幻のような人 – 坂本龍一さん

私にとってとても大切な人が、あの世に旅立ちました。
色々ありましたが、私の人生に多くの宝ものを遺してくれた人でした。
 
彼と共に今日まで生きて来たわけではありませんが、先方は何を思いながら過ごして来たのでしょう‥。
 
先日某方よりご連絡を頂き、彼がアメリカを引き払い杉並に越して来たことを知りました。
私も相続した実家に住まえばとても近く居られる距離でしたが、西荻の実家はさながら幽霊屋敷の様相を呈しており、もはや人手に渡す以外の選択肢がありませんでした。
 

 
Twitterには日々、質問形式でそれに彼が回答するようなツイートが、脈々と投稿されていました。
誰かが投稿しているのではないか‥等とも、感じていました。
 
ユキヒロさんの次は‥。
それを思わない日はありませんでした。

私にとって、サカモト氏は美しい幻のような存在でした。実音が無い部屋に木霊す残響とでも言った方が、きっと相応しいでしょう。
幻には残像がありません。私にとって、サカモト氏はそういう存在です。
 

この日が良くも悪くも、私にとって大きな転換期になると私自身は既に知っていました。勿論、クラシックの音楽業界にとっても、大きな変革の鐘が鳴り響くことになると言うことも。
 

今日まで長い闘病の日々を、本当にお疲れ様でした。
安らかに眠って下さい。

坂本龍一さんのご冥福を、心よりお祈り申し上げます。
 

音楽から読み解く世界情勢 [2022.06.12]

特にどこかの企業から依頼を受けているわけでもなく、雑誌の連載を抱え込んでいるわけでもなく、毎週末の世界の新譜チェックはもはや私のライフワークとなりつつある。
勿論需要と供給のバランス等考えるまでもなく、これは私の為の記録の作業であり執筆活動である。

私がSpotifyやAmazon Musicに作り上げて行く各シーズン毎のプレイリストを、実際どのくらいの人たちが求めてくれているのかなんて考えるまでもなく、私は私のスタンスで音楽を通じて世界を見つめる。
 

世界は新型コロナウィルス・パンデミックに続いて、次の新たなパンデミックの流れへと既にシフトし始めている。
丁度先週某日に私は、以下の記事を躊躇なく更新している。

 


この記事には予想以上に多くの来訪者が世界各国からあるようだが、だからと言って私の言わんとするところを読者層が掴み取ってくれたかどうかはまだ判然としない。
そんな折、今週の新譜チェックの中にあの大御所 Paul Winter が『Ukrine Spring』を堂々リリースした。

 

 
楽曲『Ukrine Spring』にはPaul Winterともう一人、Henrique Eisenmannと言うブラジルのジャズ・ピアニストが参加しており、クレジットは二人の連名で記録されている。

Paul WinterについてはWikipediaをご覧頂ければと思う。
私はもうかれこれ数十年間彼の活動や作品に触れているが、今こうして彼のWikipediaを読んでみて気が付いたことがあるとすれば、意外に彼が日本国内では余り広く知られていないのではないかと言うことだった。
 

私がかつてL.A.と東京を往復していた頃、まさに世界はニューエイジ・ミュージック全盛期だったが、その頃日本はと言えば小室哲哉をはじめとするダンス音楽真っ盛りで、その頂点にTRFや華原朋美等が君臨していた。

世界と日本はそれだけ大きく価値観がズレており、日本国内で若干流行し始めていたニューエイジ・ミュージックもどこか癒し系パロディー音楽のジャンルのように扱われ、レコード店に行ってもクラシックとかジャズの棚の片隅に小さく新譜が陳列されており、その中の一枚か二枚程度が新譜として試聴盤を出しているような状況だった。

 


話しを『Ukrine Spring』に戻そう。
遡ること約一ヶ月前に、坂本龍一がPiece for Illiaをリリース。ウクライナの若きヴァイオリニスト、Illia Bondarenkoをウクライナ国内に実在する被災地の瓦礫の上に立たせ、坂本自身が書いたとされるウクライナ民謡そっくりのオリジナル曲をIllia Bondarenkoに演奏させた。

問題の動画が世界的に物議を醸しだして間もないが一方で、その陰にひっそりと隠れるようにして世界に発信された大御所 Paul Winter & Henrique Eisenmann の二人が奏でる『Ukrine Spring』は、しっかりと感覚を研ぎ澄ませて聴けば誰でも分かるように、圧倒的な存在感を放っている。
 

坂本龍一のPiece for Illiaと、対する Paul Winter & Henrique Eisenmann の二人が奏でる『Ukrine Spring』。両音楽の決定的な違いは後者の祈りの思いが圧倒的であること。
前者の「ウクライナの若きヴァイオリニストを瓦礫の上に立たせ、そこで作曲者・坂本龍一の音楽を演奏させる」のとは違い、Paul Winter & Henrique Eisenmann の両者が共に「己」を完全に消し去り祈りに没頭している点は、リスナー各自が絶対に無視してはいけない点だと私は訴えたい。

祈る人が祈りに没頭する時、そこに祈る人の存在が一時的に消失する。
視覚的な祈りではなく、ただ脈々と祈る思いだけが辺りを全て包み込み、それが音楽家自身であればそこに音楽だけが静かに紡ぎ出されて行くのみだ。

 

Henrique Eisenmann


Ukrine SpringでPaul Winterの背景で静かなキーボードを奏でているHenrique Eisenmannだが、普段はとても騒がしく刹那的なジャズを演奏している人物である。正直この種のジャズは、私は悉く苦手である。
だがこの『Ukrine Spring』の中のHenrique Eisenmannは別人のように、オーソドックスなクラシックスタイルのバッキングに徹している。
  

どういうわけか上記の楽曲のHenrique Eisenmannが演奏している箇所の音質が全体を通じて歪んでおり、使用している楽器も然程状態が好くないことも垣間見える。
さらに時々大胆なミスタッチが連発している様が専門家の耳には一目瞭然だが、それを超えて無休の祈りが音楽全体を包み込んで行くので、音質の歪みやらミスタッチなどもはやどうでも良くなってしまうから音楽とは誠に不思議なものだと思う。
 

対する坂本龍一は若きヴァイオリニストを瓦礫の上に立たせたことを猛烈にアピールして来たが、むしろPaul Winter & Henrique Eisenmann の二人が奏でる『Ukrine Spring』のレコーディングのロケーションがどうなっていたのかの方に、私の興味は移って行く。
そのロケーションがどうであったとしても彼等にとってはむしろどうでも良いことで、ただただ寡黙な祈りだけを音楽に乗せて世界の空に飛ばして行ったところに、本物の音楽魂を感じるのみである。

 

『お茶』 – UA

 
ここまでこの記事のタイトルから大きく脱線して、先週末の世界の新譜の一曲にスポットを当てて綴って来たが、今週のメインのプレイリストは M-54: 『お茶』 – UA からスタートしている。

 

 

J-Popはここのところ作りが大雑把で音楽未満の新譜が乱立しているが、この作品お茶はなかなか良い作品だ。
UAのこれまでの印象として強かった「粘りが強くしつこい歌唱表現」が一掃され、どこか海外のチルアウト・ミュージックにありそうな小ざっぱりとした短いブレスのライトなヴォーカルが爽やかで、個人的に好みである。
 

そして前記事Laufey from Icelandでも紹介した曲LaufeyのFragileが、UAの次に並ぶ。
 

 

実際に更新出来た楽曲の数が少ないのは、おそらく私の感覚(感性)の感度がさらに向上したことによるもので、選曲がかなり厳しくなっているのを自分でも感じている。

新しい感染症が全世界に拡散し始めている今、これから何が起きるか分からなくなって来た。
今聴ける音楽に集中し、これからも出来る限り良質な音楽を紹介出来れば良いと思っている。

 

 

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戦争と音楽と坂本龍一

Piece for Illia、この曲を聴いた時に「あぁ又やったんだな、この人は。」と言うのがファーストインプレッションだった。
彼が何を又やったのかと言えば、勿論インスパイア音楽のこと。特に坂本龍一の場合、楽曲中のインスパイア成分が95%、残りの5%が坂本龍一の成分だと言っても過言ではない。
 

Piece for Illia


彼(坂本龍一)の場合、この現象は(私が知る限りでは)今に始まったことではない。
その昔はラジオ番組内各所に「新人発掘」なる企画を立ち上げては多くのアマチュア・ミュージシャン等から毎週のようにデモテープを募り、もしかしたら坂本のプロデュースの元にデビューが叶うかもしれないと言う夢を抱いた若者たちの希望の灯を、坂本はどれだけむしり取って来たことだろう。
 
看板「世界のサカモト」は私達、音楽仲間の一部では「パクモトリュウイチ」と呼ばれている。(※その時の衝動で何の躊躇もなく、坂本龍一が他のアーティストの作品を堂々とパクることからこの名が付いたと言われている‥。)
昭和から現在に至る数十年もの間、坂本のある種卑怯な作曲スタイルを内緒話として嘆く声も多数聞こえて来たが、数の力で多くの人たちの嘆きが闇に葬られて来た。
 
実は先程Twitterにも投稿したが、私は音楽家として今、とてつもなく腹が立っている。
 

 
勿論パクモト、‥じゃなくて、坂本龍一が同じ国籍の同じ音楽家であることも腹立たしいが、それよりも現在進行形で戦火にあるウクライナの民謡『Verbovaya Doshchechka』の美しい旋律をパロディーのように切り崩し、メロディーの一部の音の配列と音域を1オクターブ移動しただけでその他の音楽の雰囲気等を原曲の民謡そのままの状態で残した楽曲に対し、「作曲: 坂本龍一」とクレジットし、あたかもウクライナの悲惨な状況を嘆く体(てい)の楽曲として世に輩出した彼の言動はもっと許せない。
 
この作品には坂本龍一ともう一人、ウクライナのヴァイオリニストのイリア・ボンダレンコ氏がクレジットされている。楽曲はイリア・ボンダレンコ氏の音色に触発されたことから生まれたように、坂本龍一の談として言い伝えられている。

だが幾ら何でもウクライナの村の民謡に楽曲を似せて作った坂本自身の作品と言われるものを、戦火の真っただ中にあるウクライナの若い演奏家を起用した上、ロシア製の爆弾で粉々になった学校と瓦礫の上でそのヴァイオリニストに演奏させ、それをプロモーションビデオとして配信して平然としていられる作曲者(?)・坂本龍一の感性が余りに卑劣極まりない。
 

 
そこで私は Piece for Illia の原曲として演奏されたYouTubeを先ず探し出して聴いてみた。それが以下の動画である。
 

 
音楽に精通している人であれば一目瞭然だが、このアンサンブルには余計な西洋コードが加えられていない。
せいぜい旋律が三音以内に制約され、ルートとなるベースが固定されていない為、どこか伴奏のない女性コーラスに似た不安定さが楽曲の魅力となって聴こえて来る。
 

上のYouTubeの楽曲は “Verbovaya Doshchechka”。邦題だとカタカナで「ヴェルボヴァヤ・ドシェチカ」と書かれてあり、この作品はウクライナの村の民謡(春の民謡)と言われるものだそうだ。
とても美しい曲なので気になって、スペルを調べてYouTubeで検索したら以下の動画がヒットした。
 


やはり東欧独特の音の韻を踏んでおり、そこはかとなくアルメニア民謡にも通ずる哀しい中にも芯のある音楽が心に沁み渡る。
パクモト‥ じゃなくて坂本龍一はヴァイオリニストのイリア・ボンダレンコ氏ではなく、実はこの民謡に触発され、楽曲のインスパイア成分95%(ほぼウクライナ民謡)の旋律とかなり不自然な西洋コードを複合させた音楽を、物マネすれすれであるにも関わらず自身の作品と称して世に出したと言っても良いだろう。
 
あえてこれを「盗作」と言わないのは旋律が全く同じではないからだけであり、音楽は旋律だけで構成されている訳ではなく、コードやモード、楽曲のニュアンスや全体の印象も含めて楽曲が完成する。
 
何より心からウクライナ国内の停戦を願い、ウクライナの未来を祈り、尚且つウクライナ民謡 “Verbovaya Doshchechka” に触発されたと言う坂本龍一の声が真実ならば、何故原曲の民謡をありのままカバーしなかったのかが私には理解出来ない。
「インスパイア」と言う言葉を使いながらも最終的には坂本龍一自身の楽曲として世に出したかった彼の強い欲だけが、楽曲の前面に泥のように散乱しており、それらがウクライナ全体を酷く汚しているように私には思えてならない。
 

坂本龍一「ステージ4」のガンとの闘病を語る

 
昨日 2022年6月7日、早朝から坂本龍一についての不穏なニュースが世界を駆け巡った。
彼自身が今とても苦しい状況に在りながら、それでも彼が「パクモト」から抜け出せないのはやはり、生まれ持った彼の「業」ゆえなのだろうか‥。
 
仮に何かを盗むのであれば、せめてそれが愛する人の為に‥ と言う美しい美談であればまだマシだが、(例えるならば)ルパン三世の物語の主役が時折嘆く美しいつぶやきのような噂が彼の周辺から聴こえて来ることは、おそらく今後二度と無いだろう。
せめてこれ以上坂本が日本人或いは日本の音楽家たちの誇りを汚さぬよう、心から祈るばかりである。
 

作業と音楽と、グレイ星人と – “Ryuichi Sakamoto + Alva Noto — The Glass House”

こんなにも心を落ち着かせてくれる音楽を夢中で求めるのは、今、私が人生57年の中で最も大きな転機を迎えているからだと思う。
 
私を除く実家の最後の家族が2021年12月初旬に突然この世を去り、彼等の歴史の最後を私が見取ることになった。特に母の壮絶な最期を目の当たりにし、この家の一員として私が生まれた理由や家族や親戚が徹底的に私一人を家族・親戚の輪から排除しに掛かった本当の理由は何なのか‥ 等、これからの第三の人生をリスタートする上で私は、今起きていることの全てを一度まとめたいと思っている。
 
‥こんな時に聞きたくなるもの、そして私の音楽評論家一年目、2021年の音楽評論記事の最後を飾るに相応しい人、相応しい音楽はやはりこの作品だと感じた。
 

 

過去の私を知る人はなぜ、私が彼・坂本龍一氏の作品を私自身の人生の節目の音楽評論の素材としてセレクトしたのか、それをきっと薄々感じ取ってくれるだろう。
 

ここのところアンビエント・ミュージックの大半が模造品の様相を呈しており、これと言って目立つ作品に出会えてはいなかった。
だからこの作品 “Ryuichi Sakamoto + Alva Noto — The Glass House” が唯一無二の作品かと問われると、即座に「Yes!」とは言い難い側面もあるが、2020年から2021年の、この混沌とした時代に静かに、そして不穏なまでに冷静に寄り添ってくれる不思議なアンビエント・ミュージックだ。
 

 

冒頭近くの「A」の音から物語は始まり、途中から “Glass House” に静かな雨が降り始める。これが必然なのか偶然なのかは最早神のみぞ知る事実だが、兎に角全てが厳かに美しく、尚且つ無機的な一面を孕んで進んで行く。
 

冒頭の「A」を起点とした各々の音の断片は次第にコード「Dm」として形になり、それが楽曲全体をワンコードとして包囲し始める。
坂本、Alva Noto等の音の断片に雨音が混ざり合い、やがて坂本が “Glass House” 自体をマレットで鳴らし始める頃には時間の感覚が麻痺して来る。
 

 

地上で奏でられている音楽にも関わらず、空間自体は既に「酸素を持つ宇宙空間」と化している。極力露骨な電子音を叩き出さないよう用心に用心を重ねながら、坂本が “Glass House” にマレットを当てて行くと画面上ではそれが若干「作業」に見えて来る点が、少々残念ではあるが‥。
やはり音楽は純粋に、「音楽」として感じ取りたい。
 

 

たとえ瞬時的にでもそこにパソコン画面やApple(🍎)のマークが視えてしまうと若干集中力が疎外され、我に返った瞬間に彼等の「作業」を感じ取ることになり、正直しらけてしまうのだ(笑)。
 

だがそれはそれとして、この作品 “Ryuichi Sakamoto + Alva Noto — The Glass House” がアンビエント界の中でも秀逸な音楽であることには変わらない。
勿論とても不定形であり機材や環境の偶発性に依存しなければならない点は、音楽として見ればとても不安定であり普遍性の域には到達していないだろう。だが、アンビエント・ミュージックのそれが良さであり欠点でもあると言う点を踏まえながら、この作品に関してはその不安定要素を私はポジティブに解釈し、受け止めたいと思った。
 

心が不安定な時には、むしろ不安定要素(不確定要素)の高い音楽の方が精神を気持ち好く揺さぶってくれるし、不安定な精神状態にむしろ安心材料を与えてくれるから不思議だ。
 

 
ところで‥。
 
坂本が何度か Glass House の窓を連打した後に一瞬写り込んだこの「グレイ星人」と思われる映像は、意図的なものだろうか。
芸術家でありながらもコンタクティーでもある私としては、この画像がとても気になって仕方がないのだが‥。⇩
 

グレイ星人らしきもの‥

 
特にYouTubeの記録を観ていると、坂本が “Glass House” 自体を連打する音声が「異星から忍び寄る足音」のようにも聴こえて来る。
もしもそれを意図したものだとすれば、この作品自体が別の意味を持つ。

文字に書けば「陰謀論」として片付けられ、良くない意味で差別されるであろう何かしらのメッセージ性をこの音楽が存分に含んでいるとしたら、これはまさに「未知との遭遇」の音楽版と言えるだろう。
坂本龍一Alva Noto がタッグを組んで繰り広げられる音楽だ。そのぐらいのことは簡単にやってのけるだろう。
 

 

アンビエント・ミュージックの制作現場を視える化することが、必ずしも良いことばかりとは言い切れない。機材や多くのコンセントやコード、場合によっては波形や楽譜、手元の様子等が視えてしまうことで夢が失われる。
それを「クールでカッコいい」と思う人も多々居るのは知っているが、私はこういう「作業現場」をあまり見たいとは思わない。
出来れば音楽は作業現場を可視化せずに、聴力や聴覚だけで感じ取りたい派である。
 

さて、この記事の最後に一応Spotify版の Ryuichi Sakamoto + Alva Noto — [Glass] を貼っておく。
視ないで聴くか、視て聴くか‥、その両方から視えて来る各々のアンビエント・ミュージックがきっとあるだろう。
 

Chouchou(シュシュ)と最果ての女神

かねてから私が個人的に注目している日本の男女(夫婦)のユニット Chouchou が、2年振りにニューアルバム最果のダリアをリリースした。
 

 

アルバムタイトル『最果のダリア』の「最果て」の「て」をあえて抜いている理由について、彼等は一言も語っていないが、日本語として「最果て」から「て」が抜けていると若干違和感を感じる。
私が実はコテッコテの日本人だからなのか、それとも否か‥。おそらく「最果て」から「て」を抜いたことには何か、彼等なりの理由があるのだろう。そう思うことにしよう。

今回のアルバムで注目すべき点は、さっと要約すると以下の3点に集約される。
 
juliet Heberle のヴォーカルが穏やかに、尚且つ無理のない発声になったこと。そして彼女の歌唱表現から承認欲求が、完全に抜け落ちた点。
 
②何より arabesque Choche のメロディーメイクがシンプル化し、これまでのアルバムに見られる過剰で不要な冒険欲が一切削ぎ落とされた点。
このことによってメロディー自体が普遍性を帯びたことは、他のJ-Pop系のライター陣の域を一歩二歩飛び出て、楽曲全体のクオリティーが格段に向上した。
 
③ゲストプレイヤーとしてギタリスト maya Kawadias が参加したことにより、これまでの「俺って凄いぞ!」的な、Chouchouの楽曲全般に横たわっていた嫌味が全て抜け落ちた点。
そのことにより、むしろユニット Chouchou のカラーが際立って来たことは皮肉とも言えるが、私は良いことだと捉えている。

 

juliet Heberle の真骨頂は「声」ともう一つ、独特な「詞」の世界。本作品最果のダリアでもそれは引き続き健在であるが、むしろ以前よりもシンプルで歌詞表現が控え目になった分、楽曲に詞が乗った時の音速が飛躍的に向上した点は見逃せない。
それでいて、歌詞だからゴロ合わせでしょ?と思われそうな随所随所であっても、その作品自体を散文詩としても読ませてしまおうと言うこれまでの意気込みは変わらない。
つまり完成した歌詞であると同時に、未完成(楽曲の余地を残したと言う意味)な散文詩として完成されている。
 

あえて一曲一曲の詳細の解説は、私自身の作品ではないのでここでは割愛するが、このアルバム全編を聴いた後にふと、岩崎良美の過去のアルバム『月夜にGOOD LUCK』の冒頭の『夏の扉』が心の中に現れた。

 

 

岩崎良美はこのアルバムをリリースした直後に或ることが理由で声を失い、一度芸能界から身を引いている。
この曲夏の扉(作詞: 長谷川孝水 / 作曲: Bobby Watson)で、岩崎良美はそれまでの楽曲全般に見られた、生まれ付きの「美声張り上げ系」の歌唱スタイルをガラリを変えて、出来る限り静かに静かに、静寂を壊さぬ声量と表現スタイルをキープしている。
今にして思えばこの頃から彼女のメンタル或いは体のどこかに変化があり、こういう歌い方になったのかもしれない‥ と憶測することも出来る。あくまで憶測の域を出ないが。
 

一方Chouchouのアルバム最果のダリアでヴォーカルと詞を担当している juliet Heberle の場合も声質の変化を私は見逃さなかった。
ここではあえて理由詳細の記載はしないでおくが、以前のアルバムと比べると彼女の声のホワイトノイズ系の成分が増している。
それが理由で、それまでの彼女が持っていた高音域のツヤ感が消えたことによりむしろ、彼女の声質の少女性から女性性への、声の変貌を感じ取ることが出来る。

聴く人によっては、それを「母性」と感じる場合もあるようだ。私の場合は「母性」と言うよりもっと広い意味での「女性性」を、彼女の声から感じて仕方がない。
 

彼等は自身の音楽を「エレクトロニック」とカテゴライズしているが、本来ならばもっと広いカテゴリーである「J-Pop」に分類しても良さそうだ。だがそのカテゴリーでは上に上がつっかえており、色々ブランディングの観点からもやりにくいのだろう。

だが arabesque Choche  の才能あふれるメロディーメイクの才能を、「エレクトロニック」や「ポスト・エレクトロニック」等のマイナー・ジャンルに閉じ込めてしまうことにより、そのジャンル・カテゴリーでは確かに首位に駆け上がれるのかもしれない。だとしても、arabesque Choche 自身の持つメロディーセンスがこの、地味なジャンルの彼方に追い遣られるのは、ただただ勿体なく感じてならない。
 

今回のアルバムで特に印象に残った作品は、『Sapphire』『Flashback』。そしてもう一曲、Orionである。本音を言えば、私が今現在「歌もの」のメロディーメーカーを辞めていて良かったと、胸を撫で下ろした。
楽曲Flashbackでは arabesque Choche のサブドミナント発車のメロディーに、 juliet Heberleのシンプルで洗練された言の葉ワールドが控え目なのに、大胆に炸裂して行く。

 

 
そしてM-7Orionを聴いた時、 juliet Heberle の背後に突如中森明菜が現れた。彼女なら、この曲を違う視点で見事に歌い込むだろう‥ と。
当時私が芸能界で何をやっていたかについては触れないが、ふと、中森明菜のJEALOUS CANDLEが蘇った。
 

 

名曲は時空を超える。私はそう確信している。
勿論両曲を比較することなど馬鹿げているが、名曲を論評する時はその対象として名曲を持ち込んで比較することが望ましい。

又、 arabesque Choche の編曲の随所に、どこか坂本龍一氏の「耳」の片鱗を感じるのだ。もしもこの楽曲に maya Kawadias が参戦していなかったら、もっとそれが露骨に感じられただろう。だがことある毎に maya KawadiasがChouchouの空間に茶々を入れるので、 サウンド全体が丸みを帯びて深みが増して行く。言ってみれば maya Kawadias はChouchou邸の座敷童のような存在に近いかもしれない。
上手に上手に二人を邪魔しながら、幸運の種を蒔いて行く不思議な人だ。
 

楽曲Lovers & Cigarettesの冒頭から、 juliet Heberle の声の背後にうっすらと男性のヴォーカルがかぶっている。この手法が妙に坂本龍一氏の「耳」を彷彿とさせ、何やら私は懐かしい。
そしてM-5Girlの中サビの、男性ヴォーカルがうっすらと顔を覗かせる瞬間、arabesque Choche の背後霊のように坂本龍一の「耳」が金粉を撒き散らす。

 

 
このアルバムの音楽評論を書くにあたり、私はこれまでの数十年間の新旧J-Popを引っ張り出して彼等のテイストと何が異なるかについて、丹念に紐解いて調べて行った。
そして何を比較対照として並べて行くべきかについても色々考えあぐねたが、殆どのJ-Popが Chouchou のその輝きに惨敗した。

佐野元春、松任谷由実、中島みゆき、椎名林檎、宇多田ヒカル、藤井風…、雑魚ではなく良質・売れている作家を比較してもっとゴリゴリ語り潰したかったが、Chouchouの音楽がそれを許さなかった。

音楽評論をする時、何が良くて何がいけないのか‥ を綴ることは必要最低限のルールである。なのでその為の音楽資料を探したが、むしろ比較することが罪であるかのように、arabesque Chochejuliet Heberleの二人の睨みに評論する側の私が推し潰されそうだった。
 

最近の多くのメロディーメイクは、佳境に差し掛かるとラップに逃げる傾向が強い。殆どのJ-Pop、K-Popを含むアジアのポップス全般にそれは見られ、全体を一個の音楽として魅せて行く音楽が激減した。
だが未だ、Chouchou が残っているではないか!
 

心に残る音楽、記憶に残るメロディーの最大の武器は、旋律の帯である。

ヴォーカルの癖に逃げ込むことなく、何があってもヴォーカルが最後の壁一枚で音楽や楽曲を守り抜かなければならない。その力が Chouchou にだけ備わっているのは、一体何故なのか。

常に音楽を「声」と言う壁一枚で守り抜く juliet Heberleの歌声には、何かとてつもない大きな悲しみや痛みが宿っている。それがどの楽曲であっても脈々と音楽を溶かし込み、聴き手にその一部を悲しみのトリガーとして刻み付けて行く。
だがそれはやがて、愛、優しさを湛えながら大河となって聴き手の心を上から下へと滑り落ちて行き、体や魂のど真ん中の「心」へと激しくたたみかける。
 

日本のメロディーメイカーがこぞって失ってしまったもの(大自然にも通じる何か)が、ここ Chouchou の世界には未だ、ほぼ手つかずのまま残っている。
フランスの名水Volvicが遂に今年、地球から姿を消してしまったがそういう事態にならないように、是非とも透明で澄んだまま Chouchou には生き続けて欲しいと願わずにはいられない。

 

 

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音楽評論: “MIND CIRCUS” 聴き比べ

Tokimeki Recordsひかりさんが、中谷美紀さん1996年にリリースしたアルバム「食物連鎖」からの「MIND CIRCUS」をカバーしました。


ひかりさんも中谷美紀さんも両者共に甲乙付け難い表現力を持った歌手ですが、こういう時何を基準に音楽や歌を楽しめば良いのかといつも、私なりに苦心惨憺します。
そもそも人の声が余り好きではないのになまじ「歌」に関わる仕事に30年近く携わって来ると、言いたくもないのにうんちくを垂れてしまうのが嫌~な意味での不治の病的な職業病にも思えて来て、正直自分でも笑ってしまいます(笑)。

 

いつも思うのですが名曲をカバーしたがる人達のマインドには、個人的に興味と疑問の両方が湧き起こります。

音楽はその時、その季節、その時の素材、そしてその時に関わる作曲家の全部の軸が揃った瞬間に命を授かります。なのでカバーや再演時には、「あの瞬間」の鮮度は既に失われていると言っても良いでしょう。

極論、作品をレコーディングした時が頂点で、それ以後は日増しに劣化が進み、音楽は思い出の中で有限の命を持つことしか出来ません。なので出来れば名曲をカバーするのはやめて欲しいなと、個人的には思うわけです。

その意味ではこの「MIND CIRCUS」にも同じことが言えるかもしれません。
やっぱり頂点は1996年、坂本龍一さん(作曲 / 編曲)に売野雅勇さん(作詞)の繊細な世界観が折り重なり、そこにガラスのナイフのような感性を持った当時の中谷美紀さんの声が乗って、原Key(F-Maj)で不愛想に繰り広げられるどこか抜け殻のような彼女の声質がこの作品にはピタっとハマっていたように思います。
 


但し。表現力の豊かさ、厚みと言う点ではおそらく ひかりさんが 一も二も上手を行っていることは周知の事実です。
これは皮肉としか言いようのない現象ですが、こと「歌」の世界ではこのような皮肉な現象が頻繁に起きているのが現実です。

加齢や声の状況によってKeyを上げ下げする歌手を私は多く見て来ましたが、基本として音楽は原Key(その曲が最初に誕生・歌唱された時のKayの意味)で歌い続けることが理想です。そのKey自体に既に命やDNAの原型が完成していて、それを壊してしまうと楽曲本来のラインが完全に崩れてしまうからです。

同じ洋服をサイズ違いで年月を越えて着続けるぐらいならば、いっそ新品を新調した方が身の為です。音楽の場合は絶対に、そうすべきです。
そして、「もう歌わない」「歌うことをやめる」「この作品を手放そう」と決断を下せるのは、何を隠そう歌手自身です。ズタボロになってから否応なくその決断に至るよりは、未だ輝いている時に撤退することが望ましいと思います。


余談ですが中谷美紀さんが1996年にリリースしたアルバム『食物連鎖』には、名曲が多数収録されています。中でも私が今聴いても良い作品だと思った一曲が「LUNAR FEVER」。作曲は高野宏さん、作詞は森俊彦さんです。

 


歌詞もなかなか素晴らしいです。

興味のある方は⇨ コチラ ⇦で読んでみて下さい。ゾクっとするような言葉の断片が聴き手を瞬殺してくれること、間違いなしです。

本題のひかりさんの歌唱力や表現については、特に加筆することはありません。良くも悪くも「可もなく不可もなく」と言った感じで、私個人的には「声質が好き」「原曲よりは表現が若干豊かである」と言う意外に特筆すべきことが見つからなかったのです。

上手なのに特に心に残らない歌と言っても過言ではなく、これはもしかすると歌手としては大きく損なタイプかもしれません。下手でも人の心にインパクトを与える歌を持っていた方が、長い目で見た場合には「得をしている」とも言えますから。
 

ま、私は作曲家タイプの芸術家ですから、表現よりも楽曲がどうなのか‥ に目が行ってしまうのかもしれません。その意味ではこの作品『MIND CIRCUS』はその名曲ぶりから、多くの女性歌手を泣かせ続けながら現在に至るのかもしれません。

良くも悪くも、メロディーセンスの点では「無類の色男」の素質を存分に秘めています。私がもしも歌手を続けていたとしたら、きっとこの強烈な毒牙にハマり込んでカバーを試みて自滅していたでしょう。それ程魅力的な楽曲が坂本龍一氏から連続して放たれていた時代も、もう遠い昔の話です。

少しだけ胸をキュンキュンさせながら、そのWaveに溺れないように私は遠くから、坂本龍一氏の今後とこの作品の行く末を静かに見守りたいと思います。


この記事の最後に、そんな最近の坂本龍一氏の作品の中で気になった作品『andata』をワンオートリックス・ポイント・ネヴァーがカバーした方のYouTubeを貼っておきます。
原作よりも ワンオートリックス・ポイント・ネヴァー のカバーテイクの方が、精度が高い気がせずにはいられません。感性の問題か、民族的なルーツの問題か或いはその両方の要因が、完全に原曲を押し潰した格好になっています。
特に途中から断続的に加わって来るスチールドラムの音色と若干のオルガンのバックがこの曲に不似合いな分、聴き手に強烈なインパクトを与えて来ます。
 
なにせ一周も二周も、或いはそれ以上も軌道を巡りながら結果的に全ての要素がバッハに回帰して来る彼等の活動が、過去世バッハの私をゾクゾクさせてくれます。
思わず「お帰りなさい」と呟いてしまいました(笑)。
 


音楽とは本当に不思議な生き物だと思わざるを得ません。