K-Pop “Heize”と音楽のソコヂカラ

以前から大好きでウォッチしていた韓国のシンガー・ソングライター “Heize” が、新曲『일로 (Undo)』をリリースした。
『일로 (Undo)』シングル曲アルバムタイトルの両方で更新され、特にシングル曲の『일로 (Undo)』は楽曲として秀逸と言っても過言ではないだろう。
 
タイトル『일로 (Undo)』は和訳すると、どうやら「なかったことに」と言うような意味になるようだ。
偶然アメブロに和訳を見つけたので、歌詞の意味を日本語で読みたい方は是非そちらを参考にして頂けたらと思う。
 

https://ameblo.jp/sullun114/entry-12751060771.html
 

 
PVを見ると一瞬「ルックス主義」のカワイ子ちゃん系韓流歌手かと勘違いしそうになるが、それは間違いだ。
さり気なく正確な音程に依存せず、細やかな表現を随所で巧みに使い分けながら、尚且つそれをけっして売りにはしないのは彼女がそれ以上の潜在的な能力を秘めているからだ。
 

多くの歌手や表現者が現れては消えて行くその境界線は、「自ら作品を生み出せる者」と「既に誰かの手によって生み出された作品を再現する者」。そこには大きな段差があり、後世に自身の名と作品を共に残せるのは前者一択と言って良いだろう。
 

私が度々「ライブ」を否定している理由も、ここにある。
勿論「生み出せる人」が奏でる再現音楽は、「生み出さない人」の再現音楽とは全く質が違う。なので私は前者「生み出せる人」があえて挑む再現音楽に於いては、一切否定も拒絶もするつもりはない。
だが作品が生まれるエネルギーは出産時の赤子同様に、羊水から空気の世界に旅立つ瞬間にのみ放たれる特別な力を持つ。なので厳密には作品がレコーディングされた時のエネルギーを、後のライブが超えることはほぼ皆無と私は思っている。

その意味で「ライブ」、いわゆる再現音楽を私は特殊な例を除き、殆ど否定し、拒絶するスタンスを今も変えていない。
 

 
Heizeは新曲『일로 (Undo)』と言うある種のダンス系要素の高い作品を、マイク一本「歌のみ」で勝負に挑むように様々な番組で歌唱している。
勿論バックバンドは打ち込みだが、声は生声で、その都度都度でエフェクトも演出も変えてパフォーマンスに挑んでいる。
 
ダンス・ミュージックをあえてダンスで魅せない、ある種の勝負心を彼女の中に感じる度に、私の評論家魂に呆気なく火が着いて行くのを感じる。
 

 
「生み出せる人」は表現に於いて、いつも限りなく自由で居ることが出来る。
何が正解で何が不正解なのか‥ と言う枠にがんじがらめに囚われることが無いから、いつ、どのタイミングでアドリブを仕掛けようが全ては自分自身の気分でどうにでも料理が可能だから。
 
さながらモーツァルトがコンツェルトの最後の「カデンツァ」の音列を楽譜上では指定しなかったように、モーツァルトは常にその時々の気分や状況に応じて内容の異なるカデンツァを自由に演奏していた。
‥つまりそれこそが即興演奏の醍醐味であり、そうした完成度(創作性も失わない)と即興性の高いライブこそが価値のあるライブだと言うのが、私のライブ美学だ。
つまり完成度も即興性も、まして創作性のどれもが全く当てはまらないライブは、存在価値すらないと言っても過言ではない。
 

 
誤解して欲しくないのは、ここで私がある種「ライブ」の存在価値の有無を説いている真の理由についてである。
 
最近「音楽とビールは生が一番だ」等と言う人達が増えており、どんなにアレンジが悪くても、どれだけ歌唱力が酷くても、それが「生演奏(Live)」であると言うだけで視聴者が勝手に脳内変換で目の前の質の良くないパフォーマンスのグレードを過大評価してしまう。
そういう視聴者の脳内誤動作を出来る限り少なくする為、良いものとそうではないものの理由と境界線を明示する必要を私は強く感じて、こうした記事を書き続けているわけだ。
 

 
さて、この記事の最後に、私が大好きなHeizeの2017年リリースの作品You, Clouds, Rainの美しいLive動画を貼っておきたい。
動画冒頭がその作品である。

どこか小田和正にも通ずるノスタルジーを感じさせる、とても美しいメロディーラインとパフォーマンスを是非ご堪能頂ければ幸いだ。
 

 

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山下達郎とシティー・ポップ [前編]

2022年6月22日、かねてから大々的に告知されていた山下達郎のニューアルバム『SOFTLY』がリリースされた。
通常版は特典なしで3,300円から、特典付きになるとさらに価格が跳ね上がる。

 

 
勿論この人は昭和スタイルの販売ルートのみのアーティストなので、サブスクでのリリースは当然なし。なので当初私はこのアルバムを購入する予定だったが、紆余曲折を経て購入を取り止めた。
正直物理CDが手元にあっても邪魔になるだけで、当然のこと音楽として聴けるクオリティーではなかったので、このような結果に相成ったわけだ。
 

某動画配信チャンネルから(ほぼ)フルアルバムと言えるよう編集されたものが出ていたので、そちらを先ず聴いてみた。
恐らくラジオ等でオンエアされたものからのピックアップも含まれるであろう構成になっており、曲によってはMC(トーク)が楽曲のイントロに被ったままの状態にはなっていたが、中身が分かれば良いのでそのまま流して聴いて行く‥。
 

山下達郎と言えば真っ先に思い浮かぶのが「シティー・ポップ」と言う言葉だろう。勿論彼が老いた今もリスナーは、必ずそのエッセンスを期待する。私もそうだった。
だが実際に上の(ほぼ)フルアルバムが収録された動画を捲ってみると、正直内容は散々なものだった。
 
最近若手の韓国のYouTuberの中にも山下達郎そっくりで尚且つシティー・ポップのテイストを正確に、忠実に‥ と言うより原作以上のクオリティーでコピー(カバー)するアーティストも出現している。
 

 
このYouTuber、Tae Yoon Kimさんの山下達郎のカバー動画の注目すべき点は、ヴォーカルではなくバックバンドの再演のクオリティーだ。ほぼ全てのパートがTaeさんの手動で録音されているが、それが原作のクオリティーを軽々と超えている点は見逃せない。
 

ここで少しだけ話題を脱線。
「シティー・ポップ」の定義について、私はこう考える。

1. 日本の高度成長期の大都会(特に夜景)を彷彿とさせるサウンド感覚を持つ音楽。

2. オープンカーやスポーツカーを運転する男性ドライバーが目に浮かび、助手席にはハイヒールを履いた女性を同乗させている‥ と言う光景を想起させる音楽。

3. 程好くハードではないドラミングやリズム体、主にStepするような緩いスウィング感のあるリズム体が体を揺さぶる音楽。

4. ギターカッティング、或いは生ピアノよりもキーボードで「ピアノ」の音質を再現しそびれた感のある、どこか間違いがあるにも関わらずそれらしく聴こえて来る音楽。

5. ギリギリまで声を張り上げてはいるもののけっして高音域ではなく、中低音のマイルドさを誇張したヴォーカルが特徴的な音楽。

6. 何より「風」を感じる音楽であること。
 

私が思う「シティー・ポップ」とは概ねこんな感じであるが、この解釈については別の様々な解釈があっても良いと思っている。
そして若かりし頃の山下達郎のサウンド感が、上の全ての条件にマッチしていた。

さて話を山下達郎の新譜「Softly」に戻してみると、先に書いた全ての条件を見事に逸した、何ともドン臭いアルバム(表現含む)で本当にガッカリした。
 

 
私の音程の受信感度が狂っていなければ先ず、彼の音程が酷く劣化したと言うのが強い印象だ。そもそも曲の作りが機械的なので非人間的と言うか、絶妙に正確な音程を保持していないと歌えない楽曲が大半だが、その音程がこれ又絶妙にズレている。
さらにリズムが不正確で本来のアタック箇所にヴォーカルがアタっていない為に、後ノリでヴォーカルが若干遅れて聴こえて来る。そのせいで、どうしても演歌のコブシを効かせて歌っているようにしか聴こえない。
 

ノリノリだった「あの頃」の山下達郎の代表曲『Ride On Time』に見られるような、キラキラしたシティー・ポップの‥ これさえあれば何が来ても怖くないと思わせるような輝きも希望も一切見られない彼の新譜『Softly』の、楽曲の全てのメロディーメイクはただただ悲惨としか言いようがなく、長い時間聴いてはいられない。
まるで回顧主義の老人の独り言みたいで、先に「シティー・ポップ」を求めてこの人の曲を聴こうとしていただけに失望感がハンパない。
 

かなしいかな、人は誰しも年を取って行く。老いは多少なりとも表現の劣化へと直結するのだが、それをカバーする方法として人生の経験値や人間性、そしてインテリジェンスの成熟等が挙げられる。
そのどれ一つとして達郎の場合は機能しておらず、何かと「恋愛」とか恋愛の思い出を振り絞るようにして歌詞にしているから、聴いていて無理な重圧がどうしても後頭部を直撃して来る。
 
それを本人もおそらく気付いているのか、喉に異常なまでの力(力こぶし)が入っている。その影響で全ての発音の一瞬前に「‥ンガガガ‥」みたいな助走が掛かってしまい、音程もテンポもリズムも全てがタイミングと正確性を逸している。
 

勿論楽曲的にも「シティー・ポップ」感は殆ど失われおり、色褪せたセピアカラーの1980年代のフィルム写真を見ているような喪失感に苛まれる。
シティーもポップも失われ、さらには発声の全てに力コブシが練り込まれたこれらの音楽は、最早聴くに値しない。なので私はこのアルバムの一曲すら、フルサイズで聴くことが出来なかった。
 

 
残念なことに今、世界的に日本の「シティー・ポップ」系のカバーが急増している(笑)。特に山下達郎の奥方の竹内まりやが1984年にリリースした『Plastic Love』が今、最注目されいるタイミング。
恐らく夫・達郎はその流れを踏んで今、ここだ!‥ やっと来たビッグウェイヴに自分も乗ろうと試みた筈だ。だが、それは失敗に終わったのではないだろうか。
 
山下達郎と竹内まりやの結婚は当時音楽業界を賑わせ、それを機に妻・竹内まりやは一線を退いた。あくまで夫をたてる為に表舞台から妻・まりやは姿を消し、アイドル歌手に楽曲を提供する文字通り「作曲家」に転じたわけだが、それがある種の威厳や風格を長年に渡って培わせて来たように私は感じている。
ここに来て山下達郎は、妻・竹内まりやに首‥ いや、体一個二個分先を越された形になったようだ。
  

門脇 麦

 
山下達郎のニューアルバム『Softly』のラスト曲に収録されている『REBORN』は、映画『ナミヤ雑貨店の奇蹟』の挿入歌として既に女優の門脇麦が熱唱しているが、これが凄かった。
逆に原作者・山下達郎の原曲を聴いた時に、その余りの表現力の無さに愕然とした。むしろ門脇麦が歌唱した方の動画を視た時の感動が余りに大き過ぎたのか、何より「何も足さず何も引かず」の門脇麦の素直な表現が不幸にも、原曲(山下達郎)の不安定なメロディーラインに安定感を与えてしまった感は否めない。

この記事の最後に、圧巻の門脇麦の『REBORN』を掲載し、この記事を〆たい。
※尚この記事にはまだ続きがあるので、次記事へと続く‥。

 

音楽から読み解く世界情勢 [2022.06.25]

関東地方はまさに雨季真っ盛りで、連日湿度が高く蒸し暑い日が続いている。個人的には色々な事が日々折り重なり、特に一昨日から昨日は気持ちが酷く滅入って落ち込んでいた。

世界はどこに向かって進んでいるのかと、日夜そのことばかりを思う。それはけっして良い方向とは言い難く、いつ、誰とはぐれてしまうか分からない不安は未明の悪夢を引き寄せる。
かなりの的中率で予感が現実になる今日この頃の私にとって、夢とは言え侮れない。だからと言って夢に「その人」が現れたからと言って連絡を取るわけにも行かず、色んなSNSからそっと先方の様子を伺いながら今日の無事を確かめるしか他に手段がないのがもどかしい。
 

私自身が音楽家でありながら、音楽業界関連の友人は殆ど皆無だ。と言うのも私が芸術家・作曲家でありながら、音楽評論家として旗揚げしたからに他ならない。


音楽家(作曲家・表現者)と音楽評論家はまさに敵対関係に在り、私はその両方を職歴に掲げたわけだから周囲が戦々恐々としても致し方あるまい。同業者とて、私の感性は妥協を一切許さない、良いものは良いし、悪いものは悪いと明言することが、音楽評論家の仕事なのだから。

現在の私が作るSpotifyのプレイリストのメインは、以下のシリーズ『Gentle Rain 2. (2022. ⑤)』になる。今週の更新は[M-92: Anema E Core”– Valentina Cenni e Stefano Bollani] から [M-115: Jilani” – V.B.Kühl, Rabii Harnoune] までになる。

 

 
更新分冒頭の “Anema E Core” は、私が未だ現役の和製シャンソン & カンツォーネの伴奏者だった時代に大好きだった一曲。このこの曲を聴くとどういうわけか泣きたくなり、その度に今世では未だ行ったことのないトスカーナの広大な風景が脳裏に現れて、過去世の幼い私がトスカーナの一戸建ての家でケーキを焼いている‥。

こんな時に名前を出すのもどうかと思うが、特に小松原るなさんの “Anema E Core” は素敵だった。勿論小さなシャンソニエで歌われるその曲のクオリティーを問われたら何と答えて良いのか分からないが、彼女の小声でささやくような “Anema E Core” の中に微かに流れるトスカーナの風に、当時の私は何度ロックオンされただろう。
 

そんな思い出の曲をプレイリストから外すわけがないのだが、だからこのテイクの [M-92: Anema E Core”– Valentina Cenni e Stefano Bollani] が良いかどうかと問われると確かに若干返事に詰まるのも又事実かもしれないが。
 

“Queen Of Sheba” (artwork)


今週はあの、パレスチナの大御所トランペッター(作曲家・プロデューサー)のIbrahim MaaloufAngelique Kidjoと組んでリリースしたアルバム『Queen Of Sheba』もお目見えしたが、個人的な感想としてはヴォーカルが鬱陶しくて尚且つ知性を欠いている為なのか、Ibrahimのトランペットと表現がバッティングしてしまい完成度は今ひとつと言った印象が強かった。
 

メインのプレイリストではないが、主にBGM仕様をテーマに作っているチルアウト・ミュージック系のプレイリストの方が、今週は更新出来た曲が多かった。
今週の更新は [M-14: “Another Like This” – Photay Remix] から [M-36: “Untouched Rainforest” – 小瀬村昌] までになるが、此方もメイン同様に全体的には小粒の作品が出揃ったように思う。
 

 

気になるアルバムがもう一つあるとすれば、”Summer Sol VII” が挙げられるだろう。
此方は王道のポップスとは一線を画し、アルバム冒頭の “Sat Nam” からも分かるようにSufiの音色が炸裂するが、王道のSufi Musicかと言われるとそうではなく、全曲に「エレクトロニック」寄りの加工が施され、アラビックなテイストにアイシングされた構成になっている。

アルバムのクレジットには Sabo 或いは Goldcap などの名前が挙げられているが、各曲異なるアーティストの作品がズラ~っと並んでいる。全編を繋げて聴いてもなかなかのクオリティーで異国情緒豊かなアルバムに仕上がっているので、個人的にはオススメのアルバムだ。
 

 

私 Didier Merah が作るプレイリストは他の音楽愛好家が作るそれとは一線を画した選曲になっており、いつの日かDidier Merahが監修したオムニバス・アルバムが世に出た時にはかなりの脚光を浴びること間違いなしの出来栄えと言っても良い筈。
それもこれも良いリスナーを増殖させることが私の第二の目的で、その為にはどの曲の何が良くて、どの曲の何が良くないのかについても辛辣に発信して行くことが必須だ。

多くの音楽愛好家たちは、周囲の同種の人たちが何を聴き、何を良いとするのが正解なのかについて戦々恐々としているのが現状だ。自分自身の感覚に今ひとつ自信が持てず悶々としているうちに、多くの賛同票を得ている楽曲に対し無難に加点しながら聴くことで満足しているように見える。

そんなことでは良質な音楽が日陰に追い遣られるのが目に視えているから、私はあえて損得抜きに多くの楽曲をジャッジメントする役目を買って出た。
それも含めて私の音楽人生のミッションと心得ながら、自信を持って世界の音楽をジャッジメントし、紹介出来れば本望だ。
 

 

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音楽から読み解く世界情勢 [2022.06.12]

特にどこかの企業から依頼を受けているわけでもなく、雑誌の連載を抱え込んでいるわけでもなく、毎週末の世界の新譜チェックはもはや私のライフワークとなりつつある。
勿論需要と供給のバランス等考えるまでもなく、これは私の為の記録の作業であり執筆活動である。

私がSpotifyやAmazon Musicに作り上げて行く各シーズン毎のプレイリストを、実際どのくらいの人たちが求めてくれているのかなんて考えるまでもなく、私は私のスタンスで音楽を通じて世界を見つめる。
 

世界は新型コロナウィルス・パンデミックに続いて、次の新たなパンデミックの流れへと既にシフトし始めている。
丁度先週某日に私は、以下の記事を躊躇なく更新している。

 


この記事には予想以上に多くの来訪者が世界各国からあるようだが、だからと言って私の言わんとするところを読者層が掴み取ってくれたかどうかはまだ判然としない。
そんな折、今週の新譜チェックの中にあの大御所 Paul Winter が『Ukrine Spring』を堂々リリースした。

 

 
楽曲『Ukrine Spring』にはPaul Winterともう一人、Henrique Eisenmannと言うブラジルのジャズ・ピアニストが参加しており、クレジットは二人の連名で記録されている。

Paul WinterについてはWikipediaをご覧頂ければと思う。
私はもうかれこれ数十年間彼の活動や作品に触れているが、今こうして彼のWikipediaを読んでみて気が付いたことがあるとすれば、意外に彼が日本国内では余り広く知られていないのではないかと言うことだった。
 

私がかつてL.A.と東京を往復していた頃、まさに世界はニューエイジ・ミュージック全盛期だったが、その頃日本はと言えば小室哲哉をはじめとするダンス音楽真っ盛りで、その頂点にTRFや華原朋美等が君臨していた。

世界と日本はそれだけ大きく価値観がズレており、日本国内で若干流行し始めていたニューエイジ・ミュージックもどこか癒し系パロディー音楽のジャンルのように扱われ、レコード店に行ってもクラシックとかジャズの棚の片隅に小さく新譜が陳列されており、その中の一枚か二枚程度が新譜として試聴盤を出しているような状況だった。

 


話しを『Ukrine Spring』に戻そう。
遡ること約一ヶ月前に、坂本龍一がPiece for Illiaをリリース。ウクライナの若きヴァイオリニスト、Illia Bondarenkoをウクライナ国内に実在する被災地の瓦礫の上に立たせ、坂本自身が書いたとされるウクライナ民謡そっくりのオリジナル曲をIllia Bondarenkoに演奏させた。

問題の動画が世界的に物議を醸しだして間もないが一方で、その陰にひっそりと隠れるようにして世界に発信された大御所 Paul Winter & Henrique Eisenmann の二人が奏でる『Ukrine Spring』は、しっかりと感覚を研ぎ澄ませて聴けば誰でも分かるように、圧倒的な存在感を放っている。
 

坂本龍一のPiece for Illiaと、対する Paul Winter & Henrique Eisenmann の二人が奏でる『Ukrine Spring』。両音楽の決定的な違いは後者の祈りの思いが圧倒的であること。
前者の「ウクライナの若きヴァイオリニストを瓦礫の上に立たせ、そこで作曲者・坂本龍一の音楽を演奏させる」のとは違い、Paul Winter & Henrique Eisenmann の両者が共に「己」を完全に消し去り祈りに没頭している点は、リスナー各自が絶対に無視してはいけない点だと私は訴えたい。

祈る人が祈りに没頭する時、そこに祈る人の存在が一時的に消失する。
視覚的な祈りではなく、ただ脈々と祈る思いだけが辺りを全て包み込み、それが音楽家自身であればそこに音楽だけが静かに紡ぎ出されて行くのみだ。

 

Henrique Eisenmann


Ukrine SpringでPaul Winterの背景で静かなキーボードを奏でているHenrique Eisenmannだが、普段はとても騒がしく刹那的なジャズを演奏している人物である。正直この種のジャズは、私は悉く苦手である。
だがこの『Ukrine Spring』の中のHenrique Eisenmannは別人のように、オーソドックスなクラシックスタイルのバッキングに徹している。
  

どういうわけか上記の楽曲のHenrique Eisenmannが演奏している箇所の音質が全体を通じて歪んでおり、使用している楽器も然程状態が好くないことも垣間見える。
さらに時々大胆なミスタッチが連発している様が専門家の耳には一目瞭然だが、それを超えて無休の祈りが音楽全体を包み込んで行くので、音質の歪みやらミスタッチなどもはやどうでも良くなってしまうから音楽とは誠に不思議なものだと思う。
 

対する坂本龍一は若きヴァイオリニストを瓦礫の上に立たせたことを猛烈にアピールして来たが、むしろPaul Winter & Henrique Eisenmann の二人が奏でる『Ukrine Spring』のレコーディングのロケーションがどうなっていたのかの方に、私の興味は移って行く。
そのロケーションがどうであったとしても彼等にとってはむしろどうでも良いことで、ただただ寡黙な祈りだけを音楽に乗せて世界の空に飛ばして行ったところに、本物の音楽魂を感じるのみである。

 

『お茶』 – UA

 
ここまでこの記事のタイトルから大きく脱線して、先週末の世界の新譜の一曲にスポットを当てて綴って来たが、今週のメインのプレイリストは M-54: 『お茶』 – UA からスタートしている。

 

 

J-Popはここのところ作りが大雑把で音楽未満の新譜が乱立しているが、この作品お茶はなかなか良い作品だ。
UAのこれまでの印象として強かった「粘りが強くしつこい歌唱表現」が一掃され、どこか海外のチルアウト・ミュージックにありそうな小ざっぱりとした短いブレスのライトなヴォーカルが爽やかで、個人的に好みである。
 

そして前記事Laufey from Icelandでも紹介した曲LaufeyのFragileが、UAの次に並ぶ。
 

 

実際に更新出来た楽曲の数が少ないのは、おそらく私の感覚(感性)の感度がさらに向上したことによるもので、選曲がかなり厳しくなっているのを自分でも感じている。

新しい感染症が全世界に拡散し始めている今、これから何が起きるか分からなくなって来た。
今聴ける音楽に集中し、これからも出来る限り良質な音楽を紹介出来れば良いと思っている。

 

 

音楽配信を目的とした楽曲作成のオーダーの他、音楽評論、レビュー or ライナーノート執筆、ラジオ番組用のBGM選曲、雑誌連載執筆及びYouTube出演や対談等、諸々用件・案件は、Twitter のDMないしは公式ホームページから、📨[info@didier-merah.jp] ⇦ までお寄せ下さい。
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戦争と音楽と坂本龍一

Piece for Illia、この曲を聴いた時に「あぁ又やったんだな、この人は。」と言うのがファーストインプレッションだった。
彼が何を又やったのかと言えば、勿論インスパイア音楽のこと。特に坂本龍一の場合、楽曲中のインスパイア成分が95%、残りの5%が坂本龍一の成分だと言っても過言ではない。
 

Piece for Illia


彼(坂本龍一)の場合、この現象は(私が知る限りでは)今に始まったことではない。
その昔はラジオ番組内各所に「新人発掘」なる企画を立ち上げては多くのアマチュア・ミュージシャン等から毎週のようにデモテープを募り、もしかしたら坂本のプロデュースの元にデビューが叶うかもしれないと言う夢を抱いた若者たちの希望の灯を、坂本はどれだけむしり取って来たことだろう。
 
看板「世界のサカモト」は私達、音楽仲間の一部では「パクモトリュウイチ」と呼ばれている。(※その時の衝動で何の躊躇もなく、坂本龍一が他のアーティストの作品を堂々とパクることからこの名が付いたと言われている‥。)
昭和から現在に至る数十年もの間、坂本のある種卑怯な作曲スタイルを内緒話として嘆く声も多数聞こえて来たが、数の力で多くの人たちの嘆きが闇に葬られて来た。
 
実は先程Twitterにも投稿したが、私は音楽家として今、とてつもなく腹が立っている。
 

 
勿論パクモト、‥じゃなくて、坂本龍一が同じ国籍の同じ音楽家であることも腹立たしいが、それよりも現在進行形で戦火にあるウクライナの民謡『Verbovaya Doshchechka』の美しい旋律をパロディーのように切り崩し、メロディーの一部の音の配列と音域を1オクターブ移動しただけでその他の音楽の雰囲気等を原曲の民謡そのままの状態で残した楽曲に対し、「作曲: 坂本龍一」とクレジットし、あたかもウクライナの悲惨な状況を嘆く体(てい)の楽曲として世に輩出した彼の言動はもっと許せない。
 
この作品には坂本龍一ともう一人、ウクライナのヴァイオリニストのイリア・ボンダレンコ氏がクレジットされている。楽曲はイリア・ボンダレンコ氏の音色に触発されたことから生まれたように、坂本龍一の談として言い伝えられている。

だが幾ら何でもウクライナの村の民謡に楽曲を似せて作った坂本自身の作品と言われるものを、戦火の真っただ中にあるウクライナの若い演奏家を起用した上、ロシア製の爆弾で粉々になった学校と瓦礫の上でそのヴァイオリニストに演奏させ、それをプロモーションビデオとして配信して平然としていられる作曲者(?)・坂本龍一の感性が余りに卑劣極まりない。
 

 
そこで私は Piece for Illia の原曲として演奏されたYouTubeを先ず探し出して聴いてみた。それが以下の動画である。
 

 
音楽に精通している人であれば一目瞭然だが、このアンサンブルには余計な西洋コードが加えられていない。
せいぜい旋律が三音以内に制約され、ルートとなるベースが固定されていない為、どこか伴奏のない女性コーラスに似た不安定さが楽曲の魅力となって聴こえて来る。
 

上のYouTubeの楽曲は “Verbovaya Doshchechka”。邦題だとカタカナで「ヴェルボヴァヤ・ドシェチカ」と書かれてあり、この作品はウクライナの村の民謡(春の民謡)と言われるものだそうだ。
とても美しい曲なので気になって、スペルを調べてYouTubeで検索したら以下の動画がヒットした。
 


やはり東欧独特の音の韻を踏んでおり、そこはかとなくアルメニア民謡にも通ずる哀しい中にも芯のある音楽が心に沁み渡る。
パクモト‥ じゃなくて坂本龍一はヴァイオリニストのイリア・ボンダレンコ氏ではなく、実はこの民謡に触発され、楽曲のインスパイア成分95%(ほぼウクライナ民謡)の旋律とかなり不自然な西洋コードを複合させた音楽を、物マネすれすれであるにも関わらず自身の作品と称して世に出したと言っても良いだろう。
 
あえてこれを「盗作」と言わないのは旋律が全く同じではないからだけであり、音楽は旋律だけで構成されている訳ではなく、コードやモード、楽曲のニュアンスや全体の印象も含めて楽曲が完成する。
 
何より心からウクライナ国内の停戦を願い、ウクライナの未来を祈り、尚且つウクライナ民謡 “Verbovaya Doshchechka” に触発されたと言う坂本龍一の声が真実ならば、何故原曲の民謡をありのままカバーしなかったのかが私には理解出来ない。
「インスパイア」と言う言葉を使いながらも最終的には坂本龍一自身の楽曲として世に出したかった彼の強い欲だけが、楽曲の前面に泥のように散乱しており、それらがウクライナ全体を酷く汚しているように私には思えてならない。
 

坂本龍一「ステージ4」のガンとの闘病を語る

 
昨日 2022年6月7日、早朝から坂本龍一についての不穏なニュースが世界を駆け巡った。
彼自身が今とても苦しい状況に在りながら、それでも彼が「パクモト」から抜け出せないのはやはり、生まれ持った彼の「業」ゆえなのだろうか‥。
 
仮に何かを盗むのであれば、せめてそれが愛する人の為に‥ と言う美しい美談であればまだマシだが、(例えるならば)ルパン三世の物語の主役が時折嘆く美しいつぶやきのような噂が彼の周辺から聴こえて来ることは、おそらく今後二度と無いだろう。
せめてこれ以上坂本が日本人或いは日本の音楽家たちの誇りを汚さぬよう、心から祈るばかりである。
 

Laufey from Iceland

今日は良いニュースが一つと、そうではないニュースが早朝から世界を駆け巡り、さらに私も体調が今一つだったところに加えとても重要な打ち合わせを一つ控えており、気持ちの浮き沈みがとても激しい一日だった。
 
巷のいずこでは「ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクール」の最終選考で賑わっており、私も参加者の演奏を一つだけ聴いてみたが、兎に角つまらないと思いYouTubeをそそくさと閉じたところだった。
何が面白くないかって言えばそれは決まっており、自身の作ったものでもない音楽をただ完成度だけを追い求めながらどれだけ汗をかいて演奏したところで、結局再演者のエゴだけが音楽を埋め尽くすだけの愚行にうんざりして疲れてしまうだけ。

そんなことを言ってしまったら世界中から殆どの演奏家が消えてなくなってしまうかもしれないが、再演音楽は余程再解釈が美しいか或いは斬新であるか‥ でもない限り、消えてなくなってしまって良いと私は思っている。
 

Laufey
 

そんな私のか弱い日常の憂鬱を払拭するように、YouTubeのサイドバーに久し振りに彼女‥ Laufey(ラウフィー)の新譜Fragileが現れた時はもう、どうにもこうにも救いの女神が現れたような感動で涙腺がウルウル緩んでしまった。
 

 
Laufey(現在23歳)はアイスランドのシンガー・ソングライターであり、自身の音楽のルーツは古いジャズに由来するとインタビューでも話している。
 

  
最近のポップス系のシンガー・ソングライターは何かと扱いが簡単なジャズ系~ボサノヴァ系に作風を逃げ込ませる風潮が強いように感じるが、彼女の場合は仮に楽曲の構成がジャズ & ボサノヴァ系だったとしても他のアーティスト等と同じように捉えるべきではないかもしれない。

一つには彼女の表現手法、特にヴォーカルの声の緩急の付け方にとてつもないケルトを感じさせる。さらに地声と裏声(時々微かに挟まるヨーデル含み)の両方を微弱な声量で動き回る点が、他の同ジャンルの歌唱法とは大きく異なること。
 
もう一つの要因として、メロディーラインがとてもクラシカルでオーソドックスな流れを踏んでおり、ともすると旋律の無休感(長い旋律が連続しており、間に呼吸を挟まないで歌い切る歌唱法等)がオペラやフランス歌曲にも通ずる揺らぎを含んでいる点。
その揺らぎがボサノヴァ(或いはジャズ)系のバッキングに乗ってしまうと、一見するとごま油で一度炒めてしまえばどんな野菜や肉類であっても全て「中華料理」に括られてしまうように勘違いしそうになるが、実はそうではない。


なのでむしろ彼女 Laufeyには余り自身の音楽ジャンルを「古いジャズに影響された何か」だとか、「ボサノヴァ的な何かである」‥等と限定して自身の音楽の器を狭めて欲しくないと、他人事ながらとても気になった。
 

 
その人が本物であるかどうか、真の表現を志している人であるかどうかを見極める時に、私はそのアーティストに先ずオーソドックスなスタンダード作品を演奏(カバー)させたり歌わせたりすることに決めている。
その意味では、彼女の歌うカバー曲「I Wish You Love」の表現はもはや、Laufeyの若さを超越している。
 
この作品は日本国内でもジャズ系やシャンソン系シンガーの多くがカバーしたくなる曲・第一位に選ばれる曲だが、殆どの歌手が「オレオレ」「あたしあたし」‥のエゴが全面に出てしまい、正直音楽にも作品もなる前に沈没してしまう。
その意味でLaufeyのような、ある種の「自分」の大部分を消しゴムで消しながら彼女の持ち味である声質とロングトーンだけをしっかりと残しただけの、ある意味利他的とでも言うべき音楽解釈は、長年音楽を書き続けて来た私でもただただ脱帽の域だ。
 

  
ここでは彼女の学歴にはあえて触れなかったが、ご覧の通りLaufeyは色々な楽器を操りながら各々の楽器の音色からさらに新たな構成や表現に挑んでいる。
楽器によって表現手法を変えて来るところが彼女の特技或いは魅力とも言えるが、最終的には外界の情報に惑わされることのないLaufey自身の音楽に到達して行ってくれることを、いち音楽評論家としては期待したいところである。
 

さて、この記事の〆はそんな多彩なLaufeyの最新作「Fragile」の、彼女自身のギターの弾き語りの動画を貼っておきたい。
 
若干ヘッドフォンのボリュームを上げながら、時折今にも消えそうになるLaufeyの地声と裏声の狭間のケルトを感じながら、まさに今雨季に差し掛かった日本の湿っぽい夜に新たな清涼感を添えられれば幸いだ。
 

 

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音楽から読み解く世界情勢 [2022.05.28]

毎週末の新譜チェックが少し負担に感じていた5月半ば。考えてみれば「五月病」と言う言葉があるように、5月とはそういうシーズンだと言うことをふと思い出した。
そんなことならば少しだけ休息を挟みながらのんびりやろうかと思っていたが、どうやらそうも行かない状況だ。

恐らく今月のどこかで私は、日本国内では「大御所」と言われている「或る人」からTwitterのアカウントをブロックされたようだ(笑)。
そんな大御所からご丁寧にブロックされるのは、ある意味では芸術家冥利に尽きる。私もそろそろ(先方から見たところの)大御所の仲間入りを果たす前兆かもしれず、これはきっと名誉なことだと思って良いだろう。

箸にも棒にもかからない人間をわざわざブロックする大御所など居ないだろうから、この記念すべき年に私は新たな勲章を得たと思い、堂々と今後の芸術家・音楽評論家人生に踏み出そうと思う。
 

一日遅れたがさっき、世界の新譜チェックが無事終了した。今回はSpotifyとAmazon Musicの両方に新しいプレイリストを開設し、公開した。
両サブスクリプションの使いやすいのがSpotify、でも音質の点ではやはりAmazon Musicに軍配が上がる。

 


‥と、折角音質の良いAmazon Musicの方のプレイリストの埋め込みを期待したが、どうやらこのブログでは表示出来ない仕様らしいので、Twitterのリンクを貼っておくことにする。

 


今週のサブスク新譜情報も、やはり単曲ないしはEPサイズの配信が目立って多かった。
だが中には久々の楽曲配信の大御所の作品も点在し、ワールド・ミュージック・フリークとしてはとても嬉しい週末となった。

特にGérald Totoの新譜 Dérivé Larel La、さらにはDori CaymmiがMônica Salmasoと組んでリリースした新譜 Canto Sedutor には嬉しさを通り越して泣かされた。

 

 

今週は日本勢はJ-Pop界隈も頑張っている。
良い曲は国籍・ジャンルを問わずガシガシ紹介して行くのが、私・Didier Merah流だ。
ただの音楽好きとは異なり私は芸術家としての教育の基盤を持ち、尚且つ世界中の多くのジャンルの音の構成分析を得意とする。付け加え、そのどのジャンルにも無い新たな音楽を生み出す、私は稀有な存在だ。

そんな私が紹介する音楽に国境などもはや存在しない。良いものは良い!と言う信念に加え超越した感性とジャッジメントの上に厳選した楽曲に、良くないものなどある筈がない。
要は自信満々でセレクトして行く毎週末の新譜は、他の誰のプレイリストにもない面白い選曲だと言いたいわけだ。
 
J-Popあり、Tangoあり、アフロ・ミュージックもあればアルメニアのポップスもある楽しいプレイリストを聴いていると、何故世界から戦争が絶えないのだろうか‥ と言うふとした落胆が胸を過る。
音楽の力が及ばないのだとしたら、私達音楽家の責任重大だ。だから私は世界を変える為に、自身の創作活動だけではなく音楽評論家、比較音楽学者としての厳しい表現力にさらに磨きを掛けたいと思っている。
 

 
そう言えば2022年春に晴れて6人でデビューを果たした、宮脇咲良も参加する韓流女性グループのLE SSERAFIMからいきなり一人脱退した形で、5人で活動を再開したようだ。
理由詳細は不明なので(噂の域なので)、ここではその理由については省略するが、6人よりは5人の方が確かに見た目にも残念ながらスッキリした感じに見える。

人生には色々なことが急遽降り掛かる。だから良からぬことをしたり、思ったりしない方が身の為である。
 

 
さて、この記事のラストを何の曲で飾ろうかと十数分迷ったが、先週分のPlayListの更新分から、私の大好きなTitiyoが久し振りにVocalを放ったこの作品を貼っておきたい。
自然と体が動き出す曲‥ と言うだけでなく、楽曲としての出来栄えも高い一曲だ。

ご堪能あれ!💛
 

 

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「ラヴ・スコール (峰不二子のテーマ)」と作詞者・槙小奈帆

このところ、80~90年代のCity Popsのカバー曲のサブスク配信が盛んだ。つい先日も何とも懐かしい今井優子の『真夜中のドア』のカバーを聴きながら、一人昭和の街並みを妄想しつつその世界観に歓喜したばかりだった。
 

  

思えば昭和の後期に、軒を連ねるように名曲のリリースが相次いだ。この作品『真夜中のドア』もその一曲だ。

そもそもこの作品をインドネシアの歌手 Rainych が2020年にカバーしたことでアジアに真夜中熱が再燃し、大ヒットの狼煙が焚き付けられたと言う話も伝わって来る。Rainychの声質はどことなく、日本で言うところの「初音ミク」のような感じの無機質なオモチャボイスで、正直私は余り好きではない。
だが、こういう声質が流行る理由は何となく理解は出来る。

 

 
その後日本ではTokimeki Recordsがゲストボーカルにひかりを招き、この作品をカバーしたが、これがなかなか夜の歌舞伎町のスナック色の強いさびれた感じがして良いのだ(笑)。

 

 
同じ曲を2019年に中森明菜もカバーしている。此方は完全にサルサのビートに編曲がしっかりと為されていて、私は好きだ。
 
こういう挑戦には賛否両論のレビューが付き纏うものだが、元曲通りが良いと言うのであれば原曲だけを聴けば良い。原曲にいかに寄り添いながらもどれだけ跳ね除けて再編して行くのか、それがカバー・ミュージックの妙味でもあるのだから、こういう機会を与えられた歌手や編曲家には思う存分遊んで欲しいところである。
 

 
さて、話を「ラブ・スコール (峰不二子のテーマ)」に戻さなければならない。
 

「ラブ・スコール (峰不二子のテーマ)」、このタイトルを聞く度に私は作詞者である槙小奈帆の陰影を思い出す。かつて私がシャンソン界で伴奏者としてトップに君臨していた頃は、大っ嫌いな歌手のTop3.に名前を挙げても良い程の人物だった。
センス、性格、演歌さながらの歌唱法‥ どれを取っても良いところ等一つもない人だと言っても過言ではない。

知名度のない新人歌手やピアニスト等、槙小奈帆に運悪く共演の出番が当たってしまうと、兎に角とことん虐め尽くされて帰されたものだった。だが伴奏者とは因果な商売であり、一度歌手に気に入られようものならその後の共演の出番にお断りを入れること等、けっして許されない分際だった。
だが、私は最後までこの歌手との共演に断りを入れ続け、どこかでうっかり遭遇しても無視し続けた(笑)。

 
そんな私が日本のシャンソン界にうんざりして2011年に業界を撤退し、その後偶然Facebookで「槙小奈帆」の名前を見掛けた時には即座に彼女のアカウントをアクセスブロックに処した。
色々と面倒臭い人なので、金輪際関わりを持ちたくなかったからだ。

だが、そんな折も折、最近になって「ラブ・スコール (峰不二子のテーマ)」を多くの歌手等がカバーしており、その度に作詞者欄に「Sanaho」とか「槙小奈帆」の名前を見掛けるようになり、私の音楽評論家魂がゾワゾワと疼いたのだ。
既に私は和製シャンソン界を撤退しており、今や槙小奈帆とは上下や同業者のしがらみも無い。ならば音楽評論家として大胆なジャッジメントを加えたところで、双方に何らリスクも無いだろうと判断し、つい最近になって槙小奈帆のCD「ネレイス」を中古で購入した。

 

CD「ネレイス」: 槙 小奈帆

 
作詞者自らが歌う「ラヴ・スコール (峰不二子のテーマ)」は恐らくこのアルバムの目玉と思いきや、どことなく捨て曲のような状態でアルバムの冒頭に収録されている。
彼女自身の日本語詞は封印され、全編フランス語で槙小奈帆は堂々と歌い切っている。バックを務めるピアニストはおそらく美野春樹氏だろう。どうりで饒舌を超えてお喋りで、うるさい。
 
しかも肝心の最後の最後のコードがミスタッチによるディスコードになっており、ベースの音がFから半音ズレて「E」を押している。これは明らかなミスタッチだと誰もが分かるのに訂正が為されなかったのは、多分‥ だが槙小奈帆に「この為」だけに二度歌わせ、録り直しをさせるわけには行かなかった業界特有の忖度だったのではないかと思う。
本来のコードとは全く異なるディスコードでラストに突っ込んだままの楽曲は、何とも後味が悪過ぎる。‥だがこういうところにも人柄や音楽のセンスが露骨に出てしまう辺り、本当に怖い。
 

同アルバムの2曲目以降はもう、聴くに値しないレベルだ。これが演歌のアルバムだと言うならば歌唱力が圧倒的に足りないし、これがシャンソンのアルバムだと言うなら喉にこぶしを込めたような歌唱法に大きな支障を感じざるを得ない。

正規のボイス・トレーニングもおそらく為されておらず、良く言えば「ハスキー」でかすれた本当に耳障りな発声が延々と続いて行くので途中でディスクを止めた。これ以上このアルバムを聴き続けることは、流石に無理だった。
 

 
良い表現とは「過剰な情念を挟まない、客観的かつクールな表現」を指す。その意味で、槙小奈帆の表現は聴き手の自由度を著しく阻害した、カッカとした熱さだけが粘着いた炎のように吹き出すだけで、ただただ風通しが悪いものだと私は感じてならない。
 
アルバム「ネレイス」の冒頭のフランス語の「ラヴ・スコール (峰不二子のテーマ)」の、どこか「他所様の言語を拝借させて頂きます」‥ 的な引きの表現の方に彼女がもっと磨きをかけることが出来たなら、きっともっと多くのリスナーに愛されたに違いない槙小奈帆の名作(作詞)、「ラブ・スコール (峰不二子のテーマ)」の別バージョンをこの記事の〆に貼っておくことにしよう。
 

同じ演歌でも、石川さゆりの演歌はどこか爽やかだ。槙小奈帆の重苦しいシャンソン・ド・演歌の声の怨霊を綺麗さっぱり忘れて、和装モンマルトルの世界に浸って頂ければ幸いである。
(※歌手とは、声優さながらその作品に応じた歌い分け、声の使い分けを怠らない人を指す。)
 

 

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音楽から読み解く世界情勢 [2022.04.26]

どこか緊迫感を高めながら世界中が一進一退する2022年、春。
地球はどこに向かって加速しているのか、それとも失速しているのか‥。数年前のシリアに続いて、再び瓦礫の国が増えて行く。
 

音楽は全てを物語る。
毎週末に世界中から配信されるあらゆるジャンルの新譜を追っていると、誰もが不安を抱えながらその場でフリーズしかけているように見える。
相変わらず今週も単曲での新譜が多く、次いでミニアルバム・スタイルの新譜が続いて行く。Lofiの新譜のクオリティーが先週よりも若干落ちているのが気になりつつ、その一方でやはりダブ・ステップの新譜が先週より増えているように感じる。
 

私がコレクションしているメインのプレイリストには、ダブ・ステップのようなある種、戦争の音声を意識させるような音楽をあえてリストインしていない。音楽はあくまで心の癒しの役割を果たすべきであり、尚且つ私は音楽の中に「祈り」の有無を強く求めたいと願っている。だからダブ・ステップやDeep House系の音楽をコレクションしない方向で、PLを作成している。
 

今シーズンのメインのPLは此方。
 

 
今週の更新は、M-45 “About Love” – The Soultrend Orchestra · Papik · Alan Scaffardi から。
 

About Love · The Soultrend Orchestra · Papik · Alan Scaffardi

 

各ジャンル、各アーティスト等の新譜からアルバムを辿り、実際に紹介されているアルバムリードの楽曲とは異なる別の楽曲をPLにコレクションする事も度ある。

先週末、一人Sufiの大物が過去アルバムのリマスター版をサブスクから再配信していたので、それをここにご紹介しておきたい。

Omar Faruk Tekbilek のアルバムSound of the Sultans (Remaster)である。
 

 
アルバムタイトルに『Remaster』と書かれてあるが、最初のリリースは私の記憶だと10年近くは過去の遡るだろう。だが正確な最初のリリース年月日がいくら調べても見つからないので、明言は避けておく。
 
Sufiについて、又、Omar Faruk Tekbilek氏についての記載はあらためて、別記事で触れることにしよう。本記事は私が編集しているPL(プレイリスト)についてと、ここ数週間の世界から配信される音楽の傾向と世界情勢との関係性について、内容を集約したいので。

 
もう一人、イタリアはカンツォーネ歌手、ロッサナ・カサーレの新譜Trialogoも良い。この作品はアルバム全体を通して聴く方が、印象が良いかもしれない。
 

 

このアルバムの中でも、特にオススメ作品を挙げるとしたらアルバム・タイトルの『Trialogo』だ。

歌手、ロッサナ・カサーレとの出会いは当時渋谷にあった大型CDショップ「HMV」の試聴コーナーだった。アルバムタイトルはLo Stato Naturale。ジャケ写が何とも色っぽく、仕事の合間にその写真を見てしまった後暫く私は、現実の世界から意識が遠退いてしまったことを今でも忘れない。

 

Lo Stato Naturale – Rossana Casale


度々私が書いている「メインのプレイリスト」の他に、ジャンル別に仕分けしている専用のPL(プレイリスト)が複数あり、特に今年の3月以降は若干コレクションのジャンル分けのスタイルを変えている。

リズム主体で主メロが曖昧なチルアウト系やLofi系の新譜は、メインのPLではなくBGM用のPL『⛪️New Chillout Times 2022′ ②』の方にコレクションする用、仕分けを変更している。

 

 
とは言え音楽のカテゴライズとはとても難しく、又各楽曲が単一のジャンルに仕分け出来ない場合も多々ある為随所に例外は発生するが、全体が一つのまとまったラジオ・ステーションとして成立するよう、毎週のコレクションにはこれでも苦労しているのが現状だ。
勿論リスナーとは何の関係もない話しと言ってしまえば身も蓋も無いが、自身が音楽家・作曲家でありながらこれ程までに他のアーティストの作品を大量に紹介している音楽家も珍しいだろう(笑)。
 

そうこうしながら先週は、私自身の次のアルバムに収録したい新曲のモチーフを幾つも五線紙にメモしており、そろそろ手の負傷と向き合いながら鍵盤練習の復帰を狙って行きたい気持ちも山々だが、兎に角無理は出来ない。

プライベートの大きな変化も続いている為、身体以上にメンタルのコンディションを度々大きく崩している事にも注意を払いながら、少しスローペースで音楽と関わって行くことが今はベターだ。

 

Kim Oki

 
さて、この記事の最後を飾るのは、最近私が注目している韓国のオルタナティブ・ジャズ系のサックス奏者 & 作曲者のKim Okiのアルバム『Greeting』からMoonlightともう一曲、韓国はパンソリ歌手のLee Hee MoonとKim Okiが共演しているPV『어랑브루지』の2作品で締めくくりたい。

 

 

 

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クラシック界の新進気鋭・藤田真央を分析する

このところ何かとクラシック音楽界を賑わせているこの人、藤田真央と言う名前を頻繁に見掛けるので遂にYouTube~Spotifyの音源を聴いてみた。

先ず率直に聴いた感想を述べてみると、一言で言うと音楽表現が幼稚だ‥ と言う一点に尽きる。
まさかこの人がまだ幼気な子供だったらと言う懸念もあり慌てて藤田真央氏のプロフィールを捲ってみたが、どうやら成人式を迎えたばかりの年齢には到達している事が判明。ならば一人の大人の演奏家・表現者としてのジャッジメントを加えても良かろうと言う判断に至り、この記事を書いている。
 

音楽ライター・高坂はる香と言う人がTwitterでやたら藤田真央を褒めちぎっていたので、どうにも気になったことが切っ掛けで色々私まで彼の音源を追い掛ける羽目に陥ってしまったが、正直時間の無駄だったかな‥ と後悔している(笑)。
 

  
やはり人の言葉はアテにならない。‥と言うより、高坂はる香が「音楽ライター」であって「音楽評論家」ではなかった‥ と言う点をうっかり見落としていた私がいけなかったのだ。
こういうところはしっかりと、見落とし・抜かりなく精査しなければならない。

高坂はる香のTwitterのTLで紹介されていたのが、以下のYouTube。どうやら2022年1月19日(水)19:00 東京オペラシティ コンサートホールで開催された藤田真央のピアノリサイタルのダイジェストから、ショパンのバラード 第三番の一部だ。
 

 

良く言えば「個性的」だが、裏を返せば身勝手で作曲者: ショパンを全く無視した浅はかな亜流解釈のショパンと言っても良いだろう。
コメント欄にも「賛否が分かれるだろう‥」と言ったような内容のコメントが散見されるが、こういう遠慮がちなコメントではなくはっきりと「これはショパンでも音楽でも何でもない!」と言えないのは、受け身体質の強い日本人の弱さでもあるだろう。

(藤田真央の楽曲の)解釈が断片的で、一個の音楽として楽曲を俯瞰出来ていないし、しかもそのくせやったりげな表情で人格者を演じているのが余りにも滑稽で、絵的にも見ているのが辛くなる。
これはクラシックの演奏家に多いパターンで、なぜかドヤ顔でやったりげで崇高な人格者を顔芸で演じてしまう人達が多いのは、何を隠そう彼らの知性と自信の無さの顕れなのだと私は思っている。

そもそも作曲者の意図や感性を超えた演奏家(再演者)自身の個性等、全く以て不要である。
この点を勘違いし、「自己の新たな解釈」を無謀に加えたがる再演家が、まだまだクラシック音楽界に蔓延しているのが現状とも言えるが、この傾向は出来れば全てのクラシック音楽の演奏家達が早々に脱却しなければならない大きな課題の一つである。

付け加え、高坂はる香のような安易に勝ち馬に乗りたがるタイプの音楽ライターが、表現の稚拙な若い表現者をやたら持ち上げるこの状況にも大いに問題を感じる。
あくまで業界関係者や世論が今誰に注目しているか‥ と言う流れに上手く乗って、自分自身の感性とは全く関係のない、あくまで売れ線演奏者のCDやコンサートチケットの売り上げに貢献することだけを目的とした音楽評論もどきを見抜けない、一般のリスナーの罪も深い。
 

 
話しを藤田真央に戻そう。

藤田真央のWikipediaに掲載されている略歴を見るかぎり、多数のコンクール受賞歴があり、日本国内のTV番組にも多数出演する等、年齢と職歴が反比例するような状況だ。

だが気を付けなくてはならない点は、あくまで藤田真央は未だ演奏者としては未開の地であり、尚且つそうした学習を要しない程の突出した才能に恵まれているわけではないと言う現実を彼が抱えていることだ。
藤田真央はあくまで平凡な商品であり、それ以上でも以下でもないと言う点を的確に見抜く音楽評論家やマネージャーが付かない限り、あっと言う間に天狗になり、あっと言う間にこの世から消されることにもなりかねない。

余生は一部の熱狂的なファンに囲まれ、それなりに幸せな演奏家生活は全う出来るだろう。勿論それだけで満足であれば言うこと等何も無いが、そんな状況をみすみす放置しているだけでは、日本から音楽史や世界史に名を刻む芸術家は生まれないだろう。
 

普遍の表現、圧倒的なまでの音楽解釈力、美しい音色、そしてそれが音楽であることすら忘れさせるような圧倒的な演奏能力、最低でもこの4つの才能を持たなければ歴史に爪痕は残せないだろう。
尚且つ演奏家の宿命は、「再演を続ける」ことだけに忙殺され、没後50年も経過すれば殆どの演奏家はこの世から消えて行く運命を背負っていることである。

やはり歴史に名を刻む為には、演奏者(表現者)自らが音楽を生み出すことが必須である。身も蓋も無い話しだが、これは真理と言っても過言ではないだろう。

 
このところ私自身が公私共に多忙になり、今日はここで執筆を終わりにしたい。この記事の最後に正直言って「何てことをしてくれたんだ!」と怒りキレそうなまでに、私の大好きなこの作品(『亡き王女のためのパヴァーヌ』)を穏やかに崩壊させてくれた、藤田真央のこの音源を貼っておきたい。
 

 

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