昨日の私の週末恒例の「世界の音楽/ 新譜チェック」の中には数曲のRumba Flamencoの新譜が散見出来たが、やはりフラメンコと言ったら此方だろう。
丁度YouTubeのマイリストの中に、David Palomarの最新動画を見つけた。
そもそも私はLive音源には肯定的ではないが、この種のフラメンコならば例外だ。
彼等は空間や外壁、家屋の壁を震わせながら社会に戦いを挑むべくフラメンコを歌う。それは戦いであり反骨精神の顕れであり、そして彼等の人生そのものだ。
かつて私もワールド・ミュージックだけを取り上げながらそれらの音楽を和訳し、日本語の詞に書き換えてはそれを再現する為のバンドを組んで活動していた。
その中では常に女性のヴォーカルがトップを取っていたが、彼女は各々のジャンルのダンス・ミュージックを再演歌唱する際、一切のダンスを拒絶した。
おそらく「照れ」感のようなものが彼女の舞いを遮っていたのだろうけど、聴衆側からすれば彼女のそれは音楽や表現に対する拒絶の意思と捉えられても致し方なかったと思う。
このフラメンコの動画を観ていても分かるように、彼等は振り付けとしてダンスを舞っているのではなく、彼等自身の社会的立場への反発や理不尽さへの訴えかけとして自然と体がその意思表示をするところの「舞い」として、世界に向かって舞っているのである。
骨を鳴らす。
彼等は喉のみならず骨を使って、彼等自身の音楽を体現して行く。その為に骨を使って舞うのだ。
以下に歌詞の一部の和訳を掲載しておきたい。
一歩を踏み出す方法がわからず、鎖で縛られました
一歩踏み出す方法もわからず もう飛びたかった
しかし、厳しい現実に直面しました
彼らは私の両翼を切り落としました歩き始める前に
神は天国に遣わす
空腹の中で私は命令する
そしてアートではLoLaのルールがあるそしてマノロ・カラコル
誰が結ぶのか、誰がスイッチを入れるのか、
お金を盗む人。誰が結ぶのか、誰がスイッチを入れるのか、
お金を盗む人。誰が結ぶのか、誰がスイッチを入れるのか、
お金を盗む人。もし私がその歌を発明したとしたら
それがインスピレーションの源だった新しい世代の
立ち上がって叫ぶ
彼に正体を現して
アンダルシア・リブレのために戦わせてください私は自由を売りません
私は自由を売りません
私は手綱のない馬です
手綱も頭もなし誰も私を飼いならさない
誰も私を黙らせることはできないということノー、ノーとは言わないでください
あなたがそこに到達できることを
自分の魂に制限をかけないでください
夢、願望、愛したいという願望。‥‥
日本にも多くの表現者や音楽家、演奏家たちが暗躍するが、彼等は一体何に向かって生きており、何に向かって音楽で語り掛けているのだろうか‥。
勿論戦う音楽だけが全てではないが、Liveと言う表現形態を取る音楽家が自らを「音楽家」だと名乗るのならば、それが誰の為の祈りであり、誰の為の憩いであり、そして実質的にどこに向かってその烽火を上げて叫んでいるのか‥。
一度そのようなことについて、各々考察してみるのも良いではないか。

“戦う音楽/ フラメンコ (Flamenco) David Palomar – “Libertad”” への1件のフィードバック
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