芸術家の日常 2023.03.14

このブログに私の日常を書き留めることが段々と難しくなって来たように感じているが、やはり私にとっての「普通」の日々をコンスタントにここに書きたいとも思う。
普段人とのコミュニケーションが殆ど無い私だが、そうは言うものの近くのホテルのレストランに足を運べば直ぐに私のテーブルが人だかりになるし、代わる代わる奥の厨房から専属のシェフが現れてしばしの雑談にも花が咲く。
 
性格をカスタムすれば、ある程度のことは上手く行く。だがしょせんカスタムはカスタム。
人間だから、どこかで本音が爆発するのは致し方ない。
 

 
遡ること一か月前辺りから、実はハイドロカルチャーの水耕栽培でスペアミントの種を蒔いておいた。だが二回トライして、二回とも失敗に終わった。
どうしてもハイドロカルチャーにカビが生えてしまったり、発芽後の間引きのタイミング等が分からなかったり‥で二度発芽をダメにしてしまうと流石に落ち込んだ。
 
もうここはプロの手を借りるしかないので、Amazonでスペアミントの土栽培の苗を購入してそれを水耕栽培に切り替えたところ、上の写真みたいに先端が一週間でにょきにょき伸びて来た。
そろそろ剪定のタイミングに差し掛かっている。
茎も太くしっかりしているので、上から10~12センチぐらいを切って新たに水耕してみる予定だ。
 
私が大の虫嫌いなので、新居には土を一切持ち込まないことに決めている。
本来ならば土栽培の方が良さそうな色々な花も「鉢」ではなく生花で購入し、それを一定期間飾っては楽しんでいる。

私が大の生花好きになったのは、昨年の夏にあちらへ旅立った愛兎のマイケルからのギフトだった。
 

 
マイケルは大きなギフトを、他にも沢山私に残してくれた。もはや神獣間際のところを、天照大神が必死で引き留めている状況だ。
未だ新居のレイアウトが完成していないので、生まれ変わったマイケルの居場所を確保出来ていない。早くしなければ‥。
 
折角マイケルが私に「生花の楽しみ」を置いてってくれたので、最近の私はもっぱら生花のアレンジメントに夢中になっている。
流石に今このご時世、音楽になかなか集中出来ない。と言うのも私の音楽アルバムの大半が「予言」や「預言」を収録した預言集みたいな作りになっている為、これ以上未来の負の預言(予言)は余り形にしたくないと言う思いが強い。
 
なので当面は花島ダリアの名前で音楽評論や表現分析活動にシフトしつつ、実は次のアルバムの構成も若干形になりつつある状況だ。
 

 
人間はとかく嘘が多い上に、偽善者が後を絶たない。私はそういう人間の薄汚い闇を見る度に、心の底から腹が立って仕方がない。
その度にその汚い何かの発信源が頼んでもないのに私に刃を向けて抗議を始めることも多々あるが、あくまでそれは彼等の現実逃避に過ぎない。
 
私は鏡である自分自身の性格も含め、戦士気質の自分を悉く愛している。
汚いものは掃除するのみ。「引っ込め!」と激しく念じながらも言葉の上ではこれでも、穏やかに振る舞っているとは思うのだけど。
 
その反面、花は嘘を吐かない。勿論愛しい生き物たちだって同様に。
 

今日は3月14日、ホワイトデーだ。
我が家は毎日がバレンタインデーなので、特に「今日」の為のイベントは必要ない。いつも通りに過ごすだけである。
 
そう言えばこれはプレアデス人は「セムヤーゼ」との会話の中でも頻繁に出て来る話題だが、人間の基礎体温が高すぎることにより人類が短命になっている‥と言う話。
無駄な運動で汗をかいて代謝量を上げたり、そのことで心拍数を無駄に増やして体力を消耗させるのは何故なのか‥ と、いつもセムヤーゼは私に問い掛けて来る。
 

長寿の秘訣の一つとして、先ず基礎体温を最低でも35度台に下げて極力無駄な汗をかかないよう、注意することが挙げられる。

 
健康志向だと言う人間の多くが、これとは逆のことをやっている。だからどんなに運動して基礎代謝を上げたり筋肉を付けたとて、有限の心拍数を結果的に増やしているわけだからその分寿命も縮まって当然だと、セムヤーゼは語る。
 
我が家ではことさら「睡眠」に多くの時間を費やしている。その間内臓も心拍数も休まるので、私も夫も平均体温は35.3~35.5度辺りをキープしている。むしろその体温の時が最も体調が良い。
 
‥とまぁこの記事のタイトルは「芸術家の日常」等と付けてはみたが、よくよく読んでみると余り日常的な内容でも無さそうな‥(笑)。
世で言う日常はむしろ私たち夫婦にとっての非日常で、一つ屋根の下に二人の予言者が仲良く暮らしていることも含め、あくまで私たちにとっての「日常」をこれからも淡々と楽しんで行けたら良いと思う。
 

そう言えば久々にSpotifyにプレイリストを作ってみたので、よろしければ家事やお仕事、ドライブのお供に是非🚘
 

🌎New Chillout Times 2023′ vol.2

Oversoul – Didier Merah feat. MJ

誰の為でもない音楽が、この世に在っても良いと思う。
目的を持たない音楽は、同時に普遍の力を得るだろうから。
 
この作品Oversoulのアートワークは夫・天野玄斎の手によるもの。この絵から何を感じ取るかは、各々の感性に委ねたいからこそ私はこの曲の由来を未だ明かさずに居る。
 

 
砂丘の彼方、あなたには何が視えますか?

この作品は恐怖と絶望の最中に降りて来たM.Jの御霊のインスピレーションをそのまま音楽に替えたものだから、本来ならばM.Jとの共作にしたかった。
だが現世には著作権と言う縛りがあるので、「共作」には出来なかった。
 

 
「現世は不自由だね。」とM.Jがささやいた。本当にそうだと思った。

黒い春は今も続いている。だが多くの魂たちが、いつしか静かな眠りに就いた。ならばもう彼等を揺さ振ることなくそっとしておいて欲しいと思う。
 

黙祷も祈祷もせずに、生き残った人たちの心からもそっと彼等を消し去ることの方が、黙祷よりも余程尊いことのように思えてならない。
 

主役は音楽

或る音楽ユニットのPVを観ている。カラグレに拘りを持っていて、確かに色彩センスは抜群だ。
‥だが皮肉なことに優れた色彩センスが音楽を完全に制覇している為、肝心な音楽が殆ど耳に入らない。 映像を観れば『あヾこの映像のバックにあの音‥』と想起出来るが、音楽が独立出来ないまま窒息している。

此れ、私がCMや映画音楽方面を敬遠した第一の理由に等しい。 映像を観れば音を思い出せるが、音楽を単独で聴こうと言う気になれないからだ。
 

少し話が脱線するが‥。上にも綴ったユニットの、新作のジャンルはLo-Fi Musicだ。
作曲者自身はアカデミックな音楽教育を受けているにも関わらず、自身のユニットのメインの方向性を「ポスト・エレクトリック」に傾ける一方で、最近はハードなEDMや映画音楽系のインストゥルメンタル等も増えている。
だがこの冬の新作はユニット名を変えながらのLo-Fi Musicで、Lo-Fiものに多い短編集のような短い楽曲が十数曲、軒を連ねる形になっている。
 
だがどの作品を取っても軸になるメインのメロディーが存在せず、さらに音加工に作為的に「汚し」を加えた「汚い音質」になっており、本来そのまま、素のままアウトプットした方が断然良さそうな楽曲が古着のジーンズのように汚し尽くされていて、聴いていて気持ちが塞ぎ込んで行く。

PV映像のカラグレが徹底的に美しいがゆえに、音楽の主役を全て映像に奪われた格好だ。音楽が自立出来ていないが、映像音楽としてはそこそこ成立しているので作者たちはきっと気分が良いのだろう‥。
 
話を元に戻そう‥。
毒親の実母は幾度となく、『何故人様に自分の音楽を使って頂こうと思わないの?』と耳にタコが出来る勢いでまくし立てて来たが、私は一切首を縦には振らなかった。
私は映像を主役に見立て、その補佐の位置に音楽を位置づけることを悉く嫌った。主役に相応しい音楽を助演に転落させてでも、自身が世に出たい‥ 等とは一度たりとも思わなかった。
 
当時作曲科の先輩の一人がPARCOのCM音楽でアタり、それを機にCMの人に変貌して行く様を傍で見ていた。
多くの母校の作曲科の後輩たちが「彼」に憧れ、中には用もないのに「彼」の取り巻きみたいな座に居座り満足している人たちも現れたが、それを見て私は「彼」に対して一気に萎えた。
PARCOのCMで大当たりした「彼」はほどなくしてピアノ科に所属していた冴えない女性を恋人にし、彼は多くのピアノ曲を書いては「彼女」に演奏させていた。
 
大義名分が出揃ったところで、二人は堂々と校内でつるんで歩くようになった。
「彼」が作ったピアノ曲を「彼女」が演奏するのだが、皮肉なことに「彼女」よりも「彼」の方が演奏の腕は上だった。
にも関わらず「彼」は「彼女」と何としてでも「音楽の繋がり」と言う大義名分を守る為に、自身が書いた現代音楽風のハチャメチャな楽曲を自分よりも圧倒的に技術の未熟な「彼女」に演奏させた。
 

「彼女」は元々(正直に書くが‥)女性としての魅力に欠ける人だったが、母校の優秀性でPARCOのCMで作品がアタり始めた「彼」との仲をアクセサリーのように着飾るようになったせいかそれ以前にも増して、自信と欺瞞の間を行ったり来たりする醜さを身に纏うと一気に汚れて行った。
あくまでこれは私が傍目から「彼女」を見た感想なので、実際にそうだったかどうかは定かではないが、年中生理用品の臭いを体じゅうから放つ汚物のようで、校内ですれ違っても絶対に近寄りたくない相手だった‥。
 

間もなく私はピアノ科を卒業し、作曲科に転科して母校の「研究科」に進学したが、余りの内容のつまらなさに満期(2年)まで終了することなく途中退学し、その足で実家を出た。
 
[中略 ─ ]
 

 
若くて尖った時期をマイナーな民族音楽やらシャンソン等に捧げ尽くす一方で私は、それとは真逆のアイドル業界で『お手伝い』みたいなことをやり続けていた。
メンズ・アイドルグループのシングル曲の選曲や、コンサートやポスター撮影の彼等の衣装のセレクトから買い付け等をサポートしていたが、そのことを当時の近しい友人知人だけが全く知らなかった。
 
メンズグループのとあるヒット曲を最後に私は、彼等の「お手伝い」を完全撤退した。その後から彼等の楽曲の質が低下の一途を辿り始め、段々と彼等の活動から華やかさが抜け落ちて行った。
だが肝心の私は彼等を通してやりたかったことの全てを達成し、皮肉にも彼等の活動とは逆に完全燃焼した感が強かった。
なので当時表向きにはまだ売れに売れていた彼等の傍を後腐れなく、むしろ潔く離れることが出来た。
 

2022年、58歳。ようやく私は『音楽家』『芸術家』を名乗れるようになった。
心の中、脳内から無駄な音、無駄なノイズの大半が抜け出た分、どこでどんな音楽に接しても全く惑わされずに自分自身の表現手法に集中出来るようになった。
 

思えば若かりし頃、毒親の呪いの言葉に足を取られずに済んで本当に良かった。 もしもあの時母の怒りを鎮める為だけの理由で映画音楽やCM音楽の制作者になっていたら、多分現在の私は存在しなかっただろう。
 
私の力量を真っ先に見出し私を芸術家に育て上げてくれた今の夫に、心から感謝を述べたい。
 

58歳 (58 years old)

昨年暮れから我が家は色々大変でしたが、何とか2022年11月3日、58歳の誕生日を無事に迎えることが出来ました。
正直ここまで生きて来られたことが不思議ですし、奇跡です。
 
もしも私が2011年の冬に以前の仕事(シャンソニエの伴奏業)を退いていなかったら、今頃私はこの世には居なかったと思います。
2011年の震災を機に色々思うところがあり、そこに夫の貴重なアドバイスが重なって、2011年の11月末に思い切って前の仕事を辞めて本当に好かったと、今だからそう思える自分がここに居ます。
 

 
私の実家の人たちはもう、誰もこの世に居ません。
 
私にとってはいわゆる「毒親」「毒弟」たちが集う場所。あれだけの毒が充満している家では、流石に長生きすることは難しいでしょう。
なので私は24歳で家を出て、そこから紆余曲折あったことには違いないですが、あの時の決断はけっして間違いではなかったと思っています。
 
家を出る最初の切っ掛けは略奪婚でしたが、ああでもしなければ私は「毒家族」たちにとことん身も心も搾取され続けたでしょうし、今日を迎えることなど出来なかったと思います。
 

 
2022年11月3日、都内のホテルコンチネンタル府中内の「レストラン Colt」を予約し、厨房からは総料理長と洋食の料理長、そしてパティシエその他の方々、そして総支配人まで駆け付けて下さり、可愛い女性スタッフのバースデーソングを聴いた時、正直泣きそうでした。
 
幸先の良い一日だったと、心から思います。
 
そして以前私が熱く関わっていた(皆さんもきっとご存じの)某5人組男性グループの育ての親(Jさん)の御霊もふっと現れ、その後ろには私が過去世「ファン・ジニ」だった頃の師匠が何故か仁王立ちの笑顔で控えておられました。
 
益々長生きして、そしてとことん利他的に、徹底的にストイックで辛辣な生き方(人生哲学)を今後も貫いて生きて行こうと心に決めました。
 

PS: LINE、TwitterのDM、Facebookのメッセンジャー等にお祝いのメッセージ(お祝いの品等もありました)を寄せて下さった多くの皆様に、この場をお借りして心より感謝を申し上げます❤
 

2022年10月7日 ツイートのまとめ

久々に恩師・三善晃氏にまつわるツイートや、私の過去世の断片を綴ったツイートが連発しました。
記録がてら、この記事に一旦まとめておきます。
 

 

 

 

 

 

 

Return to the Forest

先日私の住む町で大きなお祭りが開催され、町中がお祭り一色で塗り潰されて行きました。
数年振りの祭り開催で人々が賑わい集う一方で、街路樹の木々たちは次第に寡黙になって行きました。普段ならばむしろ私の方が「いい加減にやめて欲しい」と感じる程に大らかに歌を歌う木々たちが、町中で繰り広げられるお囃子やそれに群がる人々の喧騒に対して不快感を露わにする様子を、私はつぶさに感じていました。

お囃子と電飾を担いだ多数の山車で大通りが賑わい始めると木々たちは益々不機嫌になり、祭りが終わる時刻が近づくにつれ私は、その影響で全く起き上がれなくなる程の筋肉痛や強烈な頭痛に見舞われました。

 

 
この数年間で地球全土に広がった新型コロナウィルス・パンデミックの背景に自然神や地球上の精霊たちの思惑が潜んでいることに、どれだけの人たちが気付いているでしょうか‥。
 

色々な噂が陰謀論と抱き合わせに広がっては否定され、なじられたり揶揄されて来ました。ですが一つだけどこからどう攻めても崩れ落ちない事実があるとすれば、発祥不詳な前代未聞のウィルスとの闘いが現在も地球全土で続いていると言う事です。
 

最初は「グレートリセット」や大幅な「人口削減計画」等と言う言葉と共に否定されがちだった色々な噂が、次第に現実味を帯びて行く今日この頃。
段々と新型コロナワクチンの副反応(副作用)による危険な実態がSNS上でも明らかになり始め、これまで二度~三度とワクチンを接種して来た人たちでさえも「四回目は打たない」と言う密かな決断を選択しています。
 

問題はこのパンデミックが元々は自然神や地球上に点在する精霊たちの思惑の側であり、彼ら‥ 精霊たちは既に「人間」と言う生物を危険認定したと言う点にあるでしょう。
人類は数年間、生活に必要な必要最低限の活動のみに行動を制限し、兎に角人類全体が大人しくしてくれればその間に地球上の大気の汚染も改善され、さらには新たなウィルスの移動や拡散も防げただろうに、人間と言う生き物は群れて集って騒ぐことに躍起になり、地球各所でロックダウンが施行されても数か月とその沈黙を維持することが出来ませんでした。
 

たった数年間、人類が各々の場所で静かに生活を営むだけで良かったにも関わらず、多くのロックダウンは数週間から数か月間で解除され、その途端に上空をこれでもかと言う数の飛行機が移動し、地球の各所で大勢の人々が集う祭りやイベントが再開されて行く始末。
 

 
ヨーロッパの大半はその昔、全体が大きな森でした。その偉大な森を人間が無制限に開拓し、今の都会的なヨーロッパへと変えてしまいました。
今、木々たちや精霊たち、自然神等は人類の開拓によって失われた森を取り返そうと考えています。
 

そして心の中で、こう囁いています。
『どうしても私たちの願いを聞き届けてくれないのならば、人間どもよ、あなたがたが森になりなさい。』‥
これが何を意味するかを考えると、今現在起きているウィルス・パンデミックの真の理由と意味が必然的に明確になる筈です。

夫・天野玄斎の予言によれば、近い将来、特にヨーロッパの多くの都市が機能しなくなるとのこと。
つまりヨーロッパの大半が元々そうであったように、森に返るのです。多くの人々が強制的に土に返され、魂の一つ一つが木々として生まれ変わり、地球再生に手を貸すことが必須となるでしょう。
 

人類は先ず、群れて集って騒ぎ立てる生き方を止めなければなりません。
兎に角静かに、兎に角厳かに、自分の傍に常に小さな乳飲み子が眠っている時のように細心の注意を払い、大声を出したり大きな音を立ててはいけません。
今賛否両論を巻き起こしている「黙食」は、さしずめその人類に課された「寡黙の使命」の一つと思って間違いないでしょう。
 

人類が森や地球上の生き物の生態系を分断し破壊したのと同じく、次は木々や地球上の精霊たちが自らの意思で人間に同じミッションを課しているだけのこと。
人類は彼らの要求を先ず、完全に呑まなければなりません。
 

 

2016年7月2日、Didier MerahはSacred Forestと言うピアノ・アルバムをリリースしています。
 

 
このアルバムの冒頭の作品がReturn to the Forest

当初私はこの曲の本当の意味に、未だ気付いていませんでした。
ですが新型コロナ・パンデミックに数年間振り回された後の今、振り返ればこの作品Return to the Forestの本当の意味に気が付かざるを得ない状況に、自身が置かれているのを感じます。
 

これは単純に「森に帰る」と言う意味ではなく、精霊たちが、多くの森を奪った人間たちを全て地中に埋めて森を取り返そうとする意志を、無意識のうちに私が音楽に置き換えていたと言う意味に捉えて下さい。

勿論、皆様も既にご存じの通り、Didier Merahの殆どの音楽は予言と預言で出来ています。
当然不穏な予言に於いては、その予言を回避する旨も音楽の中に封印して配信しています。
 

危うさと凶暴性の共存 – Coexistence of danger and ferocity

表面的にはこの二か月間以上、「世界の音楽」の新譜チェックとプレイリストの更新を止めていますが、水面下では色々と動きが活発で若干忙しくなっている私です。
 
私自身の音楽の今後を見据えている時期と重なるように、各方面のタレント系或いはパフォーマンス系の裏方からのアクセスも増えています。
ですが私は自身の創作活動を最優先している為、今後「裏方」の仕事に絡む気が全くないことを、一先ずここで公言しておきたいと思います。
 

世界が負のエネルギーに強く揺さぶられ、明らかにマイナスの方向へと突き進んでいる現状に比例するように、ネット上に更新されて行く音楽も「負」の面を表にしながら後退しているように私には見えて仕方がありません。
特にピアノ・インストゥルメンタル系やLo-Fi系の新作の多くが音質及び楽曲構成に「歪み」を生じさせていて、何故そのような方向性に多くの同系統の音楽家たちが一気に突き進んで行こうとするのか、私はその状況に一種の恐怖を感じます。
 

 
最近知ったのですが、昭和のニューエイジ・ミュージックの先頭を切って走っていたカナダのアーティスト、アンドレ・ギャニオンが2020年12月3日にひっそりとこの世を去っていました。
残念なことに日本国内に、彼ほど良質なニューエイジ・ミュージックを生み出すアーティストが存在しません。
ですが類似品や模造品のようなものを作り続けているアーティストは若干居て、この「誰もが対等なスタンスで音楽配信の出来る」今の環境下で彼らは競うように切磋琢磨しながら、歪みの深い不可解かつ不快な音楽が多く配信されています。
 
特にアカデミックな教育を受けた人材が一度道を踏み外すと、ある種の自信や自負の念が悪い意味での拍車となりどこまでも転がり落ちて行ってしまうのは、傍から見ていて胸が詰まります。
自身が持つ「アカデミック」がつまらなく見えて来る瞬間があるのか、元々持っている秀逸な才能を破壊衝動の側に向けてしまう人たちが後を絶ちません。
 
ですが忘れてはいけないことを一つ挙げるとすれば、たった一曲の作品と百万曲の商材音楽とでは数の上では後者が有利だとしても、最終的に後世に受け継がれて行くのが圧倒的に前者であると言うことです。
その「たった一曲の芸術作品」を生み出す人の人間性もおそらく寡黙で頑固な故に、多くの商材音楽を生み出す人の「華」に圧されて負けてしまうような錯覚に瞬時的には陥るとしても、最後の最後は亀の速度で全ての小走りなうさぎたちを圧倒して行きます。
 

 
上の動画は亡くなったアンドレ・ギャニオンの作品の中で私が最も好きな一曲『Épilogue』ですが、原曲のリリースが古い為、サブスクリプションからの配信が遅れているようです。
 
アンドレ・ギャニオンのヒット作品と言えばめぐり逢い明日等が挙げられると思いますが、あくまで上に挙げた2曲は「商品」であり、「作品」と言うには出来栄えが悪すぎます。
にも関わらず、いかにも目立ってメディアや広告業界が推している作品の方へとリスナーを誘導して行く流れは相変わらず止まることが無く、いずれそれがどこかの時点で決定的な音楽文明の消滅の引き金を引く日が来ることを、私はとても危惧しています。
 
多くの人々は目に見える「滅び」に直面しなければ、のらりくらりとそれまでの物事の流れを維持出来ると思っているようです。

私自身、こうして自分以外のアーティストの作品を紹介したり評論したり‥ と言うアクティビティーで、衰退の一途を辿って行く音楽文化の維持に手を貸している一人なのかもしれません。
ですが少なくとも「正しい音楽」或いは「良質な音楽」の紹介や、それらの見分け方のヒントを丸ごと公開しており、少しでも良い感覚を持ったリスナーが自信を持って他の人たちに胸を張ってその旨を伝えられるよう、沈み行く音楽文化の下支えの一端を担えれば良いと考えています。
 

 
先日、少しだけプレアデス星のセムヤーゼ女史と「音楽」の話になりました。
彼女こそ地球上で当時最もヒットを飛ばしていたビートルズのロックンロールに傾倒した一人でしたが、或る件で長い長い眠りに落ちてそこから目覚めた時に最も聴きたい音楽がビートルズでも何でもなかったと、私に話してくれました。
先日崩御されたエリザベス女王に関してはと言えば、女王の中で今も生前の記憶として残っているものを挙げるならば「パイプオルガン」と「クラリネット」の音色だそうです。

両女性共に単旋律を聞き取る力は備わっているものの、コード(和声)やコード・プログレッションを聞き取るには至らないようです。
 
つまり人間の場合(プレアデス人も含む)、一個の音楽を聴く時に最初で最後に心と記憶に残るものは歌詞でもコードでも表現者の声色でもなく、単旋律の美しさのみだと言っても過言ではないようです。
 
いつか訪れるその日があるならば私は、是非プレアデス星のセムヤーゼに自身の音楽を届けたいと言う夢を抱いています。
それは私の創作の目下の課題の一つであり、今世で辿り着く可能性のある最終ゴールとなるかもしれません。
揺れる黄色いテープを目指し、これからも預言や予言、或いは自然神の声をそっと封印しながらの私の音楽作りの人生は止むことなく続いて行くでしょう。
 

小さな日記

とある出来事から生活環境が変わり、生活環境の変化が食生活の変化を生み出した。
食生活の変化はものの考え方の基本を根底から揺るがし、昨年まではただただ倹約(節約)に忙殺されていた暮らし方の根底が見事に変わった。
 
つまりそれまで観続けていた貧乏飯の動画を観る必要がなくなった。
 

 
何かと味の素を乱用している某YouTuber(リュウジさん)の動画に逐一キレていた日々を脱し、今はオテル・ドゥ・ミクニさんの動画から多くを得ている。
良い食事と食生活は時間のゆとりを生み出し、それが家庭で作る料理の質そのものを向上させて行く。
 
因みに前回の転居の理由はDidier Merahのアンチから夫婦二人の身を守る為の一種の避難行動だったが、今回はそれとは違う。
これまでの人生に必要だった荷物や生活必需品の大半が、要らなくなった。
新居に持ち込める荷物は限られている。教員免許と卒業証書以外、荷物は何も要らなくなるかもしれない📦
 

 
生まれて初めて大粒のルビーのペンダントを買った。これ、なんと2カラット。
 
他の石も少しずつ揃えて、アクセサリーBoxが少しずつ華やいで行く。‥するとそれまで身に付けていた天然石のブレスレットが、あからさまに釣り合わなくなった。
良いものを知るとは、こういうこと。
 
両耳合わせて4つのピアスホールを空けているので、ついでにダイヤモンドのピアスも買った。半年前まで付けていた複数カラーのジルコンのピアスを、遂に手放す時が来た。
身のこなしがどこか堂々として、それが新たな優雅さを醸し出す。
対人関係にも大きな変化を余儀無くされている。

だがここは注意すべきポイントで、私がどう変化しようがしまいが変わらず関わって行くべき人たちのことを、私は忘れてはいけないと思う。

※勿論私がみすぼらしい身なりだった時から私の本質を見抜いて、そして分相応の接し方をして来て下さった人たちに限る。

 

バッハ (J.S.Bach) と言う過去生の自分

私が過去世 ヨハン・ゼバスティアン・バッハ であることは、あくまで私の過去の魂の履歴に過ぎません。
何故自分がその人であることを確信するに至ったか‥ と言うご質問はこれまでにも何度か投げ掛けられていますが、それは簡単に言えば「あなたは何故自分が人間であると確信するに至ったのですか?」と言う質問と、内容はほぼ一緒です。
なので答えるまでもありません。
 

他人事としてバッハの偉大さを挙げるとすれば、例えば以下のようなことになるでしょうか。
 

  1. 教会音楽、或いはゴシック様式の礎を築いた最初の人であること。
  2. 対位法と言う前人未踏の音楽理論を確立した、最初で最後の人物であること。
  3. 即興演奏の名手であったこと。これが後のサロン音楽文化の基礎となった点は見逃せません。
  4. 空間音響学の基盤を構築した最初の人物であること。
  5. 何より音楽全般の父として、作品や生き様、音楽理論に於ける彼の多くの実績が後世に受け継がれていること。


挙げればきりがないのですが、現在私が次世代の音楽の基盤を新たに構築している点を理解出来る人であれば、私がその人 ヨハン・ゼバスティアン・バッハ であったことに於いては矛盾を感じない筈です。
ですが全てはあくまで、私の過去世の魂の変遷でしかありません。私は私、Didier Merahでありそれ以上でも以下でもないと同時に、現在に至るまで私のような人物が二人と存在しないことも又事実です。
 

 
Didier Merahは現在、自身の半生のお片付けの真っ最中です。未だ手の負傷も完治していないながら、新作のメモだけは日々湧き出て困っています(笑)。
人生の大掃除中にて、暫くは音楽評論や音楽紹介、音楽鑑賞にエネルギーを注ぎながら次の自分に備えて準備中です。
 
作品のみならず生き様を含む全てを次世代のサンプルとして確立しようと試みている最中なので、これからの私の言動はきわめてシンプルできわめて歯切れの良いものに進化して行くことになるでしょう。
 

一見優しい音楽を生み出している私ですが、言葉はとても辛辣でストイックです。
付け焼刃な甘ったるい同情は、一切しないことをポリシーとして生きています。私に何かしら話し掛ける時は、「歴史上の音楽の父」として、そして「次世代の音楽の母」を目の前にしていると言う気概と覚悟をもって接して下さい。
以後、このルールに反する内容(言葉遣い含む)のDMやメールには、返信はしないつもりです。

礼節は尽くして下さい。お願い致します。
 

 

Chouchou(シュシュ)と最果ての女神

かねてから私が個人的に注目している日本の男女(夫婦)のユニット Chouchou が、2年振りにニューアルバム最果のダリアをリリースした。
 

 

アルバムタイトル『最果のダリア』の「最果て」の「て」をあえて抜いている理由について、彼等は一言も語っていないが、日本語として「最果て」から「て」が抜けていると若干違和感を感じる。
私が実はコテッコテの日本人だからなのか、それとも否か‥。おそらく「最果て」から「て」を抜いたことには何か、彼等なりの理由があるのだろう。そう思うことにしよう。

今回のアルバムで注目すべき点は、さっと要約すると以下の3点に集約される。
 
juliet Heberle のヴォーカルが穏やかに、尚且つ無理のない発声になったこと。そして彼女の歌唱表現から承認欲求が、完全に抜け落ちた点。
 
②何より arabesque Choche のメロディーメイクがシンプル化し、これまでのアルバムに見られる過剰で不要な冒険欲が一切削ぎ落とされた点。
このことによってメロディー自体が普遍性を帯びたことは、他のJ-Pop系のライター陣の域を一歩二歩飛び出て、楽曲全体のクオリティーが格段に向上した。
 
③ゲストプレイヤーとしてギタリスト maya Kawadias が参加したことにより、これまでの「俺って凄いぞ!」的な、Chouchouの楽曲全般に横たわっていた嫌味が全て抜け落ちた点。
そのことにより、むしろユニット Chouchou のカラーが際立って来たことは皮肉とも言えるが、私は良いことだと捉えている。

 

juliet Heberle の真骨頂は「声」ともう一つ、独特な「詞」の世界。本作品最果のダリアでもそれは引き続き健在であるが、むしろ以前よりもシンプルで歌詞表現が控え目になった分、楽曲に詞が乗った時の音速が飛躍的に向上した点は見逃せない。
それでいて、歌詞だからゴロ合わせでしょ?と思われそうな随所随所であっても、その作品自体を散文詩としても読ませてしまおうと言うこれまでの意気込みは変わらない。
つまり完成した歌詞であると同時に、未完成(楽曲の余地を残したと言う意味)な散文詩として完成されている。
 

あえて一曲一曲の詳細の解説は、私自身の作品ではないのでここでは割愛するが、このアルバム全編を聴いた後にふと、岩崎良美の過去のアルバム『月夜にGOOD LUCK』の冒頭の『夏の扉』が心の中に現れた。

 

 

岩崎良美はこのアルバムをリリースした直後に或ることが理由で声を失い、一度芸能界から身を引いている。
この曲夏の扉(作詞: 長谷川孝水 / 作曲: Bobby Watson)で、岩崎良美はそれまでの楽曲全般に見られた、生まれ付きの「美声張り上げ系」の歌唱スタイルをガラリを変えて、出来る限り静かに静かに、静寂を壊さぬ声量と表現スタイルをキープしている。
今にして思えばこの頃から彼女のメンタル或いは体のどこかに変化があり、こういう歌い方になったのかもしれない‥ と憶測することも出来る。あくまで憶測の域を出ないが。
 

一方Chouchouのアルバム最果のダリアでヴォーカルと詞を担当している juliet Heberle の場合も声質の変化を私は見逃さなかった。
ここではあえて理由詳細の記載はしないでおくが、以前のアルバムと比べると彼女の声のホワイトノイズ系の成分が増している。
それが理由で、それまでの彼女が持っていた高音域のツヤ感が消えたことによりむしろ、彼女の声質の少女性から女性性への、声の変貌を感じ取ることが出来る。

聴く人によっては、それを「母性」と感じる場合もあるようだ。私の場合は「母性」と言うよりもっと広い意味での「女性性」を、彼女の声から感じて仕方がない。
 

彼等は自身の音楽を「エレクトロニック」とカテゴライズしているが、本来ならばもっと広いカテゴリーである「J-Pop」に分類しても良さそうだ。だがそのカテゴリーでは上に上がつっかえており、色々ブランディングの観点からもやりにくいのだろう。

だが arabesque Choche  の才能あふれるメロディーメイクの才能を、「エレクトロニック」や「ポスト・エレクトロニック」等のマイナー・ジャンルに閉じ込めてしまうことにより、そのジャンル・カテゴリーでは確かに首位に駆け上がれるのかもしれない。だとしても、arabesque Choche 自身の持つメロディーセンスがこの、地味なジャンルの彼方に追い遣られるのは、ただただ勿体なく感じてならない。
 

今回のアルバムで特に印象に残った作品は、『Sapphire』『Flashback』。そしてもう一曲、Orionである。本音を言えば、私が今現在「歌もの」のメロディーメーカーを辞めていて良かったと、胸を撫で下ろした。
楽曲Flashbackでは arabesque Choche のサブドミナント発車のメロディーに、 juliet Heberleのシンプルで洗練された言の葉ワールドが控え目なのに、大胆に炸裂して行く。

 

 
そしてM-7Orionを聴いた時、 juliet Heberle の背後に突如中森明菜が現れた。彼女なら、この曲を違う視点で見事に歌い込むだろう‥ と。
当時私が芸能界で何をやっていたかについては触れないが、ふと、中森明菜のJEALOUS CANDLEが蘇った。
 

 

名曲は時空を超える。私はそう確信している。
勿論両曲を比較することなど馬鹿げているが、名曲を論評する時はその対象として名曲を持ち込んで比較することが望ましい。

又、 arabesque Choche の編曲の随所に、どこか坂本龍一氏の「耳」の片鱗を感じるのだ。もしもこの楽曲に maya Kawadias が参戦していなかったら、もっとそれが露骨に感じられただろう。だがことある毎に maya KawadiasがChouchouの空間に茶々を入れるので、 サウンド全体が丸みを帯びて深みが増して行く。言ってみれば maya Kawadias はChouchou邸の座敷童のような存在に近いかもしれない。
上手に上手に二人を邪魔しながら、幸運の種を蒔いて行く不思議な人だ。
 

楽曲Lovers & Cigarettesの冒頭から、 juliet Heberle の声の背後にうっすらと男性のヴォーカルがかぶっている。この手法が妙に坂本龍一氏の「耳」を彷彿とさせ、何やら私は懐かしい。
そしてM-5Girlの中サビの、男性ヴォーカルがうっすらと顔を覗かせる瞬間、arabesque Choche の背後霊のように坂本龍一の「耳」が金粉を撒き散らす。

 

 
このアルバムの音楽評論を書くにあたり、私はこれまでの数十年間の新旧J-Popを引っ張り出して彼等のテイストと何が異なるかについて、丹念に紐解いて調べて行った。
そして何を比較対照として並べて行くべきかについても色々考えあぐねたが、殆どのJ-Popが Chouchou のその輝きに惨敗した。

佐野元春、松任谷由実、中島みゆき、椎名林檎、宇多田ヒカル、藤井風…、雑魚ではなく良質・売れている作家を比較してもっとゴリゴリ語り潰したかったが、Chouchouの音楽がそれを許さなかった。

音楽評論をする時、何が良くて何がいけないのか‥ を綴ることは必要最低限のルールである。なのでその為の音楽資料を探したが、むしろ比較することが罪であるかのように、arabesque Chochejuliet Heberleの二人の睨みに評論する側の私が推し潰されそうだった。
 

最近の多くのメロディーメイクは、佳境に差し掛かるとラップに逃げる傾向が強い。殆どのJ-Pop、K-Popを含むアジアのポップス全般にそれは見られ、全体を一個の音楽として魅せて行く音楽が激減した。
だが未だ、Chouchou が残っているではないか!
 

心に残る音楽、記憶に残るメロディーの最大の武器は、旋律の帯である。

ヴォーカルの癖に逃げ込むことなく、何があってもヴォーカルが最後の壁一枚で音楽や楽曲を守り抜かなければならない。その力が Chouchou にだけ備わっているのは、一体何故なのか。

常に音楽を「声」と言う壁一枚で守り抜く juliet Heberleの歌声には、何かとてつもない大きな悲しみや痛みが宿っている。それがどの楽曲であっても脈々と音楽を溶かし込み、聴き手にその一部を悲しみのトリガーとして刻み付けて行く。
だがそれはやがて、愛、優しさを湛えながら大河となって聴き手の心を上から下へと滑り落ちて行き、体や魂のど真ん中の「心」へと激しくたたみかける。
 

日本のメロディーメイカーがこぞって失ってしまったもの(大自然にも通じる何か)が、ここ Chouchou の世界には未だ、ほぼ手つかずのまま残っている。
フランスの名水Volvicが遂に今年、地球から姿を消してしまったがそういう事態にならないように、是非とも透明で澄んだまま Chouchou には生き続けて欲しいと願わずにはいられない。

 

 

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