Mario Stefano Pietrodarchi氏はどちらかと言うと情念タイプのやんちゃなバンドネオン奏者だと思うが、そんな彼の情念過多にも陥りそうな演奏をアラム・ガラベキアンがしっかりと、強引なまでに上から理性で抑え込んで行く様は圧巻だ。 ピアソラとはこんな音楽性だったかと耳を疑う程の、あまりにも完成された様式美がただただシンプルに胸を打つ。
私は国籍が日本なので、先ず話のネタとして桑原志織さんの演奏は聴いておく必要を感じYouTubeにアクセスしたが、動画の半分まで持たなかった。 Concerto in E minor, Op. 11をコンツェルト曲に選んでいたところは良いとして、ショパンの霊魂が熱弁をふるうところの「天上界の官能性」は全く彼女の演奏からは感じられなかった。 桑原さんの演奏は、日本式の感性で言うところの「優秀な演奏」だと思う。音楽を理解し、感じている風な顔芸と頭のガクンガクン振りながら演奏すると、確かに日本のコンクールの場合だと審査員ウケが良い。 だが如何せんこれは音楽ではなく、あくまで「競技と割り切って点数を取る為の演奏」だと言うことをコンテスタントの殆どが分かっているので、恐らくコンテスタントの大半が自身の表現スキルを放棄していると思われる。 つまり運動性に依存した再演と言う、これはそういう意味だ。
さらにはERIC LU氏のコンツェルト “Concerto in F minor, Op. 21” にアクセスしてみるが、セレクトしている楽器の特性が仇となり、オーケストラの、特に木管楽器の音域がピアノの音を完全に覆ってしまう。 又Fazioliのピアノは音の粒のアタックだけが機能するような設計になっている為、ペダルが全くその役割を果たさない。まるでツェルニーを聴いているみたいな演奏が続き、音楽にもショパンにも聴こえて来ない。 この表現の致命傷にERIC本人が気付いていないとしたら、表現者としては長く続かないだろう。
複数聴いた中で比較的正統派のショパンに近かったのが、William Yang (ウィリアム・ヤン) 氏だった。 だがこれはあくまで「審査脳」を一旦構築した中で、コンテスト脳を持ちながら聴いた感想なので、彼が仮にいち表現者として何も言わずに私の前でショパンのピアノコンツェルトを演奏したとしても、私は彼の演奏には全く惹かれないだろう。 コンクールの怖いところで、一度コンクールの審査脳を構築した人がそこから離れることはとても難しい。何を聴くにもミスタッチの有無を先ず検知し、いかに音の粒が正確か、いかにハイスピードで演奏し続けらるか‥ 等の審査の耳で全ての音楽を聴くことしか出来なくなる。
確かこの方、ERIC LU (🇺🇸) さんはファイナルの演奏も終えた頃だろう。 私はファイナルのピアノ・コンツェルトも動画で試聴したが、冴え渡るものは感じなかった。むしろ三次予選の『Barcarolle in F sharp major, Op. 60』や『Sonata in B minor, Op. 58』の、一歩も二歩も引いた表現が良かったと思う。
ショパンは時代の要因で、楽曲の緩急が大きい。そこには戦争の光景や音声等を写し込んだ楽曲も多く、それが私が今一つショパンを好きになれない大きな要因だ。 その辺りの戦闘的なモードに入りやすい音楽を、ERIC LU氏は若干抑え気味に表現しているところが良い。特に『Sonata in B minor, Op. 58』の『Presto non tanto』の緊迫感のある音楽からざっくりと緊迫感を抜いて行った、ある種の緩やかさを感じる演奏は高く評価したいポイントだ。
ERIC LU氏のファイナルの演奏も試聴したが、選曲と出場のタイミングにリスクが生じたような印象を持った。 指揮者やオーケストラがステージに馴染んでいない点に加え、ピアノ・コンツェルトの中では若干地味な曲を選曲しており、Fazioliの音色がショパンの華を拾い切れずに靄がかかってしまったのは残念だ。 ピアノの調律の問題も、ひょっとしたらあったのかもしれない‥。