「マツケンサンバⅡ」はサンバか否か‥

「マツケンサンバⅡ」が厳密には「サンバ」ではなくマンボかルンバ‥ と言う音楽評論を目にしました。⇩
(残念ながら該当記事は2025年6月11日現在、別記事として再アップされていました。🔗画像をタップして下さい。)
 

 
音楽には色々な解釈がありますが、上記の説に於いては半分が正解であり、半分は不正解と言えます。

サンバ論或いはサンバの解釈をする際に、度々持ち出されるのが「リオのカーニバル」です。リオのカーニバルが「サンバ論」のベースとなるサンバ解釈は方々で展開されていますが、「リオのカーニバルこそがサンバである」‥ と言う視点も、あくまで規模の問題です。

基本的にリオのカーニバルの音楽(主にリズム体)の特徴として、大所帯の打楽器「バトゥカーダ」が主として16ビートの3、7、11、そして15の箇所にアクセントを感じるリズム体をキープしながら演奏されるのが特徴です。
バトゥカーダ」は本来ヴォーカルのない音楽演奏形態を指し、主にスルド、アゴゴ、カウベル、カイシャ、アビート(ホイッスル)等と言った多くの楽器で編成が組まれ、リオのカーニバルではダンサーの後ろに大きな台車が組まれチームを鼓舞しながら会場を練り歩きます。
 


確かに「マツケンサンバⅡ」の原曲にはバトゥカーダ が入っていません。
 


元記事【マツケンサンバⅡ、正確には「マツケンマンボ」か「マツケンルンバ」?音楽学者が解説】⇦ では《マツケンサンバⅡはマンボかルンバ、ないしはキューバの音楽「モントゥーノ」かもしれない》‥ と書かれていますが、どれも正解ではありません。

ざっくりとこの音楽はシンプルに、「ラテン音楽」である‥ と言う認識の方が正しいと言えます。

少し視点を変えて、さらに説明を加えましょう。
「マツケンサンバⅡ」には複数のトラックが存在し、それぞれ個性的なアレンジが施されています。
その中で同曲が見事にサンバ・チルアウトに編曲されているのが、以下のトラックです。⇩
 


上記のトラックでは若干ですがリズムセクションが増幅されており、リオのカーニバルのバトゥカーダ 程ではないですが、ブラジルのサンバにかなり近づいている箇所が数カ所あります。
リズムの刻みが16ビートから、さらにかなり細かく刻む別の打楽器が背後にミックスされていて、若干付点がかった「Swing(オンダ)」を入れて打楽器がミックスされている為、リズムに空気感と躍動感が感じられます。

time 2:36 辺りから段々とSwing(オンダ)がきつくなっており、そこに「オーレ!」がリピートされている為、かなり強いサンバ感を感じることが出来ます。
よ~く聴くと、バスドラが増幅されてミックスされているので、低音部に重厚感も感じられますね。

これは「マツケンサンバⅡ」のシングルバージョンには無いアレンジになっているので、エレクトリック・サンバとして聴いたり踊ったりすることが可能です。
まぁどんなに背後に強力なリズムが来ても、上様にとっては最早どうでもいいことのようにも見えます。楽しけりゃーいいんですから、上様は!(笑)
 


音楽、特に『舞曲』やダンス・ミュージック、リズム・ミュージックを解釈する時に必要なことは、知識よりも感性です。
ドラムの何々が何ビートを刻んでいるから「これはサンバである」と言う数学のドリルの回答を導き出すような杓子定規な解釈は、私から見ればとても短絡的に見えます。

特に民族音楽はリズムだけではなく、そこに発祥地の「モード」や言語の特徴等が折り重なって一個の世界観を形成して行きます。なので、正しいか否か‥ を超えた音楽分析力が求められます。

元記事マツケンサンバⅡ、正確には「マツケンマンボ」か「マツケンルンバ」?音楽学者が解説⇦ ではどこか、マツケンブームに乗って何かしらアンチテーゼのような一家言を叩き出すことで筆者が音楽評論界に二次的な旋風を巻き起こそうとしているようにも見えます。
ですがどこか筆者の音楽解釈のツメの甘さが目立ち、多くの音楽を複合的に解釈しようとすることを拒絶しているような意図が見え隠れしている点に、個人的には問題を感じてなりません。

音楽解釈の自由性を許さない、或いは音楽を感じるマインドに余計なバイアスを掛けて行くような音楽評論は、リスナーの自由性を大きく阻害することになりますので、そのような文献にうっかり遭遇した時は出来れば余り真剣に読まずに通過することをオススメします(笑)。


さて、この記事で折角「バトゥカーダ」に触れたので、今私が個人的にイチオシのAAINJAAのバトゥカーダの動画を最後に置いて、記事を終わりにします。
 

 

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本記事は『note』より移動しました。

作業と音楽と、グレイ星人と – “Ryuichi Sakamoto + Alva Noto — The Glass House”

こんなにも心を落ち着かせてくれる音楽を夢中で求めるのは、今、私が人生57年の中で最も大きな転機を迎えているからだと思う。
 
私を除く実家の最後の家族が2021年12月初旬に突然この世を去り、彼等の歴史の最後を私が見取ることになった。特に母の壮絶な最期を目の当たりにし、この家の一員として私が生まれた理由や家族や親戚が徹底的に私一人を家族・親戚の輪から排除しに掛かった本当の理由は何なのか‥ 等、これからの第三の人生をリスタートする上で私は、今起きていることの全てを一度まとめたいと思っている。
 
‥こんな時に聞きたくなるもの、そして私の音楽評論家一年目、2021年の音楽評論記事の最後を飾るに相応しい人、相応しい音楽はやはりこの作品だと感じた。
 

 

過去の私を知る人はなぜ、私が彼・坂本龍一氏の作品を私自身の人生の節目の音楽評論の素材としてセレクトしたのか、それをきっと薄々感じ取ってくれるだろう。
 

ここのところアンビエント・ミュージックの大半が模造品の様相を呈しており、これと言って目立つ作品に出会えてはいなかった。
だからこの作品 “Ryuichi Sakamoto + Alva Noto — The Glass House” が唯一無二の作品かと問われると、即座に「Yes!」とは言い難い側面もあるが、2020年から2021年の、この混沌とした時代に静かに、そして不穏なまでに冷静に寄り添ってくれる不思議なアンビエント・ミュージックだ。
 

 

冒頭近くの「A」の音から物語は始まり、途中から “Glass House” に静かな雨が降り始める。これが必然なのか偶然なのかは最早神のみぞ知る事実だが、兎に角全てが厳かに美しく、尚且つ無機的な一面を孕んで進んで行く。
 

冒頭の「A」を起点とした各々の音の断片は次第にコード「Dm」として形になり、それが楽曲全体をワンコードとして包囲し始める。
坂本、Alva Noto等の音の断片に雨音が混ざり合い、やがて坂本が “Glass House” 自体をマレットで鳴らし始める頃には時間の感覚が麻痺して来る。
 

 

地上で奏でられている音楽にも関わらず、空間自体は既に「酸素を持つ宇宙空間」と化している。極力露骨な電子音を叩き出さないよう用心に用心を重ねながら、坂本が “Glass House” にマレットを当てて行くと画面上ではそれが若干「作業」に見えて来る点が、少々残念ではあるが‥。
やはり音楽は純粋に、「音楽」として感じ取りたい。
 

 

たとえ瞬時的にでもそこにパソコン画面やApple(🍎)のマークが視えてしまうと若干集中力が疎外され、我に返った瞬間に彼等の「作業」を感じ取ることになり、正直しらけてしまうのだ(笑)。
 

だがそれはそれとして、この作品 “Ryuichi Sakamoto + Alva Noto — The Glass House” がアンビエント界の中でも秀逸な音楽であることには変わらない。
勿論とても不定形であり機材や環境の偶発性に依存しなければならない点は、音楽として見ればとても不安定であり普遍性の域には到達していないだろう。だが、アンビエント・ミュージックのそれが良さであり欠点でもあると言う点を踏まえながら、この作品に関してはその不安定要素を私はポジティブに解釈し、受け止めたいと思った。
 

心が不安定な時には、むしろ不安定要素(不確定要素)の高い音楽の方が精神を気持ち好く揺さぶってくれるし、不安定な精神状態にむしろ安心材料を与えてくれるから不思議だ。
 

 
ところで‥。
 
坂本が何度か Glass House の窓を連打した後に一瞬写り込んだこの「グレイ星人」と思われる映像は、意図的なものだろうか。
芸術家でありながらもコンタクティーでもある私としては、この画像がとても気になって仕方がないのだが‥。⇩
 

グレイ星人らしきもの‥

 
特にYouTubeの記録を観ていると、坂本が “Glass House” 自体を連打する音声が「異星から忍び寄る足音」のようにも聴こえて来る。
もしもそれを意図したものだとすれば、この作品自体が別の意味を持つ。

文字に書けば「陰謀論」として片付けられ、良くない意味で差別されるであろう何かしらのメッセージ性をこの音楽が存分に含んでいるとしたら、これはまさに「未知との遭遇」の音楽版と言えるだろう。
坂本龍一Alva Noto がタッグを組んで繰り広げられる音楽だ。そのぐらいのことは簡単にやってのけるだろう。
 

 

アンビエント・ミュージックの制作現場を視える化することが、必ずしも良いことばかりとは言い切れない。機材や多くのコンセントやコード、場合によっては波形や楽譜、手元の様子等が視えてしまうことで夢が失われる。
それを「クールでカッコいい」と思う人も多々居るのは知っているが、私はこういう「作業現場」をあまり見たいとは思わない。
出来れば音楽は作業現場を可視化せずに、聴力や聴覚だけで感じ取りたい派である。
 

さて、この記事の最後に一応Spotify版の Ryuichi Sakamoto + Alva Noto — [Glass] を貼っておく。
視ないで聴くか、視て聴くか‥、その両方から視えて来る各々のアンビエント・ミュージックがきっとあるだろう。
 

情熱のソングライター “Alejandro Sanz”

日本ではおそらく余り馴染がないだろう。だが、私はアジアの片隅からずっと注目し続けているのがこの人、スペインのシンガー・ソングライターのAlejandro Sanz(アレハンドロ・サンス)だ。
 

先ずスペインのポップスを語る時に必要になるのが、フラメンコと言うジャンルだ。
日本人にとってフラメンコと言うと「オレーイっ」等と掛け声を掛けながら歌ったり踊ったりする、むしろ商業フラメンコの方だ。だがフラメンコと言っても奥が深い。
近年では音楽のジャンルとしては珍しいケースで、2010年にはユネスコによってスペインの無形文化遺産に登録されている。
 

『フラメンコの歴史と発展にはヒターノ(スペインにおけるロマ、いわゆるジプシー)が重要な役割を果たしている。』とWikipediaにも記載されているように、主にこのジャンルはロマによって演奏されたり歌唱されることが多く、そのロードムーヴィーとして有名な作品をあえて挙げるとすれば、映画監督 トニー・ガトリフ が監督を務めたラッチョ・ドロームを私はここに挙げたい。
 

 
さて本当ならばここでフラメンコについての記述をもっと突き進めるよう、我が社「Didier Merah Japan」の社長から通達があったのだが、フラメンコのうんちくを書き始めるとフラメンコの紹介なのかそれともこの記事の主役である Alejandro Sanz(アレハンドロ・サンス)の紹介なのかが本当に分からなくなるので、やはり悩んだ末ここは主役を Alejandro Sanz(アレハンドロ・サンス)に譲り渡し、内容をシンプル化したいと思う。
 

一つだけ書き添えるとしたら、民族音楽的なフラメンコの源流は楽器「ギター」に始まる。大元はクラシックギターに民族的なモードが合わさったもの、それがいわゆる「フラメンコ」の原点であり、今多くの人たちがそのジャンルの名前を聴いて連想する「ダンス主体」「リズム主体」のフラメンコは観光産業を発展させる過程で商業的に発展を遂げた形の、一種の商業フラメンコであり、そもそものこのジャンルの源流に在ったテイストとは異なるジャンルと言っても良いだろう。
 

さらに元を辿れば、フラメンコの発祥は「アラブ地域」とする説がある。


『複数の移民同士が旅の途中で出会い触れ合い‥寝食を共にし、モード色の強いアラビック音楽とクラシックギターの奏でる和声(コード進行)が見事なまでに合体した音楽がフラメンコの発祥である‥』、とは誰も言っていない(笑)。
だがなぜか私はその源流発祥の光景をまるで昨日見て来たことのように知っている。

まぁ余りシュールなことを書き過ぎると古いタイプの音楽学者に呪われそうなので、この話しの文字起こしはここで一旦止めておく。
 

 
さて、肝心要のこの記事の主役 Alejandro Sanz(アレハンドロ・サンス)が2021年冬に、アルバムSanzを世に放った。
彼の場合はもともとスペインの民族的なモードを起点としたメロディーメーカなので、正確には彼の音楽を王道「フラメンコ」と呼ぶことは出来ない。だがしいて言うならば「ネオ・フラメンコ」と言った方がそれに近いだろう。

1968年12月18日生まれの Alejandro Sanz(アレハンドロ・サンス)は、今年で52歳になる。まさに油の乗り切った世代の、王道の音楽を生み出す音楽家である。

 

 
アルバムSanzでは「ネオ・フラメンコ」的なテイストを持つ作品の他に、やはりここは営業を兼ねた意味合いなのか、M-2 “Iba のようなアメリカンテイストを持つ楽曲等も登場する。
正直アメリカに迎合するタイプの音楽をこのようなアルバムの中に見る度に、私は少しだけモチベーションが落ちてしまうのだ(笑)。

そもそもその民族にしか持ち得ないものを何故手放してまで、アメリカ万歳型の「売れ線」を狙わなければならないのかと、情けなくなるからね‥。
  

だがその次 M-3 “Yo No Quiero Suerte で、まるでいきなり目が覚めたみたいに Alejandro が拳を振り上げて立ち上がる。
王道のフラメンコのテイストの楽曲と歌唱表現の奥に、これまた王道クラシックの失われた歴史の中の「ロマン派」のコード進行の断片が浮かび上がると、多くのリスナーの中にその当時の微かな記憶が呼び覚まされ、胸をかきむしられるようなノスタルジーに身も心も包囲されて、きっと誰もがそこから一歩も動けなくなるに違いない。
 
M-4 “Rosa ではアフリカ音楽にも通ずるリズムを刻んだ打楽器とコーラスに始まり、それはまるで人々が互いに行き交う旅の途中の光景のように次第にスペインのコードやモードと折り重なりながら、そこにしか生まれ得ない一個の音楽を形成し、成長して行く。
そして歌手 Alejandro はけっして、他の経験値の浅い歌手たちのようにヒステリックに絶叫するような愚かな歌唱表現には及ばず、朝起きてシャツを着てズボンのベルトをしめて歯を磨く為に洗面台に立つかのように、きわめて普通に生活するように楽曲を最後まで歌い切って行く。
 
そして M-6 でようやく、アルバムリードのMares De Miel がお目見えする。まるでアルバム全体が舞台を見ているような鮮やかな構成になっており、この曲がアルバムの中心をしっかりと支えているのがよく分かる。
 

 

上手く日本語翻訳に至ることは難しいが、歌詞も印象的だ。
 
人は何度も行き来し、生まれ変わり再びここに戻って来る。
私はあなたに戻り、あなたになった私は再び出会う。
それは輝きの瞬間。
僕は毎日美しい女性と出会い、その中に魂の友を見つけて歓喜するだろう。
あなたが私を導き、昨日までの私を変えて行くに違いない‥。

 

ま、ざっと言えばこんなことが綴られている。それが上のPVを見てもよく分かる。

このアルバムSanzの中で最もフラメンコらしい一曲は、おそらく M-10 に収録されいるGeometríaだろう。
勿論冒頭に書いたような「オレ~イっ」等と掛け声を掛けるようなリズム体ではなく、いわゆる「バラード・フラメンコ」と言ってもよい素晴らしい一曲だ。

そしてこのアルバムのオオトリは、フルオーケストラが楽曲全編を包み込んで抱きしめて行くY Ya Te Quería。この曲で、アルバムSanzが静かに幕を下ろす。
 

M-10Y Ya Te Queríaを翻訳にかけてみると、まるで神々の人類への愛を感じさせる内容であることに気付く。
タイトルは「そして、私はすでにあなたを愛していた」と言う意味。
「わたしたちの中に、既に神々は種として宿っている、私は既に愛されていたのだ‥」と言う意味のセンテンスがリフレインで繰り返され、これは人類への新たな目覚めを呼び掛ける内容のバラードの大作だと言わざるを得ない。

 

 

既に目覚めた人たち、既に覚醒を始めた人たちが音楽家の中にこうして存在することに、私は歓びの涙を流さずにはいられない。
日々の小さなことに腹を立てている暇はないのだ。地球を想い、自然神を想い、地球の外の生命体に思いを馳せ、彼等と心から繋がる為の方法を模索し、その傍らで私も私自身の音楽を完成させて行く為の旅を止めてはならないと、今あらためて神に誓いを立てた。

 

アルバムSanzを聴き終えた時、思わず感謝の念があふれ出る‥。それは深いため息とともに全身を下から上に駆け上がり、太陽を目指して放たれて行った。
 
私の心の深い場所と幾つもの惑星や、星々の自然神等との繋がりを得る度に、私は自身が音楽家であることを心から祝福する。そして小さな自分の存在の全てを、いつまでも愛し続けたいと願って止まない。
 

🎀 🎀 🎀

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今週のSpotifyの新譜を聴きながら

毎週末の金曜日、Spotifyからは世界各国の新譜が一斉に更新される。勿論私はSpotifyやインターネットを知る以前から日々世界中の新譜や旧譜等を聴き漁ること、かれこれそんな作業を数十年間続けている。
学生時代からTSUTAYAや新星堂等を巡り、気付いたら今年で57歳になっていた。16歳でいわゆる芸能界と言う世界に飛び込んだから、芸歴自体が40年をとうに超えた。

音楽を聴く人たちの大半が、「音楽とは音を楽しむことだ」と思っている。だが私は、それは違う思っている。

音楽を娯楽の玩具として使っている人たちを目の当たりにすると、どうにもこうにも虫唾が走る。身を削るようにして音楽を生み出している人たちは少なからずいる、それを使い捨ての玩具のように乱暴に扱っても平気で居る人たちの息を感じる度に、胸が痛む。


思うに音楽とは祭祀であり、祈りであり、そして救いであるべきだ。
勿論何によって救われるかについては人それぞれであるが、一度目標を下げてしまえば後はズルズルとその敷居が崩れ落ちるところまで下落するだけだ。
だから自身の敷居、ボーダーは絶対に低下させるべきではない。
 


この2年間、特にコロナ禍のロックダウンが世界各地で実施されるタイミングになると、世界中の音楽が泣き始めるか或いは凍り付いて行く。
まさに今週がその状態だったように感じてならない。

生きる為の音楽もあれば、祈る為の音楽もあるだろう。だが全体的に無表情の音楽が一斉に増えて、どこか廃屋で雑音だらけの機材を叩きながら音楽を聴いているような、言葉にならない虚しさが上空から私を羽交い絞めにして行く。

 

 

生まれて一度も泣いたことのない人に、「泣く」感触を伝えることはとても難しい。逆に生まれて一度も笑ったことのない人に、「笑う」感覚を伝えることも難しいだろう。

今週のSpotifyの新譜を聴いていて感じたことを一言で表すとしたら、「音楽家或いは音楽全体がAI化したような感じ」とでも言えば良いだろうか。
コミュニケーションに支障をきたした人類全体が感情面に不具合を起こし、その状態が未修正のまま数年が経過した後のような、エモーションの大きな欠落を感じるのだ。

だがそれは、商業娯楽としての音楽に人類が飼い慣らされた結果の顛末と言うことも出来るだろう。
「音楽とは音を楽しむことだ」と教えられ、その風潮を信じ込み、数十年もの歳月をかけながら洗脳され尽くした我々人類はもはや、自然の声や山々の思うことやそれらを司る神々の心の声すら聞くことが出来なくなっている。だからこれだけの長い分断を経ても尚平然と飛行機での移動を止めないし、遊ぶ為ならどんな苦痛をも受け容れようとするし、現実を全く見ようとしない。

生命と魂の輪廻を軽視し、瞬時瞬時の現世の中で味わい尽くせるだけの快楽を貪ろうとし、その為ならば危機的な環境破壊すら無視し続ける。それが2021年現在の人間と言う生き物だ。

 

 

良質な音楽とは何ですか?

この命題に対する答えを、おそらく誰も持てていないのだろう。
そこそこのルックスと運を手中に偶発的にメディアと言う檜舞台に駆け上がって行けた人が生み出すものが、それ(良質な音楽)だと思っている人たちも多いだろう。
上に書いた条件に当てはまる人たちはおそらく、「音楽を探す」と言う行動を取らないものである。近隣、隣近所の人たちやSNSやメディアや雑誌に取り上げられない音楽は二流・三流だ‥ と言って、実際に私に牙を剝いて来る人たちも大勢居る。
 

だが彼等のような人たちに限って、風向きにはひじょうに敏感である。
彼等の判断基準は常に自分以外の誰かが発信するレビューであり、自己判断の能力に著しく欠けているにも関わらず、命を削って音楽創作に挑んでいる本物を目の前にしても、その人を誰かが噂でもしない限りは「本物」とは見なさない。
勝ち馬を探すことに躍起になり、一度勝ち馬に乗ったが最後その馬を疑うことはなく、尚且つ頑なに馬から降りようともしない。

 

 

今週のSpotifyの新譜を私は、未だ全曲聴けていない。だが大方の流れは把握出来る。
虚無無気力絶望コミュニケーションの分断将来への不安、しいては自身の命の不安等を抱え込みながら、それでも何かしら音楽家たちは音楽を生み出すことで地球に己の生存を訴えかけて行く。

それでも彼等の作業に祈りの念は薄く乏しく、人類にとってこれだけ考える時間を膨大に与えられながらも、何かを深く考えて音楽を生み出しているようには視えない。

 
昨日外出先から帰宅してから、私も体調が良くない。体温が上下しているような感覚があり何度か体温を計ってみたが、高熱ではない。むしろ低体温による火照りが抜けて行かない。
こういう日は静かにしている他になさそうだ。それでも私は音楽を探し、音楽を聴き、音楽家たちの祈りに触れていたいと願うのだ。
それは一種の病気のようでもあるが、私にとってはこれが正常値。

 

 

当記事の間に挟んだのは、今日Spotifyの新譜情報に現れたものから楽曲だけをピックアップしたものである。
以下に今日更新した2種類のプレイリストを表示しておきたい。

上は「Lo―Fi」系のプレイリスト、下がオールジャンルの音楽をまとめたものになる。

 

  

⇩ 此方のプレイリストのトラック 55曲目からが、今週の更新分になる。
 

 

note記事よりサポート(投げ銭)等で応援頂ければ幸いです。
https://note.com/didiermerah/n/n219a5e5cda99

7. 表現とインテリジェンスについての考察

【前書き】
前記事6. ポーランドのショパニストたちでは、本国ポーランドのショパニストたちの比較検証について筆を走らせた。

本記事では「第18回ショパン国際ピアノコンクール」を観戦しながら思った表現とインテリジェンスについての私ならではの考察に的を絞って、表現分析を行って行こうと思う。

(以上 前書きにて。)

 


私自身、若い頃には多くのピアノ・コンクールに嫌々エントリーして来た人である。戦う側と観戦する側の両方を多く経験して来たが、先ず今でもくっきりと記憶していることは多くの若いコンテスタント等が日頃歪んだスパルタ教育に飼い慣らされている影響なのか、ただ「動く」「動かす」「ミスなく演奏する」ことだけを目標とし、肝心の作曲家への啓蒙や楽曲の知的解釈、形而上学的な考察に全く手の届かない思考で演奏している光景だ。
 
学生コンクール等ではJ.S.Bachをはじめとする色々な作曲家の作品が課題曲として定められているが、何を聴いても皆同じ音色、そしてクラシック・ピアノを習う上でどうしても叩き込まれてしまう「肩をくねくねさせて演奏する」嫌な癖や、「口を大きく開けてパッパッパ‥ 等と言いながらあたかもメロディーを歌い込んで演奏している」ような変顔の癖等までしっかりと教え込まれ、そうすることで自身が各楽曲の解釈の深みに到達しているかのような演出に余念がない。
会場の客席で見ている此方が赤面し、逃げ出したくなるくらい彼等の演奏も表現も滑稽で腹が立って来る(笑)。
 
それも致し方ないわけで、殆どの演奏者やコンテスタント等はコンクールにエントリーする上で有利な教授に師事しており、作曲家が何を思い、表現とはどのようなものであり、また感情や衝動及び戦意ではないもっと知的でインテリジェンス豊かな解釈をしよう‥ 等とは誰も考えていない。
隣近所の若い同業コンテスタントよりも優位にウケて、強いインプレッションを与えるにはどうすべきかと日夜考え、その結果「速度」「あえて解釈に突飛なクセを付けた圧倒的なインパクト」を持つ演奏解釈に辿り着くことになる。
確かにそういう表現をしておく方が簡単と言えば簡単で、審査員も深い考察をすることなく「印象」の強さだけで点数を上げて行くことが出来て一石二鳥だ。

 

ところで私がここの取り上げる「インテリジェンス」とは可能な限りの感情表現を抑え込み、感情よりも知性を、その知性を駆使した表現分析を優位に思考した音楽表現を指す。

この、重要なポイントだけで見た場合、「第18回ショパン国際ピアノコンクール」にエントリーした殆どのコンテスタントがそれ(インテリジェンス)に欠けていたと言っても過言ではないだろう。
そもそもインテリジェンスとは後から鍛えて身に付くものではない。これはもうどうにもならない。
 
若干スピリチュアルに寄った表現になるが、表現者は生まれ付いての表現者でありそれなりの蓄積を霊体が既に積んでいる。つまり何等かの過去世の記憶を霊体が既に保有した状態でこの世に降臨した現象が「その人」であり、それはとても稀なことなのだ。

私の場合は過去世がJ.S.Bach、つまりバッハであったから、生まれ付いて残響の音色や音楽の目的等を既に知っていた。知っていたと言うより記憶の片隅に在ったので、若い頃スッカスカのピアノで練習していた時は毎日がストレスだらけだった。
石造りの教会で深い音色のオルガン音楽ばかりに接していたバッハにとって、現在のスッカスカの、マイクや音響を殆ど度外視したような一般の会場のピアノの音色は音楽未満であり、その劣悪な音響状態に置かれたピアノをいかに効果的に鳴らすか‥ 等と言う発想自体が間違っていると思っている。
 
多くのコンクールがその状況で開催され、気象条件や集客状況等に音響や残響が酷く左右される中で演奏されるショパンで無事入賞出来ればもう、それだけで奇跡である。


日本人は国際試合に於いて、見た目(容姿等)に於いて既に不利である。

そもそもが日本人は全体的に「平たい顔族」であり、彫りの深い海外選手と並ぶと表情の緩急が乏しく何もかもが扁平に見えてしまう。
彫りの深い海外勢は顔の筋肉を少し動かしただけで思慮深そうな演出が可能であり、さもオレ様は深く深~く音楽や作曲家を理解しているんだぞ、と言う演技が出来てしまう辺りは、日本人が同じ舞台に立つ上で大きなハンディを背負っていると言えるだろう。
 
この、日本人が全般的に陥っている「平たい顔族」を、ではどのパーツでリカバーすべきかと考えた場合、やはり「インテリジェンス」だと私は考える。
だが各々のコンクールやコンテストには年齢制限が設けられている。なので若くして「インテリジェンス」で戦いに出る上では、なかなかリスクが大きいとも言えるだろう。生まれ付きの表現者を見抜く側にもインテリジェンスが必須となり、審査員の質が大きく問われることになる。
 
とまぁ上げて行けばコンクールそのものの議論が必要になるわけだが、そうなると手っ取り早いところで目に視える「運動神経」や「身体能力」に基礎点のベースを置いておけ!と言うことに辿り着く。それが結果的には身体能力に大きく依存しながら新進気鋭の演奏者を輩出してしまう、致命的な負の要因となっている。
 
 


今この記事を書きながら J J JUN LI BUI 氏のJ J JUN LI BUI – third round (18th Chopin Competition, Warsaw)を試聴しているが、やはり表現が短絡的に聴こえて来る。
それでも日本勢のどのコンテスタントよりも表現は深めであるが、フォルテの音が荒れており情念でショパンを解釈しているので流石に「天界の音色」には聴こえない。
 
感情やエモーションを音楽で突き抜けて行くには、全てに於けるエモーショナルな感覚を一旦手放す必要が生じる。
特にロマン派の音楽を演奏する人たちはその点をはき違えていることが多く、音楽のダイナミズムを感情で表現しようとする為音楽の全体像が崩壊して行く。その場その場の音をどう叩き込むか‥ に意識を奪われ、その楽曲の全体像に対してのピアニッシモ或いはフォルティッシモをどう弾き込んで行くべきか‥ と言うロマン派を演奏する上で最も重要な観点が抜け落ちてしまう。
それがJ J JUN LI BUI 氏の、特に「Ballade in F major, Op. 38」では顕著に顕れてしまったようにも見える。
 
音のアタック部分だけで勝負に出ているので全般的に音楽が繋がりを欠いており、モールス信号のようなスタッカートの音粒が鼓膜を刺激しているだけの音楽解釈に陥っている。それが音楽の「荒らされた感」の要因となっていることを、指導者も本人も気づかないままここまで来てしまったことはただただ不運だとしか言いようがない。
 
 


J J JUN LI BUI 氏が演奏していた「荒れたバラード」と同じプログラム「Ballade in F major, Op. 38」を、小林愛美 さんも弾いている。
 
前置きを付けるとすれば先ず、ショパンを演奏するに相応しいいで立ちとは言い難い点が女性の私には引っ掛かる。髪型と衣装がチグハグで、ロマン派ショパンを演奏するにあたりなぜこの人が、これからバレーボールの試合にでも出場するようなパッツンヘアにしちゃったのかが疑問である(笑)。
日本人の「平たい顔族」をより強く強調したかったのか或いは、「戦いの場」に装飾やお洒落等は不要だと考えたのか、何れにせよパツンと固めたヘアスタイルがショパンのまろやかでロマンティックな曲調に大きく負の影を落としているように思えて来る。
 
肝心のバラードの演奏について述べるとしたら、良い楽器を使用しているにも関わらず四畳半が透けて視えてしまう‥、つまり貧乏臭いのだ。
普段ファミチキをメインの主食にしているのかと思う程の貧相なテイストが漂っており、けっして豊かな気持ちにリスナーを導いてはくれない。
楽曲の解釈もせせこましく、ちまちましており、狭いのにやたら仕切りの多い一軒家の風呂場から道に迷ってしまい、戻りたい場所に戻れなくなってしまった時ような圧迫感と不安感にリスナーを導いて行く演奏解釈だ。
 
小林愛美 さんもどちらかと言うと身体能力型の演奏であり、それが楽曲全体の構成をちまちま細切れに切り刻んでしまっている。又フォルティッシモからピアニッシモに瞬時に移行した時に感覚の方がピアニッシモに移行出来ていない為、音色が雑に聴こえて仕方がない。
それは冒頭の段階で既に表れており、肝心のバラードのトップの旋律が投げ遣りに聴こえる。
しいてはそれが日本人特有とも言える「平たい音楽」を生み出しており、真っ平(まったいら)で何の味も素っ気もない、日にちの経った給食の食パンを間違って口に放り込んでしまった時のような残念感しか感じない。
 

では結果的に誰がこの、インテリジェンスを兼ね備えていたのかと言うと、このコンクール「第18回ショパン国際ピアノコンクール」にエントリーしたコンテスタントの中で言うとこの人、Alexander Gadjiev (アレクサンダー ・ガジェヴ) の名を私はあえてここに書いておきたい。

 

 
好き嫌いを超えて、この人の解釈は非常に哲学的であり、エモーションを突き抜けた楽曲解釈の種を持っている。
けっしてショパンを過剰に感情表現することはなく、身体能力さえも一旦頭脳解析にまで持ち上げてそこから音楽を再構成しているので、音色に言いようのない深みを感じさせる。
特にトップのメロディーのフレーズの頂点を打鍵する時、うっかりとその頂点の音をフレーズの中で最も強く打鍵するような幼稚な表現がどこにも見当たらず、それが一種の「音の含み」「間の含み」を生み出す卓越した表現スキルを垣間見せる。
 
だが何度も言うが、私はこの方 Alexander Gadjiev (アレクサンダー ・ガジェヴ) 推しと言うわけではなく、どちらかと言うと時折、どこか過剰な自信家の相を顔で演出する辺りに嫌味すら感じている(笑)。
だが音楽評論とはそういうことではなく、評論家自身の好き嫌いを超えた何かしらを論評する必要があり、その点で私は本記事の「インテリジェンス」と言う要素であえて金賞を選ぶとしたらこの人だ‥ と言うことだと付け加えておきたい。
 
 
それにしても‥。
「Ballade in F major, Op. 38」に限らずこの時代の多くの音楽が中間部で激しく展開しまくる起承転結の荒い曲調を持っており、私個人的にはそれさえなければ穏やかに食事中でも聴けるクラシック音楽になったのに‥ と舌打ちせざるを得ない。

音楽の中に、激昂は要らない。
ただただ穏やかに、メインの旋律だけが穏やかにさざ波のようにそこに在れば良いのだ。
 
時代のいたずらで翻弄されたロマン派の、未来型のロマン派の復活は未だ始まったばかりである。普遍的で激昂しないロマン派の音楽、そんな音楽が既に生まれていることについて、何れ誰かが語ってくれる日を私も楽しみに待ちたい。
  

3. ショパンの表現についての評論

【前書き】
前記事2. アナザー・フォレスト – ショパンが本当に伝えたかったこと(表現手法・表現解釈について)ではショパンの内面に広がる「アナザーフォレスト(天界の森)」について綴ってみたが、この記事では「第18回ショパン国際ピアノコンクール」で熱戦を繰り広げた上位入賞者が奏でたショパン・ワールドをさらに噛み砕いて評論を進めて行く。

(以上 前書きにて。)

 

 
勿論私はショパン国際ピアノコンクールの審査員ではないので、全ての出場者の演奏を聴くことは出来ないがその上で、思うところを綴って行く。
 
先ず本コンクールの優勝者 BRUCE (XIAOYU) LIU 氏を始めとする殆どの出場者の中に、クラシック音楽演奏者が持つ悪い癖を感じ取ることが出来る。

①自身が強調したいセンテンスになると、やたら頷いたり首を小刻みに振って自己納得するような動作が見られ、それが音楽の根幹を明らかに破壊していること。

② [①] に見られる伏線として、それがある種の内面に湧き立つ自己顕示欲或いは権威主義の顕れである点に、演奏者本人が陶酔していること。

③旋律の起伏の頂点で音符通りの到達間を「殴打するような打鍵」で、乱暴に表現していること。

④過度なエモーションが見られ、コンクールと言う設定も原因なのか‥ 多くの出場者が「闘争心」を武器に演奏していること。

 
以上箇条書きではあるが、今回特に私が強く感じた表現手法の間違いについて並べてみた。
 
他のコンクールの審査員がどうなのかについてはここではあえて問わないが、私は演奏者の力量を、例えばピアノコンツェルト等の場合には「第二楽章」で判断すべきと思っている。
これは身体能力で聴き手を圧倒すると言う姑息なトリックに騙されることなく、その演奏者自身の本当に力量や能力を嗅ぎ分けるには必要な判断スキルだと信じているからである。
 
BRUCE (XIAOYU) LIU 氏の場合、解釈の個性を誇張する為の「表現手法のクセ」を随所に感じる。
唯一彼の長所を挙げるとするならば、それは大所帯のオーケストラを引っ張り込んで行く力とも言えるだろう。だがこれには気を付けなければならない点がある。

先ず、BRUCE (XIAOYU) LIU 氏は完全に自分の世界に引き籠ったままショパン或いはショパンのピアノ・コンツェルトと向き合っており、指揮者の鼓動もオーケストラの呼吸も全く聴いていない。文字通り、完全に自分だけの音楽になっており、時折癇癪を起こしながら鍵盤を殴打し、その間に瞬時的に美しいパッセージも現れるがこれはあくまでピアノ「FAZIOLI」の持つ音色のマジックであり、半分以上は彼自身の音色ではないとも言える。

特に動画『final round (18th Chopin Competition, Warsaw)』(第三楽章)でのBRUCE (XIAOYU) LIU 氏の演奏は強烈に一方的であり、頻繁にオーケストラのみならず自身の演奏の上下(左右)がずれており、最早自分の演奏自体を聴いていないのではないかと疑ってしまう。
だが際限なく続くBRUCE (XIAOYU) LIU 氏の波に最後は、指揮者: ANDRZEJ BOREYKO(アンドレイ・ボレイコ)氏も呑み込まれて行く‥(笑)。

 

 
一見「コンクール」と言う会場ではこの波が武器になるかもしれないが、その後行われた入賞者の再演では見事にそれがマジックであったことが露呈した(私の耳には‥)。

ここで本コンクールをしっかりと支え抜いた指揮者: ANDRZEJ BOREYKO(アンドレイ・ボレイコ)氏に少しだけ、スポットを当ててみたい。

 

 
ポーランド人の父とロシア人の母の間に生まれたANDRZEJ BOREYKO(アンドレイ・ボレイコ)氏は、ひじょうにセンシティブで少し闇のある音楽解釈が特徴的だ。
だがそれより何より、自身の解釈を時には完全に胸に仕舞い込み、その時々の音楽の流れに疑問や葛藤に悩まされながらも最終的にはソリストである主役に音楽の結末を委ね、花を添える力には天性を感じる。

同じ演目、同じソリストにも関わらず、『final round (18th Chopin Competition, Warsaw)』と『Winners’ Concert (18th Chopin Competition, Warsaw)』とでは別の人かと思う程、表現の幅、表現の質、構成と解釈のクオリティーを完璧に変えて挑んで来る辺りに彼の指揮者としての華を垣間見ることが出来るだろう。

 

 
Winners’ Concert (18th Chopin Competition, Warsaw)』の第三楽章の前奏からピアニストに主導権を渡して行く辺り(動画 31:40付近)に思わず、ANDRZEJ BOREYKO(アンドレイ・ボレイコ)氏は指揮者としての本領と優しさ、人間の器を見せて来るが、BRUCE (XIAOYU) LIU 氏がそれを上手く受け取ったようには見えない。
やはりBRUCE (XIAOYU) LIU 氏はここでも一方的で内向的であり、自身の内側に匿っている別のショパンを表現しているように私には視えて仕方がないのだ。
 
多くのリスナーはそれを「彼の個性だ」と言うかもしれないが、自身の作品ではない楽曲を表現するに辺り果たして演奏者が作り上げた第二の個性をくっつける必要があるのかと問われたら、私ならばやはり「No!」と声を大にして言うだろう。
 
そう、この間違った個性については他の殆どの演奏者に見られる傾向であり、中でも特に気になったのは自身を「サムライ」と位置付けている 反田恭平のそれだった。
 
勿論自身をどうインプレッションしようが個人の自由ではあるものの、ショパンを演奏する時の主役はあくまで作曲者であるショパンであり、それ以外の演奏者がショパンを超えて主役になることは許されるべきではない。
 

 
「サムライ」と自分を名付けた割には線がふくよかで、体型と言う意味ではなく持っている彼自身の感覚の緩さ、鈍さが演奏の随所に視て取れる。
本物のサムライとはこんなものではなく常にピリピリしており、眼光が鋭く、場合によってはサングラスを装着した方が人相が穏やかに視える場合もある筈。
 
過去世で「忍び」を生きた私は当時何十人、何百人もの本物の「侍」と接して来たが、誰もが明日の命等補償されない危険な環境下で生きており、命を賭けて日々を戦いながら生きていた。
なのでこの人 (反田恭平) に「ワタシハサムライデアル」等と言われてしまうと、此方の方が本気で刀を抜きたくなるほどの怒りが込み上げて来る‥。

 

それはそうと、今私は『KYOHEI SORITA – First Prize-Winners’ Concert (18th Chopin Competition, Warsaw)』に一旦動画を切り替えて聴いている。
本選ではピアノをSteinway & Sonsに指定して演奏した反田恭平だが、この動画では優勝者 BRUCE (XIAOYU) LIU 氏が楽器を「FAZIOLI」に指定した為だろう、反田恭平の「FAZIOLI」の演奏を聴くことが出来た。

それにしても何とも華のない演奏だ。
確かに誠実で真面目で、ある種の面白みのない彼の性格は一見質実剛健なショパンを繰り広げて行くが、これではプログラムにショパンをセレクトする必要性をまるで感じない。
ベートーヴェンやブラームスの方が反田恭平と言うピアニストには向いているだろう。
 
何度も言うが、ショパンは自身の内側に秘めた「天界の音楽」「アナザーフォレスト」を、音楽人生の全てをかけて余すところなく書き尽くした。そのショパンの本質が反田恭平のショパンでは殆ど描かれることはなく、あくまで彼自身が思うところの「サムライ・ショパン」が粛々と弾き進められて行く。それを個性だと反田恭平が信じ込んでいる以上、そこにショパンの霊体が降臨することはこの先永遠に無いだろう。

 

BRUCE (XIAOYU) LIU – First Prize-Winners’ Concert (18th Chopin Competition, Warsaw)』より

 

再度 BRUCE (XIAOYU) LIU 氏の動画『Winners’ Concert (18th Chopin Competition, Warsaw)』に動画を戻して聴いている。


ピアノ・コンツェルトが終わり、アンコールの『Waltz in A flat major, Op. 42』を演奏しているところだが、ワルツと言うには速度が速すぎるし、何とも言えない品の無さを感じて仕方がない。
もう少し優雅に弾けないものだろうか‥。シャカシャカと先に進んでばかりではなく、例えばワツルと言う舞曲を考えたならばパートナーと共に踊り進んで行く楽曲が先ず私ならば思い浮かぶ。
女性たちならば鯨の骨が入った重いドレスを着て、髪を重く大きくてっぺんからふわりと結ってしゃなりしゃなりと踊るワルツは、もっと厳かで優雅でドレスの裾を引きずりながらゆっくりと進んで行く筈だ。

まぁこの辺りは話し出すと止まらなくなるので、追々何かの機会にYouTube辺りでお話し出来ればと思いながら、この記事を〆させて頂くことにしよう。

 

※今BRUCE (XIAOYU) LIU 氏の『Waltz in A flat major, Op. 42』の演奏が終わり、拍手喝さいを浴びているようだ。まるでラグビーの試合を観戦した直後のような慌ただしさと汗臭さは、本来ショパンの音楽には不要であることを最後に付け加えておきたい。

 

2. アナザー・フォレスト – ショパンが本当に伝えたかったこと(表現手法・表現解釈について)

【前書き】
前記事シリーズ『ショパンを読み解く』 1. ショパンをリーディング(霊視)する – Spiritual Channeling of CHOPINでは先ず、ショパンと言う人物がこの世界に置いて行ったもの、そこから彼の霊体にまで触手を伸ばし、私なりのショパン像の実体に迫って行った。
 
この記事では前記事を起点とした「ショパンが本当に伝えたかったこと」を、作曲家目線で紐解いて行く。
 
(以上 前書きにて。)

 

 
「第18回ショパン国際ピアノコンクール」を私は、途中から観戦し始めた。コロナ禍の最中に於いて私はいかなるイベント、コンサートその他大音量の音声を放つ全ての演目に対し否定的な態度を通している。それは今も変わることがない。

だがそんな中、知人との食事中のテーブルで頻繁に同コンクールの予選の話題が尽きず、よくよく話しの中身を訊いてみると、今YouTuberとして活躍している若手ホープとも言われる角野隼斗(すみのはやと)氏、反田恭平氏、小林愛実さん等の、既に日本国内ではプロとして活動している面々があえての同コンクールへエントリーしている辺りに、どうやら注目が集まっていることを知り、色々な意味でこれは掴みどころ満載かもしれないと思い、観戦を開始した。

 

唐突だがここで、自分のことについ少々お話ししておきたい。

最初に付け加えておくと、私自身が学生時代に多種目で音楽コンクールには頻繁にエントリーして来た経緯がある。なので「競技向きの演奏解釈」と「そうではない解釈」との大きな差には、常に悩まされて来た。
 
同じ楽曲を数種類の解釈で弾き分けながら、さらに大先生の他に複数名の「下見の先生」に稽古に付けられ、各指導者毎に解釈を変えて弾き分けながらレッスンを進めて行くと、段々と自分自身の音楽を見失い演奏が迷走し始める。
精神状態が混沌とし始めた頃に夏が訪れ、概ね学生音楽コンクールの予選は夏の終わり頃に開催されると決まっているので、半ば深酒をして酩酊状態になった中年オヤジのような感覚に陥りつつ、その中でも自分の「芯」をしっかりキープしながら最初の予選に臨むことになる。
 
当然そんな精神状態で良い演奏など出来るわけがない。だが神様は時に皮肉な決断をするもので、そんな酩酊状態の私に次なる試練をお与えになる‥。
予選でバッハやツェルニー等を難なく弾きこなして二次予選に勝ち残ったとしても、日頃のレッスンで複数パターンの解釈を各指導者毎に弾き分けなくてはならない私は、最近流行りの言葉で言うところの「自分軸」ではなく「他人軸」の演奏をし続けていたことが災いし、どうにも本選に勝ち進むことが出来ないまま学生時代を終えることとなった。
 
(以下省略)

 

 
さて話をショパンに戻そう。
 
今回「第18回ショパン国際ピアノコンクール」にエントリーした(優勝者を除く)全ての演奏者について感じたことは、多くのショパン奏者が陥る、逃れることのきわめて難しいトラップに見事に足を取られてしまっている‥ ことだった。
 
これは解釈の一つと言われればそうかもしれないが、チャネラー及びコンタクティーである私が直接ショパン本人の霊体から語り掛けられたことを、ここに記したい。

 

彼はそれはそれは過酷な日常の中で音楽を生み出して来たが、その間だけは全ての現実の不毛や不条理を忘れることが出来たと言う。
遠くにたとえ大砲の爆音が轟く朝でも、ひとたびショパンがピアノや五線紙に向かうと彼を包囲している忌わしい日常は遠く彼方へと押しやられ、彼の部屋には深い緑の森が現れて神々が入れ替わり立ち替わり降臨した。
 
小鳥が囀り、それは彼の五線紙をあっと言う間に細かく鮮やかなアルペジオに姿を変えて埋め尽くして行った。小鳥たちは互いに会話を始め、そこに古い時代から森を司る精霊たちが現れてオーケストラを奏で始めた。
乾いた小枝を指揮棒代わりに、ショパンは自ら森のオーケストラの指揮者となり、時にはピアノをそこに重ね合わせて弾き振りを試みる。
そこでは何もかもが上手く行く。肉体から霊体だけが少しだけ抜け出しては、森のオーケストラの団員たちを一個に束ね、無重力の世界を心ゆくまで堪能した。
 
ショパンの霊体 談

 
作曲家の気質にもよるが、この時代の多くの作曲家たちが革命運動や戦争等の社会情勢に悩まされ続けて来た。その中で音楽と言ういわば非日常的な営みを続けている、それが作曲家である。
 
「第18回ショパン国際ピアノコンクール」にエントリーした殆どの競技者たちは、本当に勉強熱心でありショパンをとことん学習しようと試みた形跡も見られるが、その大半が仇となり表現の足を引っ張り続けていることをどのくらいの審査員やリスナーたちが感じただろうか。
 
ショパン ・・・・・
⇨ 華やか(派手) ⇨ 時折激昂して激しく荒ぶった殴打のような打鍵をする‥ ⇨ 当時の戦争を彷彿させるような表現解釈を信じて止まない‥

実際にそういう解釈で演奏されたショパンを聴いている人たちが、こんな表現法に救われる筈がない。だが「第18回ショパン国際ピアノコンクール」の競技者たちの多くがこの、癇癪持ちの表現解釈を過信しており、それを当のショパン本人が全く以て快く思っていない‥ と言う事をここに付け加えておきたい。
 
 

 
丁度今私がこの記事を綴っている間、上の小林愛実さんの競技の模様をヘッドフォンで追い掛けているが、やはり随所に殴打するような打鍵が見られ、そこに彼女の唸り声が挟まって来るので何やら聴いている私の方が拷問にでも遭っているような切迫感に苛まれる。
 
ショパンが描きたかった「アナザーワールドの森」はどこにも存在せず、音楽の背景にかつてのかなしいポーランドの風景が黒い煙のように立ち込めて来る。
小林愛実さんは「それ」を表現することが正しいと信じているようだが、それはあくまで「ショパン・コンクール」の競技中に仕込まれた瞬時のルールに過ぎない。
 
最後の最後で三回鳴り響く乱暴な重低音の「D」の後、いきなり会場からは喝采が上がるが、それはさながらよく跳べるフィギュアスケーターが何の色気もないトリプルアクセルを飛んで着氷した瞬間同様で、演奏と言うよりはスポーツ競技としてショパンと言う音楽を滑走しただけに私には視えて仕方がない。
 
概ねコンクールは「身体能力の有無」が審査基準になっており、一先ず運動性に対して評価をし、表現力は後から何とでもなると、多くの審査員たちがそう思っている点が、コンクールとして如何なものかと私は常々感じて来た。
結果として小回りが利くか、或いは力仕事の得意な競技者だけが本選に残る為、突出して豊かな表現力を兼ね備えてた競技者の大半が振るい落とされるコンクールに存在意義があるかと言われたら、私は声を大にして「No!」と叫びたい。

 

 
私の耳元でショパンがこうささやいている。

 森で遊ぼうよ。
 小鳥たちやリスたちが天使と集う森には、大きな木の神様がいてね‥。
 朝から晩まで音楽会が開かれるんだよ。
 
 僕はそこで小枝を操って、自由自在に音楽の輪を回すんだ。
 一度回り始めた音の輪は、僕が疲れて音楽を止めようと言うまで回り続けるんだよ。

 

シリーズ『ショパンを読み解く』 1. ショパンをリーディング(霊視)する – Spiritual Channeling of CHOPIN

【前書き】
2021年10月2日~10月23日までワルシャワで開催されたショパン・コンクールは、2度の延期を跨いだコロナ禍の開催と言うこともあり、各々が熱い思いで熱戦を見守ったことだろう。
そのショパン・コンクールをこのブログでは特設カテゴリーとして企画を組み、Didier Merah独自の音楽評論をシリーズ化して展開して行こうと思う。
 
Didier Merahが最も拘る「霊質」を起点に、この記事ではショパンの奥の奥まで覗き込み、ショパンが今現在何を思い、どこを目指してこの世界を視ているのかについての独自の見解を綴って行く。

(以上 前書きにて。)

 

 

ショパンが祖国ポーランドでどのような人生を歩んだか‥ 等については既に多くの文献で書き尽くされているので、本記事では割愛したい。
ここではショパンが切望し、尚且つ実現し得なかったショパンの世界観を、霊質学の観点から解いて行く。

 

厳しく過酷でかなしい現実の中で、ショパンはそこからの精神的な逃避を日夜試みたことだろう。だが満足の行く現実逃避はなかなか叶わなかった。
現実逃避にも集中力は必要だ。ショパンにはその集中力が圧倒的に欠けていた。一つにはもともと体が余り強くなかったことが原因だろう。もう一つの理由として、性格的な気の短さが挙げられる。

とても移り気で気の多いショパンは、一個のモチーフを思い浮かべている間に別のモチーフの展開を同時に考え始める。だがそうこうしている途中で、いきなりその世界観の探求に飽きてしまう。すると三つ目のモチーフに逃避先を移しながら、最初のモチーフから逃げ出そうとするが、それも結局は余り上手く行かない。

そうこうするうちにモチーフでも展開部でもない、全く違うメロディーを先に生み出した幾つかのモチーフから新たに産み落とし、それらをミックスしながら幻を追い掛けるようにして、心は次第に音楽から離れて行こうとする。その象徴として、彼の音楽に無意味な転調が多く見られるので、シュールな感覚を持つ人にはおそらく私の言わんとすることが直ぐに伝わるだろう。

 

常に集中力を欠いたショパンの作曲手法は良く言えば「即興的」であり、悪く言えば「気が散った子供のいたずら弾き」のようにも聴こえて来る。だが如何せん全ての彼の音楽がそれなりの形で黒玉の楽譜となって刻印されているので、それがショパンなのだと言われたら後世に生きている私たちはもはや頷く以外の手段を持たない。

 

陽のあたる世界を嫌い、夜を常に待ち続けながら生きていたショパン。全てが闇に包まれるその世界こそがショパンのもう一つの現実であり、そこでは自分の思うように夢を投影するひとり遊びが許された。
だがそこには具体的な風景や人物はなく、ショパンは常に「薄闇の黄泉の世界」を空想し続けた。誰もいない黄泉の世界に在るのは、永遠に少年で在り続けたいと言うショパンの強い願望だった。
白い馬に颯爽と跨り、呼吸を乱すことさえもなく、枯れない花々が乱れ咲く草原を駆け回る。馬の鼓動と自身の鼓動をピタリと合わせ、ショパン自身がそこでは人間から完全に離脱して行くのだ。
 
ショパンのハイテンポのパッセージは一見怒りを持つ精神性や心のほとばしりのように視えるが、それは彼の極一部であり、あのパッセージの滑走の中に私は、本当は馬の体を持ち無限に広がる草原を駆け回るもう一人のショパンが視えて来る。

  


多くの演奏家たちがショパンの作品を弾く時、言いようのない怒りや苦悩を表現しようとするが、正確にはそれはショパンが言わんとする世界からはほど遠い。
苦悩と言うより、不毛と言う方が近いだろう。望んでも望んでもその思いが叶わないことを、ショパンは生まれついた時から知っていた。そして彼の内面にある夢や理想が叶わぬことを又ショパン本人も受け容れて生きていたからこそ、そこには怒りや葛藤の欠片も生まれなかったとも言えるだろう。
 
だが、多くの演奏家たちが眉間に皺を寄せしかめっ面をして、さも‥ ショパンの葛藤を再現してる風な変顔の演出が途中から繰り広げられるが、それについてはショパンはけっして快くは思っていない。
かと言って訂正したり否定する気力も、もはや彼は持たない。

 

数年前からショパンは、この現実世界に舞い戻ったままそこを動いた形跡が見られない。なぜなら彼は、彼自身の霊体を保持しながら、本当に生きたい音楽家としての新たな自分を、もう一度やり直したいと思っているからだ。
それにはフレデリック・フランソワ・ショパンとしての自身ではない、別の構造を持つ肉体と別の感性を取得する必要がある。
その新たな宿主を長い間、ショパンは探し続けている。
 
出来れば男性ではなく、女性に生まれ変わりたいと願っているようにも見える。男性として生きた過去世の彼はこれでもかと言うほど辛酸をなめた為、似た構造の肉体に対し若干嫌悪感を持っているのを感じる。
もっと弱弱しい性に生まれ変わり、長い間望んでいた「夢の世界」を彼の思う最もやわらかくてあたたかい形で再現したいと願っているのだ。

  

『言葉にできない』ー JUJU その他の面々 [音楽評論]

本当に言葉に出来ない程、誤魔化しの効かない音楽がこの世には沢山ある。この記事で取り上げたこの作品言葉にできない(作詞/作曲: 小田和正)もそんな一曲と言えるだろう。

既に作者本人である小田和正氏が2019年?にセルフカバーしているが、やはりそれでも原曲のメタリックなメロディーラインはゆらゆらと陽炎のように揺らめきながら崩壊し始めている。
だがやはりここは作者本人とあって、程好い崩れ感を大きく損なわないよう上手く誤魔化せていると言えるかもしれない。

 

 

だが肝心な「違う、きっと違う‥」の辺りから「一人では生きて行けなくて‥」の辺りはサクサクと慌てて歌い過ぎて行くので、何だか夜道で誰かに後を追けられている女性が小走りに追手から逃げているように聞こえてしまい、聴いていてどうにも落ち着かない。
歌が上手くならないまま年老いたシャンソン歌手の余興に当てられたみたいに、心拍数だけが上がって上がって私の方が息が切れそうだ。
 

原曲度外視でこれは良い!と思ったのが、EXILEAtsushiさんの同曲のカバーだった。
この歌手、顔やいで立ちに若干崩れ感、汚れ感はあるが、この作品『言葉にできない』の解釈は至ってシンプルでナイーブで清潔感に溢れており、無駄なアドリブや歌手が誇張したがる「クセ」を最小限に抑え込んだ表現がとても好印象だった。

 

 

色々調べて行くと、なんと最近はお昼のワイドショーではお馴染み(私は余り好きじゃない、この人‥)のAHN MIKA(アン・ミカ)がカバーしているではないですか。

偽善臭がプンプンしているかと思いきや、意外にそうではなかったのが驚きだった(笑)。
でもあの独特な「嫌味」なコブシは健在。本当にアン・ミカのこの嫌味感はもう一生このまま、治らなそうですけど。

 

 

そしてこれはもう音楽のルール自体を完全無視して平然と歌い切っているのが、クリス・ハートさん(笑)。一体この歌手のルーツはどこにあるのか、ここまで何でも歌ってしまう歌手ともなると何が何だか判然としない。
 

小田和正の持つメタリックなメロディーラインのエッセンスを、何だかどこか分からない国とか世界観に完全に持ち去っている。
クリスマスの教会で、美しく青い目をした青年に誘拐された子供が初めて覚えた英語の曲みたいに、別の楽曲と言ってもいい程むしろ完成されているから『言葉にできない』と言うより言葉が出ない

 

 

そして何よりアン・ミカよりもムカっ腹が立って気持ち悪かったのがこの人、JUJUの解釈。
そもそもJUJUの発声は声量の無い人が「いかにも歌える人」に見せ掛ける為の嫌味な細工が施されたものであり、声帯で一旦発声した声を声帯から浮かすように力を抜いた瞬間に振り幅の深いビブラートを掛けることで、往年のジャズ歌手みたいに聴かせるとても狡い手法を用いている。

しかもレコーディング版では冒頭の、かなり長いタイムをアカペラで堂々攻めて来る。大した度胸だ。
エンジニアの人選にもお金を掛けているのか、私が先に指摘した「狡い発声」は上手に誤魔化されていて、どこか儚げなJUJUの色合いを全面に出しているが、ミックスはけっして良いとは言えない。
この作品の持つ独特の「濡れ感」が失われており、パッサパサの髪をさらにパスパスにドライヤーで乾かし過ぎてチリッチリになった、大昔の人形の髪みたいで薄気味悪い。

 

JUJUの、ヴォーカルの音と音の継ぎ目に発声時に新たに生まれる「要らない音」がクッションとして挟まっているから、それが本来のメロディーラインを見事に叩き壊してしまっている。
おそらくこれは日本人がブラック系にメロディーを寄せて再構成する時、「それっぽく聴かせる」時に使う発声の手法で、余り上手ではないのにそれらしく聴かせようとする歌手の中では比較的当たり前に用いられている発声の技法の一つと言えるだろう。

 

小田和正 作詞・作曲『言葉にできない』の解釈の中で最も場末のスナック的で不快感満載のJUJUの音源をレコーディング版とLive版(途中で他の歌に変わってしまうので一部のみ)の両方を、この記事の最後に掲載しておく。

ようこそ、言葉にできない夜の新宿、スナックの世界へ!

 

 

 

※noteの新着記事と同期投稿です。よろしければ是非、note記事から投げ銭 or サポートで応援頂ければ幸いです。

https://note.com/didiermerah/n/nf92aa749a1e0

プレイリストを作ると言う作業

当面怪我の治療の為アウトプットを無期限で休止し、現在はインプットと言う名のアウトプットに集中している。
自身の音楽を送り届けるにとどまらず、他のアーティストの音楽を心地好く並べて数多くの「プレイリスト」をSpotifyの中に作り込み、それを一個の作品や番組のようにして世界に解き放つ作業はどこか、子育てにも似ている。

 

15歳の半ばに芸能界と言う荒々しい世界に飛び込んだ。さながら高層ビルから果てしなく長い地上までの旅に出る時の恐怖に似たものがあったが、その先にはただただ目映い輝きに満ちた世界を私は見ていた。
じきにそれが単なる幻想だったことに気が付くが、それまでの時間はまるで怪しい飲み物を呑んでほろ酔いした時のあの感覚に似て、夢はキラキラと眩しく回転して行った。

 

伴奏業と言う裏方の世界に埋没する片方で私は、裏方として芸能界のど真ん中に大型ドリルのように回りながら突き進んで行った。
衣装選びや多数のアイドルのシングル曲のデモテープ選びに始まり、コーヒーを買いに行ったりその日の収支報告書を作ったり、歌手がレコーディングの合間に摂るラーメンの出前を注文したり、頼まれれば何でもやった。

何をやってもむしろ楽しかった。だって依頼主は有名歌手や有名なアイドルだったりするのだから、そんな彼等の日常生活の片隅に居られるだけで私は本当に幸せだったから。

 

 

最近になって、古い知人からあらためて「芸能界の裏方」の仕事のお誘いが舞い込むようになった。よくよく話しを聞いてみると、当時は当たり前のように実在していた「デキる裏方」が居なくなったのだと言う。
私はどうやら彼等が言うところの「デキる裏方」の一人に、何となくラインナップされているらしい。

だが、私はそれらのオーダーへは全て、お断りを入れている。なぜならば私はもう、裏方ではなくソリストとして、唯一無二の道を歩んでいるからだ。

 

そもそも私の本職は「芸術家」「作曲家」である。
当時シャンソンやカンツォーネ、タンゴやサルサのピアノ伴奏やライブ用のアレンジ業に携わっていた頃の私は言わば「世を忍ぶ仮の姿」であり、当時のどの職歴を摘まみ上げてもそれらは私の本性でも何でもない。
そのことに最近になって気付いた人たちが多いらしく、中途半端な詫びを入れながら「ギョーカイ」の仕事と言う彼等にとっては美味しい餌をチラチラさせながら、私の頭上にプラチナの糸を垂らして来る。
 

正直お腹いっぱいだ。なので話しの中身を訊かずに門前払いを喰らわせるが、敵もなかなかしぶといし、しつこい(笑)。
何れにせよ私には「裏方」になる気は全くないので、最近は届いたメッセージに返信すらしないで放置するようになった。

 

世界中の音楽を聴いていると、今どこにスポットが当たっているか‥ 等つぶさに分かる。これは「世界中の音楽を理論解析出来るスキル」が無ければ分からないことであり、おそらく多勢の音楽ジャンルを各々専門的に分析し続けて来た私以外に、このスキルを持つ人材は居ないだろう。
自身が作曲家であると同時に、私自身が既に音の博物館なのだ。
 

そんな「歩く博物館」がシーズン毎のプレイリストを作ると、物凄い数の音楽の分量と物凄い数のジャンルが当たり前のように乱立するチャンネルが完成する。
既に私のSpotifyアカウントをフォローしている方はご存じのように、どれ一つとしてハズレのプレイリストが無いのはなぜか‥ と言う疑問すら湧かない程、「Didier Merah博物館」は日進月歩で拡張・膨張し続けている。

 

プレイリストを一個作ると言う作業に、私は兎に角子供の頃の部活のようなトキメキを感じている。
毎週末にSpotifyには新譜が到着し、新譜たちは私の試聴の時を待っている。大体週末になると一気に200曲近くの新譜が私のチャンネル (Release Rader) に勢揃いし、私はそのすべての楽曲を漏らすことなくチェックして行く。

ざっとイントロからAメロ~Bメロ~サビから間奏へと斜め聴きするに必要なタイムが30秒から60秒、そこからリフレインを確認するのに大体一曲多くても90秒で仕事が進む。
気に入った曲はそこで一旦メモに保存し、後からフルサイズで再度試聴する。

 

各々のアーティストやミュージシャンの「現在」を知ることが出来るだけでなく、時代の全体図が新着の音楽から読み解くことが出来る。言わば「音楽科学」に似た構図が私の中に拡がって行くが、あえてそこは学術的には処理しないでおく。
音楽を聴く時には、極力屁理屈屋にならないよう気を付けている。理論武装は後からいつでも出来るから、せめて音楽自体に触れている時はいちリスナーに徹して、心ゆくまで音楽に深く心身を浸して居たいのだ。

 
最近作成中のプレイリストが複数あるが、その中でもオススメは以下の2つ。
是非フォローして聴いて頂けたら幸いである。