた八神純子のアルバム『Communication』の冒頭曲、Imaginationが脳裏を横切ったので比べて聴いてみたら、やはり私の脳内マッチングは正確だった。
 

 
『250 (イオゴン)』と言えばどうしてもNewJeansのヒット曲のサウンドメイクが思い出され、私の中のマイ・ベスト・250は『Ditto』を抜いて『Supernatural』が首位に立つ。
 

 

 
上記2つのサウンドメイク (楽曲) を藤井風のアルバム『Prema』と比較するのが怖い程、全く別人がサウンドトラックを担当したのではないかと言う程イオゴンの出来栄えが良くない。
手を抜いたのかそれともそもそもの楽曲の身の丈に合わせた結果、藤井風のサウンドメイクが出来栄えの劣化を免れられなくなったのか、その辺りはあくまで想像の域を出ないが、兎に角藤井風のアルバム『Prema』が昭和のアルバムではないかと耳を疑う程の古い作りに聴こえて来る。
もしもそれが意図的な企画だとしたら、わざわざ藤井風のアルバム『Prema』のサウンドメイクを『250 (イオゴン)』に依頼する必要が何故生じたのか、その辺りは当事者ではないのでよく分からないが‥。
 

 
藤井風自身からもそれまでの仕事から「‥どこか燃え尽きたような感覚」を訴えるコメントが出ていたようだが、ニューアルバムのだらしのないランニングシャツのジャケ写を始めとするアルバム全域に沁み出たドロップアウトな色彩や怠惰な印象、ダボダボの下着をさらに緩々に引き伸ばして着古したような表現はもしかすると、そちらの方が今の藤井風にしっくりハマっているのかもしれない。
 
特にインドを強く意識した象との共演等の、いかにも単純な仕掛けを一体誰が思い付いて映像化に踏み切ったのか‥、考えれば考える程よく分からない。
 

 
楽曲『Prema』の歌詞の中で、藤井は段々と豹変し、本性を現して行く。
『私は愛そのものだ』と口にした直後に、『私は神そのものだ』と言う彼の本音が遂に歌詞に託される。
 

 
楽曲Premaの中で彼が伝えたかったことは、恐らくこの一文だったのだろう。
だが残念ながら、藤井風は神ではない。もしもそう思い込まされているリスナーが一人でも居たらそれが全くの間違いであると、是非とも認識を改めるべきだ。
 

人は強烈なメッセージに惹かれ、そのメッセージ主に帰依したくなる瞬間がある。だがその帰依の先に一体何があるのか、無いのか‥、或いは何かがあるかのように騙されてはいまいかと、藤井風のような人物に遭遇した時は先ず一歩二歩離れて彼の言動を俯瞰する感性を持つべきだ。
けっして自分自身を捨てて、彼に身を捧げるようなことがあってはならない。
 

 
少なくとも音楽家として、藤井風はそのステータスを得られていないことは間違いない。だからこそ「サイババ」をここまで深く信仰し続けており、即ち藤井風の信仰心は、自身の才能不足の空洞を埋めるのにはうってつけの素材 (凶器) だったのかもしれない。
 
勿論音楽的にも稚拙であり、藤井風が宗教を隠し持って仮に藤井が全米進出を狙ったとしても、その夢を果たすことは出来ないだろう。
全てに於いて、(アルバム『Prema』も藤井風の声も) 響かない。
地球の裏側には届かない。
 

 

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