Tomoharu Ushida vs Didier Merah – B Major 楽曲と表現の比較検証

ショパン国際ピアノコンクール 2025’、一次予選を通過した日本の演奏者の中で黒一点の牛田智大さんの一次予選の演奏を聴いてみる。
 

 
冒頭曲は私も大好きな『Nocturne in B major, Op. 62 No. 1』であり、さらに私/ディディエ・メラ (Didier Merah) が最も得意とするKey (調) でもある『H-dur (B Major)』の一曲だ。
大好きな曲だけにダンボの耳で演奏を聴き進めて行くが、‥どこか牛田の演奏の中に汗臭さと労働もしくは体育会系の気配がチラチラとするので、集中力が維持出来ない。
 
この曲自体がそこはかとなく西洋音楽以外に、中東~アラビックなモードが立ち込める構成になっており、その意味でもショパンの中では珍しく『モード音楽』の様相を呈しているのではないだろうか。
その肝心要のモードの部分 (動画 6:58~7:10付近) のパッセージがいとも簡単なスケールやアルペジオと言った解釈で、ただ、粒を揃えているだけのつまらない表現になっていて、個人的にはかなりの残念ポイントだと言わざるを得ない。

まぁこれはピアノ競技の審査会であるわけだから、表現よりもミスタッチの有無や演奏者の正確性の密度だったりスタミナだったり、言ってみれば表現解釈度外視でも運動性に依存した演奏解釈の方が審査員の印象が良いのかもしれない‥ としても、果たしてショパン本人がそれを目論んでこの楽曲を生み出したのかと言われると、巫女体質の私としては『多分違うと思いますよ。』と回答せざるを得ない。
 
 

 
2曲目『Etude in C major, Op. 10 No. 1』については特に述べることもなく、普通に音大生が演奏するレッスンのエチュードと言う以外に何のインパクトもなし。
 

次いで3曲目『Waltz in A flat major, Op. 42』に関しては、野球に例えれば『2アウト/2ストライク/3ボール』の見せ場を迎えている状況に近いだろう。
ショパン好きの私としては、ショパンと言えば『天上界の音楽を生み出し奏でた作曲家』だと言いたい。だが、牛田のこの表情はまさしくスポーツで言うところの『もう後がない』状態のそれであり、わざわざこの表情を抜き取ったTVのADさん‥ 『グッジョブ!!』と言いたい心境だ(笑)。

各パッセージは確かに正確で粒は揃っているが、表現に到達出来ていない。これだったらむしろ、自動演奏で十分だ。下手にヒトの顔が無い分、音楽に集中させてくれるに違いない🤖
 

 
さて4曲目『Barcarolle in F sharp major, Op. 60』、此方も私が大好きで得意とする『H-dur (B Major)』の曲で攻めて来る。途中何度か6度の和音のアルペジオの箇所が現れるが、その6度の最も官能的な響きを単純にスポーツ的な解釈であっさり通過して行きやがった牛田選手(笑)⚾

ほぼ全てのパッセージが『俺、ミスなく正確に弾いていますよ』とでも言わんばかりの、正真正銘のただの運動性依存の演奏に終始している。
確かに審査員にとっては遠目でも分かりやすいだろうが、これはショパンでも何でもない。
途中の転調 (19:31~付近) に至る最もショパンらしさが書かれている筈の箇所も、まるで階段を上り下りするリハビリみたいに通過して行く‥。
もうたまったものじゃ~ない。
 

ここで少しだけ動画を止めて、私/Didier Merahがショパンをオマージュして作って配信したアルバムEdenの冒頭曲、Happinessに移動して試聴してみる。
この作品も、私が大好きな『H-dur (B Major)』の楽曲だ。
 

 
先ずこの作品は ベーゼンドルファー (Bösendorfer) の音源を用いて、即興演奏の手法で演奏されている。
ベーゼンドルファーは残響に特徴があり、その特徴である残響の効果を存分に発揮させるには、楽曲のテンポをうんと落とす必要が絶対的に生じる。
私は実際に都内各所でベーゼンドルファーの生楽器を演奏しているが、それらのどの楽器もかなりのじゃじゃ馬気質を持っており、特に高速のパッセージの速度を間違うと残響が濁ってしまうのが悩みの種だった。
 

Happinessの作曲を開始する上で重要だったのは、『60歳のショパン、もしくはそれ以後の覚醒したショパン』をオーパーツとして再現することだった。
既に亡くなったフレデリック・ショパンの御霊と何度も交信を重ね、完成したのがこの作品であり、この曲は完全に一発録音の即興演奏で収録している。
 
ことさら比較するまでもないが、Didier Merah (ディディエ・メラ) のHappinessが「覚醒後のショパン」だとしたら、既存のショパンの楽曲は「未覚醒のショパン」と言い替えても良いだろう。
未覚醒のショパンをどんなに丹精込めて演奏したとしても、そもそも楽曲自体の熟成が為されていない以上それを極限の状態で誰が再演したとしても、『それなり』以上の出来栄えにならなくても致し方ないと言えそうだ。
 

クラシック音楽の起承転結は、私から言わせて頂ければ「不要」な箇所である。
覚醒した魂には普遍性がともない、ヒトが思うエモーションは徹底的に弾き飛ばされる。ショパンが目指していたのはその世界観であり、それゆえに「天上界の音色」を日夜彼は追い求め続けたと言える。
選手/ 牛田智大は日本国内では既にプロの演奏家として活動しており、多くのリスナーを抱え込んだ状態での今回のショパン国際ピアノコンクール 2025’へのエントリーである。勿論運営サイドも、既にファンを獲得しているこういった出場者には期待を寄せるだろうし、そこそこ演奏技術を兼ね備えていればある程度の点数を叩き出して行くと思われる。
 

クラシック音楽が芸術を踏み越えて「商品」になることは絶対にあってはならないと、私は考える。だが、多くの既存のクラシック音楽関係者等には、その観点がない。
いかに見栄え良く、いかに稼ぎいかに集客を達成し、いかに食って行けるか‥。その技能を持つ人材を、クラシック音楽関係者等は血眼になって探しているに違いない。
その観点で言えば、男性演奏者で尚且つ日本国内に多くのリスナーを抱え込んでいる (半分以上は事務所の采配) 牛田選手が、今後同コンクールで上位に食い込んで来る可能性は否定出来ないが、彼が表現者になることは未来永劫ないだろう‥ と、先に予言しておきたい。
 

 

最後に付け加えるならば、既存のクラシック音楽の、特にピアノ曲のミックスのエフェクトがからっからに乾いてしまっている点が残念だ。

レコーディングされた音源のエフェクトが乾き切った肌みたいにかさついているから、多くのクラシック音楽のリスナーは『やっぱり生演奏がいいよね。』と勘違いするのも頷けるが、これはミックスとマスタリングの技術と感性の致命的な欠落が原因だと思われる。
何故実際の会場に近い環境の、もっと深いエフェクトを掛けてミックスしないのかと、常々疑問に感じている。
その観点から、クラシック音楽の生演奏が突出して優れている訳ではない‥ と言う点は最後にお伝えして、この記事を締めくくりたいと思う。

Info. (固定記事用)

おすすめ

氏名: Didier Merah (ディディエ・メラ)
職業: 芸術家, 作曲家, 音楽評論家, 企業戦略アドバイザー、預言者, コンタクティー, テレパシスト 他。祈る人
音楽家/ 芸術家としてこの星の転生した、リラ星最後の巫女。

芸術家 Didier Merahとして活動。ネット配信を主軸とし、自作曲を多数配信。
自身のポリシーによりコンサートやライブ活動は一切行っていませんが、近い将来生演奏の機会が訪れるかもしれません。
数年以内に自作曲をまとめた楽譜を出版する予定あり。書き譜曲の出版も予定しています。
 

コンタクティーとしては主にプレアデス星人やグレイ星人達と、交流を深めています。コンタクトの過程で知り得た情報は非公開だが、文字の代わりに音楽で預言を多数残しています。
Spotify/ 各サブスク~YouTubeのアーティストチャンネルより、私の音楽を辿って下さい。

YouTube: https://www.youtube.com/@Didier-merahJp
Spotify: https://open.spotify.com/intl-ja/artist/6bOxfoX8SPLsgRYFAVRlbQ?si=g3fFX0ueRFC632SXBhh0Hw
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ディディエ・メラへのお仕事依頼は、info@didier-merah.jp 迄お寄せ下さい。
仕事内容はラジオ番組等の「選曲」を始め、音楽評論、コラムやライナーノートの執筆等多岐に渡ります。
尚、飲食店舗用のプレイリストの作成にも応じます。プレイリスト作成価格に関しましては、メンテナンス等を含み月額制とします。
各ご相談は上記メールアドレス迄お寄せ下さい。

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岩戸が開く時

直感に勝るものはない。特に私の場合はいつも、それを痛感する。

『建御雷神 (タケミカヅチ)』と知り合ったのは、前職で茨城県の海沿いのホテルのディナーショーでタンゴの伴奏を務めた時だった。
建御雷神が激しく、尚且つ少しハードボイルドな音楽を好まれるとは私もつゆ知らず、リハーサル中から鎧全体で地面を踏み鳴らすような音が会場全体に木魂した時は興奮したし、驚いた。あの日の歌手も霊感はないとは言え、流石に彼の足音には気が付いたらしく、ブルブル震えながらマイクを握りしめる手が汗ばんでいた。
 

古代の森の精霊等との共作として私は、『Ancient Forest』を配信している。丁度あれは3.11大地震の直前だった。
 


そしてこの作品が生まれる経緯については今日、正式にはここで初めて話すことだが、2015年1月30日にイスラーム過激派 ISILに殺害された後藤健二氏の御霊を思いながら作曲した曲が、『Vesper』だ。
この曲は私のアルバムWheel of Fortuneに収録されている。
 


他にも私は神々や死後の御霊等と交信しながら、多くの楽曲を生み出し、そして自ら演奏して配信して来た。
そんな大切な私の子供たちとも言える楽曲を、近々生のピアノで演奏する時が来るのを感じている‥。
 

私は大の人間嫌いだ。私が接近すると、皆壊れて行く。
彼らになくて私にだけあるものを皆、欲しがる。あいにく私は見た目が不美人なので、殆どの普通の人たちは私が「リラ星最後の巫女」だと言うことにも、私が持つ特異な人脈や人間関係のことを信じない。皆勝手に、そして頑固なまでに、私の見た目なりの低い評価を課して、ルックダウンに執着する。
 

だが少し話せば私が、他の人とは全く違う人間だと言うことを多くの場合感じるようだ。その途端、そこに居合わせた人の多くが壊れて行く。
なので私は前職を退いてから今日までの長い時間、人前で全く演奏しなくなった。だが、そんな引き籠りの私を外側に連れ出そうとしているのは、皮肉にもこれまで私の創作活動や人生そのものを支え、助けてくれた神々等だ。
 

私の生演奏が何をもたらし、どんな変化を起こして行くのか、神々は既に知っているらしい。

ならば、何を演奏すれば良いのか。しかもどんな場所で?‥
今は未だ何も分からない。なので大曲ではなく、コンパクトな楽曲を選んで、或いは大曲を少し小品に編曲し直しておかなければいけないと思い、この一週間でセトリを作る予定だ。
 

怪我 (ばね指が何度も再発して) で暫く練習を休まなければいけない期間が長引いたが、ようやくサポーターなしでもトレーニングが出来る状態に体も整って来た。
だが如何せん、数年前と比べると感性がかなり変化している。そもそもテンポの速い楽曲は得意ではなかったが、さらに減速の度合いが増している。

だが、それが今の私。よく言う「巨匠の速度」だと自分自身に言い聞かせながら暫し、生演奏のその時の為に楽曲を温めて行きたいと考えている。
 

破壊芸術としての現代音楽への考察

日々、なるべく美しい音楽だけを吸収するよう努めているので、今回久々に破壊芸術とも言うべき汚染された音楽を耳にし、胃の痛む数時間を過ごしている次第である。

現代音楽 ‥

何と汚い音楽だろうか。

事の発端はと言えば、第72回「尾高賞」に作曲家の権代敦彦の作品が選ばれたと言うニュースを小耳に挟んだことが切っ掛けだった。
権代氏は私の一つ下の学年であり、彼の音楽も人柄も実は知り尽くしている。人間的にはとても温厚で上品であるが、その時代から権代氏の音楽は無秩序で破壊的であり、数十年を経てもそれは変わることなく健在だと言う点が個人的にはとても残念だ。
 

 
そもそも現代音楽とは何か‥。
思うにこれは様式美を離脱した無秩序かつ破壊的な楽曲スタイルを総称する名詞であり、とてもじゃないが食事中は勿論接待の席にもおいそれと聴くことなど出来ない。

実際に私も何十~百曲近くはこの現代音楽と言う手法の音楽を書いており、その数曲は実際に初演もされている。
学生時代にはピアノ科に籍を置きながら私は、実際には毎日音楽コンクールの「作曲部門」に何度もエントリーしたものだった。恩師は三善晃氏だったので必然的に調性音楽の作曲は敬遠され、仕方なく現代音楽の手法でかなりの数の作曲に携わったが、大学卒業後に私は自身が書いた全ての現代音楽手法の楽曲を廃棄処分した。
 

当時の話を始めたら終わりが見えなくなる程ネタは尽きないが、今になってざっくり振り返ってみても現代音楽界隈からは一つも名曲が生まれていないことには、何の疑問も感じない。
あえて名曲を挙げるとするならば、ジョン・ケージが作曲した「4’33”」ぐらいだろうか‥。
 

 
確かにこれは名曲だ。なぜならば4分33秒間無音だからである(笑)。
 

話を権代敦彦氏に戻すが、折角なので権代氏の作品を幾つか聴いてみた。‥だが、偶然私が耳にした全ての楽曲が悲観的で暴力的で尚且つ様式美不在の破壊性以外の何も感じない。
そもそも様式美を完全に蔑視する現在の現代音楽と言う防空壕はむしろ、多くの作曲家の不勉強と才能の無さを余りに擁護し過ぎたのではないだろうか。

調性音楽が書けない人に、その先の音楽が書ける筈がない。私が桐朋音楽大学に在籍していた時代から脈々と続く調性音楽蔑視の念はもはや、呪いと化しているように見える。
書けないことへのコンプレックスを大いに抱え込んだ作曲家もどきが卵一つ生み出せない現実から、命からがら逃げ込む為の現代音楽業界と言う防空壕そのものが防空壕として機能していないのだから、そこから生まれ出て来る人材に作曲スキルの機能不全が起きても不思議はあるまい。
 

 
リラ星最後の巫女の視点で申し上げるならば、早ければ百年後には現代音楽は消えてなくなっているだろう。
まして地球外生命体がその頃地球に入植して来た場合には、ビートルズでもマドンナでもマイケル・ジャクソンでもない、かと言って癒し系と言う偽善音楽とも異なる、美しい空気のように穏やかで鼓膜を叩き割ることのない、静寂と音楽の中間の調和の取れた美しい調性音楽を愛するだろう。
 

 
調性音楽は出尽くした‥
等と言う作曲家の卵たちは既に1980年代には大勢私の周囲を取り囲んでいた。その要因として挙げられるものがあるとすれば、JOC ことヤマハ・ジュニアオリジナル・コンサートの台頭だったと思われる。
JOCには私も参加し、当時順位の付け替え騒動でかなり騒ぎになったことについては、同じ回のJOCにエントリーした参加者であれば誰もが知るところだ。
 
確かにあのイベントは後の偽善的とも思える癒し系ミュージックの悪しき土台となったと私も思うが、JOCが世に台東し一世を風靡したことで「調性音楽が出尽くした」とは私は思わない。
それは何年、何十年~と富士山を見ていても富士山見物が終わらないことと同様で、自然はその星が滅びない限り永遠に終わらない。
調性音楽をあえて言うならば、「終わらない音楽」だと私は思っている。
 

だが現代音楽は破壊音を用いなければ開始することも不可能であり、そんなものを地球外生命体が愛好するわけがない。権威至上主義の音楽業界は、早く消えてなくなるべきだ。
 

大気が薄く、視界も曖昧な星に静かに鳴り響く音楽の存在を既に、私は知っている。地球上が一刻も早く静寂の音色に深く包まれることを、切に祈り続けたい。
 


週末の度に私は‥

3月半ばから長期的な風邪に見舞われており、5月に入った現在も未だ微熱が引かない。そんな体調の中でもブログを更新したい日もあるので、最近は時々スマホからSNSサイズの記事を投稿することが増えているが、この記事はPCから書いている。
 

毎週末に音楽の各サブスクリプション上で更新される新曲を欠かさず聴き、チェックし、良曲だけをSpotifyに作成したプレイリストにスクラップしている。
自身が音楽家であり作曲もするのになぜ他の人の音楽にここまで夢中になるのか‥ と時折抗議のDMも頂くが、私にとって今の地上の良曲をコレクションすることは「祈り」の一環である。自分の作品だけを宣伝したり販売している音楽家は大勢居るが、仲間でも同業者でもない第三者とも言うべき他の音楽家の作品をここまで数多く紹介している芸術家は稀だ。

サブブログディディエメラの音楽倉庫にも綴ったように、今週末は良曲が酷く少ない週だった。

今や多くの音楽家が職業として音楽をやっており、食べる目的で新作をリリースしているようにも見える。納期に間に合わせなければならないのに、聞くところによると各々のミュージシャンは手持ちのストックが少ないとの話もちらほら‥。
世の中の流れが速すぎるのだ。あくせくと働いてただ、ひたすら稼ぐ。音楽家になろうと思い立った最初の自分にもはや戻ることすら出来なくなってしまったミュージシャンも、きっと大勢居ることだろう。
 


クラシック音楽は既に、予定されていた音楽の歴史から脱輪した。
ロマン派の時代は戦争によって破滅し、その後に近現代音楽の歴史が始まった。そうなると地上で最も美しかったロマン派の音楽は過去の産物となり、2025年の今でも現代音楽の時代が細々と続いているようだ。
音楽界は現在二分しており、「クラシック音楽現代音楽」と言う構図になっている。それぞれの音楽には欠陥があり、多くのクラシック音楽の中にはその時代の空気が丸ごと封印されている為、クラシック音楽を好きになれないリスナーもまだまだ多い。
一方で現代音楽は理論体系自体が崩壊しており、各作曲家の衝動とその場の思い付きと「奇をてらう」精神で作曲されている為、映画音楽等の特定のシーンに音楽を当てる以外の使い道が存在しない。勿論現代音楽を食事中に聴くことも不可能だから、普及する筈もない。
 

私 (Didier Merah) は上記のどちらでもない音楽を生み出している。
戦争や時代の事情で破滅した、この世で最も美しいロマン派のエレメントを継承しており、私の多くの楽曲は、どの時代にも存在し得ないオーパーツをふんだんに内包している。
 


最近早朝に目が覚めることが増えている。気が向くとSNS (Xのサブアカウント, Threads等) に文字を書き込んで放ったりする、そのついでにここに来て、Threadsから投稿した記事をリライトして短文投稿することもあり、そのちょっとした時間が私にとっては癒しの一つになりつつある。
 
今朝は悪夢で目が覚めた。悪夢が多いのもきっと長引く微熱の影響だと思うけど、この連休中はあの世からの来訪者も多い。
実母は現自宅からそう遠くない合祀墓に眠っているが、母は私を酷く嫌い、殺意さえ持っていただろうと見られる多くのメモが母の死後、遺品整理の際実家から見つかっている。
 
今日は起き抜けに頭痛もあった。だがいつもの頭痛とは質が違っていて、今朝の頭痛は頭部の右側と右目の上辺りに痛みが集中していた。丁度母が、私の幼少期から大人になるまで日夜殴っていた箇所と重なっており、母の念が近くを徘徊しているのを感じた。
私は日々当たり前のように母の暴力を受け入れて、思春期を生き延びて来た。彼女は毎日何かと理由をつけては私の右側から彼女自身の利き手を使って殴りかかり、私の顔や体は常に痣だらけだったが誰も助けてはくれなかった。
 

30代で渡米した後に脳に詳しい医者に出会い、医師の診断を仰いだことがあった。それによると現在私を悩ませている乱視の要因の一つが、母の暴力だった可能性が浮上した。
悪いのは目ではなく、脳に障害があるのでは‥ と言うのが彼の見立てだった。それは年々後遺症として体に現れる可能性はあるが、改善する見込みはないとの話。
還暦になった私は、マンションや駅の階段さえも手すりにつかまらなければ歩くことが出来ない。遠近感がおかしい。既に30年も前にそのことは医者に忠告されていたので、今はそんな体調とも向き合いながら何とか生活をやり繰りしているが‥。
 


現在私たち夫婦は富士山の見える場所への移住 (正確には東京と別宅の二拠点生活になるが‥) を予定しており、その為の人脈作りと住宅探しを開始した。‥その途端に微熱の引かない風邪に見舞われたわけだが、それもこれも「圧」だと認識し、体に過剰な負担を掛けないような生活サイクルの中で出来ることを出来るだけ消化するよう努めている。
 

何度も書いているが、私はリラ星最後の巫女だった。リラ星が自爆したことを知る人は、多分私以外には存在しない。これは記憶を持っている人でもその記憶に触れることが難しく、私もその記憶を10年前頃に復活させたばかりだ。
その後色んな「人」として私は地上に転生を繰り返し、現在に至る。
 

数時間かなりの分量の音楽を聴いたり整理したり‥ 色々やっていたので、もっと文字を書きたい気持ちは山々だが体力的には限界だ。
更新したプレイリストは冒頭のサブブログのリンクからも辿れるので、この記事の最後は自分の音楽で締めくくる。活動初期に古い楽器で演奏しているので音質には若干問題はあるが、この作品は私自身の葬儀を棺の中から見上げている時の風景を音楽にした一曲だ。
 

黒い闇 (The dark fog that shrouds music culture)

ブログの更新は滞ってはいたが私自身の活動は順調で、自身の創作活動の下準備を始めとする毎週末の『世界の音楽』の新譜チェックはコンスタントに進めていた。
現在、その様子は毎週末に一斉に更新している新しいブログディディエ・メラの音楽倉庫に収めている。
 
余り良いニュースではないが先月中旬、(恐らくKポ絡みの事情と思われるが‥) Xの私のメインアカウントがいきなり凍結された。それまでXのメインで進めて来た『世界の音楽』、新譜チェック ⇨ 音楽評論メモが出来ない状況に陥ったが私は転んでもただでは起きない(笑)。
直ぐに音楽紹介/ 音楽評論を発信する新しいブログで仕切り直しを図り、そのブログを一望するだけで私の脳内の音楽倉庫の厚みがよく分かるだろう。
 

https://didiermerahbox.wordpress.com/
 
ここ最近の世界の新譜を一望しながら、あらためて気付いたことがある。

それは地球の人口が過剰に増えすぎたことだ。

これは音楽文化の衰退とも関連付けて考えなければいけないことだし、もっと別の側面を挙げるとしたら人と人との出会いやコミュニケーションの質の劣化とも深く関わっているかもしれない。
 

先週、タイの若手女性シンガーソングライター “Millie Snow” の新譜『You are the star (Japanese Ver.) (君は星)』を聴いた時にも痛感したが、今地球上には人で溢れ返るほど人口が増え過ぎたことの影響で、本来出会うべき人同士が互いを見失ったまますれ違ってしまう現象があちらこちらで起きているように思う。
余程神経を研ぎ澄まさなければソウルメイトの気配に気付けない状況になっており、かと言って人間の感性の芯はそう長期的に研ぎ澄ませ続けることも難しい。
 


その時の思い付きや直感を脳や記憶に鮮明に保管しておくには技術 (スキル) が絶対的に必要であり、日々の労働のルーティーンに押し潰されながらそのスキルを磨き込むことは、思った以上に難しい。
 

思うに一種類の生き物、生物、生命体が過剰繁殖することと、その種が暴徒化/ 狂暴化することとは無関係ではないだろう。これはものの例えではあるが、スズメバチも女王バチ単体ではただの一匹の蜂に過ぎない。だが、仲間を増やし徒党を組んだ状態で一個の仮想敵或いは外敵を定めた段階でそもそもの性質を逸脱し、狂暴になり、仮想敵に攻撃を仕掛ける別の集団に変質する。
特に狂暴の想念は温厚なそれとは異なり、仲間を募って狂暴の先にあるネガティブな目的を持った時に異様なエネルギーを放ち、同種でそのエネルギーを共有し、目的の達成を悲願として目論む歪んだ性質やマインドが暴走する。
人類が今、その状態に変質を遂げる寸前に来たのではないかと、私はシュールな存在からもその旨に於ける警告を受け取っている。
 

一見全く関係のない作業のように見えるかもしれないが、最近の私の『世界の音楽』の毎週末の新譜評論は、上記にも触れた地球上の異変とも深く関連している。
溢れかえる人々、溢れかえる音楽、溢れかえる物質や様々な現象の中で誰かが大きな代償を背負い正解を唱えなければいけない。
余りに物が溢れかえってしまったことで、正しい答えを探そうとしている一部の人々は自力で正解に辿り着けなくなってしまった‥。私にはそんな風に見えて仕方がない。
 

 
その時々の世界中の音楽を聴いて、それらを集めてプレイリストを作って世に放つ。
文字に書くとそれを「自分の好きな世界観を他人に押し付けたいだけでしょ?」と歪んだ解釈に走る人たちが必ず現れるが、別にそう思われても私は一向に構わない。

どこぞの国で私の真似をしてプレイリストを必死に作ってSNSに放っている某著名人の噂も漏れ伝わって来るが、私と彼らの違いは音楽の発信者であるか否かと言う点だ。
多くの音楽家は自分の宣伝だけを行い、仕事で絡まない限り他者の作品を称賛することもなければ評論もしない。
「精査をする」ことで自身の評判を貶めたくはないだろうし、むしろ精査を加えず無暗に (手放しで) 相手の作品を褒めたふりをしながら、その動作を自身の高評価に転じることだけを必死で考えている。
 

或る人物に質問された。『あなたはなぜ、他の人の作品をピックアップして論評し、それをコレクションしたチャンネルをSNSやブログで紹介しているのですか?』と。
理由を正確に伝えるには、多くの人たちが私のことを余りにも知らなさすぎるし、理解しようとも思わなさ過ぎる。
一行の質問に数分で回答出来るほど、私の人生は薄くない。
一つはっきりしていることは、私が一連の作業を「神々との密約」の元に継続していることだ。
今話せるのは、一先ずここまでだ。
 

音楽文化が明らかに衰退を始めた。

私はその現象をことさら止めたいとは思っていない。なぜならば今、この地球上には「どうでもいいもの」や「要らないもの」が溢れかえってしまったからだ。
特に、商品としての音楽が多すぎる。地上の商業音楽は、いつか一掃しなければいけなくなるだろう。それを流れ行く時間に託すかマンパワーに託すか、或いはその両輪で音楽文化の一掃を試みるか。
答えは神のみぞ、知る。
 

私は予言者であるが、どちらかと言うと「預言者」と呼ぶ方が相応しい。
人々はそれをシャーマンと言ったり霊能者等と例えてみたりもするようだが、どの単語にも私は当てはまらない。
ただ「私」と言う霊体が肉体を纏って数十年間の生をまっとうし、その生命が終わっても又私はここに戻って来るだろう。それもこれも全て、神々との密約なのだから。
 

 
関連記事:

尖がって生きる (例えばDJ. Hiroko Yamamuraのように)

DJ. Hiroko Yamamura

2025年1月18日 早朝。私のメインのXのアカウントがいきなり制御不能になりました。アカウント復活を祈る思いで何度か異議申し立てをしていますが、おそらく今後の復活は厳しいかもしれません。
アカウント凍結の当初の理由は『偽装行為によりAIが自動的にアカウントを凍結した』と言うものでしたが、全く身に覚えがありません。その後Topページの表示が変わり、『厳正な審査の結果‥ 云々』と言うメッセージに変化。

正直少し凹んだことは事実でしたが、その後私が『隣国の或る団体』の標的にされていた (私のアカウントを通報するよう呼び掛けていた) 事等を知り、私のような尖がった人間はSNSの枠を必然的にはみ出してしまうのだと気付かされました。
 

普段はとても穏やかな音楽を生み出している私 Didier Merah (ディディエ・メラ) ですが、外装と内面はかなり異なります。
それもそのはず、そもそもがリラ星最後の巫女 (シャーマンとも言う) だったわけですから、普通である筈がありません。その記憶と複数の転生の経験の蓄積を現世に持ち越していれば、一般的な『普通の人』のそれと私の『普通』の概念に差があっても致し方ないでしょう。
 

実はひっそりと、世界の音楽のデータベースのようなブログを立ち上げました。
題してディディエ・メラの音楽倉庫
 

 
世界中の音楽をここ一カ所に集めて行く為の、いわば音楽のAmazonのようなルームです。
Xのアカウント凍結が切っ掛けでそれまでXで行っていた『世界の音楽』の新譜紹介が出来なくなったので、‥だったら人と関わらなくても済む自由空間をweb上に立ち上げようと思い立ち、現在音楽を粛々と集めている最中です。
 

 
さて話をDJ. Hiroko Yamamura に戻して。
現在以下のトラックをリスニング中🎧
 


上の動画はDJ会場の記録とは違うみたいですが、選曲を聴くとDJ名がなくてもHiroko Yamamuraのセレクトだと分かります。
いわゆるテクノ、或いはアッパーテクノと呼ばれる楽曲が静かにグラデーションしながら繋がって行く構成ですが、これが意外に私の癒しになっています。
 
私自身が生み出す音楽とはまさに180度違う経路のジャンルですが、それが良い。展開が読めないところがツボで、Hiroko Yamamuraの脳内を旅しているような一種のトランス感覚が心地好いのですよ。

Hiroko氏の選曲は一見ガツガツに攻めているように見えますが、実は手堅さも感じ取れます。楽曲のつなぎ目にクセがあり、一旦低音を抜きながら次の曲へ、次の曲へと楽曲が移って行くあたり、めちゃめちゃ好きです。
でも全体を繋ぐと「かなり攻めた作り」になっていて、それが一定時間のリスニングを超えたところでほぼ音楽から環境自体に定着して行く辺りは、まさにHirokoマジックと言っても過言ではないです。
 

真に尖がって生きている人って、実は手堅く足元を固めているものです。だからちょっとやそっとじゃ崩れ落ちない。
確かにメンタルの落ち込みが激しい日もありますが、それは単純に「にわか雨」みたいなものだと分かっているから、兎に角やり過ごす方法を心得ている。
私もそういう生き方を突き進んで行きたいと、最近思っています。
 

いい人、優しい人はこの際返上します。


あなた方の前に居る私は、もはや昔とは別人だと思って下さい。黒は黒、白には引っくり返さない。黒は黒と言い、闇を暴いて生きて行く所存です。
但しモラルや法の観点も捨てません。その上で、言葉や思考の刃物の先端をさらに磨き込んで行きたいと思います⚔️
 

 

関連記事:

[インフォメーション 2. ] 2Blog 統合 – 一部修正


上記のブログにてX凍結後のメインSNSについて書きましたが、一部修正があります。
 

今後の主なSNSの拠点を ①Bluesky ②Threads ③Facebook (個人アカウント) と表記していましたが、よくよく考えてみたところ特に ③Facebook はあくまで個人的な連絡用に使っており、氏名表記が実名になっている為、メインのSNSとしては使用しないよう事務所より通達がありました。
 
①Bluesky に於きましてはサイトが現在かなり不安定で、スマホ/ PC共にタイムラインが読み込めない時間が断続的に起こり、流石にアカウントの設置をお薦めすることが出来かねる状況です。
②Threads に関しては主に写真や映像、或いは店舗営業関係者が使いやすい仕様となっている為、此方も積極的な利用は推奨しかねる状態です(笑)。

どのSNSに於いても「帯に短し襷に長し」の状況で、私自身もかなり困惑しています。
 

今後Xのメインアカウントが凍結を解除されたとしても、人間嫌いの私にとっては余り居心地の良さと将来性を感じなくなっているのが心情で、現在はXのサブアカウントをあくまで「つぶやき」として運行しています。
此方は先に凍結されたメインアカウントと同様の使い方は出来ない為、以前のようなシュールなつぶやきは今後永久的に出来ないことになる見通しです。
 

現在一つアイディアがあるとすれば、音楽評論雑記の部分を現ディディエ・メラの音楽評論(ブログタイトルを後日変更の予定) の中で継続することでしょうか‥。
日常的なつぶやきはサブアカウント内で時たま‥ と言うスタンスに移行する予定です。
 

ディディエ・メラの音楽評論のドメインの変更が未だ完了していないのですが、此方も少々お時間を頂戴出来れば幸いです。
なるべく近い将来、ドメインを変更する予定で現在準備を進めております。
 

又カテゴリー03. 音楽評論 / 音楽紹介にもかなり記事が集まって来ました。
ディディエ・メラの音楽評論からPVの多かった記事を抜粋して、当ブログに移動しています。上記ブログに雑記帳の体 (てい) で綴った記事は、もしかするとそのまま移動しない状態で此方には移動せず、ディディエ・メラの音楽評論上に残しておくかもしれません。
 

両ブログが今後、Didier Merahのメインスタジアムになる予定ですので、これまでのSNSでちまちまつぶやくことはかなり少なくなるでしょう。
その上で、もう少しだけ各SNS (Facebookを除く) の状況を鑑みつつアカウントを温存し、たまに生存確認がてらつぶやきを投げ込むかもしれません。
 

[インフォメーション] 2Blog 統合 – Spiritual to 音楽評論

これまでスピリチュアルと音楽評論とをブログを分けて書いて来ましたが、色々思うところがあり、この度全ての活動を当ブログに統合する運びとなりました。
 
昨年まで別ブログ『ディディエ・メラの音楽評論』で綴って来た主な記事を抜粋し、現在順次当ブログに移動している最中です。
各記事は当ブログ『Didier Merah Blog』上より、カテゴリー『03. 音楽評論 / 音楽紹介から読むことが出来ます。
又、探している音楽記事等があれば、ブログ最上部、右先端の虫メガネマーク 🔎 ⇦ にワードを書き込むことで、該当記事を探すことも可能です。

リラ星最後の巫女が予言として発信する音楽評論と言う視点も、さらに新しい評論の試みだと思います。この機会に是非、購読して頂ければ幸いです。

以下に主な記事、人気のある記事のリンクを貼っておきます。
 

 

 

 

 

 

 

 

追記:
2025年1月17日、早朝より “X” のメインアカウントがいきなり凍結された為、現在SNSの発信拠点を一時的に移動しています。事態が好転する迄の期間メインのSNSを変更し、臨時でSNSを増設しています。
Facebook上からの発信も一時的に再開していますので、以下にそちらのリンクも貼っておきます。

文字をタップすると、各SNSのDidier Merahのページに移動出来ます。

 

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毎週末にSpotifyより発信している『世界の音楽』の新譜 プレイリストも合わせて、お気に入りにご登録頂けたら幸いです。
今後ともディディエ・メラをよろしくお願いいたします。
 

神々と共に見つめ続ける (I continue to look at the world with the gods)

幸せとは、何も起きない世界であり続ける事だと私は思っている。だがその思いとは逆に、世界は良くない方向へ転がり続けているように見える。
私の2024年は、色々な意味で激変だった。だが私はその事を殆ど口外しなかった。私が向く方向には必ず、良くも悪くも光が当たる。その光を向けられた人たちは殆どの場合、自分を見失う。だから私はひっそりと世界を静観し続けるしか、他に方法を思いつかなかった。

音楽の世界も大きく揺れ動いた。それは私が (ほぼ直感に従って) ある場所に架けていた梯子を外した途端に始まり、現在も続いている。

今年は相方、天野玄斎神代開き(かみよびらき)を執り行った辺り (2023年11月10日) から私たちを取り巻く状況が大きく変わり、突発的な敵意や憎悪が物理的な現象「圧」となり何度も身体やメンタルに異変を来たす現象が絶えなかった。
その度に相方がヒーリングで対応してくれたことで、今日まで無事で来られたと言っても過言ではない。本記事中ではその状況の詳細の記述は省略するが、ある時期から私は心身をミュートし始めたのか、今年後半はとても眠い日が多かったように思う。心身をミュートすることで若干ではあるが感覚を麻痺させることが出来るので、見なくて済むものをなるべく見ないようにしているのかもしれない。
 


2024年12月初旬、実に14年ぶりに私たち夫婦は大洗に二泊三日の旅に出た。神・武甕槌神 (タケミカヅチ) が愛した場所をもう一度、この目で確かめたかった。
思えば私と夫を引き合わせて下さったのも、そして以前住んでいた時の住居に私たち夫婦をそっと逃がして下さったのも武甕槌神だった。

(まるで夜逃げみたいにして私たち夫婦が引っ越しをしたのは、当時私のアンチと思われる人物に私たちが住んでいた住所を突き止められ、それをとあるSNSに航空写真で晒されたからだった。あの時、武甕槌神の伝言に従って私たちはかなり強引で無理のある転居に踏み切った経緯がある。)


最初に私が武甕槌神と出会ったのは私がタンゴ歌手の伴奏で茨城県を訪れた時だったが、当時の私はその人 (神) が武甕槌神だとは気付かなかった。後に夫と色々話して行く中で徐々に感覚が鮮明になって行き、いつも傍に居て見守っていてくれた存在がその神だと言うことに気が付いた。

2011年3月11日の半年前の2010年8月に初めて大洗を訪ねた時には、その半年後に起きるかもしれない大地震の断片を私に見せてくれた。その時の感覚を私は音楽に残している。
 

 
2010年8月から半年後の3月の大震災以降、暫くの間私は海を遠ざけていた。どうにも海底で起きている霊的な映像が日夜私を苛み、ただ‥ 被災者の御霊に祈りを捧げることしか出来なかった。
二度と海に行くことはないだろう‥ と、相方が神代開きを執り行うまではそう思っていた。そんな私の心境が、ある時から変わった。

2024年12月、大洗に行く途中で鹿島神宮に立ち寄り、武甕槌神と神人共食を試みた。湧き水を使用したお料理はとても清らかな味がして、私をさらに覚醒させてくれた。
だが覚醒は良いことばかりではなく、少しだけ未来が視える私にとってはその折々で見えたことが心身に支障を来たすこともある。

悲しい時間が増えて、それを上手く言葉に出来なくて苦しいことが多くなった。相方にそれを吐き出したくても、きっと彼も似たような心情にあるのではないかと思うと、おいそれと自分勝手に自身の感情ばかりを言葉に乗せることにも躊躇いが生じた。
だけど何故か、病むほどに自分を見失うことはなかった。それは私が「リラ星最後の巫女だ」と言う自覚と自負が、きっとそうさせている。
弱いからこそ強くなり、強いからこそ弱点はさらに脆さを増して行く。その揺り返しを繰り返しながら、霊体が少しずつ鍛えられて行くのを最近感じている。
 

 
我が家にはもうお一方、神が棲んでおられる。名前こそ出せないが、私たち夫婦はその神にも大いに助けられている。今風に言えば「少し口の悪い」神様ではあるが、心根はとても優しい。「少し口の悪い」‥ と言う辺りが自分に似ているので、神を悪く言うことも思うことも出来ないと思っているが‥。

私は神を通じて世界を見るし、神は私や相方を通じて食べ物の味を堪能する。
神人共食とは生きた人間が神に味覚を提供し、共に料理を味わう所作を言う。私たち夫婦は殆ど毎日、神々と神人共食を続けている。そうすることで私の味覚が覚醒し、覚醒した味覚はさらに細かく料理を味わい尽くし、その感覚を神々と共有することで神々を喜ばせることが出来る。

世界が向かう先を、既に私たちは神々から聞いて知っている。それは地上の神々に限らず、宇宙に存在する宇宙自然神ともシンクロする時があり、小さな人間に過ぎない私の感覚が際限なく覚醒して行くところに私は、奇跡とロマンすら感じてやまない。
 

今年は色々な場所に旅行に出掛けたが、暫く私たち夫婦の「旅」は続きそうだ。同様に「祈り」の時間も止まることはないだろう。
世界の混乱が少しでも鎮まることを、ただ、願うばかりだ。