河口湖の旅

2025年12月11日から13日までの二泊三日を利用して、私たち夫婦は念願の河口湖旅行を楽しんで来た。
今回の旅行は四か月前から予約して予定しておいたにも関わらず、何と言うことか前々日の夕方から、それまで快方に向かっていた左足親指の巻き爪の患部からいきなり出血があり、化膿も見られ、旅行の前日にかかりつけの皮膚科に駆け込んだ。
 
幹部が重症ではなかったものの、今回の旅の目的の一つである温泉へは (感染症の懸念がある為) 浸かってはいけないとの医師の診断があり、右半身のみ温泉に30秒浸かるだけとなった。
確か前回河口湖を訪れた時も同じような状態だったので、これはもうどう見ても「圧」だろうと思わずには居られなかった。
 

 
‥そんな私を気遣ってくれたのかと思いたくなる程、富士山は圧巻の傘雲を見せてくれた。
スマホしか撮影機材を持ち合わせていなかったことが悔やまれたが、何より心に刻むことの方が写真を撮影することよりも重要だ。
甘んじてスマホで撮影した写真が、上の写真。それでも良い風景を残すことが出来たと思う。
 
夜間の二回の神人共食に関することは、ここにはおいそれと書けない。それ程ハードで、そしてとても重要な宴となった‥ と言うことだけここに記録しておきたい。
 

 
何冊か読みたい本があったので持参して行ったが、一頁たりとも捲ることが出来なかった。
私たち夫婦には有り余るほどの会話があり、そして神人共食を終えた初日の晩から疲労は既にピークを越えていた。
私の爪の炎症の悪化に加え、夫も最近体調が安定しないので、室内から河口湖を眺めたり休んだりコーヒーを飲んだりしながら日中は兎に角体力気力を使わないよう心掛けて過ごした。
 
最近のクマ問題が常に脳裏を過っていたので、夕食の時にお料理を担当してくれた料理長に質問してみたところ、河口湖周辺にもクマは居るとは聞くが人里に (クマが) 降りて来る必要がない程自然には事欠かないし、夜間の外出さえ気を付ければ然程危険ではない‥ との話だった。
一時は (クマ問題の懸念を感じたので) 二拠点生活は諦めた方が良いのではないかと思っていたが、やはり圧巻の富士山を目の当たりにし、夢に向かってさらに前進して行こうと決めた。
 

 
上の写真は、帰りの車窓から見た富士山。間近に見る富士山の大きさに感動し、ひたすらスマホのシャッターを切りまくった中のこれは一枚。
前方の車の屋根と比較すると、富士山の豪快さが伝わりやすいのではないだろうか‥。
 
既に私は日常の生活サイクルに戻っては居るものの、先週末の「世界の音楽」の新譜チェックは若干ライトに、ブログ『ディディエ・メラの音楽倉庫』の更新は控え目にSpotifyのプレイリストだけを更新している。
そちらもよろしければ是非、お気に入り登録の上ご試聴頂ければありがたい。
 

 

AI生成音楽 VS 藤井風

週末、音楽探索をしている過程で見つけたAI生成音楽動画に、足を取られた。
素材はSMAPの「夜空ノムコウ」(作詞: スガシカオ/作曲: 川村結花) 、それをニューヨーク・ジャズのテイストで編曲されており、そこに此方もAIと思われる黒人系ヴォーカリストの声が乗っている。
 

 
昭和~平成生まれの多くのポップス愛好家ならば、この曲を知らない人は先ず居ないだろう。
編曲も上手く出来ているし、むしろ原曲よりも此方の方が耳障りもテイストも良い。何度でも聴いていたい程の出来栄えだ。
 
‥と、この曲を聴いていると私の脳内マッチングシステムが作動し、藤井風PREMAを指さした。
 

 
明らかにAIと藤井風は接近しており、上の2曲が同じ曲のように聴こえて来る。
 
最近AI生成音楽が一気に増殖している。それ自体を高く称賛することは出来ないが、製作者サイド或いはクリエイターサイドに居る多くの人材が出口を失い窒息しているのを感じてならない。

日本の売れ曲の上位を、アニソンが占めている。
アニソンの多くはテンポの速い楽曲が多く、尺が決まっていると聞く。およそ90秒/1曲の中にAメロ、Bメロ、サビからエンディングまでを仕舞い込んで行くには、当然一曲の速度を上げる必要が生じるだろう。
だが私の周囲のポップス愛好家たちの多くが、このハイスピードの曲に疲れている。
 
そこに速度の緩いR&Bのようなテイストの音楽が侵入して来れば、当然のこと、心変わりは避けられない。
私も同様の心境だ。
 
それにしても ‘AI MUSIC BOX‘ から配信された夜空ノムコウと藤井風のPREMAの酷似性が何故生じてしまったのか‥、そこに大きな疑問を感じずには居られない。
もしもコピーが起きたとしたら、藤井風の方が夜空ノムコウにインスパイアされた結果PREMAが誕生したと考えるのが、自然の流れだろう。もっと平たく言えば、藤井風の音楽自体が既にAI生成音楽の可能性が大だと言うことになる‥。
 

 
これは昔から続いている現象だが、良い音楽、良いメロディーを生み出すクリエイターの出口を、既存のレコード会社のディレクター職の人たちが頑なに塞いで来た。
これは私が身をもって経験して来たことなので、断言出来る。中には不適切な方法で仕事を勝ち取ったクリエイターも居ただろうが、長続きしなかったと思われる‥。
そうこうしているうちに「創作」や「リスニング」の基準が移り変わり、多くの音楽リスナーたちが最近では自分の満足の行く音楽に出会えない状況が増えている。
 
毎週末に更新されるディディエ・メラ監修の「世界の音楽」(主に新譜を中心に) を集めたプレイリストを聴いている人たちから、時々メールを頂く。そこには「ゆっくりと、尺が長くてメロウな音楽に触れられるのは、ディディエさんが監修したPLの中だけな気がします。」と言う内容のメールも多数見られる。
 
思うに今、シティーポップとR&B周辺の音楽に渇望している音楽リスナーが、急増しているかもしれない。
そこには理想のメロディーとコードがパッキングされた音楽があふれて居るが、そうしたテイストの音楽が日本のメジャーレーベルからは殆どリリースされていない。
従って、良い音楽に渇いて我慢が出来なくなった、実際には音楽の再現スキルを持たない人たちが、‥だったらAIと過去の名曲をカップリングして新しいスタイルのR&Bを機械生成してやろうじゃないかと立ち上がり始めた、まさに「イマココ」の状況だ。
 

 
YouTubeチャンネル ‘AI MUSIC BOX‘ は未だチャンネル開設から間がないが、多くの過去の日本の名曲と言われるポップスが新しい形のR&Bにジャズをハイブリッド化させたAI生成音楽が配信されているが、これらが仮にボタン一個で完成させられるとしても、ある程度知識がなければこの状況を完成形として配信することは難しいだろう。
年代的には昭和の空気を存分に吸った世代が、音楽ギョーカイへのリベンジのエネルギーを煮えたぎらせながら、卓をいじり倒しているように思えてならない。
 

 
但し‥。
AIにこのまま音楽業界を侵食させておいては、とても危険な状況になるだろう。何よりAIのクリエイトスキルでは、人間の作曲スキルを越えられない。
ヒトの脳の緻密さを、侮ってはいけない。
 
良曲や才能のある人材を卵になる前の段階で見抜ける人が、ディレクター職の中に居ない現状は致命的だ。要は、その階層をゼロから育成しなければ、何れJ-Pop界隈はAI音楽生成機器に駆逐される。
音楽家としては、それだけは何としても阻止しなければならないと思っている。
 
さらに付け加えるならば、藤井風の音楽が良い‥ 等と感じる感性はあながち間違いではないと言うこと。
良質なリスナーが、AI音楽生成機器とせめぎ合っているかもしれない藤井風の周辺に群がっているとしたら、’AI MUSIC BOX‘ や ‘Funny J-POP‘ 或いは ‘TOKYO BEATZ‘ 辺りに群れているリスナーがAI音楽の毒牙にヤられる前に、元ある音楽の聴き方、感じ方を取り戻させる必要に迫られている。

このところのAI生成音楽の性能が良いだけに、それは急を要する事態だと私は見ている。
 

 

 
 
以下に、ディディエ・メラ監修の最新のプレイリストのリンクを貼っておく。
 

 

‘Dios Dirá, Dios Proveerá’ by CURRO (+エッセイ)

一昨日から山のように、音楽を聴いている。
2025年の始まりから私は音楽にとことん突き放されて来たが、今週末は何かが違った。世界中で言いようのないエネルギーが目覚め、覚醒しているのをひしひしと感じる。
そして私は多くの音楽と出会い、彼らを探求して行く過程で新しい自分と何度も出会う。それは現実を突き放したところで起きるミラクルでもあるし、生命としては意外に当たり前のことなのかもしれない。
 
そして私はスペインのミュージシャン/CURRO (キュロ) の音楽に出会い、心臓を半周捻ってからその3/4だけが元に戻らないような不思議な感覚に見舞われている。
 

 
CURROのインタビューを読みながら、とても深い場所に渦巻く闇と希望と、ぞして絶望と自分の力ではどうにもならない運命に抗う為の凄まじい覚悟のようなものを感じながら、私はいつになく頭を抱え込んで今書斎に居る。
 

 
今日出会った音楽の中で、最もエキセントリックで最も悩ましくて、そして最も心臓がさざめき立つ音楽だった。
プレイリストの中に混ぜることによって音楽が危険に晒されるような、この言いようのない緊張感は近年余り感じて来ない感覚だ。だが私はそれでも、世界中の音楽を地続きにして行く為に混ぜて行く。
 
フラメンコとは何であるか‥。
¿Qué es el flamenco?

 
CURROの音楽はまるで、フラメンコとは行き場のない感情を押し出す場所だ‥ とでも言っているようで、私もそのような場所に走って行きたいと思う。
(El flamenco puede ser un lugar para liberar emociones que no tienen dónde ir.)
 

 
若い頃から受験勉強に慣らされて来たが、流石に61歳にもなって一気に16時間もノンストップで音楽を聴くことになるとは思いもしなかった。
その合間に短歌を編んだり、サブブログディディエ・メラの音楽倉庫に良曲を収納し、評論し、取り留めのないようで居て濃縮した時間が過ぎて行く。
そして最後の最後でCURROが難問をぶつけて来た‥。
 
何と破天荒で、‥なのにどこかとてもメロウで繊細で細くて柔らかい針金のような感性が、風を突っ切ってぶつかって来る。
 
このうえなく美しい時間を、私は堪能している。
 

 

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何食わぬ顔で‥ (With a nonchalant look)

3I/ATLASについては色々な情報が噴出しているが、何れにせよ3I/ATLASの生物説及び地球外生命体の乗り物説等はNASAの情報によって完全に否定された。
私のブログにもその旨記述しているが、『意識を持った鉱物』と言う観点で私はこの恒星間彗星を捉えている。
 
生命とは感情を持つ能動的な生き物を意味する言葉だと思うが、それとは異なる。
したがって、遡ること一ヵ月前頃にエレナ・ダナーン自身が「実際に見て来た」と言う3I/ATLASの『古代の生き物説』は、残念ながら全くのデタラメだと言えるだろう。
 

 
意識を持っているから生き物である‥ とは限らないものがこの世界には当たり前に存在し、例えば地球もその一つと言える。
地球には歴とした意識と霊体はあるが、生命体ではない。そこをはき違え、間違った情報を自分だけが知る真実かのようにして吹聴する自称〇〇な人々が本当に多いので、情報を探している人たちは特に気を付けた方が良い。
 
物事には常に不確定要素が付随し、未来は常に変化する。なので概ねの予想や予言 (預言) は可能だが、もしも真剣に予言を職業にするのであれば不確定要素のその先までも読み取る必要が生じるだろう。
それは言い換えれば天文学的な確率に相当するだろうから、予言するだけ無駄かもしれない。
人々よりも早く未来を知ることで、それでどれだけの人たちをサポート出来るだろうか‥。
特に危険値の高い予言を出す人であればあるだけ、その予言によって現実を捻じ曲げてしまうことも想定しなければならない。
当然そこには運命圧の干渉が避けられない状況が発生するだろうし、予言や予知の精度を上げ過ぎると予言者自身の身に危険が及ぶことについては、重々認識する必要がある。
 


 
YouTubeチャンネルMiyoko Abgel 2の新着動画で、ラテン歌手みたいな名前の男性Tony Rodriguezリモート・ビューイングについて語っていたが、それが何ともおあやふやでインチキ臭く、Tony Rodriguezの目を注意深く見ていると挙動不審 (もしくは虚言癖) な人の特徴がふんだんに見て取れた。
 
彼の談によれば予知の時間的な確率について、一週間先の未来よりも一ヵ月先の未来の予知の確率が低くなると言う話だが、それは全く逆ではないかと私は認識している。
 
さらに付け加えるならば、緊急事態の予知をしたところでその予知情報を受信する側に危機的な状況を瞬時に回避する能力が無ければ、予知情報によって精神が錯乱したり挙動が不安定になるだけであり、知らない方が良かった等と言うことにもなりかねない。
平たく言えばパニック状態に人々を陥れることにもなりかねないわけだから、そのような緊急性の高い予言や予知情報は百害あって一利なしと言う身も蓋もない着地点しか見えて来ない。
 

本物の予知能力者は逆に、明日のことよりも十年後の物事の流れを読み取る能力に優れているのではないか‥。
つまりその事態に備えて誰よりも早く見透し、そして見透したことに対して誰よりも早期の段階で準備を開始出来る、それが真の予知能力者だ。
 

 
それより何より冒頭の話に戻ると、ある時期たたみかけるようにエレナ・ダナーンの3I/ATLAS『古代の生き物説』の動画を配信していたMiyoko Abgel 2が、しれっとその話題がなかったようにTony Rodriguez『宇宙人に連れ去られた20年間の記憶談話』の方に舵を切り直した本当の理由は、恐らくNASAが公開した3I/ATLASの最新情報に対するけん制ではなかったかと私は見ている。
ともすれば、Miyoko Abgel 2から公開される情報の信ぴょう性を疑われるような問題にも発展しかねないと踏んだ佐野美代子が、過去動画こそは削除しないが当面の期間は3I/ATLASの話題から少しだけ離れて視聴者のほとぼりが冷めるのを待ってから、再びしれっとエレナ・ダナーンを300年後のプレアデス星団から呼び戻す作戦でも立てているような気がして仕方がない(笑)。
 
佐野美代子はとてもポジティブ思考のようだし、ある意味どんなに危機的な状況に陥ったとしてもそれを「なかったことに出来る」強靭な精神力の持ち主なのだろう。
或いは仮に明日世界が滅びたとしても、彼女にとってはそれらを「なかったことに出来てしまう」強運を持ち合わせているのかもしれない‥(笑)。
 
一方私は、一度見聞きしたこと、一度吸収したことは、情報食いのAI並みに記憶から抜け落ちない。
あのリラ星が自爆した瞬間が昨日の出来事のように生々しく思い出される自分の記憶力を、いっそ呪いたいくらいの心境だ。
 
メシの種に、せっかくのTony Rodriguez『宇宙人に連れ去られた20年間の記憶談話』の動画を貼っておく。
ボロネーゼでもつまみながら観る程度に、留めた方が良さそうだ👽
 

 

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発電するような熱量で‥

毎年10月から年末にかけては、どう足掻いても足掻ききれないような時間が続く。
特に実母の死後にその状況が悪化し、そのシーズン中に私の誕生日がうっかり挟まっているので最近、毎年誕生月付近に体調を壊す。
そこに来て今年はKポの騒動がさらにサンドイッチで挟まり、想定外の状況に見舞われている。
だがそんな中にも安らぎがあり、これでも今までの人生の中で今が一番幸せだと言い切る自信だけは失っていない。
 
スピリチュアルやら心霊やら、そんなことがどうでも良くなる程膨大な音楽の作業に追われている。
勿論随所随所の神人共食は欠かせないが、先日はちょっとしたアクシデントに見舞われた。その内容についてはここでは明かせないが、幾ばくかの油断と隙が私の中にあったのだと思う。
やはり驕りは危険だ。(猛省中。)
 

 
3I/ATLASの接近と共に、若干めまいと空気圧のような感覚が負荷のように体にのしかかっているのを感じている。
どこぞの誰かが言うような‥ 3I/ATLASの生命体説に関しては私は一切肯定していないが、鉱物の特性である「情報の搭載」の性質については概ね肯定している。
鉱物にも性格や性質があり、3I/ATLASが好奇心旺盛な性質を持つ彗星の一つであることは、私の感覚がそれを裏付けていると言っても良いだろう。その辺りの線引きはとても難しく、尚且つ未だ分からないことが沢山あるので結論は保留と言うことにしておきたい。
 
 
話は変わって‥ 特にこの一年間、私はどれだけの音楽に触れただろう。まさしく世界中の音楽に当たり前のように触れており、それもこれも私が死後に一旦神界に立ち寄ってそれらの情報を神界に渡すミッションを持っているからこそ、音楽の作業は一瞬たりとも止めることが出来ない。
 
このところこのブログの訪問者も落ち着きを見せているが、逆に音楽評論ブログディディエ・メラの音楽倉庫の方に読者が若干移動しているようだ。
これはとても喜ばしいことでもあり、両輪を上手く動かしながら私らしい音楽 (スピリチュアル含む) 活動が今後も継続し、さらに活発化して行くことをただただ祈るのみだ。
 
もう一つ、今年は私の音楽作品が現実世界で響き渡ると言う現象があり、それがのろしとなってその後私の身に色々良いことが起きている。感覚的にも、現実的な意味合いに於いても、これまでのような亡霊にとことん活動を妨害され続けるような現象もこの辺りで止まってくれると信じている。
 
一方SNSライフに付いて補足すると、現在稼働しているXのサブアカウントへの投稿を少しずつ Bluesky‘ 🦋 に移動したいと思っている。
理由はXのアルゴリズムがとても不安定かつ不鮮明であり、私の思うようなポストのスタイルがアカウントを危険に晒す行為に直結する可能性を危惧しているからである。
現在noteや ‘Threads‘ 等にもXの焼き回しのようなものを書いて更新しているが、そもそも私は交流下手なので余り多くのSNSに手を広げ過ぎない方が良いように思っている。
‘note’ はあくまでメインのブログ2誌の更新通知を兼ねたメモとして運用し、チャットはLINEのみとし、SNS上では雑談を控えようと考えている。
 

昨日~今日とでドッサリ新曲を足したPLはコチラ🎧
 

 

 
最近XのDM経由で仕事の打診のメール等を頂くが、事のついでみたいなオーダーには対応出来ないので、私へのお仕事の依頼は是非、以下のメールアドレスを通して頂きたい。

📧info@didier-merah.jp

音楽の洪水

体調は今一つスッキリしないが、そんなことも言っていられない。
時代は刻一刻と移り変わり、3I/ATLASもグイグイ地球に迫り来る。嫌な噂も深々と大気中を蠢くし、それにともない私の周辺も何かと騒がしい。

こんな時ウィスキーの一杯でも引っ掛けて仕事したいところだが、もう昔のようには呑めなくなった。
私は祈りに集中し、それを音楽や音楽評論、時には詞等に託して世に放たなければならない。

 
ところで、「明け方の夢は正夢になる」と言う言い伝えがある。
今朝、数年前に私たちの転居と入れ替わるようにこの世を去った愛兎/マイケルが、夢に現れた。どうやらマイケルは神獣になったようだ。ずっと私たち夫婦を、天から見ていると言う。
何となくそんな気はしていた‥。

夢に現れたマイケルは、人の言葉を話し始めている。何を話したのかについては、あえてここには書かずに居たい。長い時間をかけて、とても大切な話をしたから。
 

 
今朝早くから開始した毎週末の『世界の音楽』の新譜チェック中に、ふと‥ 見つけた友成空のフルアルバム『文明開化 (East West)』を珍しく二週した。
中でも『ベッドルーム』『ベルガモット』、そして『メトロ・ブルー』がツボだった。和もののアルバムを何週も聴くことは珍しいので、別ブログディディエ・メラの音楽倉庫に別途記事を書いた。

藤井風のファンをやめられなくてさ迷っているJPopリスナーの皆様へ、刺さる記事ではないだろうか✨
 


『メトロ・ブルー』 by 友成空 🎤

 
このブログにはテレパシーだとかスピリチュアルだとか、世に言われる「怪しげ」なネタを取り上げた記事も多数あるが、私にとっては至って普通のことだし誰にも迷惑は掛けていない。
誰かを犠牲にしたり金銭を頂いたりもしていないので、とやかく言われる覚えもない(笑)。

ショパンを聴いたかと思えばスクリャービンオリヴィエ・メシアンを聴いたり、かと思えばYMOも聴くしイタリアの古いカンツォーネやナポリ民謡からトルコの音楽やHip Hopやダブステップ等も聴く。
 

 
ふと‥ 私のもう一人の恩師/藤井一興氏は最近どうされているのか‥ と調べてみるまで、私は知らなかった。藤井一興氏まであの世へ旅立ってしまったことを‥。
藤井氏と言えばオリヴィエ・メシアンを美しく演奏する人だと私は思っていたのだが、サブスクにもYouTubeにも藤井氏のメシアンはなかった。と言うより彼自身の作曲による作品を、殆どレコーディングで遺していなかったのがただただ残念でたまらない。
 
色々ショックなことが最近続いているが、今日は12時間以上音楽の洪水にほぼ溺れていた私はもう限界。
この記事の〆に、最初想定していた曲とは全く異なるが、藤井一興氏の『水の戯れ』(Maurice Ravel) のYouTubeのリンクを貼っておく。
 
この曲は私が、藤井師に最後のレッスンで見て頂いた曲だった。中学二年生だったと記憶しているが、当時の私の十八番だった。そして藤井師に大きな花丸を頂いた一曲でもあった。
その後間もなく私は、桐朋大学音楽大学の当時の学長/三善晃氏と出会うことになり、それ以外の何もかもが全く目に入らなくなった‥。
 
私と三善晃氏の話は、私と師にとっては至って普通のことなのに人はそうは受け取らないようだ。私が普通に話すことが、聞く人によっては誇張だとか嘘めいた話に聴こえるらしい。
 
実は私のピアノの師は、もう一人居る。それは遠藤郁子さんだ。
 


遠藤先生に師事したのは、かれこれ私が小学2年~3年生辺りだった。本当に短い期間だったが急に親の教育方針が変わり、小学3年生の夏に桐朋学園音楽大学附属『子供のための音楽教室』に受験することになり、受験のプロフェッショナルの元に移動せざるを得なくなったことその他色々な要因が重なり、気付いたら遠藤郁子先生のレッスンをやめさせられていた。
 
まぁこの辺りの話はもう過去のことなのでもう何も言わずに、この辺りで記事を〆ようと思う。
 

 

アレクサンドル・スクリャービンに関する考察

そもそもの発端はSNSのXでの雑談であったが、折角の機会なのでスクリャービン (Alexandre Scriàbine) について色々深堀りしている。
書籍でも企画等でもそうであるが、一人よりは二人、二人よりは複数での研究の方が勢いづくことが多いと思うが、時に二人が一人になってしまう事故が起きる。今朝の一件がまさしく、それであった。
 
話をスクリャービンに戻して、先ほどから色々な演奏者のスクリャービンを聴いている。
思い起こせば私は中学生からスクリャービンを弾き始め、大学生になった頃にはクラシック界が現代音楽一色に染まりかけていた。猫も杓子も現代音楽 (特に作曲科界隈で‥) に傾倒し、調性音楽等書いている学生はどこか馬鹿にされるような空気があった。
私は破壊芸術側の現代音楽よりも、実は調性音楽側のロマン派辺りの作曲家を好んだが、周囲にそれを話したことは一度もなかった。そもそも人目に付かぬように日本のポップス界のど真ん中に陣を敷いたわけだが、それすらかなり特殊な方法で私はレコード会社各社を跨いで駆けずり回ったものだった。
 
話をスクリャービンに戻そう‥。
新旧色々なスクリャービンを聴いているが、どれもしっくり来ない。多くのピアニストがピアノと言う楽器の根本を、分かっていない。ピアノの打鍵の瞬間の繰り返しを音楽だと思っており、音を出さない空間を音楽として捉えていないからだろう。
だが、ピアノと言う楽器はペダリングこそがピアノらしさであり、ペダリングを制覇しなければピアノを制覇したことにはならないと、私は思っている。
 

 
特にスクリャービンの音楽はロマン派から近代音楽に跨っている為、奥底に神秘の宝がふんだんに眠っている。それはモーリス・ラヴェルクロード・ドビュッシー、或いはセルゲイ・ラフマニノフとも異なる、もっと曖昧な雲やガスのような色合いに近い不透明性とも折り重なる感性だ。
その不透明性を表現せずして、スクリャービンを演奏することは出来ないだろう。
 
だが多くのピアニストに見られるのは、胸をピーーンと張って「我こそが世界最高のピアニストなり!」と聴衆を威嚇しまくるような解釈だ。
ハキハキと打鍵し、スクリャービンの持つガス感や霞のような神秘性とは真逆の表現をして、寝た子を起こすような華やかな演奏をしているように思える。リストやブラームス、ベートーヴェンじゃあるまいし、寝た子はそのまま寝かせておけば良いものを、それらの暖かなヴェールを剥がしてしまったらそれは最早スクリャービンでも何でもない別の音楽だ。
 

 
誰彼の演奏が良い/良くない‥ と言う話のテーブルのベーシックすら完成していない状態で、音楽のネタを私に振って来ること自体どうかしている(笑)。
 
最近のクラシック音楽界は二極化しており、かたや古典やロマン派のオーソドックスな音楽を好むリスナーと、もう片方では破壊芸術やノイズ音楽にほど近い現代音楽の側を推すリスナーとに完全に二分している。
私はそのどちらでもないからこそ、自身の音楽を生み出しているわけだが、この「どちらでもないスタンス」の方が本来の音楽の進化の方向性だった点については多くの音楽家や音楽評論家が認識していないのが現状だ。
 
クラシック音楽に蔓延している「聴き比べ」の文化とでも言うべきか、そこを離脱しない限り、クラシック音楽界の成長や進化は望めないだろう。
 

 
数十年も前の音源を取り沙汰してああだこうだと言ったところで、録音技術も未熟だし、何よりクラシック音楽家の権威主義が厚く業界に根を張っているような世界で、新しい価値観が芽を出す隙など無くても当然だ。
 
古い演奏者の音源を論評するよりも、もっと空間音響の知識を身に着けたり、クラシック音楽の分析や解釈の底板を厚くすることに注力して欲しいと願わずには居られない。
 
色々なスクリャービンの音源を聴いて感じることは、スクリャービン自身が望む音楽や音楽性を再現している演奏家が殆ど見当たらないことだ。
楽譜を見れば一目瞭然、スクリャービンが何を思い、どの世界観を心に持ち、その高みをどのような心境で目指していたのか‥ 等、手に取るように分かる筈。だが、そこまでの推察を施している演奏者が現状殆ど見られないことが、ただただ残念で胸が痛く、そして切ないばかりだ。
 
現代のクラシック音楽界の「コンクール主義」や「タレント活動」体質、或いはクラシック音楽のアンバサダー主義が演奏者及び業界の見識を完全に歪めてしまっているのだろう。
そこに付け加え、クラシック音楽愛好家の「聴き比べ主義」が業界や文化そのものを衰退させていると、私は思っている。
 

もしも私に弟子と言う存在があったら、何を伝えられるだろうか‥。
勿論クラシック音楽界で生き残れる手段は伝授するだろうし、既存のコンテストにも出場させることがあるかもしれない。
だがピアニストとして長く生き残るには、それだけでは足りない。
先ずは作曲を教えなければならない。そして音楽の解釈、分析をきっちりと教え込んで、最終的にはオーケストラ全体をまとめる為の手法を伝授すると思う。
 
その上で、自分自身の世界を持つ方法を、きっと弟子には伝授することになるだろう。
 

 
肝心のスクリャービンであるが、私は上記のミハイル・プレトニョフの演奏解釈と、本記事の最後にリンクを貼るウラディーミル・アシュケナージの解釈が好みだった。
 

全く余談ではあるが、スクリャービン探索の最中に色々な音楽に遭遇した。
その中で、ピダルソ (𝗣𝗶𝗱𝗮𝗹𝘀𝗼) と言うピアニストが奏でる坂本龍一の作品『A Flower is not a Flower』に息を呑んだ。
坂本龍一氏の作品の中では最も美しい曲だと、個人的に好んで色々なバージョンを聴いてもいる。

ピダルソは多分韓国のピアニスト (兼 作曲家) と思われるが、情報詳細は未だ掴み切れていない。
その動画を補足として、このブログの最後の〆に貼っておきたい。
 

音楽は全て繋がっている。そして時間も時空も超えて行く、とても不可思議な生命体である。
 

 

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最後にこの記事を書く切っ掛けを与えて下さった某人へ、感謝の意を表したい。
もう二度と関わることはないかもしれないが、このような良い機会を得られたことはとても貴重な宝だったと思う。

自然神が語る熊の異変 – The God of Nature tells us about the strange behavior of bears

体調不良が続いているさ中、ずっと気になっていた熊のことをさらに深く考察している。
勿論私は熊でも豹でもないし、ましてや麒麟でもない。だからこそ、このところ日本の各所に頻繁に現れる熊のことを知りたいと思った。
 
それよりこの熊騒動の件が、妙に心に引っ掛かっていた。一連の現象が人災であることの他に、背景に地球の自然神の息を感じてならなかった。

だからと言って私に出来ることなど限られているのだから、他の生き物の霊的な領域に首を突っ込むつもりはない‥ としても、兎に角気になったので、間にずっとお世話になっているカビの自然神を挟んだ形でセッティングをお願いした。
 

 
簡略化して書くと、どうやらこういうことらしい。

  1. 太陽光が変質し始めたことで、生態系にも異変が生じている。熊の場合に限定して言うと、熊の気質や本能等に異変が現れた可能性が高い。
    これまで餌とは認識し得なかった対象を、餌と認識してしまった可能性がある。
  2. 人間が地球上の環境破壊を止めないことに対し、一部の自然神の強い怒りを買ってしまった。
    自然神にも穏健派と過激派が実在し、互いにけん制し合っているようだ。‥全ての自然神がヒトの絶滅を望んでいるわけではない。
  3. [1. の理由により] 一部の生き物の性質に異変が生じ、今後熊以外にもヒトを敵或いは餌と認識し始める生き物が現れるだろう。(例えば鷹、鹿、イノシシや豚等。)
  4. 熊騒動の場合、人災が半分、残りの半分は地球の意識の異変や生理的な現象によるところが大きい。これは最早自然神の意思では変えようがない。


まとめるとこうなる。

付け加え、祈りについての自然神の考察を訊いてみた。
自然神曰く、祈りは数ではなく質である。実際自然神に祈りを届けられる人の数は少なく、祈りに対する自然神等のレスポンスを受け取る際にその人たちにも大きな負荷が掛かるとのこと。

自然神はさらにこう、付け加えた。

限られた祈り人に、多大な負荷を掛ける気は毛頭ない。但し、届いた祈りに対してのレスポンスは必ず返すことになっている。これは自然神界の法のようなものであり、その強弱や高低を不必要にコントロールすることは出来ない。
 

私に出来ることはただ一つ、祈ることだけである。失われた森林を何等かの方法で復活させ、乱開発された地球の土地の一部を森に返すこと。そうなるように、祈ることしか私には出来ない。
 
一つだけそれ以外の方法があるとすれば、数名の自然神等を通して直接熊の神獣に語り掛ける方法が挙げられるが、それはしないでおくつもりだ。
熊の気質を考えるとその方法はとてつもなく危険であり、むしろ熊全体の闘争本能に火をつけてしまいかねないので。

 
思えば私はこんな曲を、既に配信している。

 
環境破壊への警告と、既に始まってしまったであろう自然神等の人類への警告と復讐のマインドを私は早々に感じ取っており、2020年にリリースしたアルバムWorld of Natureにそれを記録している。
録音日時は、2019年12月1日。
 
まさに地球は、「イマココ」だ。
 

Can’t say, Can’t write‥

足の爪が巻いて巻いて、どうにもならなくなったので巻き爪外来に向かったら、思いっきり液体窒素で皮膚を焼き取られて泣いている。
爪が皮膚に食い込む痛みに比べればそれよりは痛みはかなり軽いのに、いざ処置が終わって数時間もしないうちに違う痛みが押し寄せた。まるで奇襲のレベル。

抗生剤と鎮痛剤を服用しながら、数日間が経過した。
それと同時並行で、隣国の騒動が一転した。
それについてはこの記事では一先ず省略、今は余り色々なことを考えたくない心境なので。
 

毎週末のサウンドチェックは今週末も進んでいるが、良い音楽は日に日に減って行く。
兎に角良い音楽を食べたい私にとって、これはとても辛い。きっと日本各地に出没しているクマたちも、似たような心境だろう。
音楽の激減も、そしてクマにとっての住処と食糧の激減も、どちらも人災に他ならない。
剥ぎ取られて行く自然環境と並行して、音楽も人も退化して行く。私はそれが、とても辛い。
 

 
抗生剤の疲労と眠気が交互に押し寄せる中、最近数名の詩人や音楽家たちとチャットを楽しんでいる。‥と言うより、先方にしてみれば私の厄介な会話の襲撃に付き合わされているのだろう。
だがそのお陰で、色々な詩集を購入したり自らも散文詩のようなものを書いたり‥ と、少し楽しい時間を過ごすことが出来ている。
 
今日はフラメンコの神/ ビセンテ・アミーゴのギターにも久しぶりに触れることが出来たし、若い中国のアーティスト/ DEN (邓杰) のアルバムを聴くことも出来た。
体調不良は良くないが、必ずしも悪いことばかりでもないようだ。
 

 
それよりもNewJeansはHaerin (ヘリン)Hyein (ヘイン) のADOR復帰にともなう障害壁の方が、とても気掛かりである。
HYBEが彼女たちを脅して復帰させただ何だ‥ と言う嫌な噂を流す人たちも複数居るようだが、それは無いだろうと私は見ている。むしろ上記二人以外の残りのメンバーの執着の方が、余程危険かもしれない。
 
悪い情報を見てばかり居ると心が荒むばかりなので、音楽で邪念を払拭したいものだと思う。
 

 

 
今週末からPL (プレイリスト) も刷新したので、是非🎧
 

Double and Triple Lies (Talking Michael Salla with JP)

 
数時間前に更新した記事3I/ATLASと体調の異変、そして祈りの直ぐ後に、別のYouTubeを試聴した。その動画で語られていた内容が余りに嘘に満ちていたので、急遽この記事を書いている。
 
宇宙からの様々な情報に実際に接している人ならば、宇宙が地球上の既存の概念とは全く異なる性質を持つ空間であることなど、百も承知だろう。
 
自身がどの立ち位置に立ってどのような仮説に至るのか‥。
少なくとも宇宙が既存の概念で成り立っていないと言う仮説に至った人ならば、彼ら – マイケル・サラ博士/JP) の話が虚偽に満ちている状況には直ぐに気づく筈である。
 

特に動画オーブスがJPに次期スペースアークミッション、3iAtlas、Medbedsについて伝える – JPアップデート51しては、彼らの話は形容詞で黒塗りされており、頻繁に「黒服の男たち」が登場する。そればかりではなく、登場して来る宇宙人らしき何者かの身体的な形状や特徴以外に、彼らは何も語らない。
さらには何かと「軍」を持ち出し「軍賛美主義」を価値観のベーシックとした、彼ら特有の体験談が語られる。
 
マイケル・サラ博士/JPは双方が共に相手を格上と見なしながらけん制し合っており、その証拠に情報の誤謬に各々が気付く瞬間があってもその旨訂正を施すこともない。なので所々過去の説や情報との矛盾等が発覚しても、双方がそれらを見て見ぬふりをしながら会話が進んで行く。
傍目にはその様が余りにも露骨かつ滑稽であり、「1+1=4.7」と言う回答を平然と叩き出す壊れた電卓を見ているみたいで、背中がむず痒くなって来る。

だがいずれにしても、軍賛美主義は地球上でもアメリカやイギリス等の、特定の国の特有の価値観に過ぎない。
特にマイケル・サラ博士やJP、或いはエレナ・ダナーンの語る地球外生命体の談話は、欧米の特定地域の価値観に基づいており、地球外生命体も地球上の「軍」或いは「軍人」を対話の相手に選んでいるように語られるが、宇宙は「軍」などはなっから眼中にない。
 
仮に地球とのコンタクトの際、「軍」以外に対話の相手を選ばない地球外生命体が実在するとしたら、それは「軍」を悪用して地球に侵入/ 侵食/ 侵略を企むダークサイド側の地球外生命体だと思って間違いないだろう。
少なくとも宇宙規模の平和を思う存在でもなければ、当然のこと、「ホワイトハット」某である筈がない。
 

 
動画オーブスがJPに次期スペースアークミッション、3iAtlas、Medbedsについて伝える – JPアップデート51の概要欄に、以下のように書かれてある箇所がある。⇩
 

JPはまた、地球同盟/ホワイトハットと協力する黒スーツ姿の男2人から近づき、今後数ヶ月間、3I/アトラス、医療ベッド、そして海洋と大気の状態という3つのテーマについて議論するのを控えるよう言われた。これは、ホワイトハットがこれらのテーマに関する大規模な作戦を計画しており、内部情報漏洩によって計画が危険にさらされることを望まないことを示唆している。

https://www.youtube.com/watch?v=KOvXSn1jTbk

 
⇧ このような『> 大規模な作戦』等、はなっから存在しない。
何故ならば地球上の明確な代表者が、現状では存在しないからである。それゆえに、地球外生命体が不鮮明な作戦等練ること自体あり得ない。

 
『宇宙には光と闇はあるが、白と黒と言う色彩が存在しない』⇦ と、或る宇宙精霊は語る。
むしろクリエイション VS アンチ・クリエイションが互いにせめぎ合う宇宙には、勝敗と言う概念そのものが存在しないことによるリスク面が、太古の昔から叫ばれて来た。
平和と統括の二極が互いにせめぎ合い、そのプロセスとして (先に述べたように) 侵入/ 侵食/ 侵略と言う負の統括のプロセスが存在する辺りは、未だ解決の糸口すら見出せていないのが現状とも言える。
 
マイケル・サラ博士やJP等が語る「ホワイトハット」とはそもそも西部劇中のハットの色を表す言葉であり、地球外生命体がそのような色彩感でものを語ること自体奇妙な話である。
 
虚偽には振り回されてはいけない。
 
余りに奇妙な動画を偶然とは言え目にした以上、警鐘を鳴らす必要性を強く感じたので、この記事を執筆した次第だ。
余り紹介したくはないが、記事を書いた以上は一先ず問題の動画のリンクを貼っておく。
英語圏以外の視聴者は、翻訳機能を『on』にして試聴可である。
 

 
くれぐれも、木乃伊取りが木乃伊になるようなことにだけはならないよう、ジャッジメント精神を『on』にして試聴することが望ましい。