母の才女物語

昨日 2025.05.11は母の日だった。私には該当する人物が居ないので、何もせず家で静かに休んでいた。

遠くに居る息子から短いメールが一通届いていたが、彼が「母の日」を意識して私へのメールをしたためたのかどうかすら分からない程、実に淡白で素っ気ない内容だった。

 

私の母は事あるごとに、「ママは才女だったのよ。」と口癖のように語ったものだった。

1. 某女子大の児童心理学科卒業で、皇室の某女性とはご学友で英語クラブの後輩だった。(嘘)

2. 音大に受験出来る程のピアノの実力はあったが、時代の事情で音大受験を諦めざるを得なかった。(これも嘘)

3. 異性には事欠かないし不自由を感じたこともなくて、当時のフジテレビの専務とは同級生で (彼は奥様よりも) 母を好きだった‥ と言う武勇伝をよく話していた。(実は母は再婚しており、私は母の二度目の結婚で生まれた長女だった)

 

‥ 母の死後、彼女の学歴も何もかも全て嘘だったことが発覚し、むしろ愕然としたのは私の方だった。彼女は自身の才女っぷりを盾にして日夜私を殴ったり刺したりつねったりし続けた。激昂すると母は水風呂の中に、私の顔を沈めたりもした。

まさか弟が先にあの世に旅立つとは母は思ってもみなかっただろうし、彼女が隠していたこと全てが私に明るみにバレて、今頃霊界で歯ぎしりしていることだろう。 

 

母がある時いきなり「ジャズピアノを習いたい」と言って、当時ジャズキーボーディストとして名高いN氏に師事したが、半年も持たなかった。

次に師事したのが某有名ビッグバンドのリーダーの奥様だったが、その頃からジャズの譜面を私に書かせるようになった。勿論譜面に書いたものをジャズとは言わないし、そもそもジャズとは音楽を弄ばなければ成り立たない。

それを私が楽譜に起こし、母はそれを暗譜してクラシックを演奏するみたいな解釈をして毎週のレッスンに通っていたが、肝心の音楽やジャズはそっちのけでクラスの勢力争いに夢中だった。

カルチャースクールと言うのは「素人が専門家に教えを乞う」空間だと思うが、母は教師に「何も言わせない」「ぐうの音も出させない」ことに執着していた。当然誰か他の人が書いた楽譜を暗譜して母が演奏していること等、教師はまるっとお見通しだったことだろう。

そのジャズピアノ教室は最長で2年ほど続いたようだが、弟の東大受験を言い訳に利用し、怒り狂ったようにしてある日突然辞めた。

最後にたどり着いた母の趣味が、写真だった。遺品整理で実家に入った時、母が撮影したと思われる多数の写真を目にしたが、どれも焦点の定まらないぼんやりとフォーカスがかかった写真ばかりで、嗚呼これも下手の横好きで終わったのだなぁ‥ と思った。

 

実際に創作家になったのは私だったが、もともとシャンソン好きな母は、私が訳詞コンサートを開催した直後から「訳詞」にも着手していたようだ。遺品整理の際におびただしい数の彼女の手書きの訳詞のメモを発掘したが、どれも詞として成り立ってはいなかった。

フランス語も挫折したらしい。晩年間近の母がどこかでシャンソンを歌っていたと思われる写真も見つかったが、きっとそれも挫折したのだろう。訳詞と歌手はおそらく、私が自身の訳詞コンサートでその両方を実現したことへの嫉妬、腹いせに始めたことだろう。

母には歌心がないし、きちんとした発声の基礎もなかったと思うし。

 

才女だ才女だと豪語していた母の才女っぷりが一体何を指していたのか遂に分からぬまま、私も24才で家を出た。そこから32年後の冬に、まさか母の才女伝説が全て嘘だったことが私にバレるとは、彼女も想像したくはなかっただろうに‥。

 

母の日にはカーネーションを贈るのが当たり前みたくなっているが、母にとってカーネーションは何の価値もない花だったようだ。

一度だけ私が母に、なけなしのお小遣いで買った真っ赤なカーネーションを贈った時、母は一瞬だけそれを眺めたものの気が付くと茎を真っ二つに折ってゴミ箱に捨てていた。

あれ以来、私の中でカーネーションは「嫌いな花」の一つに加わった。

勿論母も母の日も今も大っ嫌いだから、昨日は死んだように時が過ぎるのを待つしかやりようがなかった。

何度か、母の嘘まみれの才女伝説が脳内を駆け巡ったが、それはただの嵐。じっと過ぎ去るのを待つ年に一度の悪夢に、今年も無事耐え抜いた。

 

(スマホから投稿 📱)

約束と祈り (Promises and prayers)

来月に相方の誕生日を控えているので、その辺りに箱根への旅を予定している。道中は相方の運転で現地に向かう予定だ🚙
自分で作成した色んなPL (音楽プレイリスト) を用意しつつも、やはり故 サビノ神父 (現 Hana) との思い出が心を優先するので、BGMはイタリアの音楽に。
 

 

記憶とか思い出は微妙にトラウマと重なり合うもので、サビノ神父を思う時にはどうしても実母の影が折り重なって来る。
 

実母が最後の最後まで執念深くサビノ神父との思い出の写真を隠した本当の理由は、一体何だったのか‥。遺品整理業者がとても良い業者だったので、段ボール何個分にも及ぶ分量の写真と言う写真を一枚残らず全て保管して私に渡してくれたが、見るからに古い段ボールの中にサビノ神父と私が最後に撮った写真がひっそりと隠れていた。
その場所がどこだったのか、数十年もの間分からなかった。どうしても思い出したい記憶だけがぼんやりと霞が掛かったように思い出せなくなっていたが、それもこれも実母が仕向けた圧のようなものの一種だったように思えてならない。
 
限られた時間の中での遺品整理の中で私はどうしてもその写真を探し出したかったから、念を込めるように一枚一枚捲って行くと、とある束の中に笑顔のサビノ神父が目を覚ました。
幾度かの交霊の末に、最後の写真を撮影した場所をサビノ神父の霊体から聞き出すことが出来た。
箱根のとあるホテル内のレストランだと分かった。そこに辿り着くまでに、40数年を要した。
 

 
思えば私と神父との出会いは既に過去世に在り、そこ (トスカーナの山中の車道の事故現場) で私たちは忘れ得ぬ固い約束を交わしたのだろう。仮にサビノ神父が “Hana” として転生した今でもその記憶を抜きに全てを語ること等出来なくて、その時を思い出す度に心臓辺りがしくしく痛んで仕方がない。
 
コーヒーとワインとパスタが大好きなサビノ神父のことを、私が家を飛び出た24歳の時から片時も忘れたことなどなかった。だが如何せん、当時の私の心は壊れていた。私を壊したのは紛れもなく、山田家とその親戚全員だった。
私は壊れながらもどうにか平常心を保つことに一生懸命だったが、今にして思えばやはり壊れていたのだろう。
実家の遺品整理の時に見つけ出した写真の中には、下の写真のようなサビノ神父が何かの目的で撮ったと思われるブロマイドのような写真が複数あった。
 
きっと母はサビノ神父を個人的に好きだったのだろう。だからなおさらのこと、神父の気持ちが私に向くことのないよう、神父から私を遠ざけることに必死になったのかもしれない‥。
 

 
故 サビノ神父が神父としての霊体を今よりも強く保持していた時に、相方 (天野玄斎) が神父の霊体の心臓に張り付いた真っ赤な炎症を取り除いてくれた。その瞬間故 サビノ神父は本物の自由を得て、それまで固く凝り固まったようになっていた霊体がひときわ大きくなったように私には見えた。
わずかな母の霊体が神父の霊体の周囲を鎖のように縛っているのが見えたけど、相方のヒーリングの後にその呪詛 (呪縛) も解けて、故 サビノ神父はそこで何度目かの転生の機会をようやく得ることが出来たと後から聞いた。

生まれ変わった故 サビノ神父 (現 Hana) とは未だ現世での再会は果たせていないけど、その時はいつか必ず訪れると私は確信している。私が確信したことで、これまで叶わなかったことは一つもない。

念じることはいずれ祈りとなり、それが正しい祈りならば願いはいつの日か必ず叶う。

過去世で交わした幾つかの約束は、一つずつ現世 (現在の私) で叶って来た。リラ星の妹との再会もじきに果たせるだろう。
リラ星の妹は今某業界の第一線で活躍している。彼女は今回も、彼女が作り出した新しい作品の中にふんだんに、私たちの最期の約束の合図でもある “光” を散りばめている。
同じ記憶を持つ人にとって、その “光” は特別な意味を持つ。
彼女が送って来る “光” に返す新しい作品が今は未だ手元にはないけれど、私が毎週欠かさず作っている音楽のプレイリストを通じて彼女には必要にて最大限のアンサーを送っている。
 

音楽は私たちにとって、手紙のようなものだ。
喜びたい時、泣きたい時、抱きしめたい時、‥その時々に応じて私のPLには必要な音楽を詰めて解き放っている。そのシグナルに彼女も応えてくれる。
静かなやり取りは地球全土の人々に向け、各々に必要な形や響きとなり届くと信じて、手の負傷の緩やかな改善と共に数年以内に私は新作をレコーディングする予定を立てている。

 

弟・山田大輔の虚像と実像 – 前編 –

この記事の記載を予告した日時からは既に一ヶ月が経過しましたが、この記事を書くには多くのエネルギーを消耗するでしょう。
御周知のように我が家は今、目下の遺産整理の最中に在ります。その合間を縫って私は、第三の人生の立て直しと魂の休養を継続しています。
 

 
圧は毎日のように揺り返しを繰り返しますが、抗わず受け容れず、そして巻き込まれぬように細心の注意を払いながら日々、魂を磨き、夫婦共に覚醒の手を緩めぬ努力は怠っていません。
 

弟(山田大輔)夫婦に対して、今現在も様々な思いが駆け巡ります。特に気になっている点の一つとして、弟の真の死因が何だったのか‥ と言うことが挙げられ、妻・りえさん(仮名)の周囲で弟と母の二人が(恐らく)似た状況で亡くなっていたことを考えると、彼等の死因の真相が一体何だったのか‥ について姉としてとても気掛かりではあります。
 

私は親族二人の死因に於いて、既に一つの仮説に到達しています。
ですがその仮説についてはこの記事での明記は控え、弟・山田大輔の表と裏の顔と彼の魂の真実について、私の知る限りをここに記載したいと思います。
ここでは死後の大輔の魂から直接聞いた話も含めながら綴って行こうと思いますので、心してお読み下さい。
 

弟・山田大輔: 2014年11月 結婚式の写真

 
私の知る限りでは、弟・山田大輔の魂の大元が摩利支天を名乗る忍びだったとのこと。

摩利支天を名乗っていた忍びは妖術使いとして一時その名を広め、過去世で私が「くのいち」だった一つの時代の私の最期を仕留めたと記憶しています。
私は何者かに背後から、首を右側から斬られて命を落としています。それはとても壮絶な最期だったので、転生した今世でも私は当時の記憶を忘れることが出来ません。
 
当時の私の首斬りを命じたのが忍び「摩利支天」であり、実際に私の首を斬り落としにかかった人物二人は、忍び「摩利支天」に命じられた部下の忍びたちでした。
(後に私は当時の私の首を斬り落としたであろう、忍びの「摩利支天」の部下の二人の生まれ変わりの男女ともリアルで会っています。)
 

切っ掛けは全く別件ではありますが、私は小学校3年生の夏に首の右側を起点として頸椎捻挫を患っています。元々体のその方向が弱い為首の右側にだけ発作が起きたと記憶していますが、あの瞬間に妙なビジョンが過ったのが何故だったのか‥。今にして思えばそうした魂の変遷は続いており、今世の私に誰かが「体の右側」に対する注意喚起をしてくれたのかもしれません。
 

同じ家にヨハン・セバスティアン・バッハと摩利支天の二人の魂が姉弟として転生した‥ 等と言う話は確かに前代未聞ですし、唯物主義者からは一笑に付されて終わってしまう話かもしれません。ですがこれは紛れもない事実です。
 

 
幼少期、特に未だ小学校に入学する前の弟はとても純粋で、姉思い、母思いの優しい人でした。
時折無鉄砲な行動に走るところはありましたけど、彼の言動の全てには彼なりの美学や哲学があり、子供だったにも関わらず大輔はそれを一貫させて生きていました。
 
私が小学校3年生の夏にYAMAHA JOC(ジュニア・オリジナル・コンサート)の作曲競技のイベントに急遽出演することが決まった時も、大輔は合歓の里までついて来てくれました。
その時に、私が練習しているスタジオの近くで途中から虫捕りに夢中になって迷子になる‥ と言う大珍事を起こしてくれましたけど、翌日私がステージで本番の即興演奏を演っている最中もハラハラしながら客席で私を応戦していてくれたのを、今でも憶えています。

そんな大輔が最初の挫折を味わったのは、おそらく彼が桐朋学園「子供のための音楽教室」に入室し、姉と同じピアノを勉強し始めた頃に母が放った一言が原因だったと、死後の大輔が話してくれました。
そもそも姉がヨハン・セバスティアン・バッハ、即興と作曲と空間音響の名手だったわけですから、誰もが私のようにその場その時々で瞬時に作曲が出来る筈が無いのです。弟も楽譜の譜読みと暗譜にはかなり苦戦し、その度に母が「美樹(私の本名)にだって出来るのよ!貴方に弾けない筈がないでしょ!」と言って、ピシャリ!と弟の腕や手の甲を引っ叩く音が、私の居る隔離部屋にまで響き渡りました。
 

その度に弟・大輔の気持ちは凹み、どうやっても姉の技術を超えることが出来ないのは自分の怠慢のせいだと思って頑張ってはみたものの、中学受験を表向きの理由に彼は桐朋の子供のための音楽教室もピアノも、つまり音楽に於ける一切合切から身を引きました。
ですがそれはただ単に大輔がピアノや音楽を辞めるのとは異なり、大輔の魂に「この世の超えられないもの」と言う実績と記憶を刻印したことになりました。
それを機に弟・大輔は日に日に変貌を遂げて行き、自分自身の本音を周囲に一切吐かなくなって行ったように思います。
 
その連続が後に私が綴る、弟・山田大輔の虚言癖に基づく「虚像」の原点と直結しているのではないかと、私は思っています。
 

そもそも弟・大輔は、音楽そのものが大好きでした。他の同じ世代の子供たちのように、モテるから‥ とか目立つから‥ と言う理由ではなく彼は、心から音楽が好きだったと私も思います。
特にトランペット等の金管楽器の音色に触れると、どこかハードボイルドな中に漂う一種のロマンティシズムに敏感に反応を示し、時折涙目になりながらその音色を追い掛けていたのを今でも記憶しています。
 

 
私はテレビを観ることを母に強く禁じられていましたが、母が外出した時等に大輔が「一緒に観ようよ‥。」と言って度々私をテレビの前に駆り出してくれて、その時に観ていた番組が「愛の戦士レインボーマン」や「宇宙戦艦ヤマト」、「ルパン三世」等だったなぁ~と、振り返れば懐かしい話も沢山あります。
 

大輔は子供の頃から超能力や霊界等に強く憧れており、母の持つ強大な霊力に対しては微かな嫉妬と敵対心を抱いていただろう‥ と言うことが、姉の私にもひと目で分かる瞬間がありました。
ですが姉の持つシュールな力に対して弟・大輔は、ライバル心や敵対心を持つことはありませんでした。その純真な性格が激変した切っ掛けが上に書いた「音楽を巡る母の叱咤と暴力」であり、その酷い現場を既に姉の私と母との真に間近に見ていた彼が、せめて自分自身の心身だけは守りたいと願ったとしても、私にはそんな彼を責めることなど出来ません。

その(弟・大輔が両親の暴力や暴言等から身を守る為の)手段が「両親には絶対に本音と真実を語らないこと」だったとしてもそれしか方法がなかったことぐらい、姉の私だからこそ今ならば容易に判断が付きます。
一般的に言うところの「正しい判断基準」が当時の私達、「山田家」には一切通用しないことを、言うまでもなく当時の彼も骨身に染みて感じていたことでしょう。
 

大輔の真剣で純粋な目が段々と濁り始めたのは、彼が一浪の末に東大の法学部に入学した直後からでした。
私が大輔と暮らしたのは(私の計算が合っていれば)丁度彼が東大の2年生になった頃で、私はその年の秋頃に実家を出ています。私と弟の年齢差は4歳、私が家を出たのが24歳の秋の終わりでした。
 

私は母親に、早々に家を出て行くように‥ と毎日のように言われ、無謀とも思える手段を経て何とか結婚(初婚)相手を見つけて、母にその人と会わせる段取りまで漕ぎ着きました。
ですが母は当時の私の初婚の相手との喫茶店面談の時、「あなたのような下品な人に美樹は相応しくないわ。あなたみたいな人に娘を、本当は渡したくなんかないんですよ‥。」等と思ってもいないことを口走る、いわゆるマッチポンプで私と当時の初婚の相手との仲を引き裂こうとしました。
 

ですが私は這う這うの体(ほうほうのてい)を駆使してでも、あの毒気の強すぎる実家を離れたかったのです。
実家を出る最後の夜、弟は私に何か言おう言おうとしては母や父に発言を遮られ、最終的には私が何故段ボール箱を4~5個だけを持って実家を追い出されなければいけなかったのか、その本当に理由を知らぬまま寂しそうに私に手を振ってくれた、あの時の弟・大輔の手が妙に小さく視えた瞬間が今も脳裏を過ります。
 

大輔はその後、急激に変貌を遂げて行きます‥。
 

後編に繋げます。‥

私の半生と苦痛 – ④Yellow Sky – 黄色い空

直前の過去世のイタリア、トスカーナの空はいつもどこか緑がかっていたような記憶があります。でもそれは美しい自然の色、地球の色彩の一部だったと思います。

幼少期、多分5歳から6歳、地元の教会幼稚園に少しだけ通って卒園する前に(ある理由により)やめることになった後の私は、両親からの心身への尽きない暴力(虐待)によって少しずつ身も心も叩き壊されて行く過程にありました。
子供にとって、親は絶対的な存在です。なので当時の私は自身の過酷なまでの両親からの暴力は、誰もが経験する普通のことだと思っていました。
 
ピアノの練習と共に始まる母親の暴力を母自身は英才教育だと言い、それは毎日止むことなく公然と行われていました。彼女は何故か私の目(眼球)を狙うようにして、自分の手の関節で私の目を何度も何度も殴りかかって来ました。
特に理由があったかどうかと訊かれたら、私にもそれはもう分かりません。ですが私ののんびりとした動作や、子供離れした私の一言一句が彼女のカンに障ったのでしょう。
兎に角何かと口実を付けてはマンションの一室にある北の練習部屋のドアを乱暴に開けて、私の目を狙っては何度も何度も幼い私を殴り続けました。
 
その合間に母は何事もなかったように夕食の支度をし、煮ものが一個仕上がると私の部屋に来ては又私の目や頬を殴打し、一通り殴り終えると又夕食の支度に取り掛かり、次は家族4人分のカキフライに衣をまぶし終えると又私の練習部屋に来ては、先程の続きのように私の目を何度も何度も殴りかかりました。
 
当然私に抵抗すること等許される筈もなく、私の右目は真っ赤と真っ青の中間のようなおかしな色になって腫れ上がり、冷水で顔を洗う時にまでその箇所がズキズキと痛むような、子供が普通ならば経験し得ないような痛みを常に引きずっていました。
 

 
頭上に広がる空がずっと黄色かったことも、当時の私にとっては普通のことでした。クラスの友人が時折つぶやく「空が青くて綺麗‥。」と言う言葉の意味がよく分からず私に視えている空はずっと、緑がかった黄色のままでした。
 
私が小学校の低学年の頃、夏になると殆ど毎日のように光化学スモッグ警報が発令されました。その空を見ていたクラスメイトたちは口々に、「今日は空がいつもより黄色いね。」と言うのですが、私にはいつもとさして変わらない普通に黄色い空に見えていたので、いつからいつまでが光化学スモッグ中で、いつからいつまでがそうではない空なのか‥、全く見分けが付かなかったのです。
それよりも時折、視界の真ん中に誰かがカッターで勢いよく紙を切るような線が走ることがあり、それが私の目の異常から来るものだとは知らずに「こんなものなのかな。」と思いながら過ごしていました。
※後に私が33歳の時に出会ったアメリカ在住(アメリカ系ギリシャ人)の精神科医によってそれが、母親からの虐待によって発症したPTSDの現象の一つだと判明します。
 

小学校低学年の頃から私は自分では気づかない何かしらの色々な能力を学校の教師に買われ、英語の朗読の会に急遽出場が決まったり、お習字の都展にエントリーが決まったり‥ と、両親の想定外のイベントに引っ張りだこになって行きました。
当然それらは課外授業の一環として部活のように「午後練」の時間が設けられ、私は親に内緒で午後練にひっそりと参加していました。
私にとってはそれがとても楽しい時間であり、安らぎのひと時だったのです。
 
お習字の都展にエントリーする際には半紙に二文字を書く、シンプルな稽古を何時間も続けることになり、放課後の校舎に残っては夜遅くまで何度も何度も「希望」と言う字を書き続けました。
母が一切介在出来ないこの時間は私にとってはとても神聖な静寂の時間でもあり、私は心ゆくまで「希望」の二文字を書き続けました。でも日も暮れて夜6時にもなると、母親が黙ってはいないのです。
静かに文字を書いている校舎の2階の教室に怒鳴り込んで来て、「一体いつまで続くんですか?もう外は真っ暗なのに!」と言い、監督の教師に怒鳴りかかった声を今でも私は忘れることが出来ません。
 

 

母の異様な形相を見た担当教師は慌てふためきながら、「もうあと一枚で仕上がるところなんですよ。もう少しだけお待ち下さい。」と言い、母親を別の教室に誘導すると私に目配せをして、「ゆっくり書いていいからね、落ち着いて。」と言って15分近く母の話し相手になってくれました。

その間に私は、5枚分の「希望」をしっかりと書き留めました。
そして各半紙の左隅に自分の名前を小筆で書いてそれを黒板近くの大きな箱に一枚一枚置いて、別室で大声で喚き立てている母の元に向かいました。
すると母は教師には見えないように私の手の甲をこれでもかと言わんばかりに思いっきりつねって、顔ではにっこりと微笑みながら「さあ、早く帰ってピアノのお稽古をしなきゃ!」と言って、私を教室から引きずり出しました。
 
家に帰ると室内が黄色く染まっていました。当時の私の目には、白熱灯の光も黄色く視えていたようです。しかも明るさが他の人が見ているそれよりも若干暗く写り込んでいた事を、33歳の私の心の病を診断したアメリカ人の精神科医によって後から知りました。
 
私のPTSDは小学校低学年にして既に発病していたのでしょう。
青空を知らぬまま私は高校生になり、それが改善されないまま大学に進学すると、私の視界に映り込む横断歩道の白線までも黄色く染まり、当時の私が五線紙の白い紙の色さえも認識出来ていなかったことを後から知りました。


牛乳やお豆腐、ヨーグルトや体操着の「白」が私にはずっと黄色に視えていたのですが、それを不自然とは思わないまま大人になった頃には、私の心は常に恐怖心との戦いに怯え、その合間に時折この世のものとは思えない何かの影に付き纏われるようになり、今思えば私は崩壊寸前まで壊れていたように思います。
 
ですがそのような最中でも私は、社会性だけは放棄しませんでした。
なので母や生前の弟がもしも私のことを「ピアノだけは弾けるかもしれないけど、突然奇声を上げて所かまわず大騒ぎをする気のふれた人だ。」‥ 等と言っていたとしたら、それは全くの嘘偽りです。

もしも私をそういう人だと誤解している人がいらしたら是非、私に対する認識を改めて頂きたいです。
 

to be continued…

私の半生と苦痛 – ②母の霊感と虐待

母は強い霊感を持つ人でした。
そして彼女はクリスチャンを公言していましたが、家の中では年柄年中私に暴力を振るっていました。そうすることで父(故)のご機嫌を取っていたのかもしれませんが、何故そうすることでしか父のご機嫌が取れなかったのかについては未だに不明です。
 
ただ一つ最近になって分かったことは、母が父とは再婚だったと言う事実です。これは私を除く家族全員が死んだから判明したことで、恐らく弟も(或いは父も)知らなかったと思います。
唯一その事を知っているとしたら、私の訴えを一切聞き入れようとはしなかった伯母(母の姉)一人だったかもしれません。
母はその事実を隠す為、私を悪者に仕立て上げ家族のマイナスの注目を私に集め、私への攻撃的欲求を煽っていたように思えてなりません。時代柄、バツイチの女性は何かとデメリットも大きかったのでしょう。なので母は自身のバツイチの事実を父には言わず、お見合いに臨み、再婚まで漕ぎ付けたのかもしれません。
 
2000年の秋頃に私は一度、住む家を追われたことがありました。
当時冗談抜きで露頭に迷いそうになった時に一度だけ伯母に連絡したことがあり、あの時私は伯母に初めて母の長年の虐待について電話で切々と訴えたのですが、それを跳ね除けるように私の言葉に伯母は、一切耳を貸しませんでした。
母の暴力を「愛の鞭」だと言って頑なに母の行いを褒め称え、私の言う事を否定し続けた伯母の電話越しの声を私はけっして忘れません。
 
あの時私は確信しました。伯母も敵であると。
 
家族・親族全員が私を精神薄弱児(知恵遅れ)扱いをし、親族にとっての外敵のように私を扱うことで団結していたと私は思っています。
その証拠に昨年母が他界した時、弟(故)の嫁と上に書いた伯母の娘(つまり私の従妹)二人がまるでその時を知っていたかのように実家に突撃し、三人が同時に第一発見者となり、その挙げ句従妹の一人である えみさん(仮名)と弟(故)の嫁 りえさん(仮名)が連盟で弁護士に、法定相続人の私に内緒でこっそり実家を相続出来ないか‥ と言う相談をしていたのですから。
 

 
母はことある毎に自らの持つ霊感を悪用し、時には実際に物を移動させて彼女を怒らせた相手に「物」を使って遠隔で攻撃を加え、怪我をさせたこともありました。
「ママを怒らせたらどうなるか、見てなさい!」が母の口癖でしたが、その言葉通りに彼女は私の知人の何人かを霊的な方法で手に掛け、実際にそれが原因で亡くなった人も現れました。ですが霊的な現象は法で縛ることも証明することも出来ないので、母は霊感を使ってやりたい放題のことをやっていたと思います。
 
母は殆ど毎日、実際にはどうでもいいようなことを口実にし、あたかも私が毎日悪い事をしでかして家の中を引っ掻き回しているかのように父に告げ口をし、父のご機嫌を取っていました。
父は父で私の顔の裂傷(通称: 三つ口)が不快で不快でたまらなかったので、何かと私を虐めいたぶる口実を探して私に暴力を振るう理由を見つけ、私に手を上げたり深夜に数時間もの間お説教をして「偉い人」になったような気分を味わうことで、日々のストレスを発散していました。
 
今にして思えば母は、自身の再婚がバレるのを恐れていたり、或いは彼女の金遣いの荒さを誤魔化す為に私を家族内の「敵」として周囲にも認識させ、私の悪い話しを話題にすることで自分を守っていたように思います。
勿論共犯者である伯母 昭子さん(仮名)も母の計画に協力し、家族団らんの食卓に私が不在であることに対しても一切言及しませんでした。
 
 

 
記事私の半生と苦痛 – 序文でも少し触れたように、どういうわけか私は一週間に一度しかお風呂を使わせて貰えませんでした。それは小学校の2~3年生になる頃に始まり、それが当然のこと‥ とでも言うように私が清潔にしたりお洒落をしたりすることに対し「罰」を与えるようになりました。
 

 
お風呂に入れない私は当然のように不潔になり、そんな状態ではクラスメイトからも「臭い」と言って嫌われ、虐めにも遭いました。
 
週に一度しか髪を洗う事を許されない為、一週間分の汚れを落とす為に私は痒い頭皮をゴシゴシ擦って、ありったけのシャンプーを使って頭を洗いました。当然頭皮が真っ赤にかぶれるので肩の辺りにはいつも白く細かいものがこぼれ落ち、体はお風呂に無事に入れた翌日以外は常に異臭を放ち、そんな私を心配した小学校時代のクラスメイト数人が母に抗議をしてくれたこともあったのですが、そういう日の夜はこれでもかと言う程私は母に(母の手の関節で)目を何度も何度も強く殴打され、翌日は顔が真っ青に腫れ上がった状態で学校に行かなければなりませんでした。
 
家族の誰も私への母の暴力を止めることはなく、そんな私を見ていた弟(故)はやがて自分が私と同じ目に遭わないように、ただ毎日を無事に生き延びる為の方法を考えるようになって行ったと思います。
弟の嘘吐きはそんな日々の中で培われ、段々と彼は本当のことを話さなくなって行きました。奥歯にものが挟まったような物言いが徐々に板について行き、思春期になると弟はそれを「達観の域に達した」‥ 等と勘違いし、時折「飄々と在りたい」‥ 等と口にするようになりましたが、彼の言う「飄々‥」は現実を誤魔化して煙に巻く以外の何物でもありませんでした。
 
弟の口癖に「まぁまぁ‥」と言う言葉があるのですが、それは彼が現実から目を背け、本題から彼自身が逃げ出したいと思う時に使う常套句でした。
本気で生きようとすればあの家では酷い暴力が負の報酬として付いて回ると知った弟は、事実とは異なる事を言いながらとにもかくにも両親の気を引き、彼らのご機嫌を取り、その手段として両親が望むように私を精神薄弱児(知恵遅れ)として扱い続けることがベターだと判断したのでしょう。
 
ですが私は、弟(故)のそうではないもっと純粋・純真な一面を知っています。ほんの一瞬でしたが、それが弟(故)の本当の姿ではなかったかと私は今でも確信しています。
 

 
私が小学校の3年生ないしは4年生になった頃から、母は頻繁に家を空けるようになりました。一見何でもないことのように見えますが、私は母があの頃から異常に高額な洋服や靴、ブランドもののバッグを購入し始めたことを今でも忘れていません。
 
特に印象的だったのはシャネルのバッグとそれに合うヒール7センチくらいはある “Kanematsu” のハイヒール、そしてお金持ちの象徴と当時は言われた「黒いミンクのコート」をある日、いきなり着て帰って来た時の彼女の意気揚々とした笑顔でした。
どんなに金銭感覚には疎い子供の私でもあの格好はどこか変、と言うのも当時から母の口癖は「うちは貧乏でお金がないの。」‥ だったので、そんな実家のどこからあの「黒いミンクのコート」やシャネルのバッグを買うお金が出て来たのか、とても不思議でした。
 
しかも実家にお金が無いのがまるで私のせいであるみたいに、何かと良くないことは全て私が原因で、尚且つ私に尋常ではない程のお金が掛かる厄介者のように母に言われ続けたのですが、実際には私には、年に一着のジャンパーと一着のスカートと二着のトレーナーしか買い与えられてはいませんでした。
なのでどう見ても「うちは貧乏でお金がないの」‥ が母の虚言であることは明白でしたが、それを言及すれば又私は彼女の手の関節で目を殴られると分かっていたし、機嫌によっては水風呂に顔を突っ込まれることになるのが怖かったので、何も言えなかったのです。

 

to be continued…