注目曲 “Countach” by 轟はじめ

K-Popの終焉を目前に、2025年1月12日 午前零時に不思議な楽曲がアップロードされた模様だ。
 

『Countach』 by 轟はじめ
Vocal & Choreography (振付): 轟はじめ
Lyrics: 浦島健太
Composed & Arranged: 山元祐介
Mixing Engineer: 片山博文


K-Popのヒール (悪役的な‥の意味) なメロディーメイクに、アラビックなサウンドトラックが折り重なる本作品。
ここで既存のK-Popであればエッジヴォイスを合わせて、より強烈なヒール性を演出するところだが、轟はじめはなんとほぼ99%エッジヴォイスを使わずに歌い切っている。むしろエッジヴォイスを使わない歌い方が、聴き手に新しい時代を感じさせる。

歌唱表現のみならず、作詞/作曲/サウンドトラックも秀逸だ。
作詞を担当している浦島健太氏の名前には見覚えがあり調べてみたところ、なんとあの欅坂46の 『アンビバレント』を作曲している。楽曲そのもののテイストは『アンビバレント』と『Countach』共に同質とみることも出来るが、歌唱表現の点で轟はじめが首一つ二つ勝っていることで、 両方を比較すると『Countach』の方が作曲技術の進化をより色濃く感じ取れる出来栄えだ。
 


サウンドトラック面 (編曲) も良い出来栄えで、通常このテイストのサウンドトラックにはダブステップが必要以上に乱用されることが多いが、『Countach』ではダブステップのエレメントをかなり制御した使い方をしているのが特徴的だ。ダブの持つ独特の汚しや不潔感を軽快に回避した音作りに徹しており、他のダブステップに比べてマインドが汚染された感じがしない。
コード進行もほぼワンコードで構成されており、あっちこっちに意識が引っ張り回されない分、聴いていて疲れない。


一方メロディーメイクの点に於いては同じようなフレーズをリフレインさせながら、各コーラスの最後で一気に一オクターブ音域を上昇させて行く箇所が魅力的だ。
轟はじめも無理なく、最高音の『F』まで余裕で声を上昇させる。地声を張り上げるでもなく、かと言って裏声に完全に声質を変えることもなくその中間の声質で逃げ切るでもなく、普通に音域を締めくくって行く辺りはなかなかのテクニックだ。

私はダンサーではないのでダンス評論はここでは行わないが、最近のK-Popのキレッキレのダンスに辟易しているところにこのサウンドの上に比較的緩~いダンスを無理なく乗せて行く轟はじめの振付センスは流石としか言い様がない。
見ている此方も息切れすることなく、尚且つ歌いながら踊るに無理のない振付けで意外にハイスピード感を出して行く轟の振付センスに、キラリと光るものを感じる。

まさにK-Popの夕暮れと同時に東の空に煌々と輝く夜の朝日を見ているような、不思議な現象はまさに神がかりとしか言い様がない。
 

これまで私はこの種の二次元VTuberと言う領域を回避していたが、この楽曲の出現は希望と次の音楽シーンへの可能性を強く感じさせてくれた。
VTuberで二次元と言う点が今後どう作用して行くかは私には読めないが、この楽曲に於いては間違いなく売れると見ている。

K-Popの侵食で疲れ切った多くの音楽愛好家たちに、新たな開眼の切っ掛けを与えてくれるに違いない。
 


サウンドトラックonlyのバージョンも貼っておきます。
 


関連記事:

物事の虚と実 – 老化するElena Danaan –

当ブログの中でも比較的PVが多い記事は、『エレナ・ダナーンを突き動かしている高次悪 “ブラック・ガーネット” の正体』 ⇦ 此方ではないだろうか。


なるべくネガティブな対象に光をあてないようにすべく、ここ数か月間エレナ・ダナーンの動画及びSNSの発信等には触れないようにしていたが、何となく私に彼女の活動について、或いは彼女のコミュニティーやファンダム?の様子については耳に入って来る。

久しぶりに動画を観てみたら、エレナ・ダナーンが急激に老化していることに気が付いた。
思い返せば一年と少し前に私と夫の二人で、エレナの背後から彼女を操っていた高次悪 ブラック・ガーネットを粉砕したが、エレナの老化が始まったとしたらその直後ではないだろうかと推測出来る。
それまで自身を操作していた強大かつ凶悪なエネルギーが消滅したのだから、そこからは自分自身の持つ卑弱なエネルギーでそれまでと同等な状態を維持しなければならず、言ってみれば骨身を削りながらエネルギーや霊体のやり繰りをしていることになる。

当然の如く、現在のエレナ・ダナーンのような状態になるのは必然のこと。このまま彼女が以前と同じようにエネルギーを使い続ければ、何れ全てがそう遠くない未来に枯渇するだろう。
 


このところSNS上ではやたら精神を病んだ人たちの投稿が散見される。彼らの共通点はと言えば、過剰な承認欲求に魅入られていることだろう。
とりたてて重いミッションを背負っているようには見えないがゆえに彼らの発言は滑稽であり、尚且つ真剣にミッションを果たそうとしている数少ない優秀な人材の足手まといとなっている点に私は、とても腹を立てている。
間接的にその件について時々つぶやくと、なぜかそれまで私の投稿など気にも留めていなかったであろう彼らの発言が微妙に揺れて来る。

私の投稿には絶対に手を触れぬような状況で、彼らが私を見ていることが分かる。

スピ系に傾倒している人たちの中にも精神的に病んだ人があふれている。それだけならば別に何の問題もないが、特定の「病んだ人」がうっかりSNSでバズることで利他的な精神をもって活動している誠実な人材の活動を妨害する、その状況が私には誠に腹立たしく思えてならない。

エレナ・ダナーンの場合はどうだろう‥。
おそらく彼女の場合は「なりきり」のカテゴリーに分類されるだろう。もう少し突っ込んで言えば、例えば演技性人格障害のようなことになるだろうか。
 

嘘も三回吐けばその人の中で、真実にすり替わる。

虚実の境目が曖昧になり、いつしか理想の自分を手に入れたような妄想が独り歩きを始める。実体が理想とはかけ離れているにも関わらず、例えばエレナ・ダナーンの場合を例に取れば、実際には時間移動 (或いは恒星間航行) 等出来ないにも関わらずそれが達成された‥ 等と脳内でストーリーをでっち上げ、妄想がいつの間にかあくまで自分の中でだけ真実性を帯びた (ように見えた) 段階でその旨外部に発信して行く。
物理的には目に見えない内容だけに、聞き手はそこに驚愕と「目に見えないことを信じない」ことへの罪悪感を植え付け洗脳されるので、始末に負えない。

だが、エレナ・ダナーンの話について言えば、物理的には意外に容易にその虚偽を暴くことが出来ると私は見ている。

何より彼女の語る様々な「見えない事柄」は現実的ではないし、実際に実現していない出来事だ。物理的に見えないのではなく、実際問題何も起きていないのだ。
例えば問題の動画の中で語られている写真を科学捜査の領域に持ち込んで解析を試みれば、画像が捏造であることはいとも簡単に証明されることになるだろう。がしかし、一連の出来事が事件性を帯びていない以上、それらを捜査検証する機関もないと言う現実の壁が立ちはだかる点が厄介極まりない。
 


怖いことに、虚偽はそれを述べる側の人だけでなく、受信者もろとも洗脳に陥れることが可能だ。なぜならば上でも述べたように、「見えない出来事」を信じようとしない心情がまるで悪であるような罪悪感を継続的に植え付けられて行くことで、虚の発信者と受信者間で共依存関係が出来上がってしまうからだ。

嘘も三回吐けば真実にすり替わり、特定の人物が三回吐いた嘘を鵜呑みにすれば受信者の中でもそれがあたかも真実であると、自分を納得させる回路が出来てしまう。
エレナ・ダナーンを取り囲んでいる聴衆の半分以上は、そうやって洗脳と罪悪感の間を振り子のように漂いながら徐々にエレナ信者として改造されて行った人たちだ。勿論、翻訳者 佐野美代子はその代表格の人物と言えるだろう。

双方は承認欲求と言う地下水脈で繋がっており、もしもこれらの洗脳から離脱する方法があるとしたら、その一つとして「承認欲求からの離脱」を試みることを私は提案する。

エレナ・ダナーンの言う「秘密宇宙プログラム」なるものは実在しない。まして「地上アライアンス」等と言う団体が存在するとしたら、ライトグレイ星人『グレーン』がそれを黙って見過ごさないだろう。
だがエレナ周辺の願望は現実とは全くかけ離れており、彼女の言う理想の世界は今後訪れることはなさそうだ。これは地球人にとってはあまり喜ばしい予言とは言えないものの、ここから歴史は段階的な手順を踏んで一旦リセットへと向かって行く。

一つには、神の目が開いたからだ。

むしろ神の目が開いた事実を今日 2025年1月11日 午前3:00am (日本時間) の段階までエレナ・ダナーンの口から発信されていないことが、エレナの「虚」を最も象徴していると私は見ている。
 

Last Run – 才能と崩壊 (旧NewJeans)

ひとつの時代が終わろうとしている。
未だ終わりと決まった訳ではないが或る活動が否応なくラストランへと移行し、それはもう中盤を迎えている。

予感と予言は時に、同一線上に位置する。どれがどちらかと言う客観的な推察を飛び越えて的にはいきなり光が当たり、急速に光を放ち始める。
この現象は輝きの歴史に常について回り、風潮のシフトを先導して行くから不思議だ。

少し話は脱線するが私の家系が法律関係だと言うことに加え、過去世リラ星最後の巫女として生きた時代から私は少なからず「法律」に関わり、その観点からの未来の洞察を欠かしたことがなかった。
今回旧 NewJeans (現 jeanzforfree) は輝きと変化と崩壊の全てのラインをくっきりと描きながら、ラストランを急激に加速させている。あれだけ輝き、五人全員が各々の才能を持ち、各々が独自の光を放っていたにも関わらず彼女たちは正々堂々と法を犯し、それを顧みる精神を手放してしまったようだ。

勿論何もかもを法律に当てはめること等出来ないことは重々承知の上で、それでも五人が一線を踏み越えてしまった事は事実だ。
 


大きな仕事には大きな代償も付きまとうし、それを背負わなければ大役の側が巡って来ないことも又、皮肉だが真実だ。
彼女たちのラストランを象徴するような動画 “NewJeans (뉴진스) – ‘Intro + Supernatural (Attention Mix) + How Sweet’ ♪ | JTBC 250106 방송” を私は、何度も悲痛な心境で見つめている。
 
※上記の画像は現在、日本国内からの閲覧が出来なくなっています。
 

お世辞抜きに五人のパフォーマンスは素晴らしいし、個人的な推しの一人であるハニ (Hanni) の作り笑顔が消えたガチな表情も美しい。
ハイスピードで進んで行くダンスソロから全員が出揃って激しいダンス・パフォーマンスを繰り広げて行く辺りは圧巻で、彼女たちの現在のネガティブな状況さえなければ手放しで褒め称えたい、圧巻のパフォーマンスだ。

だがこの圧巻な光景の背景には事務所 ADOR の協力が潜んでおり、ADORの後押しなしには実現し得ないことも又事実である。が、彼女たちがそのことを心の中では実際にどう思っているのかについては、今のところ判然としない。

私も過去には別の五人組の活動に関わっていたし、良くも悪くも「事務所」やイベント会社がどのような仕事を担っているかについても熟知している。その観点を表現者サイドは絶対に持つべきだと感じるし、内情はどうあれ大掛かりな仕事とは表現者サイと事務所サイドとのタッグなしには成立し得ないのだ。
 


何より旧 NewJeans がここまで成功を収めた本物の立役者は、作曲・作詞・編曲を担当した多くの音楽家たちである。音楽あっての旧NewJeansは東京ドームの公演を睨み始めた辺りから、本物の立役者の存在をすっかり忘れてしまったことは誠に残念である。

旧NewJeans までの既存のK-Popを完全に塗り替えたもう一人の立役者として、旧プロデューサーであったミン・ヒジン氏の存在は大きかっただろう。だがヒジンもどこかの時点から音楽よりもビッグビジネスに目的がすり替わり、最終的には自身の利益が最優先 (場合によっては旧 NewJeans を犠牲にする) の人へと変貌を遂げたように見える。

ミン・ヒジン、旧NewJeans、そしてADORの全輪が同期しなければ絶対に動かせない車 旧NewJeans はその全輪を失い、ましてやグループで唯一外国国籍を持つハニ (Hanni) のビザ問題がそこに覆いかぶさっている今、今後の活動に於ける希望の光は全く見えなくなった。
 


奇跡的な輝きは、言うなれば宇宙規模のプログラムが奇跡的な同期を遂げた時に初めて放たれる。それは歴史のほんの一瞬の出来事に過ぎず、輝きを浴びた人たちはその輝きをどのようにして延命させて行くかに於いて深い熟慮が求められる。
だが多くの人たちはそれらの輝きが自身の才能によって放たれたのだと勘違いし、傲慢なマインドに陥ってしまう。
 

旧NewJeans の背後にもしも一瞬でも輝きの女神がほほ笑んでいたとしたら、今女神はどのような心境で五人 (ミン・ヒジンを含めると六人) を見つめているだろう‥。
私にはとても悲しげで絶望的な心境に在る女神の後ろ姿が時折透けて見え、胸が張り裂けそうだ。
 



そして以下は、NewJeansの未発表曲Demo音源になります。
 

 

 

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燃える火、消えゆく灯、そして祈り

あけましておめでとうございます🎍

今年もよろしくお願い致します。

 
我が家はいたって普通通りの年末年始を迎え、明けて1月3日に今年最初の神人共食の儀を執り行いました。
神界の神々の多くは古い時代に人として生きており、その当時の食生活は今と比べてとても質素で、少ない食材の中で工夫を凝らしていたようです。なので私たちが日常的に食しているお料理の大半が神々にとってはとても珍しく、そして貴重だと話しています。

2025年1月3日の神人共食の献立は、イタリア料理でした。
我が家では殆ど毎日神人共食を執り行っており、時にはジャンクフードもあり、時にはファミレスのステーキもあり‥ とバラエティーに富んでいます。古い神様方は最初こそ難色を示されたものの、最近は私たち夫婦が味わう多くの料理に興味を示されますし、少しずつ味覚のアップデートが進んでいる様子が伝わって来ます。

ですがそのような状況を快く思わない原理主義的な価値観を持つ神々や宇宙自然神等も存在するらしく、昨夜の神人共食時には私たち人間のみならず神々にも圧がかかり、特に食事中盤で夫が強い倦怠感を示す等、過酷な状況下で儀式は進んで行きました。
 

 
私がことさらイタリア料理に拘るには理由があります。
勿論既にご存じの方々もおられると思いますが、私の直前の過去世はイタリア人でした。その時の私は交通事故で命を落としています。その交通事故で私は大型トラックに轢かれて死んだわけですが、そのトラックの助手席に乗車していたのがサビノ神父でした。
サビノ神父はその件が切っ掛けで後に聖職者の道を選んだと、彼の御霊から最近その事実を聞きました。

私が日本人の血を引く両親から生まれた時、彼はそれが私とは知らずに言い様のない感覚の痺れを感じたそうです。なぜそのような感覚に襲われるのかについては、最近まで、‥夫がサビノ神父の霊体の患部を治療するまでは気付くことが出来なかったようです。

サビノ神父の霊体の患部を夫 天野玄斎 が治療して取り除いた時、彼の意識がようやく明確になり、それまで起きた色々な出来事を思い出して整理する状況に至ったそうです。
私に、私とサビノ神父が最後に会った場所を彼の霊体から直接聞くことが出来たのも、夫のヒーリングのお陰です。
 

 
話を戻して‥。

上の写真ですが、母が写り込んでいなければまるで、父と娘の写真のように私とサビノ神父の雰囲気がとても似ているように見えます。そして時々ご質問頂くのですが、後ろに写っている人形の中には、リラ星時代の私の (当時の第二巫女候補だった) 妹の魂が完全に入り込んでいます。

当時から私は両親に「顔の傷のせいで人前に出せない子」だと言われていたのですが、この写真を見る限りそのようには見えません。勿論若干の傷跡のようなものが顔にはあるのかもしれませんが、この写真の少女のどこが「人前に出せない子」なのでしょうか‥。
でもそんな両親の言葉を真に受けて私を遠ざけた人が他にも複数いたのは、完全に毒親であった父母の洗脳がネガティブな意味で周囲に行き届いたからと言わざるを得ません。

私がサビノ神父に最後に会ったのが、私が18歳の誕生日でした。なのでこの写真を母の遺品から発掘するまでには、42年もの月日が経過したことになります。

でも、祈りは必ず通じます。勿論サビノ神父はこの世を既に去ってしまいましたけど、彼の霊体は実在し、私たちは再会を果たすことが叶いました。そして2024年の2月末日に、サビノ神父は次の生を得てこの世に転生しています。
今度は私が、現世のサビノ神父との再会を待つ番だと思っています。

 
思えば色んな事が起きた2024年。深めたい親睦が上手く深まらず、黒を絶対に白にひっくり返さない私の性格が全てを叩き割ったような一年が経過しました。
せっかく今世で再会を目前に控えていたリラ星時代の妹を見つけたにも関わらず、彼女は心に大きな混乱を来たし、実際の再会は叶わず現在に至ります。

黒を白にひっくり返さない私の性格が災いしたのか、多くの人たちが私や夫の傍から離れて行きました。妥協と虚偽にまみれた人間関係を築くことは私の哲学に反するので、それも致し方ないのでしょう。
 

 
文字通り、私は音楽家・芸術家でありながらもやはり、巫女のような人生をこれからも歩んで行くことになるでしょう。それが人々から理解されない生き方・生きざまだとしても、それをする為に私はここに戻って来た自負があります。

今年は自身の新しいアルバムの企画に着手し、早ければ今年末~来年頃には制作に入るつもりで居ます。
並行して音楽評論と音楽研究にも集中し、特にイタリア音楽 (カンツォーネやイタリアンポップス) をさらに極めたいと思っています。私の魂には今でも強いイタリアが流れており、その強烈な引力に今は流されていたいと願ってやみません。

又音楽やクリエイトと言う観点で、企業戦略的なアドバイス業も担って行けたら‥ と、予定はびっしり詰まっています。法律や社会学、社会心理学等も勉強し、豊かな精神性を培って行かなければなりません。

この記事の最後に、未だ作りかけではありますが、『Collection “SABINO” Ⅴ (2025′)』と題したプレイリスト (on Spotify) のリンクを貼っておきます。
私の中に流れるイタリアを、共にシェア出来たら嬉しいです。
 

神々と共に見つめ続ける (I continue to look at the world with the gods)

幸せとは、何も起きない世界であり続ける事だと私は思っている。だがその思いとは逆に、世界は良くない方向へ転がり続けているように見える。
私の2024年は、色々な意味で激変だった。だが私はその事を殆ど口外しなかった。私が向く方向には必ず、良くも悪くも光が当たる。その光を向けられた人たちは殆どの場合、自分を見失う。だから私はひっそりと世界を静観し続けるしか、他に方法を思いつかなかった。

音楽の世界も大きく揺れ動いた。それは私が (ほぼ直感に従って) ある場所に架けていた梯子を外した途端に始まり、現在も続いている。

今年は相方、天野玄斎神代開き(かみよびらき)を執り行った辺り (2023年11月10日) から私たちを取り巻く状況が大きく変わり、突発的な敵意や憎悪が物理的な現象「圧」となり何度も身体やメンタルに異変を来たす現象が絶えなかった。
その度に相方がヒーリングで対応してくれたことで、今日まで無事で来られたと言っても過言ではない。本記事中ではその状況の詳細の記述は省略するが、ある時期から私は心身をミュートし始めたのか、今年後半はとても眠い日が多かったように思う。心身をミュートすることで若干ではあるが感覚を麻痺させることが出来るので、見なくて済むものをなるべく見ないようにしているのかもしれない。
 


2024年12月初旬、実に14年ぶりに私たち夫婦は大洗に二泊三日の旅に出た。神・武甕槌神 (タケミカヅチ) が愛した場所をもう一度、この目で確かめたかった。
思えば私と夫を引き合わせて下さったのも、そして以前住んでいた時の住居に私たち夫婦をそっと逃がして下さったのも武甕槌神だった。

(まるで夜逃げみたいにして私たち夫婦が引っ越しをしたのは、当時私のアンチと思われる人物に私たちが住んでいた住所を突き止められ、それをとあるSNSに航空写真で晒されたからだった。あの時、武甕槌神の伝言に従って私たちはかなり強引で無理のある転居に踏み切った経緯がある。)


最初に私が武甕槌神と出会ったのは私がタンゴ歌手の伴奏で茨城県を訪れた時だったが、当時の私はその人 (神) が武甕槌神だとは気付かなかった。後に夫と色々話して行く中で徐々に感覚が鮮明になって行き、いつも傍に居て見守っていてくれた存在がその神だと言うことに気が付いた。

2011年3月11日の半年前の2010年8月に初めて大洗を訪ねた時には、その半年後に起きるかもしれない大地震の断片を私に見せてくれた。その時の感覚を私は音楽に残している。
 

 
2010年8月から半年後の3月の大震災以降、暫くの間私は海を遠ざけていた。どうにも海底で起きている霊的な映像が日夜私を苛み、ただ‥ 被災者の御霊に祈りを捧げることしか出来なかった。
二度と海に行くことはないだろう‥ と、相方が神代開きを執り行うまではそう思っていた。そんな私の心境が、ある時から変わった。

2024年12月、大洗に行く途中で鹿島神宮に立ち寄り、武甕槌神と神人共食を試みた。湧き水を使用したお料理はとても清らかな味がして、私をさらに覚醒させてくれた。
だが覚醒は良いことばかりではなく、少しだけ未来が視える私にとってはその折々で見えたことが心身に支障を来たすこともある。

悲しい時間が増えて、それを上手く言葉に出来なくて苦しいことが多くなった。相方にそれを吐き出したくても、きっと彼も似たような心情にあるのではないかと思うと、おいそれと自分勝手に自身の感情ばかりを言葉に乗せることにも躊躇いが生じた。
だけど何故か、病むほどに自分を見失うことはなかった。それは私が「リラ星最後の巫女だ」と言う自覚と自負が、きっとそうさせている。
弱いからこそ強くなり、強いからこそ弱点はさらに脆さを増して行く。その揺り返しを繰り返しながら、霊体が少しずつ鍛えられて行くのを最近感じている。
 

 
我が家にはもうお一方、神が棲んでおられる。名前こそ出せないが、私たち夫婦はその神にも大いに助けられている。今風に言えば「少し口の悪い」神様ではあるが、心根はとても優しい。「少し口の悪い」‥ と言う辺りが自分に似ているので、神を悪く言うことも思うことも出来ないと思っているが‥。

私は神を通じて世界を見るし、神は私や相方を通じて食べ物の味を堪能する。
神人共食とは生きた人間が神に味覚を提供し、共に料理を味わう所作を言う。私たち夫婦は殆ど毎日、神々と神人共食を続けている。そうすることで私の味覚が覚醒し、覚醒した味覚はさらに細かく料理を味わい尽くし、その感覚を神々と共有することで神々を喜ばせることが出来る。

世界が向かう先を、既に私たちは神々から聞いて知っている。それは地上の神々に限らず、宇宙に存在する宇宙自然神ともシンクロする時があり、小さな人間に過ぎない私の感覚が際限なく覚醒して行くところに私は、奇跡とロマンすら感じてやまない。
 

今年は色々な場所に旅行に出掛けたが、暫く私たち夫婦の「旅」は続きそうだ。同様に「祈り」の時間も止まることはないだろう。
世界の混乱が少しでも鎮まることを、ただ、願うばかりだ。
 

雑感 – 5兎のうさぎたちの陰影に於ける洞察 – (Thoughts – Visual insights into the 5 bunnies -)

密かに応援していたK-Popの女性グループ “NewJeans” が、危険かつ異様な動きを見せている。最近の彼女たちの傲慢とも言える言動は人間関係に最も大切な信頼はもとより、法を犯すすれすれの崖っぷちを走り続けている。

韓国の法律については全く分からないが、法が何たるか‥ については (私自身の血筋柄) 多少なりとも心得ているつもりだ。

何に於いても先駆者で在りたいと願うミン・ヒジン氏の強欲さは、先日までは普通に生きていた5兎のうさぎたちの人生設計と生き方をも、大きく狂わせてしまったようだ。
現状ではミン氏同様、NJの5人も同じ目的を持って活動しているのだろう。自分たちは特別で、だからこそ世論を扇動すれば法律さえも覆せると妄信しているように見える。

だが芸能界に於ける「契約」或いは法律を完全無視した現在のNJの活動形態は、むしろ彼女たちを闇のうさぎの様に周囲に認識させる危険性が生じる。

少し脱線するが、よく似た現象として。

未だ売れていない男性歌手を下積み時代から陰でサポートしていた女性が、歌手が売れた途端に捨てられる‥ つまり男性歌手側が新しい女性にあっさり乗り換える現象に、今のNJやミン・ヒジンの言動が重なって見えて来る。

ビッグビジネスの一時の成功がNJたちやミン・ヒジンの目標を曇らせ、或いは欲深いうさぎに変貌させてしまったのかもしれないが、何れにせよ使用前・使用後のネガティブな意味合いでの激変の様相を呈した傲慢さは、彼女たちのファン (推し) ではない人からすれば火を見るより明らかだ。
 


昨日VOGUE KOREAのInstagramにて、5人がADORとの専属契約解除宣言を発した後に初めてミン・ヒジン氏とコラボを組んだ写真が一斉掲載されたが、私の目にはどこか二重スパイを担った思春期の女性の様に見えて仕方がない。現NJの5人が正攻法で正々堂々と道を歩んでいるわけではないから、そう見えるのはある意味仕方がないのだろう。

バニーズと呼ばれる一部のファン (ファンダム) は今の、反骨精神旺盛な5兎の陰影に対し、それを「カッコいい」と感じるかもしれない。だが、最もNJが売れていた頃のような「一点の曇りもない」輝きとは異なり、そこには否応なく背徳の色彩が滲み出ている。

不安とは異なる「不穏」の色彩とでも言うべきか、それがむしろミン・ヒジンを含む6兎のうさぎたちの現状、今のマインドを色濃く表現している様子は皮肉だ。

その「陰」を見事に写真に切り取った点だけを挙げれば、ある意味では「ミン・ヒジンは天才クリエイター」と言い換えることも可能だろう。だがそれはけっして誉め言葉で言っているのではない。
 

人は白を纏った時に本性が顕れる。

確かにVOGUE KOREA (1月号の表紙になる予定) の写真を見て「圧巻だ」「凄い」「素晴らしい!」と言いたい人たちの気持ちも分からなくはないが、私のように強い映像記憶を持つ人間の目には、白い韓服を纏った5人の女性の皮膚が若干濁って見えるのだ。

肌が濁っているのか目が濁っているのか、或いはそれが彼女たちの心を映し出した色彩として私の目に映り込むのか否か、私には判然としない。だが如何せん5兎のうさぎたちのこの写真から明るい未来や希望の光が全く読み取れない私の感覚は、意外に真実を捉えているような気がしてならない。
 

 

関連記事:

響かない音楽 – “DREAM” (Libera)

最近日本での活動が盛んなLiberaだが、そもそも彼らは「イギリス、サウスロンドンに住む7歳から18歳までの少年達のなかからオーディションにより選抜され結成されたボーイ・ソプラノによるユニット」の筈だった。
日本人の作曲家 村松崇継とタッグを組んだ辺りから、Liberaの音楽・表現の質が圧倒的に劣化した印象を私は持っている。勿論Liberaの高音域の透明感は健在ではあるが、その透明感を存分に活かせるだけの楽曲に恵まれないまま月日だけが過ぎて行った。

そんな彼ら Liberaが2024年11月、新しいアルバム「DREAM」を引っ提げて帰って来た。
あの名曲Liberaの時のようなトキメキをもう一度私の中に蘇らせてくれるかと思いきや、やはり今回もそれは叶わなかった。
 


ニューアルバム『DREAM』に対する色々なレビュー等を見て回ると、普段はあまり音楽と親密ではなさそうなリスナーがここぞとばかり声を上げてLiberaを持ち上げるようなコメントが散見された。だがコメンターの過半数がLiberaのコンサートに足を運んだであろう人たちで、音楽そのものではなく「生でLiberaを見た」と言う視覚的な感動と感傷的なマインドに浸っている様子がひと目で分かる。

日本の音楽リスナーの多くが「生演奏主義者」だと言っても過言ではないが、それは日本人の多くが音楽に於ける教育を殆ど受けていないからだろう。
多くは演奏者がミスをしないか‥とか、超絶技巧的なマジックを余すとこなく披露してくれるだろうか‥等、それに付け加え容姿やヘアスタイル、衣装等を音楽以上に観たいが為にコンサート会場に足を運び、その時の感動を脳内リプレイする為にCDを聴いている。
勿論日本人だけではなくこれは世界的に主流の「音楽の聴き方」のように蔓延している。だから最近のコロナ禍を機に世界的に音楽業界が衰退した、それが要因となっている。
 


Liberaのニューアルバム『DREAM』で辛うじて目を引いたのは、[M-7: 永遠のひととき(Merry Christmas Mr. Lawrenceカバー)/Once (Merry Christmas Mr. Lawrence) ] だった。
この曲は最近IVEの新曲『Supernova Love』でもサンプリングが使用された件でネット上でも炎上している、原曲は坂本龍一 (故) の「戦場のメリークリスマス」である。
 


勿論IVEのカバー程の劣化はLiberaのカバーソングには見られないが、「整った装丁の綺麗な合唱曲」以上の出来栄えの良さは全く感じられなかった。
 
アルバム「DREAM」ではLiberaの旧メンバーが作詞/作曲にも参加し、all Liberaなアルバムが完成した‥ とのSNSの告知にも目を通したが、その熱量が完成した音楽に反映されていないと感じたのは何故だろう。
 

これは一種のグループ・ミュージックの限界で、越えられない壁がLiberaの目前に立ちはだかったからだ。

ボーイ・ソプラノの合唱団の場合変声と同時にそのメンバーは退団を余儀なくされる。そして同じパートを新しいメンバーが入れ替わりに支えて行くのがグループ・ミュージックの仕組みだが、その多くが余り上手く行っていない。
これはLiberaに限らず日本では「モーニング娘。」やAKB48等でも度々見られた現象であり、「モーニング娘。」も初代メンバーが最も華があった。AKB48の場合も、前田敦子や大島優子等がセンターを務めた時期が最も華やいだ。
似たことがLiberaにも当てはまる。
 

特に日本の作曲家 村松崇継がLiberaに深く関わるようになってからのLiberaは、日本人特有の偽善性の高い音楽性に強く引っ張られ、楽曲と表現のクオリティーが著しく低下した感は否めない。
確かにアルバム「DREAM」にはそこそこ綺麗な音楽が取り揃えられており、オーケストレーションもそこそこのクオリティーを維持してはいるが、ただそれだけのことで感動もトキメキも全く感じられない。

村松崇継の音楽や音楽活動の方向性は、ある意味では角野隼斗と共通している。両者共にポップミュージック的なラベルに強い固執が見られる要因の一つとして、学歴の問題が挙げられる。
村松は国立音楽大学作曲学科を卒業しており、正直なところを申し上げれば国立音大の作曲科にはさして優秀な講師も居ないし、天下の芸大や桐朋音楽大学に比べて学科のグレードはかなり劣る。
一方の角野は音楽とは全く関係のない一般大学の出身者であり、此方も正規の音楽教育を受けてはいない。両者共に学歴の未達成 (教養も含まれる) の点が共通しており、その影響なのかonly クラシック音楽の活動には強いコンプレックスが垣間見える。
あくまで私の推測だが、これまで上記のタイプのミュージシャンを多く見て来たので、これは中らずといえども遠からずだろう。
 

上記、両者の根底では「クラシック音楽はつまらない」と言う認識があり、それがクラシック音楽をポップスの業界で再現する‥ と言う動機に直結しているように見えるが、それが音楽表現をジャンキーで質を低下させている要因となっている点については、音楽の専門家でなければ指摘することが難しい。
私は作曲と表現、音楽評論の三つの視点から音楽を分析・解析し評論して行くことが出来るし、その活動に於けるスポンサーを持たない分、かなり辛辣で信憑性のある評論を展開出来る立場にある。

その立場を駆使して言えることを各々の人間性に立ち入らない範囲で論評して行けるので、本記事ではかなり深堀りをして書かせて頂いたが、各個人の人間性には一切触れてはいないのでくれぐれも記事の読み解き方だけは間違えないで頂きたい。
 

プロデューサーが「美しい音楽の標本のようなものを意図した」とも言えそうなLiberaのニューアルバム「DREAM」はさながら、ただ美しいだけで何の奥行きも感じない、タイトル通りに夢から覚めたら記憶からすっぽり抜け落ちていることすら気付かせない、極めて存在感の薄いアルバムだ。
デビュー当初の「強い祈りを秘めた音楽」から、ただの商業音楽へと堕落した結果のLiberaの現在がある。
 
祈りを手放したLiberaはもはや、Liberaではない。Liberaの原点は「天界から降りて来た精霊の歌声」と、彼らの魂そのものだった筈である。
 

DREAM – リベラ

還暦 (60 ans), 私と『Mother』

2024年11月3日、私は還暦を迎えた。単語に書いてしまえば何とも呆気ない二文字だが、とても孤独でエキセントリックで、尚且つ少し苛々するような不思議な感覚を覚えている。
誕生日付近に旅行を計画し某所に向かったが、案の定私の雨オンナパワーが炸裂した。三泊四日の旅に出たものの中二日目で滝のような大雨に見舞われ、室内で滝の音を聴きながら過ごすことと相成ったが、私たち夫婦はそれでも一向に構わなかった。
 
滝のような雨音は音楽だった。自然音と言う最高の恵みに鼓膜はむしろ癒され、少し疲れた心身を温泉に浸して空を見上げるだけの何ってことのない時間はただただ至福のひと時だった。
 

50代最後の年、私は神々に多くのミッションを授かることとなった。元・人の神も在ればそうではない、宇宙自然神のような存在も在る。各々の神々が私に少しだけハードルの高い課題を提示して来たが、それが私の得意分野ならばただ続けて行けば良いだけだ。
リラ星の頃から、自然神と音楽は私の最高の友だった。今でもそれは何一つ変わらないのだから、後は私の魂や霊体にその旨を余すところなく刻印し、私の死後に神々にそれを手渡すだけだ。
 
気付けばブログも前回の更新から三か月近くが経過した。幸いなことに私がここを留守にしている間にも沢山の来訪者があり、何かしらの記事を捲って読んでいる。それが好意か悪意かなんてことはこの際どうでもいいことだ。
私の部屋を訪ねて来た人たちには各々それなりの理由や動機がある。ただそれだけのことだから。
 

 
ブログの更新が空いてしまった唯一の理由を挙げるとしたら、私に話せることに制約が増えてしまったことだろう。
人や神々との繋がり全てに於いて、私はMAXレベルの秘密主義者だ。それもこれも仕方のないことで、かつてジャンヌダルクとして生きた時代を含め記憶にある中で私は二度、火炙りで死んでいる。もう火炙りは懲り懲りだ(笑)。
ダークサイドは私の食、財布、生命導線のありとあらゆるところを狙って突いて来るから、私は多くを隠して行動しなければならない。幸いなことに夫が召喚してくれた心優しきガーディアンズたちも頑張ってくれるので、こうして何とか無事に還暦を迎えることが出来た。
 
心優しき夫にも、ただただ感謝の一念しかない。
 

書きたいことが山のようにあるにはあるが、いざ書き始めたらおそらく一冊分の本になるだろう。それだけ私のこの10年は余りに濃厚だった。だからと言って「濃厚だ、濃厚だ」と言えばただの安っぽい嫌味みたくなり兼ねないので、無数の思いを霊体に封印した。
 

人として色々な心配事も絶えないが、その内容さえもここには書けないのがもどかしい。相手もあることが大半なので、これも又致し方ないと諦める。
 

 
音楽のみならずスピリチュアルなことその他に於いては、実は随時追跡や調査を続けている。
声高に「不思議だ不思議だ」と言われることの大半が、私にとっては然程不思議でも何でもない実に他愛のない出来事だったりする。
 

いずれ地球の半分以上が廃墟となること。
いずれヨーロッパの大地の一部が水没したり、人が消えていなくなったりすること。
いずれ地球の公式言語の一つが日本語になること。
霊質文明の最初の樹立が地球時間で数百年後に控えていること。

 
知っていることは他にも多々あるが、現在の「有名人にしか関心を寄せない考えの人々が主流」の地球上で預言の全貌を明かすには未だ早過ぎる。
リラ星の時代から23万年以上が経過したが、地球もプレアデス星も或いは双方の関係性も余り変わっていない。リラ星人とて一枚岩ではないわけだから、善人と悪人の両方が混然一体と共存する。当然虚偽もまん延して行くが、私一人の預言の力でそれを止めることなど出来ないし、止める必要もなさそうだ。
その前に地球が一度空っぽになるから。
 

空っぽの世界に残り続ける残響のような音楽を、私はどの世界に在ってもせっせと放ち続けて行くのみだ。その目的の為に私は日々神々や自然神、精霊たちと対話を続けており、その過程で地球や宇宙の未来の一部をそっと覗かせて頂き、それを預言として音楽の中に封印して解き放っている。
人の為の音楽ではなく、もっとそれ以外の目的を持つ音楽だから、人々の琴線に刺さらなくても余り心配はしていない。それより何より私は、自身の中の『Mother (マザー)』の存在を今は大切にしたいと思って生きている。
 

“Airy” 飯島真理 – 彼女の声と音楽と‥

彼女の音楽を聴く人たちはおそらく、脳内で絶頂期の飯島真理の‥ つまりマクロスの声をベースに敷きながら彼女の歌を聴いているのかもしれない。
最近の飯島真理の声はかなしいほどに衰え、彼女が描いている本来の音 (韻) に声帯の振動が届くまでに複数の音と韻を経由する為、何を歌っているのか殆ど分からない。

飯島真理のブログやYouTubeからはほぼ社会運動家の様相を呈した内容の情報が伝わって来る。世を儚みながら愚痴を絶叫するような、精神状態 (メンタル) 面の悪化が見て取れる。
勿論クリエイトを職に持つ人たちは多かれ少なかれメンタルをヤラれやすい傾向にはあるとは言え、彼女は自身の最高の武器だった声を完全に喪失してしまったのだからそれも致し方ないのだろう。
 

 

思うに‥。自身の武器に不具合が生じたら、そこが引き際だろう。勿論私自身にもそれは置き換えられる話なので、私は必要以上のトレーニングもしないし人前での演奏も一切していないが、未だ引き際には遠い
一方飯島真理の場合はどうだろう。
 

ニューアルバム “Airy” 、和訳したら “風通しの良い‥” と言うような意味にもなるが、どう好意的に聴いても風通しの良さを全く感じない作品が軒を連ねる。
楽曲的には程々絶頂期の彼女を覗かせる作風も見られる (M-2: “Where Do You Go”) が、兎に角声があっちゃこっちゃふらふらしながら目的の音と歌詞 (韻) を捉えるから何を言ってるのか、本当に聴き手を混乱させる。
特にその状況が裏声に見られるのが、飯島真理としては致命的な損傷だ。

アレンジ面でもほぼスタジオ練習並みのピアノ・バッキングがメインで、その上に若干のシンセやサックス等のTop楽器で歌のない箇所にソロを取らせているだけの、かなり簡素でチープな編曲で完結させている点が苦しくて痛いところだ。
そう思うと初期の飯島真理の編曲家陣 (坂本龍一/ 吉田美奈子/ 清水信之 等) やビクターの制作陣がどれだけ腕を振るっていたのか、今頃になって気付かされる。

 

飯島真理の元々の (ややとち狂った) メロディーセンスを最も上手く活かしてアルバムにまとめていたのは、やはり故 坂本龍一氏だろう。
勿論他の編曲家たちも彼女の良さを活かしてはいたものの、編曲の中に “過剰な自分らしさ” とか編曲の個性やアクを乱用しているふしは否めなかった。編曲家のサガとでも言うべきか、ここは本当に作曲家との決戦とも言うべきだろう。絶対に負けては帰れないのが、編曲家のかなしさだ。

アルバムには全7曲が収録されており、マイルズ・ショウェルがマスタリングを手掛けていると彼女のブログには記載されてあるが、マイルズもかなり苦労したに違いない‥。
冒頭曲 “Sobaniiteyo” は楽曲としては悪くない。むしろ最高だった頃の飯島真理の感性が覗くが、問題は声とアレンジだ。特にアレンジ、‥どうにかならなかったのだろうか。
声に関してはもうどうにもならないところまで彼女自身、追い詰められているだろうからここでは言及を避けよう。

ピアノ+アルファ‥ まるで町の夜店のライブハウスの演奏を聴いているようだ。

良曲はM-1, M-2 のみ。その他は捨て曲と言っても良い出来栄えだ。それぐらい、彼女は曲も書けなくなっている。
同年代なだけに (‥と、以前彼女の “X” 旧 Twitter のポストにリプをしたら劇的にキレ散らかされた‥) 他人事ではないが、やりようはあった筈。要は彼女自身の人間性の問題なのだ。
反面教師として見つめていたい。

 

 

 

飯島真理と故 坂本龍一氏のコンビの作品の中で、最も優れていて鮮度を保っている作品 “ブルーベリージャム”
歌詞も良い。

 

年齢不詳, 世界最高峰の女性DJ/ Hiroko Yamamura

音楽に真面目も糞もないとは思うけど、私の中では両者をきっちり線引きしている。と言うのも私自身が音楽家 (芸術家, 作曲家) であり、アカデミックな音楽教育を受けているからに他ならない。
色々巷では言われているが私は歴とした桐朋音楽大学 (ピアノ科) の卒業生である。
大学卒業後には同大学の研究科で作曲家に転科して進学し、小さな作曲コンクールでの受賞歴もある身だ。だがあいにく私はコンクールとは縁が薄く、そもそもコンクールの審査員と私の音楽歴や知識等が完全に逆転している状況下ではコンクールへのエントリーも余り功を為さない。

多くの音大教授等は私をレッスンすることを嫌がった(笑)。私が聴音の受講生として授業に参加しようものなら、教師の側が課題の演奏を間違い呆ける為全く授業にならなかった。
結果当時短期的に発足した特別クラス (通称: 特Aクラス) の教授Nは授業を完全に放棄し、私の年間授業出席日数と単位の確保の為に最初の数回の授業の他は全てお茶会を開催することになり、近くの喫茶店でしんしんと紅茶を飲むだけの静かな講義に変更と相成った。

さて余談はこの辺りにて終了し、この記事の本題に進まねば(笑)。

最近私が注目している世界最高峰のDJ Hiroko Yamamuraと言う女性には、どこか自分と近しい匂いを感じてならない。基本的には静粛な音楽以外は完全拒否の私だが、この人だけはどこか例外だと思っている。
基本賑やかしの音楽に大勢の聴衆を集めて開催される音楽祭やロック・フェスティバル等については、私が日ごろ繋がっている自然神等の意向も踏まえネガティブな価値観を私は持っているが、例えばこのブログで取り上げたような形態の密室空間を使って電波にイベントを放つスタイルであれば何の問題もないだろうと私は思う。
 


(⇧ 画像をタップしたら、YouTubeに飛べます。)

Hirokoが他のDJと異なる点を一つ挙げるとしたら、それはいわゆる「人気者の頂点でありたい」等と言う過度な承認欲求が殆ど見られない辺りだろう。
勿論大勢の観客が居る屋外イベント等では時折「もっと盛り上げてよ!」と言うような仕草によるHirokoのアクションも見られるが、基本的には彼女は卓を回している時の自分自身を最も愛しており、ブースの中の自分に超満足しているように見て取れる。

私がHiroko Yamamuraを他のジャンキーなDJとは一線を画して見ている理由はまさにそこ (上記に綴った要素) であり、やはり彼女の内面を覆い尽くしている音楽愛がHirokoを世界の頂点へと押し上げている原動力であることは間違いなさそうだ。
 


2024年7月に開催されたフジロック・フェスティバルには、急遽前日キャンセルとなったREMI WOLFの枠をHiroko Yamamuraがしっかり埋めたとのこと。
此方の動画を探してみたが高音質 & 高画質の動画は見つからなかった。そもそも屋外で多くの観衆を入場させた状態の音楽は既に私にとってもはや音楽ではないので、この記事で紹介するまでもないだろう。
渡りに船だ🚢

世界中の音楽を知る筈の私もHiroko Yamamuraの扱うジャンクフードのような音楽のジャンルにはなかなか疎いのだが、彼女は単純にテクノとかエレクトリック何とか‥ と言う感性の枠を既に突き抜けているように感じ取れる。
一説にはアッパーテクノ、ハイパーテクノ等とも言われる音楽をビー玉転がしのように手の中で転がして行く彼女のトラックは私にとっては「テクノイズ」とでも言うべき、段々と脳内で音楽がホワイトノイズ化して行くから面白いし、たまらない。

特にルーム後半に向かって選曲のボルテージが一気に過熱 (加速) して行く辺り、スポーツに喩えるならばどこか絶頂期のカール・ルイスの走りにも似ている。
 


ところで‥。この記事の中盤でも触れた2024年7月に開催されたフジロック・フェスティバルでの彼女の、音質の良くない動画は確かにYouTube上に存在するので、今この記事を書きながら実はひっそりそちらを聴いている。

🔗 Hiroko Yamamura @ 2024-07-26 FUJI ROCK FESTIVAL ’24 (WHITE STAGE)
 
彼女の選曲は本当に面白い。該当動画の39:11~になんと宇多田ヒカルの作品が現れる。あまりにさり気なく割り込ませて来るので、日本人の私でさえもそれに気付くのが遅れた(笑)。
Hirokoの音楽の挿入の仕方や紹介のスキル等、なかなか冴えており切れ味が良いではないか💕 エフェクトのチェンジング等も含め、なかなか興味深い。
 


このブログ記事の最後にどのHiroko Yamamuraを紹介しようか迷ったが、此方の動画を貼っておく。これは最近気に入って時々聴いている、やはり屋内でひっそり卓を回すHiroko Yamamuraの様子だ。
大爆音で空気中に騒音をまき散らすことがないので、このスタイルであれば自然神等の怒りを買うことはなさそうだ。環境破壊も引き起こさずに済むので、これなら堂々と私のブログでも紹介出来る(笑) 🎛️

さぁ! 楽しい音楽の時間だ。
 

 

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