私の半生と苦痛 – ⑤遺産横取り計画

「静かに弔いたいので‥」 

2021年12月26日夜、亡くなった母の携帯電話から弟(故)の嫁 りえさん(仮名)が放った、この印象的な言葉が今でも耳に焼き付いて離れません。
そして彼女のこの言葉の裏にある不穏な残響をあの時私は確かに聴き取り、その電話の後、心を落ち着けながら何度か亡くなった母の携帯電話に連絡を入れますが、ただ一度の彼女からの折り返し電話の後、とうとう彼女は私からのその後の電話を取りませんでした。
 
私が母の携帯に連絡を入れたのは2021年1月6日以来、約一年振りのことでした。
母は一応クリスチャン‥ と言うことで我が家では通っていた為、毎年クリスマスシーズンは何かと行事に追われていると言う体(てい)で外出が増えていました。
 
晩年の母がクリスマスをどのように過ごしていたのかについては、考えるまでもありませんでした(あくまで結果論ですが‥)。
でも、いつも通りであれば昨年2021年もきっと忙しくしているかもしれないと思い、私はクリスマス明けに一度電話をしてみようと思い、母の携帯に連絡したのが2021年12月26日でした。
 
2021年12月26日、昼間に数回連絡を入れたのですが繋がらず、夜遅くになって母の携帯電話に再度連絡を入れるとその電話に、「もしもし!山田雅枝の携帯です!」と、まるで飲食店に足を踏み入れた常連客を迎える店員のような元気な声で弟(故)の嫁 りえさん(仮名)が電話口に現れました。
 
簡単な挨拶を言った後に私が「ところで何でこんなことになっているのですか?」と質問すると、りえさん(仮名)はさっきの元気な接客口調で「頂いた電話でこんな話しもなんですが、実は12月1日にお母様がお亡くなりになられました!」と、まるで俳優にグラミー賞の受賞の連絡でも入れるような元気な口調でたたみかけて来ました。
 
続けて彼女は、「義母の逝去の件やその後の一連の詳細その他については一旦自身が決めた弁護士に相談をした後に、弁護士経由であらためて年明けに私に連絡をしようと思う。」と伝えて来ました。
ですが既にその時点で直接りえさん(仮名)と私とが連絡が取れているのだから、以後の連絡事項については直接やり取りがしたいと思いその旨をりえさん(仮名)に話すと、「こういうことは弁護士を間に挟んだ方がいいので‥。」と、彼女はあからさまに口ごもりました。
 
間髪入れずに母の死因について私が質問をするとりえさん(仮名)は、「はぁ‥、多分‥ 老衰だと、思う‥ のですが‥。」と釈然としない口調でそう言うとその後に、こう付け加えたのです。

「年末は静かに弔いたいので、年が明けてから弁護士経由であらためてご連絡します。」と。
その言葉に私は、「貴女は興奮すると、ところ構わず大声でわめき散らして事を荒立てる頭のおかしな人なんでしょう?だから兎に角しばらくの間、静かにしていて下さいね!」と、暗黙に私を気のふれたおかしな人だと念を押すような心情が強く込められているのを感じました。
 
以後の連絡手段についてもう一度質問を投げかけると、りえさん(仮名)は「山田家関連はこの電話に集約したいので。」と言い、自分の連絡先に関する情報を私には一切伏せた上で、亡くなった母の携帯電話のみを連絡先に指定し、用事がある時はショートメールを使うようにと私に指示しました。
 
余りの彼女の物言いに私は一瞬圧倒されましたが、それよりも2021年12月1日の「母の永眠の件」を25日間も私に黙っていた、彼女の言動と動機の方に私は不穏と疑いの感覚を持ちました。
そして12月1日から25日間の謎の空白に、強い疑念を感じました。
 

時系列 箇条書き

2021年12月1日 母(山田雅枝)逝去。
 
2021年12月5日 
弟(故)の嫁 りえさん(仮名)は遠方から伯母の娘の二人の従妹姉妹の なみさん(仮名)えみさん(仮名)を呼び出し、りえさん(仮名)が所持していた合鍵を使い、3人で実家に突撃。実家玄関で倒れて亡くなっている母を発見(第一発見者はこの3人)。
  
2021年12月9日
母の死亡届がりえさん(仮名)によって、役所に提出される。
 
2021年12月10日 
麻布教会にて、りえさん(仮名)が喪主となり麻布教会で葬儀が執り行われる。その後喪主 りえさん(仮名)が母を火葬する。
※この間の全てのプロセスは私に無断・内密に執り行われました。
 
2021年12月20日
りえさん(仮名)と従妹の妹の方のえみさん(仮名)が二人連名で、弟が懇意にしていた弁護士を訪ねる。
案件は「山田雅枝様相続の件」
 
2021年12月26日
クリスマス明けに私が約一年ぶりに母の携帯電話に連絡を入れる。その時りえさん(仮名)に初めて、母が2021年12月1日に逝去していた件を告げられる。
 
2021年12月27日
早朝、りえさん(仮名)が所有している母の携帯電話にショートメールで、「至急実家の鍵と母の携帯電話を返却して欲しい」旨、伝える。
 


 
2021年12月29日
正午近くにりえさん(仮名)が発送したレターパックを受け取る(差出人の住所は実家)。
中に電源を入れっぱなしの母の携帯電話と、実家の合鍵と思われる鍵が梱包されていた。
手紙は無し。
同日午後、急遽夫と実家へ行く。りえさん(仮名)から昼に送られて来た鍵が、実家の合鍵であることが判明。

廃墟同然に変貌した室内に茫然とするも、気になる箇所をチェック。母宛ての未開封の書類や手紙の一部を開封し、一旦帰宅。
 
2021年12月31日
リビングの死角となっている段ボールの中から、「山田雅枝様相続の件」と書かれた領収書ともう「遺産横取り計画書」とでも言うべき書類が見つかる。
 
 


to be continued…

私の半生と苦痛 – ④Yellow Sky – 黄色い空

直前の過去世のイタリア、トスカーナの空はいつもどこか緑がかっていたような記憶があります。でもそれは美しい自然の色、地球の色彩の一部だったと思います。

幼少期、多分5歳から6歳、地元の教会幼稚園に少しだけ通って卒園する前に(ある理由により)やめることになった後の私は、両親からの心身への尽きない暴力(虐待)によって少しずつ身も心も叩き壊されて行く過程にありました。
子供にとって、親は絶対的な存在です。なので当時の私は自身の過酷なまでの両親からの暴力は、誰もが経験する普通のことだと思っていました。
 
ピアノの練習と共に始まる母親の暴力を母自身は英才教育だと言い、それは毎日止むことなく公然と行われていました。彼女は何故か私の目(眼球)を狙うようにして、自分の手の関節で私の目を何度も何度も殴りかかって来ました。
特に理由があったかどうかと訊かれたら、私にもそれはもう分かりません。ですが私ののんびりとした動作や、子供離れした私の一言一句が彼女のカンに障ったのでしょう。
兎に角何かと口実を付けてはマンションの一室にある北の練習部屋のドアを乱暴に開けて、私の目を狙っては何度も何度も幼い私を殴り続けました。
 
その合間に母は何事もなかったように夕食の支度をし、煮ものが一個仕上がると私の部屋に来ては又私の目や頬を殴打し、一通り殴り終えると又夕食の支度に取り掛かり、次は家族4人分のカキフライに衣をまぶし終えると又私の練習部屋に来ては、先程の続きのように私の目を何度も何度も殴りかかりました。
 
当然私に抵抗すること等許される筈もなく、私の右目は真っ赤と真っ青の中間のようなおかしな色になって腫れ上がり、冷水で顔を洗う時にまでその箇所がズキズキと痛むような、子供が普通ならば経験し得ないような痛みを常に引きずっていました。
 

 
頭上に広がる空がずっと黄色かったことも、当時の私にとっては普通のことでした。クラスの友人が時折つぶやく「空が青くて綺麗‥。」と言う言葉の意味がよく分からず私に視えている空はずっと、緑がかった黄色のままでした。
 
私が小学校の低学年の頃、夏になると殆ど毎日のように光化学スモッグ警報が発令されました。その空を見ていたクラスメイトたちは口々に、「今日は空がいつもより黄色いね。」と言うのですが、私にはいつもとさして変わらない普通に黄色い空に見えていたので、いつからいつまでが光化学スモッグ中で、いつからいつまでがそうではない空なのか‥、全く見分けが付かなかったのです。
それよりも時折、視界の真ん中に誰かがカッターで勢いよく紙を切るような線が走ることがあり、それが私の目の異常から来るものだとは知らずに「こんなものなのかな。」と思いながら過ごしていました。
※後に私が33歳の時に出会ったアメリカ在住(アメリカ系ギリシャ人)の精神科医によってそれが、母親からの虐待によって発症したPTSDの現象の一つだと判明します。
 

小学校低学年の頃から私は自分では気づかない何かしらの色々な能力を学校の教師に買われ、英語の朗読の会に急遽出場が決まったり、お習字の都展にエントリーが決まったり‥ と、両親の想定外のイベントに引っ張りだこになって行きました。
当然それらは課外授業の一環として部活のように「午後練」の時間が設けられ、私は親に内緒で午後練にひっそりと参加していました。
私にとってはそれがとても楽しい時間であり、安らぎのひと時だったのです。
 
お習字の都展にエントリーする際には半紙に二文字を書く、シンプルな稽古を何時間も続けることになり、放課後の校舎に残っては夜遅くまで何度も何度も「希望」と言う字を書き続けました。
母が一切介在出来ないこの時間は私にとってはとても神聖な静寂の時間でもあり、私は心ゆくまで「希望」の二文字を書き続けました。でも日も暮れて夜6時にもなると、母親が黙ってはいないのです。
静かに文字を書いている校舎の2階の教室に怒鳴り込んで来て、「一体いつまで続くんですか?もう外は真っ暗なのに!」と言い、監督の教師に怒鳴りかかった声を今でも私は忘れることが出来ません。
 

 

母の異様な形相を見た担当教師は慌てふためきながら、「もうあと一枚で仕上がるところなんですよ。もう少しだけお待ち下さい。」と言い、母親を別の教室に誘導すると私に目配せをして、「ゆっくり書いていいからね、落ち着いて。」と言って15分近く母の話し相手になってくれました。

その間に私は、5枚分の「希望」をしっかりと書き留めました。
そして各半紙の左隅に自分の名前を小筆で書いてそれを黒板近くの大きな箱に一枚一枚置いて、別室で大声で喚き立てている母の元に向かいました。
すると母は教師には見えないように私の手の甲をこれでもかと言わんばかりに思いっきりつねって、顔ではにっこりと微笑みながら「さあ、早く帰ってピアノのお稽古をしなきゃ!」と言って、私を教室から引きずり出しました。
 
家に帰ると室内が黄色く染まっていました。当時の私の目には、白熱灯の光も黄色く視えていたようです。しかも明るさが他の人が見ているそれよりも若干暗く写り込んでいた事を、33歳の私の心の病を診断したアメリカ人の精神科医によって後から知りました。
 
私のPTSDは小学校低学年にして既に発病していたのでしょう。
青空を知らぬまま私は高校生になり、それが改善されないまま大学に進学すると、私の視界に映り込む横断歩道の白線までも黄色く染まり、当時の私が五線紙の白い紙の色さえも認識出来ていなかったことを後から知りました。


牛乳やお豆腐、ヨーグルトや体操着の「白」が私にはずっと黄色に視えていたのですが、それを不自然とは思わないまま大人になった頃には、私の心は常に恐怖心との戦いに怯え、その合間に時折この世のものとは思えない何かの影に付き纏われるようになり、今思えば私は崩壊寸前まで壊れていたように思います。
 
ですがそのような最中でも私は、社会性だけは放棄しませんでした。
なので母や生前の弟がもしも私のことを「ピアノだけは弾けるかもしれないけど、突然奇声を上げて所かまわず大騒ぎをする気のふれた人だ。」‥ 等と言っていたとしたら、それは全くの嘘偽りです。

もしも私をそういう人だと誤解している人がいらしたら是非、私に対する認識を改めて頂きたいです。
 

to be continued…

混乱の時代と音楽家たち

毎週金曜日は各音楽系サブスクリプション上での「新譜チェックの日」と決まっていますが、特にこの2週間の世界各国の新譜には翳りが見えるように思えて仕方がありません。

全体的に見てフルアルバム形式の配信が少なくなっており、EPないしはシングル曲で配信の頻度を上げている音楽家が目立っています。
長期的な制作時間を要するアルバムで配信の頻度を下げるよりも、毎月1曲ないしは2曲、人によっては毎週1曲ずつ楽曲を更新しているケースも頻繁に見られ、それだけ多くのミュージシャンや表現者たちが将来的な不安を感じているのではないかと言う、これはひとえに表現者等のメンタル面の不穏が強く露呈した形とも言えるかもしれません。

確かに私自身、手の負傷の長期化も原因しているとは言え、コロナ禍から戦争、異常気象等のニュースと常に接しているがゆえに、流石に長期的なスパンで音楽を創る環境にはないと言うことを痛感しています。
かと言って日和見的に単曲を更新して行こう等とは思っていないとしても、そう言う活動形態に陥ってしまう表現者等の心情は重々理解することが出来ます。
 

ここで重要なことは、各表現者が何を生み出そうとしているのか、という点だと言えるでしょう。
作品を生み出そうとしているのか、それとも商品を量産してお金に替えることを重視しているのか‥等。

これはあくまで主観ですが、特にヨーロッパを中心とする一部の音楽家の中に「ロング・Covid」の傾向を感じます。常に倦怠感に見舞われ、踏ん張りが効かなくなっているような、そんな印象を楽曲の中からも強く感じています。
 

特に新型コロナワクチンの接種に於いて、私は「反対」あるいは否定的な意見を持っています。
そもそも現在は未だ治験中のワクチンを無責任に接種させる世の抑圧の傾向に問題がありますが、その流れに逆らうことの出来ない社会的弱者が音楽家や芸能関係者等に多いことも又要因の一つなのでしょう。

結局世の流れの負を請け負うのは、きまってこういう社会的弱者たちなのです。
 

 
主にSpotifyを利用しながら毎週末、私はメインのプレイリスト+αの複数のプレイリストを更新しています。
メインのプレイリストではジャンル不問で多くのその季節の新譜を中心に、ざっくりとジャンル紹介も兼ねてスクラップしています。その他はジャンル別に、そのプレイリストのテーマに応じてさらに細かくスクラップしています。
 

今週は各新譜の単曲が全部で170曲余あり、その中でアルバム配信されているものを全てチェックして行くので、合計2,000曲近くを一日の半分を使って聴き込んで行ったことになります。
特に現在は、Spotifyを初めApple MusicとAmazon Musicの3つのサブスクリプションを同時並行的に動かしている為、今日は7時間近くの時間を費やして新譜のチェックをしたことになります。
 

 

今週の更新は、[M-94 “Nada” – Monsieur Periné] からになります。
普段は比較的陽気な楽曲を配信している Monsieur Periné が、今回は喪失感を強く表現したネガティブな新曲を出していますが、これが彼らにとっては珍しく大曲となっている辺りに時代の陰を感じずにはいられません。
必聴です。
 

 

※余談ですが、ここのところnoteから配信している音楽評論記事が立て続けに、note公式のマガジンにスクラップされています。

https://note.com/note_entertain/m/m483015f01945

 
これまでは比較的レアな楽曲を紹介する為に綴って来た音楽評論ですが、やはり私も人間ですし食べて行かなければなりません。その為には多くの読者やファンを、私の記事に集めて行く必要も感じています。
 
コンテンツの質の向上も目指しており、ここからは題材素材を吟味しながら多くの読者にヒットし得る執筆についても考えながら、各記事を更新して行きたいと思っております。
その為、記事と記事の配信の間が若干空くことにもなりますが、その分内容をギュっと凝縮しながら執筆して行きたいと心しているところです。
 
何卒記事をご拝読の折には是非、note記事からサポート等(投げ銭)で応援頂ければありがたいです。
よろしくお願い致します。

https://note.com/didiermerah
 

 

内容を限定し、お仕事の依頼を受け付けております。
音楽配信を目的とした楽曲作成のオーダーの他、音楽評論、レビュー or ライナーノート執筆、ラジオ番組用のBGM選曲、雑誌連載執筆及びYouTube出演や対談等、諸々用件・案件は、Twitter のDMないしは 📨[info@didier-merah.jp] ⇦ までお寄せ下さい。

音楽評論に関しては、世界中(演歌とヘヴィメタル以外)の音楽を分析・検証し、語り尽くします。
オーダーを遥かに上回るクールで奇想天外な記事を、筆者の豊富な脳内データから導き出して綴ります!

私の半生と苦痛 – ③荒れた室内と母の晩年の訳詞

 
弟も、そして母も、本質の部分では似ていたのかもしれません。
誰かが作り出した軋轢、それが段々と角質のように厚い層を作り、頭のてっぺんからつま先まで一つの家庭を数十年掛かりで覆い尽くして行きました。
 
母が10年近くをかけて作り出して行った我が家の廃墟のような室内を今、私と夫の二人でコツコツと整理している最中です。その最中にも人の本性や本音は見え隠れし、言い方は良くないかもしれないのですが母も弟も、音楽と言うジャンルで私を超えよう‥ 超えよう としていたように見えてなりません。
 
その証拠に最期にきっと母が座っていたであろう茶色のソファーの、その脇にあるガラスのテーブルに何故か一枚だけ、私が音楽監修を務めた時のCDをコピーしたMDがひっそりと置かれていました。
それはMDを渡した私にしか知り得ない母からのサインのようで、少しだけ胸が締めつけられます。
 

 
生きていればどこかに、「超えてはいけない壁」が存在します。私にとって恩師 三善晃氏自身がそうであったように、仮にその壁が自分の目の高さよりも低く下がって来た場合であっても、絶対にそれは超えてはならないのです。
母や弟にとって私がそうであったと、遂に彼らは自身の命が果てるまで気付かなかったか或いは認めたくなかったのか‥、どちらにせよ私に強烈な敵対心とライバル心を燃やし、私と言う壁を軽々と超えられるだろうとタカを括ったのでしょうか。

 
私にとって、これからが三度目の人生の始まりとなるでしょう。
これまでに粛々と培われて来た「実家からの排除」と言うぶ厚い障害壁は、今の私であればそれ程苦労はせずに取り除けるかもしれません。ですがそれはあくまで物理的なこと。
実際に四人居た家族の三人がこの世を旅立った、その現象を一人受け容れた心の空洞はそうそう簡単には埋まりません。たとえそれが宿敵、もしくはダークサイドの差し金となり果てた彼らであったとしても、私と逝ってしまった三人の家族とが出会う前にはもう戻れないのです。
 

母はそれまでは家族の誰かが使っていた部屋の大半を自分の部屋にして、父と弟が旅立ったその時から6年の時を使い、コツコツと我が家をゴミ屋敷に変えて行きました。
勿論私はその間一度も実家を訪ねることはありませんでしたがそれは母が、私が実家に帰ることを強く拒絶したからでした。それもその筈、あの状況を流石に私には見せられなかったことでしょう。
そして何より「私・美樹」と言う娘がここで顔を出されては、その時まで頑なに「最初から存在しない娘」と言う、彼女が必死で作りあげた台本が崩壊しかねない‥。そんな不安が過ったから、私からの「家に行っても良い?」と言う何度かの提案を蹴り続けたのだと思います。
 

お風呂場の脇にある母専用の部屋は膝まで沈む程のゴミの山と化していましたが、その大半が衣服でした。
しかも買ったまま一度も着ていない衣服も多く、しかもそれはどこかパーティーや歌の勉強会やコンサート等に出演する時に着るような、派手な服がとても多いのには驚きました。

 

 
その山積した派手な衣服の原因は、母が遺した幾つものシャンソンの「訳詞」が物語っているように思えました。
作曲、演奏、編曲のみならず一時は訳詞家、歌手としてステージに立った私を、母もどこかで見聞きして知っていたのでしょう。母が真剣に訳していたのはフランスのシャンソン歌手(兼 作曲・作詞家)Henri Salvador の名曲でもあるJardin d’Hiverでした。
 
これは私がもしも三回目の訳詞コンサートを開催していたら、お披露目する予定で2000年の秋に訳した作品でしたが、二回目の訳詞コンサート「時を超えて Vol.2」が散々な状態になり、その翌年の春に私は訳詞も歌手も全てから手を引いたと言う経緯がありました。
同時に三回目の訳詞コンサートの開催は夢と消え、途中まで書いていた「Jardin d’Hiver」の私の訳詞と比べても、母の訳詞は音符に文字を必死で当てはめただけのお粗末なものでした。

 

 
本物の愛とそうではない偽善的な愛とは、見る人が見れば必ず見分けがつきます。
母の音楽への愛も、そして弟への愛も、同じように偽善的な愛に他ならないと私は感じています。あくまで主体は自分自身、その自分を着飾る為の全ては道具に過ぎず、それは弟も、家族と言う箱も彼女にとっては同じ「道具」だったのでしょう。
 
ですが家族は目の前の家族を「良い」ように見ようとしたがるものですから、どうしてもその人の本質が仮に悪であったとしてもそこから目を逸らし、別の何かでその人の本質をねじ曲げて認識してしまうことが多いのかもしれません。
 

小学生の時、母に連れられて初めて「銀巴里」と言うシャンソニエに足を踏み入れた時、そこで小海智子さんが三つ編みを結ってシャンソンを歌っていたのを今も覚えています。
「あら、可愛いお嬢ちゃんね。」と言って彼女は、私にアイスクリームをご馳走して下さいました。その小海智子さんと私が10数年の時を経て吉祥寺某所に実際にあったシャンソニエで共演するとは、母も思ってもみなかったでしょう。
 
シャンソン誌「る・たん」にはある時期から、いきなり私の名前が乱射する鉄砲玉のように掲載され始めました。そこに「歌手: 小海智子 / ピアノ: 山田美樹」と言う一行を見た時の、あの苦々しい表情をした母の顔を私は見逃しませんでした。
 
それはある時実家に帰った時にふとシャンソンの話題になった時、私が持ち歩いていた冊子「る・たん」を何気なく母が見た時のことでした。口では「あら、いいわね貴女。」と言いながら、眉間に深く寄った深い皺としかめっ面になった一瞬を私はしっかりと見ていました。
 
母は特に最期までの数年間、多数のシャンソンを訳詞していたみたいでした。そのメモや印刷されたものがリビングのガラスのテーブルの書類の下からわんさか見つかり、私はそれらを母の遺品の形見として持ち帰って中身を読んでいますが、彼女の写真も訳詞もセンスが良いものとは言えません。
要は彼女にはアーティストの才能が元々ないのに、顔に傷のある娘の私になんか負けてられない‥ とでも思ったのかもしれません。
余り上手く行っていない訳詞をとにもかくにも「仕上がった!」と言う事にして人前で歌っていたであろう彼女の胸中を察すると、どことなく憐れです。
 
結果的には私の真似事に失敗していた彼女とは最後の最後まで会わなくて本当に良かったと、今だから胸を撫で下ろしています。
 

 
to be continued…

毒と表現 – 槇原敬之 “Hungry Spider”

「毒にも薬にもならない」と言う言葉があるが、その逆に「毒が洗練されると薬になる」と説いたのは我が夫 天野玄斎氏である。

あることを機にこの数日間、マッキーこと槇原敬之のHungry Spiderを聴き込んでいる。何故こんなにもこの旧作に惹かれるのか‥等と言うことは棚に上げ、兎に角聴き込んで行くとあることに気付く。
 

 

この作品がリリースされたのは1999年、J-Pop界隈が少し右肩下がりに流れを変え始めた頃に遡る。当時私は東京とL.A.とを往復しながらメンタル(PTSD)の治療に集中していた頃で、私が当時先に「Hungry Spider」の英語バージョンを聴いたように記憶している。
 

 

2022年、春。世界人類が前代未聞の強毒ウィルスと戦い続けている今だから、尚更感じることも多々ある。
マッキーのこの作品からはきらきらと光り輝く希望ともう一つ、強烈なまでの毒性を感じてならない。この「毒」こそがマッキーの最大の武器・魅力であり、毒のない反省人種の槇原敬之には何の魅力も無いと言っても過言ではないだろう。

だが彼の容姿がマッキーが強く胸に秘めている毒性の障害壁となり、口から多くの毒液を吐く時に初めて放たれる玉虫色のオーラは年々軽減され、彼自身がまるで血液を体からごっそり抜かれたように時間をかけながら生気を失って行ったように見える。
 

多くの人々がマッキーに求めたものは一体何だったのだろうか?
恐らく芸歴が増えて行くと多くの表現者たちはそれにともなう「人柄」や「人格」を求められるようになり、本来不完全な美を武器にする表現者たちが周囲からの軋轢の中で窒息しながら、自らの武器を置いてしまう。

周囲はその「武器を置いた表現者」を完成品だと歪んだ認識をし、表現者たちは次第に「みんなの歌」のような何の変哲もない歌を無難に歌い(作り)始めるが、内面は悶々としている。それを周囲は知らないし、感じ取ろうとする人達も殆ど居なくなる。
 

「宣候」-アートワーク

 

そんな折、2021年10月25日、彼自身の物々しい空気が解かれる前にアルバム宣候がリリースされた。
未だ夜が明けない朝に空に飛び立って行った鳥の気配を纏いながらも、一見それまでとは何ら変わりないルーティーンのようにこのアルバムが世界にお目見えしたが、このアルバムでマッキーは先ずは謝罪のような音楽からスタートして行く。
 

 

世が彼に要求するように反省に反省を重ねながら、それでももうこれ以上は同じ場所に留まることが出来ない渇いた獣のようにマッキーは世界に新たな一歩を繰り出して行くが、その背中はどこか痛々しく悲しげだ。
 
このアルバムの中で個人的に特に気になった曲は、M-10「好きなものに変えるだけ、そしてM-11「HOMEの2曲だ。
特に「好きなものに変えるだけ」には1999年、「Hungry Spider」を自由自在に歌っていた頃のマッキー本来の毒性の欠片がほんの少しだけ見え隠れする。その「ほんの少しの毒性」がどこか痛々しく情けなくて、こうして人の表現世界は常識と言う凶器によって打ち砕かれて行くのだと言うサンプルをまざまざと見せつけられているようだ。
 
M-11「HOME」では、マッキーが元々持っていると思われる「虹色の旋律」が復活している。みずみずしくきらびやかでメロウなメロディーラインとコードプログレッションが見事に合体し、どこか初期の荒井由実に似た時代の煌めきが復活する。
 

「好きなものに変えるだけ」歌詞より抜粋

 

この歌詞を読んだ時、同じ時代を別の場所で生きていた私が知っている、キラっと光る毒性を前歯と瞳の奥に潜ませながらTVに毎日のように出演していた槇原敬之の片鱗が仄見えて、年甲斐もなくうるっと来てしまった。
 

そう言えばこの曲を調べている最中に、2017年12月13日に開催された「FNS歌謡祭」でマッキーがこの作品を、miwa・山本彩・鷲尾伶菜の3人と共演している動画を見つけることが出来た。
期待しながら動画の再生ボタンを押したが、「Hungry Spider」の持つ毒々しさは既に失われ、いいオジサン「槇原敬之」が自身の中に微かに蠢く毒性の欠片を振り絞らんと戦っているように見えて泣けて来る。
 

 

共演している3人の女性歌手の中で、マッキーと対等の毒性を持っているのは恐らく山本彩だけだ。だが山本彩には毒性こそマッキーと対等でも歌唱力・表現力が追い付かず、尚更いいオジサン未満のマッキーが舞台中央にポツンと孤立している感は拭えない。
 
槇原敬之が描こうとした「毒」を彼自身が存分に発揮する機会をとことん奪われた結果、彼は恐らくそれを別の形で発散する以外の道を絶たれたのかもしれない。
それに似た表現者を私は他にもごまんと見て来たが、ここまで露骨に毒性と言う武器を削がれた表現者としては、マッキーはかなりレアなケースかもしれない。
 

 

さて、この記事の最後に、多分生演奏のアレンジをミックスしたと思われる「Hungry Spider」のPVを見つけた(公式ではない)ので、それを最後に貼っておきたい。
 
毒蜘蛛マッキーと真人間風マッキーが交互に映し出されるが、結局のところどちらが彼自身なのか‥。各々様々思いを巡らせながら新たな発見に至れば幸いである。
 

 

永遠の怒りの意味

都内某所の実家の清掃や遺産相続の諸々と並行しながら、私の日々の活動と自宅の大掃除とがさらに絡み合い、時は粛々と進んでいます。
昨日は母や弟(二人共に故人)関係者と思われる数名宛てに送付する手紙の下書きに追われ、今日 2022年3月2日は「とある物」の設定変更及び解除等に数時間を要し、某電話会社の店員さんにも多大なご迷惑をお掛けしたと思います。
 
昨年暮れから胃腸の調子も思わしくないのですが、今日の予定作業を終えた途端にようやく久々の空腹感を体が放ち、最寄り駅で「牛すじ肉のオムライス」を頂いて帰宅しました。

確かに私は気性の荒い部分と繊細さが混沌とした性格で、尚且つ厳格です。とはいえ、人生でここまで激怒したことも又珍しい‥。
今回は故人への怒りとは別の、故人と関わりの深かった「生きている人(達)」への怒りが大きいのかもしれません。
 
たった一言の謝罪がない為に永遠に尾を引いたままのこの怒りは、私が生きている限り、又相手が私への意識や態度の改善が見られない以上永遠に続くでしょう。
シュールな点を挙げればその人達は、彼女たちが生きている限り私への負の報酬として永遠にエネルギーを私に差し出し続ける人生を強いられることになります。
つまり彼女たちの望む幸運や幸福な将来を得られなくなる可能性は大で、実際にそうやって私の傍からは命からがら逃げ惑いながら現在も釈然としない時間を過ごしている人達が実在します。
 
これは私が望もうが望むまいが、彼女(彼)等はその運命から二度と逃れることが出来ないのです。
 

 
今日は母が秘密裏にこの世に遺した「ある物」に対し、法的ルールに則って設定変更処理を施しました。

どんなに私に秘密裏にしたとて、私が本気で調べれば多くの秘密は私に事の詳細を語ってくれます。これまでもそうでした。きっと今後も、秘密の側から私に本来の事実を打ち明けてくれるに違いありません。
 
私の怒りは衝動でも弾みでもないので、私が本気で怒りのスイッチを押した時は覚悟して下さい。
あくまで法律に則り物事は動きます。そして神の御心がそれを必ず助けることになります。

 
この記事の最後に、生前の弟・大輔が大好きそうな曲を貼っておきます。これも姉の私の、彼へのささやかな供養の一環です。
 

私の半生と苦痛 – ②母の霊感と虐待

母は強い霊感を持つ人でした。
そして彼女はクリスチャンを公言していましたが、家の中では年柄年中私に暴力を振るっていました。そうすることで父(故)のご機嫌を取っていたのかもしれませんが、何故そうすることでしか父のご機嫌が取れなかったのかについては未だに不明です。
 
ただ一つ最近になって分かったことは、母が父とは再婚だったと言う事実です。これは私を除く家族全員が死んだから判明したことで、恐らく弟も(或いは父も)知らなかったと思います。
唯一その事を知っているとしたら、私の訴えを一切聞き入れようとはしなかった伯母(母の姉)一人だったかもしれません。
母はその事実を隠す為、私を悪者に仕立て上げ家族のマイナスの注目を私に集め、私への攻撃的欲求を煽っていたように思えてなりません。時代柄、バツイチの女性は何かとデメリットも大きかったのでしょう。なので母は自身のバツイチの事実を父には言わず、お見合いに臨み、再婚まで漕ぎ付けたのかもしれません。
 
2000年の秋頃に私は一度、住む家を追われたことがありました。
当時冗談抜きで露頭に迷いそうになった時に一度だけ伯母に連絡したことがあり、あの時私は伯母に初めて母の長年の虐待について電話で切々と訴えたのですが、それを跳ね除けるように私の言葉に伯母は、一切耳を貸しませんでした。
母の暴力を「愛の鞭」だと言って頑なに母の行いを褒め称え、私の言う事を否定し続けた伯母の電話越しの声を私はけっして忘れません。
 
あの時私は確信しました。伯母も敵であると。
 
家族・親族全員が私を精神薄弱児(知恵遅れ)扱いをし、親族にとっての外敵のように私を扱うことで団結していたと私は思っています。
その証拠に昨年母が他界した時、弟(故)の嫁と上に書いた伯母の娘(つまり私の従妹)二人がまるでその時を知っていたかのように実家に突撃し、三人が同時に第一発見者となり、その挙げ句従妹の一人である えみさん(仮名)と弟(故)の嫁 りえさん(仮名)が連盟で弁護士に、法定相続人の私に内緒でこっそり実家を相続出来ないか‥ と言う相談をしていたのですから。
 

 
母はことある毎に自らの持つ霊感を悪用し、時には実際に物を移動させて彼女を怒らせた相手に「物」を使って遠隔で攻撃を加え、怪我をさせたこともありました。
「ママを怒らせたらどうなるか、見てなさい!」が母の口癖でしたが、その言葉通りに彼女は私の知人の何人かを霊的な方法で手に掛け、実際にそれが原因で亡くなった人も現れました。ですが霊的な現象は法で縛ることも証明することも出来ないので、母は霊感を使ってやりたい放題のことをやっていたと思います。
 
母は殆ど毎日、実際にはどうでもいいようなことを口実にし、あたかも私が毎日悪い事をしでかして家の中を引っ掻き回しているかのように父に告げ口をし、父のご機嫌を取っていました。
父は父で私の顔の裂傷(通称: 三つ口)が不快で不快でたまらなかったので、何かと私を虐めいたぶる口実を探して私に暴力を振るう理由を見つけ、私に手を上げたり深夜に数時間もの間お説教をして「偉い人」になったような気分を味わうことで、日々のストレスを発散していました。
 
今にして思えば母は、自身の再婚がバレるのを恐れていたり、或いは彼女の金遣いの荒さを誤魔化す為に私を家族内の「敵」として周囲にも認識させ、私の悪い話しを話題にすることで自分を守っていたように思います。
勿論共犯者である伯母 昭子さん(仮名)も母の計画に協力し、家族団らんの食卓に私が不在であることに対しても一切言及しませんでした。
 
 

 
記事私の半生と苦痛 – 序文でも少し触れたように、どういうわけか私は一週間に一度しかお風呂を使わせて貰えませんでした。それは小学校の2~3年生になる頃に始まり、それが当然のこと‥ とでも言うように私が清潔にしたりお洒落をしたりすることに対し「罰」を与えるようになりました。
 

 
お風呂に入れない私は当然のように不潔になり、そんな状態ではクラスメイトからも「臭い」と言って嫌われ、虐めにも遭いました。
 
週に一度しか髪を洗う事を許されない為、一週間分の汚れを落とす為に私は痒い頭皮をゴシゴシ擦って、ありったけのシャンプーを使って頭を洗いました。当然頭皮が真っ赤にかぶれるので肩の辺りにはいつも白く細かいものがこぼれ落ち、体はお風呂に無事に入れた翌日以外は常に異臭を放ち、そんな私を心配した小学校時代のクラスメイト数人が母に抗議をしてくれたこともあったのですが、そういう日の夜はこれでもかと言う程私は母に(母の手の関節で)目を何度も何度も強く殴打され、翌日は顔が真っ青に腫れ上がった状態で学校に行かなければなりませんでした。
 
家族の誰も私への母の暴力を止めることはなく、そんな私を見ていた弟(故)はやがて自分が私と同じ目に遭わないように、ただ毎日を無事に生き延びる為の方法を考えるようになって行ったと思います。
弟の嘘吐きはそんな日々の中で培われ、段々と彼は本当のことを話さなくなって行きました。奥歯にものが挟まったような物言いが徐々に板について行き、思春期になると弟はそれを「達観の域に達した」‥ 等と勘違いし、時折「飄々と在りたい」‥ 等と口にするようになりましたが、彼の言う「飄々‥」は現実を誤魔化して煙に巻く以外の何物でもありませんでした。
 
弟の口癖に「まぁまぁ‥」と言う言葉があるのですが、それは彼が現実から目を背け、本題から彼自身が逃げ出したいと思う時に使う常套句でした。
本気で生きようとすればあの家では酷い暴力が負の報酬として付いて回ると知った弟は、事実とは異なる事を言いながらとにもかくにも両親の気を引き、彼らのご機嫌を取り、その手段として両親が望むように私を精神薄弱児(知恵遅れ)として扱い続けることがベターだと判断したのでしょう。
 
ですが私は、弟(故)のそうではないもっと純粋・純真な一面を知っています。ほんの一瞬でしたが、それが弟(故)の本当の姿ではなかったかと私は今でも確信しています。
 

 
私が小学校の3年生ないしは4年生になった頃から、母は頻繁に家を空けるようになりました。一見何でもないことのように見えますが、私は母があの頃から異常に高額な洋服や靴、ブランドもののバッグを購入し始めたことを今でも忘れていません。
 
特に印象的だったのはシャネルのバッグとそれに合うヒール7センチくらいはある “Kanematsu” のハイヒール、そしてお金持ちの象徴と当時は言われた「黒いミンクのコート」をある日、いきなり着て帰って来た時の彼女の意気揚々とした笑顔でした。
どんなに金銭感覚には疎い子供の私でもあの格好はどこか変、と言うのも当時から母の口癖は「うちは貧乏でお金がないの。」‥ だったので、そんな実家のどこからあの「黒いミンクのコート」やシャネルのバッグを買うお金が出て来たのか、とても不思議でした。
 
しかも実家にお金が無いのがまるで私のせいであるみたいに、何かと良くないことは全て私が原因で、尚且つ私に尋常ではない程のお金が掛かる厄介者のように母に言われ続けたのですが、実際には私には、年に一着のジャンパーと一着のスカートと二着のトレーナーしか買い与えられてはいませんでした。
なのでどう見ても「うちは貧乏でお金がないの」‥ が母の虚言であることは明白でしたが、それを言及すれば又私は彼女の手の関節で目を殴られると分かっていたし、機嫌によっては水風呂に顔を突っ込まれることになるのが怖かったので、何も言えなかったのです。

 

to be continued…
  

須藤元気の外と内面を分析する

須藤元気率いる「WORLD ORDER」が約2年間のブランクを経て、昨年2021年9月11日、新曲CENSORSHIPをリリースした。
  

 

タイトルの「CENSORSHIP」は訳すと、「検閲」と言う意味を持つ言葉であり、社会風刺を得意とする須藤元気の真骨頂が歌詞やダンス等の端々にほとばしる。
※歌詞は以下のページで読むことが出来ます。⇩
 

 
私は音楽評論家であるが、正直「WORLD ORDER」の描く音楽や詞の世界にはこれまで余り関心が無かった。だがこの作品をはじめとする幾つかの作品に妙にそそられ、特に今作品CENSORSHIPの歌詞の以下の部分が突出して鼓膜に刺さって来たので抜き出しておきたい。
 

答えにならない答えを繰り返すのさ
真実なんていつか作られているものさ
言葉にできない言葉は黒く塗れるのさ
紙切れなんていつか無くしてしまうものさ


答えを出さない答えは
空気を読んで
(失礼にいたしましては)
記憶にはございません

 

 

数年前、須藤元気が選挙戦に躍り出た時に、私は一度だけ彼と会話をしている。
その時の会話で印象的だったのが以下のようなセンテンスだった。
 

:
「WORLD ORDER」はやめてしまうんですか?

須藤:
はい。僕はこっちの世界で頑張ろうと思います。
あっちは僕以外の仲間たちが頑張っているので、是非今後も「WORLD ORDER」を応援して下さい。

 

そう言い終えると選挙の立候補者らしく須藤氏は “ぎゅっ” ‥と固く握手をしてくれたが、その人間離れした筋肉質な須藤氏の手の感触を私は今も忘れられない。

あの時は確か、Tシャツにジーンズ、黒メガネに襷を掛けていた。度々PVで観ていた須藤元気とは印象が違い、目に浮かび上がる弱弱しい印象が私の単なる錯覚ではなかったと、今は思っている。
 

  

最初に「WORLD ORDER」の動画を視たのは、私の記憶が正しければ2011年3月11日の大震災からそう遠くない、夏のある午後だったと思う。
曲目はこれ、「MACHINE CIVILIZATION」であり、「WORLD ORDER」の中でこの作品に勝る他の作品は無いだろう。
  

 

この作品には2つの良質な動画があり、私は上の作品動画よりもライブ・パフォーマンスの方が気に入っている。
特に注目すべきは動画4:18~ からの、須藤演じる壊れて行くロボット人間の動き。当時多くの芸人がこれを真似してコケたのを思い出したが、これは必見だ。⇩
 

 

須藤氏は恐らく小室哲哉の影響を強く受けた人ではないだろうか。
そう言えば「WORLD ORDER」は活動初期に一曲だけ、小室哲哉(TRF)の楽曲「BOY MEETS GIRL」をカバーしているが、それが圧巻だった。
勿論編曲やミックスはかなり粗削りで音楽として単一で聴けるかと言われると「No」のクオリティーではあるが、PVの印象は他の動画に引けを取らない。
 

 
(※上記の楽曲は「WORLD ORDER」のオリジナルではないのが、ファンとしてはただただ残念である。)
 
彼らのオリジナルの中で何が秀逸か‥ と言うと私は上記で触れた「MACHINE CIVILIZATION」の次に、MISSING BEAUTYを挙げておきたい。
 

  
 MISSING BEAUTYで須藤元気は弱弱しい失恋を描いており、どこかカンツォーネやラテン音楽にも通ずる男の未練をたらたらと歌詞に綴っているのが印象的だ。
その弱弱しい、ある種の女々しさをあの、眼光鋭い表情で歌うのだから、そのギャップはある意味笑いをそそられるし、ある意味では女性のリスナーの同情さえ引く。

だが作品を聴いた後に尾を引く何とも言えない空々しさが一体どこから来るのか、ずっと分からずに居る。言葉には言い表しにくい嘘っぽさをリアリティーたっぷりのあの表情で演じているギャップを、数年が経過しても埋められないのだ(笑)。

 
そして何と、編曲違い、構成違いでMISSING BEAUTYのPVを、須藤元気はソロ作品としても配信しているが、これがなかなかに情けなくて笑える出来になっている。
 

 

2017年3月にリリースされている「SINGULARITY」では7人だった「WORLD ORDER」だが、2018年10月9日に公開された「MISSING BEAUTY」ではメンバーが2人減って、演者が5人になった。

勿論ソロ作品としての「Missing Beauty」は2015年12月2日に配信されているので、少しずつメンバーが少なくなって行った経緯とは全く無関係ではあるものの、ソロのMissing Beautyを観ていると一抹の寂しささえ感じてならない。

背広と言うユニフォームをひとたび脱いで私服の「素」の須藤元気に立ち込めるこの弱弱しさと、数年前に選挙演説後に直接話しをした時の須藤元気はまさしく同じ人物であり、ソロのPVで感じた彼の情けなさの方が実は須藤の「素」ではないのかと私は思っている。

「絶対にお手を触れないで下さい」と書かれた背広姿の須藤元気に万が一手を触れても、崩れ落ちるのは手を触れた人ではなくもしかすると愛に枯渇しているように見える須藤元気の方ではないのか‥ とさえ思えて来るから、人は見掛けによらないものだと思わずにはいられない。
 

  
あの名作「Merry Christmas Mr.Lawrence」を何と、須藤元気が演奏している。それが何とも情けないのだ。
未完成のロボットがピアノを弾いているような光景に、ほんっとうにお話しにならない程下っ手くそなMr.Lawrenceがたらったらと展開出来ずに右往左往する様子が、まるで自転車を怖がっている少年のようで胸がしめつけられる。

さて、大体の記事ではその記事の〆に良作と思われる動画や音楽を貼っているが、今回は例外的にその逆をやってみたい(笑)。

この言いようのない苦悩を是非、皆様とシェア出来たら本望である。
  

 

[Info.]
内容を限定し、お仕事の依頼を受け付けております。
音楽配信を目的とした楽曲作成のオーダーの他、音楽評論、レビュー or ライナーノート執筆、ラジオ番組用のBGM選曲、雑誌連載執筆及びYouTube出演や対談等、諸々用件・案件は、TwitterのDMないしは📨 [info@didier-merah.jp] ⇦ までお寄せ下さい。

音楽評論に関しては、世界中(演歌とヘヴィメタル以外)の音楽を分析・検証し、語り尽くします。
オーダーを遥かに上回るクールで奇想天外な記事を、筆者の豊富な脳内データから導き出して綴ります!

須藤元気の外と内面を分析する

須藤元気率いる「WORLD ORDER」が約2年間のブランクを経て、昨年2021年9月11日、新曲CENSORSHIPをリリースした。
 


タイトルの「CENSORSHIP」は訳すと、「検閲」と言う意味を持つ言葉であり、社会風刺を得意とする須藤元気の真骨頂が歌詞やダンス等の端々にほとばしる。
※歌詞は以下のページで読むことが出来ます。⇩
 


私は音楽評論家であるが、正直「WORLD ORDER」の描く音楽や詞の世界にはこれまで余り関心が無かった。だがこの作品をはじめとする幾つかの作品に妙にそそられ、特に今作品CENSORSHIPの歌詞の以下の部分が突出して鼓膜に刺さって来たので抜き出しておきたい。
 

答えにならない答えを繰り返すのさ
真実なんていつか作られているものさ
言葉にできない言葉は黒く塗れるのさ
紙切れなんていつか無くしてしまうものさ

 

答えを出さない答えは
空気を読んで
(失礼にいたしましては)
記憶にはございません

 


数年前、須藤元気が選挙戦に躍り出た時に、私は一度だけ彼と会話をしている。
その時の会話で印象的だったのが以下のようなセンテンスだった。
 

:
「WORLD ORDER」はやめてしまうんですか?

須藤:
はい。僕はこっちの世界で頑張ろうと思います。
あっちは僕以外の仲間たちが頑張っているので、是非今後も「WORLD ORDER」を応援して下さい。

 
そう言い終えると選挙の立候補者らしく須藤氏は “ぎゅっ” ‥と固く握手をしてくれたが、その人間離れした筋肉質な須藤氏の手の感触を私は今も忘れられない。

あの時は確か、Tシャツにジーンズ、黒メガネに襷を掛けていた。度々PVで観ていた須藤元気とは印象が違い、目に浮かび上がる弱弱しい印象が私の単なる錯覚ではなかったと、今は思っている。
 


最初に「WORLD ORDER」の動画を視たのは、私の記憶が正しければ2011年3月11日の大震災からそう遠くない、夏のある午後だったと思う。
曲目はこれ、「MACHINE CIVILIZATION」であり、「WORLD ORDER」の中でこの作品に勝る他の作品は無いだろう。
 

 
この作品には2つの良質な動画があり、私は上の作品動画よりもライブ・パフォーマンスの方が気に入っている。
特に注目すべきは動画4:18~ からの、須藤演じる壊れて行くロボット人間の動き。当時多くの芸人がこれを真似してコケたのを思い出したが、これは必見だ。⇩
 


須藤氏は恐らく小室哲哉の影響を強く受けた人ではないだろうか。
そう言えば「WORLD ORDER」は活動初期に一曲だけ、小室哲哉(TRF)の楽曲「BOY MEETS GIRL」をカバーしているが、それが圧巻だった。
勿論編曲やミックスはかなり粗削りで音楽として単一で聴けるかと言われると「No」のクオリティーではあるが、PVの印象は他の動画に引けを取らない。
 

 

(※但し上記の楽曲は「WORLD ORDER」のオリジナルではないのが、ファンとしては残念なところである。)

 

彼らのオリジナルの中で何が秀逸か‥ と言うと私は上記で触れた「MACHINE CIVILIZATION」の次に、MISSING BEAUTYを挙げておきたい。
 

 

MISSING BEAUTYで須藤元気は弱弱しい失恋を描いており、どこかカンツォーネやラテン音楽にも通ずる男の未練をたらたらと歌詞に綴っているのが印象的だ。
その弱弱しい、ある種の女々しさをあの、眼光鋭い表情で歌うのだから、そのギャップはある意味笑いをそそられるし、ある意味では女性のリスナーの同情さえ引く。

だが作品を聴いた後に尾を引く何とも言えない空々しさが一体どこから来るのか、ずっと分からずに居る。言葉には言い表しにくい嘘っぽさをリアリティーたっぷりのあの表情で演じているギャップを、数年が経過しても埋められないのだ(笑)。


そして何と、編曲違い、構成違いでMISSING BEAUTYのPVを、須藤元気はソロ作品としても配信しているが、これがなかなかに情けなくて笑える出来になっている。
 

 

2017年3月にリリースされている「SINGULARITY」では7人だった「WORLD ORDER」だが、2018年10月9日に公開された「MISSING BEAUTY」ではメンバーが2人減って、演者が5人になった。

勿論ソロ作品としての「Missing Beauty」は2015年12月2日に配信されているので、少しずつメンバーが少なくなって行った経緯とは全く無関係ではあるものの、ソロのMissing Beautyを観ていると一抹の寂しささえ感じてならない。

背広と言うユニフォームをひとたび脱いで私服の「素」の須藤元気に立ち込めるこの弱弱しさと、数年前に選挙演説後に直接話しをした時の須藤元気はまさしく同じ人物であり、ソロのPVで感じた彼の情けなさの方が実は須藤の「素」ではないのかと私は思っている。

「絶対にお手を触れないで下さい」と書かれた背広姿の須藤元気に万が一手を触れても、崩れ落ちるのは手を触れた人ではなくもしかすると愛に枯渇しているように見える須藤元気の方ではないのか‥ とさえ思えて来るから、人は見掛けによらないものだと思わずにはいられない。
 

 
さて、大体の記事ではその記事の〆に良作と思われる動画や音楽を貼っているが、今回は例外的にその逆をやってみたい(笑)。

あの名作「Merry Christmas Mr.Lawrence」を何と、須藤元気が演奏している。それが何とも情けないのだ。
未完成のロボットがピアノを弾いているような光景に、ほんっとうにお話しにならない程下っ手くそなMr.Lawrenceがたらったらと展開出来ずに右往左往する様子が、まるで自転車を怖がっている少年のようで胸がしめつけられる。

この言いようのない苦悩を是非、皆様とシェア出来たら本望である。

⇧ ‥とここまで順調にnoteから記事を移動出来たが、最後の動画は既に削除されていたので、ここに貼り付けることが出来なくて残念。⇩
 

 
本記事はSNS “note” の過去記事より移動しました。

 

ディディエ・メラへのお仕事依頼は、info@didier-merah.jp 迄お寄せ下さい。
仕事内容はラジオ番組等の「選曲」を始め、音楽評論、コラムやライナーノートの執筆等多岐に渡ります。
尚、飲食店舗用のプレイリストの作成にも応じます。プレイリスト作成価格に関しましては、メンテナンス等を含み月額制とします。
各ご相談は上記メールアドレス迄お寄せ下さい。

『X』のメインアカウントが凍結された為、現在稼働中のSNSは、以下になります 。(Facebookは連絡用に稼働しており、現在投稿は停止中。)

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私の半生と苦痛 – ①生まれた時の記憶と両親

とても珍しいケースだと思いますが、私は圧倒的な記憶力を持って現在に至ります。それが魂とか霊体の影響なのかそれとも現在の肉体自体の素質なのかは判然としませんが、日時以外の印象的な光景に於ける映像記憶が突出しています。
なので過去世に見た景色や風景、関わった人達の顔や名前、その人達との歩みを始め、同じように現世の全ての記憶が色褪せません。
 
他愛ないことからそうではないことの一瞬まで鮮明に記憶し続けるので、むしろそれが私の精神を蝕むことさえ起こります。
思い出したくないことを時折ふとした弾みで思い起こし、それが既に過去の出来事であるにも関わらず私の中では永遠に継続して行くような感覚に苛まれます。
 

 

私が(直前の)過去世を終えて生まれ変わるまで、感覚的には一瞬でした。ですが母の母体に着床してから外界に出るまでの時間を考えた場合、それが一瞬と言うことはなさそうです。少なくとも一年近くの時間が流れていたかもしれません。
 
過去世で私は、イタリアのトスカーナ地方に今も存在する小さな農道で本来ならばそこを通らない規約になっている筈の大型車と遭遇し、その車に轢かれて即死しています。
痛みよりは大型車とぶつかった時の衝撃と衝撃音の方を強く記憶しており、大地と空が逆さまになって行く一瞬が少し長い時間に思えるような不思議な景色を記憶しています。
 
そこで私の過去世は一旦終了し、瞬時の眠りを経て次の私が始まります。
 
私の魂は何故か、空の物凄く高いところから大きな手のひらに突き飛ばされるようにして、地上へと落下し始めます。実際に生きている人間がそのような体験をすることはあり得ないのですが、それが魂(霊体)ならば大いにあり得ます。
何千フィートもの距離を長い時間をかけて落下し、その間気を失うことさえも出来ない映像と身体感覚の恐怖は今も頻繁に夢の中に現れます。
ですが使命を決めて生まれ変わって来る人と言うものは多かれ少なかれ、このプロセスを経るのだと「或る神様」が話していました。
 

そうやって私は感覚的には一瞬で空から地上に落下し、母体に着床し、着床してからはあっと言う間の9ヶ月余りを過ごし、とある病院で産声を上げました。


※どこのどの病院と言う記録と記憶については個人情報の都合上、ここでの記載は省略します。

 

 

過去世で私が事故死した年齢は推定20代前半くらいだったでしょうか‥。勿論過去世の私も音楽を奏でていましたが、何を間違えたのか20歳を過ぎた辺りからの私は料理人を志すことを心に決めて生きていました。
それがいけなかったのです。
 
人は、約束した使命を変更した場合にはそれなりの制裁を受けることが魂のルールで決まっているらしく、私の事故死は私が一時的にでも料理人の道を目指し始めたことが原因だったと、後から分かりました。
 
そして次に授かった命が今の私でした。
 
顔の真ん中に「裂傷」を持つ私を、数人の大人たちが覗き込んでいました。彼らはそれまでの私を温かく包み込んで愛してくれたイタリア人の青い目をしたグランマとは全く異なり、黒い髪、黒い眼をした二人の男女がその中に居ました。
 
傷だらけの私を見た父の第一声は、「なんだこれは。」(棒読み)‥ でした。
まるで壊れた家電でも見るような冷たい目で私の顔を覗き込み、不快極まりないと言う感情を表情と声に出してもう一度、「なんだこれは一体!」と母に向かって大声で叫んだ時の声を私は今も忘れることが出来ません。
 
父は、そのまま立ち去って行きました。
母は、私を抱き上げようともしませんでした。

 
代わりに少し肉付きの良い女性が私を抱き上げ、あやしてくれたのを覚えています。
 

本来とてもおめでたい瞬間の私達家族の光景は、冷たく凍り付き硬直し始めました。殺伐とした家族の関係が始まり、それは現在に至ります‥。
 

 
この世界に生まれ落ちてからたった一日で、私は家族の中での人権を失いました。
両親にとって、顔に傷を持つ女児は人間ではないのです。

私はまるで渋々飼われることになった生き物のように扱われ、私が言葉を話せるようになってからは益々彼らの差別感情が過熱して行きました。
 
遠い過去世 ~ リラ星の巫女だった私から数えると、そこには膨大な時間が経過していました。現在に至るまでには多々の人生の経験があり、それが霊体を拡張させ魂をさらに成熟させ、その流れを止めることなく現世の私が始まったのですから、生まれ出て来た女児は既に老人の精神年齢を持つ大人のようだったと思います。
そんな女児が子供らしい、可愛くあどけない言葉を発する筈がありません。
 
顔に裂傷のある生意気な女児は、まるで絵に描いた家族の中に登場するフランス人形のような女児とはおよそ違った大人びた言葉を容赦なく発したでしょうし、記憶では母の弾くピアノに手厳しいジャッジメントを下したこともありました。
確かあの時母が弾いていた曲は、当時大ヒットした歌謡曲「ゆうべの秘密(小川知子)」のピアノ伴奏でした。
その伴奏のコードが完全に間違っていたので、まだ喋れない赤子だった私は「あうぅぅ~~!」と言ってギャン泣きした途端、母に「ピシャ!」っと顔を叩かれたことを覚えています。
 
でも、違うものは違うのです。それを感じる感性に子供も大人もありません。正しいか否か、美しいか否か‥、きっと私はそこだけを考えながら母の弾くピアノを聴いてギャン泣きしたのでしょう‥(笑)。
 

母の殴打の始まりはあの時だったと思います。でも子供の私はその意味がよく分からず、そこから数年の時を経たある日、(原因は忘れたのですが)母の手の関節が私の目を激しく殴打した時、もしかしたらこれは虐めとか虐待の類いではないのか‥ ということに薄々気付き始め、母や父の言動に疑いを持ち始めました。
 
 
to be continued…