歌いたい人と歌うだけの人 (People who want to sing and people who just only sing)

先日の神人共食の疲れがなかなか癒えず、週末の日曜日は全ての作業を放り出してほぼ18時間近く床に伏していた。その間、色々な情報が静止画像と化した私の上を通過して行った。

日付が変わり、2025年10月6日 (月)。
先ず吉報として、サブスクリプション “Spotify” にロスレス音源が実装されたことを知り、書斎のパソコンの設定を思い切り変更し、ディディエ・メラ (Didier Merah) のアルバムを粛々と聴き進めて行く。
昨日までは聴こえて居なかった新たな世界が、目の前に開けて行く。
嬉しい瞬間が到来。ほぼ10年遅れで時代が追い付いて来た。
 

その流れでYouTubeを開けて、取り遅れていた情報を片っ端から拾って行く。
ふと目に入ったのが、(ショパン・コンクールの近影と中森明菜をすっ飛ばして‥) LE SSERAFIMのインタビュー ~ 歌唱動画だった。
 

 
嗚呼又この人「Kポ」ばっかり視てるのね‥ と思った人も多いと思うが、私はただそれだけの観点でこういった動画を視ているわけではない。

たった5人‥ と言えばそろそろ (預言通りに) 消え始めたNewJeansのことも頭の片隅に無いわけではないけど、今回はLE SSERAFIMの5人に焦点を当ててみる。

向かって視聴者から左端がユンジン、隣にチェウォン、中央がカズハ、並んで宮脇咲良ウンチェ‥。実際に歌唱している動画を視れば一目瞭然だが、特に中央カズハから右側3人には表現したいものを体の中に持っていない。
与えられたパートをおシゴトとして歌うだけで、体から、感性から湧き上がるものが何も無い様子が伝わって来る。
だが、特に左二人には歌いたい熱い何かが体の中に燃え滾っており、与えられたパートの中にはそれを収め込むことが難しそうに見える。
一見ただのKポップ。だが「ただのKポップ」でも表現は十人十色で、私には視覚的に左側二人が炎の色に映り込む。特に左端のユンジンは、グループの中にそもそも収まり切れていない程の熱量で攻めて来るので、振付等がないこのようなシーンだと声が前のめりにリスナーに届いて来るから不思議だ。
 

 
一方最近何かとお騒がせ状態の藤井風関連を追って行くと、ふと、こんな記事に目が留まる。

藤井 風『Prema』評 哲学者・柳澤田実:音楽の根底にある“終わり”=“死”の感覚
https://realsound.jp/2025/10/post-2175246.html
 

筆者は柳澤田実 (やなぎさわ たみ) さん、日本の哲学者とプロフィールに記載された人である。 
 

 
SNS “X” でも一部藤井風フリークとアンチが対立しており、私は中庸のスタンスを貫いているがそのスタンスに対して物申して来る輩が断続的に現れる。

私は昭和のど真ん中の世代なので、シティ・ポップも昭和の往年のアイドルの面々も含め、業界のど真ん中で業界を一望し、関わって来た一人である。
勿論私自身が音大出身者であり尚且つ一時的に作詞家でもあったので、昭和世代の人たちの中にはかつての私を知る人も大勢居るだろう。
 
そんな世代の私から見て、藤井風がZ世代や悟り世代が大騒ぎする程の大物にはとうてい見えない。だが彼ら (Z世代~悟り世代) は良くも悪くも大騒ぎしており、メディアの悪しき戦略にまんまとハマっているのだから、学が足りないと言うか教養が足りてないと言うか‥。
ただただ言葉を失い落胆するだけで、特に何とも思わないと言うのが本音であるが。
 
それよりもむしろお隣韓国から250 (イオゴン)FRNK (Jinsu Park) 等が出現し、NewJeansの背後から業界を突き動かして来た時の方が脅威だった。
 

 
話を記事『藤井 風『Prema』評 哲学者・柳澤田実:音楽の根底にある“終わり”=“死”の感覚』に戻して、記事自体はとても詳細に藤井風を熱弁しており、調査も細かく書かれていると感じた。
だが、藤井風の死生観の観察については筆者の感動や興奮が先に立つばかりで、冷静さを欠いているように見受けられた。

特に章『“死”を起点として眺める現在』に至っては、藤井風の急激な世界進出がコロナ禍を起因とするものであることや、藤井の音楽に大きくまたがる『死』の概念がリスナーに大きく響いたのではないか‥ と言うような記述も見られるが、それは私個人の見解とは全く異なる内容であり、驚きも物珍しさもなかった。
 

そもそも音楽と死生観を発見として捉える感性が、私には全くないのだろう。
生まれてからずっと私の中には、宇宙の真ん中の無音空間を漂流した記憶が当たり前のように根付いており、死は常に隣り合わせに存在していた。
毒親の暴力に耐え抜くことよりも、もしかしたらその毒に当たって命を落とせたらどんなに楽だろうか‥ と、実際にそれを模索した時期もあった。確か一度目は高校生の時で、二度目はホームレスになりかけた時期と重なるが‥。
 

Xでは藤井風のサイババ布教 (ステルス布教とも言われているが) の危険性を切々と訴えかける声も多く散見されるが、正直そこに共鳴する人は何を見ても逆の情報には共鳴しないだろう。
生きたいと願う人は生きることに真剣な人の文字を追うだろうし、逆に死にたいと願う人たちはその結果に直結しそうな文字に心酔するのだと思う。
 

 
藤井風がカルトか‥? と言われると、正直微妙だ。何故って、彼はファンに出家を強制しているわけでもないし、藤井風が書いたとされるサイババ教義の切り抜きを音読しろとも言ってなければ、歌詞の暗唱を強要しているわけでもない。
その微妙なスタンスを「カルト」と言う位置づけで確定するのであれば、世に蔓延る多くのカソリック圏の音楽や某創価学会信者の音楽も同様だ。
 
だが如何せん音楽は、歌詞よりも音楽の方が先に耳に届く。
これは多くの音楽ライターが意図的に外して書いているようだが、現実問題音楽 (メロディーライン) は言語よりも鼓膜への到達が速いから、むしろサイババ教義なんかよりも中東の音楽のような、コーランの音節をそのまま音符化した楽曲の方が余程人への浸透が高速だと言えるだろう。
 
私はそちらの方がサイババ某よりも危険だと認識しており、それゆえ自身が監修する音楽のプレイリストには最近中東関連の音楽をスクラップしていない。
これは私のPLを聴いて下さるリスナーへの配慮を含め、私の宗教的 (自身は無宗教である) スタンスの意思表明も兼ねている。
 

他の記事にも綴ったかもしれないが藤井風の音楽はジャンクフードと同様であり、音楽の基礎が彼には備わっていない。
確かに藤井は近所のピアノ教師にピアノの弾き方くらいは教わったかもしれないが、後は亜流であり、近年藤井自身が接して来た音楽のメロディーやコードの切れ端を分解して再編集したような音楽が主であり、それ以上でもそれ以下でもないただの「音声」に過ぎない。
 
確かに料理でもマクドナルドを好む人も居るだろうし、二郎ラーメンのような背脂ゴッテゴテの危険な食べ物をこよなく愛する人も居るだろう。
私だって時にはマクドナルドの月見バーガーを食べるし、油多めの味噌ラーメンを食べる日もあるが、あくまでそれは多忙時に空腹を満たす為の目的に限定される。それらの料理をけっして好きにはならないし、ファンになることもない(笑)。
 

藤井風の音楽を「素晴らしい」と思う人たちは、概ねそれ以外の世界中の良曲を知らないのだろう。勿論言葉の問題もあるかもしれないが、良いものを知ったらそれ以前に人は絶対に後戻りすることが出来なくなる。
だったら藤井某のジャンク・ミュージックを飛び越えて、もっと良い音楽に接すれば良いだけの話だと私は思っている。
そういった良曲に触れる機会の少ない音楽リスナーの為に私は、毎週せっせと世界の音楽から良曲だけをピックアップして、自身監修のPL (プレイリスト) にスクラップしているので、是非そちらを聴いて頂くことをお勧めしたい。
 

 

 
LE SSERAFIMからNewJerans、そして藤井風‥ とネタがかなり広範囲に広がって行ったが、要はこの記事を簡単にまとめるとこうなる。
 
上記お三方の中に、表現者は一人も存在しないと言うことだ。
LE SSERAFIMの中に若干表現したい側の人と「ただ歌っているだけの人」とに分けてはみたが、大きく括れば全てが『自身のアイコンを売って糧にしているだけの人』にカテゴライズされる。
 
本物の音楽とは、自分以外の物事や人々の為に一心不乱に思いを致しながら生み出されたものだと私は思っている。

当然のこと、それらは自身の利を度外視して生み出されたものでなければならない。

 
それはとても難しい高みの領域に在るように一見見えるが、意外にとても身近に、世の中の切れ間や世の中心域からは少し離れたところにぽつんと点在している。人を嫌い、ひとけのない場所を好んで棲息している。
出来ればそういった良い音楽に自力で到達して欲しいと、私は願って止まない。
 
仮に世界にどれほどの数の宗教があり、それがどれだけ身近に襲って来ようが、良いもの、正しい価値観を自身の軸に置いておけば振り回されること等ないだろう。

アフタヌーンティー (in TABLE 9 TOKYO)

このところ音楽で多忙を極めていた私たち (with 夫) ですが、先日品川のTABLE 9 TOKYOへアフタヌーンティーに出掛けて来ました。
勿論私たちの外食と言えば、神人共食はつきものです。
当日は主に女性の神々を中心に、日本神界の外側からも女神が参加されました。
 

 
あいにく私も夫も体調が万全とは行かず、前日から内臓の疲れや腰痛等を各々が発症した上、寝不足気味の状態とも重なり、写真撮影に全く気が回らずにただの記録写真となってしまったことを先にお詫び申し上げます。
 
とは言え、神々にはとても喜んで頂くことが出来たので、良しとします。
 


毎度のことながら「圧」との闘いだったと、当日を振り返るとそれがよく分かります。
とは言え「圧」にばかり気を取られていては本末転倒なので、その瞬間瞬間は余りネガティブな思考に囚われないよう、夫婦共々前向きに神人共食にいそしみました。
特に夫の体調不良が翌日にはすっきり解消されていた状況は不思議でした。
 
私はこのところめまいが頻発しているので、行動 (特に歩行) は慎重です。
若干糖分摂取の制限も設けている為、アフタヌーンティー当日は飲み物には一切糖分を加えることなく、ほぼノンシュガーで通しました (私は甘党なので、飲み物に糖分を足さないことは珍しいです)。
 

 
ご参加下さった神様方のお名前は伏せますが、意外な国から女性の神様が参加され、そして余り生前馴染みのないスイーツをとても喜んで頂けたことが私たちも嬉しかったです。
 

今年は先に足を運んだ旅先の老舗のホテルのレストランで、私のCDPasswordを店内BGMにして頂くことも出来て、とても感慨深い年になったように思います。
還暦の年に、思い出深いホテルで私の作品が物理的な音声として響いた瞬間、そのホテルで最後 (神父の晩年) に会うこととなったサビノ神父の目に光るものがふと、視えたような気がしました。
 
勿論サビノ神父は既に旅立たれていますが、霊体としての彼とは頻繁に対話が出来ているので、その様子は目で見るよりも鮮明に私の脳裏に焼き付いて離れません。
 

 
話をアフタヌーンティーに戻して、最近健康面の事情で甘いものを控えている私にとって、とても味わい深いひと時を過ごすことが出来たのも、ひとえに夫の多大な応援のお陰だと思っています。
彼あっての、今の私です。

日々、圧の原因となる悪しき霊体 (或いは呪詛) の解除で、彼も疲れ果てています。なので私に出来ることはとても少ないながら、なるべく夫の心身が休まるようなひと時の為に私ももっと頑張らなければいけないと思っています。
なかなか体力的にも上手く行かないことが多いですが、出来る限りこれからも夫婦共々長くこの世界に居られるよう、頑張って行きたいと思います。
 

最近本当に音楽のことで忙しくなっており、此方のブログの更新が若干滞っていますが、SNSのサブアカウントと別ブログディディエ・メラの音楽倉庫の執筆は継続していますので、是非そちらの購読もよろしくお願い致します。
 

https://didiermerahbox.wordpress.com/
 
 
⇩の写真はTABLE 9 TOKYO のアフタヌーンティーのオプション、『実り』の記録。
絶品でした🌰

 

現在Amazonにて販売しているディディエ・メラのCDPasswordが欠品の状態になっていますが、そのまま商品の購入ボタンを押して購入して下さい。
新たな購入がないと、私たちから新しい入庫が出来ない状況なので (多分Amazonが在庫を抱えないような仕様になっていると思われます‥)、是非欠品状態だからと言って商品の補充を待たないでご購入頂ければありがたいです。
 
よろしくお願い致します。
https://www.amazon.co.jp/Password-Didier-Merah/dp/B00HXWEL9O

恒星間天体 [3I/アトラス] は生命ではない (Interstellar Object [3I/Atlas] is Not Life)

日本はお彼岸を間近に控えており、宇宙情報よりも私の周辺ではもっと血生臭い情報で溢れかえっている。
私も体調が万全ではないこと、その他現在「或る現象」を研究するにあたりこれまで殆ど触れることのなかった専門書を読んでいる最中で、時間もエネルギーも限られている為この記事はかなり省略して更新することになる。
 

自称「銀河連合の特使」を語るエレナ・ダナーンが、又もや情報編集による独自解釈の動画を放ったようだ。当ブログにも「エレナ・ダナーン」を検索して訪れたと思われる多くの訪問者の足跡が記録されていた為、先方の動画に新たな情報が発信された可能性があると推測し、今しがたそれと思われる動画を一巡したところである。
 

 
エレナ・ダナーンは兎に角自身に於ける「銀河連合の特使」の業績向上に意識を集中させているように見えるが、残念ながらそれが上手く行っているようには見えない。
エレナ・ダナーンの語るそもそもの前提や彼女の履歴の大半が虚偽なのだから、彼女の言う未来の映像が現実世界に実現する筈もない。
 
色々調べて行く過程で『3I/アトラス』(スリーアイアトラス) に関する多くのニュースの中には、エレナ・ダナーンが言うような「3I/アトラス=プラズマ意識を持った古代の生き物」説を肯定するものは、一つも見当たらない (あくまで現状では‥)。
 

私が特にアンチ/エレナ・ダナーンと言う訳ではないことを最初に申し上げておく。
その上で彼女のハイアーに存在していると言うソーハン・エレディオンが彼女のイマジナリーフレンド (脳内の会話相手) であることも判明しているし、エレナ・ダナーンの語る世界観が既存の宇宙映画を分解し、再編集された二次創作であることもはっきりしている。
 
[以下に関連記事 (画像①/③は画像をタップすると記事に飛べます。) のリンクを貼っておきます。]
 
☆ ☆ ☆

 

 

 
☆ ☆ ☆
確かに地球上は今、かつてない程荒れている。天変地異 (洪水や中国の寒波等を始めとする‥) が多発しており、この秋の食糧事情の悪化も推測出来る。
そしてそういう時に、カルト宗教やいかがわしい思想が独り歩きを始める現象は、今に始まった話ではない。
 
私はエレナ・ダナーンとは全く異なるスタンスで、主にテレパシーで得た複数の情報を常に所持しており、それを日々アップデートさせている。
その中には残念ながら、エレナ・ダナーンが言うような「美しい情報」が殆ど見られないのが現状だ。だがこれはけっして悲観的なことではない。
 
リラ星人がかつてそうして来たように、地球人が精神的な意味合いでの開拓精神、自己探求心や向上心を思い出し、取り戻せば良いだけの話だ。
その為には依存体質を改善させ、自らの力量で然るべき存在とのコンタクトを各々が図れるよう、霊質の向上を目指すことが最も望ましい。
 
残念ながら自称「銀河連合の特使」を公言するエレナ・ダナーンのような人物が、人々の霊質改革や霊質の向上を著しく妨害しており、人々を思考停止に誘導している現状は、個人的に看過出来ないと思っている。
 

 
『3I/アトラス』に関しては、「恒星間天体」であると言う認識を持つべきだろう。
どう逆立ちしてもこの恒星間天体が生命体である‥ と言うような、間違った情報だけは鵜呑みにしないよう、注意を促したい。
 

“Nino” (EP) – by Chouchou

 
数日前からいきなりのタイミングでX上で告知を開始した日本のポスト・エレクトリック・ユニットのChouchouが、2曲 (voc.入り) + 2曲 (Inst. ) の計4曲のEP『Nino』の配信を開始した。

最近のChouchouの音楽性 (商品性) に不安定感が否めず、紹介や評論の対象から彼らを外していたが、今回の新譜はなかなか良い出来栄えになっている。
かなりKPopの流れを意識している辺り (特に韓国の電子系プロデューサー/250 イオゴン) が目立ってはいるが、さしずめ日本発信のアナザー/KPopとでも言うべきか、それはそれで作品としてはかなり洗練されて来たような気がする。
 
やはり juliet Heberle の蜉蝣系ヴォーカルと詞の世界観が、arabesque Choche のメロディーメイクを一層際立たせているように感じる。julietも本作品では低音域に徹しており、それが人の話し声の声域をはみ出さない分安心して聴いていられる。
本作品では arabesque Choche もコーラスで参加しているが、彼の声質はどこか楠瀬誠志郎を想起させる。彼はコーラス向きの声質だと思う。
 
彼らの一時のポスト・エレクトリックのゴリ押し感が軽減されたことに加え、今回はMVにリアルの人物や風景が一切登場しない、とてもメルヘンな絵図に仕上げていることで、かえって音楽やjulietの声に集中出来るのが良い。
 
EP2曲目『Jelly Jelly』は彼らの旧作最果のダリアのM-3: “Lovers & Cigarettes” の上位互換と言える良作で、全体的にまとまり感が高まったように感じる。
 

 

 
Chouchouの新譜『Nino』はこれまでの彼らの作品と比較すると、ユニットとしての統一感が出て来たところが大きな変化だろう。
julietの声とarabesqueのメロディーとの分離感がそれによってかなり軽減されたのは、大きな前進だ。『Jelly Jelly』ではよく聴くと所々にarabesqueの声がエフェクトの中からかぶって来る辺りに、隠し味的な工夫が見られる。
こういう小ワザは、ほんのり見えるぐらいが丁度いい。ハイスペックなヘッドホンで聴いた人だけが気付く‥ 程度の演出の方が、楽曲が長持ちするから。
 
何ったってChouchouの新譜が、人物や風景と言う生々しい映像を一切使って来なかったところを、音楽の専門家として、あらためて称えたい。
 

 
※是非、日本語バージョンも追加でリリースして欲しい🎧

社会現象の観点から考察する藤井風 そしてNewJeans

2025年9月11日、午後1時からソウル中央地裁で開催された公聴会にて、NewJeans 対 ADOR専属契約を巡る訴訟はメンバー不在の中20分で終了し、双方合意に至らず決裂した。
(同日、ミン・ヒジン関連の別の口頭期日も開催されていた。)
 

 
 
彼女たちも万策尽きた状況だが、その後に判決が下ると言う実感が未だ湧いてはいないようだ。現状NewJeansの5人は、兎に角ゴネ得で外界から目を逸らせばそれでやり過ごせるとでも思い込んでいるようだが、法律はそこまでアマくない。
 

音楽も音楽業界も、共に荒れている。

 
特に私が2025年9月11日未明に更新した記事藤井風と多重人格の可能性についての記事訪問者数がとんでもないことになっている他、それまでアンチ藤井風側に一見立ち位置を取っていたように見えていた私に豪雨のような、言葉にならない不満を含めた現実的な『圧』が押し寄せた。
一度藤井風を『サイババ二世がサイババの教義をコピペした詞で音楽をリリースし、信者を増やしているのだから、どれだけ叩いてもいいではないか!』と声を荒げて叩き屋と化した藤井アンチたちにとっては、上記の記事はその後のバッシング活動をやり辛くする内容を存分に孕んでいたのだろう。
 
問題は藤井風自身の闇の深さ、その闇の周囲に立ちはだかる藤井風の父親 (つまり毒親であると推測される‥) の存在。
父親が喜ぶことをしなければ藤井風が家庭の中、世の中に居場所を失うかもしれない‥ と言う藤井風自身の危機感及び強迫観念。‥彼の強迫観念の行く先がつまりはサイババへの帰依であったことや、重度のPTSD発症とそれにともなう多重人格障害の可能性について。
藤井風は今、本当の意味での拠り所を失った状態だ。
 
ざっと目に見えている状況を列挙するだけで、これだけの (藤井風の) 闇が露出している。
 

 
昨日外出中にふと気になることがあり、外出先でスマホから音楽年表を検索してみた。

「藤井風の音楽が良い」と言うファンが、今年になって急増したように私には見える。
藤井風が『死ぬのがいいわ』を紅白で歌ったのが2022年の年末だったが丁度その年は、KPopのガールズグループ、NewJeansのデビューの年と重なっている。

NewJeansのデビュー曲『Attention』は2022年8月1日にリリースされ、瞬く間に旋風を巻き起こした。
 

 
剛腕プロデューサー/ミン・ヒジンのセンスは当初から高く評価されていた。
NewJeansはその後『Ditto』『omg』等、それまでのKpopにはないヒール色の薄い、爽やかでポップかつメロディアスな楽曲を立て続けにリリースして行った。
勿論タレント性は元々備わった彼女たちだが、それより何よりもNewJeansの楽曲は世界中のポップスの中でも際立って光っていた。
 
世界の音楽の空洞化をNewJeansの5人が見事に埋めていた期間、多くのポップス愛好者たちはNewJeansの音楽性とその音楽性を深くユニークに掘り下げて演出 (& プロデュース) に集中したミン・ヒジンの魅力に取り憑かれて行った。
その流れに乗るようにして、特に2022年~2024年の2年間は世界中がKPop一色に染まった時期だったように思う。
 

一方藤井風は2021年4月22日にきらりをリリースしており、某バイクメーカーのCMに起用されたことで一躍脚光を浴びる存在となった。
但し検索して行くとOfficial MVの公開は2022年と表記されており、正確には2021年と2022年のどちらかがやや曖昧になっている。
 
丁度その頃目に付いたのが、Vaundyの台頭と多数のアニソンが売り上げランキングの上位を占めている状況だ。
試しに2022年のヒットソングランキングを捲ってみたが、これと言って目立つ楽曲は見当たらない。翌年2023年にはYoasobiのアイドルが爆発的なヒットを遂げるが、此方はアニソン縛りと言うこともありコアな音楽ファン層の評価は低い。
 

2022年にデビューしたKPop/ガールズグループと言えばもう一組、LE SSERAFIMが記憶に新しい。(その頃から世界がKPopで溢れかえるような現象が加速して行くが) 既に韓国はHYBEでは『ミン・ヒジン率いるNewJeans 対 パン・シヒョク率いるLE SSERAFIM』の、後に言う「ヒジンの乱」の火ぶたが切られ、それが記事冒頭のニュースへと繋がっている。
丁度2022年~2025年の期間、藤井風はそれなりに音楽活動を続けて来てはいたが、2025年9月の騒動のような熱量は見られなかった。だがその間にも藤井風のPTSDと思われる症状は進行しており、それが先に私が記事に書いたような深刻な多重人格障害を発症させ、そちらも急激に病状が悪化したように見受けられる。
 
藤井風の背後には名前の上では「厳しい教育」を藤井に施す父親の強大な存在があり、いわゆる洗脳教育と藤井風のメンタル面に侵食して行ったであろう暴力のような行為が行われていた可能性を否定出来ない。
 

 
この間私はと言えば世界中の音楽を聴き漁り、それをSpotifyのプレイリストに粛々とスクラップし、それをSNS等に告知しながら音楽リスナーの底上げを試みていたが、色々な事情で露出をセーヴしている私の知名度の低さが災いし、私の活動が一部のファンに訴求した以外には大きな旋風を巻き起こすには至らなかった。
 
仕込みは万全だったが結果にコミット出来なかったこの期間、特に2024年明けの1月にはミン・ヒジン対 HYBEのトラブルが表面化し、同年11月末日のNewJeansの契約解除記者会見へと此方も又自体を一気に悪化させて行った。
 

 
一方現在の音楽シーンで目立つには、1980年代~1990年代に日本で爆発的にヒットした『シティ・ポップ』のカバーソングの台頭で、これは2025年現在も記録を更新している状況だ。
NewJeansのヘリンも2024年の6月26日/27日に東京ドームで開催された「NewJeans Fan Meeting \’Bunnies Camp 2024 Tokyo Dome\’」で、竹内まりやの『Plastic Love』を熱唱している。
 

 
近年良質な楽曲が激減している様子は私も、毎週末の「世界の音楽」の新譜をくまなくチェックしているので痛感している。
 
藤井風ファンが言う「藤井風の音楽が良い」と言う発言は方々に散見されるが、これはおそらく他に競争相手が居ない、現状は藤井ひとり圧勝の状況が招いた結果かもしれない。
確かに一見藤井風のメロディーは爽やかかつ独特のクセがあり、それがリスナーの中毒症状を引き起こす引き金にもなっている。だが多くの音楽リスナーは雑誌やメディアで持て囃されたミュージシャンの音楽しか聴いていないし、世界の音楽を探索して聴き倒すには彼らは余りにも仕事や社会に忙殺されているので、音楽を探す時間を確保出来ない状況にあるようだ。
 
世界の良質な音楽を常に耳にしていれば、藤井風如きのジャンキーな音楽を好きになる筈がないと私ならば思うのだが、手っ取り早く美味しい音楽が聴きたい層の音楽リスナーたちは「とりあえず」の感覚でメディアが紹介するところの、藤井風や椎名林檎や宇多田ヒカル辺りを聴いて周辺のリスナーとの同調を図ろうとする。
一人だけ無名のアーティストなんか応援していたらそれこそSNSや職場等で恥をかきかねないし、「とりあえず」誰もが知っているであろうアーティストの数名の新譜をごそごそと漁っているうちに、調味料で言うところの味の素をガンガン使って出来上がったカップラーメンのような藤井風のメロディーにハマり込んで行ったと見るのが妥当だ。
 

日本の教育状況や社会状況にも、大きな問題が山積している。
受験に必要な科目以外は授業内容が軽視されており、特に美術や音楽の授業は「どうでも良い科目」だと認識させるような風潮がある。
一部の合唱好きが毎週末集まるような部活がある以外、義務教育機関の中で本格的に音楽に接する機会はほぼ皆無だ。
 
そんな学生時代の日々の蓄積を経た若年層にとって、藤井風のメロディーは過剰なまでに甘美で心地好いだろう。
 

 
記事『藤井風と多重人格の可能性についてでも綴ったように、藤井風の言動や表情は誰が見ても変だ。
勿論彼がサイババ二世として活動を更新して行くことには賛同出来ないが、だからと言って心を病んでいる可能性が濃厚な藤井風を闇雲にバッシングし続けて良い理由にはならない。
むしろ今の彼を、これ以上追い詰めてはいけない。
 
問題を解決したいのか、それともアンチ活動を介して活動家たちが大勢の匿名集団を先導することで承認欲求を満たしたいのか‥。その境界線を各自が厳しく見極め、そういった一連の藤井風バッシングの波に便乗しない方が、社会的な意味での二次災害を防ぐ近道だと私は思っている。
 
寄ってたかって特定の人物を叩きのめしている輩の大半は、匿名で活動している。自分には火の粉が及ばないよう、完全防備の状態でSNSに網を張っている。
だがそこまで藤井風バッシング活動を継続したいのであれば、バッシングする側にも覚悟と責任を負う必要があるのではないか‥。
 
味の素を常習的に使用している料理人に味の素を否定するような言葉を吐いたら、当然のことその料理人は怒りキレて反撃に出るだけだ。‥ならばそこまで信仰が進んだ人々に関しては、「一人一人摘まみ上げて真実を伝える」と言うような偽善的にも見える言動は無駄に思える。
 
 
サイババ二世の藤井風が危険人物だと感じるならば、大勢で徒党を組んだりせずに各々の言葉で客観的にその旨を発信すれば良いと思う。
心ある人はその言葉に反応を示すだろうし、そうではない人たちは唾を吐くか離れるかの何れかの反応を示すだろう。それ以上を求めるべきではない。
藤井風を応援する側も応援しない人々も、反発したい人たちも、「足ることを知る」精神を胸に留め置く必要性を感じてならない。
 

 
思うに一連のトラブルは、良質な音楽家と音楽を輩出することで解決可能だ。
是非各々の意思で、良い音楽を探して吸収して欲しい。
 
世界はあなた方が思っているよりは広い。そこには未だ出会ったことのない良い音楽が静かな寝息を立てて、リスナーを待っている。
 

 

関連記事:

藤井風と多重人格の可能性について

同じ人物を立て続けに取り上げて記事を書くことは正直本意ではないが、今回は前記事【藤井風 – ニューアルバム『Prema』 表現解説】とは全く異なる視点で藤井風について検証と分析を重ねてみたいと言う心情に至った。

 
数日遅れで私もようやくTverで、徹子の部屋 – 〈藤井風〉父の教えを胸に…「努力」積み重ねた日々を試聴することが出来た。

冒頭の衣装はまさに『Hachikō』のPVでも藤井が纏っていた衣装であるが、この衣装はおそらくヒンドゥー教の最高神の一柱『シヴァ』をイメージしたものではないかと感じた。

 
シヴァ (マハーカーラ) のイメージ画像と見比べると、それは一目瞭然で分かる。
 

 
藤井の衣装の襟や袖の突起の部分が、上記の画像と重なって視えて来る。
又サングラスの黒い部分が3カ所に分かれており、真ん中の黒いレンズ部分は『第三の目』をレンズで覆ったようなイメージではないだろうか。
シヴァ (マハーカーラ) の銅像にも、第三の目はくっきりと彫られている。
 


さて、ここからがこの記事の本題である‥。
 
徹子の部屋 – 〈藤井風〉父の教えを胸に…「努力」積み重ねた日々を注意深く視ていると、藤井風の表情や目つきが話題によってコロコロ変わって行く様子がよく分かるだろう。

合計23分29秒に及ぶ映像の中には、(私の印象ではあるが) 男性が一人も出て来ない。
確かに見た目は男ではあるが、目や表情、声質、声色から仕草に至る全てが様々な女性の人格で演じられているように見える。

特に象徴的だったのが、故郷岡山や藤井風の父親の話題に触れた時だ。ここで人格が入れ替わる瞬間を、瞬時に察知することが出来る。
はっきり書いてしまうと、藤井風は多重人格者であり、彼の中には複数の人格 (主に女性) を見ることが出来る。その中の一人は明らかに女児であり、上の写真のように上目遣いになったり唇をすぼめる瞬間に女児の人格がはっきりと顔を出して来る。(写真 下 ⇩)
 

 
又、途中自身の若い頃のショパンの『革命』を演奏する映像が流れた辺り (9:44辺り) では、一瞬苦悩の表情が顔を出し、その後ベジタリアンの話題やワールドツアーの話題に触れた時と同じ、彼の中のアメリカ人女性と思われる別人格が顔を出す。
この瞬間が、人格交代の瞬間ではないかと思われる。(写真 下 ⇩)
 

 
思うに藤井風は宗教観 (サイババ教) を用いた音楽を配信すると言う意味では加害者であるが、同時に彼の父親の厳しい教育過程の中で行われた虐待 (精神的/肉体的の両面) の被害者であり、かなり重度なPTSDを発症している可能性を否定出来ない。
 
藤井風の基本人格はPTSDを発症した人格であり、おそらくその人格を守り合う別人格が複数存在すると言う仮説を立てると、一連の表情や口調、声色の変化や言動等の違和感の辻褄が合って来る。
ニューアルバム『Prema』からタイトル曲Premaの中で藤井は「私は神そのものだ」と叫びを上げているが、実は藤井風を宗教者に仕立て上げようとしているのは藤井自身ではなく、彼の父親の希望 (或いは命令に近いもの) だと考えると、一連の藤井の言動のブレに一貫性が出て来るように感じる。
 

 
Xやその他のSNS等では藤井風のサイババ二世だと言う件やステルス布教等が大きく取り沙汰されているがそれだけでは済ませることの出来ない、取返しのつかない程の大きなメンタルの傷を、実は藤井風自身が抱え込んでいるように思えてならない。
これは私自身が通って来た道とも大きく似ており、私の場合は不幸中の幸いでそもそも過去世の経験が豊富であり、尚且つ過去世の記憶や経験の蓄積が今世の私を人生の脱線から救ってくれた。
だが藤井風の場合はPTSDを抱え込んだまま日常的な人格交代を早い時期から繰り返し、それが常習的かつ長期的に行われていたのだとしたら、もはや藤井風は藤井風であって藤井風ではないと言うような状況に彼が追い込まれている可能性は濃厚だ。
 
かと言って藤井風が『ウィンディー・サイババ』として開祖したら心の傷や多重人格障害から立ち直れるのかと言われたら、もうその段階はとうに過ぎてしまったのかもしれない。
最も苦しいのは基本人格の藤井風だと思うが、第三者にはどうにも出来ないのでただただもどかしい。
 

これまでは藤井風はサイババ教を悪用したミュージシャン‥ と言う視点で見て来たが、徹子の部屋 – 〈藤井風〉父の教えを胸に…「努力」積み重ねた日々を試聴してからはそんな簡単な問題では済まされない事態が水面下で起きていたのではないかと、個人的に、藤井風が毒親の被害者ではないかと言う別の視点を心に置くに至った。
 

この記事ではここまでしか書くことが出来ないので、何かしら状況に変化や異変、進展等が見られた時に続きを書きたいと思う。
少なくとも藤井風のメンタル面や言動がこれ以上悪化しないことを、切に祈り続けたい。
 

【追記】 
そもそも藤井風 が信仰しているサイババ (サティヤ・サイ・ババ) の元は『シルディ・サイ・ババ』であり、此方は行者である。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%90

そのうち藤井が『ウィンディ・サイババ』等と名前を変えて新興宗教を立ち上げる日が来るのではないかと、ふと映像が過った。
予感が外れてくれると良いのだけど‥。

藤井風 – ニューアルバム『Prema』 表現解説

 
光を操るリラ星最後の巫女の私が、あえてこの人物に逆光をあてることには大きな意味がある。

2025年9月5日、藤井風のニューアルバム『Prema』がリリースされた。
私はこの作品をSpotifyで試聴する前々から、編曲 & サウンドメイクに深く関わったとされる韓国の電子系ミュージシャン250 (イオゴン)に着目していた。イオゴンが日本の問題児/藤井風の音楽をどのように料理するのか、その結果を先ず見てみたいと思っていた。
 
勿論問題児/藤井風の問題とは彼の宗教観をここでは意味し、藤井はサイババ二世として有名であるばかりでなく、藤井風の綴る歌詞の中にサイババ教義をふんだんに引用し、それを藤井風のオリジナルであるように偽装して何も知らない若年層に訴求している点を、藤井自身も最近ではさほど隠していないようにも見える。
それはけっして看過出来ない行為であることについては何ら変わりないし、長年音楽に携わり分析/解析を続けて来た私からすればここで藤井風の音楽を仮に何十回聴いたとして、それで揺らぐほど私の音楽スキルは軟じゃない。
 

 
アルバム『Prema』をざっと全曲試聴した印象は、兎に角鈍いし弱いし響かない‥ と言う一言に尽きる。

楽曲全曲がアメリカ進出を念頭に作られていると見て間違いないだろう。
だが、楽曲全体が強いアタックを必要とする構成になっているにも関わらず、藤井風の声質が余りに弱くて鈍くて、日本人向けの英語の教科書みたいになってしまっている点は松田聖子の『SEIKO JAZZ2』の冴えない出来栄え同様か、それ以上に冴えない出来栄えだと言わざるを得ない。
 

 
日本人の英語コンプレックスは藤井風には余り当てはまらないだろうと思っていたが、とんでもない話だったようだ。
兎に角声のアタリも鈍く聴こえるし、英語もだらしない。
使い古しのランニングシャツ同様に、藤井風自身も「ハーレムに舞い降りた聖者」を意識しているだろうから、成功しなかった側のBohoファッションとでも言うような倦怠感が彼の英語にも強く滲み出ており、音楽全体を一層疲労させ、貧困に見せて行く。
 

 
このアルバムの売り曲はどれだろうか?
『250 (イオゴン)』のサウンドメイクを聴く限り (私の推測が合っていれば) 、やはり『M-3: Hachikō』以外にイオゴンの熱量を殆ど感じ取ることが出来なかった。

藤井風のアルバム『Prema』のラスト曲、 『M-9: Forever Youngを聴いた時はふと、1994年にリリースされた八神純子のアルバム『Communication』の冒頭曲、Imaginationが脳裏を横切ったので比べて聴いてみたら、やはり私の脳内マッチングは正確だった。
 

 
『250 (イオゴン)』と言えばどうしてもNewJeansのヒット曲のサウンドメイクが思い出され、私の中のマイ・ベスト・250は『Ditto』を抜いて『Supernatural』が首位に立つ。
 

 

 
上記2つのサウンドメイク (楽曲) を藤井風のアルバム『Prema』と比較するのが怖い程、全く別人がサウンドトラックを担当したのではないかと言う程イオゴンの出来栄えが良くない。
手を抜いたのかそれともそもそもの楽曲の身の丈に合わせた結果、藤井風のサウンドメイクが出来栄えの劣化を免れられなくなったのか、その辺りはあくまで想像の域を出ないが、兎に角藤井風のアルバム『Prema』が昭和のアルバムではないかと耳を疑う程の古い作りに聴こえて来る。
もしもそれが意図的な企画だとしたら、わざわざ藤井風のアルバム『Prema』のサウンドメイクを『250 (イオゴン)』に依頼する必要が何故生じたのか、その辺りは当事者ではないのでよく分からないが‥。
 

 
藤井風自身からもそれまでの仕事から「‥どこか燃え尽きたような感覚」を訴えるコメントが出ていたようだが、ニューアルバムのだらしのないランニングシャツのジャケ写を始めとするアルバム全域に沁み出たドロップアウトな色彩や怠惰な印象、ダボダボの下着をさらに緩々に引き伸ばして着古したような表現はもしかすると、そちらの方が今の藤井風にしっくりハマっているのかもしれない。
 
特にインドを強く意識した象との共演等の、いかにも単純な仕掛けを一体誰が思い付いて映像化に踏み切ったのか‥、考えれば考える程よく分からない。
 

 
楽曲『Prema』の歌詞の中で、藤井は段々と豹変し、本性を現して行く。
『私は愛そのものだ』と口にした直後に、『私は神そのものだ』と言う彼の本音が遂に歌詞に託される。
 

 
楽曲Premaの中で彼が伝えたかったことは、恐らくこの一文だったのだろう。
だが残念ながら、藤井風は神ではない。もしもそう思い込まされているリスナーが一人でも居たらそれが全くの間違いであると、是非とも認識を改めるべきだ。
 

人は強烈なメッセージに惹かれ、そのメッセージ主に帰依したくなる瞬間がある。だがその帰依の先に一体何があるのか、無いのか‥、或いは何かがあるかのように騙されてはいまいかと、藤井風のような人物に遭遇した時は先ず一歩二歩離れて彼の言動を俯瞰する感性を持つべきだ。
けっして自分自身を捨てて、彼に身を捧げるようなことがあってはならない。
 

 
少なくとも音楽家として、藤井風はそのステータスを得られていないことは間違いない。だからこそ「サイババ」をここまで深く信仰し続けており、即ち藤井風の信仰心は、自身の才能不足の空洞を埋めるのにはうってつけの素材 (凶器) だったのかもしれない。
 
勿論音楽的にも稚拙であり、藤井風が宗教を隠し持って仮に藤井が全米進出を狙ったとしても、その夢を果たすことは出来ないだろう。
全てに於いて、(アルバム『Prema』も藤井風の声も) 響かない。
地球の裏側には届かない。
 

 

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覚醒の兆候

ここ一ヵ月近く、色々なことがあった。
「色々なこと」をくまなく調べて行く過程で、精霊や神々から彼らに視えている世界を伝え聞くことも多々あった。怖いことに、現実で起きている事 (視えている範囲で) と神々や精霊が見た世界の情報とを突き合わせると、そこには微妙に矛盾が生じていたりする。
 
幼い頃から私は、両方の世界を行き来していた。現実の世界と、現実を視ている神々や精霊から伝え聞く現実は、必ずしも一致していなかった。
両方の世界は常に共存している。だが片方は肉眼と現実の世界、もう片方は人の内面や精神の中、そこで思う世界だ。
 
現実は、そこに現象が起きなければそれを現実と言うことは出来ない。だが私は未然の現実をいち早く察知し、人生の多くをそれ (察知したこと) に基づいて計画し、行動して来た。
言ってみれば、二度目の結婚もそれにともなう行動計画もそれに基づいて予定を立てた。
‥そして今がある。
 

 
正確な日付は定かではない (‥こんな時、小保方晴子さんの時間記憶の才能が羨ましくなる‥) が、多分2008年の2月13日だ (アレっ、覚えているじゃないの!!!)。
現在の夫と初めてデートをする前日の午後、必死でデート場所となるカフェを探し歩いた。普段さほど運動なんてしない私だったがその頃とても親しくしていた或る神が私に、「これは人生の一大事に繋がる密会になる。だからコーヒーの旨い場所を探せ。」と指令して来た。
 
何故「人生の一大事」と「コーヒーの旨い場所」が直結するのかは、その時の私には正直よく分からなかった。と言うより私は、コーヒーなんて好きでも何でもなかった。だって私は大の紅茶党だったから。
 
京王井の頭線の渋谷駅で下車し、先ずは文化村に足を運んだ。そこに行けば何かしら、コジャレたカフェぐらいあるだろう‥ と、今にして思えばかなり高を括っていた。だが、歩けど歩けど感覚にフィットするカフェは見つからなかった。それどころか、各カフェの入り口に立ち込めるコーヒーの焦げた臭いが、私にはとても辛かった。
 
そう、この「にがくて辛かった各カフェの入り口のコーヒーの臭い」と言う感覚が、実はあながち間違ってはいなかったことを後になって知ることになるとは‥。
 

夫は毎日、美味しいコーヒーを淹れてくれる。夫の感性でブレンドを考案し、勿論コーヒー豆は浅煎りが条件なので必然的に彼が淹れるコーヒーは美味しく完成するわけだ。
そう、2008年の2月13日の午後にデート場所のカフェを探す際に感じた「各カフェの入り口のコーヒーの焦げた臭い」を、浅煎り派の夫が好むわけがなかったのだ。
 

2008年の2月14日、私たちは初対面を果たし、今日に至る。交際期間ほぼゼロだったのは、神/タケちゃんのお陰としか言いようがない。
 

話がとてつもなく脱線したので元に戻るが、最近身の回りに起きていることについて実際に関係者に聞くことと神々から伝え聞くことに齟齬 (そご) が生じている。
昔っからずっとそうだったが夫に話す時に現実とシュールの双方の情報が嚙み合わないので、大丈夫かと時々困惑する。
 

 
此方も日付は定かではないが、年で言うと恐らく2007年か2006年の春先頃だったと思う。一度だけ叔母の昭子 (仮名) さんと電話で、母について話をしたことがあった。
私が最も闇を生きていた時期と重なった。住居を借りるのに苦戦したのは、不動産管理会社のルールに沿った緊急連絡先のサインの欄が埋まらなかったからだった。
 
後になって母の遺書には、私を絶対に実家に近付けない旨の意図を含めた直筆のメモが見つかったが、当時の私は色々な現象をほぼ直感で感じ取り、突き止め、それを言葉にして人に話していた。
私の家庭外排除は現実として粛々と、親族全員はおろかその関係者まで巻き込んだ形で現実となっていたが、それを言葉にして私に伝えて来た人は確かに誰も居なかった。
当時昭子 (仮名) さんとの電話の中で私は叔母に何度も、これまで私が母にされて来た幾多の暴力や虐待、そして両親や弟が私を酷く恨んでいること等を切々と訴えた。だが昭子さん (叔母) はそれを一切合切撥ねつけて、私の訴えや心情があたかも私の思い過ごしであるかのように私を宥め抜いた。
 

⇧ これは亡くなった弟の嫁の「りえさん」が山田家の遺産を取得したい旨を弁護士に相談した時の書類だが、それによれば叔母の昭子さんは私が叔母と電話をした翌年に亡くなっている。
最後まで昭子さんは母/雅枝を庇い、私の家庭外及び親族外排除に加担したことになると見て間違いないだろう。
 
そういうことが親族内で実際に起きていることを、私は既に知っていた。だがそれらは言葉にして伝えられたことではなかった為、親族等全員が私の気の迷いだとか錯覚、気がふれたせいだ‥ と言うことにし、誰一人心を改める者は現れなかった (それは現在も継続している)。
 

勿論全ての現象を精霊や神々から伝え聞くわけではないが、ここ最近そういう現象が以前よりも増えている。その度に私は、「現実ではどうなのだろうか?」と言う突き合わせを必ず行い、逐一日記に記録している。
比率としては現実に起こる前に私が未来をシュールな存在から伝え聞くことの正確さが増しており、的中率85パーセントまで確率が上がっている。
Kポの件も、それに当てはまる。なので私はあえてこのブログに、NJの件を赤裸々に書き残している。後から私のカンや預言がどうだったのか‥ と言うことを知りたい人たちの為にも、それは書いておく必要性を感じるから。
 
 

今世でイタリアにこそ行くことは出来なかったし、預言通り私は飛行機での移動は今後一生しないつもりで居るし、車の運転免許も諦めた。
若かった私に母が振るった暴力の後遺症が、最近になって出始めたからだ。先端恐怖症は車道を俯瞰する時にも表れ、車道で前方を見る時に頻繁に身がすくむ。その状態では絶対に後方の車との衝突事故の危険が避けられないので、タケちゃん (神) から「免許を諦めるように」と言われそれに従うことに決めた。
 
それでも生きるバイタリティーは年々増しており、今後の私はこれまでの不可能の常識を必ず打ち破ることになるだろう。
その夢と目的だけはぶれずに、今も私の背骨をしっかりと支えている。
 
 

⇧ 此方は最新のプレイリスト。
毎週末の度に世界の新譜から選りすぐりの楽曲を集め、我が子のように育てている音楽データ。
 
最近はメインブログよりもサブブログディディエ・メラの音楽倉庫の更新の方に力を入れているが、それもこれも未来の音楽史を修正すると言う目的の為の一環だ。
是非「リラ星最後の巫女」として、音楽家及び音楽評論家、表現解説者としてのディディエ・メラ (Didier Merah) も応援頂けるとありがたい。

Delete NewJeans part.2

記事『Delete NewJeans』にて明言していた預言 (予言) が、一気に形を帯びて来た。

 
2025年8月22日。多くのNewJeans or ミン・ヒジンのファンにとって青天の霹靂とも思える悪い進展があった。
正直ここまであからさまに物事の輪郭がくっきりして来ると、流石に私の背後に在る存在の力を思い知る以外に考えが及ばない。

https://kstyle.com/article.ksn?articleNo=2266607
 

 
ADORのCEOがこのタイミングで突如イ・ドギョン氏に変わったことは、今後のNewJeans及びミン・ヒジンの裁判にも大きく影響するだろう。
何より私も、私の背後の存在も共に、如何なる理由であれNewJeans+ミン・ヒジンの両者6人を、今後二度と人前で活動させてはならないと思っている。理由は単純で、多くのファン (信者) を暴徒化させ世の中を混乱させるからだ。
 
私も元はBunniesだった。だが2024年の夏頃から彼女たちとその周辺に異変と狂気を感じ、東京ドームのコンサートが開催される辺りから、それまでずっと当てて来た彼女たちへのを完全に消した。
私が光を当てれば、対象者は必ず世に躍り出る。これは私が幼少の頃からずっとそうだったので、私をよく知る人ならばNewJeans以外にも幾つかのグループを思い浮かべることが出来るだろう。
 
あちらの5人もこちらの5人も、どうにもならない状況だ。
光を当てた本人としては少々心苦しい現状とは言え、私なりの後始末を完結させなければいけない。これはミッションを持つ者の責務であると心得ている。
 
 
さて、未だ個々の戦いは続き、おそらく何れも長期化する見込みだ。勿論損害金及び違約金は莫大な額に至り、それにともなう償いは一生を掛けても終わりを見ることはないだろう。
私も都度都度体調を壊しながらも、仕事は遂行しなければならない。
覚悟を決め防備を固め、背後の存在と共に次の負荷を掛けて行く。
 

NewJeansは良い楽曲を沢山持っていただけに、予想される最悪の結末はとても残念に思う。

 

“Mi Historia Entre Tus Dedos” by Matteo Bocelli & Gianluca Grignani

お盆期間中、酷い圧に見舞われた。その為予定していた作業も外出も殆どを中止して、ひたすら自宅で休んでいた。
とは言え山のように音楽を聴き、そして自らのオリジナル曲のブラッシュアップも増やし、過去作品の複数を現在の私の感性で再演出来るよう、再々編曲に取り組んでいる。
 
毎週末の音楽探索の状況は別ブログディディエ・メラの音楽倉庫に綴っているが、この作品だけはメインのこのブログに綴っておきたい。
 

“Mi Historia Entre Tus Dedos” (La mia storia tra le dita)を、Andrea Bocelliのご子息、Matteo Bocelli (マッテオ・ボチェッリ) がカバーして世に放った。
最初この作品を私は、Ornella Vanoniのアルバムで知った。
 

 
ヴァノーニの印象が余りにも強すぎて、この曲の原作者がGianluca Grignani (ジャンルーカ・グリニャーニ) であることを調べることなく、今日に至った。

今回MatteoのPVを見ながら本作品がGianluca Grignani (ジャンルーカ・グリニャーニ) のオリジナル作品であることを知るが、原曲の歌詞はスペイン語で書かれているようだ。
(歌詞は以下のYouTubeの概要欄に記載されている。)
 

 
Andrea Bocelliのご子息、Matteo Bocelliは兎に角イケメンだ。まるで古代の彫刻の、人が手で彫ったような顔立ちをしている。

 
Matteoの声質はどこか父・Andrea Bocelliに似ているが、低音/ 中音域/ 高音域の各音域の声質がかなり異なるのが特徴であり、デメリットでもあるように思う。
つまり声質の不安定さを、これは意味する。
 
低音域が最も声質が落ち着いていて安定しており、一種の個性と色気を感じるが、商品としては高音域を売りにしなければならない課題も背負っているのか、どうしても高音域を聴かせたがるプロデューサーサイドの意図を感じざるを得ない。
だが残念ながらMatteoの高音域はトーンが落ちてしまい、光を放たない。
 
原作者はやはり強い。MVでは前半を主にMatteoが先導して行くが、後半の最初とコーラスの一部に原作者/ ジャンルーカ・グリニャーニが声を発する。
そこだけ時間が止まり、完全にジャンルーカの音楽に戻る。
 
ジャンルーカは53歳、Matteoは27歳。ほぼ親子程の年の差の二人だが、容姿を除けば音楽性や表現力の点ではジャンルーカの圧勝だ。
MVの後半ではそっとジャンルーカがMatteoに、主導権を譲り渡すように動画が編集されていてカッコいいのだ。
 

 
是非、X JapanのYOSHIKIにも見習って欲しいと思いながら、何度もこの動画を見入っている。
 
 
編曲の観点で言えばやはり私は、オルネラ・ヴァノーニのバージョンがダントツで好きだ。
 

 
ヴァノーニ・バージョンの編曲が素晴らしいのでCDを購入しようと思ったのだが、物凄い価格だ。しかも日本国内では購入が難しい状況なので、海外から購入するには万が一のトラブルを考えるとかなりハイリスクなので、やめておく。
 

 
それにしてもBocelli家には一体、どんな血が流れていると言うのだろう‥。

イタリア人に生まれなくて、本当に良かったと思う。私がもしもこんな男性に惚れ込んだら、一生を棒に振ったに違いないから(笑)。
 
本記事の最後に、タイトル通りのYouTubeのリンクを貼っておく。美男と野獣の競演をとくとご覧あれ。