RUBEN MICIELI – second round (19th Chopin Competition, Warsaw)

ショパン国際ピアノコンクール 2025′ が日に日にヒートアップしている。
私は全てのコンテスタントの演奏を追っては居ないが、直感で気になった演奏者の動画を後からYouTubeで試聴している。
一曲のタイムが長いことに加え、私自身が現在次のアルバムの構想に取り掛かっている為、本来ならば生活空間から音を抜いて行く時期に突入しているがそれを度外視していることには理由がある。
 

 
さて本記事では、ずっと気になっていたイタリアからのコンテスタント/ ルーベン・ミチェリ (RUBEN MICIELI) の演奏を追って行く。
 

 
先に更新した記事ショパン自身が語るショパン – 1. 演奏解釈と楽器についてにも少しだけ書いたが、そもそもショパンと言う表現者は虚弱体質であることに加え、当時の楽器は現代のピアノと違って音量が小さく音質もコロコロとしたやわらかさを持っていた。
その表現スタイルを自身の感性と上手くブレンドしてショパンを再現している一人として、私はルーベン・ミチェリの演奏と表現を高く評価したい。
 

楽器はSteinway & Sonsをセレクトしているが、スタンウェイの華やかな音質よりはショパンが存命だった頃のコロコロとして儚く切ない音質の再現に、今のところ誰よりも成功していると感じる。
だが如何せんここはコンクール会場であり競技場でもあるので、作曲学/ 表現手法の目線よりはもっと異なる演奏技法の解釈でジャッジメントする審査員の方が主流だろう。
だとしても「ショパン」を演目の看板に掲げている以上、ショパン自身が何を意図し、何を望んだのかと言う観点は持つべきだ。

 
冒頭の『Nocturne in C minor, Op. 48 No. 1』の、徹底的に自我を抑え込んだ表現は見事だ。
音質もエモーションもとことんセーヴした中で緩急をつけて行く表現スタイルはまさしくフレデリック・フランソワ・ショパン自身が望んだ音楽だと、ショパン本人が言う。
後半のフォルテの箇所もけっして打鍵をMaxに持ち上げず、一歩二歩抑えたフォルテで耐え抜いて行く辺りは圧巻だ。
 
その後、各楽曲と楽曲の間を置かずに粛々と時間が進んで行くプログラムの組み方に於いても、ショパン本人がとても納得していた。
中盤『Preludes, Op. 28』のシリーズから6曲を構成し、此方もタイトル通りにあえて小品として抑え込んで行く。
 

 
ショパン曰く、『プレリュードとは料理で言うところの前菜のようなものだ』と。
その‥ 前菜のような音楽として、ルーベン・ミチェリはそのエッセンスを見事の再現しているように思った。
前菜‥ つまりプレリュードにはメインディッシュのような個性的な主張を軽減させながら空腹の胃袋に控え目に食材を足して行く、引き算の感性が必要とされる。その条件を、ルーベンの表現が巧みに網羅して行く。

『Ballade in A flat major, Op. 47』に静かに侵入し、楽譜上ではアクセントの付いている『A♭』も叩き過ぎることなく、軽やかで重量のない音楽にまとめ上げている。
又ショパン本人が言うところの『パッセージは極力テキトーに上昇して行く方が官能的に聴こえる‥』と言う言葉を実際に聞いたみたいに、ルーベンは徹底して重さを抑えたショパンを再現している。
 

 
『Polonaise in F sharp minor, Op. 44』、多くの演奏者は冒頭を過剰に緊迫させて表現したがるが、ルーベンはそれをあっさり反転させて行く。
けっして音楽に緊張を与えない、穏やかだけども適度なダイナミックを持たせたまま中間部に入って行く。この何気なさがとても良い。
 
『ポロネーズ』と聴けば猫も杓子も華麗に、がむしゃらにダイナミックに弾きさえすれば良い‥ みたいなこれまでの (間違った意味での) 常識的なショパンとはうって変わって、長身と長く細くしなやかで柔軟性のある指を活かした表現スタイルは既に完成したショパンそのものだ。
 
全体を通じてプログラム構成も完璧だし、所々の運指の乱れはむしろ呼吸の浅いショパンの演奏を生き写しにしたとさえ感じ取れる程、とてもリアルだ。
 
あくまで私は作曲家としての視点、巫女として、さらにチャネラーの視点でショパンと接し、ショパンを解釈し各コンテスタントの評論をしているが、可能ならば一人でも私のような視点を持って音楽家を俯瞰する人材が増えて欲しいと願ってやまない。
 
ブラボー!ルーベン!🎉🍕
 
 


ショパン自身が語るショパン – 1. 演奏解釈と楽器について

2025年秋、既に火蓋を切ったショパン国際ピアノコンクール 2025′ がエキサイトしている。
今年は控え目ながら私もその様子を時々動画で視ているが、今年はショパンの霊体がかなり頻繁に動画試聴中に干渉して来る。
例年そういうことはなかったのでショパン (フレデリック・フランソワ・ショパン) の霊体に何かあったのか、何があったのか‥ について様子を探って行くと、彼は彼自身のことを交えながら現代の演奏家が奏でるショパン音楽への違和感を語り始めた。
 
当ブログの読者ならば既にご存じの通り、私はリラ星最後の巫女だった。当時の記憶の幾つかを今世に引き継ぎながら、当時持っていたテレパシーやコンタクトのスキルも同時に現世で復活させることに成功している。
そのスキルを用いて現代のこの時に、ショパンの霊体から直接伝え聞くショパン自身の音楽の話をシリーズ化しながらここに執筆して行きたい。
 

 
ショパンは生まれついての虚弱体質で、特に呼吸器に障害を持っていたようだ。呼吸が浅く、時々過呼吸等も発症していたと (本人が) 語る。
呼吸の浅い人の特徴として、常に息せき切ったような身体状況に陥る。その為それを音楽に置き換えると、センテンスの小さな楽曲を演奏することは出来ても大曲を演奏するには不向きだったと言う。
なのでショパンは自身の体力的なリスクを極力外側には見せなくて済むような、細かいパッセージで華麗な演奏効果を引き出せるような‥ 5分から8分程度の小品をあえて大量に生み出して行ったようだ。
 
だが、現代の会場は当時のそれよりも大人数を収容するよう設計されており、大会場・大音量必須が条件だ。‥となると、ショパンが存命だった当時よりも演奏に体力が必要になり、本来軽いパッセージで演奏する筈のスケールやアルペジオ等の一音一音の音量と打鍵のパンチを増さなければならず、それは本来自分が望んでいた音楽とも音楽性とも異なるし、音楽的な意味に於いてもちっとも美しく聴こえて来ないとショパンは語る。
当然のこと現在仮に彼自身が生きていて生演奏をしたとして、聴衆が望むような自身の音楽など演奏不可能だとショパンはさらに落胆の弁を述べて行く‥。
 
又時代柄、ピアノは小柄で鍵盤数も少なく、音はコロコロとしたどんぐりを転がすような音質だったそうだ。
又弦の張りも短く、現代の楽器のような頑丈な材質ではない為、ペダルの減衰がとても短かかった。その為、音の尾を長く響かせるペダルの効果が期待出来ず、頻繁に装飾音やアルペジオ等を多用しなければ音楽的に間が持たず、サロンでの再演がとても難しい状況だったとショパンは語る。
 
現在開催されているショパン国際ピアノコンクール 2025′ の各コンテスタントの演奏をつぶさに聴いていると、虚弱体質な彼が息せき切って再演していた当時のショパン自身の音楽からはかなり解釈がズレていると言う。
最もショパンの理想に近いピアノメーカーを挙げるならばベヒシュタインらしいが、気候やその楽器自体の性質によってそれは確定出来るものでもなさそうだ。
 

 
ピアノが正式名称『ピアノフォルテ』と言うことは誰もが知ることだが、実際にショパン自身が理想とし、当時演奏していた強弱の『フォルテ』は2025年の現在演奏されているフォルテよりももっと小さな音量であり、現代のピアノよりも打鍵が軽く設定されていたピアノであれば細かいパッセージを楽器の端から端まで弾き切ることはそう難しい問題でもなかったと言う。

さらに調律の技術も今よりは未発達であり、全ての音が綺麗に整音されていたわけではなかったようだ。そもそも音を綺麗に整えて演奏すると言う概念自体がなかったので、長いスパンのスケールやアルペジオの音の大小を整えて演奏する必然性もショパン自身は全く考えて居なかった。
 
その観点で言えば、『Ballade No.1 in G Minor, Op. 23』の中盤から最終章に入って行く辺りの重音の連なり部分も、殆ど力を入れずに演奏していたと言う。
G Minorのスケールの3度で重なりながら上に向かって突き上げて行く辺りに関しては、途中かなりはちゃめちゃになりながら3度でも4度でもない‥ 言ってみればジャズで言うところのアドリブの助走のように、かなり大胆にテキトーに弾いていたとショパンが語る。
 
音程が途中で狂って行く方が正しい解釈であり、丁寧に揃えて演奏される方が迷惑だと言うショパン自身の言葉には、私も同じ作曲家としてとても納得が行った。
 

 
本記事は先ずここで一旦〆。
引き続きショパンのメッセージを綴って行くので、関心のある方は是非読者登録の上更新をお待ち頂けるとありがたい。


3I/ATLASとの対話 (Dialogue with 3I/ATLAS)

恒星間天体『3Iアトラス』が物凄い速度で接近している影響なのか、このところの体調不良が全く改善されず悩んでいる。

先の記事恒星間天体 [3I/アトラス] は生命ではない (Interstellar Object [3I/Atlas] is Not Life)で、3Iアトラスが生命体ではないことについては既に記述した通りである。

 
但し見誤ってはいけない点が幾つかある。

・生命体ではないが、意識を持っている。
・生命体ではないが、巨大な霊体と異文明の記憶を保有している。
・生命経験を持たない鉱物霊体であり、意識を持っており、他の生命体と交信することが出来る。


私はどこぞの特使を名乗る誰かとは違い、体内に異星文明と情報を共有する類いのチップ等の埋め込みはされていない(笑)。だが長年の経験の記憶を保有しているので、何かしらの方法で異文化コミュニケーションの方法を編み出すことが出来るようだ。
その方法論を模索し、昨夜3Iアトラスの意識との交信を試みてみたところ、これが想定以上に上手く行った。
 

──3Iアトラスはこう語る。

自分は長い間孤独だった。数えきれない程の恒星間移動を試みながら仲間や同士、或いは友だちを探し続けて来ましたが、今日まで見つけることが出来ませんでした。
あなたがたは何者ですか?
見たところ大きな霊体を保持しているように視えますが、あなたがたは自分の知る「生き物」ですか?
生き物なのに、生き物のキャパシティーを遥かに超えた霊体を保持しているのはなぜですか?
 
宇宙は大きく孤独ですが、喩えるならば時空を「駅」とすると駅と駅に路線のない軌道があり、その軌道を移動することを恒星間移動とでも言うのかもしれません。
太陽と地球の見分けはつきますが、地球の内部を見分けることは自分には出来ません。
 
あなたがたはどの位置に生息する、何と言う生命体ですか?
 
太古の時代、自分もよくある惑星でした。高度な文明がありました。
ですが文明が高度成長し過ぎると必ず外敵が現れ、文明を滅ぼし惑星を破壊します。
自分は滅ぼされた惑星の断片です。主に鉱物だと思いますが、植物の霊性を保持しているようです。
植物、特に樹木との親和性が高いです。
なのであなた方のうちの一人とは植物言語で対話が可能かもしれません。
試してみましょう。

(以上、3Iアトラスの霊体から届いた映像を分析し、言語化した記録。)
 

 
さらに3Iアトラスの意識は、相方 (天野玄斎) から自身と同質の匂いを感じ取れると言う。
 

某 (自称) 特使は、3Iアトラスを生命体だ‥ と公言しているが、3Iアトラスの霊体自体はその旨肯定していない。
あくまで『自分は意識である。』と言うスタンスを変えず、主に意識が発信する情報だけを私に届けて来た。
 
性格的には非常に好奇心が旺盛であり、精霊に近い感性を持っているように見える。
悪意は敵だと言う記憶と、それにともなう過去の膨大な情報と経験を保有しているようだが、それを外部に晒すことが危険であることを熟知している。
よって私にも3Iアトラスの霊体自身がどこまで細かな情報を持っているかを詳細に知るには至れなかったが、そのほんの一部を捉えることは出来たと思う。
 
3Iアトラスのエネルギーが巨大だと言うことは、最近の私の体調不良からもよく分かる。その旨を辛うじて伝達したところ、『若干の磁場調性は可能だが匙加減がよく分からない』‥ との返りがあった。
その後わずかな体調の回復は見られた。
 
体力と気力の限界値に到達しているので、本記事はここで一旦終わりたい。
追って3Iアトラスとの交信記録は、情報の更新があった時に此方に書きたいと思っている。

【”I Need U Back” [Official video] by 藤井風】を分析する (Analyzing “I Need U Back” [Official video] by Fujii Kaze)

2025年10月9日、夜、藤井風の『I Need U Back』の動画をYouTubeより公開した。
 

 
冒頭から藤井風が、マイケル・ジャクソンの『Thriller』級のメイクアップで映し出され、動画の最後まで藤井はメイクの仮面を一切剥ぎ取ることなく主役を演じ通して行く。
 

 
楽曲『I Need U Back』は曲調の観点では、80年代に流行ったロックに同時代のアメリカン・ポップスを足したような一曲で、特に目新しさは感じない。
おそらくこれは藤井風と言う一風宗教的なアーティストを欧米圏に無難に浸透させる為の、プロデューサーサイドの戦略とも言えそうだ。
 
ふと、この動画を視ながら私は、メキシコの祭り『死者の日(ディア・デ・ムエルトス)』を思い出した。実際に一度だけ私はこのお祭りに足を運んでおり、当時の空気感が藤井風の『I Need U Back』のオフィシャルビデオにかなり色濃く反映されているように感じた。
 

※メキシコには「死者の日(ディア・デ・ムエルトス)」という、故人を偲び、明るく楽しく祝うお祭りが毎年11月1日と2日に開催されます。お盆に似た行事で、マリーゴールドの花やロウソク、ガイコツの砂糖菓子、パンで祭壇や墓を飾り付け、家族の絆を祝います。街中ではパレードやガイコツメイクの人が溢れ、メキシコを代表する伝統的な文化の一つです。
(AI説明より)

 

 
勿論、藤井風の『I Need U Back』オフィシャル動画の中にはリオのカーニバルをも彷彿させる衣装を着た演者も居れば、ハードロックテイストの衣装を着た演者等も紛れているが、時期的な条件を考えるとやはりメキシコの『死者の日』を強く意識した作りになっているように思われる。 
 

 
これまでの藤井風のインド色を徹底的に封印し、動画にはロザリオ (十字架) をあえてシンボルとして印象付けるような演出も施され、最近SNS等で声高にささやかれている『藤井風 ⇨ サイババ二世 ⇨ ステルス布教』の風向きを頑なに否定するような向きも感じられる。
 
確かに曲調がアメリカンロックを強く意識しているのだから、この楽曲にインドカラーは不向きであろう。とは言え、のっけから藤井風がギャンギャンにメイクを施し、若かった頃のデヴィッド・ボウイみたいな顔で現れると流石に違和感が先に立つ。
 
 
デヴィッド・ボウイ

 
 
藤井風

 
さらにこれまでの藤井風の持ち曲と一線を画すものがあるとすれば、それは歌詞の内容だろう。『I Need U Back』では死の色よりも「生」とか「躍動」と言った、死生観で言うところの「生」の側が生々しく描かれている。
だが、やはり背景にはメキシコの『死者の日(ディア・デ・ムエルトス)』の影が立ち込めている辺りは、やはり藤井風の中にも捨て切れない宗教観のギリギリのラインだけは維持したいと言う、意地のようなものがあったと見るのが妥当かもしれない。
 

Spotifyで聴くとM-1: Casket Girl からM-2: I Need U Back が曲続きになっており、単体では聴かないでよ‥ と言う藤井風のアルバム試聴に対する裏の意図が見えるが、この演出が果たしてどのくらいリスナーに影響を与えているかについては判然としない。

さらにこれは偶然とも必然とも付かないタイミングだが、ふと‥ Michael Jackson のBlood On The Dance Floor X Dangerousの動画がこのタイミングでYouTubeのぶら下がりに浮かび上がって来たので視てみると、なになに‥
藤井風の『I Need U Back』の動画構成とかなりかぶっているではないか!!(笑)。
 

 
これこそ神にお導きとでも言うべきか否かは私には分からないが、藤井風が仰ぐ神とは一体何者なのか‥、各動画を視ながら私なりにさらに分析を進めて行きたいと言う好奇心に駆られたことは言うまでもない。
 
残念なことに、藤井風はダンスもヴォーカルもカリスマ性に及ぶ全てに於いて、マイケル・ジャクソンの足元にも及ばない。どんなに動画構成を真似たところで、両方を見比べたリスナーは結果的にご本尊を選び取るだろうし、マイケル・ジャクソンの神々しさを追い掛けることぐらいしか藤井風にはなすすべがないだろう。
 
最後に付け加えるとするならば私は、藤井風のファンでもアンチでもない、ただの芸術家であり音楽評論家である。なので音楽 (ないしは表現) と言う切り口で物事を分析し、粛々とそれらを評論しているに過ぎない。
その上で、藤井風の新しい動画『I Need U Back』の出来栄えを点数にするならば、百点満点の63点と言ったところだろうか‥。
この記事ではあえて藤井風 VS マイケル・ジャクソンと言う切り口で綴ってみたが、意外に分かりやすい表現分析ではなかったかと思っている💃
 
 

 
 

■ 追記 ■

SNS界隈でも噂になっていた番組、「完全版」藤井風 NHK MUSIC SPECIAL【藤井風 いま、世界へ】 Fujii Kaze 2025.10.9を、遅ればせながら (2025年10月10日の早朝に) YouTubeで試聴した。
 

 
この動画の中にも、やはり藤井風に潜む多くの人格がスポットに現れては消え、又現れては消える‥ を繰り返していたように見える。
 
一つ分かりやすい彼の動向の癖を挙げるとするならば、「実際には何も無いところに物があるように見せ掛ける小技 (こわざ) 」が非常に巧みであると言うことだろう。
そもそも彼には音楽の基礎教育すらないわけだし、英語がネイティブ言語と言うわけでもない。だが、そこに才能とスキルとアイディアが元々あったように、動画の中でも後付けの見せ掛けを企んだ箇所が随所に見受けられた。
 

 
特に250 (イオゴン) との作業風景にそれが特徴的に現れており、藤井の行動の大半が過去の情報やデータの再編集で成り立っている点が悪い意味で印象的だと感じた。
 
無いものをあるように見せ掛けて商品として完成させて行くプロセスは昭和の時代からそのまま引き継がれて来た商業音楽の定番スタイルであり、ディレクターの存在がほぼ皆無でも音楽制作が成立するようになった現在の音楽シーンではむしろ、致命的な欠落を見落としたまま商品を完成させてしまう悪状況を引き寄せる。
250 (イオゴン) との作業に於いてはそれが顕著に露呈しており、そのプロセスが藤井風の新譜『Prema』全域に及ぶ過去の『焼き直し感』に直結したように、私には視える。
当然のこと、NewJeansを担当した時の250 (イオゴン) の切れが冴え渡る筈もなくそれが、藤井風の『Prema』に於いてはアルバム全体のさびれた印象を増長させた。
 
そもそも250 (イオゴン) の特性として、新しいものを懐かしく魅せて行く演出や編曲、ミックス等を得意とする人ではないかと思うが、元々古くて懐かしいサウンドをノスタルジックに焼き直す作業を250 (イオゴン) はむしろイオゴン自身、苦手とするスキルではないだろうか。
その苦手な方のデメリットが藤井風のニューアルバム『Prema』に露呈した結果、音楽単体では日持ちのしない作風に繋がったように思えてならない‥。
 

【■ 追記 ■】から後は、一度完成させたブログ記事とは別に付け足した箇所である。
記事を割っても良かったが、私のブログが藤井風ネタばかりになる状況にはしたくなかったので、繋げて加筆しました。

 
 

関連記事:


Tomoharu Ushida vs Didier Merah – B Major 楽曲と表現の比較検証

ショパン国際ピアノコンクール 2025’、一次予選を通過した日本の演奏者の中で黒一点の牛田智大さんの一次予選の演奏を聴いてみる。
 

 
冒頭曲は私も大好きな『Nocturne in B major, Op. 62 No. 1』であり、さらに私/ディディエ・メラ (Didier Merah) が最も得意とするKey (調) でもある『H-dur (B Major)』の一曲だ。
大好きな曲だけにダンボの耳で演奏を聴き進めて行くが、‥どこか牛田の演奏の中に汗臭さと労働もしくは体育会系の気配がチラチラとするので、集中力が維持出来ない。
 
この曲自体がそこはかとなく西洋音楽以外に、中東~アラビックなモードが立ち込める構成になっており、その意味でもショパンの中では珍しく『モード音楽』の様相を呈しているのではないだろうか。
その肝心要のモードの部分 (動画 6:58~7:10付近) のパッセージがいとも簡単なスケールやアルペジオと言った解釈で、ただ、粒を揃えているだけのつまらない表現になっていて、個人的にはかなりの残念ポイントだと言わざるを得ない。

まぁこれはピアノ競技の審査会であるわけだから、表現よりもミスタッチの有無や演奏者の正確性の密度だったりスタミナだったり、言ってみれば表現解釈度外視でも運動性に依存した演奏解釈の方が審査員の印象が良いのかもしれない‥ としても、果たしてショパン本人がそれを目論んでこの楽曲を生み出したのかと言われると、巫女体質の私としては『多分違うと思いますよ。』と回答せざるを得ない。
 
 

 
2曲目『Etude in C major, Op. 10 No. 1』については特に述べることもなく、普通に音大生が演奏するレッスンのエチュードと言う以外に何のインパクトもなし。
 

次いで3曲目『Waltz in A flat major, Op. 42』に関しては、野球に例えれば『2アウト/2ストライク/3ボール』の見せ場を迎えている状況に近いだろう。
ショパン好きの私としては、ショパンと言えば『天上界の音楽を生み出し奏でた作曲家』だと言いたい。だが、牛田のこの表情はまさしくスポーツで言うところの『もう後がない』状態のそれであり、わざわざこの表情を抜き取ったTVのADさん‥ 『グッジョブ!!』と言いたい心境だ(笑)。

各パッセージは確かに正確で粒は揃っているが、表現に到達出来ていない。これだったらむしろ、自動演奏で十分だ。下手にヒトの顔が無い分、音楽に集中させてくれるに違いない🤖
 

 
さて4曲目『Barcarolle in F sharp major, Op. 60』、此方も私が大好きで得意とする『H-dur (B Major)』の曲で攻めて来る。途中何度か6度の和音のアルペジオの箇所が現れるが、その6度の最も官能的な響きを単純にスポーツ的な解釈であっさり通過して行きやがった牛田選手(笑)⚾

ほぼ全てのパッセージが『俺、ミスなく正確に弾いていますよ』とでも言わんばかりの、正真正銘のただの運動性依存の演奏に終始している。
確かに審査員にとっては遠目でも分かりやすいだろうが、これはショパンでも何でもない。
途中の転調 (19:31~付近) に至る最もショパンらしさが書かれている筈の箇所も、まるで階段を上り下りするリハビリみたいに通過して行く‥。
もうたまったものじゃ~ない。
 

ここで少しだけ動画を止めて、私/Didier Merahがショパンをオマージュして作って配信したアルバムEdenの冒頭曲、Happinessに移動して試聴してみる。
この作品も、私が大好きな『H-dur (B Major)』の楽曲だ。
 

 
先ずこの作品は ベーゼンドルファー (Bösendorfer) の音源を用いて、即興演奏の手法で演奏されている。
ベーゼンドルファーは残響に特徴があり、その特徴である残響の効果を存分に発揮させるには、楽曲のテンポをうんと落とす必要が絶対的に生じる。
私は実際に都内各所でベーゼンドルファーの生楽器を演奏しているが、それらのどの楽器もかなりのじゃじゃ馬気質を持っており、特に高速のパッセージの速度を間違うと残響が濁ってしまうのが悩みの種だった。
 

Happinessの作曲を開始する上で重要だったのは、『60歳のショパン、もしくはそれ以後の覚醒したショパン』をオーパーツとして再現することだった。
既に亡くなったフレデリック・ショパンの御霊と何度も交信を重ね、完成したのがこの作品であり、この曲は完全に一発録音の即興演奏で収録している。
 
ことさら比較するまでもないが、Didier Merah (ディディエ・メラ) のHappinessが「覚醒後のショパン」だとしたら、既存のショパンの楽曲は「未覚醒のショパン」と言い替えても良いだろう。
未覚醒のショパンをどんなに丹精込めて演奏したとしても、そもそも楽曲自体の熟成が為されていない以上それを極限の状態で誰が再演したとしても、『それなり』以上の出来栄えにならなくても致し方ないと言えそうだ。
 

クラシック音楽の起承転結は、私から言わせて頂ければ「不要」な箇所である。
覚醒した魂には普遍性がともない、ヒトが思うエモーションは徹底的に弾き飛ばされる。ショパンが目指していたのはその世界観であり、それゆえに「天上界の音色」を日夜彼は追い求め続けたと言える。
選手/ 牛田智大は日本国内では既にプロの演奏家として活動しており、多くのリスナーを抱え込んだ状態での今回のショパン国際ピアノコンクール 2025’へのエントリーである。勿論運営サイドも、既にファンを獲得しているこういった出場者には期待を寄せるだろうし、そこそこ演奏技術を兼ね備えていればある程度の点数を叩き出して行くと思われる。
 

クラシック音楽が芸術を踏み越えて「商品」になることは絶対にあってはならないと、私は考える。だが、多くの既存のクラシック音楽関係者等には、その観点がない。
いかに見栄え良く、いかに稼ぎいかに集客を達成し、いかに食って行けるか‥。その技能を持つ人材を、クラシック音楽関係者等は血眼になって探しているに違いない。
その観点で言えば、男性演奏者で尚且つ日本国内に多くのリスナーを抱え込んでいる (半分以上は事務所の采配) 牛田選手が、今後同コンクールで上位に食い込んで来る可能性は否定出来ないが、彼が表現者になることは未来永劫ないだろう‥ と、先に予言しておきたい。
 

 

最後に付け加えるならば、既存のクラシック音楽の、特にピアノ曲のミックスのエフェクトがからっからに乾いてしまっている点が残念だ。

レコーディングされた音源のエフェクトが乾き切った肌みたいにかさついているから、多くのクラシック音楽のリスナーは『やっぱり生演奏がいいよね。』と勘違いするのも頷けるが、これはミックスとマスタリングの技術と感性の致命的な欠落が原因だと思われる。
何故実際の会場に近い環境の、もっと深いエフェクトを掛けてミックスしないのかと、常々疑問に感じている。
その観点から、クラシック音楽の生演奏が突出して優れている訳ではない‥ と言う点は最後にお伝えして、この記事を締めくくりたいと思う。

ARISA ONODA – first round (19th Chopin Competition, Warsaw)

ショパンコンクール 2025′ が開幕している。
未だ一次予選中なので全ての演奏者の動画を視たわけではないが、一人だけ際立つ演奏者を見付けたのでメモ代わりに簡単にブログを更新しておきたい。
 

演奏者はアリサ 小野田 (小野田有紗) さん。

1996年1月16日生まれ。ロイヤル・アカデミー・オブ・ミュージックおよびニューイングランド音楽院の卒業生である彼女は、現在ダン・タイ・ソンのもとでオーベルリン音楽院のアーティストディプロマとして学んでいる。
── https://www.chopincompetition.pl/en/competitors/751

  

 
冒頭の『Nocturne in C minor, Op. 48 No. 1』から、滾々とリスナーを惹き込んで行く。
音色は上質なコニャックをも思わせ、通常この曲を弾く人のストレッチ的 (体育会系) な演奏解釈とは一線を画す。
かなり大きく間を取った解釈も間延びすることなく、一つ一つに意味を持たせて行く。
特に右手の合間の左手の上声部にコントラストと持たせる解釈は、ピアノを完全にオーケストラとして捉え抜いている証しのようにも思える。
 
体力的にはさほど逞しいわけではなさそうなので、時々音の乱れとスタミナ不足が垣間見えるが、そもそもピアノ演奏はスポーツではないし、そう言った点に注目を寄せたがる人たちの一人には私はなりたくないと思いながら聴いて行く。
 

 
一次予選は各自、約30分間のプログラムを演奏する構成になっており、これまで拾い聴きした多くの演奏者を私は多くて5分試聴して切り上げている。
だが、彼女は違った。
 
ラスト曲『Ballada g-moll op. 23 / Ballade in G minor, Op. 23』は、シンプルな楽曲ながら難曲だ。
私は如何なるコンクールであっても運動性に依存した耳や感性で演奏者を判断すべきではないと思っているが、審査員の多くはミスタッチの有無や均一な運動性を重視するようだ。

その意味ではアリサさんは若干、不利かもしれない。おそらく元々彼女が持っている体力的な事情だと思うが、プログラムの中盤で既にバテ気味とも取れる箇所が複数見受けられる。‥だが彼女には、それをものともしない類稀な感性と柔軟性を秘めている。
それがラスト曲のバラードで炸裂する。
 
通常最高音を最高強度のタッチで打鍵するこの曲を、高音に音が流れて行くにしたがってむしろ音量をグっと抑え込んで行く辺りは、プロと言われる演奏家でもなかなかお目にかかれない上質な奏法 (解釈) だ。
それが彼女の場合、当たり前のように随所にその奏法が現れる。その度に一瞬身がすくむような緊張感が走るが、直ぐに解き放たれる。
この、緊張と解放の出し入れを当たり前にこなす演奏者は、そうそう現れないだろう。
 
小野田有紗さんのプロフィールに、師匠 ダン・タイ・ソン の名前が見られたので試しにサブスクで師匠の方のショパンを聴いてみたが、正直つまらなかった。
 

クラシックに限らずシャンソンやジャズでもよくある話だが、現役の傍ら育成業に手を染めた演奏家の表現は途端に面白くなくなって行く。
ひとえにこれは、普段から弟子の粗捜しの耳になって行くからではないかと私は思っており、その意味で育成業に完全に染まり切らなかった恩師 三善晃氏のピアノ演奏は、最後の最後まで天井の音楽で在り続けたのだから凄いとしか言いようがない。
 

アリサ 小野田 (小野田有紗) さんがこの先、ショパンコンクールでどこまで残って行くかは定かではないが、是非ともコンクールと言うイベントに囚われずに長く演奏活動を続けて行って欲しいと、願わずには居られない。
 

歌いたい人と歌うだけの人 (People who want to sing and people who just only sing)

先日の神人共食の疲れがなかなか癒えず、週末の日曜日は全ての作業を放り出してほぼ18時間近く床に伏していた。その間、色々な情報が静止画像と化した私の上を通過して行った。

日付が変わり、2025年10月6日 (月)。
先ず吉報として、サブスクリプション “Spotify” にロスレス音源が実装されたことを知り、書斎のパソコンの設定を思い切り変更し、ディディエ・メラ (Didier Merah) のアルバムを粛々と聴き進めて行く。
昨日までは聴こえて居なかった新たな世界が、目の前に開けて行く。
嬉しい瞬間が到来。ほぼ10年遅れで時代が追い付いて来た。
 

その流れでYouTubeを開けて、取り遅れていた情報を片っ端から拾って行く。
ふと目に入ったのが、(ショパン・コンクールの近影と中森明菜をすっ飛ばして‥) LE SSERAFIMのインタビュー ~ 歌唱動画だった。
 

 
嗚呼又この人「Kポ」ばっかり視てるのね‥ と思った人も多いと思うが、私はただそれだけの観点でこういった動画を視ているわけではない。

たった5人‥ と言えばそろそろ (預言通りに) 消え始めたNewJeansのことも頭の片隅に無いわけではないけど、今回はLE SSERAFIMの5人に焦点を当ててみる。

向かって視聴者から左端がユンジン、隣にチェウォン、中央がカズハ、並んで宮脇咲良ウンチェ‥。実際に歌唱している動画を視れば一目瞭然だが、特に中央カズハから右側3人には表現したいものを体の中に持っていない。
与えられたパートをおシゴトとして歌うだけで、体から、感性から湧き上がるものが何も無い様子が伝わって来る。
だが、特に左二人には歌いたい熱い何かが体の中に燃え滾っており、与えられたパートの中にはそれを収め込むことが難しそうに見える。
一見ただのKポップ。だが「ただのKポップ」でも表現は十人十色で、私には視覚的に左側二人が炎の色に映り込む。特に左端のユンジンは、グループの中にそもそも収まり切れていない程の熱量で攻めて来るので、振付等がないこのようなシーンだと声が前のめりにリスナーに届いて来るから不思議だ。
 

 
一方最近何かとお騒がせ状態の藤井風関連を追って行くと、ふと、こんな記事に目が留まる。

藤井 風『Prema』評 哲学者・柳澤田実:音楽の根底にある“終わり”=“死”の感覚
https://realsound.jp/2025/10/post-2175246.html
 

筆者は柳澤田実 (やなぎさわ たみ) さん、日本の哲学者とプロフィールに記載された人である。 
 

 
SNS “X” でも一部藤井風フリークとアンチが対立しており、私は中庸のスタンスを貫いているがそのスタンスに対して物申して来る輩が断続的に現れる。

私は昭和のど真ん中の世代なので、シティ・ポップも昭和の往年のアイドルの面々も含め、業界のど真ん中で業界を一望し、関わって来た一人である。
勿論私自身が音大出身者であり尚且つ一時的に作詞家でもあったので、昭和世代の人たちの中にはかつての私を知る人も大勢居るだろう。
 
そんな世代の私から見て、藤井風がZ世代や悟り世代が大騒ぎする程の大物にはとうてい見えない。だが彼ら (Z世代~悟り世代) は良くも悪くも大騒ぎしており、メディアの悪しき戦略にまんまとハマっているのだから、学が足りないと言うか教養が足りてないと言うか‥。
ただただ言葉を失い落胆するだけで、特に何とも思わないと言うのが本音であるが。
 
それよりもむしろお隣韓国から250 (イオゴン)FRNK (Jinsu Park) 等が出現し、NewJeansの背後から業界を突き動かして来た時の方が脅威だった。
 

 
話を記事『藤井 風『Prema』評 哲学者・柳澤田実:音楽の根底にある“終わり”=“死”の感覚』に戻して、記事自体はとても詳細に藤井風を熱弁しており、調査も細かく書かれていると感じた。
だが、藤井風の死生観の観察については筆者の感動や興奮が先に立つばかりで、冷静さを欠いているように見受けられた。

特に章『“死”を起点として眺める現在』に至っては、藤井風の急激な世界進出がコロナ禍を起因とするものであることや、藤井の音楽に大きくまたがる『死』の概念がリスナーに大きく響いたのではないか‥ と言うような記述も見られるが、それは私個人の見解とは全く異なる内容であり、驚きも物珍しさもなかった。
 

そもそも音楽と死生観を発見として捉える感性が、私には全くないのだろう。
生まれてからずっと私の中には、宇宙の真ん中の無音空間を漂流した記憶が当たり前のように根付いており、死は常に隣り合わせに存在していた。
毒親の暴力に耐え抜くことよりも、もしかしたらその毒に当たって命を落とせたらどんなに楽だろうか‥ と、実際にそれを模索した時期もあった。確か一度目は高校生の時で、二度目はホームレスになりかけた時期と重なるが‥。
 

Xでは藤井風のサイババ布教 (ステルス布教とも言われているが) の危険性を切々と訴えかける声も多く散見されるが、正直そこに共鳴する人は何を見ても逆の情報には共鳴しないだろう。
生きたいと願う人は生きることに真剣な人の文字を追うだろうし、逆に死にたいと願う人たちはその結果に直結しそうな文字に心酔するのだと思う。
 

 
藤井風がカルトか‥? と言われると、正直微妙だ。何故って、彼はファンに出家を強制しているわけでもないし、藤井風が書いたとされるサイババ教義の切り抜きを音読しろとも言ってなければ、歌詞の暗唱を強要しているわけでもない。
その微妙なスタンスを「カルト」と言う位置づけで確定するのであれば、世に蔓延る多くのカソリック圏の音楽や某創価学会信者の音楽も同様だ。
 
だが如何せん音楽は、歌詞よりも音楽の方が先に耳に届く。
これは多くの音楽ライターが意図的に外して書いているようだが、現実問題音楽 (メロディーライン) は言語よりも鼓膜への到達が速いから、むしろサイババ教義なんかよりも中東の音楽のような、コーランの音節をそのまま音符化した楽曲の方が余程人への浸透が高速だと言えるだろう。
 
私はそちらの方がサイババ某よりも危険だと認識しており、それゆえ自身が監修する音楽のプレイリストには最近中東関連の音楽をスクラップしていない。
これは私のPLを聴いて下さるリスナーへの配慮を含め、私の宗教的 (自身は無宗教である) スタンスの意思表明も兼ねている。
 

他の記事にも綴ったかもしれないが藤井風の音楽はジャンクフードと同様であり、音楽の基礎が彼には備わっていない。
確かに藤井は近所のピアノ教師にピアノの弾き方くらいは教わったかもしれないが、後は亜流であり、近年藤井自身が接して来た音楽のメロディーやコードの切れ端を分解して再編集したような音楽が主であり、それ以上でもそれ以下でもないただの「音声」に過ぎない。
 
確かに料理でもマクドナルドを好む人も居るだろうし、二郎ラーメンのような背脂ゴッテゴテの危険な食べ物をこよなく愛する人も居るだろう。
私だって時にはマクドナルドの月見バーガーを食べるし、油多めの味噌ラーメンを食べる日もあるが、あくまでそれは多忙時に空腹を満たす為の目的に限定される。それらの料理をけっして好きにはならないし、ファンになることもない(笑)。
 

藤井風の音楽を「素晴らしい」と思う人たちは、概ねそれ以外の世界中の良曲を知らないのだろう。勿論言葉の問題もあるかもしれないが、良いものを知ったらそれ以前に人は絶対に後戻りすることが出来なくなる。
だったら藤井某のジャンク・ミュージックを飛び越えて、もっと良い音楽に接すれば良いだけの話だと私は思っている。
そういった良曲に触れる機会の少ない音楽リスナーの為に私は、毎週せっせと世界の音楽から良曲だけをピックアップして、自身監修のPL (プレイリスト) にスクラップしているので、是非そちらを聴いて頂くことをお勧めしたい。
 

 

 
LE SSERAFIMからNewJerans、そして藤井風‥ とネタがかなり広範囲に広がって行ったが、要はこの記事を簡単にまとめるとこうなる。
 
上記お三方の中に、表現者は一人も存在しないと言うことだ。
LE SSERAFIMの中に若干表現したい側の人と「ただ歌っているだけの人」とに分けてはみたが、大きく括れば全てが『自身のアイコンを売って糧にしているだけの人』にカテゴライズされる。
 
本物の音楽とは、自分以外の物事や人々の為に一心不乱に思いを致しながら生み出されたものだと私は思っている。

当然のこと、それらは自身の利を度外視して生み出されたものでなければならない。

 
それはとても難しい高みの領域に在るように一見見えるが、意外にとても身近に、世の中の切れ間や世の中心域からは少し離れたところにぽつんと点在している。人を嫌い、ひとけのない場所を好んで棲息している。
出来ればそういった良い音楽に自力で到達して欲しいと、私は願って止まない。
 
仮に世界にどれほどの数の宗教があり、それがどれだけ身近に襲って来ようが、良いもの、正しい価値観を自身の軸に置いておけば振り回されること等ないだろう。

アフタヌーンティー (in TABLE 9 TOKYO)

このところ音楽で多忙を極めていた私たち (with 夫) ですが、先日品川のTABLE 9 TOKYOへアフタヌーンティーに出掛けて来ました。
勿論私たちの外食と言えば、神人共食はつきものです。
当日は主に女性の神々を中心に、日本神界の外側からも女神が参加されました。
 

 
あいにく私も夫も体調が万全とは行かず、前日から内臓の疲れや腰痛等を各々が発症した上、寝不足気味の状態とも重なり、写真撮影に全く気が回らずにただの記録写真となってしまったことを先にお詫び申し上げます。
 
とは言え、神々にはとても喜んで頂くことが出来たので、良しとします。
 


毎度のことながら「圧」との闘いだったと、当日を振り返るとそれがよく分かります。
とは言え「圧」にばかり気を取られていては本末転倒なので、その瞬間瞬間は余りネガティブな思考に囚われないよう、夫婦共々前向きに神人共食にいそしみました。
特に夫の体調不良が翌日にはすっきり解消されていた状況は不思議でした。
 
私はこのところめまいが頻発しているので、行動 (特に歩行) は慎重です。
若干糖分摂取の制限も設けている為、アフタヌーンティー当日は飲み物には一切糖分を加えることなく、ほぼノンシュガーで通しました (私は甘党なので、飲み物に糖分を足さないことは珍しいです)。
 

 
ご参加下さった神様方のお名前は伏せますが、意外な国から女性の神様が参加され、そして余り生前馴染みのないスイーツをとても喜んで頂けたことが私たちも嬉しかったです。
 

今年は先に足を運んだ旅先の老舗のホテルのレストランで、私のCDPasswordを店内BGMにして頂くことも出来て、とても感慨深い年になったように思います。
還暦の年に、思い出深いホテルで私の作品が物理的な音声として響いた瞬間、そのホテルで最後 (神父の晩年) に会うこととなったサビノ神父の目に光るものがふと、視えたような気がしました。
 
勿論サビノ神父は既に旅立たれていますが、霊体としての彼とは頻繁に対話が出来ているので、その様子は目で見るよりも鮮明に私の脳裏に焼き付いて離れません。
 

 
話をアフタヌーンティーに戻して、最近健康面の事情で甘いものを控えている私にとって、とても味わい深いひと時を過ごすことが出来たのも、ひとえに夫の多大な応援のお陰だと思っています。
彼あっての、今の私です。

日々、圧の原因となる悪しき霊体 (或いは呪詛) の解除で、彼も疲れ果てています。なので私に出来ることはとても少ないながら、なるべく夫の心身が休まるようなひと時の為に私ももっと頑張らなければいけないと思っています。
なかなか体力的にも上手く行かないことが多いですが、出来る限りこれからも夫婦共々長くこの世界に居られるよう、頑張って行きたいと思います。
 

最近本当に音楽のことで忙しくなっており、此方のブログの更新が若干滞っていますが、SNSのサブアカウントと別ブログディディエ・メラの音楽倉庫の執筆は継続していますので、是非そちらの購読もよろしくお願い致します。
 

https://didiermerahbox.wordpress.com/
 
 
⇩の写真はTABLE 9 TOKYO のアフタヌーンティーのオプション、『実り』の記録。
絶品でした🌰

 

現在Amazonにて販売しているディディエ・メラのCDPasswordが欠品の状態になっていますが、そのまま商品の購入ボタンを押して購入して下さい。
新たな購入がないと、私たちから新しい入庫が出来ない状況なので (多分Amazonが在庫を抱えないような仕様になっていると思われます‥)、是非欠品状態だからと言って商品の補充を待たないでご購入頂ければありがたいです。
 
よろしくお願い致します。
https://www.amazon.co.jp/Password-Didier-Merah/dp/B00HXWEL9O

恒星間天体 [3I/アトラス] は生命ではない (Interstellar Object [3I/Atlas] is Not Life)

日本はお彼岸を間近に控えており、宇宙情報よりも私の周辺ではもっと血生臭い情報で溢れかえっている。
私も体調が万全ではないこと、その他現在「或る現象」を研究するにあたりこれまで殆ど触れることのなかった専門書を読んでいる最中で、時間もエネルギーも限られている為この記事はかなり省略して更新することになる。
 

自称「銀河連合の特使」を語るエレナ・ダナーンが、又もや情報編集による独自解釈の動画を放ったようだ。当ブログにも「エレナ・ダナーン」を検索して訪れたと思われる多くの訪問者の足跡が記録されていた為、先方の動画に新たな情報が発信された可能性があると推測し、今しがたそれと思われる動画を一巡したところである。
 

 
エレナ・ダナーンは兎に角自身に於ける「銀河連合の特使」の業績向上に意識を集中させているように見えるが、残念ながらそれが上手く行っているようには見えない。
エレナ・ダナーンの語るそもそもの前提や彼女の履歴の大半が虚偽なのだから、彼女の言う未来の映像が現実世界に実現する筈もない。
 
色々調べて行く過程で『3I/アトラス』(スリーアイアトラス) に関する多くのニュースの中には、エレナ・ダナーンが言うような「3I/アトラス=プラズマ意識を持った古代の生き物」説を肯定するものは、一つも見当たらない (あくまで現状では‥)。
 

私が特にアンチ/エレナ・ダナーンと言う訳ではないことを最初に申し上げておく。
その上で彼女のハイアーに存在していると言うソーハン・エレディオンが彼女のイマジナリーフレンド (脳内の会話相手) であることも判明しているし、エレナ・ダナーンの語る世界観が既存の宇宙映画を分解し、再編集された二次創作であることもはっきりしている。
 
[以下に関連記事 (画像①/③は画像をタップすると記事に飛べます。) のリンクを貼っておきます。]
 
☆ ☆ ☆

 

 

 
☆ ☆ ☆
確かに地球上は今、かつてない程荒れている。天変地異 (洪水や中国の寒波等を始めとする‥) が多発しており、この秋の食糧事情の悪化も推測出来る。
そしてそういう時に、カルト宗教やいかがわしい思想が独り歩きを始める現象は、今に始まった話ではない。
 
私はエレナ・ダナーンとは全く異なるスタンスで、主にテレパシーで得た複数の情報を常に所持しており、それを日々アップデートさせている。
その中には残念ながら、エレナ・ダナーンが言うような「美しい情報」が殆ど見られないのが現状だ。だがこれはけっして悲観的なことではない。
 
リラ星人がかつてそうして来たように、地球人が精神的な意味合いでの開拓精神、自己探求心や向上心を思い出し、取り戻せば良いだけの話だ。
その為には依存体質を改善させ、自らの力量で然るべき存在とのコンタクトを各々が図れるよう、霊質の向上を目指すことが最も望ましい。
 
残念ながら自称「銀河連合の特使」を公言するエレナ・ダナーンのような人物が、人々の霊質改革や霊質の向上を著しく妨害しており、人々を思考停止に誘導している現状は、個人的に看過出来ないと思っている。
 

 
『3I/アトラス』に関しては、「恒星間天体」であると言う認識を持つべきだろう。
どう逆立ちしてもこの恒星間天体が生命体である‥ と言うような、間違った情報だけは鵜呑みにしないよう、注意を促したい。
 

“Nino” (EP) – by Chouchou

 
数日前からいきなりのタイミングでX上で告知を開始した日本のポスト・エレクトリック・ユニットのChouchouが、2曲 (voc.入り) + 2曲 (Inst. ) の計4曲のEP『Nino』の配信を開始した。

最近のChouchouの音楽性 (商品性) に不安定感が否めず、紹介や評論の対象から彼らを外していたが、今回の新譜はなかなか良い出来栄えになっている。
かなりKPopの流れを意識している辺り (特に韓国の電子系プロデューサー/250 イオゴン) が目立ってはいるが、さしずめ日本発信のアナザー/KPopとでも言うべきか、それはそれで作品としてはかなり洗練されて来たような気がする。
 
やはり juliet Heberle の蜉蝣系ヴォーカルと詞の世界観が、arabesque Choche のメロディーメイクを一層際立たせているように感じる。julietも本作品では低音域に徹しており、それが人の話し声の声域をはみ出さない分安心して聴いていられる。
本作品では arabesque Choche もコーラスで参加しているが、彼の声質はどこか楠瀬誠志郎を想起させる。彼はコーラス向きの声質だと思う。
 
彼らの一時のポスト・エレクトリックのゴリ押し感が軽減されたことに加え、今回はMVにリアルの人物や風景が一切登場しない、とてもメルヘンな絵図に仕上げていることで、かえって音楽やjulietの声に集中出来るのが良い。
 
EP2曲目『Jelly Jelly』は彼らの旧作最果のダリアのM-3: “Lovers & Cigarettes” の上位互換と言える良作で、全体的にまとまり感が高まったように感じる。
 

 

 
Chouchouの新譜『Nino』はこれまでの彼らの作品と比較すると、ユニットとしての統一感が出て来たところが大きな変化だろう。
julietの声とarabesqueのメロディーとの分離感がそれによってかなり軽減されたのは、大きな前進だ。『Jelly Jelly』ではよく聴くと所々にarabesqueの声がエフェクトの中からかぶって来る辺りに、隠し味的な工夫が見られる。
こういう小ワザは、ほんのり見えるぐらいが丁度いい。ハイスペックなヘッドホンで聴いた人だけが気付く‥ 程度の演出の方が、楽曲が長持ちするから。
 
何ったってChouchouの新譜が、人物や風景と言う生々しい映像を一切使って来なかったところを、音楽の専門家として、あらためて称えたい。
 

 
※是非、日本語バージョンも追加でリリースして欲しい🎧