還暦 (60 ans), 私と『Mother』

2024年11月3日、私は還暦を迎えた。単語に書いてしまえば何とも呆気ない二文字だが、とても孤独でエキセントリックで、尚且つ少し苛々するような不思議な感覚を覚えている。
誕生日付近に旅行を計画し某所に向かったが、案の定私の雨オンナパワーが炸裂した。三泊四日の旅に出たものの中二日目で滝のような大雨に見舞われ、室内で滝の音を聴きながら過ごすことと相成ったが、私たち夫婦はそれでも一向に構わなかった。
 
滝のような雨音は音楽だった。自然音と言う最高の恵みに鼓膜はむしろ癒され、少し疲れた心身を温泉に浸して空を見上げるだけの何ってことのない時間はただただ至福のひと時だった。
 

50代最後の年、私は神々に多くのミッションを授かることとなった。元・人の神も在ればそうではない、宇宙自然神のような存在も在る。各々の神々が私に少しだけハードルの高い課題を提示して来たが、それが私の得意分野ならばただ続けて行けば良いだけだ。
リラ星の頃から、自然神と音楽は私の最高の友だった。今でもそれは何一つ変わらないのだから、後は私の魂や霊体にその旨を余すところなく刻印し、私の死後に神々にそれを手渡すだけだ。
 
気付けばブログも前回の更新から三か月近くが経過した。幸いなことに私がここを留守にしている間にも沢山の来訪者があり、何かしらの記事を捲って読んでいる。それが好意か悪意かなんてことはこの際どうでもいいことだ。
私の部屋を訪ねて来た人たちには各々それなりの理由や動機がある。ただそれだけのことだから。
 

 
ブログの更新が空いてしまった唯一の理由を挙げるとしたら、私に話せることに制約が増えてしまったことだろう。
人や神々との繋がり全てに於いて、私はMAXレベルの秘密主義者だ。それもこれも仕方のないことで、かつてジャンヌダルクとして生きた時代を含め記憶にある中で私は二度、火炙りで死んでいる。もう火炙りは懲り懲りだ(笑)。
ダークサイドは私の食、財布、生命導線のありとあらゆるところを狙って突いて来るから、私は多くを隠して行動しなければならない。幸いなことに夫が召喚してくれた心優しきガーディアンズたちも頑張ってくれるので、こうして何とか無事に還暦を迎えることが出来た。
 
心優しき夫にも、ただただ感謝の一念しかない。
 

書きたいことが山のようにあるにはあるが、いざ書き始めたらおそらく一冊分の本になるだろう。それだけ私のこの10年は余りに濃厚だった。だからと言って「濃厚だ、濃厚だ」と言えばただの安っぽい嫌味みたくなり兼ねないので、無数の思いを霊体に封印した。
 

人として色々な心配事も絶えないが、その内容さえもここには書けないのがもどかしい。相手もあることが大半なので、これも又致し方ないと諦める。
 

 
音楽のみならずスピリチュアルなことその他に於いては、実は随時追跡や調査を続けている。
声高に「不思議だ不思議だ」と言われることの大半が、私にとっては然程不思議でも何でもない実に他愛のない出来事だったりする。
 

いずれ地球の半分以上が廃墟となること。
いずれヨーロッパの大地の一部が水没したり、人が消えていなくなったりすること。
いずれ地球の公式言語の一つが日本語になること。
霊質文明の最初の樹立が地球時間で数百年後に控えていること。

 
知っていることは他にも多々あるが、現在の「有名人にしか関心を寄せない考えの人々が主流」の地球上で預言の全貌を明かすには未だ早過ぎる。
リラ星の時代から23万年以上が経過したが、地球もプレアデス星も或いは双方の関係性も余り変わっていない。リラ星人とて一枚岩ではないわけだから、善人と悪人の両方が混然一体と共存する。当然虚偽もまん延して行くが、私一人の預言の力でそれを止めることなど出来ないし、止める必要もなさそうだ。
その前に地球が一度空っぽになるから。
 

空っぽの世界に残り続ける残響のような音楽を、私はどの世界に在ってもせっせと放ち続けて行くのみだ。その目的の為に私は日々神々や自然神、精霊たちと対話を続けており、その過程で地球や宇宙の未来の一部をそっと覗かせて頂き、それを預言として音楽の中に封印して解き放っている。
人の為の音楽ではなく、もっとそれ以外の目的を持つ音楽だから、人々の琴線に刺さらなくても余り心配はしていない。それより何より私は、自身の中の『Mother (マザー)』の存在を今は大切にしたいと思って生きている。
 

Christmas 2023′ (ジャンヌ・ダルクから今の私まで)

2021年12月26日を起点とすると、怒涛のような2年間が経過したように感じます。
私がかつてジャンヌ・ダルクとして生きた時、私の周囲の人々の大半が敵でした。火あぶりになる私を微笑みながら見つめていた人々の顔を私も又、見返していたように記憶しています。
その中の人々の多くが転生を繰り返し、私の実母も実父も弟も「敵」側の人たちの生まれ変わりだったと感じます。
 
世界の全てが敵ならば、どんなに心からの救いや平穏を求めても味方が現れなかった、この半生にも納得が行きます。
過去の記憶はそのまま魂に引き継がれますから、私が現世に於いても孤独である理由にも整合性が見て取れます。
 
 

 
2023年、クリスマス。
世界は光と闇に分断しているように見えますが、光のある所には同時に闇も存在します。「光だけ、闇だけのどちらか片方の世界だけが在ることの方が不可能である」‥ とは、宇宙のクリエイションからのメッセージ。
常に両者は共存する、それが宇宙の法則です。
 
争いを起こすのは常に闇の分子を多く持つエレメントだと言われますが、そうとも言えない場合もあるようです。
だから私は「闇側」「光側」と言う分類を好みません。
 
今日までに私を怪訝に感じた人たちに伝えることがあるとすれば、私が私に至るには様々な人生の変遷を経て来たと言うことです。

私が仮にジャンヌ・ダルクの生まれ変わりであると言う仮説を肯定すれば、私が朱に染まらない理由をきっとご理解頂けると思います。
黒を白と言い替えないのが私であり、悪を(その相手と親しいからと言う理由で)善に引っ繰り返さない。‥それがジャンヌ・ダルクの生き方でした。
 

‥ジャンヌ・ダルク時代の多くの魂たちがどっちみち私と関係性を当時とは全く変えたがらないのであれば、私は私の生き方を貫くのみです。
当時と異なることがあるとすれば、それは現・夫と出会ったことでしょう。
夫はそもそも人/ 属性の魂ではないので、むしろ私の人間性や霊性を客観的に理解してくれますし、私が何故こうなるのかと言う理由についても理詰めで熟知しているように感じます。
 
勿論人間と言う温かい皮膚を持つ友人が欲しくないと言うわけではないですが、それは私が妥協や癒着等と言うだらしのない価値観を許容したり、‥特に親しい人が悪人であっても「善人だ」と価値観を引っ繰り返さなければ永遠に難しいのかもしれません。
魂を悪魔に売り渡すことは、私はこの先永遠に無いでしょう。それはこの先、私のようなタイプの後輩が苦しまないように私がバイブルとなることで、少しでも歴史に貢献出来ればと言うささやかな祈りにも通じていますので。
 
何も悪いことをしていないのに「悪人だ」「嘘吐きだ」と言われた私の苦しみを私は、やり返すのではなくもっと別の方法で返して行くべきだと感じているので。
 
 

 
‥これでも私は社会性を手放してはいません。
むしろ中途半端に社会性を身につけてしまったことで、誤解が生じているのかもしれません。
なので最近はみだりに人と関わらないよう、人と親しくならないよう細心の注意を払いながら生きています。
 
2023年12月24日。
この記事を読まれている皆様にこの曲を贈ります🎄
 
 

 

夏の思い出 (“Old Folks” – Chris Botti を聴きながら)

私は自身が作曲をし、それをピアノを通じて表現する人。なので再現音楽の類いを好まない。
時々あっいいな‥ と思う人、例えばダイアナ・クラールとかキース・ジャレットとかそういう人の演奏や表現には徹底的に心を持って行かれるが、それ以外の再現音楽奏者には殆ど興味が無いのだ。
 

久々にChris Botti (クリス・ボッティ) のジャズを聴いた。と言うより、クリス・ボッティが遂にジャズを演り始めてしまったか‥ と言う失望の方が感動よりも完全に上回っている。

かつてはポップスやフュージョン等をグイグイ演奏していた音楽家が年を重ねて、気力体力が追い付かなくなって来ると決まってジャズメンに転向するのは何故だろう。
オリジナル曲を持っているのにその再演を回避して、多くのミュージシャンたちがジャズを歌い奏で始める度に私は、一人の音楽家(作曲家)として落胆する。
 

最近はそれまで大好きだったヴァイオリニストのLucia Micarelli (ルシア・ミカレリ) がヴァイオリンを脇に置いてジャズを歌い始める始末だ。それがけっして上手ではないし良い声質と言うわけでもないのにドヤ顔で歌い切る姿はどう見ても、器楽奏者と言う脇役の負のループからの脱却を狙っているように見えて辛くなる。
 
 

 

そんな中、まさかのクリス・ボッティのジャズらしいジャズがリリースされたので、もしかするとクリスも今後ジャズ・トランペッターに段階的にシフトして行くのではないかと正直不安になった。
 
私が大好きだったのは、あのStingとのコラボの “La Belle Dame Sans Regrets” を悲しげに吹いていた頃のクリス・ボッティだった。
リリース時期を調べてみたら、2004年だ。つまり今日から遡ること19年前のクリスが、私の中では最高の音色を出しているように思う。ざっと計算するとクリス・ボッティが41歳の時の音が、程好く尖がっていて程好く花びらが散り始めたような、そんな印象が強い。
 
 

 
先日久々に「売り物」の音楽やそれを制作している素晴らしいプロデューサーに接して、色々なアイディアを出させて頂くと言う貴重な体験をしたばかりだ。
勿論私が売り物に関わる時には、私自身の音楽は一切出さない。自分のことは自分が一番よく分かっているし、私は自身の作品に於ける他者の「ダメ出し」を絶対に許さない。
 
神さまからのギフトにケチをつける人は居ない。それと同じ話。
私の音楽は一人の人間が作ったものではなく、おそらく神々の思いやアイディアが私の中に降りて来てそれを再現していると認識しており、作曲者は私であって私ではないと思っているから。
 
昨年秋の終わり頃から或る記事を機に先方のマネージャーや通訳の人と繋がり、それが段々と発展して世界的なミラクルへと繋がって行った。
 

私自身の音楽性もデビューの2009年からかなり変容(変化)した。
私の中の本物を見つけるのに、少なくとも4年から5年は経過しただろうか‥。自分の中に自分を見つけた後はさらに無駄を削ぎ落して削ぎ落として‥ の繰り返しだった。
勿論私自身も少しばかり年を重ね、もともと運動神経が良くない私が今さらショパンのスケルツォやリストの「ラ・カンパネラ」など弾けるわけでもないし、その必要すら全くなかった。
 
運動神経で奏でる音楽ではなく私は、美しい残響に残響を重ね合わせるような、そんな音楽を目指している。
既に9歳の時に過去世の音色を思い出して、気付いて、その音楽に向かい始めていた。当時ピアノの教授らには「ペダルが汚い」とか「もっと細かくペダルを踏み替えなさい」等と何度も注意された。だがそれでは大聖堂で響いて来るような荘厳なピアノの音色など再現出来る筈もなく、私は他の同年代の学生たちに次第に置いてきぼりを喰らいながら、私の記憶の中に在る音楽をずっと一人で探し続けていた。
 

年老いたからと言っていきなり既存のクラシック音楽を弾くなどもっての外で、気付けば私は最初っから、百年後の自分に捧げる音楽を作っていた。
 
未来はその時間、その時点に到着しなければ分からないことが沢山あるかもしれない。だが私は9歳の夏に、今の自分をおそらく知っていたように思う。
私を常に奮い立たせてくれるものがあるとすれば、それは「自分と世界の音楽家とを比較する貪欲な精神」だった。それが小さな町の酒場での演奏の瞬間であっても私は、その瞬間を録音しては心に鞭を振るい、「もっと世界の真ん中へ行け!」と自分を叱咤し続けた。
 
 
ものの真ん中を見た人ならば分かると思うが、真ん中は常に空洞で人っこ一人居ないのだ。比較する相手も居ないし、私が今心に思い描いている音楽と同じ素材を作る人も存在しない。
真ん中とはそういう場所だ。

 
 

 
リスナーとしての私の中の「真ん中」に居た筈のクリス・ボッティが、気付けば脇道を歩み始めている。彼が彼自身の音色を放棄してジャズと言うカテゴリーの中に収まることに、クリスは何を見い出しているのだろうか。
 
勿論未だにクリス・ボッティの音色は美しく清らかであることに変わりはないが、音楽や表現手法を老いさせる世の音楽家の一人になり下がって欲しくないと言う私の願いは、もしかすると叶わないかもしれない。
 

 

 
そんなクリス・ボッティとヴァイオリニストルシア・ミカレリが共演した「Emmanuel」の中では、二人それぞれの頂点の音が記録されている。2009年、クリス・ボッティが47歳の時の音楽は既に5年前の華やかさや煌びやかさを失い始めているものの、今のクリス・ボッティよりも音色が澄んでいて憂いがあったように感じてならない。
 

人は誰しも老いて変わって行き、いつかは土に還って行く運命に於いては万人が平等だ。
私にもいつかその時は訪れるが、出来ることならば私が残響の音楽に気付いてそれを思い出した9歳の夏の自分を失わずに居たい。
 

この記事の最後にクリス・ボッティが2023年8月にリリースしたシングル『My Funny Valentine』の2曲目にトラックされている、此方も有名なジャズのスタンダード・ナンバーの『Old Folks』のYouTubeを貼っておく。
 
 

 
 

芸術家の日常 2023.03.29

歯の検診の前日は決まって眠れない。やることが分かっているのに、心の何処かで「何をされるか分からない」‥的な恐怖が渦巻く。
結局昨日の前日の月曜日の夜も殆ど眠れず、ヨロヨロになりながら歯医者に行くと案の定の検診結果だ(笑)🦷
 

気分を変えたかったので検診の帰り、車からは完全に降りて夫としばしお花見を楽しむことに。
 

 
時間差で咲き誇る桜の花の半分以上が散り始めていて、それはそれで圧巻だ。
新居の近くにこんなに素敵な桜スポットがあるとは驚きで、勿論旧宅の一本桜も魅力だが今年はもういいかな‥ と言う気になった。
 
さらにその帰りに新しい花を買った。
昨年旅立った愛兎 マイケルが私に遺してくれた、尊い趣味の置き土産。次にマイケルが此方に転生して来た時に「ママ、頑張ったよ」と言えるように、亜流でフラワーアレンジメントみたいなことを研究中である。
 
とは言えあくまで趣味、あくまで下手の横好き。極めようとすると眉間に皺が寄って楽しめなくなりそうなので、兎に角趣味以上にシフトしないように気を付けている。
 
体も心も「紫」を欲しているのには、何か理由があるのだろうか‥。
わちゃわちゃしているが、その時々の気分を先ずは優先。タイトルは「尊い瞬間」
 

 
なかなか新居のレイアウトが完成せず、未だ楽器も入れてないのでトレーニング不足は否めないが、どっちみちこんなに不穏なご時世の中のんびり練習も出来まい。
先ずは執筆と音楽評論のスキルを極めたい。
 
一日の大半をTwitterやらブログやら、音楽鑑賞等に費やしている。段々と心惹かれる音楽が減っている‥。
先日epoの古いCDを再購入したので、今日はそれを聴いて過ごそうか‥。
 

 
音楽の中にロンドンの風景を感じる。ブックレットを読むと、最後のページに「U.K」の文字が浮き上がる。やはりそうだよね‥ と、自分自身のカンの良さを再認識する瞬間。
この頃(1980年代の後半から1993年の辺り)のepoが、一番好きだ。その後の彼女は中途半端にスピリチュアルを齧りセミナーの開催をする為に必要な資格等を取得して行ったが、それと同時に彼女の音楽性が崩壊したから‥。
 

最近やたらと予言とか預言を公言出来なくなった。的中率が上がっており、私が口にすると現実がその通りに動くからだ。
やはり私はリラ星最期の巫女なんだと、他のヒーラーやスピリチュアリストと同じように行動してはいけないのだと、あらためて己の中で悟りを極める。
 
音楽家の大半のメンタルから「ガチ感」が消えている今日この頃。先日とある歌手のLive(彼女は最早Live活動しかしなくなったので)を拝聴したが、声の衰えと感性に付いた「汚れ」が歌手の全体像を完全に覆い尽くしてしまった感は否めない。
 
かなしいけどこれが現実。
もっと早い段階で「歌手」が私のアドバイスを素直に受け入れていれば、結果は変わっていたのかもしれない。
だが今現在の「歌手」を見る限り、私が光を当てたとしても芸術の方向に舵を切ったかどうかは定かではない。だからこそ私は梯子を外したのだろう。
 
自身の持つ「光」を、自分自身に当てることはなぜか出来ない。だから私は夫の放つ未知の光に、全てを託して信頼している。
私が本物を捨てない限り、自身の持つ光と夫の持つ未知の光が必ず合わさる瞬間が訪れる。だから私は絶対に、ぶれてはいけないのだ。
 

今週のSpotifyの新譜を聴きながら

毎週末の金曜日、Spotifyからは世界各国の新譜が一斉に更新される。勿論私はSpotifyやインターネットを知る以前から日々世界中の新譜や旧譜等を聴き漁ること、かれこれそんな作業を数十年間続けている。
学生時代からTSUTAYAや新星堂等を巡り、気付いたら今年で57歳になっていた。16歳でいわゆる芸能界と言う世界に飛び込んだから、芸歴自体が40年をとうに超えた。

音楽を聴く人たちの大半が、「音楽とは音を楽しむことだ」と思っている。だが私は、それは違う思っている。

音楽を娯楽の玩具として使っている人たちを目の当たりにすると、どうにもこうにも虫唾が走る。身を削るようにして音楽を生み出している人たちは少なからずいる、それを使い捨ての玩具のように乱暴に扱っても平気で居る人たちの息を感じる度に、胸が痛む。


思うに音楽とは祭祀であり、祈りであり、そして救いであるべきだ。
勿論何によって救われるかについては人それぞれであるが、一度目標を下げてしまえば後はズルズルとその敷居が崩れ落ちるところまで下落するだけだ。
だから自身の敷居、ボーダーは絶対に低下させるべきではない。
 


この2年間、特にコロナ禍のロックダウンが世界各地で実施されるタイミングになると、世界中の音楽が泣き始めるか或いは凍り付いて行く。
まさに今週がその状態だったように感じてならない。

生きる為の音楽もあれば、祈る為の音楽もあるだろう。だが全体的に無表情の音楽が一斉に増えて、どこか廃屋で雑音だらけの機材を叩きながら音楽を聴いているような、言葉にならない虚しさが上空から私を羽交い絞めにして行く。

 

 

生まれて一度も泣いたことのない人に、「泣く」感触を伝えることはとても難しい。逆に生まれて一度も笑ったことのない人に、「笑う」感覚を伝えることも難しいだろう。

今週のSpotifyの新譜を聴いていて感じたことを一言で表すとしたら、「音楽家或いは音楽全体がAI化したような感じ」とでも言えば良いだろうか。
コミュニケーションに支障をきたした人類全体が感情面に不具合を起こし、その状態が未修正のまま数年が経過した後のような、エモーションの大きな欠落を感じるのだ。

だがそれは、商業娯楽としての音楽に人類が飼い慣らされた結果の顛末と言うことも出来るだろう。
「音楽とは音を楽しむことだ」と教えられ、その風潮を信じ込み、数十年もの歳月をかけながら洗脳され尽くした我々人類はもはや、自然の声や山々の思うことやそれらを司る神々の心の声すら聞くことが出来なくなっている。だからこれだけの長い分断を経ても尚平然と飛行機での移動を止めないし、遊ぶ為ならどんな苦痛をも受け容れようとするし、現実を全く見ようとしない。

生命と魂の輪廻を軽視し、瞬時瞬時の現世の中で味わい尽くせるだけの快楽を貪ろうとし、その為ならば危機的な環境破壊すら無視し続ける。それが2021年現在の人間と言う生き物だ。

 

 

良質な音楽とは何ですか?

この命題に対する答えを、おそらく誰も持てていないのだろう。
そこそこのルックスと運を手中に偶発的にメディアと言う檜舞台に駆け上がって行けた人が生み出すものが、それ(良質な音楽)だと思っている人たちも多いだろう。
上に書いた条件に当てはまる人たちはおそらく、「音楽を探す」と言う行動を取らないものである。近隣、隣近所の人たちやSNSやメディアや雑誌に取り上げられない音楽は二流・三流だ‥ と言って、実際に私に牙を剝いて来る人たちも大勢居る。
 

だが彼等のような人たちに限って、風向きにはひじょうに敏感である。
彼等の判断基準は常に自分以外の誰かが発信するレビューであり、自己判断の能力に著しく欠けているにも関わらず、命を削って音楽創作に挑んでいる本物を目の前にしても、その人を誰かが噂でもしない限りは「本物」とは見なさない。
勝ち馬を探すことに躍起になり、一度勝ち馬に乗ったが最後その馬を疑うことはなく、尚且つ頑なに馬から降りようともしない。

 

 

今週のSpotifyの新譜を私は、未だ全曲聴けていない。だが大方の流れは把握出来る。
虚無無気力絶望コミュニケーションの分断将来への不安、しいては自身の命の不安等を抱え込みながら、それでも何かしら音楽家たちは音楽を生み出すことで地球に己の生存を訴えかけて行く。

それでも彼等の作業に祈りの念は薄く乏しく、人類にとってこれだけ考える時間を膨大に与えられながらも、何かを深く考えて音楽を生み出しているようには視えない。

 
昨日外出先から帰宅してから、私も体調が良くない。体温が上下しているような感覚があり何度か体温を計ってみたが、高熱ではない。むしろ低体温による火照りが抜けて行かない。
こういう日は静かにしている他になさそうだ。それでも私は音楽を探し、音楽を聴き、音楽家たちの祈りに触れていたいと願うのだ。
それは一種の病気のようでもあるが、私にとってはこれが正常値。

 

 

当記事の間に挟んだのは、今日Spotifyの新譜情報に現れたものから楽曲だけをピックアップしたものである。
以下に今日更新した2種類のプレイリストを表示しておきたい。

上は「Lo―Fi」系のプレイリスト、下がオールジャンルの音楽をまとめたものになる。

 

  

⇩ 此方のプレイリストのトラック 55曲目からが、今週の更新分になる。
 

 

note記事よりサポート(投げ銭)等で応援頂ければ幸いです。
https://note.com/didiermerah/n/n219a5e5cda99

音楽の日 – Day of Music

毎週金曜日は私にとっての「音楽の日」。その月その週の世界の音楽の新譜を粛々とチェックして行く。その中で気になる曲をストックし、プレイリストへと突っ込んで行く。
私にとって趣味であり、仕事でもあるこの作業をもうかれこれ数十年、私は止めることなく続けている。

さしずめ頭の体操でもあり、しいては比較音楽学のベーシックともなる知識を収集する時間でもあり、私にとってこれ程趣味と仕事を程好く兼ねた作業は無いだろう。

気質的には排他的な感性を持つ私だが、音楽だけは例外だ(笑)。如何なる国、如何なる民族、如何なるジャンルの音楽も余すところなく吸収して行く。

 
昔某アイドルグループ等のシングル曲のセレクトに携わっていた時、どう見ても私の仕事の実質的なタイムとデモテープのタイムが全く矛盾していることについて会議のテーブルに「問題案件」として持ち上がった。
勿論私にとってそれは何の問題もないことだったが、会社としては大きな問題だったようだ。

仕事は闇雲に真面目にやれば良いと言うものではない。要領の良さと時短の知恵があれば、その分多くの仕事を進めることが出来る。

 
私の場合の音楽の見極め方として(もうこれは時効なのでネタバレ含む)のコツは、先ずイントロのコード~Aメロの駆け上がり方を視る。ここで大体の楽曲のインプレッションや音速(これは私が思う感覚を用語化した単語)を見極める。
次にAメロの解決を視ずに先にBメロ~「サビ」を聴く。次に1コーラス目のラストを確認したら、次は概ね曲の中間部に出て来る間奏前の「中サビ」に突っ込んで行く。

概ねここで曲の全容を把握出来るので、仮に一曲3:45のタイムの楽曲を診断するに必要な全タイムは何と30秒から多くても60~80秒で済む。
例えばこのプロセスで100曲のデモテープをチェックするのに真面目に聴いていたら「300min (about 5時間) 」のタイムが必要な作業を、私なら90min~120min、つまり多く見積もっても2時間弱でこなして作業場を引き上げることが出来る。

要はこの分量のミスマッチが社内の会議で問題となった‥ と言う話し。だが如何せん当時の私の仕事(社員ではなくアルバイトの分際ではあったけど)はほぼ完璧だったので、結果的に誰も私に「お咎め」を刺すことが出来なかった。
めでたしめでたし‥ じゃなくて(笑)‥。

 

勿論心底気になった楽曲のみ、フルサイズで試聴する。さらに好きになって惚れ込んだ曲であれば、何度も何度も聴き返して行く。
映像記憶のみならず音の記憶が私の場合、超越している為、大体2回から3回も聴けば楽曲全体を記憶し保管することが出来る。難点を挙げれば「飽き」が早々に訪れてしまうことだろうか。

 


音楽の日。今日、新しくプレイリストを立ち上げた。
本当は「秋」、つまり9月から11月までの楽曲で一つのプレイリストに仕上げる予定だったが、それが不可能になるくらい多くの楽曲が手元に集まってしまった為、前プレイリストから新プレイリストに内容を引き継ぎながら振り分けた。

 

前プレイリストは此方 ⇩

 

先々週辺りから新譜全体がとてもダークな色合いへと、変化し始めた。それは「秋」を意識していると言うよりも、先行きの見えない不安を抱えたミュージシャン等が表現の矛先や方向性を見失った現象とも一致しているように感じる。

比較的ブライト感(陽気さ)を維持しているのがイタリアン・ポップスだったりブラジリアン・ミュージックだったりする。
中でも私が好きだったのが、Didier Sustracの “L’ Amour ça nous travaille“、そして Ornella Vanoniの “Tu Me (con Virginia Raffaele)” だった。

 

 
良い音楽は時空を超える。だが悲しいことに、歌詞、声のあるものの命は短いのも又事実だろう。

地球人は同じ地球人の声質にノスタルジーを感じるし、プレアデス人はやはり同じ種の声質に郷愁を感じるだろう。そう考えると「声」を用いた音楽が時空を超えて拡散して行くことは、想像以上に至難の業である。
だから私は「声」の世界を退き、「音」に全てを賭けて生きている。

 
そう言えば二週間程遡るだろうか。とあるSNSのメッセンジャー経由で私が粛々と進めている「民族音楽の研究」について、質問のメールが寄せられた。あらたまったご挨拶の無い簡略的な、言ってみれば「今どきの若者」のメールと言った感じで質問も大雑把で、何より私に興味が全く無さそうな内容であった(笑)。
そういう無礼な人間に対しては、私も無礼な対応で返すことに決めている。相手がガチ(真剣)で私に興味があれば、私がどれだけ無礼な返信を返したとしても相手の方が食い下がって来るだろうし、此方の無礼な返信で途絶えるメールであればそれ以上引き延ばす必要も無いだろうし。

 

権威に全く縁のない私の研究、と言っても私が突き進んでいる道の後に人は誰も居ない。
クラシック音楽と民族音楽、~アンビエント・ミュージックやDub Techno、Lo-Fi Chill Music等の全ての音楽をクラシック化し、糸で輪っかにして繋げて理論化して行く作業を他に誰がやっているだろうか?
前人未踏の研究に権威等、必要ないのである。

だが多くの若い人たちは内容よりも「権威」の方を必要としており、中身が薄っぺらであってもそのことには気付かないのだから手に負えない。

 

何れ世界中の音楽人口が激減する時が来るだろう。その時になって、あれがない、これがなくなった‥ 等と言って私に泣き付かれても、今この瞬間の私をルックダウンしている人々に掛ける言葉を私は持ち合わせていないし、その必要もない。
その時が来たら是非とも、存分にお困りあそばせ。

 

と言うわけで、この記事の最後に今日出来たてほやほやの新プレイリストを貼って、〆とさせて頂きます。
ご清聴ありがとう御座います。

 

ブルーベリーと9月の雨

瞬く間に夏が往き、少し早い秋が訪れる。蝉の抜け殻も風に吹かれてどこかへ消え去り、真夜中には鈴虫の声が庭じゅうに響き渡る。
 
この夏、2本あるうちの片方のブルーベリーが、短い命を閉じた。
きちんと毎朝水を遣っていたにも関わらず、連日の高音高湿度には耐えられなかったのだろう。
ブルーベリーにも相性があるようだ。同時期に買った銘柄の異なるブルーベリー達だったが、年を追う度に開花のタイミングがずれて行った。
同時に開花してくれないと受粉に支障が出るので、暫くは祈る思いで樹々を毎日愛でながら水遣りをしていたが、一昨年から完全に片方が開花の時期をずらし始めた。

 
木や花にも個体差や性格の差があって、それは生まれ付いたものとは限らずある日突然性格を豹変させる場合もあるようだ。
今年往ってしまった「うさぎ」と名づけたブルーベリーは、5年くらい前に私が枝を少しだけ切り落としたタイミングで性格が豹変した。人間で言うところの「キツい」性格に変わり、それまでは同時に花を咲かせていた相棒をそこはかとなく毛嫌いし、開花のタイミングをあからさまにずらし始めた。

 

 
まるで私みたいな子だなと思う。
日によって性格が変わると言う訳ではないが、焦点の当て方が大きく変化する時の私は別人のようになる。
その瞬間をなるべく他人には見せないように努めているが、そうは行かなくなることもあるのが辛いところ。
 
だが最近は、そういう瞬間に今、自分がどういう状況なのかと言うことを余り人に話さなくなった。理由は簡単で、殆どの人達にはそのプロセスや理由が理解出来ないからだ。
最初は理解すると言う努力を皆が怠っているからだと私も頑なに思い込んでいたが、どうやらそうでもなさそうだ。
 
解像度の異なるカメラで同じ被写体を撮影してもけっして同じ精度では写らないように、人の理解能力もきっとそれに似ている。だから進化している側が先に相手を諦めない限り、相手はとことん気付かない。そこには飽和とか協調と言う結論は存在し得ないにも関わらず、全てが上手く進んでいると言う現実とは異なる別の現象がでっち上げられるのが関の山だ。
 
とあるSNSで私がよく言うことの一つが、「良くも悪くも上っ面でいい。」と言う言葉。だがそれも時間制限付きで、私の性格が長時間その状態には耐えられなくなるから、自身の我慢を言い聞かせて続けている人間関係程拗れる時は激しく拗れてしまう。
 
 
一時「倍返し」と言う言葉が大流行したが、私の善意や厚意は他のそれよりも温度が熱い。だが、受け取る人達がその熱さに気付かないふりをし、そこいらの誰かがうっかりもたらしたラッキーな落とし物のように、私の厚意を安易に受け取ることも多々ある。
先日まではそれらを我慢し、許容して来たが、数日前から私がその矛盾を許せなくなった。

 


肝心なツイートに限って、肝心な相手がそれをスルーする。要は見なかったことにして私の怒りが冷めやるのをじっと待ち、頃合いを見て再び姿を現しては私から大きなツキをもぎ取って行く‥ と言う姑息な計算が相手の中に、息を吸うように在るのだろう。
その小狡い先方の計算や心情に対し私は、罰を与えることに決めた。

尽きない怒りには必ず理由がある。その理由には大方正当性があるが、相手がその正当性に気付いていれば何らかの意思表示が無ければおかしい。
もしくは私の中の正当性に気付いていたとしたら、触らぬ神に祟りなしの精神が相手に働いているのかもしれない。
 
祟りは人に不幸をもたらすが、私の「罰」はそれとは違う。
相手が私から簡単に、何の礼の一言もなくもぎ取って行った幸運を取り返すだけだ。
その後に先方に訪れた何等かの状況が、むしろ私が先方に与えた幸運をより鮮明に顕すに違いない。
その為の儀式である。

 


連日の雨。夜になると夏の片鱗は街のどこからも消え去り、代わりに人恋しさに耐え切れなくなった野良猫達が家の庭に寄って来ては「ミャーミャー」と甘ったれた声で鳴き始める。
ウィルス回避の意味もあり、この1年半以上私は街じゅうの全ての生き物達との接触を絶っている。
 
猫や鳩、その他私に懐いていたカラスも居たが、頑なに拒絶し続けた。
昨夜ゴミ捨ての帰りに私を追って来たボス猫も、以前は密に会話をした仲だったが、猫語で言うところの「シャー!」を全身で発し追い払った。
 
可哀想とか、気の毒だとか、そういう感情を全て封印し、私は石になる。流石に石になった私には、どんなに人懐っこい猫でも付いては来ない。
 
おんなじようにして、煩わしい人間関係も全て追い払ってしまいたい。
 
人も猫も、「慣れ」には鈍感だ。出会った時の距離感を、長期間維持出来ない。
擬似的に共通のネタを一個見つけると、そのネタさえ振っておけば私が会話に乗って来ると勘違いしている人達が多くて、ここ最近は意図的に返信のタイミングをずらしたり外したり‥、自分の意思でもないのに冷たく相手をあしらったり‥、本当に色々な無理解には悩まされる。
 
雨の日は人の行動が少し鈍くなるのか、今日は色々なことがゆっくりと穏やかに過ぎて行った。毎朝続いていた煩わしいメールも途切れ、私はようやく「一人」を謳歌することが出来た。
 
 
たった一言。その一言が得られないのは、今も昔も変わらない。
人はプライドを優先し、常に自分が相手よりも優位で居ようとするが、殆どの人々はそれを絶対に認めようとしない。だから謝罪も感謝も無いが、その旨を指摘すると「人間は皆平等だ」‥ と言う戯言を言い始めるので、無言で嫌な人間を演じておく方が無難かもしれない。
 
  
春先に完治していたばね指が酷い形で再発し、夫と力を合わせて家事を分担している。
ステロイドを注射し痛みを麻痺させ、その箇所にリハビリを施し、「握力30をキープする為に毎日20キロのハンドグリップを10秒×10回握って下さい」と院長とリハビリのトレーナーが口を揃えてアドバイスしたそれを、忠実に守ったことが災いした。
先々月だったか再度同じ整形外科に再診で訪れ、前回のアドバイスの件をドクターに質問したら、「やりたきゃやればいいんじゃないですか?」と返された。
ドクターが「やれ」と言ったことを続けていて悪化したわけだから、患者である私の質問に対して正確な回答を返す責任が担当医にはある筈。‥
 
色んな経緯を経て該当の整形外科への通院を止め、現在は絶対安静をキープしている。
鍵盤練習が出来ない分、これまで少し疎かでテキトーになっていた「私」の生き方や在り方について、ここでしっかりとネジを巻き直そうと思っている。
 
Twitterのプロフィール欄には「注)とても気難しい性格ゆえ、慎重に平伏して接して下さい。」の一言を書いているが、それを忠実に守れている夫以外の第三者は今のところ、誰も居ない。

 

さて、この記事の最後に上の記述でも触れた「安易に私のツキを持ち去ろうとした或る人達」のトラックを幾つか削除し、完成形を見たプレイリスト「Ambient Summit 4. 2021~」を貼っておきましょう。
※お貸しした幸運は無事、回収済みです。

 


下記のnoteの記事リンクから是非、サポートか投げ銭で応援頂ければ幸いです。
https://note.com/didiermerah/n/n5b600162442f

吉田美奈子と闇の中の私

特にこの二週間近く私は、大好きだった(なぜ過去形になっているのかと言う理由は記事後半で)吉田美奈子さんの旧作を、多くの時間を費やして聴いている。
私が長い間歌の伴奏をやって来た日々の中、ほぼ同時期で最も輝いていた美奈子さんを私は、こともあろうに全て見失ってしまっていたことに気が付いた。そのことの気付いた時には既に、美奈子さんは刻々と輝きを失い始めていた。

 

1998年頃からの10年近く、私は人生で最も深い闇の中を歩んでいただろう。
勿論表面的には最も輝いていた時期とそれとが重なっており、時折当時の友人の誰かに私が置かれていた状況を話しても、誰一人取り合ってはくれなかった。だが私の闇は人が想像するよりも深く険しく、PTSDから全快出来ていなかった私のメンタルは一時期の回復を裏切るように刻々と悪化して行った。

最近メンタリストDaiGo氏のYouTubeの発言が問題になっているが、私も他人事ではなかった。
どっちに他人事ではないのかと言うと、上に書いた当時の私がまさにホームレス生活の真っ最中だったと言う意味での「他人事ではない」と言う意味である。

 

切っ掛けは単純なこと。ある日諸々の重圧に、張り詰めていた心の糸がぷつんと切れてしまった。
もう何もかもがどうでも良くなり、生きる気力も活力も仕事への熱意も何もかもが突然色褪せて、生きていることや生きようとする気力が遠い昔のことのように思えた。

一度そういう状況になってしまうとあとは加速度を付けて転がり落ちて行くだけで、気付くと私は都内のある場所に遭難から生き延びた人のように崩れ落ちていた。正直そこからのことは、今も殆ど思い出せない。
その後持病の発作が起きて当時の恩人に命を救われて、ある冬の朝病院のベッドの上で目が覚めるまでの多くの出来事を、私は今でも明確には思い出すことが出来ずに居る。

 


2008年2月14日にSNS「mixi」で現夫が私のホームに足跡を残してくれた瞬間、止まっていた私の運命の輪が回り始めた。
色んなことに疲れ果てていた私は丁度、亡霊の館からの転居を命からがら果たしたばかりだった時。愛兎の先代「桃樹」と共に人生の再起をはかっていたある夜、夫が人生の呼び鈴を高々と鳴らしてくれた。

一言二言のmixiメッセージの直後に私達は直ぐに電話で会話を開始し、それが一週間とか十日とか続いた辺りからもう、これは会って目を見て話しをしないと携帯電話代で彼が破産してしまいやしないだろうかと心配になり、その夢は丁度一ヶ月後の2008年3月14日に実現する運びとなる‥。
 

吉田美奈子さんの話題に話しを戻そう(笑)。

丁度私が闇の時代の奥底に在った頃の彼女が、今振り返ると一番輝いていたように思えてならない。そしてその当時の美奈子さんの年齢に、少しずつ私が接近している。

YouTube吉田美奈子LIVE STUDIO721 2004/9/25を視る前に私は、本音を言うと別の最近の美奈子さんの動画に強いショックを受けた。
それは私が思う彼女とは全くの別人のように変わり果てた、老いた彼女の姿に対するものだ。

吉田美奈子と低音楽団】ライブの裏側に密着!【ゴールデンウィーク特別編

 
人間生きていれば、いつかはそういう時が訪れる、とは分かっているものの、やはりその状況を目にすると冷静ではいられない。
だが、揺れ動く私の中に目を引く作品があった。YouTube吉田美奈子と低音楽団】ライブの裏側に密着!【ゴールデンウィーク特別編】の中で美奈子さんが歌う「夜の海」(11:37辺りから)だ。

 

 
基本的に私は生演奏否定派であり、作品を生み出す瞬間の大きなエネルギーこそが真の音楽だと言う持論は今も変わっていない。だがそんな私の持論を、老い始めた美奈子さんが一瞬だけ変えて行こうとする。

発声もよろついて声のアタックのポイントもずれて、出したいタイミングで本来出すべき声が出ていない。エネルギーと若々しさが枯れ始めた美奈子さんではあるが、振り絞るような声には不思議と何かしら説得力を感じさせるものがある。

それでも音楽評論家としてこのライブを冷静に論評するならば、やはり音楽以前の何かがごっそり抜け落ちた「唸り」が在るだけで、音楽としては聴けない‥ と言うのが本音である。

 

だが時に音楽は、そうした絶妙の悪条件が出揃った時だからこそ初めて、人々に音楽以上の何か目に視えない感覚を互いに引き出して行く場合があるのかもしれないと、私はこの人 吉田美奈子さんのライブだけは別ものと考えようと意識を改めかけている(未だ完全に改めたわけではないけれど)‥。

 

そうこうしながら彼女の旧作を最初はサブスクリプションで探していたものの、配信されているアルバムは余り多くはなかった。
丁度私が完全に闇落ちしていた頃の彼女のアルバムは、まるで示し合わせたかのようにサブスクリプションには登録されておらず、それどころか各CD自体も絶版に近い状況になっており、やっと見つけたかと思うとプレミアが付いて酷く値上がりしていた。

そんな折、私がそっとAmazon 欲しいものリストにラインナップしていた美奈子さんのCDを、数名の誰かが私の自宅に贈り届けてくれた。今、それを聴いている‥。

 


音楽は心で奏でるものではない。技術とスキルの蓄積と、さらに付け足すならばテレパシックな感覚を以て生み出すことが望ましい。

自らの稚拙な経験だとか恋愛の過去話だとか、そんなものを題材にしているからここ最近の日本のポップスは質が著しく低下したのだと私は思っている。
だからと言って「大人のポップス」等と言う、さらに体たらくな音楽を聴く等もっての外である(笑)。

その意味で言えば、吉田美奈子さんの多くの楽曲、アルバムに於いては感覚が硬質でとてもメタリックな構成になっている。けっして陳腐な恋愛模様等描いてはおらず、どこか哲学的で形而上学的な世界を描いているように思える。
それがけっして嫌味にならないのは、おそらく美奈子さんの高貴な気質や生い立ち等が要因かもしれない。

 

Didier Merahのプロデューサー 天野玄斎氏は数々の名言を飛ばすが、私にある日こう言った。

芸術家とは職業ではなく、生き様を指す言葉である。


私は彼のこの一言によって眠っていた全ての感覚を叩き起こされ、目覚め、気付かされ、現在に至る。それは私にとっての大きな礎であり、未来の光だ。

 
私は吉田美奈子さんと干支が同じで、一周違いで私も今の彼女に追い付く。だがその頃には美奈子さんはさらに一周先の彼女を生きている。
ロングヘアーもカーリーヘアーでもなくなった彼女が一周先の未来にどんな音楽を奏でているのか、ある意味怖くもあり、楽しみでもある。
そこに私 Didier Merah の将来が折り重なる時、音楽界にどんな変化が起きているのかと考えるだけで、とてつもなくわくわくして来る。
 
 
追記:
ピアニストとして一つ気になったことがあるとすれば、 YouTube吉田美奈子LIVE STUDIO721 2004/9/25 の中で鍵盤担当の 倉田信雄さん が本当に素敵な演奏をしていた事。
段々と日本から良い音楽家や音楽評論家が消えて行く今、私は両方の肩書を抱えてこれからも切磋琢磨して行こうとあらためて心に誓った。

 

エッセイ 『カオマンガイ』

ギフトは未だそこに在った。雨は程好く降り続いており、人々の喉や粘膜に心地好い湿度を与え続けてくれている。
この分だと今日は、ようやく咳喘息からも開放されるに違いない。予感がしたので早々と外出の支度を始めたが、その予感が10分後に的中する。  
 

「よかったらタイランチ、行きませんか?」 …

はつらつとした文字が、待ち受け画面を突き破って踊り出す。
 

段々と友人が若年化して行くことは、きっと佳きこと。
私が長くこの世に留まり、ワクチンを打った知人達は10年後には多分誰もいなくなるだろうから、なるべくクールで知的でユーモアを交えても態度が崩れ落ちない、そんな要素を備えた若い友人を私は心から求めていた。

 

23歳の彼女は今年の初春までは医療従事者の卵だったが、この世界情勢を踏まえある日いきなり結婚し、その勢いで何の躊躇もなく医師人生を投げ出して、愛する一人の青年の為に生きる将来を選択した。
(私の)夫がテレワークから日勤にシフトする日程を彼女には教えてあるので、頃合いを見て連絡が来る。今日がまさにその日だった。

 

偶然だが二人の食べたいものが一致したので、おんなじメニューを大盛りで注文する。段々と思考回路も体の細胞も同化して来るみたいだと彼女は言うけれど、そんな彼女も感覚が少しずつ開き始めているのかもしれない。 以心伝心の確率が徐々に上がって行く。

 

彼女が悪夢を見る度にLINEのメッセージが届き、話しを聞いて欲しいと懇願して来る。悪夢の主人公が、私の母親らしき人物だからだ。
母は一体これまでに何人の人達を苦しめ、さらにここからどれだけの人達を苦しめたいのだろうか‥。
私を拒絶しながら尚も、未来の私に干渉しようと企んでいるようにも見えて来る。

 

 

悪夢は私の夢でも起きており、立て続けに三日間私は「光る魚」の夢を見た。
いかにも「夢」の、あり得ないような場面設定だが、とある伊豆の海の向こう側におびただしい数の「光る体」を持つ大きな魚の群れが幾つも現れては、海岸に向かって泳いで来る夢だ。

真夜中の海、幻想的なのにどこかスリリングで冷ややかな映像は、私が寝返りを打つまで続く。 ストーリーも大体決まっているので、おそらくどこかの過去世で私は同じような経験をし、それが記憶の糸くずとなって現世の私の喉元にずっと引っ掛かったままになっているのだろう。

 

カオマンガイ

 

「ジンジャーライス、美味しいですよね。」‥

彼女は敬語を絶対に崩さない。私がどんなにラフに話し掛けても彼女は最初に会った時のまま、態度を変えない。そんな彼女の礼儀正しさが私は大好きで、彼女が未だ高校生だった頃からずっと友人関係が続いている。

 

彼女もワクチン接種を思いとどまっている。
同僚や後輩たちが次々と「職域接種」の赤紙を受け取り、集団接種会場へと駆り立てられて行く光景を彼女はきっと、苦しみながら静観していることだろう。  

「本番、最初は今年の冬ですね‥。」

私達は海外の論文を共有し、彼女はそれを翻訳し直して私に正しく説明してくれる。


「副反応じゃなく、怖いのはサイトカインストームの方なんですよね。どんなに話しても、同じ医療従事者達の方がむしろ耳を貸してくれなくて‥。」
彼女は時折泣きそうになりながら私の右手に彼女の左手を重ねるようにして、何とか号泣を止めている。  

「すみません‥、話題を変えますね。どうしてもこう、なんとなくこういう話しになっちゃってごめんなさい。」‥

 

彼女の周囲から友達が減っているのは、目に見えて私にも分かる。
意見の合わない人達と遠ざかったり、或いはワクチンを接種した同じ年の友人がある日突然帰らぬ人になったり、きっと未だ若いから心の整理も付けにくいのだと思う。
良くも悪くも諦めが悪い、でもそれが若さの象徴だから私はそんな彼女を娘のように思い、あえて何も言わない時もある。

 

同じタイミングでカオマンガイを完食した二人。一昨年ならばその後に「コーヒー、ご馳走しますよ。」と彼女が財布を握ってくれていたが、世界はそんな気楽な人と人の関わりを許さない空気で満ちている。  

私: 「続きはLINEでね。帰ったらメール入れるから。」

Zoo呑みならぬ動画なしのLINE喫茶ごっこを開始して、かれこれ90分が経過した。  

 

「今日も楽しかったです。又ご一緒して下さい、私からお誘いしますから。」

ランチのテーブルで全く同じ内容のカオマンガイを前に、各々のカオマンガイを撮影してLINEで交換したら、どっちがどっちのカオマンガイだか分からないくらい似た写真が2枚並んでしまった。  

 

私:「こっちが私(Didier)のカオマンガイよ!だってサラダとスープのお皿をこそっと引っくり返しておいたから。」  

 

来世、生まれ変わる時は姉妹がいいと彼女から頻繁に言われるようになったが、もしもそうなれたら絶対に喧嘩だけはしないように、遺産相続争いにだけはならないようにしたいわね‥ 等と色気のない能書きを垂れる私を娘のように慕ってくれる彼女との関わりが、一日でも長く続きますように‥。

そして間もなく一週間が過ぎる‥

高音高湿度の日々は粛々と過ぎて、私の住む東京は間もなく第四回目の緊急事態宣言下に突入します。
街は常に、視えない何かに急かされるように慌ただしく、そして賑やかさを通り越してノイズにまみれているようにも感じます。

幸いなのかそうでもないのか、この二週間近く私は軽い中耳炎を患っており、その影響で片方の聴力が若干鈍っています。にも関わらず大地のノイズは雨音よりも激しく私に覆いかぶさり、日々の後半は決まって偏頭痛に悩まされます。
 
 

アルバム『Heavenリリース前にSNS内の大掛かりな人払いの儀式を敢行した私は、その成果もあったのかとても静かな一週間を過ごすことが出来ました。
高飛車な性格と気位の高さは生まれ以ての気質ですが、社会生活を営む上でそれらが余り都合が良くないことを感じてからの私は本当に長い間、爪を隠して生きて来ました。
でもやがて爪は伸びて来て、私はそれを隠しきれないところまで追い詰められたようにも感じます。
 

もう、今の私は音楽家としては塔のてっぺんに居るのだから、爪を隠しながら生きることをある時からやめようと思っていました。それを実現するにはタイミングが必要でした。
そして、それが今でした。
 
 

 

世界は静寂を必要としています。増え過ぎた人口に悩まされた地球は、人間と言う害虫を駆除する為にそろそろ本気で行動を起こすかもしれません。
 

地球はまぎれもない、一個の生命です。

生命には霊体があり、魂があり、そして意識と思考の機能が備わっています。仮に地球や大地、植物、花や木々たちが言語を話せなかったとしても、彼等は深く互いを思い遣りながらコミュニケーションを交わして今日に至ります。
彼等にも時間の概念はあり、陽のあたる時間帯は活動をしつつも陽が落ちた後には眠りに就きたいと願っています。それを私達人間が長年阻み続けて来ました。
 
 

世界中の空をひっきりなりに飛行機が行き交い、各都市では人々が夜な夜な集い爆音を立てながら音楽を流し、機械的なリズムで彼等は夜通しステップを踏み続けます。
人々は年中人肌を合わせ、大声で会話をし、電飾の止まない日々が数百年間もの間続いていましたが、自然神はテクノロジーの進化がある段階に到達する日まで人類に好きにさせて来ました。
 

2021年、夏。多くの人々はインターネット越しに互いに会える距離に在り、外出をしなくても会話をし、音楽や映像や文字を共有し、SNSやチャットを通じてそれを大勢でシェア出来る、今はもうそんな時代です。

ならば地球が長年耐え続けた「静寂」を、人類はそろそろ実践しなければなりません。ですが新型コロナウィルスのパンデミックの長期化に人々は疲れ果て、その疲労を「集い、バカ騒ぎすること」でしか解消する方法を思い付かなくなってしまいました。
 

地球は人類に「陽のある時間帯だけの活動を許し、それ以外の時間はそっと休ませて欲しい。それだけを望む。」と言い続けています。ですが人類には地球の、そして自然神等のささやかな要求を呑む機能さえ失ってしまったようにも見えます。


多くの人類が「前のような日常を取り戻す為」に危険極まりない新型コロナワクチンを接種し、マスクを外し大声を出し、夜になるとDJを招いて爆音量のダンス・ミュージックを鳴らし、アルコールを浴びながら踊り狂う生活の復活に歓喜しているように見えますが、自然神は今度こそそこに大きな負荷を掛けて来るに違いありません。
 

ただじっとして、静かに家に居ることが、何故出来ないのでしょう?

ただ、それだけで良いと地球が言っている間に、人類はその生活やライフスタイルに磨きをかけておくべきでした‥。‥‥
 
 

 

パソコンの向こう側から、優しい雨の音が聴こえて来ます。その合間をアルバム『Heavenのピアノ・アンビエントがそっと覆い、いつもの日常が少し違って、絶妙な歪みとあたたかなWaveで空気が震えているのを感じます。
 

多くの人間関係を解いた理由は、私がSNSで親しくしている人達が私の音楽や生き様を全く評価しなくなり、外側に発信しなくなったからでした。
メッセンジャーでわちゃわちゃお喋りをすると、その相手が私である‥ と言うだけで多くの人達がそこで満足します。すると芸術家としての私のことを誰も、外で話題にしなくなって行きました。

私にとってそれはけっして良い状況とは言えず、ある意味致命的だとも感じるようになり、ならば私は誰に対しても完全な他人様であり、高飛車で傲慢で、馴れ馴れしくしようものなら直ぐにキレるヒステリックな芸術家で在る方が何かと音楽活動をする上では有利だと考えるようになりました。
 

※勿論お気づきになられている方も居るとは思いますが、数名だけご本人にはそうと悟られないようにこれまでの関係をそっと継続しています。

  

 

チャネラーとして、コンタクティーとして私に出来ることについて、ずっと考えていますが、自然神等や地球の心を慮る時、私が余計なお世話で多くの人達の将来に対し手を貸し過ぎることはけっして良いことではないと最近強く思っています。
 

生き残るべき人は本当にオリジナリティー溢れる感覚をもって、その道、その手段を自ら選択して行く筈です。そうでない、生き残りの集合体から外れて行く人達、外れそうになっている人々に対し、例えば「新型コロナワクチン」の危険性を訴えたところで、本来生き残る予定ではなかった人達の人生や未来に修正を加えることになるだけで、それは地球の意識や自然神等の思いとは遠くかけ離れてしまうと私は考えています。

とても奢った言い方をしていることは重々承知していますが、仮にも私は預言者として多くのことをこれまで発信し続け、自身の音楽の中にも多くのヒントを封印し、それを発信し続けて来たので、これ以上の過剰な救済活動は一切止めることに決めました。

 

人類の皆様に、もっと考えて、もっと想像を巡らせて、そして地球や神々と真剣に向き合って欲しいと思います。
それは誰にも備わった共通の能力だった筈です。「視えない」「聴こえない」と言う人達は、もしかするとこの地球にとって必要とされていない人達なのかもしれません。そういう人達には積極的に、脱落して欲しいとさえ思うようになりました。
 

私は今、自然神のマインドや意識と深くシンクロしているのかもしれません。人情とか感情とか、そういうものではないもっと普遍的な感覚の中に自身を委ねることが、とても自然に思えてなりません。
 

 

 

想定通りと言えば呆気ないのですが、私がHP上に掲載した今回のアルバム『Heaven』の製作秘話的手記 (http://www.didier-merah.jp/musicindex/Heaven/) に対しても、誰も、一言の感想やコメントさえも聞かせてはくれません。
きっと私の書くことの意味が、誰にも通じていないのかもしれません。だって私は、一連の文字を人間目線では綴っていませんから。

 

何度も言うようですがアルバム『Heavenは、やがて来る人類と地球の大きな変化と変革、そして激変した地上の様子を音楽絵巻に置き換えたものです。
ある意味ではこのアルバムは、地球及び自然神等の最後通告を音楽化した作品と言っても過言ではありません。もっと心して聴いて欲しいと願っていますが、リスナーの多くがもしもそう出来なかったとしても致し方ないのかとも思っています。
 

最早今の私には、かなしみと落胆しかありません

 

リラ星の最期が壮絶だったように、私はその最期の瞬間を見届けた者として、さらにはその巫女の生まれ変わりの自分として出来る限りのことを、今世のミッションとして受け容れ、受け止めながらしっかりと前進して行くのみです。
 

よろこびよりも哀しみの多い人生がこの先続くとしても、巫女とはそういうものだと心の中で言い含めながら、ここからの道を真っ直ぐに進んで行きたいと思います。