Yellow Sky – トラウマが癒える日

ある時期まで、空が黄色く視えていた。生まれた時からそうだったかどうかは定かではないが、気付いた時には私の目はオールドレンズのように、色褪せた世界を写し出していた。

マンションの8階の北側の部屋はオアシスでもあり、牢獄でもあった。その部屋の窓から見える空は夏でも冬でも黄色く煙り、少しだけ埃っぽい臭いが混じっていた。
 

私はずっと青空を知らなかった。小学校で空の絵を描いた時も、私の画用紙には他のクラスメイトが描くような澄んだ青空ではなく、砂で汚れたような少し黄色い空が描かれていた。
それが私のリアルであり、私はずっと青空の本当の色を知らなかった。
 

私にとって、夏休みは拷問のシーズンだった。朝から母の怒りをもろに受けて、監視されるようにして日々の練習と虐待に耐えた。その様子を弟は遠巻きに見てはいたけど、知らん顔で無視し続けた。
 
正午を過ぎた頃、決まって光化学スモッグ警報音が町じゅうに鳴り響き、学校のプールも2時間ぐらいは閉鎖された。
澱んだ空気の中でも兎に角家から飛び出したいと私は、どれだけ願っただろう。鉄の蠅叩きみたいな母の手が私の目を殴打し始める前に、水着とタオルとゴーグルを詰め込んだビニールバッグを持っていそいそと家を飛び出すことに成功した日は、いつもよりも長い距離を泳げる気がしてわくわくした。
 
だが現実はそう簡単には行かなかった。
母が目を離した隙に家を出ようと玄関に出ると、靴が定位置から消えている。あの手この手で行く手を塞ぐ母の顔が狂気に満ちて、私は毎日酷く委縮した。
そんな私の目に映り込む空は、古い写真の中の空のように黄色かった。
 


トラウマが癒えるには、多くの時間を要するだろう。
実家の家族の、私以外の全員があの世に逝った今も頻繁に、私はあの頃の夢を見る。

空が黄色かった頃の日々のことを、今も忘れることはない。
昨夜の夢の中では得体の知れない誰かの手が私の首に巻き付いて、じっとりと濡れた感触が首を絞めて来た。実際には喘息気味で咳込んだだけだったが、夢の中では別のストーリーが進んで行って、途中で何とか夢から飛び出した。
 

目が覚めるとそこは、いつも通りの日常。夫が傍で眠っていて、その寝息を数分間聞きながら私はようやく我に返った。
現実はとても穏やかで、カーテンを開けるとセピア色でも黄色でもない、真っ青な空が広がっていた。
 
忌まわしい何かを振り払うように、昨日は少し荒々しさを込めて鍵盤を叩いた。そんな自分が時折嫌いになり、その度にこんなのは本当の私じゃないと自分をちょっとだけ責める‥。
 

今も時々、黄色い空が蓋をするみたいに迫って来る瞬間がある。

 
トラウマが完全に癒えるには、さらに多くの時間を要するだろう。
 

母の才女物語

昨日 2025.05.11は母の日だった。私には該当する人物が居ないので、何もせず家で静かに休んでいた。

遠くに居る息子から短いメールが一通届いていたが、彼が「母の日」を意識して私へのメールをしたためたのかどうかすら分からない程、実に淡白で素っ気ない内容だった。

 

私の母は事あるごとに、「ママは才女だったのよ。」と口癖のように語ったものだった。

1. 某女子大の児童心理学科卒業で、皇室の某女性とはご学友で英語クラブの後輩だった。(嘘)

2. 音大に受験出来る程のピアノの実力はあったが、時代の事情で音大受験を諦めざるを得なかった。(これも嘘)

3. 異性には事欠かないし不自由を感じたこともなくて、当時のフジテレビの専務とは同級生で (彼は奥様よりも) 母を好きだった‥ と言う武勇伝をよく話していた。(実は母は再婚しており、私は母の二度目の結婚で生まれた長女だった)

 

‥ 母の死後、彼女の学歴も何もかも全て嘘だったことが発覚し、むしろ愕然としたのは私の方だった。彼女は自身の才女っぷりを盾にして日夜私を殴ったり刺したりつねったりし続けた。激昂すると母は水風呂の中に、私の顔を沈めたりもした。

まさか弟が先にあの世に旅立つとは母は思ってもみなかっただろうし、彼女が隠していたこと全てが私に明るみにバレて、今頃霊界で歯ぎしりしていることだろう。 

 

母がある時いきなり「ジャズピアノを習いたい」と言って、当時ジャズキーボーディストとして名高いN氏に師事したが、半年も持たなかった。

次に師事したのが某有名ビッグバンドのリーダーの奥様だったが、その頃からジャズの譜面を私に書かせるようになった。勿論譜面に書いたものをジャズとは言わないし、そもそもジャズとは音楽を弄ばなければ成り立たない。

それを私が楽譜に起こし、母はそれを暗譜してクラシックを演奏するみたいな解釈をして毎週のレッスンに通っていたが、肝心の音楽やジャズはそっちのけでクラスの勢力争いに夢中だった。

カルチャースクールと言うのは「素人が専門家に教えを乞う」空間だと思うが、母は教師に「何も言わせない」「ぐうの音も出させない」ことに執着していた。当然誰か他の人が書いた楽譜を暗譜して母が演奏していること等、教師はまるっとお見通しだったことだろう。

そのジャズピアノ教室は最長で2年ほど続いたようだが、弟の東大受験を言い訳に利用し、怒り狂ったようにしてある日突然辞めた。

最後にたどり着いた母の趣味が、写真だった。遺品整理で実家に入った時、母が撮影したと思われる多数の写真を目にしたが、どれも焦点の定まらないぼんやりとフォーカスがかかった写真ばかりで、嗚呼これも下手の横好きで終わったのだなぁ‥ と思った。

 

実際に創作家になったのは私だったが、もともとシャンソン好きな母は、私が訳詞コンサートを開催した直後から「訳詞」にも着手していたようだ。遺品整理の際におびただしい数の彼女の手書きの訳詞のメモを発掘したが、どれも詞として成り立ってはいなかった。

フランス語も挫折したらしい。晩年間近の母がどこかでシャンソンを歌っていたと思われる写真も見つかったが、きっとそれも挫折したのだろう。訳詞と歌手はおそらく、私が自身の訳詞コンサートでその両方を実現したことへの嫉妬、腹いせに始めたことだろう。

母には歌心がないし、きちんとした発声の基礎もなかったと思うし。

 

才女だ才女だと豪語していた母の才女っぷりが一体何を指していたのか遂に分からぬまま、私も24才で家を出た。そこから32年後の冬に、まさか母の才女伝説が全て嘘だったことが私にバレるとは、彼女も想像したくはなかっただろうに‥。

 

母の日にはカーネーションを贈るのが当たり前みたくなっているが、母にとってカーネーションは何の価値もない花だったようだ。

一度だけ私が母に、なけなしのお小遣いで買った真っ赤なカーネーションを贈った時、母は一瞬だけそれを眺めたものの気が付くと茎を真っ二つに折ってゴミ箱に捨てていた。

あれ以来、私の中でカーネーションは「嫌いな花」の一つに加わった。

勿論母も母の日も今も大っ嫌いだから、昨日は死んだように時が過ぎるのを待つしかやりようがなかった。

何度か、母の嘘まみれの才女伝説が脳内を駆け巡ったが、それはただの嵐。じっと過ぎ去るのを待つ年に一度の悪夢に、今年も無事耐え抜いた。

 

(スマホから投稿 📱)

週末の度に私は‥

3月半ばから長期的な風邪に見舞われており、5月に入った現在も未だ微熱が引かない。そんな体調の中でもブログを更新したい日もあるので、最近は時々スマホからSNSサイズの記事を投稿することが増えているが、この記事はPCから書いている。
 

毎週末に音楽の各サブスクリプション上で更新される新曲を欠かさず聴き、チェックし、良曲だけをSpotifyに作成したプレイリストにスクラップしている。
自身が音楽家であり作曲もするのになぜ他の人の音楽にここまで夢中になるのか‥ と時折抗議のDMも頂くが、私にとって今の地上の良曲をコレクションすることは「祈り」の一環である。自分の作品だけを宣伝したり販売している音楽家は大勢居るが、仲間でも同業者でもない第三者とも言うべき他の音楽家の作品をここまで数多く紹介している芸術家は稀だ。

サブブログディディエメラの音楽倉庫にも綴ったように、今週末は良曲が酷く少ない週だった。

今や多くの音楽家が職業として音楽をやっており、食べる目的で新作をリリースしているようにも見える。納期に間に合わせなければならないのに、聞くところによると各々のミュージシャンは手持ちのストックが少ないとの話もちらほら‥。
世の中の流れが速すぎるのだ。あくせくと働いてただ、ひたすら稼ぐ。音楽家になろうと思い立った最初の自分にもはや戻ることすら出来なくなってしまったミュージシャンも、きっと大勢居ることだろう。
 


クラシック音楽は既に、予定されていた音楽の歴史から脱輪した。
ロマン派の時代は戦争によって破滅し、その後に近現代音楽の歴史が始まった。そうなると地上で最も美しかったロマン派の音楽は過去の産物となり、2025年の今でも現代音楽の時代が細々と続いているようだ。
音楽界は現在二分しており、「クラシック音楽現代音楽」と言う構図になっている。それぞれの音楽には欠陥があり、多くのクラシック音楽の中にはその時代の空気が丸ごと封印されている為、クラシック音楽を好きになれないリスナーもまだまだ多い。
一方で現代音楽は理論体系自体が崩壊しており、各作曲家の衝動とその場の思い付きと「奇をてらう」精神で作曲されている為、映画音楽等の特定のシーンに音楽を当てる以外の使い道が存在しない。勿論現代音楽を食事中に聴くことも不可能だから、普及する筈もない。
 

私 (Didier Merah) は上記のどちらでもない音楽を生み出している。
戦争や時代の事情で破滅した、この世で最も美しいロマン派のエレメントを継承しており、私の多くの楽曲は、どの時代にも存在し得ないオーパーツをふんだんに内包している。
 


最近早朝に目が覚めることが増えている。気が向くとSNS (Xのサブアカウント, Threads等) に文字を書き込んで放ったりする、そのついでにここに来て、Threadsから投稿した記事をリライトして短文投稿することもあり、そのちょっとした時間が私にとっては癒しの一つになりつつある。
 
今朝は悪夢で目が覚めた。悪夢が多いのもきっと長引く微熱の影響だと思うけど、この連休中はあの世からの来訪者も多い。
実母は現自宅からそう遠くない合祀墓に眠っているが、母は私を酷く嫌い、殺意さえ持っていただろうと見られる多くのメモが母の死後、遺品整理の際実家から見つかっている。
 
今日は起き抜けに頭痛もあった。だがいつもの頭痛とは質が違っていて、今朝の頭痛は頭部の右側と右目の上辺りに痛みが集中していた。丁度母が、私の幼少期から大人になるまで日夜殴っていた箇所と重なっており、母の念が近くを徘徊しているのを感じた。
私は日々当たり前のように母の暴力を受け入れて、思春期を生き延びて来た。彼女は毎日何かと理由をつけては私の右側から彼女自身の利き手を使って殴りかかり、私の顔や体は常に痣だらけだったが誰も助けてはくれなかった。
 

30代で渡米した後に脳に詳しい医者に出会い、医師の診断を仰いだことがあった。それによると現在私を悩ませている乱視の要因の一つが、母の暴力だった可能性が浮上した。
悪いのは目ではなく、脳に障害があるのでは‥ と言うのが彼の見立てだった。それは年々後遺症として体に現れる可能性はあるが、改善する見込みはないとの話。
還暦になった私は、マンションや駅の階段さえも手すりにつかまらなければ歩くことが出来ない。遠近感がおかしい。既に30年も前にそのことは医者に忠告されていたので、今はそんな体調とも向き合いながら何とか生活をやり繰りしているが‥。
 


現在私たち夫婦は富士山の見える場所への移住 (正確には東京と別宅の二拠点生活になるが‥) を予定しており、その為の人脈作りと住宅探しを開始した。‥その途端に微熱の引かない風邪に見舞われたわけだが、それもこれも「圧」だと認識し、体に過剰な負担を掛けないような生活サイクルの中で出来ることを出来るだけ消化するよう努めている。
 

何度も書いているが、私はリラ星最後の巫女だった。リラ星が自爆したことを知る人は、多分私以外には存在しない。これは記憶を持っている人でもその記憶に触れることが難しく、私もその記憶を10年前頃に復活させたばかりだ。
その後色んな「人」として私は地上に転生を繰り返し、現在に至る。
 

数時間かなりの分量の音楽を聴いたり整理したり‥ 色々やっていたので、もっと文字を書きたい気持ちは山々だが体力的には限界だ。
更新したプレイリストは冒頭のサブブログのリンクからも辿れるので、この記事の最後は自分の音楽で締めくくる。活動初期に古い楽器で演奏しているので音質には若干問題はあるが、この作品は私自身の葬儀を棺の中から見上げている時の風景を音楽にした一曲だ。
 

大好きだった神父様との再会

昨日の遺品整理の過程でようやく、会いたかった人との再会を果たしました(勿論先方の人は既に他界していますが)。
記憶では、私が18才の誕生日がサビノ神父と最後に会った日でした。私にとても優しく接して下さる、彼は唯一の人でした。
 
あの日私は朝からお腹を壊し、本当ならば午前中早い時間に出かける筈が出かけられなくなったのです。そのまま約束をキャンセルする筈でしたがふと思い立って、急いで支度をして正午には家を出ました。
約束は箱根だったと思います。約2時間の道のりを経て約束のホテルに到着すると、そこにサビノ神父が微笑んでおられました。

 

 
うっすらとした記憶を引っ張り出すと、私の腹痛をいいことに母は一人で箱根に出かけようとしていました。ですがそれを、サビノ神父が阻止したのです。
「美樹ちゃんと一緒じゃなければ、今日会う意味がない。」と、頑なに。
 
勿論私が電話の向こうの神父の声が聴こえていたとは母は知らず、「どうする?行くのはやめましょうね。」と言う強引なダメ押しが段々と嫌味を増して来た辺りから、私の中にリベンジ精神が芽生え遂に私は「行く!」と言って立ち上がり、10分で支度を済ませました。
 
神父は大のコーヒー好きで、ヘビースモーカーだったように記憶しています。何杯も何杯も濃いコーヒーをお代わりして、私はジュースとケーキとサンドイッチなんかを食べたように記憶しています。
優しい日差しが射す、本当に穏やかな一日でした。その日が、神父との最後の日になりました。

 
翌年の同じ日、それまで毎年届いていた私へのバースデーメッセージとクリスマスカードが届かず、そこからさらに一年後の同じ日に、サビノ神父が(私と最後に会ってから間もなく)飛行機の中で亡くなられたことを知りました。
 
母の遺品の中からは大量にサビノ神父との書簡や神父が写った写真が見つかり、きっと母はサビノ神父を神父以上に好きだったのでしょう。
 
私はずっとこの写真を探していました。
ですが結局母は、遺品回収業者が遺品の仕分け整理をしなければ見つからない場所に神父との思い出の品々を隠し通し、絶対に私の手には色々な写真や思い出の品々が渡らないような状態にして全てを隠し通したかったと言う母の遺志が、今になってもひしひしと伝わって来ます。
 
一昨日のブログ記事『悪意の記録 2. – 遺言書作成過程の書類』に、実家全体が私を絶対に実家に寄せ付けたくなかったと言う決定的な証拠写真を掲載していますが言われるまでもなく私はずっとそのことを知っており、勿論感じており、それを近しい親族に訴えたこともありました。ですが今思えば皆、母とグルだったのでしょう。
それなら幾ら私が助けを求めても、誰一人反応等しなかった筈です‥。
 

 
私の家庭内排除がどのような名目で今日まで為され続けて来たのか、その理由や動機は結局今でも分かりません。
ひとつだけはっきりしていることは、「山田家」と言う集合体の中で私だけが人権を一切与えられていなかったと言う事実と、私の排除・迫害の発端が父だったと言う事実です。
父は根っからの差別主義者であり、容姿の良くない女性のみならず韓〇の人々やイン〇の文化等を取り上げ、日夜侮蔑な発言を繰り返すような人でした。
(特に足の太い女性を町で見かけるや否や、相手に聞こえるような大声で差別発言をすることも、度々ありました。)
 
(そんな父を含む山田家と親戚全員が私にしたような)最初から存在しない人のように扱われて来た者の気持ちは、近い状況に置かれた経験のある人にしか理解出来ないのでしょう。
 
私がそうされて来たように、次は私が亡くなった家族三人と彼等の歪んだ意思に便乗して私を排除し続けて来た(弟の関係者を含む)すべての人たちに対し、私も彼等を「最初から存在していない人」であるように接し続けることを今後のミッションに加えます。
 
 
昨日は他に、亡くなった弟と妻「山田りえ(仮名)さん」の結婚式の写真も、大量に見つかっています。その中には「山田りえ(仮名)さん」のご両親のお姿も記録されていました。
 
絶対に私は許しません。
私の存在を知りながら私を「最初からこの世に存在しない人」のように扱い続けて来た、全ての人たちを。
報いは必ず受けてもらいます。

 
ですがせめて今日と明日だけは、大好きだった神父様との思い出で心を温めていたいと思います。
 

悪意の記録 1.

 

 

 

 
今日は疲労困憊なので追って後日、今日の遺品整理中に見つけた、家族が長年私を「仮想敵」にし続け私を徹底的に排除し続けて来たことに於ける、書面の証拠をこのブログに掲載しようと思う。
 

どんな言い逃れも出来ない、それは確たる証拠と言えるだろう。
勿論「家族」の中に、弟(故)の嫁: 「山田りえ(仮名)」も加わっていたと思われる。
 

遺品は全てを物語る、その人その人々の心情と人生の集大成だ。
特に私はその物に触れただけで、物に触れた「念」をつぶさに感じ取ることが出来る体質を備え持っている。私を仮想敵にし続けて来た家族・親族等は私の、その体質に最も怯えたのかもしれない。
 
言葉にしてはいないこと、絶対に知られたくないこと、人々が心に隠し持つ思いや記憶が私にはまるでネガのようにくっきりと浮き上がって見える。
 
父の手書きの遺言書も見つかった。その紙っぺらからは、私に対する並々ならぬ悪意が立ち上って来る。

美樹は傷ものだ。顔に傷のある者は人間に値しない。

私は失敗作として家庭内で廃棄寸前の扱いを受け、近い親戚や親族等がそれに賛同し、談合していたのだろう。
証拠の写真はこれでもかと言う程沢山出て来たが、私はその中から私への強い敵意を感じ取れるものだけを手元に置き、母や弟のアルバムその他の全ての「美しい記録」を全て廃棄するつもりだ。

最初からこの世に存在しなかったように私が彼等を整理し、せめて私は彼等の悪意とこれまでの悪の連鎖を全て断ち切る為の儀式を務め上げたいと願っている。

 

この写真は私が小学校3年生頃の写真。私の目が死んでいる。この頃私は母に右目を連日激しく殴打され、そのことで心身に大きなダメージを負っていた。空が黄色く見え、現実からの逃げ場所を必死に探して生きていた。

 
遺品整理中、弟(故)の嫁: 山田りえ(仮名)の父親が弟に宛てた手紙も見つかっている。

山田りえ(仮名)の父親も、私を排除した人々の中に括られる。
双方家族の身上書の交換により私と言う存在を知りながら、今日に至るまで何の言及もせず私を最初から存在しない人間のように扱い続け、しかも私が送付した手紙も無視し、現在も堂々とクリニック(内科)を経営している。

私から見れば山田りえ(仮名)の家族等も全員「敵」に等しい。
 

続く‥。

謝罪と礼節

思えば昨年の12月26日から(負の意味で)驚きの連続でした。

私以外の家族全員の死を結果的に見届けることが出来なかったものの、正直彼らの居ない今の世界は私にとって澄んだ秋の空よりも美しく、晴れやかです。

家庭内暴力や両親からの身体的な虐待のことは、私の口から誰かに打ち明けたのはほんの数人でした。ですが当時私の実家のマンションの中で知らない人は居なかったでしょうし、小学校の担任の教師やクラスメイトの全員が知っていました。

時代柄ゆえ、結局のところ誰も私をそこ(負の境遇)から助け出すことは出来ませんでした。
 

最近になって私のブログを目にしたかつての知人(級友と書く方が正しいのでしょう‥)等数人から、FacebookやTwitterのDMを介してメッセージを受け取っていますが、皆さん、私が当時置かれていた状況を「知らなかった」と仰います。

でも「知らなかった」から昔のように接してよ‥ と言う彼らの横暴な要求は、私には飲めません。

私ならば、こう言うでしょう。
「仮に真相を知らなかったとは言え、当時の貴女の苦境をみすみす無視したことを心からお詫びします。」‥と。

 
体に残された痣の痕や傷痕よりも、心の傷痕の方が永く永く残り続けます。でもその傷跡は、ふとした方法で薄めて、そして温めて行く方法もある筈です。

それは「謝罪」と言う方法に尽きます。
謝罪から始まる人間関係が嫌だと言う当時の知人を又、私は受け入れることは出来ないでしょう。
 

サツマイモのポタージュ

 
私の母がそうでした。
「何があっても、仮に此方に非があったとしても、先に謝ったら負けよ!」が口癖の、大いなる偽善者とはまさに私の母のような人を指します。
同じような偽善者とはもうこれ以上、私は関わりたくはありません。
許す・許さないの問題ではなく、彼らが私に首を垂れるところにしか始まりが無いからです。それほどまでに、私が受けた心の幾千もの傷はとても深いところに刻まれているのです。

その事実を消し去ることは、もう二度と出来ません。それでも、その先の可能性を模索する為の、「謝罪」は唯一の方法なのです。
 
・知らなかったと言う罪。
・知ろうとしなかったと言う罪。
・知っていたのに見て見ぬふりをしたと言う罪。
・そして何よりご自身の潔白性だけを、私に押し付けて平然として居られる図々しさと言う罪‥。

どれ一つを取っても、私には到底受け入れることが出来ません。なのでここはすっきりと、彼らの全ての偽善を一切受け入れないことに決めました。
その上で私と言う人間と関わりたいと言うのであれば、それなりの礼節は守って頂きたいです。そこが再スタートの最後の鍵なのですから。

 

 
今日は少し体を休めた後に愛する夫と二人で、いつものホテル内のレストランでカレーセットを頂いて来ました。