ショパン国際ピアノコンクール 2025’、一次予選を通過した日本の演奏者の中で黒一点の牛田智大さんの一次予選の演奏を聴いてみる。
冒頭曲は私も大好きな『Nocturne in B major, Op. 62 No. 1』であり、さらに私/ディディエ・メラ (Didier Merah) が最も得意とするKey (調) でもある『H-dur (B Major)』の一曲だ。
大好きな曲だけにダンボの耳で演奏を聴き進めて行くが、‥どこか牛田の演奏の中に汗臭さと労働もしくは体育会系の気配がチラチラとするので、集中力が維持出来ない。
この曲自体がそこはかとなく西洋音楽以外に、中東~アラビックなモードが立ち込める構成になっており、その意味でもショパンの中では珍しく『モード音楽』の様相を呈しているのではないだろうか。
その肝心要のモードの部分 (動画 6:58~7:10付近) のパッセージがいとも簡単なスケールやアルペジオと言った解釈で、ただ、粒を揃えているだけのつまらない表現になっていて、個人的にはかなりの残念ポイントだと言わざるを得ない。
まぁこれはピアノ競技の審査会であるわけだから、表現よりもミスタッチの有無や演奏者の正確性の密度だったりスタミナだったり、言ってみれば表現解釈度外視でも運動性に依存した演奏解釈の方が審査員の印象が良いのかもしれない‥ としても、果たしてショパン本人がそれを目論んでこの楽曲を生み出したのかと言われると、巫女体質の私としては『多分違うと思いますよ。』と回答せざるを得ない。

2曲目『Etude in C major, Op. 10 No. 1』については特に述べることもなく、普通に音大生が演奏するレッスンのエチュードと言う以外に何のインパクトもなし。
次いで3曲目『Waltz in A flat major, Op. 42』に関しては、野球に例えれば『2アウト/2ストライク/3ボール』の見せ場を迎えている状況に近いだろう。
ショパン好きの私としては、ショパンと言えば『天上界の音楽を生み出し奏でた作曲家』だと言いたい。だが、牛田のこの表情はまさしくスポーツで言うところの『もう後がない』状態のそれであり、わざわざこの表情を抜き取ったTVのADさん‥ 『グッジョブ!!』と言いたい心境だ(笑)。
各パッセージは確かに正確で粒は揃っているが、表現に到達出来ていない。これだったらむしろ、自動演奏で十分だ。下手にヒトの顔が無い分、音楽に集中させてくれるに違いない🤖

さて4曲目『Barcarolle in F sharp major, Op. 60』、此方も私が大好きで得意とする『H-dur (B Major)』の曲で攻めて来る。途中何度か6度の和音のアルペジオの箇所が現れるが、その6度の最も官能的な響きを単純にスポーツ的な解釈であっさり通過して行きやがった牛田選手(笑)⚾
ほぼ全てのパッセージが『俺、ミスなく正確に弾いていますよ』とでも言わんばかりの、正真正銘のただの運動性依存の演奏に終始している。
確かに審査員にとっては遠目でも分かりやすいだろうが、これはショパンでも何でもない。
途中の転調 (19:31~付近) に至る最もショパンらしさが書かれている筈の箇所も、まるで階段を上り下りするリハビリみたいに通過して行く‥。
もうたまったものじゃ~ない。
ここで少しだけ動画を止めて、私/Didier Merahがショパンをオマージュして作って配信したアルバム『Eden』の冒頭曲、『Happiness』に移動して試聴してみる。
この作品も、私が大好きな『H-dur (B Major)』の楽曲だ。
先ずこの作品は ベーゼンドルファー (Bösendorfer) の音源を用いて、即興演奏の手法で演奏されている。
ベーゼンドルファーは残響に特徴があり、その特徴である残響の効果を存分に発揮させるには、楽曲のテンポをうんと落とす必要が絶対的に生じる。
私は実際に都内各所でベーゼンドルファーの生楽器を演奏しているが、それらのどの楽器もかなりのじゃじゃ馬気質を持っており、特に高速のパッセージの速度を間違うと残響が濁ってしまうのが悩みの種だった。
『Happiness』の作曲を開始する上で重要だったのは、『60歳のショパン、もしくはそれ以後の覚醒したショパン』をオーパーツとして再現することだった。
既に亡くなったフレデリック・ショパンの御霊と何度も交信を重ね、完成したのがこの作品であり、この曲は完全に一発録音の即興演奏で収録している。
ことさら比較するまでもないが、Didier Merah (ディディエ・メラ) の『Happiness』が「覚醒後のショパン」だとしたら、既存のショパンの楽曲は「未覚醒のショパン」と言い替えても良いだろう。
未覚醒のショパンをどんなに丹精込めて演奏したとしても、そもそも楽曲自体の熟成が為されていない以上それを極限の状態で誰が再演したとしても、『それなり』以上の出来栄えにならなくても致し方ないと言えそうだ。
クラシック音楽の起承転結は、私から言わせて頂ければ「不要」な箇所である。
覚醒した魂には普遍性がともない、ヒトが思うエモーションは徹底的に弾き飛ばされる。ショパンが目指していたのはその世界観であり、それゆえに「天上界の音色」を日夜彼は追い求め続けたと言える。
選手/ 牛田智大は日本国内では既にプロの演奏家として活動しており、多くのリスナーを抱え込んだ状態での今回のショパン国際ピアノコンクール 2025’へのエントリーである。勿論運営サイドも、既にファンを獲得しているこういった出場者には期待を寄せるだろうし、そこそこ演奏技術を兼ね備えていればある程度の点数を叩き出して行くと思われる。
クラシック音楽が芸術を踏み越えて「商品」になることは絶対にあってはならないと、私は考える。だが、多くの既存のクラシック音楽関係者等には、その観点がない。
いかに見栄え良く、いかに稼ぎいかに集客を達成し、いかに食って行けるか‥。その技能を持つ人材を、クラシック音楽関係者等は血眼になって探しているに違いない。
その観点で言えば、男性演奏者で尚且つ日本国内に多くのリスナーを抱え込んでいる (半分以上は事務所の采配) 牛田選手が、今後同コンクールで上位に食い込んで来る可能性は否定出来ないが、彼が表現者になることは未来永劫ないだろう‥ と、先に予言しておきたい。
最後に付け加えるならば、既存のクラシック音楽の、特にピアノ曲のミックスのエフェクトがからっからに乾いてしまっている点が残念だ。
レコーディングされた音源のエフェクトが乾き切った肌みたいにかさついているから、多くのクラシック音楽のリスナーは『やっぱり生演奏がいいよね。』と勘違いするのも頷けるが、これはミックスとマスタリングの技術と感性の致命的な欠落が原因だと思われる。
何故実際の会場に近い環境の、もっと深いエフェクトを掛けてミックスしないのかと、常々疑問に感じている。
その観点から、クラシック音楽の生演奏が突出して優れている訳ではない‥ と言う点は最後にお伝えして、この記事を締めくくりたいと思う。




