私の半生と苦痛 – ②母の霊感と虐待

母は強い霊感を持つ人でした。
そして彼女はクリスチャンを公言していましたが、家の中では年柄年中私に暴力を振るっていました。そうすることで父(故)のご機嫌を取っていたのかもしれませんが、何故そうすることでしか父のご機嫌が取れなかったのかについては未だに不明です。
 
ただ一つ最近になって分かったことは、母が父とは再婚だったと言う事実です。これは私を除く家族全員が死んだから判明したことで、恐らく弟も(或いは父も)知らなかったと思います。
唯一その事を知っているとしたら、私の訴えを一切聞き入れようとはしなかった伯母(母の姉)一人だったかもしれません。
母はその事実を隠す為、私を悪者に仕立て上げ家族のマイナスの注目を私に集め、私への攻撃的欲求を煽っていたように思えてなりません。時代柄、バツイチの女性は何かとデメリットも大きかったのでしょう。なので母は自身のバツイチの事実を父には言わず、お見合いに臨み、再婚まで漕ぎ付けたのかもしれません。
 
2000年の秋頃に私は一度、住む家を追われたことがありました。
当時冗談抜きで露頭に迷いそうになった時に一度だけ伯母に連絡したことがあり、あの時私は伯母に初めて母の長年の虐待について電話で切々と訴えたのですが、それを跳ね除けるように私の言葉に伯母は、一切耳を貸しませんでした。
母の暴力を「愛の鞭」だと言って頑なに母の行いを褒め称え、私の言う事を否定し続けた伯母の電話越しの声を私はけっして忘れません。
 
あの時私は確信しました。伯母も敵であると。
 
家族・親族全員が私を精神薄弱児(知恵遅れ)扱いをし、親族にとっての外敵のように私を扱うことで団結していたと私は思っています。
その証拠に昨年母が他界した時、弟(故)の嫁と上に書いた伯母の娘(つまり私の従妹)二人がまるでその時を知っていたかのように実家に突撃し、三人が同時に第一発見者となり、その挙げ句従妹の一人である えみさん(仮名)と弟(故)の嫁 りえさん(仮名)が連盟で弁護士に、法定相続人の私に内緒でこっそり実家を相続出来ないか‥ と言う相談をしていたのですから。
 

 
母はことある毎に自らの持つ霊感を悪用し、時には実際に物を移動させて彼女を怒らせた相手に「物」を使って遠隔で攻撃を加え、怪我をさせたこともありました。
「ママを怒らせたらどうなるか、見てなさい!」が母の口癖でしたが、その言葉通りに彼女は私の知人の何人かを霊的な方法で手に掛け、実際にそれが原因で亡くなった人も現れました。ですが霊的な現象は法で縛ることも証明することも出来ないので、母は霊感を使ってやりたい放題のことをやっていたと思います。
 
母は殆ど毎日、実際にはどうでもいいようなことを口実にし、あたかも私が毎日悪い事をしでかして家の中を引っ掻き回しているかのように父に告げ口をし、父のご機嫌を取っていました。
父は父で私の顔の裂傷(通称: 三つ口)が不快で不快でたまらなかったので、何かと私を虐めいたぶる口実を探して私に暴力を振るう理由を見つけ、私に手を上げたり深夜に数時間もの間お説教をして「偉い人」になったような気分を味わうことで、日々のストレスを発散していました。
 
今にして思えば母は、自身の再婚がバレるのを恐れていたり、或いは彼女の金遣いの荒さを誤魔化す為に私を家族内の「敵」として周囲にも認識させ、私の悪い話しを話題にすることで自分を守っていたように思います。
勿論共犯者である伯母 昭子さん(仮名)も母の計画に協力し、家族団らんの食卓に私が不在であることに対しても一切言及しませんでした。
 
 

 
記事私の半生と苦痛 – 序文でも少し触れたように、どういうわけか私は一週間に一度しかお風呂を使わせて貰えませんでした。それは小学校の2~3年生になる頃に始まり、それが当然のこと‥ とでも言うように私が清潔にしたりお洒落をしたりすることに対し「罰」を与えるようになりました。
 

 
お風呂に入れない私は当然のように不潔になり、そんな状態ではクラスメイトからも「臭い」と言って嫌われ、虐めにも遭いました。
 
週に一度しか髪を洗う事を許されない為、一週間分の汚れを落とす為に私は痒い頭皮をゴシゴシ擦って、ありったけのシャンプーを使って頭を洗いました。当然頭皮が真っ赤にかぶれるので肩の辺りにはいつも白く細かいものがこぼれ落ち、体はお風呂に無事に入れた翌日以外は常に異臭を放ち、そんな私を心配した小学校時代のクラスメイト数人が母に抗議をしてくれたこともあったのですが、そういう日の夜はこれでもかと言う程私は母に(母の手の関節で)目を何度も何度も強く殴打され、翌日は顔が真っ青に腫れ上がった状態で学校に行かなければなりませんでした。
 
家族の誰も私への母の暴力を止めることはなく、そんな私を見ていた弟(故)はやがて自分が私と同じ目に遭わないように、ただ毎日を無事に生き延びる為の方法を考えるようになって行ったと思います。
弟の嘘吐きはそんな日々の中で培われ、段々と彼は本当のことを話さなくなって行きました。奥歯にものが挟まったような物言いが徐々に板について行き、思春期になると弟はそれを「達観の域に達した」‥ 等と勘違いし、時折「飄々と在りたい」‥ 等と口にするようになりましたが、彼の言う「飄々‥」は現実を誤魔化して煙に巻く以外の何物でもありませんでした。
 
弟の口癖に「まぁまぁ‥」と言う言葉があるのですが、それは彼が現実から目を背け、本題から彼自身が逃げ出したいと思う時に使う常套句でした。
本気で生きようとすればあの家では酷い暴力が負の報酬として付いて回ると知った弟は、事実とは異なる事を言いながらとにもかくにも両親の気を引き、彼らのご機嫌を取り、その手段として両親が望むように私を精神薄弱児(知恵遅れ)として扱い続けることがベターだと判断したのでしょう。
 
ですが私は、弟(故)のそうではないもっと純粋・純真な一面を知っています。ほんの一瞬でしたが、それが弟(故)の本当の姿ではなかったかと私は今でも確信しています。
 

 
私が小学校の3年生ないしは4年生になった頃から、母は頻繁に家を空けるようになりました。一見何でもないことのように見えますが、私は母があの頃から異常に高額な洋服や靴、ブランドもののバッグを購入し始めたことを今でも忘れていません。
 
特に印象的だったのはシャネルのバッグとそれに合うヒール7センチくらいはある “Kanematsu” のハイヒール、そしてお金持ちの象徴と当時は言われた「黒いミンクのコート」をある日、いきなり着て帰って来た時の彼女の意気揚々とした笑顔でした。
どんなに金銭感覚には疎い子供の私でもあの格好はどこか変、と言うのも当時から母の口癖は「うちは貧乏でお金がないの。」‥ だったので、そんな実家のどこからあの「黒いミンクのコート」やシャネルのバッグを買うお金が出て来たのか、とても不思議でした。
 
しかも実家にお金が無いのがまるで私のせいであるみたいに、何かと良くないことは全て私が原因で、尚且つ私に尋常ではない程のお金が掛かる厄介者のように母に言われ続けたのですが、実際には私には、年に一着のジャンパーと一着のスカートと二着のトレーナーしか買い与えられてはいませんでした。
なのでどう見ても「うちは貧乏でお金がないの」‥ が母の虚言であることは明白でしたが、それを言及すれば又私は彼女の手の関節で目を殴られると分かっていたし、機嫌によっては水風呂に顔を突っ込まれることになるのが怖かったので、何も言えなかったのです。

 

to be continued…
  

私の半生と苦痛 – ①生まれた時の記憶と両親

とても珍しいケースだと思いますが、私は圧倒的な記憶力を持って現在に至ります。それが魂とか霊体の影響なのかそれとも現在の肉体自体の素質なのかは判然としませんが、日時以外の印象的な光景に於ける映像記憶が突出しています。
なので過去世に見た景色や風景、関わった人達の顔や名前、その人達との歩みを始め、同じように現世の全ての記憶が色褪せません。
 
他愛ないことからそうではないことの一瞬まで鮮明に記憶し続けるので、むしろそれが私の精神を蝕むことさえ起こります。
思い出したくないことを時折ふとした弾みで思い起こし、それが既に過去の出来事であるにも関わらず私の中では永遠に継続して行くような感覚に苛まれます。
 

 

私が(直前の)過去世を終えて生まれ変わるまで、感覚的には一瞬でした。ですが母の母体に着床してから外界に出るまでの時間を考えた場合、それが一瞬と言うことはなさそうです。少なくとも一年近くの時間が流れていたかもしれません。
 
過去世で私は、イタリアのトスカーナ地方に今も存在する小さな農道で本来ならばそこを通らない規約になっている筈の大型車と遭遇し、その車に轢かれて即死しています。
痛みよりは大型車とぶつかった時の衝撃と衝撃音の方を強く記憶しており、大地と空が逆さまになって行く一瞬が少し長い時間に思えるような不思議な景色を記憶しています。
 
そこで私の過去世は一旦終了し、瞬時の眠りを経て次の私が始まります。
 
私の魂は何故か、空の物凄く高いところから大きな手のひらに突き飛ばされるようにして、地上へと落下し始めます。実際に生きている人間がそのような体験をすることはあり得ないのですが、それが魂(霊体)ならば大いにあり得ます。
何千フィートもの距離を長い時間をかけて落下し、その間気を失うことさえも出来ない映像と身体感覚の恐怖は今も頻繁に夢の中に現れます。
ですが使命を決めて生まれ変わって来る人と言うものは多かれ少なかれ、このプロセスを経るのだと「或る神様」が話していました。
 

そうやって私は感覚的には一瞬で空から地上に落下し、母体に着床し、着床してからはあっと言う間の9ヶ月余りを過ごし、とある病院で産声を上げました。


※どこのどの病院と言う記録と記憶については個人情報の都合上、ここでの記載は省略します。

 

 

過去世で私が事故死した年齢は推定20代前半くらいだったでしょうか‥。勿論過去世の私も音楽を奏でていましたが、何を間違えたのか20歳を過ぎた辺りからの私は料理人を志すことを心に決めて生きていました。
それがいけなかったのです。
 
人は、約束した使命を変更した場合にはそれなりの制裁を受けることが魂のルールで決まっているらしく、私の事故死は私が一時的にでも料理人の道を目指し始めたことが原因だったと、後から分かりました。
 
そして次に授かった命が今の私でした。
 
顔の真ん中に「裂傷」を持つ私を、数人の大人たちが覗き込んでいました。彼らはそれまでの私を温かく包み込んで愛してくれたイタリア人の青い目をしたグランマとは全く異なり、黒い髪、黒い眼をした二人の男女がその中に居ました。
 
傷だらけの私を見た父の第一声は、「なんだこれは。」(棒読み)‥ でした。
まるで壊れた家電でも見るような冷たい目で私の顔を覗き込み、不快極まりないと言う感情を表情と声に出してもう一度、「なんだこれは一体!」と母に向かって大声で叫んだ時の声を私は今も忘れることが出来ません。
 
父は、そのまま立ち去って行きました。
母は、私を抱き上げようともしませんでした。

 
代わりに少し肉付きの良い女性が私を抱き上げ、あやしてくれたのを覚えています。
 

本来とてもおめでたい瞬間の私達家族の光景は、冷たく凍り付き硬直し始めました。殺伐とした家族の関係が始まり、それは現在に至ります‥。
 

 
この世界に生まれ落ちてからたった一日で、私は家族の中での人権を失いました。
両親にとって、顔に傷を持つ女児は人間ではないのです。

私はまるで渋々飼われることになった生き物のように扱われ、私が言葉を話せるようになってからは益々彼らの差別感情が過熱して行きました。
 
遠い過去世 ~ リラ星の巫女だった私から数えると、そこには膨大な時間が経過していました。現在に至るまでには多々の人生の経験があり、それが霊体を拡張させ魂をさらに成熟させ、その流れを止めることなく現世の私が始まったのですから、生まれ出て来た女児は既に老人の精神年齢を持つ大人のようだったと思います。
そんな女児が子供らしい、可愛くあどけない言葉を発する筈がありません。
 
顔に裂傷のある生意気な女児は、まるで絵に描いた家族の中に登場するフランス人形のような女児とはおよそ違った大人びた言葉を容赦なく発したでしょうし、記憶では母の弾くピアノに手厳しいジャッジメントを下したこともありました。
確かあの時母が弾いていた曲は、当時大ヒットした歌謡曲「ゆうべの秘密(小川知子)」のピアノ伴奏でした。
その伴奏のコードが完全に間違っていたので、まだ喋れない赤子だった私は「あうぅぅ~~!」と言ってギャン泣きした途端、母に「ピシャ!」っと顔を叩かれたことを覚えています。
 
でも、違うものは違うのです。それを感じる感性に子供も大人もありません。正しいか否か、美しいか否か‥、きっと私はそこだけを考えながら母の弾くピアノを聴いてギャン泣きしたのでしょう‥(笑)。
 

母の殴打の始まりはあの時だったと思います。でも子供の私はその意味がよく分からず、そこから数年の時を経たある日、(原因は忘れたのですが)母の手の関節が私の目を激しく殴打した時、もしかしたらこれは虐めとか虐待の類いではないのか‥ ということに薄々気付き始め、母や父の言動に疑いを持ち始めました。
 
 
to be continued…

私の半生と苦痛 – 序文

昨年2021年12月26日から今日までに起きたことを、今日は静かに振り返っていました。実家の遺品の整理をしながら、私を排除し続けた実家の家族や親戚、そして亡き弟の嫁についても出来る限りの手を尽くして調査をした結果、色々なことが分かって来ました。
 
特に未だ一度も会ったことのない弟(故)の嫁が私にした色々な仕打ちは到底許しがたいことであり、彼女の陰影(写真)を含め私はその全てをしっかりと心に焼き付けました。
 
とてつもない怒りが体じゅうから湧き上がり、そのことを複数の神々に相談したところ、「それ程までの貴女への仕打ちの側が悪。我慢の必要はない‥」 との見解を神々から得ることが出来ました。
なので私はこれを一つの区切りと切っ掛けとして認識し、今日まで私が親族や親戚、弟(故)の嫁を含む家族の関係者が私にして来た様々な仕打ちについて、このブログから発信して行くことに決めました。
 
私は顔の真ん中に傷「裂傷」を持って生まれました。世が世ならばそういう子供は抹消されたのでしょう。だからと言って、抹消せずとも苛め抜いて家族の輪から排除して良いと言う理由にはなりませんが、私の両親、生前の弟等は私をそういう風に扱い続けました。
そしてそれが現在は弟(故)の嫁と二人の私の従妹へと、脈々と受け継がれているのが現実です。
 
私は裂傷を持って生まれて来たものの、内面は過去世J.S.バッハ、そして妓生「ファン・ジニ」の気質を持っていますから、生き方やものの考え方は既に成熟しており、子供時代からどこか年老いたものの考え方をしていたことも又事実でした。
その為、父からは度々「可愛くない子だ」‥ 等と言われた事を、今も忘れることはありません。
 
但し現実はもっと複雑でした。
ただ、顔に裂傷を持って生まれて来ただけなのに、私が感情もあやふやで怒ることやものを考えることが出来ず、認識機能に障害を持つ人間だ‥ 等と言う尾鰭が付き、私は徹底的に家族や親戚たちから排除され、現在に至ります。
 
 
彼らが私を、精神障害を持つ人‥ 等と周辺に吹聴し続けて来た今日までのことや、弟(故)の嫁が私と言う存在を知っていたにも関わらず私を意図的に排除した状態で彼女が私に無断で母を火葬したこと、その火葬や葬儀に関わっていた二人の親戚のことも含め、可能な限り具体的な人物名を出してここに綴りたいと思います。
 

麻布教会

 


実母は年に一度だけ、クリスチャンに化ける人でした。

クリスマス・イヴから翌日のクリスマスの日以外は日常的に私に暴力をふるい、私を風呂にも入れず体じゅうが痣だらけになるまで爪でつねり、殴り、時には刃物で私の顔や体を切り付けたり、気分が激昂すると水風呂の中に私の顔を息が止まりそうになるまで突っ込んだまま溺れ(死に)させようとした‥等、それらの行為を『英才教育』と言う名の元に周囲の親戚や知人等を巻き込んで承知させ、虐待の手を一切緩めませんでした。
 

私の住んでいたマンションで、母は多重のキャラクターを使い分けながら人と接していた為、多くの人達は母がそのような凶暴な人格を持つ人だと言うことを知らなかったかもしれません。
なので私はある時期から母の虐待が始まった時にはそれだと周囲に分かるよう、意図的に大声で鳴き声を上げ助けを求めましたが、誰も私を助けてくれませんでした。
皆、我が家のことを知りつつ触れたくなかったのかもしれません。
 

昨年12月1日に母が永眠し、私はその事実を同じ年の12月26日まで知らずにいました。
その間に弟(故)の嫁が私の存在を全く知らなかった素振りを決め込んで、母を彼女の勝手な独断で火葬し、喪主を買って出て葬儀を済ませたことを昨年の12月26日に母の携帯に出て来た弟(故)の嫁から直接、まるでそのプロセスが当然の事のように聞かされ、驚きました。
 
さらにもっと驚いた事は、弟(故)の嫁と私の従妹にあたる女性一人 [えみさん(仮名)] が弟の知り合いの弁護士に、法定相続人である私には秘密裏に母の遺産を相続する件について相談していた事と、その経緯で私達夫婦の事も含め丹念に調査をしていた事でした。
彼女たちは法定相続人である私を「不在のもの」とした上で母の遺産を家探しの末調べ上げ、母の所持品や預金通帳等を漁って中身を見て金額を計算し、実家の墓じまいの件まで弁護士に相談していた旨の書類を目にし、そこから私の怒りはマグマのように吹き上げたまま現在に至ります。‥
 
 

糸島の海

 

弟(故)の嫁は自宅で倒れていた母の第一発見者となったようですが、そこに二人の従妹が同席していたと、彼女から私の実家の郵便受けに投函された差出人住所不記載の手紙には書かれていました。
考えてみれば妙な話しです。彼女の周りで、私の四人の家族の中の二人が亡くなったのですから。

問題は弟(故)の嫁が私に、頑ななまでにご自身の居場所や連絡先を伏せ続けている現実がある事。
私との実家の件(母の死亡の件も含む)の連絡手段として亡くなった母の携帯電話を私に指定し、2回の電話連絡の後私から彼女に連絡をしても一切電話に出なくなった理由には一体何があったのか、今でも不審を抱かずには居られません。
 
何より母を、私に無断で火葬し葬儀まで済ませ、周囲に私の不在を印象付けて行った真の理由も知りたいです。
もしかすると弟(故)の嫁は、私が認識能力のない精神の病んだ人だと勘違いしている(或いは周囲に意図的に勘違いを誘導している)可能性もあり、彼女を始め弟や母から私についてそのように吹き込まれたであろう多くの人達に、それが私の親族の吐いた虚偽である事を伝え、尚且つ事実修正する必要を強く感じています。
  

Olive


弟(故)の嫁の [りえさん(仮名)] は実家のかなり近くに住んでいるであろうにも関わらず、私達夫婦の挙動を息を潜めて監視しているような状況が続いていますが、私は弟(故)の嫁が今どういうマインドにあり、どういう状況に置かれているのか‥ について薄々知っています。
それは亡くなった弟本人が、彼に出来る方法を使って私に知らせてくれるからです。
 

一つ付け加えるならば、2015年の11月に他界した弟の実名をネーミングした「大輔塾」と言うセミナーを、2019年頃には開始当時とは全く異なるお茶会スタイルで運営している旨、全く本意ではないと弟が私に伝えて来ました。
本当に弟を思う心があるならば、そのような緩いお茶会形式へ弟の名前を使って「大輔塾」に人を集客するような行為は、今直ぐやめて頂きたいです。


さらに弟の実名の「大輔塾」と言う名称で運営されているFacebookの非公開グループの継続や、その中ででわちゃわちゃ投稿したりコメント等をする行為も、弟・大輔は全く望んではいません!
 

 
私は数名の実弟の知人に、これまでの経緯や今起きていることの断片(私が家族や弟の嫁から排除され続けて来たこと、弟の嫁が私に無断で母を火葬した事、等)を母の永眠の件に添えて手紙やメールで伝えましたが、今のところ全員が無視しています。
本来無視すべき内容ではないのに無視し続けると言う事は、そこに私への悪意や敵意が在ると言う確たる証拠です。
 
この件を私は心の中に仕舞っておくつもりで今日まで黙っていたのですが、それをする必要が無くなりました。
それよりも私は表現者として、静寂の音色の底に何を本当は封印して来たのか‥ についても、これまで私の身に起きたことをありのまま、ファンと共有する必要に迫られています。
 
但し、痛みや苦痛ばかりの文章の羅列は、読む方々をさらに苦しめる事にもなるかもしれません。
なのでこの「序文」以降は私の半生と苦痛と言う新しいカテゴリーを作り、そこにシリーズ化してこれまでの私の身に起きたことをありのままエッセイタッチで綴って行こうと思います。
  


このブログは今日まで主に音楽評論をベースに執筆を続けて来た経緯がありますが、それを止めずに新たなカテゴリーに私の半生と苦痛を加え、私自身に長年降り掛かっていた虐待や両親の私に対する過激な虐め・家族排除を含め、私の職歴や半生をそこに織り交ぜながらフィクションのように、ある意味他人事のように少しだけ俯瞰した視点で実話を綴ろうと思います。
 

思えば遠い過去、リラ星の巫女だった頃から魂は少しも休むことなく何度も何度も転生し続け、気が付いたらこのような私になっていました。
途中J.S.バッハや妓生「ファン・ジニ」、そしてジプシーとしてトランシルバニアに生まれ落ちたり或いは茶人「千利休」につかえる「くのいち」としての人生を経験したり‥、一つの魂が今日に至るまでには多々の過酷な変遷を経て来ました。
 
先程夕食の時間に、夫がこんな名言を言いました。

━ 強く深い怒りは悲しみをともなう。それは必ず祈りに昇華する。 ━

私は表現者として、今、心にある怒りを美しい表現に昇華させることを考えています。それを多くの人達とシェアする為には先ず、私が今心の中に燃え上がる怒りを書き記さなければなりません。
 
綺麗ごとではない、もっと生々しい私をここに書き記して行くことに決めました。
恐らくこれを、私を長年平然と排除し続けて来た親戚(二人の従妹)たちも見ていることでしょう。是非、私がこれまで経験して来た血の滲むような痛みとかなしみをご覧下さい。
それらを読んで、それでも私を家族から排除し暴力をふるい続けて来た両親の振舞いを肯定したり、私に心身への暴力の手を一切緩めようとしない両親を陰で滾々と支え続けた叔母を称賛する気持ちが変わらないならば、あなたがたは間違いなく悪魔の化身です。

さらには真実に気付きながらもそこからあえて目を伏せて、生前の両親や弟の虚言を肯定し続けている、私の親族・親戚以外の方々に於いても同様、同罪とみなします。

 
序文なのに長くなりましたが、以後はもっとライトなタッチで赤裸々に現実を書いて行きます。
私の音楽を愛して下さる方には、出来れば末永くお付き合い頂ければ幸いです。