社会現象の観点から考察する藤井風 そしてNewJeans

2025年9月11日、午後1時からソウル中央地裁で開催された公聴会にて、NewJeans 対 ADOR専属契約を巡る訴訟はメンバー不在の中20分で終了し、双方合意に至らず決裂した。
(同日、ミン・ヒジン関連の別の口頭期日も開催されていた。)
 

 
 
彼女たちも万策尽きた状況だが、その後に判決が下ると言う実感が未だ湧いてはいないようだ。現状NewJeansの5人は、兎に角ゴネ得で外界から目を逸らせばそれでやり過ごせるとでも思い込んでいるようだが、法律はそこまでアマくない。
 

音楽も音楽業界も、共に荒れている。

 
特に私が2025年9月11日未明に更新した記事藤井風と多重人格の可能性についての記事訪問者数がとんでもないことになっている他、それまでアンチ藤井風側に一見立ち位置を取っていたように見えていた私に豪雨のような、言葉にならない不満を含めた現実的な『圧』が押し寄せた。
一度藤井風を『サイババ二世がサイババの教義をコピペした詞で音楽をリリースし、信者を増やしているのだから、どれだけ叩いてもいいではないか!』と声を荒げて叩き屋と化した藤井アンチたちにとっては、上記の記事はその後のバッシング活動をやり辛くする内容を存分に孕んでいたのだろう。
 
問題は藤井風自身の闇の深さ、その闇の周囲に立ちはだかる藤井風の父親 (つまり毒親であると推測される‥) の存在。
父親が喜ぶことをしなければ藤井風が家庭の中、世の中に居場所を失うかもしれない‥ と言う藤井風自身の危機感及び強迫観念。‥彼の強迫観念の行く先がつまりはサイババへの帰依であったことや、重度のPTSD発症とそれにともなう多重人格障害の可能性について。
藤井風は今、本当の意味での拠り所を失った状態だ。
 
ざっと目に見えている状況を列挙するだけで、これだけの (藤井風の) 闇が露出している。
 

 
昨日外出中にふと気になることがあり、外出先でスマホから音楽年表を検索してみた。

「藤井風の音楽が良い」と言うファンが、今年になって急増したように私には見える。
藤井風が『死ぬのがいいわ』を紅白で歌ったのが2022年の年末だったが丁度その年は、KPopのガールズグループ、NewJeansのデビューの年と重なっている。

NewJeansのデビュー曲『Attention』は2022年8月1日にリリースされ、瞬く間に旋風を巻き起こした。
 

 
剛腕プロデューサー/ミン・ヒジンのセンスは当初から高く評価されていた。
NewJeansはその後『Ditto』『omg』等、それまでのKpopにはないヒール色の薄い、爽やかでポップかつメロディアスな楽曲を立て続けにリリースして行った。
勿論タレント性は元々備わった彼女たちだが、それより何よりもNewJeansの楽曲は世界中のポップスの中でも際立って光っていた。
 
世界の音楽の空洞化をNewJeansの5人が見事に埋めていた期間、多くのポップス愛好者たちはNewJeansの音楽性とその音楽性を深くユニークに掘り下げて演出 (& プロデュース) に集中したミン・ヒジンの魅力に取り憑かれて行った。
その流れに乗るようにして、特に2022年~2024年の2年間は世界中がKPop一色に染まった時期だったように思う。
 

一方藤井風は2021年4月22日にきらりをリリースしており、某バイクメーカーのCMに起用されたことで一躍脚光を浴びる存在となった。
但し検索して行くとOfficial MVの公開は2022年と表記されており、正確には2021年と2022年のどちらかがやや曖昧になっている。
 
丁度その頃目に付いたのが、Vaundyの台頭と多数のアニソンが売り上げランキングの上位を占めている状況だ。
試しに2022年のヒットソングランキングを捲ってみたが、これと言って目立つ楽曲は見当たらない。翌年2023年にはYoasobiのアイドルが爆発的なヒットを遂げるが、此方はアニソン縛りと言うこともありコアな音楽ファン層の評価は低い。
 

2022年にデビューしたKPop/ガールズグループと言えばもう一組、LE SSERAFIMが記憶に新しい。(その頃から世界がKPopで溢れかえるような現象が加速して行くが) 既に韓国はHYBEでは『ミン・ヒジン率いるNewJeans 対 パン・シヒョク率いるLE SSERAFIM』の、後に言う「ヒジンの乱」の火ぶたが切られ、それが記事冒頭のニュースへと繋がっている。
丁度2022年~2025年の期間、藤井風はそれなりに音楽活動を続けて来てはいたが、2025年9月の騒動のような熱量は見られなかった。だがその間にも藤井風のPTSDと思われる症状は進行しており、それが先に私が記事に書いたような深刻な多重人格障害を発症させ、そちらも急激に病状が悪化したように見受けられる。
 
藤井風の背後には名前の上では「厳しい教育」を藤井に施す父親の強大な存在があり、いわゆる洗脳教育と藤井風のメンタル面に侵食して行ったであろう暴力のような行為が行われていた可能性を否定出来ない。
 

 
この間私はと言えば世界中の音楽を聴き漁り、それをSpotifyのプレイリストに粛々とスクラップし、それをSNS等に告知しながら音楽リスナーの底上げを試みていたが、色々な事情で露出をセーヴしている私の知名度の低さが災いし、私の活動が一部のファンに訴求した以外には大きな旋風を巻き起こすには至らなかった。
 
仕込みは万全だったが結果にコミット出来なかったこの期間、特に2024年明けの1月にはミン・ヒジン対 HYBEのトラブルが表面化し、同年11月末日のNewJeansの契約解除記者会見へと此方も又自体を一気に悪化させて行った。
 

 
一方現在の音楽シーンで目立つには、1980年代~1990年代に日本で爆発的にヒットした『シティ・ポップ』のカバーソングの台頭で、これは2025年現在も記録を更新している状況だ。
NewJeansのヘリンも2024年の6月26日/27日に東京ドームで開催された「NewJeans Fan Meeting \’Bunnies Camp 2024 Tokyo Dome\’」で、竹内まりやの『Plastic Love』を熱唱している。
 

 
近年良質な楽曲が激減している様子は私も、毎週末の「世界の音楽」の新譜をくまなくチェックしているので痛感している。
 
藤井風ファンが言う「藤井風の音楽が良い」と言う発言は方々に散見されるが、これはおそらく他に競争相手が居ない、現状は藤井ひとり圧勝の状況が招いた結果かもしれない。
確かに一見藤井風のメロディーは爽やかかつ独特のクセがあり、それがリスナーの中毒症状を引き起こす引き金にもなっている。だが多くの音楽リスナーは雑誌やメディアで持て囃されたミュージシャンの音楽しか聴いていないし、世界の音楽を探索して聴き倒すには彼らは余りにも仕事や社会に忙殺されているので、音楽を探す時間を確保出来ない状況にあるようだ。
 
世界の良質な音楽を常に耳にしていれば、藤井風如きのジャンキーな音楽を好きになる筈がないと私ならば思うのだが、手っ取り早く美味しい音楽が聴きたい層の音楽リスナーたちは「とりあえず」の感覚でメディアが紹介するところの、藤井風や椎名林檎や宇多田ヒカル辺りを聴いて周辺のリスナーとの同調を図ろうとする。
一人だけ無名のアーティストなんか応援していたらそれこそSNSや職場等で恥をかきかねないし、「とりあえず」誰もが知っているであろうアーティストの数名の新譜をごそごそと漁っているうちに、調味料で言うところの味の素をガンガン使って出来上がったカップラーメンのような藤井風のメロディーにハマり込んで行ったと見るのが妥当だ。
 

日本の教育状況や社会状況にも、大きな問題が山積している。
受験に必要な科目以外は授業内容が軽視されており、特に美術や音楽の授業は「どうでも良い科目」だと認識させるような風潮がある。
一部の合唱好きが毎週末集まるような部活がある以外、義務教育機関の中で本格的に音楽に接する機会はほぼ皆無だ。
 
そんな学生時代の日々の蓄積を経た若年層にとって、藤井風のメロディーは過剰なまでに甘美で心地好いだろう。
 

 
記事『藤井風と多重人格の可能性についてでも綴ったように、藤井風の言動や表情は誰が見ても変だ。
勿論彼がサイババ二世として活動を更新して行くことには賛同出来ないが、だからと言って心を病んでいる可能性が濃厚な藤井風を闇雲にバッシングし続けて良い理由にはならない。
むしろ今の彼を、これ以上追い詰めてはいけない。
 
問題を解決したいのか、それともアンチ活動を介して活動家たちが大勢の匿名集団を先導することで承認欲求を満たしたいのか‥。その境界線を各自が厳しく見極め、そういった一連の藤井風バッシングの波に便乗しない方が、社会的な意味での二次災害を防ぐ近道だと私は思っている。
 
寄ってたかって特定の人物を叩きのめしている輩の大半は、匿名で活動している。自分には火の粉が及ばないよう、完全防備の状態でSNSに網を張っている。
だがそこまで藤井風バッシング活動を継続したいのであれば、バッシングする側にも覚悟と責任を負う必要があるのではないか‥。
 
味の素を常習的に使用している料理人に味の素を否定するような言葉を吐いたら、当然のことその料理人は怒りキレて反撃に出るだけだ。‥ならばそこまで信仰が進んだ人々に関しては、「一人一人摘まみ上げて真実を伝える」と言うような偽善的にも見える言動は無駄に思える。
 
 
サイババ二世の藤井風が危険人物だと感じるならば、大勢で徒党を組んだりせずに各々の言葉で客観的にその旨を発信すれば良いと思う。
心ある人はその言葉に反応を示すだろうし、そうではない人たちは唾を吐くか離れるかの何れかの反応を示すだろう。それ以上を求めるべきではない。
藤井風を応援する側も応援しない人々も、反発したい人たちも、「足ることを知る」精神を胸に留め置く必要性を感じてならない。
 

 
思うに一連のトラブルは、良質な音楽家と音楽を輩出することで解決可能だ。
是非各々の意思で、良い音楽を探して吸収して欲しい。
 
世界はあなた方が思っているよりは広い。そこには未だ出会ったことのない良い音楽が静かな寝息を立てて、リスナーを待っている。
 

 

関連記事:

藤井風と多重人格の可能性について

同じ人物を立て続けに取り上げて記事を書くことは正直本意ではないが、今回は前記事【藤井風 – ニューアルバム『Prema』 表現解説】とは全く異なる視点で藤井風について検証と分析を重ねてみたいと言う心情に至った。

 
数日遅れで私もようやくTverで、徹子の部屋 – 〈藤井風〉父の教えを胸に…「努力」積み重ねた日々を試聴することが出来た。

冒頭の衣装はまさに『Hachikō』のPVでも藤井が纏っていた衣装であるが、この衣装はおそらくヒンドゥー教の最高神の一柱『シヴァ』をイメージしたものではないかと感じた。

 
シヴァ (マハーカーラ) のイメージ画像と見比べると、それは一目瞭然で分かる。
 

 
藤井の衣装の襟や袖の突起の部分が、上記の画像と重なって視えて来る。
又サングラスの黒い部分が3カ所に分かれており、真ん中の黒いレンズ部分は『第三の目』をレンズで覆ったようなイメージではないだろうか。
シヴァ (マハーカーラ) の銅像にも、第三の目はくっきりと彫られている。
 


さて、ここからがこの記事の本題である‥。
 
徹子の部屋 – 〈藤井風〉父の教えを胸に…「努力」積み重ねた日々を注意深く視ていると、藤井風の表情や目つきが話題によってコロコロ変わって行く様子がよく分かるだろう。

合計23分29秒に及ぶ映像の中には、(私の印象ではあるが) 男性が一人も出て来ない。
確かに見た目は男ではあるが、目や表情、声質、声色から仕草に至る全てが様々な女性の人格で演じられているように見える。

特に象徴的だったのが、故郷岡山や藤井風の父親の話題に触れた時だ。ここで人格が入れ替わる瞬間を、瞬時に察知することが出来る。
はっきり書いてしまうと、藤井風は多重人格者であり、彼の中には複数の人格 (主に女性) を見ることが出来る。その中の一人は明らかに女児であり、上の写真のように上目遣いになったり唇をすぼめる瞬間に女児の人格がはっきりと顔を出して来る。(写真 下 ⇩)
 

 
又、途中自身の若い頃のショパンの『革命』を演奏する映像が流れた辺り (9:44辺り) では、一瞬苦悩の表情が顔を出し、その後ベジタリアンの話題やワールドツアーの話題に触れた時と同じ、彼の中のアメリカ人女性と思われる別人格が顔を出す。
この瞬間が、人格交代の瞬間ではないかと思われる。(写真 下 ⇩)
 

 
思うに藤井風は宗教観 (サイババ教) を用いた音楽を配信すると言う意味では加害者であるが、同時に彼の父親の厳しい教育過程の中で行われた虐待 (精神的/肉体的の両面) の被害者であり、かなり重度なPTSDを発症している可能性を否定出来ない。
 
藤井風の基本人格はPTSDを発症した人格であり、おそらくその人格を守り合う別人格が複数存在すると言う仮説を立てると、一連の表情や口調、声色の変化や言動等の違和感の辻褄が合って来る。
ニューアルバム『Prema』からタイトル曲Premaの中で藤井は「私は神そのものだ」と叫びを上げているが、実は藤井風を宗教者に仕立て上げようとしているのは藤井自身ではなく、彼の父親の希望 (或いは命令に近いもの) だと考えると、一連の藤井の言動のブレに一貫性が出て来るように感じる。
 

 
Xやその他のSNS等では藤井風のサイババ二世だと言う件やステルス布教等が大きく取り沙汰されているがそれだけでは済ませることの出来ない、取返しのつかない程の大きなメンタルの傷を、実は藤井風自身が抱え込んでいるように思えてならない。
これは私自身が通って来た道とも大きく似ており、私の場合は不幸中の幸いでそもそも過去世の経験が豊富であり、尚且つ過去世の記憶や経験の蓄積が今世の私を人生の脱線から救ってくれた。
だが藤井風の場合はPTSDを抱え込んだまま日常的な人格交代を早い時期から繰り返し、それが常習的かつ長期的に行われていたのだとしたら、もはや藤井風は藤井風であって藤井風ではないと言うような状況に彼が追い込まれている可能性は濃厚だ。
 
かと言って藤井風が『ウィンディー・サイババ』として開祖したら心の傷や多重人格障害から立ち直れるのかと言われたら、もうその段階はとうに過ぎてしまったのかもしれない。
最も苦しいのは基本人格の藤井風だと思うが、第三者にはどうにも出来ないのでただただもどかしい。
 

これまでは藤井風はサイババ教を悪用したミュージシャン‥ と言う視点で見て来たが、徹子の部屋 – 〈藤井風〉父の教えを胸に…「努力」積み重ねた日々を試聴してからはそんな簡単な問題では済まされない事態が水面下で起きていたのではないかと、個人的に、藤井風が毒親の被害者ではないかと言う別の視点を心に置くに至った。
 

この記事ではここまでしか書くことが出来ないので、何かしら状況に変化や異変、進展等が見られた時に続きを書きたいと思う。
少なくとも藤井風のメンタル面や言動がこれ以上悪化しないことを、切に祈り続けたい。
 

【追記】 
そもそも藤井風 が信仰しているサイババ (サティヤ・サイ・ババ) の元は『シルディ・サイ・ババ』であり、此方は行者である。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%90

そのうち藤井が『ウィンディ・サイババ』等と名前を変えて新興宗教を立ち上げる日が来るのではないかと、ふと映像が過った。
予感が外れてくれると良いのだけど‥。

Yellow Sky – トラウマが癒える日

ある時期まで、空が黄色く視えていた。生まれた時からそうだったかどうかは定かではないが、気付いた時には私の目はオールドレンズのように、色褪せた世界を写し出していた。

マンションの8階の北側の部屋はオアシスでもあり、牢獄でもあった。その部屋の窓から見える空は夏でも冬でも黄色く煙り、少しだけ埃っぽい臭いが混じっていた。
 

私はずっと青空を知らなかった。小学校で空の絵を描いた時も、私の画用紙には他のクラスメイトが描くような澄んだ青空ではなく、砂で汚れたような少し黄色い空が描かれていた。
それが私のリアルであり、私はずっと青空の本当の色を知らなかった。
 

私にとって、夏休みは拷問のシーズンだった。朝から母の怒りをもろに受けて、監視されるようにして日々の練習と虐待に耐えた。その様子を弟は遠巻きに見てはいたけど、知らん顔で無視し続けた。
 
正午を過ぎた頃、決まって光化学スモッグ警報音が町じゅうに鳴り響き、学校のプールも2時間ぐらいは閉鎖された。
澱んだ空気の中でも兎に角家から飛び出したいと私は、どれだけ願っただろう。鉄の蠅叩きみたいな母の手が私の目を殴打し始める前に、水着とタオルとゴーグルを詰め込んだビニールバッグを持っていそいそと家を飛び出すことに成功した日は、いつもよりも長い距離を泳げる気がしてわくわくした。
 
だが現実はそう簡単には行かなかった。
母が目を離した隙に家を出ようと玄関に出ると、靴が定位置から消えている。あの手この手で行く手を塞ぐ母の顔が狂気に満ちて、私は毎日酷く委縮した。
そんな私の目に映り込む空は、古い写真の中の空のように黄色かった。
 


トラウマが癒えるには、多くの時間を要するだろう。
実家の家族の、私以外の全員があの世に逝った今も頻繁に、私はあの頃の夢を見る。

空が黄色かった頃の日々のことを、今も忘れることはない。
昨夜の夢の中では得体の知れない誰かの手が私の首に巻き付いて、じっとりと濡れた感触が首を絞めて来た。実際には喘息気味で咳込んだだけだったが、夢の中では別のストーリーが進んで行って、途中で何とか夢から飛び出した。
 

目が覚めるとそこは、いつも通りの日常。夫が傍で眠っていて、その寝息を数分間聞きながら私はようやく我に返った。
現実はとても穏やかで、カーテンを開けるとセピア色でも黄色でもない、真っ青な空が広がっていた。
 
忌まわしい何かを振り払うように、昨日は少し荒々しさを込めて鍵盤を叩いた。そんな自分が時折嫌いになり、その度にこんなのは本当の私じゃないと自分をちょっとだけ責める‥。
 

今も時々、黄色い空が蓋をするみたいに迫って来る瞬間がある。

 
トラウマが完全に癒えるには、さらに多くの時間を要するだろう。
 

週末の度に私は‥

3月半ばから長期的な風邪に見舞われており、5月に入った現在も未だ微熱が引かない。そんな体調の中でもブログを更新したい日もあるので、最近は時々スマホからSNSサイズの記事を投稿することが増えているが、この記事はPCから書いている。
 

毎週末に音楽の各サブスクリプション上で更新される新曲を欠かさず聴き、チェックし、良曲だけをSpotifyに作成したプレイリストにスクラップしている。
自身が音楽家であり作曲もするのになぜ他の人の音楽にここまで夢中になるのか‥ と時折抗議のDMも頂くが、私にとって今の地上の良曲をコレクションすることは「祈り」の一環である。自分の作品だけを宣伝したり販売している音楽家は大勢居るが、仲間でも同業者でもない第三者とも言うべき他の音楽家の作品をここまで数多く紹介している芸術家は稀だ。

サブブログディディエメラの音楽倉庫にも綴ったように、今週末は良曲が酷く少ない週だった。

今や多くの音楽家が職業として音楽をやっており、食べる目的で新作をリリースしているようにも見える。納期に間に合わせなければならないのに、聞くところによると各々のミュージシャンは手持ちのストックが少ないとの話もちらほら‥。
世の中の流れが速すぎるのだ。あくせくと働いてただ、ひたすら稼ぐ。音楽家になろうと思い立った最初の自分にもはや戻ることすら出来なくなってしまったミュージシャンも、きっと大勢居ることだろう。
 


クラシック音楽は既に、予定されていた音楽の歴史から脱輪した。
ロマン派の時代は戦争によって破滅し、その後に近現代音楽の歴史が始まった。そうなると地上で最も美しかったロマン派の音楽は過去の産物となり、2025年の今でも現代音楽の時代が細々と続いているようだ。
音楽界は現在二分しており、「クラシック音楽現代音楽」と言う構図になっている。それぞれの音楽には欠陥があり、多くのクラシック音楽の中にはその時代の空気が丸ごと封印されている為、クラシック音楽を好きになれないリスナーもまだまだ多い。
一方で現代音楽は理論体系自体が崩壊しており、各作曲家の衝動とその場の思い付きと「奇をてらう」精神で作曲されている為、映画音楽等の特定のシーンに音楽を当てる以外の使い道が存在しない。勿論現代音楽を食事中に聴くことも不可能だから、普及する筈もない。
 

私 (Didier Merah) は上記のどちらでもない音楽を生み出している。
戦争や時代の事情で破滅した、この世で最も美しいロマン派のエレメントを継承しており、私の多くの楽曲は、どの時代にも存在し得ないオーパーツをふんだんに内包している。
 


最近早朝に目が覚めることが増えている。気が向くとSNS (Xのサブアカウント, Threads等) に文字を書き込んで放ったりする、そのついでにここに来て、Threadsから投稿した記事をリライトして短文投稿することもあり、そのちょっとした時間が私にとっては癒しの一つになりつつある。
 
今朝は悪夢で目が覚めた。悪夢が多いのもきっと長引く微熱の影響だと思うけど、この連休中はあの世からの来訪者も多い。
実母は現自宅からそう遠くない合祀墓に眠っているが、母は私を酷く嫌い、殺意さえ持っていただろうと見られる多くのメモが母の死後、遺品整理の際実家から見つかっている。
 
今日は起き抜けに頭痛もあった。だがいつもの頭痛とは質が違っていて、今朝の頭痛は頭部の右側と右目の上辺りに痛みが集中していた。丁度母が、私の幼少期から大人になるまで日夜殴っていた箇所と重なっており、母の念が近くを徘徊しているのを感じた。
私は日々当たり前のように母の暴力を受け入れて、思春期を生き延びて来た。彼女は毎日何かと理由をつけては私の右側から彼女自身の利き手を使って殴りかかり、私の顔や体は常に痣だらけだったが誰も助けてはくれなかった。
 

30代で渡米した後に脳に詳しい医者に出会い、医師の診断を仰いだことがあった。それによると現在私を悩ませている乱視の要因の一つが、母の暴力だった可能性が浮上した。
悪いのは目ではなく、脳に障害があるのでは‥ と言うのが彼の見立てだった。それは年々後遺症として体に現れる可能性はあるが、改善する見込みはないとの話。
還暦になった私は、マンションや駅の階段さえも手すりにつかまらなければ歩くことが出来ない。遠近感がおかしい。既に30年も前にそのことは医者に忠告されていたので、今はそんな体調とも向き合いながら何とか生活をやり繰りしているが‥。
 


現在私たち夫婦は富士山の見える場所への移住 (正確には東京と別宅の二拠点生活になるが‥) を予定しており、その為の人脈作りと住宅探しを開始した。‥その途端に微熱の引かない風邪に見舞われたわけだが、それもこれも「圧」だと認識し、体に過剰な負担を掛けないような生活サイクルの中で出来ることを出来るだけ消化するよう努めている。
 

何度も書いているが、私はリラ星最後の巫女だった。リラ星が自爆したことを知る人は、多分私以外には存在しない。これは記憶を持っている人でもその記憶に触れることが難しく、私もその記憶を10年前頃に復活させたばかりだ。
その後色んな「人」として私は地上に転生を繰り返し、現在に至る。
 

数時間かなりの分量の音楽を聴いたり整理したり‥ 色々やっていたので、もっと文字を書きたい気持ちは山々だが体力的には限界だ。
更新したプレイリストは冒頭のサブブログのリンクからも辿れるので、この記事の最後は自分の音楽で締めくくる。活動初期に古い楽器で演奏しているので音質には若干問題はあるが、この作品は私自身の葬儀を棺の中から見上げている時の風景を音楽にした一曲だ。
 

私の半生と苦痛 – ④Yellow Sky – 黄色い空

直前の過去世のイタリア、トスカーナの空はいつもどこか緑がかっていたような記憶があります。でもそれは美しい自然の色、地球の色彩の一部だったと思います。

幼少期、多分5歳から6歳、地元の教会幼稚園に少しだけ通って卒園する前に(ある理由により)やめることになった後の私は、両親からの心身への尽きない暴力(虐待)によって少しずつ身も心も叩き壊されて行く過程にありました。
子供にとって、親は絶対的な存在です。なので当時の私は自身の過酷なまでの両親からの暴力は、誰もが経験する普通のことだと思っていました。
 
ピアノの練習と共に始まる母親の暴力を母自身は英才教育だと言い、それは毎日止むことなく公然と行われていました。彼女は何故か私の目(眼球)を狙うようにして、自分の手の関節で私の目を何度も何度も殴りかかって来ました。
特に理由があったかどうかと訊かれたら、私にもそれはもう分かりません。ですが私ののんびりとした動作や、子供離れした私の一言一句が彼女のカンに障ったのでしょう。
兎に角何かと口実を付けてはマンションの一室にある北の練習部屋のドアを乱暴に開けて、私の目を狙っては何度も何度も幼い私を殴り続けました。
 
その合間に母は何事もなかったように夕食の支度をし、煮ものが一個仕上がると私の部屋に来ては又私の目や頬を殴打し、一通り殴り終えると又夕食の支度に取り掛かり、次は家族4人分のカキフライに衣をまぶし終えると又私の練習部屋に来ては、先程の続きのように私の目を何度も何度も殴りかかりました。
 
当然私に抵抗すること等許される筈もなく、私の右目は真っ赤と真っ青の中間のようなおかしな色になって腫れ上がり、冷水で顔を洗う時にまでその箇所がズキズキと痛むような、子供が普通ならば経験し得ないような痛みを常に引きずっていました。
 

 
頭上に広がる空がずっと黄色かったことも、当時の私にとっては普通のことでした。クラスの友人が時折つぶやく「空が青くて綺麗‥。」と言う言葉の意味がよく分からず私に視えている空はずっと、緑がかった黄色のままでした。
 
私が小学校の低学年の頃、夏になると殆ど毎日のように光化学スモッグ警報が発令されました。その空を見ていたクラスメイトたちは口々に、「今日は空がいつもより黄色いね。」と言うのですが、私にはいつもとさして変わらない普通に黄色い空に見えていたので、いつからいつまでが光化学スモッグ中で、いつからいつまでがそうではない空なのか‥、全く見分けが付かなかったのです。
それよりも時折、視界の真ん中に誰かがカッターで勢いよく紙を切るような線が走ることがあり、それが私の目の異常から来るものだとは知らずに「こんなものなのかな。」と思いながら過ごしていました。
※後に私が33歳の時に出会ったアメリカ在住(アメリカ系ギリシャ人)の精神科医によってそれが、母親からの虐待によって発症したPTSDの現象の一つだと判明します。
 

小学校低学年の頃から私は自分では気づかない何かしらの色々な能力を学校の教師に買われ、英語の朗読の会に急遽出場が決まったり、お習字の都展にエントリーが決まったり‥ と、両親の想定外のイベントに引っ張りだこになって行きました。
当然それらは課外授業の一環として部活のように「午後練」の時間が設けられ、私は親に内緒で午後練にひっそりと参加していました。
私にとってはそれがとても楽しい時間であり、安らぎのひと時だったのです。
 
お習字の都展にエントリーする際には半紙に二文字を書く、シンプルな稽古を何時間も続けることになり、放課後の校舎に残っては夜遅くまで何度も何度も「希望」と言う字を書き続けました。
母が一切介在出来ないこの時間は私にとってはとても神聖な静寂の時間でもあり、私は心ゆくまで「希望」の二文字を書き続けました。でも日も暮れて夜6時にもなると、母親が黙ってはいないのです。
静かに文字を書いている校舎の2階の教室に怒鳴り込んで来て、「一体いつまで続くんですか?もう外は真っ暗なのに!」と言い、監督の教師に怒鳴りかかった声を今でも私は忘れることが出来ません。
 

 

母の異様な形相を見た担当教師は慌てふためきながら、「もうあと一枚で仕上がるところなんですよ。もう少しだけお待ち下さい。」と言い、母親を別の教室に誘導すると私に目配せをして、「ゆっくり書いていいからね、落ち着いて。」と言って15分近く母の話し相手になってくれました。

その間に私は、5枚分の「希望」をしっかりと書き留めました。
そして各半紙の左隅に自分の名前を小筆で書いてそれを黒板近くの大きな箱に一枚一枚置いて、別室で大声で喚き立てている母の元に向かいました。
すると母は教師には見えないように私の手の甲をこれでもかと言わんばかりに思いっきりつねって、顔ではにっこりと微笑みながら「さあ、早く帰ってピアノのお稽古をしなきゃ!」と言って、私を教室から引きずり出しました。
 
家に帰ると室内が黄色く染まっていました。当時の私の目には、白熱灯の光も黄色く視えていたようです。しかも明るさが他の人が見ているそれよりも若干暗く写り込んでいた事を、33歳の私の心の病を診断したアメリカ人の精神科医によって後から知りました。
 
私のPTSDは小学校低学年にして既に発病していたのでしょう。
青空を知らぬまま私は高校生になり、それが改善されないまま大学に進学すると、私の視界に映り込む横断歩道の白線までも黄色く染まり、当時の私が五線紙の白い紙の色さえも認識出来ていなかったことを後から知りました。


牛乳やお豆腐、ヨーグルトや体操着の「白」が私にはずっと黄色に視えていたのですが、それを不自然とは思わないまま大人になった頃には、私の心は常に恐怖心との戦いに怯え、その合間に時折この世のものとは思えない何かの影に付き纏われるようになり、今思えば私は崩壊寸前まで壊れていたように思います。
 
ですがそのような最中でも私は、社会性だけは放棄しませんでした。
なので母や生前の弟がもしも私のことを「ピアノだけは弾けるかもしれないけど、突然奇声を上げて所かまわず大騒ぎをする気のふれた人だ。」‥ 等と言っていたとしたら、それは全くの嘘偽りです。

もしも私をそういう人だと誤解している人がいらしたら是非、私に対する認識を改めて頂きたいです。
 

to be continued…