日々の言葉 2026/10/05 ~ 2026/10/11/

目次

・26/10/06 Tues. 『歌稿』
・26/10/07 Wed. 『着眼』
・26/10/08 Thur. 『台風の子供たち』
・26/10/09 Fri. 『ホタテ貝を焼く』
・26/10/10 Sat. 『Minaに浸る』
・26/10/11 Sun. 『重い』
 

26/10/06 Tues. 『歌稿』

すこぶる体調が良くない。ただでさえ体温が上下乱高下する中、早めに未来短歌会への歌稿を済ませた。

他の結社と未来短歌会の大きな相違点は、選者を自身で選べるところにある。
但しこれにはリスクもともない、選者と万が一ソリが合わなくなった時の身の振り方が難しくなる。

前結社(未だ退会出来ていないが)では選者を選ぶシステムが無く、何となくくじ引きのような感じで誰が選に当たるか分からない不安が常に付いて回り、かと言って選評後の歌の報いを感じられず、ずっと悶々としていた。

とは言え何れのケースであっても、最後に付いて来るのは人と人との相性のようなものだろう。
基本的に人嫌いの私としては、本当ならば選だの評価だのと言うプロセスを経ない、自由な空間で漂って居たいところだがなかなかそうも行かない。

歌稿からその後も緊張で悪寒が止まらず、明日は半日か一日寝て過ごすことになるだろう。

食欲だけはまあまあ尽きない。いかに糖分をカットして行けるかと、日々キリっキリしながらおやつタイムで戦っている。
 

26/10/07 Wed. 『着眼』

古いもの、古い言葉を大切にすること。それはとても尊いことだけど、思考がそこで止まってしまうのは如何なものか。
さらには現代人が普段会話では使うことのない古語に縛られて、旧仮名づかいみたいなもので表現を固めてしまう、これは絶対あかんと思う。

口語=軽い、みたいな間違った認識で短歌や川柳を一刀両断に弾き飛ばす、これは絶対にタブー。

どのように現代の、今、日常的に使われている言葉を柔軟に使いこなして行くのか。そこに勝負を挑む歌人や川柳家がもっともっと日の目を見て欲しいとも思う。

とは言え表現には人生経験が必須。
若くて言葉回しがどんなに器用でも、そこに嘘臭さや人生経験の無さが露呈するようでは、表現者としては未だ未だだろう。
(ザッと空で14~5人は思い付くけどね‥笑。)

 

26/10/08 Thur. 『台風の子供たち』

太平洋辺りで台風が生まれる瞬間、私はいつも酷く体調を崩す。概ね頭痛。
どうやら台風が生まれる時に精霊が着床して無垢なエネルギーが生まれ、その無邪気な力が私の霊体を強く引っ張るから‥ と言うのが個人的な分析結果。

霊体と肉体は常に同期してはいるが、反応と順応には時差が生じる。一般的に言われる「低気圧性の偏頭痛」とは少し異なる症状で、特に眉間から少し右側が痛みの発信源になるらしい。

何もやる気が起きない木曜日。先ずは頭痛薬を飲む。
明日は月一の歯科通院日なので、このまま脱力しながら少しだけ読書をして眠りに就く。

 

26/10/09 Fri. 『ホタテ貝を焼く』

歯の検診結果は上々だ。相方に薦められた柔らかい歯ブラシが功を奏し、一時は抜け落ちそうになっていた奥歯の戻りも安定している。

気分が良かった勢いで、相方と二人で焼き肉屋に直行。お決まりのコースをサクサク進み、今回初めて魚介をオーダーしてみる。
相方は甲殻類が食べられないので、一先ずホタテ貝を頼む‥ これがとことん体に沁みた。

塩味が軽く付いていたので、あっさりレモン汁を付けて口に放り込んで行く。
‥カイ、、カン。思わず薬師丸のささやきがこぼれ落ちる。

一昨日、昨日と二日間連続でケーキを食べたので、今日は止めておく。ケーキを食べるとやはりウェイトが増えて戻りにくくなるから、と言う健康上の理由で我慢ガマン。

穀物を胃に入れなかったので、きっと深夜にお腹が空くかもしれない。
が、帰宅したら一先ず休む。

週末は又、音仕事の忙殺が待っている。

 

26/10/10 Sat. 『Minaに浸る』

 
イタリアの(おそらく)最長老の女性歌手/Mina(ミーナ・マッツィーニ)の、86歳の新譜が美しい。イタリア贔屓の私が昨年のオルネラ・バノーニの逝去からなかなか立ち上がれず、間もなく一年が過ぎようとしている。
時間とは残酷だ。容赦なく過ぎて行く。
だが、時間を味方に生き延びて行く種がヒトの中に居ることは、今の私の大きな原動力にもなり得る。

イタリアはMina、そして日本はと言えば大貫妙子や吉田美奈子‥。
女性は(特に)両親の介護等を経た後に、自らの取り返しのつかない老いに立ち向かうことになる。私もそれで苦労している人たちを沢山見て来たが、幸い私は両親に「破棄」された子だったことは幸運だったかもしれない。
寂しさもありつつ、毒親の毒をまともに喰らうことなく私以外の家族全員が旅立った。
棄てられた子に出来ることは、ただ一つ。墓じまいだけだった。それも済ませた今、正真正銘私は創作活動に全力投球出来る土壌がようやく整った。

Minaを聴きながら思う、彼女はどんな人生を歩んで来たのだろうかと。
そして今最も気になっている吉田美奈子氏の人生は‥。彼女は今、生き生きと第二第三の歌手人生を謳歌していると知り、少し安心した。
彼女が私を嫌いでも、私は彼女の音楽を心から愛している。人を想うことの幸せを、吉田美奈子の音楽がそっと教えてくれる。こんなに幸せなことはない。

「悲しみの停まる街」‥。やはり彼女はうねりながら、唸りながら、人生を太く長く生きて行くだろう。そう願って止まない。
 

26/10/11 Sun. 『重い』

なかなか馴染めない『文フリ』の響き。大勢の作家が一堂に会するイベントらしいが、人混みも人も好きじゃない私にはちょっと不快な響き。

Xが『文フリ』で賑わっているらしいが、外国語を見るようにそれをスルーして行く便利な脳ミソを持っていることを、私はとても誇りに思う。

それより何より花粉症。鼻の皮膚の一部が日焼けしたみたいに熱い。
アレジオンも効かなくなった。

今年は症状が重い。
連休中、私も少しだけ重くなった。
 

神々への想い (My Mind for My Gods)

目覚めの良くない朝のような、2026年の始まりは私にとってそんな幕開けとなった。だが良くないことばかりではなく、本来私個人的な今年の流れは穏やかになる‥ と言う女神からの伝言も受け取っている。
 
オルネラ・ヴァノーニの逝去の知らせを聞いた直後から、心が塞いでいる。
直前の過去世の記憶はあやふやで不鮮明ではあるが、昨年暮れまでの色々な経緯を見ると私が彼女を悼む気持ちにはきっと、現世的なこと以外の理由がそこに挟まっているように思えてならない。
それはサビノ神父が死後にようやく私に語り掛けて来た時の、あの感覚に似ている。
 
生きていると視えないことが、肉体を離脱することで視えるようになる、喩えて言うならばそんな感じかもしれない。
 

 
ヨーロッパのクリスマスは、日本のそれよりも少しだけ長くシーズンが続く。
なのであろうことかSpotifyが今頃になって、Mina (ミーナ・マッツィーニ) のクリスマス・アルバムを私に見せつけて来た。
勿論Minaは未だ存命だが、彼女の歌声の彼方にふと‥ オルネラ・ヴァノーニの面影が横切って行く。逃さず私はその後ろ姿を捉えて掴もうとするけど、ヴァノーニは足早にどこかに消えてしまった。
 

‘I’ll be home for Christmas‘ を英語で歌うMinaの、針金のような歌声が余りに凛々しくて、彼女の声を聴いていると生き残って行く者の輝きと重責の両方を私も又背負っていることを、ひしひしと痛感する。
 

 
2026年について、一部ではワクワクするようなポジティブな一年になるだろう‥ 等と言う話をしている人たちもいるようだが、私は昨年暮れの当ブログ記事の中でもそれとは逆の預言を綴って来た。
 

 
出来れば形になって欲しくないことを事前に察知し、それが現実になった時の心の重圧がどれほどのものなのか、実際に予知の精度がアマい人には到底理解出来ないだろう。
 
私に出来ることは限られている。
だからこそ、私は昼夜を問わず夢中で祈る。ただそれだけである。
 

2025年秋から、筆名「七澤銀河」として短歌を詠み始めた (実際には再開であるが‥) 。
短歌界の事情等も考慮し、最初はBlueskyだけで一人で句を詠んで行こうと思ってはいたのだが、なかなかそうも行かずXに「七澤銀河」名義のアカウントを開設した。
https://x.com/Ginga_Nanasawa
 

(⇧ 最近このブログ上にXの埋め込みが表示されない不具合が発生しているので、一先ずこのまま掲載しておく。)

 
古い神々に直に聞いた話だと、彼らは現代に伝わる和歌や短歌の多くを理解出来ないそうだ。
勿論言語の問題もあるが、何より「祈り」が乗らない言葉は神々には届かない。

短歌を詠んだり他の歌人の短歌に触れて思うことは、キラキラした言葉の技巧だけで句を編む歌人が多いと言う印象だろうか。
 
かつて作詞業界に携わっていた時にもこの傾向の作詞家が数名いて、ヒットチャートに幾つも楽曲を飛ばして行ったものだったが、あれから数十年が経過して彼らの詞を読むと「時代の言葉」がそこに在るだけで、何も心に刺さって来ない。
短歌界にも似たような状況が起きており、スマートフォンアプリで繰り広げられる「イイネ」巡りとフォロワーの数が、日々の人気歌人のバロメーターになって行く辺りに文化の低迷に加えて、人の霊質劣化の現状を目の当たりにする。
 
私は「七澤銀河」を通じて、霊的視点から詠む短歌を少しでも普及させて行けたら良いと思っている。勿論日々の人気投票の為の「イイネ」巡り等、私にはやっている時間はない。
毎日のトレーニングや音楽鑑賞、その他評論の著述等、仕事は山積みだ。
 

 

 

 
 

 

[音楽評論] “E penso a te” – Lica Cecato et Carlo Morena

毎週金曜日に世界の新譜が発信されるSpotify。私は酷く体調を壊し、数日間ずれ込んでおずおずと新譜を端から捲って行く。
 
今週は競合が音楽の軒を連ねているが、その大半が余り日本では知られていないアーティスト勢の新譜だ。
思えば9歳になるかならないか‥ と言う頃に既に私は世界の音楽に目覚め、AMラジオでその動向を追い始めてから一体今年で何十年が経過しただろう。
 
まさか50歳を過ぎてから音楽評論を始めるなどとは夢にも思わなかったがそれもこれも、きっと恩師: 三善晃氏の導きではないかと思っている。

タイトルの「E penso a te」はイタリアは Lucio Battisti が1972年に生み出した有名なカンツォーネで、カンツォーネを愛する多くの歌手たちにカバーされている。
今回はイタリア人ではなく、ブラジル人歌手: Lica Cecato のヴォーカルを背後からイタリア人ピアニスト: Carlo Morena がしっかりと支えて音楽を編み込んで行く。

歌詞は原語のイタリア語ではなく、恐らくポルトガル語辺りで訳されたものだと思われるが、小気味よく悲しげな言葉の響きが郷愁を誘う。

本国イタリアでは後に Fiorella Mannoia やカンツォーネの王者 MINA がカバーしている。
 

 

 
イタリア語から歌詞を簡単に和訳してみたので、ここに貼っておこう。
 

“A penso a te” (邦題: [ そして君を想う ]

仕事をしながら 君を想う
家に帰って 君を想う
彼女に電話していても 君を想う

どうしている? 君を想う
どこに行くの? 君を想う
視線をはずして彼女に微笑みながら 
君を想う

君が今誰といるのか知らない
君が何をしているのか知らない
でも確かに君の想いが伝わって来る

この街は大きすぎる
ぼくらのような二人には
望みはないけれど互いを探している 
探している

ごめん もう遅いね でも君を想う
君の影を追いかけながら 君を想う
ぼくは今の暮らしを 少しも楽しんでいない 
だから君を想う

闇の中で 君を想う
目を閉じて 君を想う
遂に一睡も出来ずに 君を想い続ける

 
これはあくまで私の解釈に過ぎないが、これは不倫や浮気などではなく(一見そう読み取れる箇所もあるが)‥、ひょっとすると同性愛者の苦悩を表現した作品ではないかと感じてならない。
 
本命のパートナーが居る身で「彼女」と「君」と言う別々の存在を同時に思うとすれば、それは二人の異性に対する同時恋愛ではなく、男が一人の女性と同時にもう一人の同性を愛する心情を描いた作品ではないか‥。

そう解釈しながら聴くと、この作品のこれまでとは違った側面が見えて来る。
日本人のカンツォーネ歌手の中にもこの曲をカバーして歌っている歌手をこれまでにも大勢サポート(伴奏)して来たが、上に触れたような解釈に触れながら歌唱している歌手には遂に一人も出くわさなかった。
 
音楽や歌詞は多方向からそれを見比べることで、これまでにはない新たな発見をすることがある。
だがこの作品「E penso a te」を不倫の歌詞から同性愛者の心情を切々と歌った歌詞として再解釈しながら聴き返すと、この作品の根底を脈々と流れて行く深く険しくいたたまれない表現の根源に触れることが出来るだろう。

それは言い知れない、そして目的の無いゴールに向かって走り続けている形のない魂に不意に触れてしまった後の後悔のように、リスナーの心情をも呆気なく変えてしまうかもしれない。

 
最後の「La La La La ‥」と果てしなく続いて行く言葉にならない言葉が数秒後には力尽きて行く様を私も受け止め切れずに何度も何度もこの曲を伴奏しながら、「どこで終着点を決めるべきか」について悩まされたか知れない。

それは私が演奏者から音楽評論家或いはリスナーに転じた現在も、変わらずに河のように心の奥深くにたゆたい続けている。