発電するような熱量で‥

毎年10月から年末にかけては、どう足掻いても足掻ききれないような時間が続く。
特に実母の死後にその状況が悪化し、そのシーズン中に私の誕生日がうっかり挟まっているので最近、毎年誕生月付近に体調を壊す。
そこに来て今年はKポの騒動がさらにサンドイッチで挟まり、想定外の状況に見舞われている。
だがそんな中にも安らぎがあり、これでも今までの人生の中で今が一番幸せだと言い切る自信だけは失っていない。
 
スピリチュアルやら心霊やら、そんなことがどうでも良くなる程膨大な音楽の作業に追われている。
勿論随所随所の神人共食は欠かせないが、先日はちょっとしたアクシデントに見舞われた。その内容についてはここでは明かせないが、幾ばくかの油断と隙が私の中にあったのだと思う。
やはり驕りは危険だ。(猛省中。)
 

 
3I/ATLASの接近と共に、若干めまいと空気圧のような感覚が負荷のように体にのしかかっているのを感じている。
どこぞの誰かが言うような‥ 3I/ATLASの生命体説に関しては私は一切肯定していないが、鉱物の特性である「情報の搭載」の性質については概ね肯定している。
鉱物にも性格や性質があり、3I/ATLASが好奇心旺盛な性質を持つ彗星の一つであることは、私の感覚がそれを裏付けていると言っても良いだろう。その辺りの線引きはとても難しく、尚且つ未だ分からないことが沢山あるので結論は保留と言うことにしておきたい。
 
 
話は変わって‥ 特にこの一年間、私はどれだけの音楽に触れただろう。まさしく世界中の音楽に当たり前のように触れており、それもこれも私が死後に一旦神界に立ち寄ってそれらの情報を神界に渡すミッションを持っているからこそ、音楽の作業は一瞬たりとも止めることが出来ない。
 
このところこのブログの訪問者も落ち着きを見せているが、逆に音楽評論ブログディディエ・メラの音楽倉庫の方に読者が若干移動しているようだ。
これはとても喜ばしいことでもあり、両輪を上手く動かしながら私らしい音楽 (スピリチュアル含む) 活動が今後も継続し、さらに活発化して行くことをただただ祈るのみだ。
 
もう一つ、今年は私の音楽作品が現実世界で響き渡ると言う現象があり、それがのろしとなってその後私の身に色々良いことが起きている。感覚的にも、現実的な意味合いに於いても、これまでのような亡霊にとことん活動を妨害され続けるような現象もこの辺りで止まってくれると信じている。
 
一方SNSライフに付いて補足すると、現在稼働しているXのサブアカウントへの投稿を少しずつ Bluesky‘ 🦋 に移動したいと思っている。
理由はXのアルゴリズムがとても不安定かつ不鮮明であり、私の思うようなポストのスタイルがアカウントを危険に晒す行為に直結する可能性を危惧しているからである。
現在noteや ‘Threads‘ 等にもXの焼き回しのようなものを書いて更新しているが、そもそも私は交流下手なので余り多くのSNSに手を広げ過ぎない方が良いように思っている。
‘note’ はあくまでメインのブログ2誌の更新通知を兼ねたメモとして運用し、チャットはLINEのみとし、SNS上では雑談を控えようと考えている。
 

昨日~今日とでドッサリ新曲を足したPLはコチラ🎧
 

 

 
最近XのDM経由で仕事の打診のメール等を頂くが、事のついでみたいなオーダーには対応出来ないので、私へのお仕事の依頼は是非、以下のメールアドレスを通して頂きたい。

📧info@didier-merah.jp

歌いたい人と歌うだけの人 (People who want to sing and people who just only sing)

先日の神人共食の疲れがなかなか癒えず、週末の日曜日は全ての作業を放り出してほぼ18時間近く床に伏していた。その間、色々な情報が静止画像と化した私の上を通過して行った。

日付が変わり、2025年10月6日 (月)。
先ず吉報として、サブスクリプション “Spotify” にロスレス音源が実装されたことを知り、書斎のパソコンの設定を思い切り変更し、ディディエ・メラ (Didier Merah) のアルバムを粛々と聴き進めて行く。
昨日までは聴こえて居なかった新たな世界が、目の前に開けて行く。
嬉しい瞬間が到来。ほぼ10年遅れで時代が追い付いて来た。
 

その流れでYouTubeを開けて、取り遅れていた情報を片っ端から拾って行く。
ふと目に入ったのが、(ショパン・コンクールの近影と中森明菜をすっ飛ばして‥) LE SSERAFIMのインタビュー ~ 歌唱動画だった。
 

 
嗚呼又この人「Kポ」ばっかり視てるのね‥ と思った人も多いと思うが、私はただそれだけの観点でこういった動画を視ているわけではない。

たった5人‥ と言えばそろそろ (預言通りに) 消え始めたNewJeansのことも頭の片隅に無いわけではないけど、今回はLE SSERAFIMの5人に焦点を当ててみる。

向かって視聴者から左端がユンジン、隣にチェウォン、中央がカズハ、並んで宮脇咲良ウンチェ‥。実際に歌唱している動画を視れば一目瞭然だが、特に中央カズハから右側3人には表現したいものを体の中に持っていない。
与えられたパートをおシゴトとして歌うだけで、体から、感性から湧き上がるものが何も無い様子が伝わって来る。
だが、特に左二人には歌いたい熱い何かが体の中に燃え滾っており、与えられたパートの中にはそれを収め込むことが難しそうに見える。
一見ただのKポップ。だが「ただのKポップ」でも表現は十人十色で、私には視覚的に左側二人が炎の色に映り込む。特に左端のユンジンは、グループの中にそもそも収まり切れていない程の熱量で攻めて来るので、振付等がないこのようなシーンだと声が前のめりにリスナーに届いて来るから不思議だ。
 

 
一方最近何かとお騒がせ状態の藤井風関連を追って行くと、ふと、こんな記事に目が留まる。

藤井 風『Prema』評 哲学者・柳澤田実:音楽の根底にある“終わり”=“死”の感覚
https://realsound.jp/2025/10/post-2175246.html
 

筆者は柳澤田実 (やなぎさわ たみ) さん、日本の哲学者とプロフィールに記載された人である。 
 

 
SNS “X” でも一部藤井風フリークとアンチが対立しており、私は中庸のスタンスを貫いているがそのスタンスに対して物申して来る輩が断続的に現れる。

私は昭和のど真ん中の世代なので、シティ・ポップも昭和の往年のアイドルの面々も含め、業界のど真ん中で業界を一望し、関わって来た一人である。
勿論私自身が音大出身者であり尚且つ一時的に作詞家でもあったので、昭和世代の人たちの中にはかつての私を知る人も大勢居るだろう。
 
そんな世代の私から見て、藤井風がZ世代や悟り世代が大騒ぎする程の大物にはとうてい見えない。だが彼ら (Z世代~悟り世代) は良くも悪くも大騒ぎしており、メディアの悪しき戦略にまんまとハマっているのだから、学が足りないと言うか教養が足りてないと言うか‥。
ただただ言葉を失い落胆するだけで、特に何とも思わないと言うのが本音であるが。
 
それよりもむしろお隣韓国から250 (イオゴン)FRNK (Jinsu Park) 等が出現し、NewJeansの背後から業界を突き動かして来た時の方が脅威だった。
 

 
話を記事『藤井 風『Prema』評 哲学者・柳澤田実:音楽の根底にある“終わり”=“死”の感覚』に戻して、記事自体はとても詳細に藤井風を熱弁しており、調査も細かく書かれていると感じた。
だが、藤井風の死生観の観察については筆者の感動や興奮が先に立つばかりで、冷静さを欠いているように見受けられた。

特に章『“死”を起点として眺める現在』に至っては、藤井風の急激な世界進出がコロナ禍を起因とするものであることや、藤井の音楽に大きくまたがる『死』の概念がリスナーに大きく響いたのではないか‥ と言うような記述も見られるが、それは私個人の見解とは全く異なる内容であり、驚きも物珍しさもなかった。
 

そもそも音楽と死生観を発見として捉える感性が、私には全くないのだろう。
生まれてからずっと私の中には、宇宙の真ん中の無音空間を漂流した記憶が当たり前のように根付いており、死は常に隣り合わせに存在していた。
毒親の暴力に耐え抜くことよりも、もしかしたらその毒に当たって命を落とせたらどんなに楽だろうか‥ と、実際にそれを模索した時期もあった。確か一度目は高校生の時で、二度目はホームレスになりかけた時期と重なるが‥。
 

Xでは藤井風のサイババ布教 (ステルス布教とも言われているが) の危険性を切々と訴えかける声も多く散見されるが、正直そこに共鳴する人は何を見ても逆の情報には共鳴しないだろう。
生きたいと願う人は生きることに真剣な人の文字を追うだろうし、逆に死にたいと願う人たちはその結果に直結しそうな文字に心酔するのだと思う。
 

 
藤井風がカルトか‥? と言われると、正直微妙だ。何故って、彼はファンに出家を強制しているわけでもないし、藤井風が書いたとされるサイババ教義の切り抜きを音読しろとも言ってなければ、歌詞の暗唱を強要しているわけでもない。
その微妙なスタンスを「カルト」と言う位置づけで確定するのであれば、世に蔓延る多くのカソリック圏の音楽や某創価学会信者の音楽も同様だ。
 
だが如何せん音楽は、歌詞よりも音楽の方が先に耳に届く。
これは多くの音楽ライターが意図的に外して書いているようだが、現実問題音楽 (メロディーライン) は言語よりも鼓膜への到達が速いから、むしろサイババ教義なんかよりも中東の音楽のような、コーランの音節をそのまま音符化した楽曲の方が余程人への浸透が高速だと言えるだろう。
 
私はそちらの方がサイババ某よりも危険だと認識しており、それゆえ自身が監修する音楽のプレイリストには最近中東関連の音楽をスクラップしていない。
これは私のPLを聴いて下さるリスナーへの配慮を含め、私の宗教的 (自身は無宗教である) スタンスの意思表明も兼ねている。
 

他の記事にも綴ったかもしれないが藤井風の音楽はジャンクフードと同様であり、音楽の基礎が彼には備わっていない。
確かに藤井は近所のピアノ教師にピアノの弾き方くらいは教わったかもしれないが、後は亜流であり、近年藤井自身が接して来た音楽のメロディーやコードの切れ端を分解して再編集したような音楽が主であり、それ以上でもそれ以下でもないただの「音声」に過ぎない。
 
確かに料理でもマクドナルドを好む人も居るだろうし、二郎ラーメンのような背脂ゴッテゴテの危険な食べ物をこよなく愛する人も居るだろう。
私だって時にはマクドナルドの月見バーガーを食べるし、油多めの味噌ラーメンを食べる日もあるが、あくまでそれは多忙時に空腹を満たす為の目的に限定される。それらの料理をけっして好きにはならないし、ファンになることもない(笑)。
 

藤井風の音楽を「素晴らしい」と思う人たちは、概ねそれ以外の世界中の良曲を知らないのだろう。勿論言葉の問題もあるかもしれないが、良いものを知ったらそれ以前に人は絶対に後戻りすることが出来なくなる。
だったら藤井某のジャンク・ミュージックを飛び越えて、もっと良い音楽に接すれば良いだけの話だと私は思っている。
そういった良曲に触れる機会の少ない音楽リスナーの為に私は、毎週せっせと世界の音楽から良曲だけをピックアップして、自身監修のPL (プレイリスト) にスクラップしているので、是非そちらを聴いて頂くことをお勧めしたい。
 

 

 
LE SSERAFIMからNewJerans、そして藤井風‥ とネタがかなり広範囲に広がって行ったが、要はこの記事を簡単にまとめるとこうなる。
 
上記お三方の中に、表現者は一人も存在しないと言うことだ。
LE SSERAFIMの中に若干表現したい側の人と「ただ歌っているだけの人」とに分けてはみたが、大きく括れば全てが『自身のアイコンを売って糧にしているだけの人』にカテゴライズされる。
 
本物の音楽とは、自分以外の物事や人々の為に一心不乱に思いを致しながら生み出されたものだと私は思っている。

当然のこと、それらは自身の利を度外視して生み出されたものでなければならない。

 
それはとても難しい高みの領域に在るように一見見えるが、意外にとても身近に、世の中の切れ間や世の中心域からは少し離れたところにぽつんと点在している。人を嫌い、ひとけのない場所を好んで棲息している。
出来ればそういった良い音楽に自力で到達して欲しいと、私は願って止まない。
 
仮に世界にどれほどの数の宗教があり、それがどれだけ身近に襲って来ようが、良いもの、正しい価値観を自身の軸に置いておけば振り回されること等ないだろう。

藤井風と多重人格の可能性について

同じ人物を立て続けに取り上げて記事を書くことは正直本意ではないが、今回は前記事【藤井風 – ニューアルバム『Prema』 表現解説】とは全く異なる視点で藤井風について検証と分析を重ねてみたいと言う心情に至った。

 
数日遅れで私もようやくTverで、徹子の部屋 – 〈藤井風〉父の教えを胸に…「努力」積み重ねた日々を試聴することが出来た。

冒頭の衣装はまさに『Hachikō』のPVでも藤井が纏っていた衣装であるが、この衣装はおそらくヒンドゥー教の最高神の一柱『シヴァ』をイメージしたものではないかと感じた。

 
シヴァ (マハーカーラ) のイメージ画像と見比べると、それは一目瞭然で分かる。
 

 
藤井の衣装の襟や袖の突起の部分が、上記の画像と重なって視えて来る。
又サングラスの黒い部分が3カ所に分かれており、真ん中の黒いレンズ部分は『第三の目』をレンズで覆ったようなイメージではないだろうか。
シヴァ (マハーカーラ) の銅像にも、第三の目はくっきりと彫られている。
 


さて、ここからがこの記事の本題である‥。
 
徹子の部屋 – 〈藤井風〉父の教えを胸に…「努力」積み重ねた日々を注意深く視ていると、藤井風の表情や目つきが話題によってコロコロ変わって行く様子がよく分かるだろう。

合計23分29秒に及ぶ映像の中には、(私の印象ではあるが) 男性が一人も出て来ない。
確かに見た目は男ではあるが、目や表情、声質、声色から仕草に至る全てが様々な女性の人格で演じられているように見える。

特に象徴的だったのが、故郷岡山や藤井風の父親の話題に触れた時だ。ここで人格が入れ替わる瞬間を、瞬時に察知することが出来る。
はっきり書いてしまうと、藤井風は多重人格者であり、彼の中には複数の人格 (主に女性) を見ることが出来る。その中の一人は明らかに女児であり、上の写真のように上目遣いになったり唇をすぼめる瞬間に女児の人格がはっきりと顔を出して来る。(写真 下 ⇩)
 

 
又、途中自身の若い頃のショパンの『革命』を演奏する映像が流れた辺り (9:44辺り) では、一瞬苦悩の表情が顔を出し、その後ベジタリアンの話題やワールドツアーの話題に触れた時と同じ、彼の中のアメリカ人女性と思われる別人格が顔を出す。
この瞬間が、人格交代の瞬間ではないかと思われる。(写真 下 ⇩)
 

 
思うに藤井風は宗教観 (サイババ教) を用いた音楽を配信すると言う意味では加害者であるが、同時に彼の父親の厳しい教育過程の中で行われた虐待 (精神的/肉体的の両面) の被害者であり、かなり重度なPTSDを発症している可能性を否定出来ない。
 
藤井風の基本人格はPTSDを発症した人格であり、おそらくその人格を守り合う別人格が複数存在すると言う仮説を立てると、一連の表情や口調、声色の変化や言動等の違和感の辻褄が合って来る。
ニューアルバム『Prema』からタイトル曲Premaの中で藤井は「私は神そのものだ」と叫びを上げているが、実は藤井風を宗教者に仕立て上げようとしているのは藤井自身ではなく、彼の父親の希望 (或いは命令に近いもの) だと考えると、一連の藤井の言動のブレに一貫性が出て来るように感じる。
 

 
Xやその他のSNS等では藤井風のサイババ二世だと言う件やステルス布教等が大きく取り沙汰されているがそれだけでは済ませることの出来ない、取返しのつかない程の大きなメンタルの傷を、実は藤井風自身が抱え込んでいるように思えてならない。
これは私自身が通って来た道とも大きく似ており、私の場合は不幸中の幸いでそもそも過去世の経験が豊富であり、尚且つ過去世の記憶や経験の蓄積が今世の私を人生の脱線から救ってくれた。
だが藤井風の場合はPTSDを抱え込んだまま日常的な人格交代を早い時期から繰り返し、それが常習的かつ長期的に行われていたのだとしたら、もはや藤井風は藤井風であって藤井風ではないと言うような状況に彼が追い込まれている可能性は濃厚だ。
 
かと言って藤井風が『ウィンディー・サイババ』として開祖したら心の傷や多重人格障害から立ち直れるのかと言われたら、もうその段階はとうに過ぎてしまったのかもしれない。
最も苦しいのは基本人格の藤井風だと思うが、第三者にはどうにも出来ないのでただただもどかしい。
 

これまでは藤井風はサイババ教を悪用したミュージシャン‥ と言う視点で見て来たが、徹子の部屋 – 〈藤井風〉父の教えを胸に…「努力」積み重ねた日々を試聴してからはそんな簡単な問題では済まされない事態が水面下で起きていたのではないかと、個人的に、藤井風が毒親の被害者ではないかと言う別の視点を心に置くに至った。
 

この記事ではここまでしか書くことが出来ないので、何かしら状況に変化や異変、進展等が見られた時に続きを書きたいと思う。
少なくとも藤井風のメンタル面や言動がこれ以上悪化しないことを、切に祈り続けたい。
 

【追記】 
そもそも藤井風 が信仰しているサイババ (サティヤ・サイ・ババ) の元は『シルディ・サイ・ババ』であり、此方は行者である。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%90

そのうち藤井が『ウィンディ・サイババ』等と名前を変えて新興宗教を立ち上げる日が来るのではないかと、ふと映像が過った。
予感が外れてくれると良いのだけど‥。

覚醒の兆候

ここ一ヵ月近く、色々なことがあった。
「色々なこと」をくまなく調べて行く過程で、精霊や神々から彼らに視えている世界を伝え聞くことも多々あった。怖いことに、現実で起きている事 (視えている範囲で) と神々や精霊が見た世界の情報とを突き合わせると、そこには微妙に矛盾が生じていたりする。
 
幼い頃から私は、両方の世界を行き来していた。現実の世界と、現実を視ている神々や精霊から伝え聞く現実は、必ずしも一致していなかった。
両方の世界は常に共存している。だが片方は肉眼と現実の世界、もう片方は人の内面や精神の中、そこで思う世界だ。
 
現実は、そこに現象が起きなければそれを現実と言うことは出来ない。だが私は未然の現実をいち早く察知し、人生の多くをそれ (察知したこと) に基づいて計画し、行動して来た。
言ってみれば、二度目の結婚もそれにともなう行動計画もそれに基づいて予定を立てた。
‥そして今がある。
 

 
正確な日付は定かではない (‥こんな時、小保方晴子さんの時間記憶の才能が羨ましくなる‥) が、多分2008年の2月13日だ (アレっ、覚えているじゃないの!!!)。
現在の夫と初めてデートをする前日の午後、必死でデート場所となるカフェを探し歩いた。普段さほど運動なんてしない私だったがその頃とても親しくしていた或る神が私に、「これは人生の一大事に繋がる密会になる。だからコーヒーの旨い場所を探せ。」と指令して来た。
 
何故「人生の一大事」と「コーヒーの旨い場所」が直結するのかは、その時の私には正直よく分からなかった。と言うより私は、コーヒーなんて好きでも何でもなかった。だって私は大の紅茶党だったから。
 
京王井の頭線の渋谷駅で下車し、先ずは文化村に足を運んだ。そこに行けば何かしら、コジャレたカフェぐらいあるだろう‥ と、今にして思えばかなり高を括っていた。だが、歩けど歩けど感覚にフィットするカフェは見つからなかった。それどころか、各カフェの入り口に立ち込めるコーヒーの焦げた臭いが、私にはとても辛かった。
 
そう、この「にがくて辛かった各カフェの入り口のコーヒーの臭い」と言う感覚が、実はあながち間違ってはいなかったことを後になって知ることになるとは‥。
 

夫は毎日、美味しいコーヒーを淹れてくれる。夫の感性でブレンドを考案し、勿論コーヒー豆は浅煎りが条件なので必然的に彼が淹れるコーヒーは美味しく完成するわけだ。
そう、2008年の2月13日の午後にデート場所のカフェを探す際に感じた「各カフェの入り口のコーヒーの焦げた臭い」を、浅煎り派の夫が好むわけがなかったのだ。
 

2008年の2月14日、私たちは初対面を果たし、今日に至る。交際期間ほぼゼロだったのは、神/タケちゃんのお陰としか言いようがない。
 

話がとてつもなく脱線したので元に戻るが、最近身の回りに起きていることについて実際に関係者に聞くことと神々から伝え聞くことに齟齬 (そご) が生じている。
昔っからずっとそうだったが夫に話す時に現実とシュールの双方の情報が嚙み合わないので、大丈夫かと時々困惑する。
 

 
此方も日付は定かではないが、年で言うと恐らく2007年か2006年の春先頃だったと思う。一度だけ叔母の昭子 (仮名) さんと電話で、母について話をしたことがあった。
私が最も闇を生きていた時期と重なった。住居を借りるのに苦戦したのは、不動産管理会社のルールに沿った緊急連絡先のサインの欄が埋まらなかったからだった。
 
後になって母の遺書には、私を絶対に実家に近付けない旨の意図を含めた直筆のメモが見つかったが、当時の私は色々な現象をほぼ直感で感じ取り、突き止め、それを言葉にして人に話していた。
私の家庭外排除は現実として粛々と、親族全員はおろかその関係者まで巻き込んだ形で現実となっていたが、それを言葉にして私に伝えて来た人は確かに誰も居なかった。
当時昭子 (仮名) さんとの電話の中で私は叔母に何度も、これまで私が母にされて来た幾多の暴力や虐待、そして両親や弟が私を酷く恨んでいること等を切々と訴えた。だが昭子さん (叔母) はそれを一切合切撥ねつけて、私の訴えや心情があたかも私の思い過ごしであるかのように私を宥め抜いた。
 

⇧ これは亡くなった弟の嫁の「りえさん」が山田家の遺産を取得したい旨を弁護士に相談した時の書類だが、それによれば叔母の昭子さんは私が叔母と電話をした翌年に亡くなっている。
最後まで昭子さんは母/雅枝を庇い、私の家庭外及び親族外排除に加担したことになると見て間違いないだろう。
 
そういうことが親族内で実際に起きていることを、私は既に知っていた。だがそれらは言葉にして伝えられたことではなかった為、親族等全員が私の気の迷いだとか錯覚、気がふれたせいだ‥ と言うことにし、誰一人心を改める者は現れなかった (それは現在も継続している)。
 

勿論全ての現象を精霊や神々から伝え聞くわけではないが、ここ最近そういう現象が以前よりも増えている。その度に私は、「現実ではどうなのだろうか?」と言う突き合わせを必ず行い、逐一日記に記録している。
比率としては現実に起こる前に私が未来をシュールな存在から伝え聞くことの正確さが増しており、的中率85パーセントまで確率が上がっている。
Kポの件も、それに当てはまる。なので私はあえてこのブログに、NJの件を赤裸々に書き残している。後から私のカンや預言がどうだったのか‥ と言うことを知りたい人たちの為にも、それは書いておく必要性を感じるから。
 
 

今世でイタリアにこそ行くことは出来なかったし、預言通り私は飛行機での移動は今後一生しないつもりで居るし、車の運転免許も諦めた。
若かった私に母が振るった暴力の後遺症が、最近になって出始めたからだ。先端恐怖症は車道を俯瞰する時にも表れ、車道で前方を見る時に頻繁に身がすくむ。その状態では絶対に後方の車との衝突事故の危険が避けられないので、タケちゃん (神) から「免許を諦めるように」と言われそれに従うことに決めた。
 
それでも生きるバイタリティーは年々増しており、今後の私はこれまでの不可能の常識を必ず打ち破ることになるだろう。
その夢と目的だけはぶれずに、今も私の背骨をしっかりと支えている。
 
 

⇧ 此方は最新のプレイリスト。
毎週末の度に世界の新譜から選りすぐりの楽曲を集め、我が子のように育てている音楽データ。
 
最近はメインブログよりもサブブログディディエ・メラの音楽倉庫の更新の方に力を入れているが、それもこれも未来の音楽史を修正すると言う目的の為の一環だ。
是非「リラ星最後の巫女」として、音楽家及び音楽評論家、表現解説者としてのディディエ・メラ (Didier Merah) も応援頂けるとありがたい。

地球の怒り

10日ほど前から続いていた目眩は、ベッドで眠っている最中にも頻繁に起こっていた。 それが今朝の地震の後にピタっと止んだ。
並行して続いていた頭痛はむしろ重くなって、今もズキズキと前頭部で、まるで秒針を動かしているようだ。

2025年7月30日 早朝、カムチャッカ半島を震源とする大きな地震があった。丁度その最中、私は案の定悪夢に魘されていた。
昔深く関わっていた男性アイドルの一人が、凄まじい謝罪を繰り返す夢。その夢に対し私は、厳しい説教をたたみかけて行く。

自身の謝罪を相手に受け入れて欲しければ、大切な何かを引き換えに失うことになる‥ と言う話。
夢とは言え、これは実体験に基づく私の哲学だ。
男性アイドルは目にいっぱいの涙を浮かべて、元通りになりたい‥ と言う。
そんな虫のいい話はないのよ‥ と私が返す。
 

その押し問答の最中に、どうやら地震はあったらしい。
 

震源が遠かったので、今回はウーパールーパーの足音は聞こえなかった。だが前兆はあった。
その前兆が何を意味するのかについて考えることを、私が完全に忘れていた。
 


地球が怒りを露わにしている。
それはどこかへ向かう怒りとは違う、もっと内向的で力強いものだ。

地球は失望と絶望を感じている。
それをどうにかして欲しいと言う願望よりも、一刻も早く自身に起きた火のような違和感を鎮めたいと願っており、祈りのような念の一部が私の体を通り抜けて行く。

騒音と臭いで気がおかしくなりそうだと、地球の意識が私に訴えかけて来る。

ふと、「Requiem 311」を書いた頃を思い出す。
今私が感じているこの感覚は、あの時とよく似ている。収まりようのない怒りと不安と失望と‥、それをどこへもぶつけるあてもなく胸の中に抱え続けたあの時の感覚に。
 

色々なことがあった水曜日。
頭痛は止まないが、少なくとも音楽で祈りを形にすることは出来た。

理解し合えない怒りと苦悩を、地球も又抱え込みながら覚醒している。

明日がどんな一日になるかなんて、誰にも分からない。そして地球の営みを、いち人間が制することなど出来る筈がない。

[世の霊能者や予言者未満の某等は、驕りや承認欲求等の一切合切を捨てて欲しい (祈) 。]
 
 

 

圧と宝物と

ここ半年間近く、圧との闘いが続いている。
言ってみればこれは正当な祈りとその実現を拒む者等との、勝者も敗者も居ない戦いだ。標的を私に定めた呪詛は、方々から攻めて来る。一体私の何がそこまで恨めしいのかと、むしろ私の方が訊きたい心境だ。

関東地方は既に、お盆期間に入っている。通常のお盆は八月だと言われているが、関東地方のお盆は早いところでまさに今、そのシーズンに入っている。その影響もあり、普段は現れる筈のないものが、出やすい状況になっているようだ。
 

昨日、我が家は言葉にならない程の異臭に苛まれた。だがそれは私一人が感じたそれであり、最初夫は全く異臭には気付いていなかった。
その異臭に揉まれながら私は約2時間の睡眠を摂った筈だが、悪夢が続いた。
 

余りの異臭に気分が悪くなり、台所の換気扇を回して風呂場に行って用事を済ませている間に、夫が換気扇を止めて再び書斎に立て籠もってしまった。
書斎から寝室に戻って来た夫に「物凄い臭いだから換気扇を回しておいたんだけど‥。」と言った辺りから、夫もそれに気が付き始めた。
 

─ 中略 ─

 
圧は亡くなった親族等の呪詛を含め、別の某所や宇宙の果てからも私に届く。ここまで存在そのものを疎まれる理由が私にはよく分からないが、よくよく考えてもみれば私が「リラ星最後の巫女」だと言うだけで彼らにとっては天敵なのだろう‥。
 


今年に入ってから、富士山の見える場所への移住計画を推し進めている。移住と言っても都内との二拠点生活は継続する見通しであり、完全な移住ではない。とは言え、おそらくこの計画が叶ったら月の半分以上を富士山付近で過ごすことになりそうだ。
 
この計画にも、圧が圧して来る。
最近資産状況もようやく安定して来たので、そのことに対しても亡くなった親族等は良く思っていないだろう。遂に圧の中に「叔母」までが登場し、昨日の異臭の発信源の一つが彼女であることも分かった。
 

私を不当に扱った罪や刑罰は、死後の彼らにも継続して及ぶだろう。
どんなに私を恨んで呪っても、真っすぐに、ただ真っすぐに生きている私をどうこうするだけの正当性が彼らには無いのだから、そろそろ大人しく定位置に収まって欲しいと願ってやまない。
 

移住計画が具体的になってから、それまで少しだけ浮かれていたマインドを戒めている。
天然石や化粧品の収集もスパっとやめて、必要最低限の買い物に極力留めるよう心掛けている。大きなお金を動かさなければならないので、その為の貯蓄をしたい。日々の資産状況は、今のところ安定している。

物欲まみれだった両親や弟と違い、私にとっての宝物は「夫と神々との神人共食」の時間。その時だけは、フランス料理やイタリア料理、和食懐石等の少し豪勢なご馳走に舌鼓を打つ。
私たちの味覚を神々に使って頂くことで、神々の味覚にも花が咲く。そうすることで私自身の味覚が宇宙に拡がり、私たち夫婦と神々とのWin Winの幸福な感覚の共有を堪能することが出来る。
それを私たちは「神人共食 (しんじんきょうしょく)」と呼んでいる。
 

別宅を持つことが出来たら、神人共食を別宅でも堪能したいと願っている。
 

 
以下のリンクは昨日更新した世界の音楽、プレイリストCafe Didier 2025′ 5.の最新版。
此方については別ブログディディエ・メラの音楽倉庫にて綴っているので、興味のある方は是非🚀
 


 

関連記事:

 

ディディエ・メラへのお仕事依頼は、info@didier-merah.jp 迄お寄せ下さい。
仕事内容はラジオ番組等の「選曲」を始め、音楽評論、コラムやライナーノートの執筆等多岐に渡ります。
尚、飲食店舗用のプレイリストの作成にも応じます。作成価格に関しましては、メンテナンス等を含み月額制とさせて頂きます。
 
各ご相談は上記メールアドレス迄お寄せ下さい。
 
『X』のメインアカウントが凍結された為、現在稼働中のSNSは、以下になります 。(Facebookは連絡用に稼働しており、現在投稿は停止中。)
Threads: https://www.threads.com/@didiermerah
note: https://note.com/didiermerah
Facebook: https://www.facebook.com/didier.merah.2019

音楽と祈りと‥ (Music and Prayer to Me)

特にこの半年間の私が表舞台から一歩引いた状態でどこに向かっていたのか、‥それはこのブログの記事を追っている読者の皆様であれば薄々感じておられることでしょう。
諸々には相手が居て、相手のプライバシーとも深く関わることなので、詳細を深く掘り下げることが出来ません。ですが最近の私の体調と然る現象を照らし合わせれば、おのずと私が何を照らし、何を祈り続けているのかについては概ね察しがつくことと思います。
 
「大いなる仕事には大いなる責任と代償が付きまとう」とは、夫 天野玄斎の言葉です。
それについては同感ですし、実際に私も心身共に傷を負いました。勿論公的な活動の一部にも傷が入り、支障が出ています。でもそれも含めて「祈り」だと肝に銘じていますので、受け入れて突き進んで行きます。
 

今年で結婚してから15年が経過します。
15年前の私はと言えば日々スピリチュアルなことに精力を注いではいたのですが、どこか違和感や不自然さも感じていました。最近になって自分自身 (生身/ 霊体/ 感覚) をようやく統合出来るようになり、やたらに「スピリチュアル」等と言う言葉を使わずに自身を表現し、社会生活の中に上手く立たせられるようになったと思います。
なので時々SNSのDM等に寄せられるメールにも、余り熱心に返信が出来なくなりました。
 
全ては実在です。自分も魂も、そして神々も精霊も含め、全ては実在します。なので「見えない世界が見える」‥ 等と言うまやかしの言葉が、今の私にはとてもうすら寒く感じてなりません。
なぜならば私には「見えない世界を見ている (見える)」と言う感覚が、元々なかったからです。巷のその種族を凄いとは思わないですし、むしろ「見えない世界」とは何を以てそう言えるのかと言う彼らの説明を聞いてみたい好奇心にも駆られます。
でも、おそらくそれは時間の無駄、徒労に終わることでしょう。
 

私には実在する神々との約束や契約があり、その為の祈りに集中しなければなりません。
 
私は「見えない世界」は語りません。私の語ることは全て、私には見えている世界や世界観であり、それを形にする手段が音楽や音楽評論、執筆と言うことになるのでしょう。
とても普通のことで、とても自然に全てが営まれる感覚。その一部が霊界だったり神界で起きていることだったりします。
 


今年の春、一生にたった一度しかない還暦の春の桜を私は見ることが出来ませんでした。一年の中で最も美しい、そして一生に一度の還暦の春、私は一ヵ月近く高熱と微熱の目まぐるしい往復にうなされている間に、春は駆け足で去って行きました。
これほど酷い風邪を引いたのは、おそらく人生で初めてかもしれません。

親しくしている神々が私を気遣い、天界の美しい春を見せてくれたことはとても感動的でしたけど、還暦の桜が見られなかったことが何か‥ 私の遠い将来を暗示しているようにも思えて恐々としていることも又事実です。
リラ星最後の巫女だった私が今世、リラ星最後の巫女の妹とニアミスし、半ば敵対関係に押し込まれたのも又因果としか言いようがありません。
 
闇に光をあてることを第二のミッションとし、今それを実行している最中です。既にその仕事が形になり始めていることは、私のブログを遠巻きに読んでいる方々であればご理解頂けると思います。ですが私はその旨を、自分の言葉で放つことが出来ません。相手にもプライバシーがあるからです。
なので粛々と「祈り」と「照らし」を継続し、この世界が正しい方向に向かって進んで行けるよう、ささやかにお手伝い出来れば良いと思っています。
 


今日は一ヵ月ぶりに骨身にしみる程、音楽を堪能しています。まだ微熱でゆらゆらしている体とは言え、生活から音楽を抜くことは私にとって、酸素を奪われるに等しいこと‥。
最近の「世界の音楽」の新譜チェックは、以前より内容が薄くなって来たせいか、ときめきが薄れています。
でも考えてみればそういう感覚 (ときめきとか、感動とか‥) を私は、自ら生み出して世に放つ側の人間。それを自分自身にも言い聞かせ、受け身で音楽を聴くのではなく攻めの姿勢で世界中の音楽を聴くことにしています。
すると意外に色々な発見があり、色んな楽しみ方が見つかります。
 

音楽はまだまだ発展途上です。どこかの時点で音楽がマスコミの餌になり果て、地球上の音楽は今呼吸困難な状態に陥っています。
似たような音楽をその時々の流行りに従って、多くのミュージシャンが先を争うように生み出して行くものの、全ては商品。それを私は「音楽」とは呼びません。でも「音楽」とは呼べない音楽が今の大多数であり、真の音楽や音楽家たちがメディアの靴底に踏まれて地下に潜り込んでいるのが現状です。

そうこうしている間に段々と本物は自身の仕事や夢に絶望を感じ、諦めを感じ、本来進むべき道を後退しているのが分かります。
私はそこに光を当てています。それが私が毎週末放つSpotifyのプレイリストだったり、音楽評論エッセイだったりします。なのでもっと多くの方々にそれをシェアして頂きたいと思うのですが、こういうことは双方のタイミングもありますし、なかなか同時進行して行くことは難しいです。

以下のリンクは、Didier Merahが放つ最新のプレイリストになります。
皆さまへ、是非今年叶わなかった春の余韻を一緒に楽しんで頂ければありがたいです。
 

 

関連記事:

“Anni Luce” – Joe Barbieri (孤独と光)

私が何故‥ こんなにもイタリアの音楽に惹かれるのか、この作品を聴けば多分多くの人たちにその意図が通じるかもしれない。
イタリアのシンガーソングライター、Joe Barbieri (ジョー・バルビエリ) が放つ新譜はまるで、この世界にたった一人だけ取り残された最後の人類の叫びのように聴こえてならない。
 

その私の想像をあっさりと肯定してくれるように、歌詞を和訳してみたところやはり‥ と言うような内容だ。
 

[意訳を含めた和訳]
私の居場所はあなたのそばにあるから
でも私はあなたのそばにいない、
 
絶望すべきだと言った
あなたに別れを告げるとき
彼がどうやってそれをするのかさえ知らない
半分の騒音
私たちが何だったのか
 
私たちは最後の住人だった
私たち二人のために作られた惑星
そして今、遠く離れた二つの衛星
自分自身に赦しを与える方法を知らないが、
外は暗い宇宙で
永遠から何光年も離れた
私たちが一緒にいたこと
 
確かめたい また
その痛みを
呼吸を消滅させる
しかし、それが生きている実感を与えてくれる
 
何も聞いてないよ
とても重要な
ただあなたの一部になるために
 
しかし、実際のところ、最後の言葉は
それはあなたのものではないが、私のものでもない。
私たちは密かに叫び続けるだろう
嘘の中にある真実
それがどうなのか聞くためだけに
半分ではないという罰
一つのことだけ
 
もう一度試させてください
あの味をもう一度
境界線を示す
地獄と崇高の間
 
何も聞いてないよ
とても重要な
ただ留まるため



何も聞いてないよ
とても重要な
ただあなたの一部になるために
 
私の居場所はあなたのそばにあるから
でも私はあなたのそばにいない

 
丁度昨夜私は夫と二人、イタリア料理で神人共食の儀を開催していたところだった。
本当に信じられないくらいの体調不良に夫婦共に見舞われる中、それでも中止等考えられない儀だったので二人とも頑張った。
一夜明けて、どういうわけか私の胃袋が復活した。いつもそうだ。約束のある前日辺りから不調に見舞われる。
きっと圧なのだろう。
 
神人共食の最中、愛するサビノ神父 (故) の話題に自然と触れて行く。
過去世の私は、当時のサビノ神父が乗車したトラックで (運転していたのは別の人物だった) 轢かれて命を落としている。そのことが大きな心の傷となり、サビノ神父は霊体の心臓部分に大きな傷を負ったまま、最後は信者さんに会いに行く途中の飛行機の中で心臓発作で亡くなった。
 
だがそれよりもサビノ神父はそもそもナポリ出身の生粋のイタリア人なのに、今世の私に会う為としか言いようのない理由で来日し、日本で聖職者となり、あらゆる手を尽くして私を探し出した。でもその時のサビノ神父はきっとそんなことは何も考えず、ただ夢中で私を探したに違いない。
色々な変遷を経て神父はようやく私の母を探し出したが、皮肉なことに母が一方的に神父に熱を上げたのだろう。
 

母の死後、遺品整理中に数十枚と言うサビノ神父の写真を発掘した。
人生で一度でも恋愛経験のある女性ならば、集められた写真を見ればその人の心情を理解することが出来ると思うが、母は間違いなくサビノ神父を異性として好きだったに違いない。
だが残念ながらサビノ神父は、母と繋がりたいわけではなかった‥。
 
そして母は私を身籠り、私が生まれた。
神父は毎年、私の誕生日になると家を訪れた。必ず何かしらの手土産を持参して実家を訪れたが、贈り物の大半は母の手中に吸い込まれるように私の前から消えて行った。
でも私たち (私とサビノ神父) にとって大切なことは、物ではない、もっと別の何か‥。そのことに真っ先に気付いた母が、私が5年生になった頃からサビノ神父を私から遠ざけるようになった。
 


サビノ神父はどこか、私にとって「知り合いのおじさん」、或いはとても親しかった思い出の中の年上の男性のようだった。

この写真を見れば確かに私と神父の雰囲気が似ていると、写真を見た人誰もが口を揃えて言う。私たちはもしかすると、カメラの方角のその彼方の過去のトスカーナを見つめていたのかもしれない。
(私はようやく20代を迎え人生はこれから‥ と言う時の、私がトスカーナで大きなトラックに轢かれたのはそんな、或る春の日の出来事だった‥。)
 


Joe Barbieriの新譜 “Anni Luce” は、「光年」と言う意味。丁度昨夜、私たち夫婦が訪問したイタリア料理店にも “Luce” と言う名前が付いており、色んなことが頭の中で複雑に絡まり合いながら今、この曲を何度も聴いている。
 
勿論私は回顧主義者でも何でもないし、今この瞬間が人生で最も光輝いていると思って生きているが、サビノ神父との間に起きた色んな出来事は時にそれをあっさり超えて行く。
何よりあんなに時間もチャンスもあったのに、やりたかったことの殆どが未達成のまま神父がこの世を去ってしまったことがとても悔やまれる。だが今は女児としてこの世に新たな生を授かったサビノ神父。彼 (彼女) と次会えるのは、いつになるだろう。
それまで私は絶対に生きてなければならないから、昨日のような胃の硬直感に見舞われるととても怖くなる‥。
 

昨夜の神人共食には、サビノ神父も列席された。そういう時に限って、そういう大切な瞬間だかこそ誰かが妨害を企てようとする。‥
 
“Anni Luce” を聴いていると、リラ星が燃え尽きた後にぽつんと私が宇宙の闇に放り出された時を思い出す。
苦悩も苦痛も何もなく、かすかなノイズが流れる暗闇に私は一人で存在していた。肉体がないから動くことも出来ないし、地面も何もない空間の中を私の意識だけが彷徨い続けていた。
 

Googleで和訳した歌詞を読んでいたら、思わず涙が溢れ出した。私は滅多なことでは泣いたりしないのに、無意識層の私が叫びを上げる。
孤独と光。それは私にとって、苦しみと懐かしさの両方の意味を持つ。どちらも崇高なのに、手にすることをとても躊躇するものだ。
“Anni Luce” は私の、二つの悲しい思い出に光をあてて行く。そして私はその光の彼方にあるものを凝視しながら、同時に目をそらす。両方の感情と感覚が私を包み込むと、そこに混乱と目まいが発生するが、その両方共にとても愛おしい。
 

 
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黒い闇 (The dark fog that shrouds music culture)

ブログの更新は滞ってはいたが私自身の活動は順調で、自身の創作活動の下準備を始めとする毎週末の『世界の音楽』の新譜チェックはコンスタントに進めていた。
現在、その様子は毎週末に一斉に更新している新しいブログディディエ・メラの音楽倉庫に収めている。
 
余り良いニュースではないが先月中旬、(恐らくKポ絡みの事情と思われるが‥) Xの私のメインアカウントがいきなり凍結された。それまでXのメインで進めて来た『世界の音楽』、新譜チェック ⇨ 音楽評論メモが出来ない状況に陥ったが私は転んでもただでは起きない(笑)。
直ぐに音楽紹介/ 音楽評論を発信する新しいブログで仕切り直しを図り、そのブログを一望するだけで私の脳内の音楽倉庫の厚みがよく分かるだろう。
 

https://didiermerahbox.wordpress.com/
 
ここ最近の世界の新譜を一望しながら、あらためて気付いたことがある。

それは地球の人口が過剰に増えすぎたことだ。

これは音楽文化の衰退とも関連付けて考えなければいけないことだし、もっと別の側面を挙げるとしたら人と人との出会いやコミュニケーションの質の劣化とも深く関わっているかもしれない。
 

先週、タイの若手女性シンガーソングライター “Millie Snow” の新譜『You are the star (Japanese Ver.) (君は星)』を聴いた時にも痛感したが、今地球上には人で溢れ返るほど人口が増え過ぎたことの影響で、本来出会うべき人同士が互いを見失ったまますれ違ってしまう現象があちらこちらで起きているように思う。
余程神経を研ぎ澄まさなければソウルメイトの気配に気付けない状況になっており、かと言って人間の感性の芯はそう長期的に研ぎ澄ませ続けることも難しい。
 


その時の思い付きや直感を脳や記憶に鮮明に保管しておくには技術 (スキル) が絶対的に必要であり、日々の労働のルーティーンに押し潰されながらそのスキルを磨き込むことは、思った以上に難しい。
 

思うに一種類の生き物、生物、生命体が過剰繁殖することと、その種が暴徒化/ 狂暴化することとは無関係ではないだろう。これはものの例えではあるが、スズメバチも女王バチ単体ではただの一匹の蜂に過ぎない。だが、仲間を増やし徒党を組んだ状態で一個の仮想敵或いは外敵を定めた段階でそもそもの性質を逸脱し、狂暴になり、仮想敵に攻撃を仕掛ける別の集団に変質する。
特に狂暴の想念は温厚なそれとは異なり、仲間を募って狂暴の先にあるネガティブな目的を持った時に異様なエネルギーを放ち、同種でそのエネルギーを共有し、目的の達成を悲願として目論む歪んだ性質やマインドが暴走する。
人類が今、その状態に変質を遂げる寸前に来たのではないかと、私はシュールな存在からもその旨に於ける警告を受け取っている。
 

一見全く関係のない作業のように見えるかもしれないが、最近の私の『世界の音楽』の毎週末の新譜評論は、上記にも触れた地球上の異変とも深く関連している。
溢れかえる人々、溢れかえる音楽、溢れかえる物質や様々な現象の中で誰かが大きな代償を背負い正解を唱えなければいけない。
余りに物が溢れかえってしまったことで、正しい答えを探そうとしている一部の人々は自力で正解に辿り着けなくなってしまった‥。私にはそんな風に見えて仕方がない。
 

 
その時々の世界中の音楽を聴いて、それらを集めてプレイリストを作って世に放つ。
文字に書くとそれを「自分の好きな世界観を他人に押し付けたいだけでしょ?」と歪んだ解釈に走る人たちが必ず現れるが、別にそう思われても私は一向に構わない。

どこぞの国で私の真似をしてプレイリストを必死に作ってSNSに放っている某著名人の噂も漏れ伝わって来るが、私と彼らの違いは音楽の発信者であるか否かと言う点だ。
多くの音楽家は自分の宣伝だけを行い、仕事で絡まない限り他者の作品を称賛することもなければ評論もしない。
「精査をする」ことで自身の評判を貶めたくはないだろうし、むしろ精査を加えず無暗に (手放しで) 相手の作品を褒めたふりをしながら、その動作を自身の高評価に転じることだけを必死で考えている。
 

或る人物に質問された。『あなたはなぜ、他の人の作品をピックアップして論評し、それをコレクションしたチャンネルをSNSやブログで紹介しているのですか?』と。
理由を正確に伝えるには、多くの人たちが私のことを余りにも知らなさすぎるし、理解しようとも思わなさ過ぎる。
一行の質問に数分で回答出来るほど、私の人生は薄くない。
一つはっきりしていることは、私が一連の作業を「神々との密約」の元に継続していることだ。
今話せるのは、一先ずここまでだ。
 

音楽文化が明らかに衰退を始めた。

私はその現象をことさら止めたいとは思っていない。なぜならば今、この地球上には「どうでもいいもの」や「要らないもの」が溢れかえってしまったからだ。
特に、商品としての音楽が多すぎる。地上の商業音楽は、いつか一掃しなければいけなくなるだろう。それを流れ行く時間に託すかマンパワーに託すか、或いはその両輪で音楽文化の一掃を試みるか。
答えは神のみぞ、知る。
 

私は予言者であるが、どちらかと言うと「預言者」と呼ぶ方が相応しい。
人々はそれをシャーマンと言ったり霊能者等と例えてみたりもするようだが、どの単語にも私は当てはまらない。
ただ「私」と言う霊体が肉体を纏って数十年間の生をまっとうし、その生命が終わっても又私はここに戻って来るだろう。それもこれも全て、神々との密約なのだから。
 

 
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物事の虚と実 – 老化するElena Danaan –

当ブログの中でも比較的PVが多い記事は、『エレナ・ダナーンを突き動かしている高次悪 “ブラック・ガーネット” の正体』 ⇦ 此方ではないだろうか。


なるべくネガティブな対象に光をあてないようにすべく、ここ数か月間エレナ・ダナーンの動画及びSNSの発信等には触れないようにしていたが、何となく私に彼女の活動について、或いは彼女のコミュニティーやファンダム?の様子については耳に入って来る。

久しぶりに動画を観てみたら、エレナ・ダナーンが急激に老化していることに気が付いた。
思い返せば一年と少し前に私と夫の二人で、エレナの背後から彼女を操っていた高次悪 ブラック・ガーネットを粉砕したが、エレナの老化が始まったとしたらその直後ではないだろうかと推測出来る。
それまで自身を操作していた強大かつ凶悪なエネルギーが消滅したのだから、そこからは自分自身の持つ卑弱なエネルギーでそれまでと同等な状態を維持しなければならず、言ってみれば骨身を削りながらエネルギーや霊体のやり繰りをしていることになる。

当然の如く、現在のエレナ・ダナーンのような状態になるのは必然のこと。このまま彼女が以前と同じようにエネルギーを使い続ければ、何れ全てがそう遠くない未来に枯渇するだろう。
 


このところSNS上ではやたら精神を病んだ人たちの投稿が散見される。彼らの共通点はと言えば、過剰な承認欲求に魅入られていることだろう。
とりたてて重いミッションを背負っているようには見えないがゆえに彼らの発言は滑稽であり、尚且つ真剣にミッションを果たそうとしている数少ない優秀な人材の足手まといとなっている点に私は、とても腹を立てている。
間接的にその件について時々つぶやくと、なぜかそれまで私の投稿など気にも留めていなかったであろう彼らの発言が微妙に揺れて来る。

私の投稿には絶対に手を触れぬような状況で、彼らが私を見ていることが分かる。

スピ系に傾倒している人たちの中にも精神的に病んだ人があふれている。それだけならば別に何の問題もないが、特定の「病んだ人」がうっかりSNSでバズることで利他的な精神をもって活動している誠実な人材の活動を妨害する、その状況が私には誠に腹立たしく思えてならない。

エレナ・ダナーンの場合はどうだろう‥。
おそらく彼女の場合は「なりきり」のカテゴリーに分類されるだろう。もう少し突っ込んで言えば、例えば演技性人格障害のようなことになるだろうか。
 

嘘も三回吐けばその人の中で、真実にすり替わる。

虚実の境目が曖昧になり、いつしか理想の自分を手に入れたような妄想が独り歩きを始める。実体が理想とはかけ離れているにも関わらず、例えばエレナ・ダナーンの場合を例に取れば、実際には時間移動 (或いは恒星間航行) 等出来ないにも関わらずそれが達成された‥ 等と脳内でストーリーをでっち上げ、妄想がいつの間にかあくまで自分の中でだけ真実性を帯びた (ように見えた) 段階でその旨外部に発信して行く。
物理的には目に見えない内容だけに、聞き手はそこに驚愕と「目に見えないことを信じない」ことへの罪悪感を植え付け洗脳されるので、始末に負えない。

だが、エレナ・ダナーンの話について言えば、物理的には意外に容易にその虚偽を暴くことが出来ると私は見ている。

何より彼女の語る様々な「見えない事柄」は現実的ではないし、実際に実現していない出来事だ。物理的に見えないのではなく、実際問題何も起きていないのだ。
例えば問題の動画の中で語られている写真を科学捜査の領域に持ち込んで解析を試みれば、画像が捏造であることはいとも簡単に証明されることになるだろう。がしかし、一連の出来事が事件性を帯びていない以上、それらを捜査検証する機関もないと言う現実の壁が立ちはだかる点が厄介極まりない。
 


怖いことに、虚偽はそれを述べる側の人だけでなく、受信者もろとも洗脳に陥れることが可能だ。なぜならば上でも述べたように、「見えない出来事」を信じようとしない心情がまるで悪であるような罪悪感を継続的に植え付けられて行くことで、虚の発信者と受信者間で共依存関係が出来上がってしまうからだ。

嘘も三回吐けば真実にすり替わり、特定の人物が三回吐いた嘘を鵜呑みにすれば受信者の中でもそれがあたかも真実であると、自分を納得させる回路が出来てしまう。
エレナ・ダナーンを取り囲んでいる聴衆の半分以上は、そうやって洗脳と罪悪感の間を振り子のように漂いながら徐々にエレナ信者として改造されて行った人たちだ。勿論、翻訳者 佐野美代子はその代表格の人物と言えるだろう。

双方は承認欲求と言う地下水脈で繋がっており、もしもこれらの洗脳から離脱する方法があるとしたら、その一つとして「承認欲求からの離脱」を試みることを私は提案する。

エレナ・ダナーンの言う「秘密宇宙プログラム」なるものは実在しない。まして「地上アライアンス」等と言う団体が存在するとしたら、ライトグレイ星人『グレーン』がそれを黙って見過ごさないだろう。
だがエレナ周辺の願望は現実とは全くかけ離れており、彼女の言う理想の世界は今後訪れることはなさそうだ。これは地球人にとってはあまり喜ばしい予言とは言えないものの、ここから歴史は段階的な手順を踏んで一旦リセットへと向かって行く。

一つには、神の目が開いたからだ。

むしろ神の目が開いた事実を今日 2025年1月11日 午前3:00am (日本時間) の段階までエレナ・ダナーンの口から発信されていないことが、エレナの「虚」を最も象徴していると私は見ている。