還暦 (60 ans), 私と『Mother』

2024年11月3日、私は還暦を迎えた。単語に書いてしまえば何とも呆気ない二文字だが、とても孤独でエキセントリックで、尚且つ少し苛々するような不思議な感覚を覚えている。
誕生日付近に旅行を計画し某所に向かったが、案の定私の雨オンナパワーが炸裂した。三泊四日の旅に出たものの中二日目で滝のような大雨に見舞われ、室内で滝の音を聴きながら過ごすことと相成ったが、私たち夫婦はそれでも一向に構わなかった。
 
滝のような雨音は音楽だった。自然音と言う最高の恵みに鼓膜はむしろ癒され、少し疲れた心身を温泉に浸して空を見上げるだけの何ってことのない時間はただただ至福のひと時だった。
 

50代最後の年、私は神々に多くのミッションを授かることとなった。元・人の神も在ればそうではない、宇宙自然神のような存在も在る。各々の神々が私に少しだけハードルの高い課題を提示して来たが、それが私の得意分野ならばただ続けて行けば良いだけだ。
リラ星の頃から、自然神と音楽は私の最高の友だった。今でもそれは何一つ変わらないのだから、後は私の魂や霊体にその旨を余すところなく刻印し、私の死後に神々にそれを手渡すだけだ。
 
気付けばブログも前回の更新から三か月近くが経過した。幸いなことに私がここを留守にしている間にも沢山の来訪者があり、何かしらの記事を捲って読んでいる。それが好意か悪意かなんてことはこの際どうでもいいことだ。
私の部屋を訪ねて来た人たちには各々それなりの理由や動機がある。ただそれだけのことだから。
 

 
ブログの更新が空いてしまった唯一の理由を挙げるとしたら、私に話せることに制約が増えてしまったことだろう。
人や神々との繋がり全てに於いて、私はMAXレベルの秘密主義者だ。それもこれも仕方のないことで、かつてジャンヌダルクとして生きた時代を含め記憶にある中で私は二度、火炙りで死んでいる。もう火炙りは懲り懲りだ(笑)。
ダークサイドは私の食、財布、生命導線のありとあらゆるところを狙って突いて来るから、私は多くを隠して行動しなければならない。幸いなことに夫が召喚してくれた心優しきガーディアンズたちも頑張ってくれるので、こうして何とか無事に還暦を迎えることが出来た。
 
心優しき夫にも、ただただ感謝の一念しかない。
 

書きたいことが山のようにあるにはあるが、いざ書き始めたらおそらく一冊分の本になるだろう。それだけ私のこの10年は余りに濃厚だった。だからと言って「濃厚だ、濃厚だ」と言えばただの安っぽい嫌味みたくなり兼ねないので、無数の思いを霊体に封印した。
 

人として色々な心配事も絶えないが、その内容さえもここには書けないのがもどかしい。相手もあることが大半なので、これも又致し方ないと諦める。
 

 
音楽のみならずスピリチュアルなことその他に於いては、実は随時追跡や調査を続けている。
声高に「不思議だ不思議だ」と言われることの大半が、私にとっては然程不思議でも何でもない実に他愛のない出来事だったりする。
 

いずれ地球の半分以上が廃墟となること。
いずれヨーロッパの大地の一部が水没したり、人が消えていなくなったりすること。
いずれ地球の公式言語の一つが日本語になること。
霊質文明の最初の樹立が地球時間で数百年後に控えていること。

 
知っていることは他にも多々あるが、現在の「有名人にしか関心を寄せない考えの人々が主流」の地球上で預言の全貌を明かすには未だ早過ぎる。
リラ星の時代から23万年以上が経過したが、地球もプレアデス星も或いは双方の関係性も余り変わっていない。リラ星人とて一枚岩ではないわけだから、善人と悪人の両方が混然一体と共存する。当然虚偽もまん延して行くが、私一人の預言の力でそれを止めることなど出来ないし、止める必要もなさそうだ。
その前に地球が一度空っぽになるから。
 

空っぽの世界に残り続ける残響のような音楽を、私はどの世界に在ってもせっせと放ち続けて行くのみだ。その目的の為に私は日々神々や自然神、精霊たちと対話を続けており、その過程で地球や宇宙の未来の一部をそっと覗かせて頂き、それを預言として音楽の中に封印して解き放っている。
人の為の音楽ではなく、もっとそれ以外の目的を持つ音楽だから、人々の琴線に刺さらなくても余り心配はしていない。それより何より私は、自身の中の『Mother (マザー)』の存在を今は大切にしたいと思って生きている。
 

職歴追加 (企業戦略アドバイザー)

今日はインフォメーションが2件あります。

①音楽評論家として表示して来た「遠矢美樹」を、アーティストネーム「Didier Merah (ディディエ・メラ)」に統一します。

②これまで好意で行っていた企業戦略のアドバイスを、職業として再スタートしました。

この2年間、本当に色々な仕事に携わって来ました。最初は好意で始めたことであったり、各業界に対する危機意識で始めたことであったり‥、色々な思いが複雑に絡んで行く過程で私の仕事の形態も多くの変遷を経て行く形となりました。
吉と出ることがある一方で、凶と出ることも多々ありました。その度に私も疲弊し、最近は仕事の一部が痛み分けのような状況で裏目に出ることが増えていました。
 
反省すべき点があることを強く認識する一方で、今後は思いだとか好意で行動することは極力セーヴする方向で気持ちが固まりました。
唯一無二のアイディアや企業戦略の伝授の部分を有料化することで、痛み分けのような状況が少しで回避出来れば良いと願っています。
 
音楽評論家 “ディディエ・メラ” としての再スタートについても、リラ星最後の巫女が現世に於いて何を為すのか‥と言う動機や変遷と同期させるところに、私の存在意義があるのではないかと考えるようになりました。

変化し続ける身辺の状況に臆することなく、これからはさらに、さらに尖がりながら邁進して行きたいと思います。
 

嘘と誠

暫く当ブログの更新が出来ませんでした。
理由の一つには音楽評論活動と創作活動、及びスピリチュアルな活動全般の活動ペース配分の見直し等、諸々の再編に時間を要していること。もう一つの理由として、霊的な圧が異常に活発になるこの時期の体調不良 (圧除去等を含む) が挙げられます。

今年は旅の予定を複数入れていますが、それもこれも長引くコロナ禍の合間を縫って継続しており、都度都度霊的な『圧』に見舞われ体調を壊しながら何とかこなしています。
宇宙評議会 “Norg” に於いては諸般の事情で、現在は休止中です。とは言え、各惑星の各々のメンバーの活動スタンスの見直し等が随時行われているので、会議自体は休止中とは言え通信は継続しています。
 

方々の宇宙情報の状況等、目を離せないことも多々ありますが、正直なところ99.7%が虚偽にまみれているのが現状です。
個々の虚偽を羅列することは可能ですがそれですと私が虚偽発信者の側に光をあてることになりかねないので、この記事にその旨を記載することは控えます。
長く私のブログを読まれている方であれば、私の言わんとすることを既に察知していると思います。
 
現実的には何も起きていない状況下で、例えばわくわくすることが起きるだとか、ネガティブで宇宙規模の出来事が近未来に起こるだとか、そのような情報を目にしたり耳にした場合には、都度都度疑ってかかった方が賢明です。
特に宇宙情報関連のわくわく系情報の大半がまやかしであることは、意外にご自身の中でそれを感じている場合が殆どでしょう。プレアデス人が救済に来ることもなければ、グレイ星人が悪者である‥ 等の情報も疑ってかかって下さい。
勿論グレイ星人全てが善でも悪でもない点は、人々にそれを置き換えれば直ぐに理解出来ることです。
 

 
一つ注意すべき点は、何者かの影響で地球全体がディストピア世界に向かい始めていることです。首謀者を確定することは現状では不可能ですが、背後には少なくともプレアデス星人等の過干渉が在ることだけは分かっています。
勿論ソーハン・エレディオンなる人物も存在しませんし、存在しないソーハン・エレディオンの300年後の妻がエレナ・ダナーンだ‥ 等と言う事実もありません。
知名度だけしか取り柄のない何者かの妄想に振り回されることのないよう、ご自身の直感や感覚を磨いて下さい。
 
私たち個々の感性を磨き込んで行くことで、宇宙的な支配者の台頭を未然に防ぐことは十分に可能です。ディストピア世界に地球が向かうことのないように各々注意しながら、当たり前の日常を当たり前に消化して行くことに軸足を付け、冷静に、落ち着いてこの時代を生き抜いて欲しいと思います。
 

私自身の最近の活動は、音楽に於けるミッションに集中しています。
複数のミッションがのしかかる身ではありますが、私にしか出来ない仕事がその中には多々含まれています。その一つが『音楽保管』です。
何れ地球上から複数の大陸が消えること、それにともない多くの民族音楽が消滅することその他、既に私は色々な未来を知っています。その時に備え、私一人で抱えきれるだけの分量の音楽の知識、ジャンルや成分表等を脳内に保管し、現世の私がこの世を旅立った後に一旦神界にその情報を全て保管しに行くことになります。
そしてしばしのインターバル (インターセルフ) を経た後に再び私は、音楽のミッションを続ける為にこの地球上に戻って来ることを決めています。
 

現世でミッションをどの段階まで運び進めることが出来るかは全く分かりませんが、少なくとも私は既にDidier Merahの名前でピアノによるオーパーツ作品を複数配信しています。数年以内に、その中から楽曲を選出して楽譜を出版する予定を立てています。
その前に、先に予定している企画のアルバムの新譜のリリースをしなければなりません。録り貯めてある楽曲も複数あるので、幾分時代が落ち着いた頃合いを見計らって新譜を一気にレコーディングして行きたいと思っています。
 

これは自慢話でも何でもない話として書きます。
私はリラ星最後の巫女でした。そしてその後複数の生を経て現在に至りますが、自身の霊体の大きさに私自身が驚いていますし、社会生活に於いてその霊体を持て余しているような感覚が常にあります。
多くの人々に理解されないこと、その為生涯に渡る友人を持てないことその他色々ありますが、何より私自身の意思で神上がりを拒否し、音楽文化の向上の為にこの先何度も人間として生き直すことを決めています。
 
一説によればそういう人のことを、「観音」と言うのだと話す人も居ます。
考えてみれば言い得て妙で、「音を観る」と書いて「観音」と読むわけですから、その響きはもしかすると今の私のような状況の人を指しているのではないかとも思うわけです。
利他的な精神を大切に、この先も粛々と祈りを致し、音楽や霊質学文明への案内人として心静かに在りたいと願ってやみません。

noteに2020年から配信していた預言集 自然神から見た [COVID-19] とその全貌 へのブログ記事の移動も、ゆっくりと行って参ります。
各記事はnoteから記事を更新したのと同じ日付で転載して行きますので、新着記事には載りません。転載が完了した際には X にてその告知を行いますので、是非わたくしの “X をフォローして情報を拾って下さい。
 

 
 
当記事で私のミッションの一つである『音楽保管』の話題が出たので、せっかくですので最近私がSpotifyで作成した音楽リストをここに幾つか貼っておきます。
毎週毎週欠かすことなく私が自分の作品でもない、他の人の作品を何故各プレイリストにスクラップしているのか、その理由と情熱の断片を少しでも感じて頂けたら幸いです。
 
 

⇧ 主にヴォーカルのない音楽をジャンルレスに集めたプレイリストです。

 

⇧ 新旧含めた『イタリア』な音楽ばかりを集めたプレイリストです。

 

⇧ 2024年8月19日、現時点で最も新しい世界の新譜をジャンルレス、ボーダレスにスクラップした雑食系のプレイリストです。

 

⇧ 2024年を華やかに彩るK-Popばかりを集めたプレイリストです。(K-Popの台頭にも既に、陰りが見え始めています。)

[比較芸術論] Unfulfilled Dreams (Ryuichi Sakamoto)

毎週末恒例の “世界の新譜” の更新数が、2024年8月に突入した途端に激減しています。最初はパリ五輪の期間を外して新譜をリリースしようと狙うミュージシャン・サイドの事情だと思っていたのですが、どうも様子が違うことに気が付きました。
先々週~先週の、私の雑食系プレイリストの更新数がのべ10曲にも満たないのは、私の感覚がここに来てさらに研ぎ澄まされ、かつ厳しくなったからなのかもしれません。とは言え、新譜のリリース曲数の世界的な激減が何を意味しているのか、既にお気付きの方も沢山おられることと思います。

中略‥‥

そんな折、2023年3月28日にこの世を旅立って逝かれた坂本龍一さんの遺作にて新譜の “Opus” が、各サブスクリプションより配信されていたので、夏休みを利用してじっくり聴いています。
遺作にて新譜だから‥ と言う理由で高評価を付けないのがわたくし、ディディエ・メラの音楽評論の真骨頂。
 
一つ気が付いたことを挙げるとすれば、坂本龍一氏は生涯に渡り公の場で一言もディディエ・メラ (Didier Merah) の名を口にすることがなかったにも関わらず、かなりディディエ・メラの作品を聴き込んでからこのコンサート・レコーディングに臨んだ‥ と思われる節があります。
特に低音の打鍵やペダルの踏み方のほか、Disc 1. – M-5: “for Jóhann 等に見られるような両手の打鍵位置を引き離した状態で打鍵する奏法に、ディディエ・メラの特殊奏法の断片の痕跡を見ることが出来ます。

よくよく聴くと for Jóhann ‥ ディディエ・メラの旧作 “Ancient Forest” にとてもよく似ています‥。
 


音楽家Bが音楽家Aの作風や表現手法、或いは表現哲学等に深く影響を受けることを私はけっして悪いことだとは思いません。むしろそうやって双方が切磋琢磨しながら表現を高め合えることは、長い目で見た場合に音楽史の変革に大きな影響を与えることになるでしょうし、音楽文化の底上げにも一役買うことにもなると思います。
 
その上で絶対にやってはいけないことがあるとすれば、音楽家Bが音楽家Aの影響を受けたことを徹底的に伏せて、あたかも音楽家Bが世界で最初の発明者 (この場合は作曲者と言う方が望ましいでしょうか‥) であるような顔を平然とし続けることの方かもしれません。
例えばこれがWikipediaであれば「出典元」を明記しなければままならないような状況に近く、かと言って「出典元」を明記したからと言って楽曲Bが楽曲Aの完全な物真似だと言えない出来栄えであれば、是非楽曲Bの元の曲となるべき楽曲Aの存在は公言すべきと私は考えます。
 
私の場合は作曲技法の原型がJ.S.Bachに既に在ります。勿論J.S.Bachはわたくし ディディエ・メラの過去世なので、当然と言えば当然のことです。その上で、ディディエ・メラの新譜として新たに更新される各楽曲は必ずしもJ.S.Bachの作風とは一致しないので、堂々とその旨私のルーツを含め公言することが出来ます。
 


坂本龍一氏の “Opus”、かなりの体調悪化の中で臨んだコンサートの記録として、私もリスペクトの念をもって聴かせて頂きました。
でもそれはそれとして、ではこのアルバムが作品としてどうなのかと言われると、手放しで「素晴らしい!」と言えるものではないと正直思いました。
  
レコーディングされた作品の殆どがピアノ曲として生まれた楽曲ではない、複数の楽器で編成されることを想定して生み出されたものなので、それをピアノ一本に落とし込むことにはかなり苦労されたと思います。
とは言え、ピアノは世界最小のオーケストラ楽器とも喩えられるほど音域が広く、又他の殆どの楽器にはないペダル機能が備わっているので、坂本龍一氏ほどのスキルがあればもっと違った表現手法の可能性があったように思います。
 
思うに一度現代音楽ないしは破壊芸術に深く浸り込んだ人の感覚は、ある意味正統派の音楽を生み出す時の感性には二度と戻れない、そんな風にも感じています。
幸いわたくし ディディエ・メラは現代音楽に心酔する僅か手前でその道を引き返し、当時の恩師と決別しています。本当に美しい音楽がどこにあるのか、その記憶と残響を求めて半世紀を音楽漂流の旅に費やし、現在のディディエ・メラの表現スタイルや作風に到達した経緯があります。
 

坂本龍一氏は早い時点で自らを「教授」と名乗り、他者にもそう思い込ませることでビッグビジネスを成功させた一人です。仮にビジネス面では成功し、その勢いと名声を失うことなくこの世を旅立ったとしても、最終的に音楽や音楽家の真の価値を決めるのは『時間』と、その作曲家の全作品を含めた「時代を超えた普遍性」の有無だと思います。
その意味では坂本龍一氏の全作品を含め、普遍の神の手元には遠く及ばなかったのではないかと個人的には感じます。
 


坂本龍一が何より愛したものは音楽ではなく、ご自身の『教授アイコン』だったのかもしれません。皮肉なことに彼が最も愛した『教授アイコン』が、サカモトの音楽をコミック化させることに一役買ったのかもしれません。
日本の音楽界やメディアがそれを彼に要求し、その要求にサカモトが見事に応える形でいっときは成功した彼の音楽人生をこうして振り返ってみると、彼が最後に遺した “Opus” がどこか冗談めいたもののように聴こえて来るから不思議です。
 
今この箇所を書いている時にヘッドホンからはDisc 1. M-9: “Bibo no Aozora が聴こえていますが、ここぞと言う箇所になると破壊芸術魂が顔を出し、最も美しい旋律を破壊することで楽曲のクライマックスを突き抜けようとしている彼の心情が見て取れます。
そもそもがアカデミックな教育を受けて来た人なのに、まるでそうではなくその場の弾みで音楽を作ってしまう人のように坂本龍一の音楽が聴こえてしまう要因はもしかすると、彼の人間性の中に潜んでいるのかもしれません。
勿論坂本龍一がどんな人間性だったか‥ と言う話にはここではあえて触れずにおきますが。
 

アルバム後半は念仏のようにヘッドホンを駆け抜けて行った、アルバム “Opus” 。‥‥

坂本龍一が「大曲」と呼べる作品を遂に一作も遺さなかった理由の一つを挙げるとすれば、それは彼が映画音楽の量産に踏み切ったことにあるでしょう。
映画音楽は映像と台本が主役であり、音楽はあくまで脇役です。多くのサウンドトラック版はメインテーマの他はほぼ「ジングル」と呼ばれる効果音を音楽になぞられた小品で構成されているので、よほどその映画音楽を担当した音楽家に興味のある人でもない限り、映像から音楽だけを切り離して聴き込む人はいないでしょう。
 
ディディエ・メラも若かりし頃は盛んに映画音楽やCMの背景音等を製作する仕事を勧められたものでした(笑)。ですが私は「音楽が主役」の人生を既に決めて人生を歩んでいたので、そうしたジングルやBGMの仕事には消極的な態度を貫きました。
なのでお仕事を頂くよりも前に、仕事の側が私を上手く避けて通過して行ってくれたと思っています。
 

記事の最後に坂本龍一の遺作にて新譜のアルバム “Opus” のSpotifyのリンクを貼っておきます。
“Merry Christmas Mr. Lawrence” とラスト曲 “Opus – ending” 以外、ほぼ全曲がマイナーコードの楽曲で埋め尽くされたこのアルバムは、喩えるならサカモト自身が坂本龍一に贈るレクイエムではなかったかと思わずにはいられません。

坂本龍一氏のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
 

Opus – 坂本龍一

音楽は何処から生まれるのか‥ (Where does music come from?)

普段は極力和製の音楽、特に黒玉のアタック音の衝撃だけで構成されたピアノ曲の試聴を避けているが、偶然先週末に原摩利彦の直近のアルバム『デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士 – オリジナルサウンドトラック』に触れ、まだまだ日本の音楽シーンも捨てたものじゃないと言う心境に至る。
 

先ず冒頭の作品を聴いて救われたことは、最近流行りのノスタルジー・ピアノの枯れた音色ではなかった点だ。
 
このところアップライトピアノの蓋を開け、あえてマイクをハンマーの近くまで寄せてカタカタと言うハンマーの動作を音源として捉えて録音する、実際には音楽には聴こえないものを音楽として配信しているピアニストが急増している。
この現象は現代人の未来への失望感を現しているように思い、楽曲開始から5~6秒で次の曲にスイッチを切り替えることが増えていた。
 


例えば上の楽曲もその一つ。
表現している人はこの音色に半ばのめり込んでいるようにも見えるが、聴く人を必ずしも幸福にする音色や音楽に聴こえないと言う観点が完全に抜け落ちているのではないか‥。
 
日本のみならず海外の “ピアニスト” と称する表現者の間でもこのノスタルジー・ピアノの音色で音楽を配信する人たちが後を絶たず、この現象は一種の音楽文化の衰退を暗示しているように、私には思えてならない。
 


そんな中、ようやく希望の光を見つけた。
勿論、原摩利彦の全ての作品が好いと言う訳ではないが、少なくともアルバム『デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士 – オリジナルサウンドトラック』はここ最近のピアノ系のサウンドトラックの中でも、群を抜いて秀作だ。
 
サウンドトラックと言えばこれまでは坂本龍一がその世界の第一人者のように語られていたようだが、サカモトの音楽は音楽としての独立性を持たない。映像ありきで作成されており、その大半が1分とか2分、場合によっては数十秒と言う中途半端なジングルで埋められており、一つの音楽として聴ける楽曲はアルバムの中に一曲か二曲もあれば良い方だ。
 
ジングルの欠点は、映像や映画のそのシーンと記憶を連動させなければ聴けない点にある。
単体の音楽として認識するには楽曲として未熟で未完成であり、そういう楽曲がずらりと並んだ作品集を音楽のアルバムとして認識するにはかなり骨が折れる。
 
坂本龍一の場合は映画や自身の顔をアイコンとして音楽作品にくっつけて販売(配信)している為、多くの彼のファンは音楽を聴く前の段階で既に「素晴らしいもの」だと洗脳の蓋を開けたまま思考停止に陥り、その状態でサカモトの顔アイコンを見たり妄想しながら彼の音楽に触っているから、個々の音楽を単体で聴く状況には至っていないのが現状だ。
 


思えば1980年代には既にクラシック音楽の主流が現代音楽へと移行しており、調性音楽を馬鹿にしたり「時代遅れ」の産物と認識する音楽の専門家がクラシック音楽界の過半数を占めた。
さらには調性音楽に於ける「メロディー」はもう出尽くした‥ と言うことを当たり前に口にする専門家も大多数居て、実際私も業界に居場所を失った。
 
美しい旋律や調性音楽を起点とした楽曲の作成に関わりたければ、ニューエイジやジャズ、映画音楽やCM業界ないしは歌謡曲やそれを初めとする軽音楽の世界に身を寄せる以外に出口が見つからなかった。
 
結局多くの音楽家志望の若い作曲家たちが音楽に未来も救いも見い出せず、時間稼ぎにゴーストラーターに手を染めたりスタジオ・ミュージシャンになり外国語の教材用のBGMでアメリカナイズなAOR的な音楽を多数レコーディングして糧を得る人たちも大勢現れたが、殆どのミュージシャン等は夢が叶わず枯れ落ちて年を取って行った。
 

音楽は宇宙からもたらされると私は思う。
この大いなる宇宙の闇の中に、音楽のヒントは無数に散りばめられている。
 
だが最近の多くの作曲家たちは、AやBを聴きながらそれに身の丈を当てはめて刹那的な世界観に自分の感性を漬け込みながら、「AとBを足したもの」を作り出そうとする。いつか、誰もが耳にしたことのある音楽を作り出さないと、発注者サイドが納得しないからだ。
そうこうしているうちに段々と音楽のパズル化が進み、音楽理論もクラシック音楽の基礎知識も何も無い人たちがパズル形式でメロディーを作り、それをエッジのきいた歌手に歌わせれば売れる‥ と言う勘違いの方が一人歩きを始めた。
 
だが実際にはメロディーラインもコードプログレッションもグチャグチャで、理論も美しさも何もない音楽がメディアや素人音楽ライターの美辞麗句で誤って飛んでしまうと言った、半ば放送事故のような状態が当たり前のように起きているのが現状だ。
 
歌ものの中にも良いものもあり、藤井風や椎名林檎等は未だ良い方だ。両者共に音楽に対するこれでもかと言う程の固執が見られるし、おそらく両者共に音楽の基礎教育を受けているだろうと言うことが傍目にも分かる。
だが宇多田ヒカルに至っては、メロディーも表現解釈も断片的で刹那的であり、彼女がただの七光りで音楽シーンに引っ張り出されたことの副反応が今頃になって、彼女の無教養なメロディーメイクに強烈に反映されて来た。
 


原摩利彦に話を戻そう。
勿論アルバム『デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士 – オリジナルサウンドトラック』が最高峰の作品集だ‥ とまでは言わないが、彼が誠実な音楽家であることはしんしんと伝わって来る。
何よりピアノの音粒と残響の使い方に、未来の光を感じずには居られない。
 
残響と言えば最近 Didier Merah がその片鱗を漂わせているが、彼女の作品の特徴として「頑固なまでにスローテンポの曲調を変えない」と言う点が挙げられる。
Didier Merahが生み出す残響のマジックはこの、徹底的なスローテンポから生み出されて行く。そして何より言語。
Didier Merahがもしもフランス人やスペイン人だったら、この様なスローテンポで残響同士を重ね合わせて響きを繋げて行くような音楽は生まれなかっただろう。
 
その辺りは又追々、別の記事で模索探求して行きたい。
 

残念ながら私はドラマの方の『デフ・ヴォイス 法廷の通訳士』を観なかった。
そもそも普段殆どTVを観ない生活にシフトしており、それに付け加え人が作り出したドラマに全く興味が無いのだ(笑)。
 
なので、このアルバム『デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士 – オリジナルサウンドトラック』がサウンドトラックとして作成されたことが、とても驚きだった。
アルバムの中には一曲の捨て曲もジングルもなく、個々がそれぞれ一個の世界観を表現した音楽として完成され、尚且つとても洗練された出来栄えだと私は感じている。
 

 
冨田勲 が日本のシンセサイザー・ミュージック界を大きくリードした時代はとうの昔に終わり、次世代の坂本龍一もこの世を去った。
アンビエント・ミュージックも細分化し、最近ではドローン・ミュージック等とも呼ばれるようになり、私も個人的にドローン系の楽曲を複数集めてプレイリストを作り、アカウントの事情でDidier Merah名義でプレイリストを放っている。
 
原摩利彦の作品も数曲その中にスクラップされているので、興味のある方は是非、Didier MerahのSpotifyチャンネルをフォローして、お目当てのプレイリストを探してみては如何だろうか。
 
本記事の最後に原摩利彦の最新アルバム『デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士 – オリジナルサウンドトラック』より、ピアノの音色が美しい M-1: Coda、そしてM-12: Enigma Ⅱ の壮大なドローン・ミュージックの2曲をピックアップしておこう。
 

 

松の内 (2024年 新春)

明けましておめでとう御座います🎍

今年もよろしくお願い致します。

 
言い得るならば、今日までが「松の内」でしょうか。
この週末は通りを行く救急車の数が激増しており、それが私の胃痛を長引かせているようです。
音楽で外界をシャットアウトしようにも、耳を塞ぐことは遂に出来ず。
 
新年最初の「世界の新譜」チェックを先程終了しましたが、全新譜389曲中私の感性にヒットしたのはたったの7曲。
この記事に、その中でも特に沁みた一曲を貼っておきます。
 

 
全体的に2023年の冬辺りからの世界の新譜は、悲しげな小品が増えたように感じます。
 
そして最近の私はブログを書く気も起きず、世界が平和であり続けて欲しいと願うばかりで、体が勝手に祈りの儀式を始めます。
それを神々が望んでいるのならば、逆に本望‥。
ですがそう楽観的にはなれないのは、私や夫 (天野玄斎氏) のネガティブな預言 (予言) の一つ一つが確実に表面化しているからでしょう。
 

世界が破滅に向かっているのではなく、むしろ破滅した世界を高次の存在等が英知を結集させながら正常な状態に立て直そうとしているように、私には見えて仕方がありません。
創造と破壊は表裏一体です。
 

この記事の最後に、何とも心を揺さぶられる新譜が少なかった2024年最初のプレイリストも載せておきます。
 
 

Christmas 2023′ (ジャンヌ・ダルクから今の私まで)

2021年12月26日を起点とすると、怒涛のような2年間が経過したように感じます。
私がかつてジャンヌ・ダルクとして生きた時、私の周囲の人々の大半が敵でした。火あぶりになる私を微笑みながら見つめていた人々の顔を私も又、見返していたように記憶しています。
その中の人々の多くが転生を繰り返し、私の実母も実父も弟も「敵」側の人たちの生まれ変わりだったと感じます。
 
世界の全てが敵ならば、どんなに心からの救いや平穏を求めても味方が現れなかった、この半生にも納得が行きます。
過去の記憶はそのまま魂に引き継がれますから、私が現世に於いても孤独である理由にも整合性が見て取れます。
 
 

 
2023年、クリスマス。
世界は光と闇に分断しているように見えますが、光のある所には同時に闇も存在します。「光だけ、闇だけのどちらか片方の世界だけが在ることの方が不可能である」‥ とは、宇宙のクリエイションからのメッセージ。
常に両者は共存する、それが宇宙の法則です。
 
争いを起こすのは常に闇の分子を多く持つエレメントだと言われますが、そうとも言えない場合もあるようです。
だから私は「闇側」「光側」と言う分類を好みません。
 
今日までに私を怪訝に感じた人たちに伝えることがあるとすれば、私が私に至るには様々な人生の変遷を経て来たと言うことです。

私が仮にジャンヌ・ダルクの生まれ変わりであると言う仮説を肯定すれば、私が朱に染まらない理由をきっとご理解頂けると思います。
黒を白と言い替えないのが私であり、悪を(その相手と親しいからと言う理由で)善に引っ繰り返さない。‥それがジャンヌ・ダルクの生き方でした。
 

‥ジャンヌ・ダルク時代の多くの魂たちがどっちみち私と関係性を当時とは全く変えたがらないのであれば、私は私の生き方を貫くのみです。
当時と異なることがあるとすれば、それは現・夫と出会ったことでしょう。
夫はそもそも人/ 属性の魂ではないので、むしろ私の人間性や霊性を客観的に理解してくれますし、私が何故こうなるのかと言う理由についても理詰めで熟知しているように感じます。
 
勿論人間と言う温かい皮膚を持つ友人が欲しくないと言うわけではないですが、それは私が妥協や癒着等と言うだらしのない価値観を許容したり、‥特に親しい人が悪人であっても「善人だ」と価値観を引っ繰り返さなければ永遠に難しいのかもしれません。
魂を悪魔に売り渡すことは、私はこの先永遠に無いでしょう。それはこの先、私のようなタイプの後輩が苦しまないように私がバイブルとなることで、少しでも歴史に貢献出来ればと言うささやかな祈りにも通じていますので。
 
何も悪いことをしていないのに「悪人だ」「嘘吐きだ」と言われた私の苦しみを私は、やり返すのではなくもっと別の方法で返して行くべきだと感じているので。
 
 

 
‥これでも私は社会性を手放してはいません。
むしろ中途半端に社会性を身につけてしまったことで、誤解が生じているのかもしれません。
なので最近はみだりに人と関わらないよう、人と親しくならないよう細心の注意を払いながら生きています。
 
2023年12月24日。
この記事を読まれている皆様にこの曲を贈ります🎄
 
 

 

[音楽評論エッセイ] Night Tempoを分析する – K-Pop plus New渋谷系

最近CDショップが軒並み閉店続きで、先日新しくデジタル楽器を購入しようと都内某所の山野楽器の閉店時間を調べようとしたら、該当のショップが既に閉店していることを知って唖然とした。
記憶が合っていれば既に10年程前から、都内のCDショップの多くが縮小を繰り返しており、銀座の山野楽器本店もほぼ楽器売り場しか残っていない状況だ。
 
AKB48が握手券込みで複数パターンのCDを乱売し始めた頃から、日本の音楽シーンは目に見えて混乱期に突入し始めた。丁度その頃海外発祥の音楽サブスクリプション “Spotify” が海外ではじわじわと着火し始め、日本は一歩二歩出遅れてSpotifyが解禁となった。
 
Spotify初期に日本国内でSpotifyに堂々音楽配信を開始したのが、坂本龍一(故)と今メキメキと新しい音楽シーンを開拓中のDidier Merahの二人だけだった。
他の多くの邦人ミュージシャン等は「権利」と「利益」を重要視し、その結果さめざめと物理CD販売に執着し続けた。だがその一方で市場は粛々と縮小傾向を加速させ、今では実店舗自体右肩上がりの閉鎖閉店の嵐だ。
 

 
最近「アナログ盤」‥ つまり昭和で言うところの「レコード」盤の旧作再販が復活の兆しを見せていると言う話を方々から伝え聞くが、おそらくそれはCDショップの実店舗の閉鎖閉店の嵐の副反応のような現象だと私は感じている。
 
わざわざ元の音源に汚しを加えた音楽を、さらに「アナログプレイヤー」と言うしち面倒臭い機材で針を落とすと言う手間暇をかけて、今の若けぇもんの誰が聴きたがるだろうか。
殆どのリスナーが、良い音質で音楽を聴きたいに決まってる。なのでアナログ盤の旧作再販の小さな嵐は言ってみれば、ちょっとした小さなつむじ風程度のブームで終わるだろう。
 

そんな折り、やはりお隣韓国のNight Tempoがアルバム『Neo Standard』を引っ提げ、CD、アナログ盤、勿論サブスクリプションからの配信を含む色々な媒体から配信を開始したようだ。
  

 
嗚呼‥ この人又韓国ネタで攻めて来たかと溜め息をついているそこのアナタ!
それ程隣国は強敵なんだと認識して頂きたい。
日本の音楽も音楽シーンも、間もなく沈没します。私は日本人の血を引きつつ同時に外国の血も入り混じる「過去世 巫女」であり予言者なので、殆どの出来事は私の思うように流れて行くのです。
 

Night Tempoの新譜『Neo Standard』で特徴的なことがあるとすれば、以下の二点。
 

・ヴォーカルに日本の歌謡曲世代の中年以降の歌手をセレクトしていること。
・殆どの楽曲がNight Tempoのオリジナルであり、尚且つその曲調(曲風)が日本は昭和のシティー・ポップの流れを踏んだ二次創作であること。

 
これをやられたら多分、多くのその当時の音楽を愛して来たリスナー層は涙腺を徹底的に攻撃されるだけで、為すすべもないだろう。
勿論私も、このアルバム全編を通じて大好きだ(笑)。
一つビックリしたのは数ある昭和の歌謡曲の女性歌手陣の中に「鈴木杏樹」が混じっていたことだろう。本当にこの人、Night Tempoと言う男は色々よく調査していると感心する。
 
日本人は殆ど知らないと思うが、鈴木杏樹は「Kakko」と言う名前で全米をブイブイ言わせていた時期があった。
知らなかったでしょ。今の彼女のイメージとは違って、バリバリの英語の歌を何曲かリリースしていたので、私も1996~2000年頃に渡米していた時には何度もカーラジオで聴いたものだった。
 
その辺りを今さら引っ張り出して来るNight Tempoと言う黒船が、地味に地味に日本の臍を攻めて来る。アルバムに参加した殆どの女性が彼、Night Tempoに賛辞を送り、最早日本国内の作曲家陣は放置プレイと相成っているようだ。
 
同アルバムにはこのブログでも先日触れた中山美穂の『Ninna Nanna』も収録されている。私の推しはやはりミポリンだが、渡辺満里奈や渋谷系の元祖、野宮真貴も捨てがたい。
 

 

 
丁度さっきまで週末恒例の「世界の新譜チェック」をひっそり開催していたが、このところヨーロッパ勢が影を潜めている。おそらく例の注射の影響と、異常気象や天変地異の影響がそこに折り重なっているのだろう。
 
私は外出の際にはマスク派だが、なるべくマスクを着用しないで済むようなロケーションを選んで生活をエンジョイしている。
外出をして「マスクなんてしないぞ!」と叫んでいる人たちを見ているとただただ滑稽で、何を無駄なマッチポンプをやっているのかと侘しくなって来る。
人に文句を言っているそこのあなたも、文句を言っている相手と同じ穴の貉だと気付きなさい!と言いたくなる。
 
音楽は室内で楽しむ娯楽にシフトしつつある。室内で楽しむ音楽とは何か‥。その心地いいツボを、Night Tempoは熟知している。
だが、ここで負けてはいられない。
 
 
サブスク先人の日本人アーティストの坂本龍一(故)やDidier Merahの功績がこれ以上無駄にならぬよう、日本人アーティスト達にはもっと頑張って戦って欲しいと思うが、今のところは上に書いた二人のうち残る生存者が国内の音楽シーンを牽引して行くに違いない。
 
良い戦いを展開するには先ず、敵をよく知ることだ。これは全ての戦に通ずる。そして何より人智を超えた力を発揮する為の土壌を、自ら耕して構築することだ。
私がこのブログ上に多くの隣国を含む海外アーティストの秀作を臆することなく紹介している理由は、日本の今の腐敗した音楽シーンの水底の泥を一掃し、新しい知識と新しい戦術をもって国内の若いアーティスト達の小さな芽を守ること、それに尽きる。
 

私は世界中、古今東西の全ジャンルの音楽を熟知し、さらにそれらを年じゅう分析し続け、そして新譜情報や音楽理論のアップデートを毎日繰り返している。
おそらく無敵だ。
デビューや音楽の方向性に行き詰った若い音楽家たちの、良い道しるべを指し示せる世界唯一の音楽評論家であると言っても良いだろう。
 

先ずは上記に触れた意味合いも込めて、皆でNight Tempoの新作を徹底的に分析しようではないか。
 

[音楽評論] “Prométeme” – Monsieur Periné

前作のYouTube動画El Caudalでは炎の中に包まれながら愛し合う男女を切々と描いていたが、この描写が何とも官能的なのにかなしさだけが後を引く‥ その感触に不安を感じてならなかった。
ただの官能描写を超えた、人間の生存本能に強くインプレッションして来る何かを感じたのはおそらく、私だけはなかっただろう。
 
そして日本時間の2023年4月28日に新たに公開されたMonsieur Perinéの新作動画Prométemeで、彼等は内なる叫びの全貌を露わにした。
これは今の全ての地球人に向けたメッセージであると同時に、環境破壊の極限がこの星に何をもたらすのかについて予言したものだとも言えるだろう。
 


動画は静かに、汚染された湖か川岸でMonsieur Perinéの二人が音楽を奏でる場面から始まる。そして場面が緩やかに移り変わり、山荘か山小屋のような場所で二人の男女が激しく愛し合う場面が脈々と長いカットで描かれて行くが、その激しさの根底は「人間の生存本能」を言い表したものだと言って良いだろう。
 
窓の外は汚染された空気と環境だけが在る世界で、それでもわずかに生き残った人々がその過酷な環境下で生き延びる為に愛し合う。
還る場所はもうどこにもない。

愛し合った後の男女の描き方が、何とも切ない。恐らく何かの使命を負った二人なのだろう、ボンベと酸素マスクを装着し愛の素を出て行く‥。
 


タイトル『Prométeme』は、和訳で『約束して』と言う意味を持つスペイン語だ。
歌詞を翻訳アプリを使い和訳した。
 

『Prométeme』(和訳)

約束して
世界が終わっても一緒にいることを
川の水が汚染された海に到達するとき
プラスチックで泳ぐ

しかし、あなたの側
約束して
君と僕が手を取り合って 政府を打ち倒すことを
そして、この地獄の中で愛を勝ち取る
翼を置く

角のあるところ
そして、私たちは夜眠ることはありません
この混沌をムダにしよう
私たちが残したキスで

燃えるジャングルで
約束よ 約束‥
約束して

あなたが決して離れないことを
約束よ 約束‥
約束して

もし人類が滅びたら、私たちは惑星を発明するだろう
気付かないうちに裸で歩き回る
ヒッピーのように
70年代の‥

そして、私たちは夜眠ることはありません
この混沌をムダにしよう
私たちが残したキスで
燃えるジャングルで

約束よ 約束
約束して‥
あなたが決して離れないことを

約束よ 約束
約束して‥
一緒に歌うこと

 
歌詞のある音楽は、歌詞のない音楽よりもリスナーに強いインプレッションを与えることが出来る。
だがその一方で楽器のみの音楽はこの点がリスキーで、注釈を付けない限りリスナーに作者の思いやメッセージが伝わりにくい側面を持つ。

Monsieur Perinéとは全くジャンルが異なるが、ピアノのみを用いて地球の未来を予言した音楽を多数作曲し、配信しているDidier Merahの場合は、人類絶滅後の地球の光景を複数のアルバムで描いている。

特に配信時のトラブルでタイトルの最後の一文字「t」がまさにホワイトアウトに至った『Whiteout』は、人類が激減の最中に在る現在の地球の光景を描いた作品だ。
 
この作品には歌詞も楽曲解説も未だ存在しない為、曲を聴いた多くのリスナーが「心地よく眠れる音楽」として楽曲の真意に到達出来ずに居る。
まさに文字通り、とても危険な意味で「眠れる」音楽なのかもしれないが、その眠りに落ちた人々が二度と眠りから覚めない状況に在ることを未だ誰も知らない。
 


人類は多くの大罪を犯して来た。
環境保全よりも娯楽施設を建設する為の土地開発や森林伐採を、何の悪びれもなくやり続けて来たし、何より静寂と静かな時間を持つべき今も尚イベントやら職業上の理由にかこつけて飛行機や高速爆音型の鉄道を止めようともしない。
その状況をを自然の神々や精霊たちは時間の許す限り黙認し、地球のテクノロジーの進化の時をずっと待ち続けて来たが、彼等・自然神たちは我慢の限界に達したようだ。

日本だけではなく世界のあちらこちらで、大地が唸りを上げている。そう遠くない未来に日本の中心の大地が割れ、この島国の臍から幾つかに島が分断するかもしれない。東京の一部が海に沈むだろう。
 
全く別件で先日外食した先の中華料理のコックが、伊勢海老や一部の魚介類などのこれまで普通に捕れていた食材が確保出来なくなった‥ と漏らしていた。その為料理のメニューを変更せざるを得ないのだと話していた。
 
じわじわと迫り来る食糧危機のみならず、例えば原発事故の影響などで汚染された水が日本を覆い尽くして行く頃。
そこにウィルス・パンデミックと殺戮兵器と化したワクチンの強制接種から発した多くの副反応による超過死亡者の急増など、これまで人間が犯して来た罪への最後の審判が下されるタイミングに差し掛かっている。
 
生き延びられる人々は、現人口のほんの一握りである。周囲の空気に振り回されない人たちだけが、パンデミック後の絶景を見ることになるだろう。
その絶景の向こう側を暗示した作品の一つとして、Didier Merahの『Whiteout』やMonsieur Perinéの新作『Prométeme』が10年後の地球上で、どのような状態で残り続けて行くのか否か、可能ならば私はそれをこの目で見届けたいと思う。
 

最後になったがMonsieur Perinéの新作『Prométeme』は、さながら古き良き地球を振り返るような曲調に仕上がっている。
ふと、あの名曲『Sabor A Mi』からインスパイアされたのではないか‥ とも思えるし、Monsieur Perinéが過去に同曲『Sabor A Mi』をカバーしている。
 


では、最後にこの記事のタイトル曲であるMonsieur Perinéの新作『Prométeme』のMVを貼ってお別れしたい。
 

芸術家の日常 2023.03.29

歯の検診の前日は決まって眠れない。やることが分かっているのに、心の何処かで「何をされるか分からない」‥的な恐怖が渦巻く。
結局昨日の前日の月曜日の夜も殆ど眠れず、ヨロヨロになりながら歯医者に行くと案の定の検診結果だ(笑)🦷
 

気分を変えたかったので検診の帰り、車からは完全に降りて夫としばしお花見を楽しむことに。
 

 
時間差で咲き誇る桜の花の半分以上が散り始めていて、それはそれで圧巻だ。
新居の近くにこんなに素敵な桜スポットがあるとは驚きで、勿論旧宅の一本桜も魅力だが今年はもういいかな‥ と言う気になった。
 
さらにその帰りに新しい花を買った。
昨年旅立った愛兎 マイケルが私に遺してくれた、尊い趣味の置き土産。次にマイケルが此方に転生して来た時に「ママ、頑張ったよ」と言えるように、亜流でフラワーアレンジメントみたいなことを研究中である。
 
とは言えあくまで趣味、あくまで下手の横好き。極めようとすると眉間に皺が寄って楽しめなくなりそうなので、兎に角趣味以上にシフトしないように気を付けている。
 
体も心も「紫」を欲しているのには、何か理由があるのだろうか‥。
わちゃわちゃしているが、その時々の気分を先ずは優先。タイトルは「尊い瞬間」
 

 
なかなか新居のレイアウトが完成せず、未だ楽器も入れてないのでトレーニング不足は否めないが、どっちみちこんなに不穏なご時世の中のんびり練習も出来まい。
先ずは執筆と音楽評論のスキルを極めたい。
 
一日の大半をTwitterやらブログやら、音楽鑑賞等に費やしている。段々と心惹かれる音楽が減っている‥。
先日epoの古いCDを再購入したので、今日はそれを聴いて過ごそうか‥。
 

 
音楽の中にロンドンの風景を感じる。ブックレットを読むと、最後のページに「U.K」の文字が浮き上がる。やはりそうだよね‥ と、自分自身のカンの良さを再認識する瞬間。
この頃(1980年代の後半から1993年の辺り)のepoが、一番好きだ。その後の彼女は中途半端にスピリチュアルを齧りセミナーの開催をする為に必要な資格等を取得して行ったが、それと同時に彼女の音楽性が崩壊したから‥。
 

最近やたらと予言とか預言を公言出来なくなった。的中率が上がっており、私が口にすると現実がその通りに動くからだ。
やはり私はリラ星最期の巫女なんだと、他のヒーラーやスピリチュアリストと同じように行動してはいけないのだと、あらためて己の中で悟りを極める。
 
音楽家の大半のメンタルから「ガチ感」が消えている今日この頃。先日とある歌手のLive(彼女は最早Live活動しかしなくなったので)を拝聴したが、声の衰えと感性に付いた「汚れ」が歌手の全体像を完全に覆い尽くしてしまった感は否めない。
 
かなしいけどこれが現実。
もっと早い段階で「歌手」が私のアドバイスを素直に受け入れていれば、結果は変わっていたのかもしれない。
だが今現在の「歌手」を見る限り、私が光を当てたとしても芸術の方向に舵を切ったかどうかは定かではない。だからこそ私は梯子を外したのだろう。
 
自身の持つ「光」を、自分自身に当てることはなぜか出来ない。だから私は夫の放つ未知の光に、全てを託して信頼している。
私が本物を捨てない限り、自身の持つ光と夫の持つ未知の光が必ず合わさる瞬間が訪れる。だから私は絶対に、ぶれてはいけないのだ。