この記事の記載を予告した日時からは既に一ヶ月が経過しましたが、この記事を書くには多くのエネルギーを消耗するでしょう。
御周知のように我が家は今、目下の遺産整理の最中に在ります。その合間を縫って私は、第三の人生の立て直しと魂の休養を継続しています。
圧は毎日のように揺り返しを繰り返しますが、抗わず受け容れず、そして巻き込まれぬように細心の注意を払いながら日々、魂を磨き、夫婦共に覚醒の手を緩めぬ努力は怠っていません。
弟(山田大輔)夫婦に対して、今現在も様々な思いが駆け巡ります。特に気になっている点の一つとして、弟の真の死因が何だったのか‥ と言うことが挙げられ、妻・りえさん(仮名)の周囲で弟と母の二人が(恐らく)似た状況で亡くなっていたことを考えると、彼等の死因の真相が一体何だったのか‥ について姉としてとても気掛かりではあります。
私は親族二人の死因に於いて、既に一つの仮説に到達しています。
ですがその仮説についてはこの記事での明記は控え、弟・山田大輔の表と裏の顔と彼の魂の真実について、私の知る限りをここに記載したいと思います。
ここでは死後の大輔の魂から直接聞いた話も含めながら綴って行こうと思いますので、心してお読み下さい。

私の知る限りでは、弟・山田大輔の魂の大元が「摩利支天」を名乗る忍びだったとのこと。
摩利支天を名乗っていた忍びは妖術使いとして一時その名を広め、過去世で私が「くのいち」だった一つの時代の私の最期を仕留めたと記憶しています。
私は何者かに背後から、首を右側から斬られて命を落としています。それはとても壮絶な最期だったので、転生した今世でも私は当時の記憶を忘れることが出来ません。
当時の私の首斬りを命じたのが忍び「摩利支天」であり、実際に私の首を斬り落としにかかった人物二人は、忍び「摩利支天」に命じられた部下の忍びたちでした。
(後に私は当時の私の首を斬り落としたであろう、忍びの「摩利支天」の部下の二人の生まれ変わりの男女ともリアルで会っています。)
切っ掛けは全く別件ではありますが、私は小学校3年生の夏に首の右側を起点として頸椎捻挫を患っています。元々体のその方向が弱い為首の右側にだけ発作が起きたと記憶していますが、あの瞬間に妙なビジョンが過ったのが何故だったのか‥。今にして思えばそうした魂の変遷は続いており、今世の私に誰かが「体の右側」に対する注意喚起をしてくれたのかもしれません。
同じ家にヨハン・セバスティアン・バッハと摩利支天の二人の魂が姉弟として転生した‥ 等と言う話は確かに前代未聞ですし、唯物主義者からは一笑に付されて終わってしまう話かもしれません。ですがこれは紛れもない事実です。

幼少期、特に未だ小学校に入学する前の弟はとても純粋で、姉思い、母思いの優しい人でした。
時折無鉄砲な行動に走るところはありましたけど、彼の言動の全てには彼なりの美学や哲学があり、子供だったにも関わらず大輔はそれを一貫させて生きていました。
私が小学校3年生の夏にYAMAHA JOC(ジュニア・オリジナル・コンサート)の作曲競技のイベントに急遽出演することが決まった時も、大輔は合歓の里までついて来てくれました。
その時に、私が練習しているスタジオの近くで途中から虫捕りに夢中になって迷子になる‥ と言う大珍事を起こしてくれましたけど、翌日私がステージで本番の即興演奏を演っている最中もハラハラしながら客席で私を応戦していてくれたのを、今でも憶えています。
そんな大輔が最初の挫折を味わったのは、おそらく彼が桐朋学園「子供のための音楽教室」に入室し、姉と同じピアノを勉強し始めた頃に母が放った一言が原因だったと、死後の大輔が話してくれました。
そもそも姉がヨハン・セバスティアン・バッハ、即興と作曲と空間音響の名手だったわけですから、誰もが私のようにその場その時々で瞬時に作曲が出来る筈が無いのです。弟も楽譜の譜読みと暗譜にはかなり苦戦し、その度に母が「美樹(私の本名)にだって出来るのよ!貴方に弾けない筈がないでしょ!」と言って、ピシャリ!と弟の腕や手の甲を引っ叩く音が、私の居る隔離部屋にまで響き渡りました。
その度に弟・大輔の気持ちは凹み、どうやっても姉の技術を超えることが出来ないのは自分の怠慢のせいだと思って頑張ってはみたものの、中学受験を表向きの理由に彼は桐朋の子供のための音楽教室もピアノも、つまり音楽に於ける一切合切から身を引きました。
ですがそれはただ単に大輔がピアノや音楽を辞めるのとは異なり、大輔の魂に「この世の超えられないもの」と言う実績と記憶を刻印したことになりました。
それを機に弟・大輔は日に日に変貌を遂げて行き、自分自身の本音を周囲に一切吐かなくなって行ったように思います。
その連続が後に私が綴る、弟・山田大輔の虚言癖に基づく「虚像」の原点と直結しているのではないかと、私は思っています。
そもそも弟・大輔は、音楽そのものが大好きでした。他の同じ世代の子供たちのように、モテるから‥ とか目立つから‥ と言う理由ではなく彼は、心から音楽が好きだったと私も思います。
特にトランペット等の金管楽器の音色に触れると、どこかハードボイルドな中に漂う一種のロマンティシズムに敏感に反応を示し、時折涙目になりながらその音色を追い掛けていたのを今でも記憶しています。

私はテレビを観ることを母に強く禁じられていましたが、母が外出した時等に大輔が「一緒に観ようよ‥。」と言って度々私をテレビの前に駆り出してくれて、その時に観ていた番組が「愛の戦士レインボーマン」や「宇宙戦艦ヤマト」、「ルパン三世」等だったなぁ~と、振り返れば懐かしい話も沢山あります。
大輔は子供の頃から超能力や霊界等に強く憧れており、母の持つ強大な霊力に対しては微かな嫉妬と敵対心を抱いていただろう‥ と言うことが、姉の私にもひと目で分かる瞬間がありました。
ですが姉の持つシュールな力に対して弟・大輔は、ライバル心や敵対心を持つことはありませんでした。その純真な性格が激変した切っ掛けが上に書いた「音楽を巡る母の叱咤と暴力」であり、その酷い現場を既に姉の私と母との真に間近に見ていた彼が、せめて自分自身の心身だけは守りたいと願ったとしても、私にはそんな彼を責めることなど出来ません。
その(弟・大輔が両親の暴力や暴言等から身を守る為の)手段が「両親には絶対に本音と真実を語らないこと」だったとしてもそれしか方法がなかったことぐらい、姉の私だからこそ今ならば容易に判断が付きます。
一般的に言うところの「正しい判断基準」が当時の私達、「山田家」には一切通用しないことを、言うまでもなく当時の彼も骨身に染みて感じていたことでしょう。
大輔の真剣で純粋な目が段々と濁り始めたのは、彼が一浪の末に東大の法学部に入学した直後からでした。
私が大輔と暮らしたのは(私の計算が合っていれば)丁度彼が東大の2年生になった頃で、私はその年の秋頃に実家を出ています。私と弟の年齢差は4歳、私が家を出たのが24歳の秋の終わりでした。
私は母親に、早々に家を出て行くように‥ と毎日のように言われ、無謀とも思える手段を経て何とか結婚(初婚)相手を見つけて、母にその人と会わせる段取りまで漕ぎ着きました。
ですが母は当時の私の初婚の相手との喫茶店面談の時、「あなたのような下品な人に美樹は相応しくないわ。あなたみたいな人に娘を、本当は渡したくなんかないんですよ‥。」等と思ってもいないことを口走る、いわゆるマッチポンプで私と当時の初婚の相手との仲を引き裂こうとしました。
ですが私は這う這うの体(ほうほうのてい)を駆使してでも、あの毒気の強すぎる実家を離れたかったのです。
実家を出る最後の夜、弟は私に何か言おう言おうとしては母や父に発言を遮られ、最終的には私が何故段ボール箱を4~5個だけを持って実家を追い出されなければいけなかったのか、その本当に理由を知らぬまま寂しそうに私に手を振ってくれた、あの時の弟・大輔の手が妙に小さく視えた瞬間が今も脳裏を過ります。
大輔はその後、急激に変貌を遂げて行きます‥。
後編に繋げます。‥