Can’t say, Can’t write‥

足の爪が巻いて巻いて、どうにもならなくなったので巻き爪外来に向かったら、思いっきり液体窒素で皮膚を焼き取られて泣いている。
爪が皮膚に食い込む痛みに比べればそれよりは痛みはかなり軽いのに、いざ処置が終わって数時間もしないうちに違う痛みが押し寄せた。まるで奇襲のレベル。

抗生剤と鎮痛剤を服用しながら、数日間が経過した。
それと同時並行で、隣国の騒動が一転した。
それについてはこの記事では一先ず省略、今は余り色々なことを考えたくない心境なので。
 

毎週末のサウンドチェックは今週末も進んでいるが、良い音楽は日に日に減って行く。
兎に角良い音楽を食べたい私にとって、これはとても辛い。きっと日本各地に出没しているクマたちも、似たような心境だろう。
音楽の激減も、そしてクマにとっての住処と食糧の激減も、どちらも人災に他ならない。
剥ぎ取られて行く自然環境と並行して、音楽も人も退化して行く。私はそれが、とても辛い。
 

 
抗生剤の疲労と眠気が交互に押し寄せる中、最近数名の詩人や音楽家たちとチャットを楽しんでいる。‥と言うより、先方にしてみれば私の厄介な会話の襲撃に付き合わされているのだろう。
だがそのお陰で、色々な詩集を購入したり自らも散文詩のようなものを書いたり‥ と、少し楽しい時間を過ごすことが出来ている。
 
今日はフラメンコの神/ ビセンテ・アミーゴのギターにも久しぶりに触れることが出来たし、若い中国のアーティスト/ DEN (邓杰) のアルバムを聴くことも出来た。
体調不良は良くないが、必ずしも悪いことばかりでもないようだ。
 

 
それよりもNewJeansはHaerin (ヘリン)Hyein (ヘイン) のADOR復帰にともなう障害壁の方が、とても気掛かりである。
HYBEが彼女たちを脅して復帰させただ何だ‥ と言う嫌な噂を流す人たちも複数居るようだが、それは無いだろうと私は見ている。むしろ上記二人以外の残りのメンバーの執着の方が、余程危険かもしれない。
 
悪い情報を見てばかり居ると心が荒むばかりなので、音楽で邪念を払拭したいものだと思う。
 

 

 
今週末からPL (プレイリスト) も刷新したので、是非🎧
 

Double and Triple Lies (Talking Michael Salla with JP)

 
数時間前に更新した記事3I/ATLASと体調の異変、そして祈りの直ぐ後に、別のYouTubeを試聴した。その動画で語られていた内容が余りに嘘に満ちていたので、急遽この記事を書いている。
 
宇宙からの様々な情報に実際に接している人ならば、宇宙が地球上の既存の概念とは全く異なる性質を持つ空間であることなど、百も承知だろう。
 
自身がどの立ち位置に立ってどのような仮説に至るのか‥。
少なくとも宇宙が既存の概念で成り立っていないと言う仮説に至った人ならば、彼ら – マイケル・サラ博士/JP) の話が虚偽に満ちている状況には直ぐに気づく筈である。
 

特に動画オーブスがJPに次期スペースアークミッション、3iAtlas、Medbedsについて伝える – JPアップデート51しては、彼らの話は形容詞で黒塗りされており、頻繁に「黒服の男たち」が登場する。そればかりではなく、登場して来る宇宙人らしき何者かの身体的な形状や特徴以外に、彼らは何も語らない。
さらには何かと「軍」を持ち出し「軍賛美主義」を価値観のベーシックとした、彼ら特有の体験談が語られる。
 
マイケル・サラ博士/JPは双方が共に相手を格上と見なしながらけん制し合っており、その証拠に情報の誤謬に各々が気付く瞬間があってもその旨訂正を施すこともない。なので所々過去の説や情報との矛盾等が発覚しても、双方がそれらを見て見ぬふりをしながら会話が進んで行く。
傍目にはその様が余りにも露骨かつ滑稽であり、「1+1=4.7」と言う回答を平然と叩き出す壊れた電卓を見ているみたいで、背中がむず痒くなって来る。

だがいずれにしても、軍賛美主義は地球上でもアメリカやイギリス等の、特定の国の特有の価値観に過ぎない。
特にマイケル・サラ博士やJP、或いはエレナ・ダナーンの語る地球外生命体の談話は、欧米の特定地域の価値観に基づいており、地球外生命体も地球上の「軍」或いは「軍人」を対話の相手に選んでいるように語られるが、宇宙は「軍」などはなっから眼中にない。
 
仮に地球とのコンタクトの際、「軍」以外に対話の相手を選ばない地球外生命体が実在するとしたら、それは「軍」を悪用して地球に侵入/ 侵食/ 侵略を企むダークサイド側の地球外生命体だと思って間違いないだろう。
少なくとも宇宙規模の平和を思う存在でもなければ、当然のこと、「ホワイトハット」某である筈がない。
 

 
動画オーブスがJPに次期スペースアークミッション、3iAtlas、Medbedsについて伝える – JPアップデート51の概要欄に、以下のように書かれてある箇所がある。⇩
 

JPはまた、地球同盟/ホワイトハットと協力する黒スーツ姿の男2人から近づき、今後数ヶ月間、3I/アトラス、医療ベッド、そして海洋と大気の状態という3つのテーマについて議論するのを控えるよう言われた。これは、ホワイトハットがこれらのテーマに関する大規模な作戦を計画しており、内部情報漏洩によって計画が危険にさらされることを望まないことを示唆している。

https://www.youtube.com/watch?v=KOvXSn1jTbk

 
⇧ このような『> 大規模な作戦』等、はなっから存在しない。
何故ならば地球上の明確な代表者が、現状では存在しないからである。それゆえに、地球外生命体が不鮮明な作戦等練ること自体あり得ない。

 
『宇宙には光と闇はあるが、白と黒と言う色彩が存在しない』⇦ と、或る宇宙精霊は語る。
むしろクリエイション VS アンチ・クリエイションが互いにせめぎ合う宇宙には、勝敗と言う概念そのものが存在しないことによるリスク面が、太古の昔から叫ばれて来た。
平和と統括の二極が互いにせめぎ合い、そのプロセスとして (先に述べたように) 侵入/ 侵食/ 侵略と言う負の統括のプロセスが存在する辺りは、未だ解決の糸口すら見出せていないのが現状とも言える。
 
マイケル・サラ博士やJP等が語る「ホワイトハット」とはそもそも西部劇中のハットの色を表す言葉であり、地球外生命体がそのような色彩感でものを語ること自体奇妙な話である。
 
虚偽には振り回されてはいけない。
 
余りに奇妙な動画を偶然とは言え目にした以上、警鐘を鳴らす必要性を強く感じたので、この記事を執筆した次第だ。
余り紹介したくはないが、記事を書いた以上は一先ず問題の動画のリンクを貼っておく。
英語圏以外の視聴者は、翻訳機能を『on』にして試聴可である。
 

 
くれぐれも、木乃伊取りが木乃伊になるようなことにだけはならないよう、ジャッジメント精神を『on』にして試聴することが望ましい。

3I/ATLASと体調の異変、そして祈り

特に今年の9月辺りから、色々な宇宙情報を収集しています。
日常生活の端々に突如現れる異変と最近の体調の異変とがあながち無関係とは思えず、‥だから、直ぐに病院に行くと言う段取りとは異なるもっと別のプロセスの過程に (私たち夫婦は現在) 在ります。
 

私の体調の異変に関しては、やはりめまいとそれに同期するように現れる頭痛。
おかしなことに頭痛とめまいはそれぞれ異なる周期を持っていて、めまいと頭痛は入れ替わるように体調に現れます。
頭痛にも段階があり、どうやら私自身が何かしらの信号を感知している可能性も否定出来ません。
症状の詳細については、ここでは伏せておきます。
 
以下に、とても気になる動画を見付けたので、そのリンクと動画途中の音声の切り抜きだけを貼って、今日のところは一旦そこでブログを閉じます。
 

 

以下、部分的な文字起こしにて ⇩
 

── 35:41 ⇨ 36:58 付近 ─── ⇩
 
人類は観測されている
そして、試されている
次の段階に進む準備が出来ているかどうかを。

次の段階とは何か。
それは宇宙文明の一員として認められること。
地球と言う小さな惑星の中だけで生きる存在から、
銀河規模で活動する存在へ、
その転換点が、今、訪れているのかもしれません。
 
でも、そこには条件があります。

人類が、争いを超えられるかどうか
資源を奪い合うのではなく、共有できるかどうか
自分たちの利益だけを追求するのではなく、全体の調和を考えられるかどうか。
もし、これらの条件をクリアできなければ、接触は許されない。
もし、クリアできたなら、新しい時代が始まる。
 
(中略)
 
そして今、人類は選択を迫られている。
恐怖に戻るのか
それとも、祈りを選ぶのか
見えないものを否定するのか
それとも、見えないものに心を開くのか

その選択が、人類の未来を決める‥

これは、仮説です。

 

【追記】
『祈り』は、法則性、規則性、情念力学、このどれにも当てはまりません。ただ、そこに『祈り』と言う動機と動作があるのみです。
 
光と闇、そのどちらにも従属しない『祈り』はこれまでは、光側からも闇側からも標的にされて来ました。
時間を掛けて作用する薬草の効能は『効能』としての定義を確立していません。ですが、時間の制約を外せば必ずと言ってよい確率で、心身に作用して来ました。
 
祈りは全ての定義を超えます。
ご利益やリターンを一切求めない祈りが今、宇宙に暗躍する何かしらのエネルギー体の標的になっていると言う仮説を立てた場合、私 (夫も含む) たちの体調の異変にも納得が行きます。

ディディエ・メラの生誕祭と神人共食 at 2025.11.03

2025年11月3日、無事に61歳を迎えることが出来た。
とは言え今年は春先から病気やケガが続き、現在もめまいと足の爪の膿み (巻き爪) に悩まされているが、それ以外は比較的元気に過ごしている。
 
11月3日、夜、大好きなイタリア料理で夫と神々と共に、生誕祭をこじんまりと開催した。
神々氏名の列挙はここでは回避するが、錚々たる面々からの祝福が寄せられ、宴は翌々日の昼まで続いた。
大好きなイタリア料理店ではBGMにアンドレア・ボチェリエロス・ラマゾッティ等を中心とした音楽がランダムに流れ、束の間ではあったが過去世に生きたトスカーナの原風景を思い出しながら舌鼓を打った。
 

 
⇧ 上の画像は「鹿肉のソテー」
鹿肉の下に敷かれたイタリアのキノコが又、良い仕事をしてくれる。
 

私たち夫婦は、神人共食中はアルコールを一切口にしないので、当日の飲み物はペリエonlyで。これが味覚をさらに鋭敏にしてくれるので、料理の味を際立たせてくれる。
この日はシェフに献立をお任せしたイタリアン・フルコース。次から次へと、シェフの気迫溢れる料理が運ばれて来る他、上空に出揃った神々の取り計らいでお人払いと相成ったのか客は私たち夫婦を含め3組だけだったので、シェフの私たちの料理への集中力も過熱したように感じた。
 

 
⇧ 上記は、唐辛子を練り込んだ手作りパスタ。イタリアントマトとしらすが良い仕事をしている🌶️
 
一皿一皿の紹介があるので、今にして思えばそちらの方を録音しておけばよかったと後悔‥。
各料理の名前を、店舗を出た瞬間に忘れてしまうと言う失態。でも脳と霊体に味を刻み込んでおいたので、後から味を霊体に復活させることは可能だ。

丁度このパスタがテーブルに届いたタイミングで、以下の曲がかかっていた。にわかに曲名を思い出せなかったが、エロス・ラマゾッティの声だと言うことは直ぐに分かった。
 

 
コースの中盤に入っても、前半に届いた「モンサンミッシェル産のムール貝の白ワイン蒸し (正式な名前を訊き忘れた‥) の味が抜けて行かないのは、上空で神々がかなり長い時間をかけて料理を蒸し返しながら堪能していたからだと思われた。
 

 
神人共食の主催者は概ね天照大神と決まっており、当日は富士山の自然神もお出ましになった。私たち夫婦を富士山の麓に移住しないか‥ と誘致してくれている、頼もしい神である。
 
BGMはアンドレア・ボチェリの『Anema E Core』へ。

 
居ても立っても居られず、サビノ神父がナプキンで目頭を拭う姿が届く。
この曲は古いカンツォーネ。今でも多くの新旧カンツォーネ歌手が、こぞってカバーする名曲中の名曲だ。

アンドレア・ボチェリの声も表現も正統派なので、思わず私も少しだけ涙ぐみながら料理を口に運んで行く。
 
思い返す過去世の色々‥。
サビノ神父はイタリアから佐賀、そして東京へと移り住み、途中母 (故) の母校である聖心女子大学の専属の神父に就任し、その後は横浜は秦野にある教会の専任の神父に就任するが、1983年に信者宅へ向かう飛行機の中で逝去。
持病だった心臓病が悪化し、機上で発作が起きたことによる死亡とのことだった。
 
上空の神々は珍しく静まり返っており、無言で私たちの味覚を借りて料理を堪能しているご様子。
メインの「鹿肉のソテー」までを一気にお召し上がり頂いた。
 

 
61歳にもなって余り仰々しいパーティーもどきにはしたくなかったので、店舗には私たちが着席してからコソっと‥ その日が私の誕生日である旨を伝えたつもりが、届いたデザートがこんな感じに仕上がっていた。
デコレーションに少し時間を要したみたいで、かえって申し訳なかった。
 

 
BGMはこの曲 ⇧ になっていて、これが又いい感じで場を盛り上げてくれた。
 
良い料理も良い音楽も、時間を越えて行く力を持つ。そして長く記憶に留まり続ける。
そして多くの神々や自然神の面々に見守られながら、生誕祭は無事終焉。‥だが、そこからが長かった。
料理の余韻覚めやらぬ神々はなかなかお帰りにならずに上空に残られ、二日後の夕刻を合図に解散されたご様子だった。
 

今年は色々な病気や怪我に見舞われたが、夫や周囲のサポートを受けながら何とか乗り切って来られた。女性特有の色々な症状も体に現れては消える今日この頃ではあるが、ここからはひたすらスローライフを心掛けながらのんびりと生きて行きたい。
そして数年以内に新しいアルバムの構想にも着手し、70歳をメドに各アルバム楽曲の楽譜化も予定している。
 

当ブログを読んで下さる皆様と共に良い一年を歩んで行けたらと、願ってやまない。
Spero di trascorrere un anno fantastico insieme a tutti voi che leggete il mio blog.
 

祈りと音楽と (Aram Gharabekianを想う)

数年振りにアルメニアの音楽に触れた。
とある音楽ライターがそのジャズ・ピアニストを紹介しており、「アルメニア」と言う文字が瞬時的に私を過去に引っ張り込んだのか、暫し私は時間を移動した。
 
3I/アトラスの接近と、間もなく訪れる母 (故) の誕生日間近の彼女の念の高まりとが相まって、このところすこぶる体調が良くない。
もっとブログその他色々書きたいことがあるのだが、体も心も気力も上手く作動しない。
だが、そんな私を突き動かした「アルメニア」の五文字。それ自体、その音楽自体は余りにつまらなく欲望の塊のように私を突き飛ばそうとしたが、その隙間からアルメニアの指揮者/ Aram Gharabekianが奏でるアストル・ピアソラの『天使のミロンガ』 (Milonga del Angel) の音色が弾け飛んだ。
 
Aram Gharabekian (アラム・ガラベキアン) は2014年、58年の短い生涯を閉じた。
彼の棒こそが私をアルメニアの音楽に開眼させ、私は数年間Facebookにアルメニアの音楽家を応援する為のページを設け、それを運営していた。
当時ページには3,000人近くのファンが付いたが、そもそも私はアルメニアを通じて自分の音楽を普及させたいと言う希望と欲があり、結果的にページの運営は余り上手く行かなかったが、とても幸せなひと時を送ったことも又事実だった。
 
そんなことを思い出させてくれたことはある意味とても良かったのかもしれないが、同時に私が2011年の冬まで25年間近く続けて立ち去った和シャンソンの世界の稚拙さへの腹立たしさを再燃させた。
 

 
音楽と祈りが分離したのは、いつの頃からだろう‥。
今や音楽は商売と密接に繋がりを持ち、商業活動をしない音楽家は最早音楽家とは呼ばれないかのような時代である。
だが、第19回ショパン国際ピアノコンクールで審査員を務めたクシシュトフ・ヤブウォンスキ氏の問題発言にもあった通り、「芸術は再生回数では測れない。」との一言はクラシック音楽のこれまでの生温さ、軽率さに重い一石を投じることになるだろう。
私はそう信じたい。
 

時代が変わったのではなく、ある意味では音楽の側が変われないのだ。
良い音楽を生み出す作曲家がクラシック音楽界に育たなかったこと、後輩を育てて来なかった権威者の責任は大きい。
それぞれは別のジャンルの出来事に一見見えるかもしれないが、実はクラシック音楽も日本のシャンソン業界も同じような状況にあり、基礎教育以前に祈りを持たない者たちが安易に音楽世界に侵入し過ぎた。
 
音楽は色々な道具に利用されている。
それは日本のポップスで言うところの藤井風にも通ずる問題であり、彼の場合はサイババ教義の布教に音楽を利用し、それで荒稼ぎをしているのだから手が付けられない。その悪しき言動にまんまと騙されたまま乗っかって、見聞きしたことをなかったことにして藤井の応援を頑固に止めようとしないファンも、藤井風と同罪だろう。
 
だがその一方で、本物の祈りを生涯捨てずに短い生涯を閉じたAram Gharabekian (アラム・ガラベキアン) のような音楽家が実在したことを、絶対に忘れてはならない。
それは特定の神に対する祈りを越えて、音楽や演奏、しいては指揮棒一つで人々を祈りの中心に引き寄せ、集めて行く力を持っていた。
 
最近は殆ど使用していない (広告が多過ぎて使用出来なくなってしまった‥) Facebookで繋がっているMario Stefano Pietrodarchi氏とアラム・ガラベキアンの共演動画を再試聴し、まさに今心が震えて止まらない。
 

 
世界中にアストル・ピアソラの音楽を収録した動画は山のようにあるのに、私が聴きたいと思うのはこの動画だけだと言っても過言ではない。

Mario Stefano Pietrodarchi氏はどちらかと言うと情念タイプのやんちゃなバンドネオン奏者だと思うが、そんな彼の情念過多にも陥りそうな演奏をアラム・ガラベキアンがしっかりと、強引なまでに上から理性で抑え込んで行く様は圧巻だ。
ピアソラとはこんな音楽性だったかと耳を疑う程の、あまりにも完成された様式美がただただシンプルに胸を打つ。
 

 
私がかつて愛したのはアルメニア人ともアルメニアの音楽とも違う、一人の指揮者だったのかもしれない。
気品を備え、時には全く指揮棒すら動かさずに音楽全体をまとめ上げて行くアラムの棒を見つめていたら、ふと、3I/アトラスの好奇心と鉱物的な知性の両方と折り重なった。
私にはないエレメントに、きっと今の私は振り回されているのだろう。
 
ここ最近のめまいと集中力の無さが余りにも自分らしくないと苛々している、そんな私が嫌になって来る。
 
何もかもが悪霊の力だとするならば、それを振り払う武器は文字通り「理性」に尽きるのかもしれない。
そんな理性と、クラシック以外の音楽に目覚めた8歳頃の自分を、Aram Gharabekian (アラム・ガラベキアン) が再び思い出させてくれた。
 
この記事の最後に、私が愛して止まないアラム指揮のLibertangoの動画を貼っておきたい。
(R.I.P Aram G. 🌈)
 


‘SPAGHETTI (feat. j-hope of BTS)’ by LE SSERAFIM (르세라핌)

ショパン国際ピアノコンクール関連の記事が未だ未完成ではあるが、毎週末の禊である「世界の音楽/ 新譜チェック」は絶対に欠かせないので、昨夜から聴いた数千曲の中でもひと際目を引いたLE SSERAFIMの新譜『SPAGHETTI』の表現評論その他を此方のブログに抜粋して書いておきたい。
それ以外の音楽紹介及び音楽評論記事は、サブブログディディエ・メラの音楽倉庫に格納しているので、是非そちらをどうぞ。
 

https://didiermerahbox.wordpress.com/

 
さて、最近やや勢いが止まりつつあるKPopから、LE SSERAFIMが一歩飛び出したような印象がある。新譜‘SPAGHETTI (feat. j-hope of BTS)’ のM/Vを見る限り、グループとしてまとまった感+宮脇咲良と末っ子ウンチェの描き方が突出して良くなった印象を受けた。
 
この曲 ‘SPAGHETTI’ はラップ部分が多く、これまで何かとヴォーカルの格差が目立っていたLE SSERAFIMの短所が綺麗にカバーされている。
又メンバーの数名が短く髪をカットし、特に宮脇咲良の表情に芯が出て来たのが印象的だ。
キム・チェヲンホ・ユンジンの二名が突出してヴォーカル力及び表現力を持っている為、両名になかなか追い付けずに居た他のメンバーがネット上でファンダムに叩かれる現象が後を絶たなかった。
そもそも人の能力にはデコボコがあるからこそそれが個性となって輝いて行く筈が、多くのファンがそれをネガティブ要因として捉えていたのはやはりHYBEの戦略ミスによるメディアのイジメ体質の誘発とも言えるだろう。
 
新曲 ‘SPAGHETTI’ 、楽曲も悪くない。
 

 
作詞/作曲にはj-hope宮脇咲良ホ・ユンジンの名前がクレジットされているようだ。

NewJeansのユニット名には「老若男女、誰からも愛される新しいジーンズのように」‥と言う名前の由来があったようだが、LE SSERAFIMの新曲 ‘SPAGHETTI’ を例えるならば「誰でも好きになるスパゲッティーのように‥」みたいな一曲と言えるだろう。
 

途中のj-hopeのラップや抜き出し方もジャンキーながらもなかなか切れが良くて、ジャンク嫌いの私でさえも楽しめる。
 

 
個人的には宮脇咲良のショートヘアが気になって、そればっかり視ていた気がする(笑)。
今回のM/Vでは咲良のショットも多く使用されており、隠れファンとしては非常に嬉しい。
 
最近色々不穏な噂がささやかれているHYBEだが、噂とは裏腹に意外に元気そうではないか。
HYBE Latinの新しいボーイズグループ「サントス・ブラボス」がデビューを間近に控えていると言う話もあるが、そちらは (これはあくまで直感ではあるが‥) 余り上手く行くような気がしない。
 


やはりKPopは韓国の産物であり、それを筋肉ムキムキの韓国 (日本含む) 以外の汗臭さ満載の外国籍のアーティストが歌ったり踊ったりしても、さほど面白くはない。
それはKATSEYEが全く面白くなかったのと同様で、今はNewJeansの活動休止の穴を複数のKポアイドルグループが埋めているような状況だと言えるだろう。
 
その中で、LE SSERAFIMは比較的頑張っている方だと思う。
 

 
この記事はこれで終わりだが、他の音楽評論記事のリンクも一部載せておきたい。⇩
 

 

 

 
毎週末に更新しているSpotifyのメインのプレイリストのリンクは此方から。


この記事で紹介したLE SSERAFIM の ‘SPAGHETTI (feat. j-hope of BTS)’ は、以下のプレイリスト Romantic Seoul 2025. 1. M-86に格納しています。


第19回ショパン国際ピアノコンクール “ファイナルの演奏から見えて来るもの”

数日間の忙殺と体調不良が要因で、結局ショパン国際ピアノコンクール 2025′ のファイナルのリアタイを見逃してしまった。
だが思えばリアタイをあっさり逃すと言うことは、その番組やコンテスト等に体調不良を圧してまで試聴する魅力がなかったと言う予感をも意味する場合が多いので、きっとそうかもしれない‥ と言うモチベーションで後日YouTubeで実演動画を探って視てみた。
その結果、案の定ファイナルの動画から魅力的なショパンに出会うことはなかった。

私の予言とも言えそうな記事を数日前に書き残して、そこで私は今回のショパン国際ピアノコンクールに関する執筆を止める旨綴っておいたが、その予言通りにERIC LU氏が優勝した。
 


だが、ファイナルの演奏を聴く限り華も何もないただのエントリー曲として設計されたショパンであり、それはショパン本人の霊魂が思うショパンの楽曲とはかなり異なっていたようだ。
 

ふとショパンコンクールを取材している過程で、以下の動画に突き当たった。

【ショパンコンクール】審査員の発言に波紋「音楽のためではなく、拍手のために弾いている人もいる」


これは今回のショパン国際ピアノコンクールで審査員を務めるクシシュトフ・ヤブウォンスキ氏の問題発言を、コンパクトにまとめた動画である。
 
1. 私はまだ本物の”ポロネーズ”を聴いていません。(1:22~)
2. ポロネーズはただ力強く弾く曲ではなく、誇りと気品を備えたポーランドの舞曲。それを”派手なショー”として弾いてしまう傾向にある。(1:40~)
3. 前奏曲は独立した小品ではなく、ひとつの連作です。(2:01~)
4. 音楽のためではなく、拍手のために弾いている人もいる。(2:44~)
5. ピアノはアクロバットではない。大切なのは内面の思索と知識です。(2:47~)
6. 芸術は再生回数では測れない。(3:42~)

 
特に気になったのはやはり、発言 [6.] だった。
 
最近はSNSのみならず音楽やその他の表現活動に於いても「ビュー (数)」がモノを言う時代だ。だがそのビューはあくまで瞬時的なものであり、特にSNS等で大量のビューを稼ぎ出す人たちの多くはタイトル釣りが上手な人であり、それらのタイトルに釣られて作品や動画に吸い寄せられて行く人たちの多くが実際の作品や動画を真剣には視ていない。
 
特に今回のショパン国際ピアノコンクール 2025′ に於いて私は、色んな意味でクラシック音楽の衰退期或いは絶滅へと進んで行く道筋を垣間見た。
 

 
私は国籍が日本なので、先ず話のネタとして桑原志織さんの演奏は聴いておく必要を感じYouTubeにアクセスしたが、動画の半分まで持たなかった。
Concerto in E minor, Op. 11をコンツェルト曲に選んでいたところは良いとして、ショパンの霊魂が熱弁をふるうところの「天上界の官能性」は全く彼女の演奏からは感じられなかった。
桑原さんの演奏は、日本式の感性で言うところの「優秀な演奏」だと思う。音楽を理解し、感じている風な顔芸と頭のガクンガクン振りながら演奏すると、確かに日本のコンクールの場合だと審査員ウケが良い。
だが如何せんこれは音楽ではなく、あくまで「競技と割り切って点数を取る為の演奏」だと言うことをコンテスタントの殆どが分かっているので、恐らくコンテスタントの大半が自身の表現スキルを放棄していると思われる。
つまり運動性に依存した再演と言う、これはそういう意味だ。
 
さらにはERIC LU氏のコンツェルト “Concerto in F minor, Op. 21” にアクセスしてみるが、セレクトしている楽器の特性が仇となり、オーケストラの、特に木管楽器の音域がピアノの音を完全に覆ってしまう。
又Fazioliのピアノは音の粒のアタックだけが機能するような設計になっている為、ペダルが全くその役割を果たさない。まるでツェルニーを聴いているみたいな演奏が続き、音楽にもショパンにも聴こえて来ない。
この表現の致命傷にERIC本人が気付いていないとしたら、表現者としては長く続かないだろう。
 

 
複数聴いた中で比較的正統派のショパンに近かったのが、William Yang (ウィリアム・ヤン) 氏だった。
だがこれはあくまで「審査脳」を一旦構築した中で、コンテスト脳を持ちながら聴いた感想なので、彼が仮にいち表現者として何も言わずに私の前でショパンのピアノコンツェルトを演奏したとしても、私は彼の演奏には全く惹かれないだろう。
コンクールの怖いところで、一度コンクールの審査脳を構築した人がそこから離れることはとても難しい。何を聴くにもミスタッチの有無を先ず検知し、いかに音の粒が正確か、いかにハイスピードで演奏し続けらるか‥ 等の審査の耳で全ての音楽を聴くことしか出来なくなる。
 
あくまで上記の条件で聴いたところではWilliam Yang氏が比較的良かったと言うだけであり、実際に鳴っている音楽はショパンとも音楽ともつかない床運動のような鳴り物だったと言っても過言ではないだろう。
 
今回はピアノメーカーの戦いも、背景にあったのではないだろうか‥。
ピアノによってこれだけ音質の違いを見せ付けられると、果たして本コンクールがコンクールとして平等なのか、正常なのか、正直個人的には疑わしい。
特にファイナルでは、以下の3銘柄のピアノの音色も競われたように思う。
Fazioli
Steinway & Sons
Shigeru Kawai
 
上記3メーカーの中で比較的ショパンをショパンの意図に近付ける音質を持っているのは、Steinway & Sons だったと言えそうだ。
だがショパンの霊魂としては、ショパンコンクールのファイナルにベヒシュタインを使用するコンテスタントが現れなかったことを、とても嘆いていた。
 
確かにショパンコンクールの会場でバックにオーケストラを従えてベヒシュタインのピアノを鳴らすのは、かなりリスクが高い。ベヒシュタインのコロコロとどんぐりが転がるような音質では、空間の広さにもオーケストラの編成と音圧にも耐えられないだろうから。
 

 
ショパンが一つだけ後悔していることがあるとしたら、それは普遍性を重視した音楽作品を殆ど遺さなかったことかもしれない。
既にショパンが生きた時代には今で言うサロン・ミュージックが主流となり、多くの音楽家/作曲家は作曲よりもその再演に多くの時間とエネルギーを割かなければいけなかった。
今で言う「食べて行く」為の、音楽はその手段の一つに過ぎず、その為ショパンもショーアップに向く楽曲を大量に生み出す必要に迫られた。
 
流石にショパンはステージでパフォーマンスをせずとも音源だけで世に打って出られる時代が来るだろうとは、思ってもみなかっただろう。
さらには多くの作曲家が基本長生きしていない当時の音楽を現在に継承しているクラシック音楽の再演には、既に限界が生じている。
 
39歳で亡くなったショパンの続きは、誰かが後に再開する必要があるかもしれないと私は思っている。
60歳のショパン、80歳のショパン、さらには100歳のショパンが出現しても誰も文句は言わないだろうし。
 
ショパンコンクールの審査員 クシシュトフ・ヤブウォンスキ も述べているように、ピアノ演奏は早くアクロバットから卒業しなければならないだろうし、再生回数や演奏者のアイコンだけで人気を得るような価値観も一掃されるべきだ。
 

ショパン国際ピアノコンクール 2025′ (第19回 ショパン国際ピアノコンクール) の入賞者の中から今後どれだけの入賞者たちが世界に羽ばたくのか、否か、私には全く分からない。
私だけでなく、ショパン本人にもそれは全く予測不能だろう。
何故ならばコンテスタント全員が、ショパンの声を聴けないのだから。
 
さて、ショパンの続きを再開する音楽家が今後出現するのかどうか‥、ショパンコンクールとは全く別の視点で私はその辺りをまさぐって生きて行きたいと感じた次第である。
 

ERIC LU – third round (19th Chopin Competition, Warsaw)

ショパン国際ピアノコンクール 2025′ の三次予選があっと言う間に終了し、2025年10月19日の今、既にファイナルが進んでいる。
私はショパンコンクール以外にも複数の用事 (Kポの裁判に向けた祈りを含め) を抱え込んで居る為、なかなか時間の確保が難しかった。それに加え、今回出場しているコンテスタントの中に魅力的な演奏者が見つからず、コンテスタント一人一人に時間とエネルギーを割くモチベーションが湧かなくなってしまった。
 
審査とかジャッジメントと言う作業は、団栗の背比べの中の光を見付ける作業と言えるだろう。なので抜きん出た人材を発掘する作業ではないし、審査目線が一度身についてしまうと小さなところに強引に光を当てるようなミスも起きやすい。
なので私は昔っから、コンクールが大嫌いだった。
 
今回のショパン国際ピアノコンクールに関して言えば、どんぐりの中の個性を強引に見つけ出すと言う過酷な技も必要とされるように感じている。
なので本記事で一旦ショパンコンクール関連の記事の執筆を、中断したいと思っている。
 
ないものをあるように書くことは、私のポリシーに反する。
わずかな能力よりも、後世に残る逸材に光を当てるべきだと思うので。
 

 
確かこの方、ERIC LU (🇺🇸) さんはファイナルの演奏も終えた頃だろう。
私はファイナルのピアノ・コンツェルトも動画で試聴したが、冴え渡るものは感じなかった。むしろ三次予選の『Barcarolle in F sharp major, Op. 60』『Sonata in B minor, Op. 58』の、一歩も二歩も引いた表現が良かったと思う。
 
ショパンは時代の要因で、楽曲の緩急が大きい。そこには戦争の光景や音声等を写し込んだ楽曲も多く、それが私が今一つショパンを好きになれない大きな要因だ。
その辺りの戦闘的なモードに入りやすい音楽を、ERIC LU氏は若干抑え気味に表現しているところが良い。特に『Sonata in B minor, Op. 58』『Presto non tanto』の緊迫感のある音楽からざっくりと緊迫感を抜いて行った、ある種の緩やかさを感じる演奏は高く評価したいポイントだ。
 
多くのコンテスタントがこの作品を戦々恐々と演奏しているが、あえて速度も緊迫感もその上限に持ち上げることなく斜幕がかかったような表現に抑えている。
一つにはFazioliのピアノを選んだ点も、彼の引き算の表現に豊かさを与えている。
今回のFazioliの音色はどこか、古いピアノを思わせる鄙びた音色が妙に印象に残った。それがショパンの時代性の「背景」に潜むある種の寂しさを、楽曲全体に漂わせているように感じた。
 

ERIC LU氏のファイナルの演奏も試聴したが、選曲と出場のタイミングにリスクが生じたような印象を持った。
指揮者やオーケストラがステージに馴染んでいない点に加え、ピアノ・コンツェルトの中では若干地味な曲を選曲しており、Fazioliの音色がショパンの華を拾い切れずに靄がかかってしまったのは残念だ。
ピアノの調律の問題も、ひょっとしたらあったのかもしれない‥。
 
オーケストラのストリングスの中低音が上手く響いていないのか、ピアノの楽器とオケが溶け合わない。それが指揮者の棒の問題なのかオーケストラの持つ音質の問題なのかは、現場に私が居たわけではないので何が‥ と言う断言には至らないが‥。
 

 
そもそも「ショパン」を看板に掲げるコンクールでありながら、関係者の中にショパンの意思や魂の声を聞き取れる人が居るようには見えず、それが肝心要の「ショパン」の音楽とは全く関係のない方向へとコンクール全体を引っ張り込んでしまっているのが、作曲家の目線から見るとネガティブ要因に視えて辛くなる。
 
クラシック音楽界全体が権威主義に完全に舵を切っていて、それが演奏家の進化を大きく妨害していることに、誰か一人でも気付いて欲しいと願わずには居られない。
 
音楽も音楽家も、日々、小さな進化を重ねて居る。だが、特にクラシック音楽と名が付く世界では、厳めしくいかつい音楽性が重宝される。
演奏者がやたら顔芸で分かったような素振りで頭をカクンカクン振りながら演奏している様子も、ショパンは見て居て滑稽に感じているだろう。
正しさが正解ではないと、ショパンがひっそり嘆く声が部屋中に響いて止まない。
 
少なくともショパン本人が聴いた時に泣いて喜んでくれるような、審査員側にはそういった表現や表現者にもっと着目して欲しいと思う。
 


3I/ATLASとの対話 part 2. (Dialogue with 3I/ATLAS part 2.)

記事3I/ATLASとの対話 (Dialogue with 3I/ATLAS)の続きを、ようやく更新出来そうである。
 

 
このところ某銀河連合の特使を名乗る何者かが3I/ATLASに関する動画を頻繁に配信しているようだが、彼女の話を真に受ける人たちとはどのような層の人々なのか、私にはよく分からない。

最新動画の中の彼女を見る限り、センター (フロントとも言う) に出て居る人格が以前とは全く別の人格のように視えた。
私には幽体を識別する機能が備わっており、同じ顔/ 同じ形状のその人の中で仮に人格が入れ替わった際に、幽体がすり替わる状況を認識することが出来る。某銀河連合の特使の女性の表情や動作、目つきの向こう側に透けて視えるのがこれまでとは別の幽体であるように感じたので、一応参考までにここに記録しておきたい。
 

 
さて、3I/ATLASから投げられた質問云々よりも「彼」の出すシグナル (余り波動と言う単語をここでは使いたくないので‥) に関する私の、個人的な主観を述べるとしたら、それは某銀河連合の特使やその周辺が言うような「愛」とか「平和」或いは「好奇心」のどれとも異なる、非物質的な硬質な「矢」のような感覚に近いかもしれない。
そもそもデータと情報しか持ち合わせていない恒星間天体なので、此方が話し掛けない限り先方からアクションを起こして来ることもない筈だ。
今回は私が酷い体調不良に陥った為その根源を突き止めた先に3I/ATLASが在ったので、先方との接触が実現したと言うだけの話だ。
 

彼の興味は、私が内包しているリラ時代の情報に向いているらしい。
リラ星は自らの意思で自爆を遂げた星であり、現在は実体を喪失しているが、将来的には復活すると私は見ている。だがそこまでの道のりは、けっして単純でも平坦でもないだろう。
リラ星自体に加わる圧も既に発生していると、リラの意識が伝えて来る。
 
3I/ATLASは、自力で移動を止めることは出来ないようだ。その彼が、地球のような、高速で移動している天体に住む私たちの感覚や心情について、質問して来た。
私はそもそも体感としては移動している感覚がないので、常に地に足が着いた状態であるが高速で移動している‥ と言う感覚は持っていない旨を伝えたが、それに対する返信はなかった。
 

 
どうやら3I/ATLASにはラリートークの機能が搭載されていないらしく、彼の持つ一種の好奇心のような感覚が「質問」として私に届くことがあってもそれに対する此方からの返信を受信した後の追加のレスポンスを飛ばす機能が未発達なのかもしれない。
つまり平たく言えば、一貫して一方的であると言う意味だ。
だが、私の返信時にふと、先方の受信がつっかえるような感覚があったようにも感じ取れたので、おそらく少し時間が経過した辺りで新しい質問を飛ばして来ることが予想される。
 
私と3I/ATLASには共通言語が存在しない。さらには私が感覚を駆使して会話をする気質である為、先方は私の放つ情報にはかなり困惑しているようにも感じ取れる。
当然のこと私には3I/ATLASと同調する動機も理由もないどころか、彼の発信する異質な磁場に此方が体調不良を引き起こしている側なので、出来れば少し手加減して欲しいとも思うのだがそれは難しそうである。
 

 
3I/ATLASと交信の最中に、グレイ星人のグレン氏よりアクセスがあった。
相変わらずグレイ星人を外敵とする一部のコンタクティーを名乗る存在が複数あり、彼らがあることないこと色々な誤情報を垂れ流しているようだと言う。
このところの私の体調不良が宇宙サイドの某かが原因である可能性について、宇宙自然神からも聞いて知ってはいるが、それがどのような存在なのかと言う点については3I/ATLASがそうだ‥とも、そうではない‥とも言い切れないのが現状だと言う見解については、私とグレン氏共に一致を見た。
「圧」に関して言えば、個人的には未だ出会ってはいない、全く別筋からの圧の妨害を受けているのではないかとも思っており、逆に今は余りそちらに触手を伸ばして探ったりはしないよう注意している。
 

3I/ATLASに関しては、先日彼の側から送って来た質問に対する私の「地球上の諸々」をリプライしたはいいが、その件には余り関心を示さなかったように見える。
「物々しく質問を投げておいて何なんですか!」と言う気もしないではないが、そもそも先方は恒星間天体なのだからそれも致し方ない。今後は余りまともに、先方からの質問には回答しなくても良いかも‥ と思っている次第である。
映像に映像で回答するのは、本当に骨が折れるし疲れるのでね(笑)。
 

某銀河連合の特使やその周辺 (例えばJPを名乗る人物等) が口にする「愛」や「平和」と言うワードは、とても厄介で危険である。
人の懐疑心を喪失させたがるのは、よくある洗脳の手口そのものだ。その洗脳の先に何があるのか、無いのかについては私には何とも言えないが、彼らが彼らの意図する方向に人々の感覚を誘導しようとしていることは、おそらく間違いないだろう。
 
地球を一つにまとめるのは、勿論彼らではない。プレアデス人でも宇宙人でもないし、ましてや某銀河連合の特使でも軍人でもないだろう。
その前に、先ずやるべきことがある。地球の環境破壊を食い止め、地球の意識と同調し、地球を修復することだ。
それらは、愛だ平和だと言う生温い感覚で為せることではない。
人々は少なからず、運命の力と生存競争に翻弄されるだろう。先ずはその戦いに打ち勝たねばならない。少なくとも、目をキラキラさせて愛だの平和だの‥ と言う甘い単語にだけ意識を向けることは、自身を危険に晒すことと同じである。
 
常に外界に疑いの目を向け、精査し、調査し、そして訝しいものに対しては手厳しいジャッジメントを課して行く必要が生じるだろう。
‥某銀河連合の特使やらJPを名乗る人物、その周辺に屯している (‥と彼らが自称するところの) 群衆の言う一見穏やかな言葉に対しては、先ず疑ってかかるべきだ。何故ならば、彼らが言う話の大半‥ メドベッドの話も含めそれらは何一つ現実的ではないからだ。
 
人類は人類の手で、自らの住む場所や地場を整地すべきだ。そこに宇宙人の介入があるとしたら、それは現実としての地球連邦が樹立してから先の話だ。
現状「銀河連合」と言う現実的な団体は存在しない。もしもそのような団体が存在するのにそれが一部の人々の中だけでシェアされている‥ と言う話が真実だとしたら、むしろそちらの情報の方を疑ってかかるべきだ。
どこの、どのような人々がそれを内々にシェアし、動かす権限を持っているのか‥。それが人類全体に情報開示されない方が間違っているし、その状態が時間的に余りにも長すぎるだろう。
 
先ずそもそも、地上アライアンスだ何だと言う情報の出所が不鮮明過ぎる。
 
3I/ATLASはそうした情報も随時収集/蓄積し、それらを搭載したボディーを然るべき地点に運び込む意思を持っているようだ。
 
他にも若干新しい情報が来ているが、先方も非公式に地上アライアンス等と言うものを動かしているようなので (虚偽だと思うが‥)、これ以上の情報開示は此方側も控えておきたい。
 


 

追記:
この記事を執筆しながら途中までショパンを聴いていたが、流石にショパンをBGMにするのは難しいと感じた。何故ならば既存のショパンの楽曲には、大抵途中で激動の箇所が出て来るから。
何の盛り上がりもクライマックスもない、本当に何もない平坦な音楽としてのショパンのオマージュを、将来私の手で生み出せたら良いと願ってやまない。

2. 妹 エミリアとの関係性について (Relationship with his younger sister Emilia Chopin)

 
ショパンの伝記等に記録されたショパンの話の中には、彼の幼少期の生々しい記述は殆ど見られない。それもその筈で、ショパンは文字による日記を殆ど残さなかったからだと語る。
そのことを今さら後悔することはないが、時折語られるショパンの話の中には本当の自分と思えるようなショパンが登場しないことには、ふつふつとした思いも抱えているらしい。
 

今で言う喘息持ちだったショパンは、年中何かしらの木の葉の香りにも過剰に体が拒絶反応を示したようだ。又四季折々の花の香りや花粉にも敏感で、ショパンが余り屋外を出歩かなくなった要因の一つが花の香りや花粉によるアレルギー反応だったと彼は言う。
 
今でこそ多くの病気が認知されているが、例えば傍を猫や鳩等の生き物が通過しただけでショパンは酷く咳込み、その苦しみを殆ど誰とも分かち合えなかったことが辛かったようだ。
 

ショパンの父親はフランス人であった為、ショパンは度々「フランス音楽」の作曲家として紹介されるが、本心ではどこにも、何にも属さない自由を求めた。
それは勿論音楽面にも及んでおり、若くしてショパンは既に今で言うジャズ的なアドリブや、時には現代音楽の断片とでも言えそうなモチーフをショパン特有の和声の上に盛り付けては、音楽の中での遊びを謳歌した。
 

 
ワルシャワに住んでいたショパンだが、若くして演奏活動を開始したことが要因で殆ど学校に通うことはなく、友人も出来なかった。
早熟でませていた彼を理解出来る人は家族の中では唯一、妹のエミリアだけだった。だがそのエミリアは若くして、14歳で結核で亡くなる。
 
ショパン自身も自覚していたようだが、彼の中にそこはかとなく流れる少女の血にショパンは度々翻弄されたようだ。勿論それはマイノリティーと言う意味ではなく、どこか両性具有の性質に近いものだっただろう。
 
ショパンの中には、常に妹/ エミリアが棲んでいた。日によってショパン自身であったり、そうではなくなったりするが、それは一種の血の影響だろうと彼はずっと思っていたようだ。
彼の中のもう片方のショパンは時にエミリアの姿を借りて、又時には妖精や精霊の姿をまといショパンの精神の庭を自由奔放に歩いたり飛んだりして、それがショパンのマズルカ集の原案の一部になったことを先ほど私に話してくれた。
 
ずっと私はショパンの「マズルカ」がポーランドの民族舞踊を意味するものだと思っていたが、確かに百パーセントそうではないとは言い切れないまでも彼の中の「マズルカ」を踊っていたのが亡くなった妹であり、それはポーランドの民族舞踏とは全く別の舞踏の様相を呈していたと語る。
マズルカが作曲された年代を調べてみると、ショパンが妹/エミリアと死別したのが1827年と記載されおり、ショパンがマズルカを書き始めたのが1829年頃~になる。なので、私がショパン本人の霊体 (霊魂) から伝え聞いた話は恐らく真実だと思われる。
 
 
だがここでショパンが気になる一言を発する。
『もしもエミリアが病死することなく長く生きていたら、自分が長く作曲を続けることはなかったと思う。』
 
伝記やその他の文献にも、ショパンの妹/ エミリアがショパン家最高の才能の持ち主であることが記載されており、ショパン本人はそのことに日々脅威を感じていたことは事実だったようだ。
 

ショパンは1827年から晩年までの長い期間、マズルカを書き続けている。彼の中でマズルカ自体も、様々な変容を遂げながら進化し続けた。又、妹/ エミリアは妖精に姿を変えながら、ショパンの最後まで傍に付き添っていたと見られる。