夏の思い出 (“Old Folks” – Chris Botti を聴きながら)

私は自身が作曲をし、それをピアノを通じて表現する人。なので再現音楽の類いを好まない。
時々あっいいな‥ と思う人、例えばダイアナ・クラールとかキース・ジャレットとかそういう人の演奏や表現には徹底的に心を持って行かれるが、それ以外の再現音楽奏者には殆ど興味が無いのだ。
 

久々にChris Botti (クリス・ボッティ) のジャズを聴いた。と言うより、クリス・ボッティが遂にジャズを演り始めてしまったか‥ と言う失望の方が感動よりも完全に上回っている。

かつてはポップスやフュージョン等をグイグイ演奏していた音楽家が年を重ねて、気力体力が追い付かなくなって来ると決まってジャズメンに転向するのは何故だろう。
オリジナル曲を持っているのにその再演を回避して、多くのミュージシャンたちがジャズを歌い奏で始める度に私は、一人の音楽家(作曲家)として落胆する。
 

最近はそれまで大好きだったヴァイオリニストのLucia Micarelli (ルシア・ミカレリ) がヴァイオリンを脇に置いてジャズを歌い始める始末だ。それがけっして上手ではないし良い声質と言うわけでもないのにドヤ顔で歌い切る姿はどう見ても、器楽奏者と言う脇役の負のループからの脱却を狙っているように見えて辛くなる。
 
 

 

そんな中、まさかのクリス・ボッティのジャズらしいジャズがリリースされたので、もしかするとクリスも今後ジャズ・トランペッターに段階的にシフトして行くのではないかと正直不安になった。
 
私が大好きだったのは、あのStingとのコラボの “La Belle Dame Sans Regrets” を悲しげに吹いていた頃のクリス・ボッティだった。
リリース時期を調べてみたら、2004年だ。つまり今日から遡ること19年前のクリスが、私の中では最高の音色を出しているように思う。ざっと計算するとクリス・ボッティが41歳の時の音が、程好く尖がっていて程好く花びらが散り始めたような、そんな印象が強い。
 
 

 
先日久々に「売り物」の音楽やそれを制作している素晴らしいプロデューサーに接して、色々なアイディアを出させて頂くと言う貴重な体験をしたばかりだ。
勿論私が売り物に関わる時には、私自身の音楽は一切出さない。自分のことは自分が一番よく分かっているし、私は自身の作品に於ける他者の「ダメ出し」を絶対に許さない。
 
神さまからのギフトにケチをつける人は居ない。それと同じ話。
私の音楽は一人の人間が作ったものではなく、おそらく神々の思いやアイディアが私の中に降りて来てそれを再現していると認識しており、作曲者は私であって私ではないと思っているから。
 
昨年秋の終わり頃から或る記事を機に先方のマネージャーや通訳の人と繋がり、それが段々と発展して世界的なミラクルへと繋がって行った。
 

私自身の音楽性もデビューの2009年からかなり変容(変化)した。
私の中の本物を見つけるのに、少なくとも4年から5年は経過しただろうか‥。自分の中に自分を見つけた後はさらに無駄を削ぎ落して削ぎ落として‥ の繰り返しだった。
勿論私自身も少しばかり年を重ね、もともと運動神経が良くない私が今さらショパンのスケルツォやリストの「ラ・カンパネラ」など弾けるわけでもないし、その必要すら全くなかった。
 
運動神経で奏でる音楽ではなく私は、美しい残響に残響を重ね合わせるような、そんな音楽を目指している。
既に9歳の時に過去世の音色を思い出して、気付いて、その音楽に向かい始めていた。当時ピアノの教授らには「ペダルが汚い」とか「もっと細かくペダルを踏み替えなさい」等と何度も注意された。だがそれでは大聖堂で響いて来るような荘厳なピアノの音色など再現出来る筈もなく、私は他の同年代の学生たちに次第に置いてきぼりを喰らいながら、私の記憶の中に在る音楽をずっと一人で探し続けていた。
 

年老いたからと言っていきなり既存のクラシック音楽を弾くなどもっての外で、気付けば私は最初っから、百年後の自分に捧げる音楽を作っていた。
 
未来はその時間、その時点に到着しなければ分からないことが沢山あるかもしれない。だが私は9歳の夏に、今の自分をおそらく知っていたように思う。
私を常に奮い立たせてくれるものがあるとすれば、それは「自分と世界の音楽家とを比較する貪欲な精神」だった。それが小さな町の酒場での演奏の瞬間であっても私は、その瞬間を録音しては心に鞭を振るい、「もっと世界の真ん中へ行け!」と自分を叱咤し続けた。
 
 
ものの真ん中を見た人ならば分かると思うが、真ん中は常に空洞で人っこ一人居ないのだ。比較する相手も居ないし、私が今心に思い描いている音楽と同じ素材を作る人も存在しない。
真ん中とはそういう場所だ。

 
 

 
リスナーとしての私の中の「真ん中」に居た筈のクリス・ボッティが、気付けば脇道を歩み始めている。彼が彼自身の音色を放棄してジャズと言うカテゴリーの中に収まることに、クリスは何を見い出しているのだろうか。
 
勿論未だにクリス・ボッティの音色は美しく清らかであることに変わりはないが、音楽や表現手法を老いさせる世の音楽家の一人になり下がって欲しくないと言う私の願いは、もしかすると叶わないかもしれない。
 

 

 
そんなクリス・ボッティとヴァイオリニストルシア・ミカレリが共演した「Emmanuel」の中では、二人それぞれの頂点の音が記録されている。2009年、クリス・ボッティが47歳の時の音楽は既に5年前の華やかさや煌びやかさを失い始めているものの、今のクリス・ボッティよりも音色が澄んでいて憂いがあったように感じてならない。
 

人は誰しも老いて変わって行き、いつかは土に還って行く運命に於いては万人が平等だ。
私にもいつかその時は訪れるが、出来ることならば私が残響の音楽に気付いてそれを思い出した9歳の夏の自分を失わずに居たい。
 

この記事の最後にクリス・ボッティが2023年8月にリリースしたシングル『My Funny Valentine』の2曲目にトラックされている、此方も有名なジャズのスタンダード・ナンバーの『Old Folks』のYouTubeを貼っておく。
 
 

 
 

[解説] “Whiteout” – Didier Merah

丁度先ほどTwitter越しにどういう風の吹き回しか、ジャズピアニストの上原ひろみ「Whiteout」と言う曲を「世界にはこんなに素晴らしい曲が沢山ありますよ。」等と言って唐突にポスティングして来た人が居た(笑)。

折角ご紹介頂いたので、一巡して聴いてみたが‥。
 

 
先方は私に対して何かの当てつけでこの曲のリンクを送って来た‥ それ以外の動機は考えられないが、作曲者同士を比較して何が楽しいのか。と言うよりDM送信者は盛んに私の「知名度」と「企業努力のなさ」等を訴えて来る。

同じDM送信者(らしき人物)はアカウントを乗り換えながら、さも多くのリスナーが私に対し上記に述べたような同様の印象を持っている‥ かのように書いておられるが、正直なところ私は、今現在の音楽シーンを下支えしている、ある種リスナーとして面を露出している人々には一切用がない(笑)。
そういうリスナーの大半がライブやコンサートの為ならば平然と飛行機にも乗り、爆音型高速鉄道にも乗車して移動を辞さないような人たちなのだから、きっとあの危険なワクチン等も接種している種族だと思われる。

何れその種の人々は、段階を追って地球からは姿を消すことになるだろう。
私はむしろその後に、それまでそっと息を潜めて生き延びて来た「静かな人々」に接近し、地球及び地球外に持ち出せる静かな音楽でそれまでの地球の音楽史を塗り替えて行きたい。
私はその為に、この困難な時代の中で一時的に活動を止めて今日に至る。
 

問題のアカウントとはその後も少しだけメールのやり取りがあり、段々と先方の嫌味が増して来たのでそこでメールを止めた。私が平伏し、客商売に徹する他のミュージシャンのように振る舞わないから、きっと不満が堰を切ったのだろう。

その後その流れでツイートした長文を、この記事にも転載しておきたい。
(以下Twitter本文より)
 

 
この作品は2021年にリリースしたアルバムHeavenに収録されている。
 
実はこの曲のタイトルがバグの影響だったのか、末字の「t」が抜け落ちたまま全てのサブスクに配信されている。
夫が最終チェックをした時は確かに「t」は抜け落ちてはいなかった。私も目視しているので、これは明らかにバグだが、それも含めてこの作品の「Whiteout」の絶妙に暗示めいたものを感じてならない。
 

ここで描いた「Whiteout」は、人類のホワイトアウトを表現したものだ。つまり「今」現在の状況を予言した作品と言える。

希望と絶望、前の見えない未来‥、まさしくホワイトアウトがこの作品で脈々と描かれている。

 
音楽的には音色の繊細さと、あるべき音やハーモニーを限界ぎりぎりまで温存させる為の長いペダリングに注目頂きたい。

楽器のアタック音のうるさい動作を一切用いずに、聴く人の心拍数を穏やかに下げて行く速度感は、この時代の音楽に相応しいだけではなく未来のクラシック音楽として長期間残り続け、そしていつか宇宙からの来訪者に向けた音のギフトとしても最適だろう。

何もかもが消え行く吹雪の風景になぞらえた、実は「消え行く人類」についての預言(予言)をそっと綴じ込んだこの一曲は、音の未来予知と言っても過言ではない。
 
本文はここまで。
最後に私 Didier Merahの「Whiteout(サブスクでは全て表記の “t” が抜けている)」を掲載しておく。
 

 

表現分析 [対比: 藤井風 対 Luxid]

この秋、藤井風の「死ぬのがいいわ」が世界的なヒットを見せている、そんな話をあちらこちらで聞くようになった。
確かに私も一時このミュージシャンにスポットを当てていた時期もあったが、言葉にならない違和感と私自身の事情も折り重なり、暫くの期間、藤井風から意図的に遠ざかっていた。
 
※私が対象を決めてその対象に光を当てた時、対象は実力以上の世のスポットを浴びることがこれまでにも多々起きている。
若かりし頃は私の、そんな自身の特性(特技)を乱用していた時期もあったが、今は自分自身の感性に集中する時だと感じたので、ずっと継続していたSpotifyの「世界の新譜」チェックも止めている。

 

 
そんな中2022年の秋、藤井風が立て続けに自作曲のPVを世に放った。一曲はgrace、もう一曲は死ぬのがいいわのビジュアル版YouTubeだ。
 
正直graceがリリースされた時点で私は藤井風の動画評論を出す予定だったが、どうしてもその内容に「書いてはいけないもの」が含まれていた為、公開を見送った。
※上に綴った「書いてはけないもの」は人の運命や未来(予知)に触れる内容を意味し、流石に音楽家として放ちたくても放てない場合も出て来るのは致し方ないのだが‥。

 
藤井風のメロディーメイクには一つの個性(藤井らしさ)があり、それは彼の基礎教育にきちんと裏打ちされているので、聴いていて伸びやかで華がある。
だが初期の藤井風と最近の彼とでは表現にかなり差があり、私が好きだったのは藤井風と言うキャラクターが商品として確立する前の、活動初期の風通しの良かった頃の藤井風の方だ。
 

 
藤井風の死ぬのがいいわのヴィジュアル版YouTubeを見た時、個人的にはこの動画がこの世にあってもなくても良い、つまりどうでも良いものと言う印象しか持たなかった。
むしろこのモノクロームで彩られ「毒」感満載な演出はある意味、今の世情をよく表している。
どこかダークサイドに身も心も乗っ取られたようなこの演出が、健全に生きようとしている若者に悪さを仕掛けなければ良い‥ と言うある種の危機感を感じた私の感覚は、あながち間違ってはいないような気がしている。
 
藤井風の、どこかしこに「death」な臭いをプンプン臭わせながらのこの動画のカムバックの背景には、一体どんな意図が込められているのか‥。
そしてこの動画を見た藤井ファンの熱いレビューをTwitterの中で数多く見かけたが、今の日本で問題視されている「教祖化」に似たカリスマ性の強化を狙ったものだとしたら、手口が余りにも巧妙過ぎて薄気味悪い。
 

 
そんな風通しの悪さをいとも簡単に吹き飛ばしてくれたのが、この人 Luxid と言う青年の藤井風のカバーYouTubeだ。
彼のInstagramのプロフィールには、こんな一文が添えられている以外は正体が分からない。

I wish to make music that carries true emotion.
 


Luxid がカバーした藤井風の「死ぬのがいいわ」の動画が、上の動画。冒頭のピアノの演奏が上品で、音色に華がある。
そしてヴォーカルが上に乗っかってからもバックはかなり控え目で、計算や作為が一切施されていない Luxid の歌唱表現が、言葉にならないくらい風通しが良いのだ。
 

恐らくこの風通しの良さは、Luxidの「引きの表現」或いは「足さない表現」が生み出しているものであり、これが維持出来るのは彼が「営業」や「マネタイズ」に対する欲求を間に挟んでいないからだと言えるだろう。
 
プロの手が全く加わっていない為時折日本語の発音ミスも見られるが、そんなものはどうでもいいのよ‥ とリスナーを説き伏せてしまう、Luxidの「素」の見せ方が初々しく眩しい。
藤井風も活動前半にはこの「初々しさの美」を持っていた筈だが、「きらり」で一気にメジャーの舞台に躍り出た後から様子が一変し、現在益々ある種の悪の技巧に磨きが掛かって来た感じは否めない。
 
体に毒だと分かっていても時々無性に食べたくなるなんとかチキンとか(笑)、なんとかバーガーは一個食べれば十分だ。最近の藤井風の表現にも、同様のことが当てはまるだろう。
なので初々しさ全開の Luxid の藤井風カバーに触れた時、正直初恋の味がして泣きそうになった。
 
本記事は藤井風 対 Luxid の表現分析の対比に焦点を当てて書いているので、Luxidのオリジナルのピアノアルバムについての評論は割愛させて頂くとして‥。
 

 
この記事の最後に、やはり藤井風と言えば「コレ!」的な「きらり」の両者の動画を貼っておきたい。
藤井の動画には、あえてLive動画を選ばせて頂いた。その方が比較がし易いと思うので。
 

計算され尽くした「商品美」と、とことん無計算の自然体の美。さて、あなたはどちらがお好みですか‥❓
 

 

音楽評論メモ: 山下達郎(Tatsuro Yamashita) – Loveland, Island Cover by T.Y.Kim

実はずっと待っていた、韓国在住のTae Yoon Kimさんのカバー曲の更新。
やっぱり山下達郎で来たか!と言う感じで、特にこの作品は原作者の達郎よりも清々しく風通しが良い感じが私は好きです。

夏全開!と言うより、秋の始まりを思わせる新たな解釈がノスタルジックで美しいです。
どうしても原作者が演ると、どことなく暑っ苦しく鬱陶しくなって行くので、Taeさんの萌えネジを一個減らしたようなマイナス感は私のツボでした。
 

出来れば早くTae氏のオリジナルの音源が聴きたいところですが、彼の「Japanese Cityポップ愛」が深すぎて、なかなかオリジナル作品に舵が切れないでいるのでしょうか。
ちょっともどかしい‥。
 

 
実は‥。
さっき久々に藤井風の新譜damnを聴いて、何とも言えない「汚し」感が楽曲全体を不潔に染め上げてしまっていたので愕然としたばかり。
Tae Yoon Kimさんが同じ道を辿らぬようにと、ただただ祈りを捧げたくなります。
 

Taeさんには、永遠の青年で居て欲しい。
そして早くTaeさんが自身のオリジナル作品に辿り着くよう、とにもかくにも手を合わせずにはいられません。
 

 
TaeさんのYouTube: https://www.youtube.com/c/TaeYoonKim/featured

音楽評論 “The Song Is You” – Rava, Enrico / Hersch, Fred

昨年暮れから個人的な生活環境の変化で何かと忙しくなってしまい、暫くの期間音楽評論記事も書けていませんでした。
転居が挟まり自宅のパソコンではなく新居に持ち込んだノートパソコンで日々の作業をしている為、未だしっかりと音楽を聴ける環境が整備されていません。
 
今日はそんな日々の合間に一時的に旧宅に戻り、操作しやすいデスクトップで作業をしています。
新曲の構想を練ったりリハビリを兼ねて鍵盤に触れたり‥ と色々課題山積の中、この記事を書いています。
 

“The Song Is You” – Rava, Enrico / Hersch, Fred

 
思うところがあり、表向きは当面お休みを頂いていた「世界の音楽 / 新譜チェック」ですが、実は自分自身の感性のブラッシュアップを兼ねて密かに続けていました。
ですが特に世界的に新型コロナウィルスの陽性者の人数が右肩上がりになってから、良質な楽曲に出会う確率が激減しています。
 
目立って配信曲数が目立つジャンルを挙げるならば、作成が意外に楽なチルアウトミュージック系、Lo-Fi系、そしてカバー曲の配信等でしょうか‥。
 
この記事のアートワークは久々にスケールの大きいジャズ・アルバム「“The Song Is You” – Rava, Enrico / Hersch, Fred」。
フレッド・ハーシュは1955年10月21日 生まれ、アメリカ在住の66歳の現役ジャズ・ピアニスト。
エンリコ・ラヴァは何と御年83歳、イタリア出身のジャズ・トランペッター。
 

 
先に申し上げておきますが、私はジャズと言う概念もジャズ自体も好きではありません。
あの何ともムズカシそうに考え深げな表情で実は「え~っと、えっとえっと、え~っと‥」みたいに迷いながらアドリブを探る状況には、ほとほとむず痒さ以外の何も感じられません。
 
このアルバム『The Song Is You』の冒頭の作品Retrato em Branco e Pretoで一瞬だけ瞬殺された私でしたが、2曲目辺りから胃もたれを誘発せんばかりのムズいアドリブに苛々しながらも、やはりイタリアものに弱い私は結局ズルズルと最後まで後ろ髪を引かれながら一先ずアルバムを完走しました(笑)。
 
‥と言うのも、フレッド・ハーシュの上品なコード・プログレッションはなかなか素晴らしく芳醇で、退屈さの中にも一寸先の展開を見逃すことが惜しくて結局「えっとえっと‥ え~っと‥」的なエンリコ・ラヴァのアドリブに嫌々渋々とは言えないほのかなスリリングを求めながらアルバムに引っ張り回されました。
 
フレッド・ハーシュがマイルス・デイヴィスの音色に触れたことが切っ掛けで、トロンボーンから思い切ってトランペットに楽器を持ち替えたと書かれているように、アルバム全編のどこかしこにマイルスの黒い輝きが見え隠れしますが、ともすると土臭さだけが先に立ちそうなトランペットを繊細なパイ生地で包み込んで行くようなフレッド・ハーシュの解釈は圧巻でした。
 

  
残念ながらアルバム “The Song Is You” で最も楽曲が冴え渡っていたのは、冒頭曲のRetrato em Branco e Pretoだけでした。
 
楽しみだったラスト曲の『Round Midnight』に至る残り全曲が迷走するように音楽が刹那的であり、そこに私の大嫌いな現代音楽の「ヒョロ~ン!ピロ~ン!ガッチャ~ン!」みたいな非論理的かつ暴力的な音の断片が乱用され、折角の冒頭のメロディアスで理知的な流れは完全に叩き割られたまま、脱輪車両が崖から落ちる寸前で止まったようにアルバムが終了した感は否めません。

現代音楽を愛好する人達の多くが「音楽の権威主義者」だと私は思っており、そんなこと(一種の自己満ごっこ?)は仲間内だけでやって欲しいと常々感じていました。
権威を袈裟に着させて音楽が美しくなるなどある筈もなく、音楽はただ無垢で純粋で美しくメロディアスでノスタルジックな音の最小限の粒に託すだけで十分なのです。
その意味で私はジャズと現代音楽に対しては、同じボルテージの嫌悪感を感じるわけです。
 

音楽に戦争と葛藤は不要です。
ショパンが今一つ庶民に愛されない理由もそれに似ており、冒頭の美しいメロディとノスタルジックなコードで織りなす音楽を展開部でいきなり始まる「戦闘モード」で叩き割る作風が、リスナークラスの音楽愛好家には全く嫌悪されていることにはそろそろ専門家や音楽評論家等には気付いて、その旨発信して頂きたいところです。

 

Enrico Rava & Fred Hersch

 
と言うわけで、この記事の最後にアルバム『The Song Is You』のSpotifyのリンクを貼っておきます。
私の音楽評論と重ね合わせながら、各々の感性でお楽しみ頂ければ幸いです。
  

[アラサーだって踊りたい。] Dance Cover – XG – MASCARA

Hip Hopとフォーメーション・ダンスは最早、若者とイケメン(イケジョ)の特権ではなくなったと言う比較検証記事。
この肉付きの良い「モリモリ食べる」系のアラサー男子が音楽が始まるや否や豹変する、ある種の「野生の証明」は圧巻だ。

扱う楽曲(本記事では)は韓国に本拠を置く、実は日本のHip Hopグループ [XG] がこの夏にリリースした「MASCARA」。
 

XG

 

“泣きたい時に泣く – Cry when I want to – “
“私のマスカラをいじらないで – Don’t mess with nt nascara – “

MASCARA

 
この部分がサビでキャッチーに響いて来るが、むしろ元のPVよりもアラサーだって踊りたい。の肉付きの良いオトコたちが容赦なく気の強そうな女を演じているからこそ、どういうわけか彼等の目元にマスカラが光っているのではないかと言う錯覚を誘発させるのは何とも不思議である。

その衝撃的でいとをかし‥ な動画が此方。⇩
 

 

私の記憶が間違ってなければ彼等「アラサーだって踊りたい。」の面々は日中は各々が会社勤め等をして、終業後にスタジオに集まって練習を重ねているようだ。
その為動画配信の間隔が約一ヶ月スパン‥ と長めではあるが、今回の「MASCARA」では遡ること一ヶ月前に公開したLE SSERAFIMの ‘FEARLESS’ のダンスカバーより明らかに、フォーメーションの位置もダンスのキレも質が向上していることにお気付きだろう。

最早ダンスはイケメン・イケジョの所有物を逸脱し、万物に平等の娯楽なのだと彼等「アラサーだって踊りたい。」の肉付きのすこぶる良い野獣たちがそれを主張する。
 

同じ音楽、同じダンスの元を超えられるのは、それらを扱う条件の良い素材に限られる‥ と言う常識や前説を呆気なく蹴っ飛ばし、野獣演じるダンスカバーの方が原作かもと言う錯覚を視聴者の脳内に引き起こし、最早放映事故スレスレの映像を奇跡に転じて行く様は人種・職種・価値観を超えて圧巻だ。
 

  
上の動画は原作の方(笑)。
確かによく見るとスラリと足の長い、そして容姿端麗な麗しき(しかも目つきの悪そうな)女性たちが歌って踊っているが、不運にも私は先に「アラサーだって踊りたい。」の動画を視てしまったので、何回元の [XG] のダンス振り付け動画を視ても全く内容が頭に入って来なくなった。
 
これは最早事故であり、しかも [XG] にとっては計算外の不具合が起きてしまったと言っても過言ではないだろう。
 
「アラサーだって踊りたい。」が2022年6月28日に公開した動画 ‘FEARLESS’ でも、似たような現象が起きているが、明らかにその一ヶ月後の「MASCARA」の方が不具合のクオリティーが増している。

 
と言うわけで、この記事の最後に「アラサーだって踊りたい。」のダンスカバーが元のダンス動画をまつ毛一本分リードし始めた問題の動画 ‘FEARLESS’ を、この記事の最後に貼っておく。

何度も言うが、ダンスは動いている間のキレやスピードより、静止する時のキレがものを言う。その点を頭の片隅に留めながら、各々の動画を楽しんで頂ければ幸いである。
 

[音楽評論] NewJeans (뉴진스) – ‘Attention’

韓国から又、とんでもない女性グループがデビューした。

彼女たちはNewJeans。韓国人4人、ベトナム人1人の多国籍女性アイドルグループで、事務所である『ADOR』の後ろ盾にあの巨大事務所『HYBE』が聳え立つ。

一見ただのアイドルとしてお披露目されているが彼女等のパフォーマンス能力はかなり高く、ともすると背後の事務所『HYBE』から今年初春にデビューした先輩格の『LE SSERAFIM』の実力を総合的に遥かに上回ると、私は見ている。
 

LE SSERAFIM

 
売りとしては『LE SSERAFIM』の方が「計算し尽くされたミドルエイジの女性たち』。化粧からファッション、そして表現~楽曲に至る全てがこなれており、全体を通じて「かどわかす」演出を主軸に置いている。
一方『NewJeans』はそのネーミングの通り、極力「素」であり無計算で素朴さを前面に押し出しており、ノーメイクに見えるすっぴん感覚+「太陽の似合うティーンエイジ」の演出を主軸に置いている。

‥とは私個人の見解で、ひょっとしたら事務所は違う計算をしているかもしれないが、傍から見ると恐らくそう見えるように全てが念入りに意図されたように見える。
 
皮肉にも『LE SSERAFIM』はどのパフォーマンスに置いても「脚」の露出が多いのに対し、若手の『NewJeans』はむしろ体の線を隠すように演出されていることに気付くだろう。
 

NewJeans

  
NewJeansのデビュー曲Attention、これがかなり凝ったコードプログレッションで書かれており、途中ディスコードの上をコードをあえて外したメロディーラインが這って行く辺りに、NewJeansをプロデュースしている運営の強い拘りと音楽に対する英知の結集を感じてならない。

歌詞は英語と韓国語の両方をラップ形式で織り交ぜる感じで出来ており、楽曲としては古き良きブラック・コンテンポラリーの、どことなくジャネット・ジャクソンが好んで歌いそうな印象の楽曲に仕上がっている。
 

因みに『Attention』のクレジットは、以下のようになっている。

作詞 : 서지음
作曲 : Justin Reinstein・이우민 ‘Collapsedone’・Anna Timgren

 

 

‥と、凄いのはここから先だ。
この難易度の高い楽曲『Attention』をNewJeansがLiveチャンネル『it’s Live』で、生バンド(ベースは原曲の打ち込み)に乗せて歌唱している。
原曲のディスコードになっている箇所を見事に、ディスコードのまま音程を外さずに歌い切っているところがおそらく、事務所も認める彼女たちの本領に違いない。

確かに全員が両耳にインカムのイヤホンを装着して歌唱に臨んでいるが、それだとしても普通はこのメロディーを正確に、しかもしっかりと表現をそえて歌唱することはかなり難しい。
だがNewJeansの5人にとってはこんなことは、きっと朝飯前なのだと言わんばかりに皆が笑顔を崩さない。

殆どすっぴんに見える5人が全員ロングヘアーをなびかせ、原曲とは異なるバンドアレンジでしかも振り付けを封印して「演奏」に集中している様は、ただただ圧巻だ。

その圧巻の『it’s Live』での彼女たちのパフォーマンスともう一つ、『HYBE』が満を持して世に送り出した先輩格の『LE SSERAFIM』のデビュー曲『FEARLESS』のLiveの様子を、この記事の最後に貼っておきたい。
 

※『LE SSERAFIM』は最初メンバー6人でデビューしたが、途中でキム・ガラムが脱退に至った(2022.07.20)。
 

追記として、両者のパフォーマンスよりも楽曲の出来栄えに注目して聴いて頂きたい。
事務所の力の入れ方としては『LE SSERAFIM』が胴体一個分リードしているように見えるが、楽曲はその逆かもしれない。
その辺りも含めて是非、両方共にお楽しみ頂ければ幸いである。

 

 

[音楽評論] INI – “Password” / 衰退を始めたK-Popとそれを真似るJ-Pop

かねてから超絶なダンス力で日本国内をブイブイ言わせていた男性韓流式EDMユニット「INI」が、3rd シングルPasswordをリリースした。

既に2022年4月にリリースされているCALL 119で圧倒的なパフィーマンスに次いで、優れた楽曲(勿論音楽陣営の力)に注目していた私は半ば楽しみに3rd シングル「Password」のPVを拾いに行ったが、正直なところお話しにならないぐらい表現が緩く怠く、アウトラインがブレたようなような印象を持った。
 

 

どうしても韓流EDMユニットと言えば思い付くのが東方神起。
印象的な一曲を挙げるとすればやはり、Why? [Keep Your Head Down]一択だろう。この作品については楽曲・構成・速度・振り付けから演出まで全てが秀逸で、ブレがない。
 

  
勿論両者は見比べるものではないことなど重々承知だが、楽曲やコンセプトがかなり類似しているので、プロジェクトとしては「どうぞ見比べて下さい。」と言う暗黙のメッセージ(企業戦略)が込められているように見えて仕方がない。
むしろそうやって「INI」と言うユニットのイメージを東方神起のパワーにあやかって印象操作をし、視聴者やファン層に混線を引き起こすことを「INI」のブランディングに利用したかったと見て間違いない。
 

だが如何せん、東方神起は韓流男性EDMユニットの中で超越している。ダンスを例に取れば、動きが止まった時のストップモーションのBodyのアウトラインは、マイケル・ジャクソンに引けを取らない。
ダンスに於いて最も難しいのがこの、ストップモーションのポージングだ‥ と言うことは、私がかつて深く関わっていた5人組のダンス・レッスンでも滾々と聞かされたので今でも忘れることが出来ない。

その意味では「INI」は全てに於いて、緩すぎる。と言うよりだらしがない印象が強い。
生活自体が恐らく緩慢で、普段の動作に於ける注意力が散漫なのかもしれない。それがダンスやヴォーカル力、全体の印象に悪い意味で見事に反映しており、楽曲のシャープさが冴えれば冴える程露骨に欠点として表れてしまう。

プロデュース陣はこの事に、おそらく気が付いていないだろう。もし気が付いているとしたら3rd シングルPasswordは明らかに選曲・企画ミスであり、万が一この楽曲をシングル化・PV化するのであればもっと彼等の全てをシェイプアップする必要が生じた筈だ。
 

  
この、何をやっても何処を見ても、何処から切り取っても「ポワン」とした線の緩さを修正しない限り、「INI」がどんなにアクロバティックなダンスを今後披露したとしても売れ線には乗っては来れないだろう。
メンバーの誰一人がけして肥っているわけではないのに、正直これは見ている側が頭を抱え込む程の残念感・倦怠感しか印象に残らない。

売れたいから歌を歌い、ダンスを踊る。これではダメなのだ。
 
何に向かって語り掛け、何に問題意識を感じ、何を祈りながらその課題に取り組むべきか、何よりがむしゃらさが「INI」から全く感じられないのに背景だけをシャカリキに作り上げたところで、全ては逆効果だ。
 

何より彼等は生粋の日本人であり、韓流風に寄せて真似て作り上げているところが大問題だ(笑)。
そうでもしなければ今の日本のポップスでは勝負が出来ないのか、むしろ韓流に企画や演出を寄せれば寄せる程日本の音楽シーン或いは芸能界自体の劣化を世界に露出することになりかねないので、運営陣はその辺りにもかなり注意を払って今後の企業戦略を練る必要があるだろう。
 

とは言え、そもそもが韓国のオーディションで開拓された日本人による韓流風男性EDMユニットなわけだから、最初っから「物マネ」を使命に背負って生み出された模造品には違いない‥。
 
 

IVE Rei

  
若干話題から脱線するが、最近私が注目しているのが韓流女性グループ「IVE」のラップを担当しているReiさんだ。
彼女も生粋の日本人だが、日本語は勿論韓国語と英語の合わせて三ヶ国語で華麗な今どきのラップを披露してくれる。そのラップのリズム感がシャープでタイトでよどみがなく、ラップに合わせた体の線や動きが悉く美しい。

この記事の〆に、彼女のラップのショート動画「Hiiigh (English ver.)」と、同じ曲の三ヶ国語バージョンの両方を貼っておく。
 

  

音楽から読み解く世界情勢 [2022.07.22] – 音楽世界の未来予知

極力休むことのないように毎週末、私は世界の音楽の新譜チェックを継続しています(して来ました)‥。
ですがここ数か月間の傾向として世界中の多くの音楽に覇気が感じられず、尚且つ工夫もなく未来も希望もない音楽が乱立しているように見えます。
音楽がこれ程までにストレスに感じるのは、2011年の夏以来かもしれません。
 

過去に何度か私は、物書きで言うところの「断筆」のような時間を経験しています。色々な外圧に疲労し、何かと向き合うことに強いストレスを感じてならない時、私はそれまでの自分自身と距離を置く‥ そんな時間を持つようにしています。
まさにこの数か月間もそれにとても近い時間を過ごしており、世界の闇と私自身を取り巻く霊的環境の圧と闇と、まさに今日は音楽世界の闇を感じながらこの数時間を過ごしていました。
 

 
全ての現象の中に私は、因果応報の光と闇を見ています。特に実母逝去後の私の身にそれは大きく反映し、自身が光であることの意味と自分の周辺がそれとは逆に闇一色に包まれていることの理由について考察し続けています。

 
57年間にも渡り私をがんじがらめにし続けて来た外圧と闇が少しずつ晴れて来た今、私は元々持っているであろう対人関係のパワーを取り戻しつつあります。
なので私が行く先々では人々が集い、談笑し、その連鎖で周囲がパ~っと明るく光に包まれて行きます。今は亡き芸能界の大先輩であるJ氏の御霊が時々現れ、私にはそもそもその力があるのだからこれからはそのパワーを余すところなく使い切ると良い‥ と仰って下さいました。
勿論彼の言う通り、もう一度私はそれまで外圧によって遮断されていた対人関係の才能をあらためて見直し、今度こそはその能力を自分自身と音楽世界の為にしっかりと使い込んでみようかと思っています。
 

ですが‥。。
ここ数ヶ月間の世界の新譜数千曲を聴いていると、そこには闇と悲観と絶望しか見えて来ません。多くのミュージシャン等が先々の希望を失い、クリエイトすることに対し消極的です。
 

 

これはあくまで私の音楽世界に於ける未来予知ですが、ここから4~5年の間に音楽世界は大きく様変わりするでしょう。
今は瞬時的に回顧主義的な音楽が流行の先端を行っているように見えますが、それも長くは続きません。多くの音楽が卓上で制作(作曲)されていることの悪影響もあるのでしょうか‥、殆どの音楽が一斉に焼却されて行き、最終的に残るのは強く細く尾の長い普遍的な旋律を持つ音楽に集約されて行くのではないでしょうか。
 
それまで大衆の中で「名曲」とされていた音楽も殆ど姿を消して、芸術性や個性よりも普遍的なパワーを持つ旋律だけが地上の精霊たちに受け入れられ、草木と風に乗って上空を渡って行くことになるでしょう。
 
これまでの(特に商業音楽に見られる)ように、営業する人達の手によって作為的に広められた音楽の多くは無価値であり、その時々の聴衆がこの世を去れば音楽も同時に世を去る宿命にあります。
マイケル・ジャクソンも武満徹も細野晴臣もB.B.キング等も、彼等のファン達がこの世を去れば同時に音楽もそこで存在の役目を終えて、一斉に消えて無くなって行きます。

ブルースもカントリーもR&Bやテクノポップ、そして中東の商業音楽もポスト・エレクトリック等も、数十年後には地上の泡と消えて行きます。

意外に「詠み人知らず」の生命力の強い音楽が人々の意識に深く居残ることとなり、それ以上に自然神の口と感覚とテレパシーを伝ってこの世界に長く留まることになりそうです。
 

今の世は「英語」が世界共通言語になっており、英語に優れたヴォーカル曲が長年音楽世界の頂点に立ち続けて来ましたが、それも数年以内に終わりを迎えることになるでしょう。

ある理由により多くの人類の命が絶たれ、それと同時に人類は少しだけ人生の速度を緩めることに意義を見い出すようになります。
同時に英語やフランス語或いは中国語のような速度の速い言語よりも、例えば日本語のようなスローテンポの言語が見直され、ある時気が付いたら日本語が世界共通言語の一つとしてクローズアップされる世界が到来する可能性が、極めて濃くなって来たように感じます。
 

 
思えば(特にサブスクリプションが日本国内に定着してから‥)毎週聴き続けて来たサブスクリプションを介した世界の音楽、それにともない作成し続けて来たサブスクリプション上の多くのプレイリストの作成を、そろそろ卒業しようと思っています。

その心情に至るには色々な理由があります‥。
特に日本の人達は日々継続しているものに対し、段々と感覚や欲求が薄くなって行く傾向があります。最初はありがたみを感じていても、その対象が来週も再来週も同じようにそこに在り続けると思った途端に、それに対する興味を失うようです。
 

出来る限り私も良質な音楽の紹介、評論に今後も力を注いで行きたいと思ってはいますが、苦痛を押して毎週毎に劣化して行く世界の音楽を聴き続けることもなかなか容易ではありません。
何より私は専門家等が互いに繋がりを持つコミュニティーを作りたいと願っていましたが、それには各専門家達には圧倒的に利他的な精神が欠けていることも分かって来ました。

多くの音楽の専門家達が自己実現を望んでおり、それ以上の領域に足を踏み入れることが出来ない以上、私の思う「世界の音のコミュニティー」の結成はとても難しいでしょう。
出来れば近い志を持つ人達が、私の扉をあらためて叩いて下さることが理想ですので、一旦私は自分自身の辛辣なスタンスに戻ってさらに厳しい音楽評論に磨きをかけた方が良さそうです。
 

暫く新規のプレイリストの作成を休止し、良曲(或いは問題作)が見つかった時だけそれについて深堀りし、音楽評論記事を書いて行くことに致します。
何卒私の心中をお察し頂ければ、幸いです。

 

VIVIR SIN TI – PACO SINAY(音楽評論)

先週の「世界の音楽/新譜チェック」は、個人的なスケジュールと体調の事情で日程が完全にズレてしまいました。
しかも300曲近くをチェックした中で更新出来たのはたった10曲程度‥ と言う程、良曲がなかったことには又々ビックリでした。
 

 

(今日も未だ体調が芳しくないので、雑記程度の更新になります。
ご理解下さい。)

良作が極端に少なかった先週末の世界の新譜チェックでしたが、中でもこの作品『Vivir Sin Ti』(by PACO SINAY)は美しいルンバ・フラメンコだったので、何度かリピートして聴いています。

※PACO SINAYはパルマ・デ・マヨルカ出身(在住)のフラメンコ歌手です。‥とはどこにも書いていないので、個人的にFacebook等で調べてみたのですが、表立ってプロフィールが紹介されてはいませんでした。
 

 
未だに私は「フラメンコ」と「ルンバ・フラメンコ(ルンバ・フラメンカと言う場合もある)」の音楽的な違いを正確に説明している文献を、目にしたことがありません。
何年何月に誰々が演奏してどうのこうの‥ と言う、いかにもWikipediaに掲載された文献を幾つか繋ぎ合わせたものを読んだことはありますが、音楽的なルーツの違いを説明している人は少ないのでしょうか。
 

この作品『Vivir Sin Ti』はいわば「モダン・フラメンコ」に分類され、「モダン・フラメンコ」の一部がおそらく「ルンバ・フラメンコ」にカテゴライズされるのかもしれません。
そもそもフラメンコは基本アップテンポの8ビートで(中には16ビートでカウントしている人もいるようですが)、箱割りが変則的です。オーソドックスなフラメンコにサルサビートが合わさった楽曲が多いのは、おそらくフラメンコとサルサとの相性が良いからでしょう。

『Vivir Sin Ti』も途中から完全にサルサと化していますが、言語がスペイン語なのでやはり「ルンバ・フラメンコ」色が強く響いて来ます。
 

古くは日本にも「老若男女が一緒になって歌って踊れる」音楽文化があった筈ですが、いつの頃からかその良き習慣が少しずつ薄れているように見えます。
せいぜい夏の盆踊りとか、祭囃子やよさこい祭り等のイベントが開催される時は、それが非日常の特別な報酬のように子供たちも一緒になって歌って踊っていたりもしますが、皆どこか躊躇の感を滲ませて大人たちの顔色を覗いながら‥ と言う光景が何とも皮肉めいて見えて来ます。
 

もう少し綴る予定でしたがやはり体調が良くないので、今日の記事はここで〆ます。
記事の最後に上に書いたスペイン版の、「老若男女が一緒になって歌って踊れる」音楽文化の見本のような動画を貼っておきます。
 
『Vivir Sin Ti』同様、PACO SINAYの2020年の作品『Dedicado a Parrita』になります。
 

このところ新型コロナウィルス(変異株)の新規感染者数が急増しているので、皆様も体調にはくれぐれもお気を付け下さい。