第19回ショパン国際ピアノコンクール “ファイナルの演奏から見えて来るもの”

数日間の忙殺と体調不良が要因で、結局ショパン国際ピアノコンクール 2025′ のファイナルのリアタイを見逃してしまった。
だが思えばリアタイをあっさり逃すと言うことは、その番組やコンテスト等に体調不良を圧してまで試聴する魅力がなかったと言う予感をも意味する場合が多いので、きっとそうかもしれない‥ と言うモチベーションで後日YouTubeで実演動画を探って視てみた。
その結果、案の定ファイナルの動画から魅力的なショパンに出会うことはなかった。

私の予言とも言えそうな記事を数日前に書き残して、そこで私は今回のショパン国際ピアノコンクールに関する執筆を止める旨綴っておいたが、その予言通りにERIC LU氏が優勝した。
 


だが、ファイナルの演奏を聴く限り華も何もないただのエントリー曲として設計されたショパンであり、それはショパン本人の霊魂が思うショパンの楽曲とはかなり異なっていたようだ。
 

ふとショパンコンクールを取材している過程で、以下の動画に突き当たった。

【ショパンコンクール】審査員の発言に波紋「音楽のためではなく、拍手のために弾いている人もいる」


これは今回のショパン国際ピアノコンクールで審査員を務めるクシシュトフ・ヤブウォンスキ氏の問題発言を、コンパクトにまとめた動画である。
 
1. 私はまだ本物の”ポロネーズ”を聴いていません。(1:22~)
2. ポロネーズはただ力強く弾く曲ではなく、誇りと気品を備えたポーランドの舞曲。それを”派手なショー”として弾いてしまう傾向にある。(1:40~)
3. 前奏曲は独立した小品ではなく、ひとつの連作です。(2:01~)
4. 音楽のためではなく、拍手のために弾いている人もいる。(2:44~)
5. ピアノはアクロバットではない。大切なのは内面の思索と知識です。(2:47~)
6. 芸術は再生回数では測れない。(3:42~)

 
特に気になったのはやはり、発言 [6.] だった。
 
最近はSNSのみならず音楽やその他の表現活動に於いても「ビュー (数)」がモノを言う時代だ。だがそのビューはあくまで瞬時的なものであり、特にSNS等で大量のビューを稼ぎ出す人たちの多くはタイトル釣りが上手な人であり、それらのタイトルに釣られて作品や動画に吸い寄せられて行く人たちの多くが実際の作品や動画を真剣には視ていない。
 
特に今回のショパン国際ピアノコンクール 2025′ に於いて私は、色んな意味でクラシック音楽の衰退期或いは絶滅へと進んで行く道筋を垣間見た。
 

 
私は国籍が日本なので、先ず話のネタとして桑原志織さんの演奏は聴いておく必要を感じYouTubeにアクセスしたが、動画の半分まで持たなかった。
Concerto in E minor, Op. 11をコンツェルト曲に選んでいたところは良いとして、ショパンの霊魂が熱弁をふるうところの「天上界の官能性」は全く彼女の演奏からは感じられなかった。
桑原さんの演奏は、日本式の感性で言うところの「優秀な演奏」だと思う。音楽を理解し、感じている風な顔芸と頭のガクンガクン振りながら演奏すると、確かに日本のコンクールの場合だと審査員ウケが良い。
だが如何せんこれは音楽ではなく、あくまで「競技と割り切って点数を取る為の演奏」だと言うことをコンテスタントの殆どが分かっているので、恐らくコンテスタントの大半が自身の表現スキルを放棄していると思われる。
つまり運動性に依存した再演と言う、これはそういう意味だ。
 
さらにはERIC LU氏のコンツェルト “Concerto in F minor, Op. 21” にアクセスしてみるが、セレクトしている楽器の特性が仇となり、オーケストラの、特に木管楽器の音域がピアノの音を完全に覆ってしまう。
又Fazioliのピアノは音の粒のアタックだけが機能するような設計になっている為、ペダルが全くその役割を果たさない。まるでツェルニーを聴いているみたいな演奏が続き、音楽にもショパンにも聴こえて来ない。
この表現の致命傷にERIC本人が気付いていないとしたら、表現者としては長く続かないだろう。
 

 
複数聴いた中で比較的正統派のショパンに近かったのが、William Yang (ウィリアム・ヤン) 氏だった。
だがこれはあくまで「審査脳」を一旦構築した中で、コンテスト脳を持ちながら聴いた感想なので、彼が仮にいち表現者として何も言わずに私の前でショパンのピアノコンツェルトを演奏したとしても、私は彼の演奏には全く惹かれないだろう。
コンクールの怖いところで、一度コンクールの審査脳を構築した人がそこから離れることはとても難しい。何を聴くにもミスタッチの有無を先ず検知し、いかに音の粒が正確か、いかにハイスピードで演奏し続けらるか‥ 等の審査の耳で全ての音楽を聴くことしか出来なくなる。
 
あくまで上記の条件で聴いたところではWilliam Yang氏が比較的良かったと言うだけであり、実際に鳴っている音楽はショパンとも音楽ともつかない床運動のような鳴り物だったと言っても過言ではないだろう。
 
今回はピアノメーカーの戦いも、背景にあったのではないだろうか‥。
ピアノによってこれだけ音質の違いを見せ付けられると、果たして本コンクールがコンクールとして平等なのか、正常なのか、正直個人的には疑わしい。
特にファイナルでは、以下の3銘柄のピアノの音色も競われたように思う。
Fazioli
Steinway & Sons
Shigeru Kawai
 
上記3メーカーの中で比較的ショパンをショパンの意図に近付ける音質を持っているのは、Steinway & Sons だったと言えそうだ。
だがショパンの霊魂としては、ショパンコンクールのファイナルにベヒシュタインを使用するコンテスタントが現れなかったことを、とても嘆いていた。
 
確かにショパンコンクールの会場でバックにオーケストラを従えてベヒシュタインのピアノを鳴らすのは、かなりリスクが高い。ベヒシュタインのコロコロとどんぐりが転がるような音質では、空間の広さにもオーケストラの編成と音圧にも耐えられないだろうから。
 

 
ショパンが一つだけ後悔していることがあるとしたら、それは普遍性を重視した音楽作品を殆ど遺さなかったことかもしれない。
既にショパンが生きた時代には今で言うサロン・ミュージックが主流となり、多くの音楽家/作曲家は作曲よりもその再演に多くの時間とエネルギーを割かなければいけなかった。
今で言う「食べて行く」為の、音楽はその手段の一つに過ぎず、その為ショパンもショーアップに向く楽曲を大量に生み出す必要に迫られた。
 
流石にショパンはステージでパフォーマンスをせずとも音源だけで世に打って出られる時代が来るだろうとは、思ってもみなかっただろう。
さらには多くの作曲家が基本長生きしていない当時の音楽を現在に継承しているクラシック音楽の再演には、既に限界が生じている。
 
39歳で亡くなったショパンの続きは、誰かが後に再開する必要があるかもしれないと私は思っている。
60歳のショパン、80歳のショパン、さらには100歳のショパンが出現しても誰も文句は言わないだろうし。
 
ショパンコンクールの審査員 クシシュトフ・ヤブウォンスキ も述べているように、ピアノ演奏は早くアクロバットから卒業しなければならないだろうし、再生回数や演奏者のアイコンだけで人気を得るような価値観も一掃されるべきだ。
 

ショパン国際ピアノコンクール 2025′ (第19回 ショパン国際ピアノコンクール) の入賞者の中から今後どれだけの入賞者たちが世界に羽ばたくのか、否か、私には全く分からない。
私だけでなく、ショパン本人にもそれは全く予測不能だろう。
何故ならばコンテスタント全員が、ショパンの声を聴けないのだから。
 
さて、ショパンの続きを再開する音楽家が今後出現するのかどうか‥、ショパンコンクールとは全く別の視点で私はその辺りをまさぐって生きて行きたいと感じた次第である。
 

ERIC LU – third round (19th Chopin Competition, Warsaw)

ショパン国際ピアノコンクール 2025′ の三次予選があっと言う間に終了し、2025年10月19日の今、既にファイナルが進んでいる。
私はショパンコンクール以外にも複数の用事 (Kポの裁判に向けた祈りを含め) を抱え込んで居る為、なかなか時間の確保が難しかった。それに加え、今回出場しているコンテスタントの中に魅力的な演奏者が見つからず、コンテスタント一人一人に時間とエネルギーを割くモチベーションが湧かなくなってしまった。
 
審査とかジャッジメントと言う作業は、団栗の背比べの中の光を見付ける作業と言えるだろう。なので抜きん出た人材を発掘する作業ではないし、審査目線が一度身についてしまうと小さなところに強引に光を当てるようなミスも起きやすい。
なので私は昔っから、コンクールが大嫌いだった。
 
今回のショパン国際ピアノコンクールに関して言えば、どんぐりの中の個性を強引に見つけ出すと言う過酷な技も必要とされるように感じている。
なので本記事で一旦ショパンコンクール関連の記事の執筆を、中断したいと思っている。
 
ないものをあるように書くことは、私のポリシーに反する。
わずかな能力よりも、後世に残る逸材に光を当てるべきだと思うので。
 

 
確かこの方、ERIC LU (🇺🇸) さんはファイナルの演奏も終えた頃だろう。
私はファイナルのピアノ・コンツェルトも動画で試聴したが、冴え渡るものは感じなかった。むしろ三次予選の『Barcarolle in F sharp major, Op. 60』『Sonata in B minor, Op. 58』の、一歩も二歩も引いた表現が良かったと思う。
 
ショパンは時代の要因で、楽曲の緩急が大きい。そこには戦争の光景や音声等を写し込んだ楽曲も多く、それが私が今一つショパンを好きになれない大きな要因だ。
その辺りの戦闘的なモードに入りやすい音楽を、ERIC LU氏は若干抑え気味に表現しているところが良い。特に『Sonata in B minor, Op. 58』『Presto non tanto』の緊迫感のある音楽からざっくりと緊迫感を抜いて行った、ある種の緩やかさを感じる演奏は高く評価したいポイントだ。
 
多くのコンテスタントがこの作品を戦々恐々と演奏しているが、あえて速度も緊迫感もその上限に持ち上げることなく斜幕がかかったような表現に抑えている。
一つにはFazioliのピアノを選んだ点も、彼の引き算の表現に豊かさを与えている。
今回のFazioliの音色はどこか、古いピアノを思わせる鄙びた音色が妙に印象に残った。それがショパンの時代性の「背景」に潜むある種の寂しさを、楽曲全体に漂わせているように感じた。
 

ERIC LU氏のファイナルの演奏も試聴したが、選曲と出場のタイミングにリスクが生じたような印象を持った。
指揮者やオーケストラがステージに馴染んでいない点に加え、ピアノ・コンツェルトの中では若干地味な曲を選曲しており、Fazioliの音色がショパンの華を拾い切れずに靄がかかってしまったのは残念だ。
ピアノの調律の問題も、ひょっとしたらあったのかもしれない‥。
 
オーケストラのストリングスの中低音が上手く響いていないのか、ピアノの楽器とオケが溶け合わない。それが指揮者の棒の問題なのかオーケストラの持つ音質の問題なのかは、現場に私が居たわけではないので何が‥ と言う断言には至らないが‥。
 

 
そもそも「ショパン」を看板に掲げるコンクールでありながら、関係者の中にショパンの意思や魂の声を聞き取れる人が居るようには見えず、それが肝心要の「ショパン」の音楽とは全く関係のない方向へとコンクール全体を引っ張り込んでしまっているのが、作曲家の目線から見るとネガティブ要因に視えて辛くなる。
 
クラシック音楽界全体が権威主義に完全に舵を切っていて、それが演奏家の進化を大きく妨害していることに、誰か一人でも気付いて欲しいと願わずには居られない。
 
音楽も音楽家も、日々、小さな進化を重ねて居る。だが、特にクラシック音楽と名が付く世界では、厳めしくいかつい音楽性が重宝される。
演奏者がやたら顔芸で分かったような素振りで頭をカクンカクン振りながら演奏している様子も、ショパンは見て居て滑稽に感じているだろう。
正しさが正解ではないと、ショパンがひっそり嘆く声が部屋中に響いて止まない。
 
少なくともショパン本人が聴いた時に泣いて喜んでくれるような、審査員側にはそういった表現や表現者にもっと着目して欲しいと思う。
 


3I/ATLASとの対話 part 2. (Dialogue with 3I/ATLAS part 2.)

記事3I/ATLASとの対話 (Dialogue with 3I/ATLAS)の続きを、ようやく更新出来そうである。
 

 
このところ某銀河連合の特使を名乗る何者かが3I/ATLASに関する動画を頻繁に配信しているようだが、彼女の話を真に受ける人たちとはどのような層の人々なのか、私にはよく分からない。

最新動画の中の彼女を見る限り、センター (フロントとも言う) に出て居る人格が以前とは全く別の人格のように視えた。
私には幽体を識別する機能が備わっており、同じ顔/ 同じ形状のその人の中で仮に人格が入れ替わった際に、幽体がすり替わる状況を認識することが出来る。某銀河連合の特使の女性の表情や動作、目つきの向こう側に透けて視えるのがこれまでとは別の幽体であるように感じたので、一応参考までにここに記録しておきたい。
 

 
さて、3I/ATLASから投げられた質問云々よりも「彼」の出すシグナル (余り波動と言う単語をここでは使いたくないので‥) に関する私の、個人的な主観を述べるとしたら、それは某銀河連合の特使やその周辺が言うような「愛」とか「平和」或いは「好奇心」のどれとも異なる、非物質的な硬質な「矢」のような感覚に近いかもしれない。
そもそもデータと情報しか持ち合わせていない恒星間天体なので、此方が話し掛けない限り先方からアクションを起こして来ることもない筈だ。
今回は私が酷い体調不良に陥った為その根源を突き止めた先に3I/ATLASが在ったので、先方との接触が実現したと言うだけの話だ。
 

彼の興味は、私が内包しているリラ時代の情報に向いているらしい。
リラ星は自らの意思で自爆を遂げた星であり、現在は実体を喪失しているが、将来的には復活すると私は見ている。だがそこまでの道のりは、けっして単純でも平坦でもないだろう。
リラ星自体に加わる圧も既に発生していると、リラの意識が伝えて来る。
 
3I/ATLASは、自力で移動を止めることは出来ないようだ。その彼が、地球のような、高速で移動している天体に住む私たちの感覚や心情について、質問して来た。
私はそもそも体感としては移動している感覚がないので、常に地に足が着いた状態であるが高速で移動している‥ と言う感覚は持っていない旨を伝えたが、それに対する返信はなかった。
 

 
どうやら3I/ATLASにはラリートークの機能が搭載されていないらしく、彼の持つ一種の好奇心のような感覚が「質問」として私に届くことがあってもそれに対する此方からの返信を受信した後の追加のレスポンスを飛ばす機能が未発達なのかもしれない。
つまり平たく言えば、一貫して一方的であると言う意味だ。
だが、私の返信時にふと、先方の受信がつっかえるような感覚があったようにも感じ取れたので、おそらく少し時間が経過した辺りで新しい質問を飛ばして来ることが予想される。
 
私と3I/ATLASには共通言語が存在しない。さらには私が感覚を駆使して会話をする気質である為、先方は私の放つ情報にはかなり困惑しているようにも感じ取れる。
当然のこと私には3I/ATLASと同調する動機も理由もないどころか、彼の発信する異質な磁場に此方が体調不良を引き起こしている側なので、出来れば少し手加減して欲しいとも思うのだがそれは難しそうである。
 

 
3I/ATLASと交信の最中に、グレイ星人のグレン氏よりアクセスがあった。
相変わらずグレイ星人を外敵とする一部のコンタクティーを名乗る存在が複数あり、彼らがあることないこと色々な誤情報を垂れ流しているようだと言う。
このところの私の体調不良が宇宙サイドの某かが原因である可能性について、宇宙自然神からも聞いて知ってはいるが、それがどのような存在なのかと言う点については3I/ATLASがそうだ‥とも、そうではない‥とも言い切れないのが現状だと言う見解については、私とグレン氏共に一致を見た。
「圧」に関して言えば、個人的には未だ出会ってはいない、全く別筋からの圧の妨害を受けているのではないかとも思っており、逆に今は余りそちらに触手を伸ばして探ったりはしないよう注意している。
 

3I/ATLASに関しては、先日彼の側から送って来た質問に対する私の「地球上の諸々」をリプライしたはいいが、その件には余り関心を示さなかったように見える。
「物々しく質問を投げておいて何なんですか!」と言う気もしないではないが、そもそも先方は恒星間天体なのだからそれも致し方ない。今後は余りまともに、先方からの質問には回答しなくても良いかも‥ と思っている次第である。
映像に映像で回答するのは、本当に骨が折れるし疲れるのでね(笑)。
 

某銀河連合の特使やその周辺 (例えばJPを名乗る人物等) が口にする「愛」や「平和」と言うワードは、とても厄介で危険である。
人の懐疑心を喪失させたがるのは、よくある洗脳の手口そのものだ。その洗脳の先に何があるのか、無いのかについては私には何とも言えないが、彼らが彼らの意図する方向に人々の感覚を誘導しようとしていることは、おそらく間違いないだろう。
 
地球を一つにまとめるのは、勿論彼らではない。プレアデス人でも宇宙人でもないし、ましてや某銀河連合の特使でも軍人でもないだろう。
その前に、先ずやるべきことがある。地球の環境破壊を食い止め、地球の意識と同調し、地球を修復することだ。
それらは、愛だ平和だと言う生温い感覚で為せることではない。
人々は少なからず、運命の力と生存競争に翻弄されるだろう。先ずはその戦いに打ち勝たねばならない。少なくとも、目をキラキラさせて愛だの平和だの‥ と言う甘い単語にだけ意識を向けることは、自身を危険に晒すことと同じである。
 
常に外界に疑いの目を向け、精査し、調査し、そして訝しいものに対しては手厳しいジャッジメントを課して行く必要が生じるだろう。
‥某銀河連合の特使やらJPを名乗る人物、その周辺に屯している (‥と彼らが自称するところの) 群衆の言う一見穏やかな言葉に対しては、先ず疑ってかかるべきだ。何故ならば、彼らが言う話の大半‥ メドベッドの話も含めそれらは何一つ現実的ではないからだ。
 
人類は人類の手で、自らの住む場所や地場を整地すべきだ。そこに宇宙人の介入があるとしたら、それは現実としての地球連邦が樹立してから先の話だ。
現状「銀河連合」と言う現実的な団体は存在しない。もしもそのような団体が存在するのにそれが一部の人々の中だけでシェアされている‥ と言う話が真実だとしたら、むしろそちらの情報の方を疑ってかかるべきだ。
どこの、どのような人々がそれを内々にシェアし、動かす権限を持っているのか‥。それが人類全体に情報開示されない方が間違っているし、その状態が時間的に余りにも長すぎるだろう。
 
先ずそもそも、地上アライアンスだ何だと言う情報の出所が不鮮明過ぎる。
 
3I/ATLASはそうした情報も随時収集/蓄積し、それらを搭載したボディーを然るべき地点に運び込む意思を持っているようだ。
 
他にも若干新しい情報が来ているが、先方も非公式に地上アライアンス等と言うものを動かしているようなので (虚偽だと思うが‥)、これ以上の情報開示は此方側も控えておきたい。
 


 

追記:
この記事を執筆しながら途中までショパンを聴いていたが、流石にショパンをBGMにするのは難しいと感じた。何故ならば既存のショパンの楽曲には、大抵途中で激動の箇所が出て来るから。
何の盛り上がりもクライマックスもない、本当に何もない平坦な音楽としてのショパンのオマージュを、将来私の手で生み出せたら良いと願ってやまない。

2. 妹 エミリアとの関係性について (Relationship with his younger sister Emilia Chopin)

 
ショパンの伝記等に記録されたショパンの話の中には、彼の幼少期の生々しい記述は殆ど見られない。それもその筈で、ショパンは文字による日記を殆ど残さなかったからだと語る。
そのことを今さら後悔することはないが、時折語られるショパンの話の中には本当の自分と思えるようなショパンが登場しないことには、ふつふつとした思いも抱えているらしい。
 

今で言う喘息持ちだったショパンは、年中何かしらの木の葉の香りにも過剰に体が拒絶反応を示したようだ。又四季折々の花の香りや花粉にも敏感で、ショパンが余り屋外を出歩かなくなった要因の一つが花の香りや花粉によるアレルギー反応だったと彼は言う。
 
今でこそ多くの病気が認知されているが、例えば傍を猫や鳩等の生き物が通過しただけでショパンは酷く咳込み、その苦しみを殆ど誰とも分かち合えなかったことが辛かったようだ。
 

ショパンの父親はフランス人であった為、ショパンは度々「フランス音楽」の作曲家として紹介されるが、本心ではどこにも、何にも属さない自由を求めた。
それは勿論音楽面にも及んでおり、若くしてショパンは既に今で言うジャズ的なアドリブや、時には現代音楽の断片とでも言えそうなモチーフをショパン特有の和声の上に盛り付けては、音楽の中での遊びを謳歌した。
 

 
ワルシャワに住んでいたショパンだが、若くして演奏活動を開始したことが要因で殆ど学校に通うことはなく、友人も出来なかった。
早熟でませていた彼を理解出来る人は家族の中では唯一、妹のエミリアだけだった。だがそのエミリアは若くして、14歳で結核で亡くなる。
 
ショパン自身も自覚していたようだが、彼の中にそこはかとなく流れる少女の血にショパンは度々翻弄されたようだ。勿論それはマイノリティーと言う意味ではなく、どこか両性具有の性質に近いものだっただろう。
 
ショパンの中には、常に妹/ エミリアが棲んでいた。日によってショパン自身であったり、そうではなくなったりするが、それは一種の血の影響だろうと彼はずっと思っていたようだ。
彼の中のもう片方のショパンは時にエミリアの姿を借りて、又時には妖精や精霊の姿をまといショパンの精神の庭を自由奔放に歩いたり飛んだりして、それがショパンのマズルカ集の原案の一部になったことを先ほど私に話してくれた。
 
ずっと私はショパンの「マズルカ」がポーランドの民族舞踊を意味するものだと思っていたが、確かに百パーセントそうではないとは言い切れないまでも彼の中の「マズルカ」を踊っていたのが亡くなった妹であり、それはポーランドの民族舞踏とは全く別の舞踏の様相を呈していたと語る。
マズルカが作曲された年代を調べてみると、ショパンが妹/エミリアと死別したのが1827年と記載されおり、ショパンがマズルカを書き始めたのが1829年頃~になる。なので、私がショパン本人の霊体 (霊魂) から伝え聞いた話は恐らく真実だと思われる。
 
 
だがここでショパンが気になる一言を発する。
『もしもエミリアが病死することなく長く生きていたら、自分が長く作曲を続けることはなかったと思う。』
 
伝記やその他の文献にも、ショパンの妹/ エミリアがショパン家最高の才能の持ち主であることが記載されており、ショパン本人はそのことに日々脅威を感じていたことは事実だったようだ。
 

ショパンは1827年から晩年までの長い期間、マズルカを書き続けている。彼の中でマズルカ自体も、様々な変容を遂げながら進化し続けた。又、妹/ エミリアは妖精に姿を変えながら、ショパンの最後まで傍に付き添っていたと見られる。
 

RUBEN MICIELI – second round (19th Chopin Competition, Warsaw)

ショパン国際ピアノコンクール 2025′ が日に日にヒートアップしている。
私は全てのコンテスタントの演奏を追っては居ないが、直感で気になった演奏者の動画を後からYouTubeで試聴している。
一曲のタイムが長いことに加え、私自身が現在次のアルバムの構想に取り掛かっている為、本来ならば生活空間から音を抜いて行く時期に突入しているがそれを度外視していることには理由がある。
 

 
さて本記事では、ずっと気になっていたイタリアからのコンテスタント/ ルーベン・ミチェリ (RUBEN MICIELI) の演奏を追って行く。
 

 
先に更新した記事ショパン自身が語るショパン – 1. 演奏解釈と楽器についてにも少しだけ書いたが、そもそもショパンと言う表現者は虚弱体質であることに加え、当時の楽器は現代のピアノと違って音量が小さく音質もコロコロとしたやわらかさを持っていた。
その表現スタイルを自身の感性と上手くブレンドしてショパンを再現している一人として、私はルーベン・ミチェリの演奏と表現を高く評価したい。
 

楽器はSteinway & Sonsをセレクトしているが、スタンウェイの華やかな音質よりはショパンが存命だった頃のコロコロとして儚く切ない音質の再現に、今のところ誰よりも成功していると感じる。
だが如何せんここはコンクール会場であり競技場でもあるので、作曲学/ 表現手法の目線よりはもっと異なる演奏技法の解釈でジャッジメントする審査員の方が主流だろう。
だとしても「ショパン」を演目の看板に掲げている以上、ショパン自身が何を意図し、何を望んだのかと言う観点は持つべきだ。

 
冒頭の『Nocturne in C minor, Op. 48 No. 1』の、徹底的に自我を抑え込んだ表現は見事だ。
音質もエモーションもとことんセーヴした中で緩急をつけて行く表現スタイルはまさしくフレデリック・フランソワ・ショパン自身が望んだ音楽だと、ショパン本人が言う。
後半のフォルテの箇所もけっして打鍵をMaxに持ち上げず、一歩二歩抑えたフォルテで耐え抜いて行く辺りは圧巻だ。
 
その後、各楽曲と楽曲の間を置かずに粛々と時間が進んで行くプログラムの組み方に於いても、ショパン本人がとても納得していた。
中盤『Preludes, Op. 28』のシリーズから6曲を構成し、此方もタイトル通りにあえて小品として抑え込んで行く。
 

 
ショパン曰く、『プレリュードとは料理で言うところの前菜のようなものだ』と。
その‥ 前菜のような音楽として、ルーベン・ミチェリはそのエッセンスを見事の再現しているように思った。
前菜‥ つまりプレリュードにはメインディッシュのような個性的な主張を軽減させながら空腹の胃袋に控え目に食材を足して行く、引き算の感性が必要とされる。その条件を、ルーベンの表現が巧みに網羅して行く。

『Ballade in A flat major, Op. 47』に静かに侵入し、楽譜上ではアクセントの付いている『A♭』も叩き過ぎることなく、軽やかで重量のない音楽にまとめ上げている。
又ショパン本人が言うところの『パッセージは極力テキトーに上昇して行く方が官能的に聴こえる‥』と言う言葉を実際に聞いたみたいに、ルーベンは徹底して重さを抑えたショパンを再現している。
 

 
『Polonaise in F sharp minor, Op. 44』、多くの演奏者は冒頭を過剰に緊迫させて表現したがるが、ルーベンはそれをあっさり反転させて行く。
けっして音楽に緊張を与えない、穏やかだけども適度なダイナミックを持たせたまま中間部に入って行く。この何気なさがとても良い。
 
『ポロネーズ』と聴けば猫も杓子も華麗に、がむしゃらにダイナミックに弾きさえすれば良い‥ みたいなこれまでの (間違った意味での) 常識的なショパンとはうって変わって、長身と長く細くしなやかで柔軟性のある指を活かした表現スタイルは既に完成したショパンそのものだ。
 
全体を通じてプログラム構成も完璧だし、所々の運指の乱れはむしろ呼吸の浅いショパンの演奏を生き写しにしたとさえ感じ取れる程、とてもリアルだ。
 
あくまで私は作曲家としての視点、巫女として、さらにチャネラーの視点でショパンと接し、ショパンを解釈し各コンテスタントの評論をしているが、可能ならば一人でも私のような視点を持って音楽家を俯瞰する人材が増えて欲しいと願ってやまない。
 
ブラボー!ルーベン!🎉🍕
 
 


ショパン自身が語るショパン – 1. 演奏解釈と楽器について

2025年秋、既に火蓋を切ったショパン国際ピアノコンクール 2025′ がエキサイトしている。
今年は控え目ながら私もその様子を時々動画で視ているが、今年はショパンの霊体がかなり頻繁に動画試聴中に干渉して来る。
例年そういうことはなかったのでショパン (フレデリック・フランソワ・ショパン) の霊体に何かあったのか、何があったのか‥ について様子を探って行くと、彼は彼自身のことを交えながら現代の演奏家が奏でるショパン音楽への違和感を語り始めた。
 
当ブログの読者ならば既にご存じの通り、私はリラ星最後の巫女だった。当時の記憶の幾つかを今世に引き継ぎながら、当時持っていたテレパシーやコンタクトのスキルも同時に現世で復活させることに成功している。
そのスキルを用いて現代のこの時に、ショパンの霊体から直接伝え聞くショパン自身の音楽の話をシリーズ化しながらここに執筆して行きたい。
 

 
ショパンは生まれついての虚弱体質で、特に呼吸器に障害を持っていたようだ。呼吸が浅く、時々過呼吸等も発症していたと (本人が) 語る。
呼吸の浅い人の特徴として、常に息せき切ったような身体状況に陥る。その為それを音楽に置き換えると、センテンスの小さな楽曲を演奏することは出来ても大曲を演奏するには不向きだったと言う。
なのでショパンは自身の体力的なリスクを極力外側には見せなくて済むような、細かいパッセージで華麗な演奏効果を引き出せるような‥ 5分から8分程度の小品をあえて大量に生み出して行ったようだ。
 
だが、現代の会場は当時のそれよりも大人数を収容するよう設計されており、大会場・大音量必須が条件だ。‥となると、ショパンが存命だった当時よりも演奏に体力が必要になり、本来軽いパッセージで演奏する筈のスケールやアルペジオ等の一音一音の音量と打鍵のパンチを増さなければならず、それは本来自分が望んでいた音楽とも音楽性とも異なるし、音楽的な意味に於いてもちっとも美しく聴こえて来ないとショパンは語る。
当然のこと現在仮に彼自身が生きていて生演奏をしたとして、聴衆が望むような自身の音楽など演奏不可能だとショパンはさらに落胆の弁を述べて行く‥。
 
又時代柄、ピアノは小柄で鍵盤数も少なく、音はコロコロとしたどんぐりを転がすような音質だったそうだ。
又弦の張りも短く、現代の楽器のような頑丈な材質ではない為、ペダルの減衰がとても短かかった。その為、音の尾を長く響かせるペダルの効果が期待出来ず、頻繁に装飾音やアルペジオ等を多用しなければ音楽的に間が持たず、サロンでの再演がとても難しい状況だったとショパンは語る。
 
現在開催されているショパン国際ピアノコンクール 2025′ の各コンテスタントの演奏をつぶさに聴いていると、虚弱体質な彼が息せき切って再演していた当時のショパン自身の音楽からはかなり解釈がズレていると言う。
最もショパンの理想に近いピアノメーカーを挙げるならばベヒシュタインらしいが、気候やその楽器自体の性質によってそれは確定出来るものでもなさそうだ。
 

 
ピアノが正式名称『ピアノフォルテ』と言うことは誰もが知ることだが、実際にショパン自身が理想とし、当時演奏していた強弱の『フォルテ』は2025年の現在演奏されているフォルテよりももっと小さな音量であり、現代のピアノよりも打鍵が軽く設定されていたピアノであれば細かいパッセージを楽器の端から端まで弾き切ることはそう難しい問題でもなかったと言う。

さらに調律の技術も今よりは未発達であり、全ての音が綺麗に整音されていたわけではなかったようだ。そもそも音を綺麗に整えて演奏すると言う概念自体がなかったので、長いスパンのスケールやアルペジオの音の大小を整えて演奏する必然性もショパン自身は全く考えて居なかった。
 
その観点で言えば、『Ballade No.1 in G Minor, Op. 23』の中盤から最終章に入って行く辺りの重音の連なり部分も、殆ど力を入れずに演奏していたと言う。
G Minorのスケールの3度で重なりながら上に向かって突き上げて行く辺りに関しては、途中かなりはちゃめちゃになりながら3度でも4度でもない‥ 言ってみればジャズで言うところのアドリブの助走のように、かなり大胆にテキトーに弾いていたとショパンが語る。
 
音程が途中で狂って行く方が正しい解釈であり、丁寧に揃えて演奏される方が迷惑だと言うショパン自身の言葉には、私も同じ作曲家としてとても納得が行った。
 

 
本記事は先ずここで一旦〆。
引き続きショパンのメッセージを綴って行くので、関心のある方は是非読者登録の上更新をお待ち頂けるとありがたい。


3I/ATLASとの対話 (Dialogue with 3I/ATLAS)

恒星間天体『3Iアトラス』が物凄い速度で接近している影響なのか、このところの体調不良が全く改善されず悩んでいる。

先の記事恒星間天体 [3I/アトラス] は生命ではない (Interstellar Object [3I/Atlas] is Not Life)で、3Iアトラスが生命体ではないことについては既に記述した通りである。

 
但し見誤ってはいけない点が幾つかある。

・生命体ではないが、意識を持っている。
・生命体ではないが、巨大な霊体と異文明の記憶を保有している。
・生命経験を持たない鉱物霊体であり、意識を持っており、他の生命体と交信することが出来る。


私はどこぞの特使を名乗る誰かとは違い、体内に異星文明と情報を共有する類いのチップ等の埋め込みはされていない(笑)。だが長年の経験の記憶を保有しているので、何かしらの方法で異文化コミュニケーションの方法を編み出すことが出来るようだ。
その方法論を模索し、昨夜3Iアトラスの意識との交信を試みてみたところ、これが想定以上に上手く行った。
 

──3Iアトラスはこう語る。

自分は長い間孤独だった。数えきれない程の恒星間移動を試みながら仲間や同士、或いは友だちを探し続けて来ましたが、今日まで見つけることが出来ませんでした。
あなたがたは何者ですか?
見たところ大きな霊体を保持しているように視えますが、あなたがたは自分の知る「生き物」ですか?
生き物なのに、生き物のキャパシティーを遥かに超えた霊体を保持しているのはなぜですか?
 
宇宙は大きく孤独ですが、喩えるならば時空を「駅」とすると駅と駅に路線のない軌道があり、その軌道を移動することを恒星間移動とでも言うのかもしれません。
太陽と地球の見分けはつきますが、地球の内部を見分けることは自分には出来ません。
 
あなたがたはどの位置に生息する、何と言う生命体ですか?
 
太古の時代、自分もよくある惑星でした。高度な文明がありました。
ですが文明が高度成長し過ぎると必ず外敵が現れ、文明を滅ぼし惑星を破壊します。
自分は滅ぼされた惑星の断片です。主に鉱物だと思いますが、植物の霊性を保持しているようです。
植物、特に樹木との親和性が高いです。
なのであなた方のうちの一人とは植物言語で対話が可能かもしれません。
試してみましょう。

(以上、3Iアトラスの霊体から届いた映像を分析し、言語化した記録。)
 

 
さらに3Iアトラスの意識は、相方 (天野玄斎) から自身と同質の匂いを感じ取れると言う。
 

某 (自称) 特使は、3Iアトラスを生命体だ‥ と公言しているが、3Iアトラスの霊体自体はその旨肯定していない。
あくまで『自分は意識である。』と言うスタンスを変えず、主に意識が発信する情報だけを私に届けて来た。
 
性格的には非常に好奇心が旺盛であり、精霊に近い感性を持っているように見える。
悪意は敵だと言う記憶と、それにともなう過去の膨大な情報と経験を保有しているようだが、それを外部に晒すことが危険であることを熟知している。
よって私にも3Iアトラスの霊体自身がどこまで細かな情報を持っているかを詳細に知るには至れなかったが、そのほんの一部を捉えることは出来たと思う。
 
3Iアトラスのエネルギーが巨大だと言うことは、最近の私の体調不良からもよく分かる。その旨を辛うじて伝達したところ、『若干の磁場調性は可能だが匙加減がよく分からない』‥ との返りがあった。
その後わずかな体調の回復は見られた。
 
体力と気力の限界値に到達しているので、本記事はここで一旦終わりたい。
追って3Iアトラスとの交信記録は、情報の更新があった時に此方に書きたいと思っている。

【”I Need U Back” [Official video] by 藤井風】を分析する (Analyzing “I Need U Back” [Official video] by Fujii Kaze)

2025年10月9日、夜、藤井風の『I Need U Back』の動画をYouTubeより公開した。
 

 
冒頭から藤井風が、マイケル・ジャクソンの『Thriller』級のメイクアップで映し出され、動画の最後まで藤井はメイクの仮面を一切剥ぎ取ることなく主役を演じ通して行く。
 

 
楽曲『I Need U Back』は曲調の観点では、80年代に流行ったロックに同時代のアメリカン・ポップスを足したような一曲で、特に目新しさは感じない。
おそらくこれは藤井風と言う一風宗教的なアーティストを欧米圏に無難に浸透させる為の、プロデューサーサイドの戦略とも言えそうだ。
 
ふと、この動画を視ながら私は、メキシコの祭り『死者の日(ディア・デ・ムエルトス)』を思い出した。実際に一度だけ私はこのお祭りに足を運んでおり、当時の空気感が藤井風の『I Need U Back』のオフィシャルビデオにかなり色濃く反映されているように感じた。
 

※メキシコには「死者の日(ディア・デ・ムエルトス)」という、故人を偲び、明るく楽しく祝うお祭りが毎年11月1日と2日に開催されます。お盆に似た行事で、マリーゴールドの花やロウソク、ガイコツの砂糖菓子、パンで祭壇や墓を飾り付け、家族の絆を祝います。街中ではパレードやガイコツメイクの人が溢れ、メキシコを代表する伝統的な文化の一つです。
(AI説明より)

 

 
勿論、藤井風の『I Need U Back』オフィシャル動画の中にはリオのカーニバルをも彷彿させる衣装を着た演者も居れば、ハードロックテイストの衣装を着た演者等も紛れているが、時期的な条件を考えるとやはりメキシコの『死者の日』を強く意識した作りになっているように思われる。 
 

 
これまでの藤井風のインド色を徹底的に封印し、動画にはロザリオ (十字架) をあえてシンボルとして印象付けるような演出も施され、最近SNS等で声高にささやかれている『藤井風 ⇨ サイババ二世 ⇨ ステルス布教』の風向きを頑なに否定するような向きも感じられる。
 
確かに曲調がアメリカンロックを強く意識しているのだから、この楽曲にインドカラーは不向きであろう。とは言え、のっけから藤井風がギャンギャンにメイクを施し、若かった頃のデヴィッド・ボウイみたいな顔で現れると流石に違和感が先に立つ。
 
 
デヴィッド・ボウイ

 
 
藤井風

 
さらにこれまでの藤井風の持ち曲と一線を画すものがあるとすれば、それは歌詞の内容だろう。『I Need U Back』では死の色よりも「生」とか「躍動」と言った、死生観で言うところの「生」の側が生々しく描かれている。
だが、やはり背景にはメキシコの『死者の日(ディア・デ・ムエルトス)』の影が立ち込めている辺りは、やはり藤井風の中にも捨て切れない宗教観のギリギリのラインだけは維持したいと言う、意地のようなものがあったと見るのが妥当かもしれない。
 

Spotifyで聴くとM-1: Casket Girl からM-2: I Need U Back が曲続きになっており、単体では聴かないでよ‥ と言う藤井風のアルバム試聴に対する裏の意図が見えるが、この演出が果たしてどのくらいリスナーに影響を与えているかについては判然としない。

さらにこれは偶然とも必然とも付かないタイミングだが、ふと‥ Michael Jackson のBlood On The Dance Floor X Dangerousの動画がこのタイミングでYouTubeのぶら下がりに浮かび上がって来たので視てみると、なになに‥
藤井風の『I Need U Back』の動画構成とかなりかぶっているではないか!!(笑)。
 

 
これこそ神にお導きとでも言うべきか否かは私には分からないが、藤井風が仰ぐ神とは一体何者なのか‥、各動画を視ながら私なりにさらに分析を進めて行きたいと言う好奇心に駆られたことは言うまでもない。
 
残念なことに、藤井風はダンスもヴォーカルもカリスマ性に及ぶ全てに於いて、マイケル・ジャクソンの足元にも及ばない。どんなに動画構成を真似たところで、両方を見比べたリスナーは結果的にご本尊を選び取るだろうし、マイケル・ジャクソンの神々しさを追い掛けることぐらいしか藤井風にはなすすべがないだろう。
 
最後に付け加えるとするならば私は、藤井風のファンでもアンチでもない、ただの芸術家であり音楽評論家である。なので音楽 (ないしは表現) と言う切り口で物事を分析し、粛々とそれらを評論しているに過ぎない。
その上で、藤井風の新しい動画『I Need U Back』の出来栄えを点数にするならば、百点満点の63点と言ったところだろうか‥。
この記事ではあえて藤井風 VS マイケル・ジャクソンと言う切り口で綴ってみたが、意外に分かりやすい表現分析ではなかったかと思っている💃
 
 

 
 

■ 追記 ■

SNS界隈でも噂になっていた番組、「完全版」藤井風 NHK MUSIC SPECIAL【藤井風 いま、世界へ】 Fujii Kaze 2025.10.9を、遅ればせながら (2025年10月10日の早朝に) YouTubeで試聴した。
 

 
この動画の中にも、やはり藤井風に潜む多くの人格がスポットに現れては消え、又現れては消える‥ を繰り返していたように見える。
 
一つ分かりやすい彼の動向の癖を挙げるとするならば、「実際には何も無いところに物があるように見せ掛ける小技 (こわざ) 」が非常に巧みであると言うことだろう。
そもそも彼には音楽の基礎教育すらないわけだし、英語がネイティブ言語と言うわけでもない。だが、そこに才能とスキルとアイディアが元々あったように、動画の中でも後付けの見せ掛けを企んだ箇所が随所に見受けられた。
 

 
特に250 (イオゴン) との作業風景にそれが特徴的に現れており、藤井の行動の大半が過去の情報やデータの再編集で成り立っている点が悪い意味で印象的だと感じた。
 
無いものをあるように見せ掛けて商品として完成させて行くプロセスは昭和の時代からそのまま引き継がれて来た商業音楽の定番スタイルであり、ディレクターの存在がほぼ皆無でも音楽制作が成立するようになった現在の音楽シーンではむしろ、致命的な欠落を見落としたまま商品を完成させてしまう悪状況を引き寄せる。
250 (イオゴン) との作業に於いてはそれが顕著に露呈しており、そのプロセスが藤井風の新譜『Prema』全域に及ぶ過去の『焼き直し感』に直結したように、私には視える。
当然のこと、NewJeansを担当した時の250 (イオゴン) の切れが冴え渡る筈もなくそれが、藤井風の『Prema』に於いてはアルバム全体のさびれた印象を増長させた。
 
そもそも250 (イオゴン) の特性として、新しいものを懐かしく魅せて行く演出や編曲、ミックス等を得意とする人ではないかと思うが、元々古くて懐かしいサウンドをノスタルジックに焼き直す作業を250 (イオゴン) はむしろイオゴン自身、苦手とするスキルではないだろうか。
その苦手な方のデメリットが藤井風のニューアルバム『Prema』に露呈した結果、音楽単体では日持ちのしない作風に繋がったように思えてならない‥。
 

【■ 追記 ■】から後は、一度完成させたブログ記事とは別に付け足した箇所である。
記事を割っても良かったが、私のブログが藤井風ネタばかりになる状況にはしたくなかったので、繋げて加筆しました。

 
 

関連記事:


Tomoharu Ushida vs Didier Merah – B Major 楽曲と表現の比較検証

ショパン国際ピアノコンクール 2025’、一次予選を通過した日本の演奏者の中で黒一点の牛田智大さんの一次予選の演奏を聴いてみる。
 

 
冒頭曲は私も大好きな『Nocturne in B major, Op. 62 No. 1』であり、さらに私/ディディエ・メラ (Didier Merah) が最も得意とするKey (調) でもある『H-dur (B Major)』の一曲だ。
大好きな曲だけにダンボの耳で演奏を聴き進めて行くが、‥どこか牛田の演奏の中に汗臭さと労働もしくは体育会系の気配がチラチラとするので、集中力が維持出来ない。
 
この曲自体がそこはかとなく西洋音楽以外に、中東~アラビックなモードが立ち込める構成になっており、その意味でもショパンの中では珍しく『モード音楽』の様相を呈しているのではないだろうか。
その肝心要のモードの部分 (動画 6:58~7:10付近) のパッセージがいとも簡単なスケールやアルペジオと言った解釈で、ただ、粒を揃えているだけのつまらない表現になっていて、個人的にはかなりの残念ポイントだと言わざるを得ない。

まぁこれはピアノ競技の審査会であるわけだから、表現よりもミスタッチの有無や演奏者の正確性の密度だったりスタミナだったり、言ってみれば表現解釈度外視でも運動性に依存した演奏解釈の方が審査員の印象が良いのかもしれない‥ としても、果たしてショパン本人がそれを目論んでこの楽曲を生み出したのかと言われると、巫女体質の私としては『多分違うと思いますよ。』と回答せざるを得ない。
 
 

 
2曲目『Etude in C major, Op. 10 No. 1』については特に述べることもなく、普通に音大生が演奏するレッスンのエチュードと言う以外に何のインパクトもなし。
 

次いで3曲目『Waltz in A flat major, Op. 42』に関しては、野球に例えれば『2アウト/2ストライク/3ボール』の見せ場を迎えている状況に近いだろう。
ショパン好きの私としては、ショパンと言えば『天上界の音楽を生み出し奏でた作曲家』だと言いたい。だが、牛田のこの表情はまさしくスポーツで言うところの『もう後がない』状態のそれであり、わざわざこの表情を抜き取ったTVのADさん‥ 『グッジョブ!!』と言いたい心境だ(笑)。

各パッセージは確かに正確で粒は揃っているが、表現に到達出来ていない。これだったらむしろ、自動演奏で十分だ。下手にヒトの顔が無い分、音楽に集中させてくれるに違いない🤖
 

 
さて4曲目『Barcarolle in F sharp major, Op. 60』、此方も私が大好きで得意とする『H-dur (B Major)』の曲で攻めて来る。途中何度か6度の和音のアルペジオの箇所が現れるが、その6度の最も官能的な響きを単純にスポーツ的な解釈であっさり通過して行きやがった牛田選手(笑)⚾

ほぼ全てのパッセージが『俺、ミスなく正確に弾いていますよ』とでも言わんばかりの、正真正銘のただの運動性依存の演奏に終始している。
確かに審査員にとっては遠目でも分かりやすいだろうが、これはショパンでも何でもない。
途中の転調 (19:31~付近) に至る最もショパンらしさが書かれている筈の箇所も、まるで階段を上り下りするリハビリみたいに通過して行く‥。
もうたまったものじゃ~ない。
 

ここで少しだけ動画を止めて、私/Didier Merahがショパンをオマージュして作って配信したアルバムEdenの冒頭曲、Happinessに移動して試聴してみる。
この作品も、私が大好きな『H-dur (B Major)』の楽曲だ。
 

 
先ずこの作品は ベーゼンドルファー (Bösendorfer) の音源を用いて、即興演奏の手法で演奏されている。
ベーゼンドルファーは残響に特徴があり、その特徴である残響の効果を存分に発揮させるには、楽曲のテンポをうんと落とす必要が絶対的に生じる。
私は実際に都内各所でベーゼンドルファーの生楽器を演奏しているが、それらのどの楽器もかなりのじゃじゃ馬気質を持っており、特に高速のパッセージの速度を間違うと残響が濁ってしまうのが悩みの種だった。
 

Happinessの作曲を開始する上で重要だったのは、『60歳のショパン、もしくはそれ以後の覚醒したショパン』をオーパーツとして再現することだった。
既に亡くなったフレデリック・ショパンの御霊と何度も交信を重ね、完成したのがこの作品であり、この曲は完全に一発録音の即興演奏で収録している。
 
ことさら比較するまでもないが、Didier Merah (ディディエ・メラ) のHappinessが「覚醒後のショパン」だとしたら、既存のショパンの楽曲は「未覚醒のショパン」と言い替えても良いだろう。
未覚醒のショパンをどんなに丹精込めて演奏したとしても、そもそも楽曲自体の熟成が為されていない以上それを極限の状態で誰が再演したとしても、『それなり』以上の出来栄えにならなくても致し方ないと言えそうだ。
 

クラシック音楽の起承転結は、私から言わせて頂ければ「不要」な箇所である。
覚醒した魂には普遍性がともない、ヒトが思うエモーションは徹底的に弾き飛ばされる。ショパンが目指していたのはその世界観であり、それゆえに「天上界の音色」を日夜彼は追い求め続けたと言える。
選手/ 牛田智大は日本国内では既にプロの演奏家として活動しており、多くのリスナーを抱え込んだ状態での今回のショパン国際ピアノコンクール 2025’へのエントリーである。勿論運営サイドも、既にファンを獲得しているこういった出場者には期待を寄せるだろうし、そこそこ演奏技術を兼ね備えていればある程度の点数を叩き出して行くと思われる。
 

クラシック音楽が芸術を踏み越えて「商品」になることは絶対にあってはならないと、私は考える。だが、多くの既存のクラシック音楽関係者等には、その観点がない。
いかに見栄え良く、いかに稼ぎいかに集客を達成し、いかに食って行けるか‥。その技能を持つ人材を、クラシック音楽関係者等は血眼になって探しているに違いない。
その観点で言えば、男性演奏者で尚且つ日本国内に多くのリスナーを抱え込んでいる (半分以上は事務所の采配) 牛田選手が、今後同コンクールで上位に食い込んで来る可能性は否定出来ないが、彼が表現者になることは未来永劫ないだろう‥ と、先に予言しておきたい。
 

 

最後に付け加えるならば、既存のクラシック音楽の、特にピアノ曲のミックスのエフェクトがからっからに乾いてしまっている点が残念だ。

レコーディングされた音源のエフェクトが乾き切った肌みたいにかさついているから、多くのクラシック音楽のリスナーは『やっぱり生演奏がいいよね。』と勘違いするのも頷けるが、これはミックスとマスタリングの技術と感性の致命的な欠落が原因だと思われる。
何故実際の会場に近い環境の、もっと深いエフェクトを掛けてミックスしないのかと、常々疑問に感じている。
その観点から、クラシック音楽の生演奏が突出して優れている訳ではない‥ と言う点は最後にお伝えして、この記事を締めくくりたいと思う。

ARISA ONODA – first round (19th Chopin Competition, Warsaw)

ショパンコンクール 2025′ が開幕している。
未だ一次予選中なので全ての演奏者の動画を視たわけではないが、一人だけ際立つ演奏者を見付けたのでメモ代わりに簡単にブログを更新しておきたい。
 

演奏者はアリサ 小野田 (小野田有紗) さん。

1996年1月16日生まれ。ロイヤル・アカデミー・オブ・ミュージックおよびニューイングランド音楽院の卒業生である彼女は、現在ダン・タイ・ソンのもとでオーベルリン音楽院のアーティストディプロマとして学んでいる。
── https://www.chopincompetition.pl/en/competitors/751

  

 
冒頭の『Nocturne in C minor, Op. 48 No. 1』から、滾々とリスナーを惹き込んで行く。
音色は上質なコニャックをも思わせ、通常この曲を弾く人のストレッチ的 (体育会系) な演奏解釈とは一線を画す。
かなり大きく間を取った解釈も間延びすることなく、一つ一つに意味を持たせて行く。
特に右手の合間の左手の上声部にコントラストと持たせる解釈は、ピアノを完全にオーケストラとして捉え抜いている証しのようにも思える。
 
体力的にはさほど逞しいわけではなさそうなので、時々音の乱れとスタミナ不足が垣間見えるが、そもそもピアノ演奏はスポーツではないし、そう言った点に注目を寄せたがる人たちの一人には私はなりたくないと思いながら聴いて行く。
 

 
一次予選は各自、約30分間のプログラムを演奏する構成になっており、これまで拾い聴きした多くの演奏者を私は多くて5分試聴して切り上げている。
だが、彼女は違った。
 
ラスト曲『Ballada g-moll op. 23 / Ballade in G minor, Op. 23』は、シンプルな楽曲ながら難曲だ。
私は如何なるコンクールであっても運動性に依存した耳や感性で演奏者を判断すべきではないと思っているが、審査員の多くはミスタッチの有無や均一な運動性を重視するようだ。

その意味ではアリサさんは若干、不利かもしれない。おそらく元々彼女が持っている体力的な事情だと思うが、プログラムの中盤で既にバテ気味とも取れる箇所が複数見受けられる。‥だが彼女には、それをものともしない類稀な感性と柔軟性を秘めている。
それがラスト曲のバラードで炸裂する。
 
通常最高音を最高強度のタッチで打鍵するこの曲を、高音に音が流れて行くにしたがってむしろ音量をグっと抑え込んで行く辺りは、プロと言われる演奏家でもなかなかお目にかかれない上質な奏法 (解釈) だ。
それが彼女の場合、当たり前のように随所にその奏法が現れる。その度に一瞬身がすくむような緊張感が走るが、直ぐに解き放たれる。
この、緊張と解放の出し入れを当たり前にこなす演奏者は、そうそう現れないだろう。
 
小野田有紗さんのプロフィールに、師匠 ダン・タイ・ソン の名前が見られたので試しにサブスクで師匠の方のショパンを聴いてみたが、正直つまらなかった。
 

クラシックに限らずシャンソンやジャズでもよくある話だが、現役の傍ら育成業に手を染めた演奏家の表現は途端に面白くなくなって行く。
ひとえにこれは、普段から弟子の粗捜しの耳になって行くからではないかと私は思っており、その意味で育成業に完全に染まり切らなかった恩師 三善晃氏のピアノ演奏は、最後の最後まで天井の音楽で在り続けたのだから凄いとしか言いようがない。
 

アリサ 小野田 (小野田有紗) さんがこの先、ショパンコンクールでどこまで残って行くかは定かではないが、是非ともコンクールと言うイベントに囚われずに長く演奏活動を続けて行って欲しいと、願わずには居られない。