神々と共に見つめ続ける (I continue to look at the world with the gods)

幸せとは、何も起きない世界であり続ける事だと私は思っている。だがその思いとは逆に、世界は良くない方向へ転がり続けているように見える。
私の2024年は、色々な意味で激変だった。だが私はその事を殆ど口外しなかった。私が向く方向には必ず、良くも悪くも光が当たる。その光を向けられた人たちは殆どの場合、自分を見失う。だから私はひっそりと世界を静観し続けるしか、他に方法を思いつかなかった。

音楽の世界も大きく揺れ動いた。それは私が (ほぼ直感に従って) ある場所に架けていた梯子を外した途端に始まり、現在も続いている。

今年は相方、天野玄斎神代開き(かみよびらき)を執り行った辺り (2023年11月10日) から私たちを取り巻く状況が大きく変わり、突発的な敵意や憎悪が物理的な現象「圧」となり何度も身体やメンタルに異変を来たす現象が絶えなかった。
その度に相方がヒーリングで対応してくれたことで、今日まで無事で来られたと言っても過言ではない。本記事中ではその状況の詳細の記述は省略するが、ある時期から私は心身をミュートし始めたのか、今年後半はとても眠い日が多かったように思う。心身をミュートすることで若干ではあるが感覚を麻痺させることが出来るので、見なくて済むものをなるべく見ないようにしているのかもしれない。
 


2024年12月初旬、実に14年ぶりに私たち夫婦は大洗に二泊三日の旅に出た。神・武甕槌神 (タケミカヅチ) が愛した場所をもう一度、この目で確かめたかった。
思えば私と夫を引き合わせて下さったのも、そして以前住んでいた時の住居に私たち夫婦をそっと逃がして下さったのも武甕槌神だった。

(まるで夜逃げみたいにして私たち夫婦が引っ越しをしたのは、当時私のアンチと思われる人物に私たちが住んでいた住所を突き止められ、それをとあるSNSに航空写真で晒されたからだった。あの時、武甕槌神の伝言に従って私たちはかなり強引で無理のある転居に踏み切った経緯がある。)


最初に私が武甕槌神と出会ったのは私がタンゴ歌手の伴奏で茨城県を訪れた時だったが、当時の私はその人 (神) が武甕槌神だとは気付かなかった。後に夫と色々話して行く中で徐々に感覚が鮮明になって行き、いつも傍に居て見守っていてくれた存在がその神だと言うことに気が付いた。

2011年3月11日の半年前の2010年8月に初めて大洗を訪ねた時には、その半年後に起きるかもしれない大地震の断片を私に見せてくれた。その時の感覚を私は音楽に残している。
 

 
2010年8月から半年後の3月の大震災以降、暫くの間私は海を遠ざけていた。どうにも海底で起きている霊的な映像が日夜私を苛み、ただ‥ 被災者の御霊に祈りを捧げることしか出来なかった。
二度と海に行くことはないだろう‥ と、相方が神代開きを執り行うまではそう思っていた。そんな私の心境が、ある時から変わった。

2024年12月、大洗に行く途中で鹿島神宮に立ち寄り、武甕槌神と神人共食を試みた。湧き水を使用したお料理はとても清らかな味がして、私をさらに覚醒させてくれた。
だが覚醒は良いことばかりではなく、少しだけ未来が視える私にとってはその折々で見えたことが心身に支障を来たすこともある。

悲しい時間が増えて、それを上手く言葉に出来なくて苦しいことが多くなった。相方にそれを吐き出したくても、きっと彼も似たような心情にあるのではないかと思うと、おいそれと自分勝手に自身の感情ばかりを言葉に乗せることにも躊躇いが生じた。
だけど何故か、病むほどに自分を見失うことはなかった。それは私が「リラ星最後の巫女だ」と言う自覚と自負が、きっとそうさせている。
弱いからこそ強くなり、強いからこそ弱点はさらに脆さを増して行く。その揺り返しを繰り返しながら、霊体が少しずつ鍛えられて行くのを最近感じている。
 

 
我が家にはもうお一方、神が棲んでおられる。名前こそ出せないが、私たち夫婦はその神にも大いに助けられている。今風に言えば「少し口の悪い」神様ではあるが、心根はとても優しい。「少し口の悪い」‥ と言う辺りが自分に似ているので、神を悪く言うことも思うことも出来ないと思っているが‥。

私は神を通じて世界を見るし、神は私や相方を通じて食べ物の味を堪能する。
神人共食とは生きた人間が神に味覚を提供し、共に料理を味わう所作を言う。私たち夫婦は殆ど毎日、神々と神人共食を続けている。そうすることで私の味覚が覚醒し、覚醒した味覚はさらに細かく料理を味わい尽くし、その感覚を神々と共有することで神々を喜ばせることが出来る。

世界が向かう先を、既に私たちは神々から聞いて知っている。それは地上の神々に限らず、宇宙に存在する宇宙自然神ともシンクロする時があり、小さな人間に過ぎない私の感覚が際限なく覚醒して行くところに私は、奇跡とロマンすら感じてやまない。
 

今年は色々な場所に旅行に出掛けたが、暫く私たち夫婦の「旅」は続きそうだ。同様に「祈り」の時間も止まることはないだろう。
世界の混乱が少しでも鎮まることを、ただ、願うばかりだ。
 

還暦 (60 ans), 私と『Mother』

2024年11月3日、私は還暦を迎えた。単語に書いてしまえば何とも呆気ない二文字だが、とても孤独でエキセントリックで、尚且つ少し苛々するような不思議な感覚を覚えている。
誕生日付近に旅行を計画し某所に向かったが、案の定私の雨オンナパワーが炸裂した。三泊四日の旅に出たものの中二日目で滝のような大雨に見舞われ、室内で滝の音を聴きながら過ごすことと相成ったが、私たち夫婦はそれでも一向に構わなかった。
 
滝のような雨音は音楽だった。自然音と言う最高の恵みに鼓膜はむしろ癒され、少し疲れた心身を温泉に浸して空を見上げるだけの何ってことのない時間はただただ至福のひと時だった。
 

50代最後の年、私は神々に多くのミッションを授かることとなった。元・人の神も在ればそうではない、宇宙自然神のような存在も在る。各々の神々が私に少しだけハードルの高い課題を提示して来たが、それが私の得意分野ならばただ続けて行けば良いだけだ。
リラ星の頃から、自然神と音楽は私の最高の友だった。今でもそれは何一つ変わらないのだから、後は私の魂や霊体にその旨を余すところなく刻印し、私の死後に神々にそれを手渡すだけだ。
 
気付けばブログも前回の更新から三か月近くが経過した。幸いなことに私がここを留守にしている間にも沢山の来訪者があり、何かしらの記事を捲って読んでいる。それが好意か悪意かなんてことはこの際どうでもいいことだ。
私の部屋を訪ねて来た人たちには各々それなりの理由や動機がある。ただそれだけのことだから。
 

 
ブログの更新が空いてしまった唯一の理由を挙げるとしたら、私に話せることに制約が増えてしまったことだろう。
人や神々との繋がり全てに於いて、私はMAXレベルの秘密主義者だ。それもこれも仕方のないことで、かつてジャンヌダルクとして生きた時代を含め記憶にある中で私は二度、火炙りで死んでいる。もう火炙りは懲り懲りだ(笑)。
ダークサイドは私の食、財布、生命導線のありとあらゆるところを狙って突いて来るから、私は多くを隠して行動しなければならない。幸いなことに夫が召喚してくれた心優しきガーディアンズたちも頑張ってくれるので、こうして何とか無事に還暦を迎えることが出来た。
 
心優しき夫にも、ただただ感謝の一念しかない。
 

書きたいことが山のようにあるにはあるが、いざ書き始めたらおそらく一冊分の本になるだろう。それだけ私のこの10年は余りに濃厚だった。だからと言って「濃厚だ、濃厚だ」と言えばただの安っぽい嫌味みたくなり兼ねないので、無数の思いを霊体に封印した。
 

人として色々な心配事も絶えないが、その内容さえもここには書けないのがもどかしい。相手もあることが大半なので、これも又致し方ないと諦める。
 

 
音楽のみならずスピリチュアルなことその他に於いては、実は随時追跡や調査を続けている。
声高に「不思議だ不思議だ」と言われることの大半が、私にとっては然程不思議でも何でもない実に他愛のない出来事だったりする。
 

いずれ地球の半分以上が廃墟となること。
いずれヨーロッパの大地の一部が水没したり、人が消えていなくなったりすること。
いずれ地球の公式言語の一つが日本語になること。
霊質文明の最初の樹立が地球時間で数百年後に控えていること。

 
知っていることは他にも多々あるが、現在の「有名人にしか関心を寄せない考えの人々が主流」の地球上で預言の全貌を明かすには未だ早過ぎる。
リラ星の時代から23万年以上が経過したが、地球もプレアデス星も或いは双方の関係性も余り変わっていない。リラ星人とて一枚岩ではないわけだから、善人と悪人の両方が混然一体と共存する。当然虚偽もまん延して行くが、私一人の預言の力でそれを止めることなど出来ないし、止める必要もなさそうだ。
その前に地球が一度空っぽになるから。
 

空っぽの世界に残り続ける残響のような音楽を、私はどの世界に在ってもせっせと放ち続けて行くのみだ。その目的の為に私は日々神々や自然神、精霊たちと対話を続けており、その過程で地球や宇宙の未来の一部をそっと覗かせて頂き、それを預言として音楽の中に封印して解き放っている。
人の為の音楽ではなく、もっとそれ以外の目的を持つ音楽だから、人々の琴線に刺さらなくても余り心配はしていない。それより何より私は、自身の中の『Mother (マザー)』の存在を今は大切にしたいと思って生きている。
 

嘘と誠

暫く当ブログの更新が出来ませんでした。
理由の一つには音楽評論活動と創作活動、及びスピリチュアルな活動全般の活動ペース配分の見直し等、諸々の再編に時間を要していること。もう一つの理由として、霊的な圧が異常に活発になるこの時期の体調不良 (圧除去等を含む) が挙げられます。

今年は旅の予定を複数入れていますが、それもこれも長引くコロナ禍の合間を縫って継続しており、都度都度霊的な『圧』に見舞われ体調を壊しながら何とかこなしています。
宇宙評議会 “Norg” に於いては諸般の事情で、現在は休止中です。とは言え、各惑星の各々のメンバーの活動スタンスの見直し等が随時行われているので、会議自体は休止中とは言え通信は継続しています。
 

方々の宇宙情報の状況等、目を離せないことも多々ありますが、正直なところ99.7%が虚偽にまみれているのが現状です。
個々の虚偽を羅列することは可能ですがそれですと私が虚偽発信者の側に光をあてることになりかねないので、この記事にその旨を記載することは控えます。
長く私のブログを読まれている方であれば、私の言わんとすることを既に察知していると思います。
 
現実的には何も起きていない状況下で、例えばわくわくすることが起きるだとか、ネガティブで宇宙規模の出来事が近未来に起こるだとか、そのような情報を目にしたり耳にした場合には、都度都度疑ってかかった方が賢明です。
特に宇宙情報関連のわくわく系情報の大半がまやかしであることは、意外にご自身の中でそれを感じている場合が殆どでしょう。プレアデス人が救済に来ることもなければ、グレイ星人が悪者である‥ 等の情報も疑ってかかって下さい。
勿論グレイ星人全てが善でも悪でもない点は、人々にそれを置き換えれば直ぐに理解出来ることです。
 

 
一つ注意すべき点は、何者かの影響で地球全体がディストピア世界に向かい始めていることです。首謀者を確定することは現状では不可能ですが、背後には少なくともプレアデス星人等の過干渉が在ることだけは分かっています。
勿論ソーハン・エレディオンなる人物も存在しませんし、存在しないソーハン・エレディオンの300年後の妻がエレナ・ダナーンだ‥ 等と言う事実もありません。
知名度だけしか取り柄のない何者かの妄想に振り回されることのないよう、ご自身の直感や感覚を磨いて下さい。
 
私たち個々の感性を磨き込んで行くことで、宇宙的な支配者の台頭を未然に防ぐことは十分に可能です。ディストピア世界に地球が向かうことのないように各々注意しながら、当たり前の日常を当たり前に消化して行くことに軸足を付け、冷静に、落ち着いてこの時代を生き抜いて欲しいと思います。
 

私自身の最近の活動は、音楽に於けるミッションに集中しています。
複数のミッションがのしかかる身ではありますが、私にしか出来ない仕事がその中には多々含まれています。その一つが『音楽保管』です。
何れ地球上から複数の大陸が消えること、それにともない多くの民族音楽が消滅することその他、既に私は色々な未来を知っています。その時に備え、私一人で抱えきれるだけの分量の音楽の知識、ジャンルや成分表等を脳内に保管し、現世の私がこの世を旅立った後に一旦神界にその情報を全て保管しに行くことになります。
そしてしばしのインターバル (インターセルフ) を経た後に再び私は、音楽のミッションを続ける為にこの地球上に戻って来ることを決めています。
 

現世でミッションをどの段階まで運び進めることが出来るかは全く分かりませんが、少なくとも私は既にDidier Merahの名前でピアノによるオーパーツ作品を複数配信しています。数年以内に、その中から楽曲を選出して楽譜を出版する予定を立てています。
その前に、先に予定している企画のアルバムの新譜のリリースをしなければなりません。録り貯めてある楽曲も複数あるので、幾分時代が落ち着いた頃合いを見計らって新譜を一気にレコーディングして行きたいと思っています。
 

これは自慢話でも何でもない話として書きます。
私はリラ星最後の巫女でした。そしてその後複数の生を経て現在に至りますが、自身の霊体の大きさに私自身が驚いていますし、社会生活に於いてその霊体を持て余しているような感覚が常にあります。
多くの人々に理解されないこと、その為生涯に渡る友人を持てないことその他色々ありますが、何より私自身の意思で神上がりを拒否し、音楽文化の向上の為にこの先何度も人間として生き直すことを決めています。
 
一説によればそういう人のことを、「観音」と言うのだと話す人も居ます。
考えてみれば言い得て妙で、「音を観る」と書いて「観音」と読むわけですから、その響きはもしかすると今の私のような状況の人を指しているのではないかとも思うわけです。
利他的な精神を大切に、この先も粛々と祈りを致し、音楽や霊質学文明への案内人として心静かに在りたいと願ってやみません。

noteに2020年から配信していた預言集 自然神から見た [COVID-19] とその全貌 へのブログ記事の移動も、ゆっくりと行って参ります。
各記事はnoteから記事を更新したのと同じ日付で転載して行きますので、新着記事には載りません。転載が完了した際には X にてその告知を行いますので、是非わたくしの “X をフォローして情報を拾って下さい。
 

 
 
当記事で私のミッションの一つである『音楽保管』の話題が出たので、せっかくですので最近私がSpotifyで作成した音楽リストをここに幾つか貼っておきます。
毎週毎週欠かすことなく私が自分の作品でもない、他の人の作品を何故各プレイリストにスクラップしているのか、その理由と情熱の断片を少しでも感じて頂けたら幸いです。
 
 

⇧ 主にヴォーカルのない音楽をジャンルレスに集めたプレイリストです。

 

⇧ 新旧含めた『イタリア』な音楽ばかりを集めたプレイリストです。

 

⇧ 2024年8月19日、現時点で最も新しい世界の新譜をジャンルレス、ボーダレスにスクラップした雑食系のプレイリストです。

 

⇧ 2024年を華やかに彩るK-Popばかりを集めたプレイリストです。(K-Popの台頭にも既に、陰りが見え始めています。)

謎のうさぎが語る思い on “Supernatural” by NewJeans (with Min Hee Jin)

私にシュールな意味合いでの新たなミッションが加わったことで、このところ時間やエネルギーの使い方がかなり変わったように思う。他者との関わりも徹底的に制限し、とにかく人目に触れないように過ごしている。
そんな中、NewJeansの新譜 “Supernatural” のPV第二弾が配信されていた。
 

特に印象的だったのは何度も映像に流れて来る “謎のうさぎ” の表情と、NewJeransの5人の少女たちが実は “謎の生命体だ” と言う場面設定とその映像描写だ。
 

NewJeansのプロデューサーであるミン・ヒジン (Min Hee Jin) は、もしかすると過去世で別の惑星に生きた経験があるのではないか‥と私は感じている。それが実は私が生きた過去世とも深く重なり合っていて、両者が保持している記憶がとても近いようにも思えて来る。
例えばこのまなざしの色と、光の描写。
 

 
私が知る (リラ星に実在した) “光るさかな” たちの皮膚と目を思い出す。(彼らは神の力を持つと信じられており、満月の夜にだけ海面に現れてはリラ星の巫女たちに星の未来の出来事について予言を授けてくれた。)
 
そしてさらに気になったのが、下の写真の日本語の部分‥。
 

 
最近度々思う。本当にシュールなエネルギーや人生スキル、技術を持つ人は、それを持たない人たちとはけっして交わることが出来ないと言うことを。
たとえエネルギーだけが突出していてもそれを技術で人々に伝える人生スキルを持たない以上、人々に対してそれが高度なエネルギーだとは気づかせることが出来ないと言うことを。
 

今も昔も度々私の目の前に現れる (あくまで自称の上で) “不思議な力を持つ人” 、もしくは “高尚なエネルギーを持つ人” たち。
彼らは往々にして自身が置かれた不遇な境遇について “自分はこれだけ高尚なエネルギーを持っているのに、他者がその事実を認めようとしない‥” と言いたがる。だが実際に彼らは真剣に自身のことを考えてはいないし、ともすればもっと要領よく民衆を洗脳すること (だけ) を生業に出来たら良い‥ 等と考えている。
 

本物の才能は、けっして隠すことが出来ない。嫌でも社会生活の中にそれらは露呈することを免れられない。
Genuine talent can never be hidden. Whether one likes it or not, it will inevitably be revealed in social life.

 

 
PV “Supernatural” とは、”突出していることが私たちにとって、超自然体なのよ‥” と言う意味だと私には思えてならない。
粛々と覚醒し続けた結果の現在があり、それは日々の些細な努力と周囲への配慮や気遣いと共に、そこに在る。「わざともう仲良くならないように‥」と言う会話のシーンは、今の私には特に重く身近に感じ取れる。
 

例えば私が、自身のことを “コンタクティーだ” と誰かに伝えたとしても、そのスキルを持たない者や持とうとすらしない人たちにその真意は伝わることはないだろう。”あの人、こじれてるね” などと茶化されて終わりだ。
だが私は日々真剣に複数の地球外生命体 (たち) とテレパシーで交信を続けているわけで、それを私は主に自身の作る音楽を介してひっそりと配信し続けているこれも又、事実だ。
 

 
“スターシード” と言う言葉をご存じだろうか?
この言葉は一説には、「地球の次元上昇(アセンション)のために、地球外の惑星から来た『魂』を持つ人たちのこと」とも言われている。だがそもそも「アセンション」とは宗教用語で「昇天 (死) 」を意味するので、その箇所に於いては私は否定的な考えを持っている。
但し他惑星に生息した経験を持っているならば、その惑星にはない何かしらをオーパーツとして自分が置かれた状況下で新たに出現させることが可能である。
その意味で私は個人的に、”スターシード” は私の他にも複数存在する可能性を否定していない。今のところそれは数名に限られるが、もしかするとミン・ヒジンもその一人ではないかと思っている。
 

ミン・ヒジンとNewJeansの5人の少女たちが表現する “Supernatural” の神髄には、一体何が潜んでいるのか‥。美しいオーパーツがここに又一つ、音楽と表現と映像と介して出現したことが、私にはただただ頼もしい限りだ。
 
What on earth lies within the essence of “Supernatural” as expressed by Min Hee Jin and the five girls of NewJeans?
I am simply confident and happiness that another beautiful Ooparts has appeared here through music, expression and video.
 

追記:
他者の音楽に関する記事は極力、音楽評論家として運営している別ブログ “遠矢美樹の音楽評論” に綴ることに決めています。ですが、今回の場合は私自身のシュールな経験や記憶とミン・ヒジンが織りなす美しい表現世界とが深く重なっていた為、メインのブログ “Didier Merah Blog” に記載することにしました。
 
PS:
When it comes to other people’s music, I usually write about it on my other blog, “Miki Toya’s Music Criticism” which I run as a music critic. However, in this case, my own surreal experiences and memories overlapped deeply with the beautiful world of expression woven by Min Heejin, so I decided to write about it on my main blog, “Didier Merah Blog.”
Thank you for reading to the end!🛸

 

 

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約束と祈り (Promises and prayers)

来月に相方の誕生日を控えているので、その辺りに箱根への旅を予定している。道中は相方の運転で現地に向かう予定だ🚙
自分で作成した色んなPL (音楽プレイリスト) を用意しつつも、やはり故 サビノ神父 (現 Hana) との思い出が心を優先するので、BGMはイタリアの音楽に。
 

 

記憶とか思い出は微妙にトラウマと重なり合うもので、サビノ神父を思う時にはどうしても実母の影が折り重なって来る。
 

実母が最後の最後まで執念深くサビノ神父との思い出の写真を隠した本当の理由は、一体何だったのか‥。遺品整理業者がとても良い業者だったので、段ボール何個分にも及ぶ分量の写真と言う写真を一枚残らず全て保管して私に渡してくれたが、見るからに古い段ボールの中にサビノ神父と私が最後に撮った写真がひっそりと隠れていた。
その場所がどこだったのか、数十年もの間分からなかった。どうしても思い出したい記憶だけがぼんやりと霞が掛かったように思い出せなくなっていたが、それもこれも実母が仕向けた圧のようなものの一種だったように思えてならない。
 
限られた時間の中での遺品整理の中で私はどうしてもその写真を探し出したかったから、念を込めるように一枚一枚捲って行くと、とある束の中に笑顔のサビノ神父が目を覚ました。
幾度かの交霊の末に、最後の写真を撮影した場所をサビノ神父の霊体から聞き出すことが出来た。
箱根のとあるホテル内のレストランだと分かった。そこに辿り着くまでに、40数年を要した。
 

 
思えば私と神父との出会いは既に過去世に在り、そこ (トスカーナの山中の車道の事故現場) で私たちは忘れ得ぬ固い約束を交わしたのだろう。仮にサビノ神父が “Hana” として転生した今でもその記憶を抜きに全てを語ること等出来なくて、その時を思い出す度に心臓辺りがしくしく痛んで仕方がない。
 
コーヒーとワインとパスタが大好きなサビノ神父のことを、私が家を飛び出た24歳の時から片時も忘れたことなどなかった。だが如何せん、当時の私の心は壊れていた。私を壊したのは紛れもなく、山田家とその親戚全員だった。
私は壊れながらもどうにか平常心を保つことに一生懸命だったが、今にして思えばやはり壊れていたのだろう。
実家の遺品整理の時に見つけ出した写真の中には、下の写真のようなサビノ神父が何かの目的で撮ったと思われるブロマイドのような写真が複数あった。
 
きっと母はサビノ神父を個人的に好きだったのだろう。だからなおさらのこと、神父の気持ちが私に向くことのないよう、神父から私を遠ざけることに必死になったのかもしれない‥。
 

 
故 サビノ神父が神父としての霊体を今よりも強く保持していた時に、相方 (天野玄斎) が神父の霊体の心臓に張り付いた真っ赤な炎症を取り除いてくれた。その瞬間故 サビノ神父は本物の自由を得て、それまで固く凝り固まったようになっていた霊体がひときわ大きくなったように私には見えた。
わずかな母の霊体が神父の霊体の周囲を鎖のように縛っているのが見えたけど、相方のヒーリングの後にその呪詛 (呪縛) も解けて、故 サビノ神父はそこで何度目かの転生の機会をようやく得ることが出来たと後から聞いた。

生まれ変わった故 サビノ神父 (現 Hana) とは未だ現世での再会は果たせていないけど、その時はいつか必ず訪れると私は確信している。私が確信したことで、これまで叶わなかったことは一つもない。

念じることはいずれ祈りとなり、それが正しい祈りならば願いはいつの日か必ず叶う。

過去世で交わした幾つかの約束は、一つずつ現世 (現在の私) で叶って来た。リラ星の妹との再会もじきに果たせるだろう。
リラ星の妹は今某業界の第一線で活躍している。彼女は今回も、彼女が作り出した新しい作品の中にふんだんに、私たちの最期の約束の合図でもある “光” を散りばめている。
同じ記憶を持つ人にとって、その “光” は特別な意味を持つ。
彼女が送って来る “光” に返す新しい作品が今は未だ手元にはないけれど、私が毎週欠かさず作っている音楽のプレイリストを通じて彼女には必要にて最大限のアンサーを送っている。
 

音楽は私たちにとって、手紙のようなものだ。
喜びたい時、泣きたい時、抱きしめたい時、‥その時々に応じて私のPLには必要な音楽を詰めて解き放っている。そのシグナルに彼女も応えてくれる。
静かなやり取りは地球全土の人々に向け、各々に必要な形や響きとなり届くと信じて、手の負傷の緩やかな改善と共に数年以内に私は新作をレコーディングする予定を立てている。

 

桜と私

暫く体調を壊して休養していました。
その間に世の中が粛々と変化して行く様を、寝室の中で感じながら悶々としていました。
通りをひっきりなしに疾走する救急車の数が日増しに増えるその度に、世界から一つまた一つと消えそうな命の叫びが聴こえるようで、胸が痛みます。
 

ずっと桜の季節が嫌いでした。それは毒親の影響が大きいのでしょう。
毎年お花見とは名ばかりのイベントが計画され、その時その前日になる度に私は母親の不当な暴力を受けました。
目や腕の皮膚を母親の握り拳が激しく殴打し続け、お花見当日の朝になる度に私は全身痣だらけになりました。当然そんな姿でお花見など行ける筈もなく、否応なく私は留守番をすることに‥。
それが私以外の三人の家族にとって、ベストな状態だったのです。
 
毎年そんな状況が続き、私は最初から家族の中に存在しなかったように私以外の家族三人が、何食わぬ顔でお花見を楽しんで帰って来ます。
千円程度のお金がテーブルの上に置かれ、それで何か食べてね‥ とにこやかな顔で母に言われ、マクドナルドでハンバーガーセットを買ったり松屋で牛めしを買って、家で一人で食べました。
 
私は家族の中で、最初から存在を許されない人でした。
 
 

 
そもそも大のカメラ好きだった父の趣味を奪うように、私が家を出る頃になると母は (本来ならばそんなお金など無い筈なのに) どこかからか資金を捻出して高額のカメラを買い始めたことを、今でも覚えています。
特に桜が好きと言うわけでもないのに、このシーズンになると母は井の頭公園に行っては桜を撮って楽しんでいました。そしてマウントするのです、私や父に対して。
母は人に「先生」とか「アーティスト」等と呼ばれたかったのではなかったかと、今になるとそう感じるのです。
 
私が大学を卒業し24歳で家を出る頃には、すっかり桜が嫌いになりました。桜と母の虐待が記憶の中でセットになり、私を苦しめるからでした。
そんな私が今では大の桜好きに変貌し、それもこれも最愛の夫のお陰だと感謝しています。
 

2022年に前の家から転居し、それまで一人で桜を撮っていた隠れスポットを離れてしまったので、去年は殆ど桜の写真を撮ることが出来ず今年。
掲載している写真の桜は各々とても細く花付きもそれほど豊かではないのですが、構図次第では大木の桜の樹のようにも見せることが出来るところがカメラの不思議なトリックです。
上達したのは私の腕ではなくて、スマートフォンのカメラの性能(笑)。文明の利器を利用しない手はありません。
 
 

 
昨年実家を売却する際に遺品の整理をし、その最中に母が撮った花の写真を大量に見つけましたが、どの写真も焦点のぼやけたものばかり。写真と呼ぶに相応しくないものでした。
結局全部処分しました。
忌わしい記憶や思い出と完全に決別しなければ一歩も前進出来ないと思い、母自身が写っている写真も殆ど処分しました。でも、だからと言って私の中に在る辛い記憶と決別出来るかと言われたらそうではなくて、私の中には未だ両親や弟からの虐待や嫌がらせの記憶が息づいているのが苦しいです。
 
四方八方が敵だらけだった私の半生。
夫に「私は間違っているのかな?」と訊ねてみたのですが、彼は頑として「一つも間違ってないよ。」と言います。それは恐らく彼の本心であり、真実だと私も確信しています。
 
私がこのブログで、亡くなった弟の奥方 (Eri Y.さん) を含め親族の過ちについて綴り始めると、すぐさま Eri Y.さんの知人を名乗る誰かしらからInstagramにメールが寄せられました。その人物は私に、自分は知っているけれど私が知らない多くのことがある‥ と告げて来ましたが、実家の真実の最も近くに居たのは私であると言う確信は物理的な証拠として手元に今も在ります。
家族も親族も、私に知られては困る何かを私に探られることを懸念したから、私を実家から早々に追い出し一歩たりとも実家に近づけさせぬようにして、徹底的に親族の輪から排除したのでしょう。
 
 

 
上記の書類も、その証拠の一つと言えます。
 
今このタイミングでこのメモを読むと、母の話していた「家にはお金がないのよ。」と言う口癖が全くの嘘であることは明白です。
ですが母はどういう訳か清貧思想を深く心に持っていて、音楽高校に進学した私が経済的には豊かではない人を友人に持つように仕向けられました。それが私はたまらなく嫌で仕方がなかったので、その頃から私は親に内緒の収入を得る為にレコード会社にデモテープを持ち込むようになりました。
その夢さえも折に触れ母は妨害し、当時爆発的に売れた「爆風スランプ」のディレクターに無理矢理私を会わせましたが、感性の合わない人とは上手くやって行ける筈がありません。
 
[ 中略 ]
 

私は「暴きの星」を持っています。多くの虚偽が私を捉え、虚偽の側からそれを私にを暴いて欲しいと嘆く時、私の「暴きの星」が疼きます。
遠い過去世で私はジャンヌ・ダルクとして生きました。最終的にジャンヌは異端審問にかけられ、火あぶりの刑に処せられて最期を迎えています。その時周囲はほぼ敵だらけだったと記憶しています。
でもそんな中にも時折影の助っ人が現れ、彼等は自身が私の助っ人だとはバレないように私を何度も助けてくれました。
 

色々な記憶が渦巻き、それが自分の過去世だと分かるまでには数十年の月日を要しました。そして私自身を知る旅は困難を極めましたが、現在の夫が私を私自身に引き合わせてくれたのだと思っています。
 
今年はそう遠くない場所の桜のスポットでお花見を二人で楽しんで来ましたけど、いつかもう少し田舎に出向いて桜のシーズンを満喫したいと思っています。
 
桜と言えば、私の中では「木花咲耶」を連想します。何故かは分からないのですが、今日のお花見の最中も天界からずっと私たち夫婦を見守っていて下さいました。そして天照大神も‥。
自然神と大の仲良しの私は、日々の折々で彼等にとても救われているように感じます。
 
穏やかな日々がこれからも続きますように。そう祈らずには居られません。
 
 

Equinox 2024′

大袈裟に聞こえるかもしれませんがこの数週間、宇宙からの圧、亡くなった家族からの呪詛の欠片など、私は色々なものに襲撃されて体調を壊していました。
幸い夫が神がかったヒーラーなので、かなり救われました。
 
家系的に関節が弱いので、私はどうやらそこを付け狙われます。無理は禁物ですが、何も表現しない日々は逆に私を窒息させます‥。
 
 

 
明日、3月20日は春分の日。イクイノックスです。
CD Password に収録した “Equinox” はサブスクでは公開されていいませんが、その元となった初演の “Equinox” をここに置きたいと思います。
 
虹の橋の向こう側にも幸せが、きっと在るでしょう。
魂がしばしの眠りに就き、再び此方側の世界に戻って来れるように祈りを込めて🙏
 
 

[音楽評論] 藤井風 – 満ちてゆく (Michi Teyu Ku/Overflowing)

SNSその他YouTube等で「感動した」とか「泣いた」‥等のレビューが複数上がっているので、何度か藤井風の新作満ちてゆくの動画を視てみた。
 
私は藤井風の推しでもファンでもなく、自身が音楽や音楽表現の専門家であり尚且つ音楽評論家と言う立場で各自の作品を分析することが仕事ゆえ、ここでは客観的な視点で楽曲『満ちてゆく (by 藤井風) 』を分析して行く。
 


先ず一つ目の疑問はこのMVで、何故藤井風が老け役に扮したのかと言う点。
他の人のレビューは一切読んでいないのでその上で言えば、老け役 藤井風の大方の (私目線の) 想定はこうである。
 

彼は画家の父とそのモデルとなった女性の間に生まれたご子息であり、そこそこ裕福な生活をしていた。
だが運命の悪戯で両親が離婚し、母親の手一つで育てられた。だがその母親を水難事故で亡くし (あくまで私の憶測に過ぎないが) 、彼は孤独を強いられた。唯一母の墓を訪れることだけが彼の救いであり、そこへ行く時だけは人間も大人も忘れて自分に還ることが出来た。
 
誰かを愛することもなく、誰かに愛されることもなかった。なぜならば『母』と言う理想の女性以上のその人に巡り合えなかったからだろう。
老け役 藤井風の中で次第に母は理想を超えた理想の人となり、亡くなった筈の『母』が時折彼の目に映り込むが、それは実体のない亡霊としての『理想の人』だった。
 

たった一枚、美術館に飾られた『母』の写真は、画家だった父が遺した絵。
老け役 藤井風は遂に絵筆を取ることはないまま時が過ぎ、失った時間が彼を押し潰して行く。
彼 (老け役 藤井風) に残された時間はあと僅か。思い出も色褪せ始め、老け役 藤井風は時折現れる『母』の為にそれまでの人生のありったけを手帖に書き記す‥。
 


このMVには明かされた筋書きが既に存在しているような、そんな記述を走らせている人たちの文献も見かけたが、それは公式に開示されているものではないようだ。
なのでMVを視る人によって捉え方や解釈が違っても、それはそれで良いと私は思う。
 
それにしても『不在の愛』や藤井風の死生観をこれでもかとこの動画に詰め込み過ぎて、ややストーリーに無理のあるMVではないだろうか‥。
特に老け役 藤井風のそもそもの年齢が現在26歳だと考えると、彼の老け役がかなり薄っぺらく視えたとしても致し方ないようにも感じる‥。
 
藤井風が盛んにMVに持ち込む彼の死生観は、前作のMVの中にも随所に見られた。
 


全体的に共通しているのは、彼/ 藤井風がその時思ったことが彼自身の人生そのものであり、それが妙に血生臭さを帯びていることに藤井風自身が無頓着だと言うこと。
このご時世、特に2020年以降の私たちは生と死の境界線上に否応なく立たされている。そして身近に、多くの死者が実際に急増している、そんな状況に見舞われながらその現実をなるべく見ないようにして生きていると言っても過言ではない。
 
おそらく生身の藤井風は、どこか自身を宗教者、求道者に置き換えながら生きているように見えるが、それを音楽表現に挟み込んで行くには彼の霊体はまだまだ未熟だ。人生経験も浅い。
一説には彼がサイババの信者だと言う噂もあるが、描いているものを見る限りどこかあっちの宗教こっちの神様‥ と言う雑居概念が彼を取り巻いているように見えるが、実際はどうなのだろう。
 


これは余談だが、毎回藤井風の映像を観ていると、彼の視界がどこか四隅が歪んでいるか切れているか或いはぼやけて視えているのではないか‥ と私は思えてならない。
特にその印象が強かったのが、藤井風の旧作graceだった。
 


どこか視点が合わない印象が強く、段々とMVを視ている私の視界が狭くなって行く。それが何故かは未だに分からないが、藤井風の新作『満ちてゆく』の中で老人たちが集まって歓談するシーンを視た時も似た印象を持ち、正直心臓が縮み上がりそうになった。
これは私が持つ独特の映像記憶ともリンクしている何かの要因が悪さをしている可能性も大だが、何だか彼の映像を視る度に同じ感覚に落とし込まれるので最近藤井風の映像をなるべく私は視ないよう努めている‥。
 

話が大きく脱線したが、若干26歳にして世の求道者を切望しているようにしか見えない藤井風の『満ちてゆく』を聴いても視ても、涙ひとつ出て来ない私は人間としてどうかしているのだろうか‥?
それとも「涙した」‥ と言うメディアの印象操作が私には全く通用しないだけなのか。
 
何れにしても、藤井風のやったりげな小芝居が不自然にしか見えない『満ちてゆく』の唯一の取り得は、理想の女性『母』を演じたモデルの高橋マリ子さんが清楚で美しかったことだ。
 


メディアの印象操作は恐ろしいもので、結果的にこれだけ多くの人々に治験すら行われていない新型コロナワクチンを接種して行った。多くの薬害事例も出ており、ワクチン接種が原因と思われる死者も右肩上がりに増えている。
 
音楽や漫才等のTV番組も雑誌も政治も、その他多くのことがメディアの印象操作の末に暴走し、それらにともなう事件も後を絶たない。
何を信じて何を疑うべきか‥、そこに一個の正解がない以上全てを疑ってかかると同時に、自身の感性や直感、判断力を日々磨き込んで行くことで自分を危険から守ることが出来ると私は思っている。
 
有名だから、有名人が作り出したものだからその作品が素晴らしいとは限らない。ありとあらゆるものが印象操作の末にこの世に放たれているとしたら、その奥には必ず「大衆を洗脳している特定の人物」が存在する筈。
 
藤井風ブームもそんな「民衆を洗脳に落とし込む現象」の一つと、私はみている。
 

 

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希望の転生 – reincarnation of hope

2024年2月29日、12:30pm⏱
大切な人 (旧 故人) が生まれ変わり、地上に還って来た⛪

勿論彼は過去世の記憶を持ち越して、少女の新しい居所を得たようだ。前世と身体の事情も違うので、色々驚きながら産声を上げている。
 
誕生、心からおめでとう🕊
次は私が貴女を待ち受ける番ですね。
 

宇宙精霊ザール氏との対話記録 2024/02/11

ほんの数分間でしたが先ほどまで、Norg (宇宙評議会) の議長であるザール氏と交信していました。
私の視界を通じて地球上で起きていることの一部がザール氏に送信され、それを見聞きしたザール氏が私に彼の思いを返信して来ます。
 

多くの #スピ系 の面々がSNSを通じて自己発信して行くのが今では当たり前のことですが、ザール氏はそれを見てこう言います。
 
 

生きた存在の全てが「空気」と「影」を持ち、必ずその痕跡をこの世の何処かに残します。その痕跡を残さないのは「実体のない存在」の証しであり、そこには明確な線引きがあります。
その人物がどんなに実体を隠し名前を変えようと、その人に特殊(特異)な能力が備わっていれば必ずその痕跡は実生活の中、社会の中に残ります。
 
どのような生活(職種/ 特技)でも良い。技術者、保育士、料理人、画家、芸術家、スポーツ選手~その他色々な職業があったり無かったり、何れにせよその人の能力が本物であれば必ず社会生活の中にその痕跡は後を残します。
 
もしもHNを変え姿かたちを偽っただけでその人の生きた痕跡が何一つ社会生活の中に残らないのだとしたら、それはその人物が「生きていない」か、或いは「ただ呼吸をしているだけ」で何の能力も持たない物体にすぎないことを意味します。

 
by ザール

 

ザール氏は創造主「クリエイション」に最も近い、宇宙精霊と言うべき存在です。
私がリラ星に生き、リラ星最期の巫女として尽きた時には既に傍に居ました。勿論物理的な生命を身近に感じたわけではなく、ザール氏は既に宇宙の高次精霊のような存在として常に身近に在りました。
 

高次の存在を感じた時、相手が自分自身に語り掛けて来るのを待っていてはいけないのです。 求めない者には、先方は何も応えてはくれないからです。
真剣に関わりを持ちたければ、自分の方からアクションを起こすことが必須。それがもしも間違った認識であれば、その間違いも含めて必ずそこには答えが導き出されます。
進化はその過程で起こり得ます。
 
その瞬間を繰り返すことが即ち進化であり、何もしない人に話し掛けて来る暇な高次の存在など皆無です。