アレクサンドル・スクリャービンに関する考察

そもそもの発端はSNSのXでの雑談であったが、折角の機会なのでスクリャービン (Alexandre Scriàbine) について色々深堀りしている。
書籍でも企画等でもそうであるが、一人よりは二人、二人よりは複数での研究の方が勢いづくことが多いと思うが、時に二人が一人になってしまう事故が起きる。今朝の一件がまさしく、それであった。
 
話をスクリャービンに戻して、先ほどから色々な演奏者のスクリャービンを聴いている。
思い起こせば私は中学生からスクリャービンを弾き始め、大学生になった頃にはクラシック界が現代音楽一色に染まりかけていた。猫も杓子も現代音楽 (特に作曲科界隈で‥) に傾倒し、調性音楽等書いている学生はどこか馬鹿にされるような空気があった。
私は破壊芸術側の現代音楽よりも、実は調性音楽側のロマン派辺りの作曲家を好んだが、周囲にそれを話したことは一度もなかった。そもそも人目に付かぬように日本のポップス界のど真ん中に陣を敷いたわけだが、それすらかなり特殊な方法で私はレコード会社各社を跨いで駆けずり回ったものだった。
 
話をスクリャービンに戻そう‥。
新旧色々なスクリャービンを聴いているが、どれもしっくり来ない。多くのピアニストがピアノと言う楽器の根本を、分かっていない。ピアノの打鍵の瞬間の繰り返しを音楽だと思っており、音を出さない空間を音楽として捉えていないからだろう。
だが、ピアノと言う楽器はペダリングこそがピアノらしさであり、ペダリングを制覇しなければピアノを制覇したことにはならないと、私は思っている。
 

 
特にスクリャービンの音楽はロマン派から近代音楽に跨っている為、奥底に神秘の宝がふんだんに眠っている。それはモーリス・ラヴェルクロード・ドビュッシー、或いはセルゲイ・ラフマニノフとも異なる、もっと曖昧な雲やガスのような色合いに近い不透明性とも折り重なる感性だ。
その不透明性を表現せずして、スクリャービンを演奏することは出来ないだろう。
 
だが多くのピアニストに見られるのは、胸をピーーンと張って「我こそが世界最高のピアニストなり!」と聴衆を威嚇しまくるような解釈だ。
ハキハキと打鍵し、スクリャービンの持つガス感や霞のような神秘性とは真逆の表現をして、寝た子を起こすような華やかな演奏をしているように思える。リストやブラームス、ベートーヴェンじゃあるまいし、寝た子はそのまま寝かせておけば良いものを、それらの暖かなヴェールを剥がしてしまったらそれは最早スクリャービンでも何でもない別の音楽だ。
 

 
誰彼の演奏が良い/良くない‥ と言う話のテーブルのベーシックすら完成していない状態で、音楽のネタを私に振って来ること自体どうかしている(笑)。
 
最近のクラシック音楽界は二極化しており、かたや古典やロマン派のオーソドックスな音楽を好むリスナーと、もう片方では破壊芸術やノイズ音楽にほど近い現代音楽の側を推すリスナーとに完全に二分している。
私はそのどちらでもないからこそ、自身の音楽を生み出しているわけだが、この「どちらでもないスタンス」の方が本来の音楽の進化の方向性だった点については多くの音楽家や音楽評論家が認識していないのが現状だ。
 
クラシック音楽に蔓延している「聴き比べ」の文化とでも言うべきか、そこを離脱しない限り、クラシック音楽界の成長や進化は望めないだろう。
 

 
数十年も前の音源を取り沙汰してああだこうだと言ったところで、録音技術も未熟だし、何よりクラシック音楽家の権威主義が厚く業界に根を張っているような世界で、新しい価値観が芽を出す隙など無くても当然だ。
 
古い演奏者の音源を論評するよりも、もっと空間音響の知識を身に着けたり、クラシック音楽の分析や解釈の底板を厚くすることに注力して欲しいと願わずには居られない。
 
色々なスクリャービンの音源を聴いて感じることは、スクリャービン自身が望む音楽や音楽性を再現している演奏家が殆ど見当たらないことだ。
楽譜を見れば一目瞭然、スクリャービンが何を思い、どの世界観を心に持ち、その高みをどのような心境で目指していたのか‥ 等、手に取るように分かる筈。だが、そこまでの推察を施している演奏者が現状殆ど見られないことが、ただただ残念で胸が痛く、そして切ないばかりだ。
 
現代のクラシック音楽界の「コンクール主義」や「タレント活動」体質、或いはクラシック音楽のアンバサダー主義が演奏者及び業界の見識を完全に歪めてしまっているのだろう。
そこに付け加え、クラシック音楽愛好家の「聴き比べ主義」が業界や文化そのものを衰退させていると、私は思っている。
 

もしも私に弟子と言う存在があったら、何を伝えられるだろうか‥。
勿論クラシック音楽界で生き残れる手段は伝授するだろうし、既存のコンテストにも出場させることがあるかもしれない。
だがピアニストとして長く生き残るには、それだけでは足りない。
先ずは作曲を教えなければならない。そして音楽の解釈、分析をきっちりと教え込んで、最終的にはオーケストラ全体をまとめる為の手法を伝授すると思う。
 
その上で、自分自身の世界を持つ方法を、きっと弟子には伝授することになるだろう。
 

 
肝心のスクリャービンであるが、私は上記のミハイル・プレトニョフの演奏解釈と、本記事の最後にリンクを貼るウラディーミル・アシュケナージの解釈が好みだった。
 

全く余談ではあるが、スクリャービン探索の最中に色々な音楽に遭遇した。
その中で、ピダルソ (𝗣𝗶𝗱𝗮𝗹𝘀𝗼) と言うピアニストが奏でる坂本龍一の作品『A Flower is not a Flower』に息を呑んだ。
坂本龍一氏の作品の中では最も美しい曲だと、個人的に好んで色々なバージョンを聴いてもいる。

ピダルソは多分韓国のピアニスト (兼 作曲家) と思われるが、情報詳細は未だ掴み切れていない。
その動画を補足として、このブログの最後の〆に貼っておきたい。
 

音楽は全て繋がっている。そして時間も時空も超えて行く、とても不可思議な生命体である。
 

 

関連記事:

 

最後にこの記事を書く切っ掛けを与えて下さった某人へ、感謝の意を表したい。
もう二度と関わることはないかもしれないが、このような良い機会を得られたことはとても貴重な宝だったと思う。

[音楽評論] “Ravel: The Complete Solo Piano Works” by Seong-Jin Cho (チョ・ソンジン)

久しぶりに目が覚めるようなクラシック音楽を聴いた。

本記事で紹介するのは、韓国から世界に放たれた近代音楽、モーリス・ラヴェルのピアノ曲集。
基本的にクラシック音楽のガチャガチャした感じが個人的に好きではないので、冒頭2曲で止めようと思った。だがM-3: “亡き王女のためのパヴァーヌ” で演奏者 チョ・ソンジンが覚醒する。

日本の近代音楽ピアニストの権威、安川加壽子(やすかわ かずこ) の影響が強く染み付いた私にとって、近代音楽は「感情を一切込めない冷酷な音楽」と言う強いトラウマを植え付けらえる切っ掛けだった。
彼女の公開レッスンに実際に演奏者として参加した私は、そこで一気にドビュッシーもモーリス・ラヴェルも嫌いになった。

彼女の言う「感情を一切込めない音楽」とは半ば、エモーションを完全に手放したロボット的解釈のそれだった。だが肝心のラヴェルの音楽には緩急があり、程好い加減を心得た最低限のエモーションは必須だと言うことは、わずか小学校2年生の私でさえ理解に至った。
 

チョ・ソンジンの新譜 “Ravel: The Complete Solo Piano Works” を聴く限り、彼は安川加壽子の言う近代音楽の解釈は取り入れておらず、むしろ彼の解釈は感情過多に陥ることなく、その先のエモーションに到達しているように思える。

M-4: Jeux d’eau (邦題『水の戯れ』の解釈は、個人的にツボだ。
 

 
何を隠そう学生時代の私はこの曲を得意曲としており、数十種の解釈で日々演奏し分けていた。と言うのも複数人のピアノ教師に師事していた為、否応なく一曲を各々の教師の好みに弾き分けることを余儀なくされたからだった(笑)。
桐朋大学の権威者の元にレッスンに行く時は、いかにも権威主義的でいかつい近代音楽を大げさな身振り手振りで演奏しなければならなかったし、かと思えば藤井一興氏の自宅レッスンに行けばまるで私が元からフランス人に生まれた人みたく、流しそうめんをつるつる飲み込むようなラヴェルやオリビエ・メシアンを演奏しなくてはいけなかった‥。
 

兎に角私は何が忙しいかと言えばこの「弾き分け」で、母 (毒親) はそんなこととはつゆ知らず毎日私の練習中ミスタッチを見つけ出してはヒステリックに私の腕に爪を立て、皮膚を抉り、握りこぶしの関節が当たるように右目の眼球を殴り続け、そんな中で私がクラシック音楽など好きになれる筈もなかったわけだ‥。
 

 

ここで一つだけ余談を。
私が学生時代の頃は主のピアノメーカーはと言えば、YAMAHAかスタインウェイ (Steinway & Sons) だった。YAMAHAは高音域の音質が金属丸出しで上品さを欠いており、一方当時のスタインウェイの鍵盤は象牙が使用されているものが多かった。これが鬼門だった。
上記に触れたモーリス・ラヴェルの「水の戯れ」の中盤の盛り上がりで一カ所だけ、グリッサンドが書かれた箇所がある。グリッサンドとは、鍵盤を滑りながら打鍵する奏法で、これを象牙が完全に妨害するのだ。
 
そもそも象牙と言う材質は滑りにくい素材で、その上をあえて “f” (フォルテ) で滑り落ちるように手を移動させなければならなかったから、スタインウェイでこの曲を演奏した後には必ず右手人差し指の側面が真っ赤に皮が剥けて、包帯が欠かせなかった。
特にこの曲の場合は黒鍵を指のはらで滑らせて、高音から低音まで下降しなければならず、本番一回の演奏だけで人差し指の側面の皮膚が赤くただれてボロボロになる。

 
話をチョ・ソンジンのモーリス・ラヴェルに戻そう。
普段私は他の人のクラシック演奏をあえて聴かないようにしているが、それもこれもクラシック音楽の未進化具合に苛々して精神衛生上良くないからであり、クラシック音楽が良い意味でもっと進化すれば本当はもっと色々な音楽を聴きたくなる筈で‥。
 
チョ・ソンジンのこのアルバム “Ravel: The Complete Solo Piano Works” を今もヘッドホンで聴き進めているが、全体的にヒステリックさはなく、クラシック音楽奏者が持つエゴイスティックな嫌味を感じない。

世の中も音楽も同様に、実のところ「何も起きない」ことがベターなのだ。
だが多くのクラシック音楽の楽曲も解釈もドッタンバッタンと大げさなドラマを作り出し、これみよがしに権威主義を見せ付ける。それが「クラシック音楽の醍醐味」だと思い込んでいる現役の音楽家も、そしてクラシック音楽愛好家も共に多く、「何もない音楽」「何のドラマも起きない音楽」‥ つまり事件性の薄い音楽には価値を見出さない人たちが多数存在する。
だがそのような音楽を地球の外に持ち出すことは不可能だと言う現実の壁を、殆どの人々が知らずにいるようだ。
 
なぜならば、私が知る多くの地球外生命体たちは地球人よりも聴力と鼓膜が弱く、大きな音量には耐えられない。勿論そんな地球外生命体の面々に現在の地球上の音楽を聴かせようものなら、おそらく彼らは耳を強く抑えて、大きな声で「やめてくれ!」と叫ばずにはいられなくなるだろう。
 

ある意味私にとっても外敵さながらの現在の地球上のクラシック音楽集の中でも、幸いチョ・ソンジンのこのアルバムはギリギリ、地球外に持ち出せるクラシック音楽の一つとして地球外生命体の音楽愛好家等にも推奨出来そうだ。
但し音量はぐっと抑えめにして、彼らに聴かせなくてはいけないだろう🛸
 

“Pavane pour une infante defunte, M. 19” – Lang Lang (album “Saint-Seans”より)

先週末の「世界の新譜チェック」は、未だ完了していない。
今週は丹念に一曲一曲を精査しながらの新譜チェックを継続しているが、そんな中私が余り好きではない中国のピアニスト Lang Lang (ラン・ラン) の新譜が飛び込んで来た。
 
元々大好きなモーリス・ラヴェルの名曲なので耳をダンボにして聴いているが、ラン・ランの表現の粗さがこの作品では特に目立ったように思う。

 
この人の持ち味はpppの音色にあるが、表情過多、感情過多な表現に陥ると手が付けられないほど気持ち悪い。
とりわけこの作品の解釈ではf (フォルテ) 部分が荒々しく演奏されており、表現としては未完成だ。 他の奏者との格差を図り過ぎたことによる表現の粗は、数年もすれば角が取れて丸くなると思われる。
 
だが如何せん、平たい顔族がそうではないかのような、あたかもお家芸でもないのにお家芸であるような過剰な演技をごっそり削ぎ落とすと言う大きな課題が、彼には残されているのではないか‥。
 


フランス音楽と言えば日本人で思い付くのが、安川 加壽子さんだ。私も何度かレッスンをして頂いたことがあったが、彼女とは感性や楽曲の解釈等の価値観も含めて合わなかった。
 
「フランス音楽は徹底的に感情解釈を除去することが基本です。」と言うのが安川氏の決まり文句だったが、それもやり過ぎると余りに無機質で音楽性を欠いた音楽になってしまうから困ったものだ。
かと言って感情解釈を過剰に音楽に持ち込むと作曲者の意図を踏み外した、全く別物に仕上がってしまうし、その匙加減が絶妙に難しい。
 


だとしてもだ。
ラン・ランの感情過多な楽曲解釈は私には到底受け容れ難い。
折角ピアニッシモの音色がとことん美しいとしてもその他の表現が余りに荒削りなので、表現バランスがガタピシになってしまって全体的なまとまりに欠ける。
感情やエモーショナルな表現をもっと洗練させて行けば、ラン・ランのフランス音楽に表現の新たな道が開けるのかもしれないが、それを聴き手として待てるのはしいて言えばラン・ランの「推し」だけだろう。
 
「推し」の為の音楽は、クラシック音楽シーンには最早不要だ。もっと客観的な表現解釈がクラシック音楽には求められる筈であり、多くのクラシック音楽奏者たちはそう言った「推し」たちの為の商業音楽手法から早々に抜け出さなくてはいけない。
そこにラン・ランも当然含まれる。
 
付け加えるならばこの曲「亡き王女のためのパヴァーヌ」を再現する際のフォルテの音色には、細心の注意を払うべきだ。
実際にはフォルテの概念を新たに、ピアノのボディーをフル活用した『重厚感のあるp (ピアノ) ないしはpp (ピアニッシモ) 』と言う解釈に到達することが望ましい。
宇宙からゆっくりと地上に落ちて来る隕石を表現する時に、打鍵の速度を上げてフォルテで鍵盤を叩くことが相応しくないように、モーリス・ラヴェルがこの作品に求めるフォルテ (f) も同様に、重力を失った物体を動かす時のような打鍵の絶妙な速度感が求められるように、それがむしろ当然の解釈だと私には思えてならない。
 

クラシック界の新進気鋭・藤田真央を分析する

このところ何かとクラシック音楽界を賑わせているこの人、藤田真央と言う名前を頻繁に見掛けるので遂にYouTube~Spotifyの音源を聴いてみた。

先ず率直に聴いた感想を述べてみると、一言で言うと音楽表現が幼稚だ‥ と言う一点に尽きる。
まさかこの人がまだ幼気な子供だったらと言う懸念もあり慌てて藤田真央氏のプロフィールを捲ってみたが、どうやら成人式を迎えたばかりの年齢には到達している事が判明。ならば一人の大人の演奏家・表現者としてのジャッジメントを加えても良かろうと言う判断に至り、この記事を書いている。
 

音楽ライター・高坂はる香と言う人がTwitterでやたら藤田真央を褒めちぎっていたので、どうにも気になったことが切っ掛けで色々私まで彼の音源を追い掛ける羽目に陥ってしまったが、正直時間の無駄だったかな‥ と後悔している(笑)。
 

  
やはり人の言葉はアテにならない。‥と言うより、高坂はる香が「音楽ライター」であって「音楽評論家」ではなかった‥ と言う点をうっかり見落としていた私がいけなかったのだ。
こういうところはしっかりと、見落とし・抜かりなく精査しなければならない。

高坂はる香のTwitterのTLで紹介されていたのが、以下のYouTube。どうやら2022年1月19日(水)19:00 東京オペラシティ コンサートホールで開催された藤田真央のピアノリサイタルのダイジェストから、ショパンのバラード 第三番の一部だ。
 

 

良く言えば「個性的」だが、裏を返せば身勝手で作曲者: ショパンを全く無視した浅はかな亜流解釈のショパンと言っても良いだろう。
コメント欄にも「賛否が分かれるだろう‥」と言ったような内容のコメントが散見されるが、こういう遠慮がちなコメントではなくはっきりと「これはショパンでも音楽でも何でもない!」と言えないのは、受け身体質の強い日本人の弱さでもあるだろう。

(藤田真央の楽曲の)解釈が断片的で、一個の音楽として楽曲を俯瞰出来ていないし、しかもそのくせやったりげな表情で人格者を演じているのが余りにも滑稽で、絵的にも見ているのが辛くなる。
これはクラシックの演奏家に多いパターンで、なぜかドヤ顔でやったりげで崇高な人格者を顔芸で演じてしまう人達が多いのは、何を隠そう彼らの知性と自信の無さの顕れなのだと私は思っている。

そもそも作曲者の意図や感性を超えた演奏家(再演者)自身の個性等、全く以て不要である。
この点を勘違いし、「自己の新たな解釈」を無謀に加えたがる再演家が、まだまだクラシック音楽界に蔓延しているのが現状とも言えるが、この傾向は出来れば全てのクラシック音楽の演奏家達が早々に脱却しなければならない大きな課題の一つである。

付け加え、高坂はる香のような安易に勝ち馬に乗りたがるタイプの音楽ライターが、表現の稚拙な若い表現者をやたら持ち上げるこの状況にも大いに問題を感じる。
あくまで業界関係者や世論が今誰に注目しているか‥ と言う流れに上手く乗って、自分自身の感性とは全く関係のない、あくまで売れ線演奏者のCDやコンサートチケットの売り上げに貢献することだけを目的とした音楽評論もどきを見抜けない、一般のリスナーの罪も深い。
 

 
話しを藤田真央に戻そう。

藤田真央のWikipediaに掲載されている略歴を見るかぎり、多数のコンクール受賞歴があり、日本国内のTV番組にも多数出演する等、年齢と職歴が反比例するような状況だ。

だが気を付けなくてはならない点は、あくまで藤田真央は未だ演奏者としては未開の地であり、尚且つそうした学習を要しない程の突出した才能に恵まれているわけではないと言う現実を彼が抱えていることだ。
藤田真央はあくまで平凡な商品であり、それ以上でも以下でもないと言う点を的確に見抜く音楽評論家やマネージャーが付かない限り、あっと言う間に天狗になり、あっと言う間にこの世から消されることにもなりかねない。

余生は一部の熱狂的なファンに囲まれ、それなりに幸せな演奏家生活は全う出来るだろう。勿論それだけで満足であれば言うこと等何も無いが、そんな状況をみすみす放置しているだけでは、日本から音楽史や世界史に名を刻む芸術家は生まれないだろう。
 

普遍の表現、圧倒的なまでの音楽解釈力、美しい音色、そしてそれが音楽であることすら忘れさせるような圧倒的な演奏能力、最低でもこの4つの才能を持たなければ歴史に爪痕は残せないだろう。
尚且つ演奏家の宿命は、「再演を続ける」ことだけに忙殺され、没後50年も経過すれば殆どの演奏家はこの世から消えて行く運命を背負っていることである。

やはり歴史に名を刻む為には、演奏者(表現者)自らが音楽を生み出すことが必須である。身も蓋も無い話しだが、これは真理と言っても過言ではないだろう。

 
このところ私自身が公私共に多忙になり、今日はここで執筆を終わりにしたい。この記事の最後に正直言って「何てことをしてくれたんだ!」と怒りキレそうなまでに、私の大好きなこの作品(『亡き王女のためのパヴァーヌ』)を穏やかに崩壊させてくれた、藤田真央のこの音源を貼っておきたい。
 

 

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立ち止まる黒鳥 – Andre Gagnon(音楽評論)

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久しくその音色を聴いた時、一体何が起きたのかと思う程のアンドレ・ギャニオンの変貌ぶりには驚きました。それはアンドレの真骨頂と言うよりもむしろ、過去世の私 J.S.バッハの復活のように聴き手を錯覚させるに十分な音楽だったからです。

 

 

でも、人には色々な時期、心情、そしてその時々に追い求めている表現手法があるのだから、人類にとっての音楽の父・バッハに恋焦がれる現代の音楽家を誰が責めることなど出来るでしょうか。
それにしても、アンドレ・ギャニオンの中に起きた一種のタイムスリップ、或いは古典回帰がいつ、どの時点から始まったのかについては是非、ご本人にお伺いしたい心境になりました。

 

アルバム『Impression (1983年リリース) 』からのピックアップ曲『めぐり逢い(Comme Au Premier Jour)』の世界的なヒットがしいては今のヒーリング・ミュージックの火付け役となったこと、それがアンドレにとっての幸運だったのか、それとも悲運だったのかはおそらく本人でさえも謎かもしれません。

 

この音楽が地球の上空を悠然と一羽の白鳥のように飛び交い、音楽の世界に一個の大きな航路を描いて行きました。
丁度大学に進学した頃と重なり、『めぐり逢い』は思春期の私の脳裏に大きな火薬を投げ掛けました。同年、日本では杏理さんの『Cat’s Eye』、YMOの『君に、胸キュン』、松田聖子さんの『ガラスの林檎』『Sweet Memories』等が綽綽とヒットを飛ばしていた頃。

 

歌ありきの日本の歌謡曲の黄金時代の少し奥まった巣穴から、ひっそりと現れたニューエイジ・ミュージックの波は、その後世界的にブームとなるスピリチュアル(精神世界)の流行の始まりと同期しながら、サブカルチャーとして王道のすぐ隣の路地裏で少しずつ、そして急激にその流れの速度を上げて行きました。

 

 

 

アンドレ・ギャニオンの独走を許すものかと日本国内でも、西村由紀江さん、村松健さん、加古隆さん、倉本裕基さん、坂本龍一さん、日向敏文さん ~妹尾武さん等の多くの音楽家が軒を連ね、海外からはEnigma、ディープ・フォレスト、マイケル・ナイマン、ジョージ・ウィンストン、ジャン・ミッシェル・ジャール、シークレット・ガーデン.. と挙げればきりがない程のミュージシャンが現れ、一つのブームを形成して行きました。

 

彼等に共通する一つの音楽的な要素として挙げられるのは、全ての表現者たちの音楽の中には必ず、フレデリック・ショパンが心の奥底に棲んでいたことではないでしょうか。

 

ロマン派を代表する音楽家・作曲家と言って良いショパンは、その後の音楽家に大きな影響を与え続けるに留まらず、本来ならばその後に生まれた筈のロマン派の大きな流れを全て吸収し、後継者にその流れを受け継ぐことなくあの世に全てを持ち去ってしまったように思えてなりません。

 

ニューエイジ・ミュージックが流行したもう一つの要因として挙げられるのは、そんなショパン没後の音楽のムーヴメントが近代音楽の短いブームを経由して現代音楽に横暴なまでに受け渡されてしまったことです。

 

調性音楽を愛する(ショパンを心に住まわせた)多くの音楽家たちは、現代音楽には一切関心が無かったはずです。なので現代音楽主流の今の音楽業界の中から一人、また一人と飛び出して、理想に最も近いニューエイジ・ミュージックや映画音楽等の業界に自身の拠り所を求める以外に、方法が見い出せなかったのでしょう。
本当に不運としか言いようがありません。

 

まるで秘密結社のように闇の真ん中に暗躍する現代音楽。それは権威主義の象徴として長く音楽業界の中心に君臨し、現代の作曲技法の揺るがぬスタイルのメインであるかのように、多くの音楽家たちを翻弄し続けています。
確かに今でも根強くその作風が愛され生き残っているかのように一見傍目には見えてはいます。ですが、実際に現代音楽の作風や作曲技法を心底愛してやまない作曲家も、そして一般の音楽ファンも、実は言われている程多くはないかもしれません。

 

ドカーン!、ビヨーーン!、ハッヒョーーン!… と減7度の跳躍を折り重ねながら不穏に楽曲展開を繰り広げて行く音楽は、食事中や育児中になど到底聴けるものではありません。精神が不安定になるばかりではなく、お昼寝中の幼い子供たちに悪夢を引き寄せる要因にもなりますから、私はそのような音楽を日常生活の中にメインに取り入れることは絶対にお薦めしません。

 

 

 

私の記憶が正しければ上の作品『明日』を平原綾香さんが (2005年に) カバーした後、アンドレ・ギャニオンのピアノ作品のリリースの勢いが長い時間止まったように見えました。

この作品はわたし個人的には、アンドレ・ギャニオンの多くの作品の中でも『めぐり逢い(Comme Au Premier Jour)』に次ぐ高いクオリティーを持つ作品と言っても、過言ではないでしょう。

 

 

 

平原綾香さんの少し説教臭い表現手法は余り好きとは言えないですが、この作品に関しては彼女への当て振りで楽曲が書かれたのではないかと言う程ぴったりとフィットしているように感じます。それが平原氏の説教臭い歌い方を見事にオブラートにくるんでおり、気の利いた小品に仕上がったのかもしれません。

 

ロマン派の潮流がフレデリック・ショパンを最後に一旦止まった後、チャイコフスキー、サン・サーンス、ラフマニノフ… とそれはそれは多くの作曲家が現れては消えて行きました。

又革命や戦争の絶えない時代とも折り重なって、ショパン以降の多くの作曲家たちの作風は必ずと言って良い程メインテーマ以外は大砲でも飛んで来るのではないかと言う、荒れ狂うパートがふんだんに楽曲に詰め込まれ、それが多くの音楽ファンのクラシック音楽離れの要因になったのではないでしょうか…。

 

又、次から次へとピアノの名手が生まれ、さながら陸上競技でも競い合うように高速・爆音・無休運動の演奏スタイルがその主流であるかのように音楽の表現世界を独占して行ったことは、今にして思えば不運だったとしか言いようがありません。

 

不思議なのは、ある程度職歴を積んだ演奏家や作曲家の多くが、J.S.バッハの作風に必ず立ち返ろうとすることです。

それだけバッハがこの世に与えた音の影響が大きかったとは言え彼は、もう過去の人です。バッハの対位法や平均律の世界から飛び立って、次世代の穏やかなクラシック音楽の世界を誰かが大きく構築してくれるのではないかと、私自身もその日を他人事のように暫くの間そっと見守っていましたが、未だその念願は叶っていません。

誰も手を付けないのであれば、未来と過去の多くを知っている人間がそれをいち早く構築し、席巻して行く他にはないと思います。

 

ただ、気がかりなことがあるとすれば、これまでフレデリック・ショパンの居た椅子を狙い定めながら生き長らえて来た多くの音楽家たちの将来です。その一人が、アンドレ・ギャニオンと言う音楽家であり、彼は今湖面に動かぬブラック・スワンの如く、石のように黙り込んでいます。
アンドレ・ギャニオンのベスト盤を除く最新作が冒頭でも触れた、アルバムBaroqueになります。

 

作者を言われなけばおそらく、多くのリスナーがこの作品がアンドレ・ギャニオンのアルバムであることには気付かないかもしれません。

長い時間を時代の転換期と言う湖面で過ごした後のアンドレが、そこからどこに向かって歩み出し、羽ばたき始めるのか‥、私も固唾を飲んで見守りたいと思います。