夏の思い出 (“Old Folks” – Chris Botti を聴きながら)

私は自身が作曲をし、それをピアノを通じて表現する人。なので再現音楽の類いを好まない。
時々あっいいな‥ と思う人、例えばダイアナ・クラールとかキース・ジャレットとかそういう人の演奏や表現には徹底的に心を持って行かれるが、それ以外の再現音楽奏者には殆ど興味が無いのだ。
 

久々にChris Botti (クリス・ボッティ) のジャズを聴いた。と言うより、クリス・ボッティが遂にジャズを演り始めてしまったか‥ と言う失望の方が感動よりも完全に上回っている。

かつてはポップスやフュージョン等をグイグイ演奏していた音楽家が年を重ねて、気力体力が追い付かなくなって来ると決まってジャズメンに転向するのは何故だろう。
オリジナル曲を持っているのにその再演を回避して、多くのミュージシャンたちがジャズを歌い奏で始める度に私は、一人の音楽家(作曲家)として落胆する。
 

最近はそれまで大好きだったヴァイオリニストのLucia Micarelli (ルシア・ミカレリ) がヴァイオリンを脇に置いてジャズを歌い始める始末だ。それがけっして上手ではないし良い声質と言うわけでもないのにドヤ顔で歌い切る姿はどう見ても、器楽奏者と言う脇役の負のループからの脱却を狙っているように見えて辛くなる。
 
 

 

そんな中、まさかのクリス・ボッティのジャズらしいジャズがリリースされたので、もしかするとクリスも今後ジャズ・トランペッターに段階的にシフトして行くのではないかと正直不安になった。
 
私が大好きだったのは、あのStingとのコラボの “La Belle Dame Sans Regrets” を悲しげに吹いていた頃のクリス・ボッティだった。
リリース時期を調べてみたら、2004年だ。つまり今日から遡ること19年前のクリスが、私の中では最高の音色を出しているように思う。ざっと計算するとクリス・ボッティが41歳の時の音が、程好く尖がっていて程好く花びらが散り始めたような、そんな印象が強い。
 
 

 
先日久々に「売り物」の音楽やそれを制作している素晴らしいプロデューサーに接して、色々なアイディアを出させて頂くと言う貴重な体験をしたばかりだ。
勿論私が売り物に関わる時には、私自身の音楽は一切出さない。自分のことは自分が一番よく分かっているし、私は自身の作品に於ける他者の「ダメ出し」を絶対に許さない。
 
神さまからのギフトにケチをつける人は居ない。それと同じ話。
私の音楽は一人の人間が作ったものではなく、おそらく神々の思いやアイディアが私の中に降りて来てそれを再現していると認識しており、作曲者は私であって私ではないと思っているから。
 
昨年秋の終わり頃から或る記事を機に先方のマネージャーや通訳の人と繋がり、それが段々と発展して世界的なミラクルへと繋がって行った。
 

私自身の音楽性もデビューの2009年からかなり変容(変化)した。
私の中の本物を見つけるのに、少なくとも4年から5年は経過しただろうか‥。自分の中に自分を見つけた後はさらに無駄を削ぎ落して削ぎ落として‥ の繰り返しだった。
勿論私自身も少しばかり年を重ね、もともと運動神経が良くない私が今さらショパンのスケルツォやリストの「ラ・カンパネラ」など弾けるわけでもないし、その必要すら全くなかった。
 
運動神経で奏でる音楽ではなく私は、美しい残響に残響を重ね合わせるような、そんな音楽を目指している。
既に9歳の時に過去世の音色を思い出して、気付いて、その音楽に向かい始めていた。当時ピアノの教授らには「ペダルが汚い」とか「もっと細かくペダルを踏み替えなさい」等と何度も注意された。だがそれでは大聖堂で響いて来るような荘厳なピアノの音色など再現出来る筈もなく、私は他の同年代の学生たちに次第に置いてきぼりを喰らいながら、私の記憶の中に在る音楽をずっと一人で探し続けていた。
 

年老いたからと言っていきなり既存のクラシック音楽を弾くなどもっての外で、気付けば私は最初っから、百年後の自分に捧げる音楽を作っていた。
 
未来はその時間、その時点に到着しなければ分からないことが沢山あるかもしれない。だが私は9歳の夏に、今の自分をおそらく知っていたように思う。
私を常に奮い立たせてくれるものがあるとすれば、それは「自分と世界の音楽家とを比較する貪欲な精神」だった。それが小さな町の酒場での演奏の瞬間であっても私は、その瞬間を録音しては心に鞭を振るい、「もっと世界の真ん中へ行け!」と自分を叱咤し続けた。
 
 
ものの真ん中を見た人ならば分かると思うが、真ん中は常に空洞で人っこ一人居ないのだ。比較する相手も居ないし、私が今心に思い描いている音楽と同じ素材を作る人も存在しない。
真ん中とはそういう場所だ。

 
 

 
リスナーとしての私の中の「真ん中」に居た筈のクリス・ボッティが、気付けば脇道を歩み始めている。彼が彼自身の音色を放棄してジャズと言うカテゴリーの中に収まることに、クリスは何を見い出しているのだろうか。
 
勿論未だにクリス・ボッティの音色は美しく清らかであることに変わりはないが、音楽や表現手法を老いさせる世の音楽家の一人になり下がって欲しくないと言う私の願いは、もしかすると叶わないかもしれない。
 

 

 
そんなクリス・ボッティとヴァイオリニストルシア・ミカレリが共演した「Emmanuel」の中では、二人それぞれの頂点の音が記録されている。2009年、クリス・ボッティが47歳の時の音楽は既に5年前の華やかさや煌びやかさを失い始めているものの、今のクリス・ボッティよりも音色が澄んでいて憂いがあったように感じてならない。
 

人は誰しも老いて変わって行き、いつかは土に還って行く運命に於いては万人が平等だ。
私にもいつかその時は訪れるが、出来ることならば私が残響の音楽に気付いてそれを思い出した9歳の夏の自分を失わずに居たい。
 

この記事の最後にクリス・ボッティが2023年8月にリリースしたシングル『My Funny Valentine』の2曲目にトラックされている、此方も有名なジャズのスタンダード・ナンバーの『Old Folks』のYouTubeを貼っておく。
 
 

 
 

[音楽評論] Mario Biondi – “Brasil” (album)

良い音楽は良いなりに、そうではない音楽は理論武装をしつつそれなりに紹介出来れば良い。そう思ってこのブログをSNS “note” のアカウントと共に立ち上げたが、そもそも私は「自身が売れる」為と言う目的を一切持たない。
 
「多くの人々に認知されなければプロとは言えない‥」
私に対しそのような言葉を放つ人々もけっして少なくないが、私はそうは思わない。
 
正しい評価を下すこと。
音楽評論家はそう在るべきだ。その為には他者からカネを取らないで各々の音楽作品や表現等に対しジャッジメントを下す方が、より精度の高い評論に到達出来ると確信している。
 
カネを取るからプロ‥ ではない。
料理にも「時価」と言う価格設定の方式があるように、私は「タダより怖いものはない」と言う価格を自らに設定している。
誰に対する忖度を一切しないところに、本物の価値観が出現する。私はその英断を振るう、世界でただ一人の音楽評論家で在りたいと思う。
 


久々にMario Biondiのアルバム『Brasil』を聴いている。
たまたま私の好きなシャンソン『Jardin D’Hiver』が収録されており、『Jardin D’Hiver』を検索していたらMarioのアルバム『Brasil』が逆ヒットしたからだ。
 

最初この人の声を聴いた時は背骨が折れそうな程痺れたものだったが、段々と飽きて来た(笑)。
表現が一色だからかもしれない。

喉の奥を絞って発音をくぐもらせたようなある種のクセは、段々と日を追う毎に食傷気味になって行く。クセとはそういうものかもしれない。
それはどこか豚骨ラーメンをある日いきなり好きになり、ある日いきなり胸やけを起こす程嫌いになる様子にも似ているかもしれない。
 

アルバム『Brasil』と言うタイトルから想像するのは、どの曲のどの箇所を切り取ってもブラジルであることだったが、このアルバムはその期待をあっさりくったり裏切ってくれた。
良くも悪くもチルアウト的であり、UKやイタリア、或いはオランダ辺りの緩いチルアウトミュージックを率先してコレクションして繋ぎ合わせてチャンネルを作っている、DJ界隈に好まれそうな音楽が数珠繋ぎに集まっているアルバムだ。
 

それもその筈。Mario Biondiは最初欧米のチルアウトミュージック系のDJ辺りから火が着いた人で、私が最初に聴いた彼の作品はこの曲だった。
 


非常に口当たりの良いワイン(ロゼ)と言う感じの曲だが、未だある種の彼の発音の癖がこの頃は然程気にならなかった。
良質な楽曲にも恵まれていたからかもしれないが、Mario歴を重ねて行くうちに段々と彼の声質が鼻について来て最近は滅多なことでもない限りはMarioの作品には触れなくなった。
 
最近の作品と上のYouTubeのWhat Have You Done to Meを聴き比べてみると、若干最近のMarioの声質の劣化(現在Marioは52歳)が見られ、それが理由で彼の発音のくぐもりが悪い意味で際立って来たのかもしれないと気付いた。
 


アルバム『Brasil』には英語の楽曲も多数収録されているが、そもそも母国語の表現力すらも一本調子のMarioに英語を巧みに表現出来る筈もなく、何とも空振り感がハンパない。

英語曲と言えば私がパっと思い付く推し歌手にStingが居る。Stingも楽曲にはかなりムラがあり、良い曲とそうではない曲のインプレッションの差が激しい。
だがStingは時折フランス語等の楽曲のリリースもあり、そんな時のStingの表現は本当に冴え渡っている。
 


『L’amour c’est comme un jour』、これはシャルル・アズナヴールとStingがデュオを取る形で楽曲のパートを交互に歌って収録されている。
Stingのフランス語が聴ける貴重な音源だが、勿論ネイティブではないStingの表現がアズナヴールとは異なるある種の高みに到達しているように聴こえてならない。
本当に素晴らしい。
 
Mario Biondiの『Brasil』に対しても同様に期待をしたことがいけなかったのか、音楽に対する消化不全のMarioの表現がいけないのかはもう問いようもないが、やはりヴォーカルものはフロントの歌手が音楽全体を牽引して行く使命があると言う点では、かなしい結果であることは否めない。
 
唯一M-8 “Deixa eu dizer” がブラジル中のブラジルと言っても良い出来栄えだったがそれもその筈、歌手に Ivan LinsClàudya と言うブラジルを代表する強豪が歌手として参加しているわけだから、その意味では出来栄えが良くなければ嘘になる(笑)。
 
 
上記の点を踏まえながら、極力冷静に平常心でMario BiondiのBrasilをご堪能あれ。