クラシック界の新進気鋭・藤田真央を分析する

このところ何かとクラシック音楽界を賑わせているこの人、藤田真央と言う名前を頻繁に見掛けるので遂にYouTube~Spotifyの音源を聴いてみた。

先ず率直に聴いた感想を述べてみると、一言で言うと音楽表現が幼稚だ‥ と言う一点に尽きる。
まさかこの人がまだ幼気な子供だったらと言う懸念もあり慌てて藤田真央氏のプロフィールを捲ってみたが、どうやら成人式を迎えたばかりの年齢には到達している事が判明。ならば一人の大人の演奏家・表現者としてのジャッジメントを加えても良かろうと言う判断に至り、この記事を書いている。
 

音楽ライター・高坂はる香と言う人がTwitterでやたら藤田真央を褒めちぎっていたので、どうにも気になったことが切っ掛けで色々私まで彼の音源を追い掛ける羽目に陥ってしまったが、正直時間の無駄だったかな‥ と後悔している(笑)。
 

  
やはり人の言葉はアテにならない。‥と言うより、高坂はる香が「音楽ライター」であって「音楽評論家」ではなかった‥ と言う点をうっかり見落としていた私がいけなかったのだ。
こういうところはしっかりと、見落とし・抜かりなく精査しなければならない。

高坂はる香のTwitterのTLで紹介されていたのが、以下のYouTube。どうやら2022年1月19日(水)19:00 東京オペラシティ コンサートホールで開催された藤田真央のピアノリサイタルのダイジェストから、ショパンのバラード 第三番の一部だ。
 

 

良く言えば「個性的」だが、裏を返せば身勝手で作曲者: ショパンを全く無視した浅はかな亜流解釈のショパンと言っても良いだろう。
コメント欄にも「賛否が分かれるだろう‥」と言ったような内容のコメントが散見されるが、こういう遠慮がちなコメントではなくはっきりと「これはショパンでも音楽でも何でもない!」と言えないのは、受け身体質の強い日本人の弱さでもあるだろう。

(藤田真央の楽曲の)解釈が断片的で、一個の音楽として楽曲を俯瞰出来ていないし、しかもそのくせやったりげな表情で人格者を演じているのが余りにも滑稽で、絵的にも見ているのが辛くなる。
これはクラシックの演奏家に多いパターンで、なぜかドヤ顔でやったりげで崇高な人格者を顔芸で演じてしまう人達が多いのは、何を隠そう彼らの知性と自信の無さの顕れなのだと私は思っている。

そもそも作曲者の意図や感性を超えた演奏家(再演者)自身の個性等、全く以て不要である。
この点を勘違いし、「自己の新たな解釈」を無謀に加えたがる再演家が、まだまだクラシック音楽界に蔓延しているのが現状とも言えるが、この傾向は出来れば全てのクラシック音楽の演奏家達が早々に脱却しなければならない大きな課題の一つである。

付け加え、高坂はる香のような安易に勝ち馬に乗りたがるタイプの音楽ライターが、表現の稚拙な若い表現者をやたら持ち上げるこの状況にも大いに問題を感じる。
あくまで業界関係者や世論が今誰に注目しているか‥ と言う流れに上手く乗って、自分自身の感性とは全く関係のない、あくまで売れ線演奏者のCDやコンサートチケットの売り上げに貢献することだけを目的とした音楽評論もどきを見抜けない、一般のリスナーの罪も深い。
 

 
話しを藤田真央に戻そう。

藤田真央のWikipediaに掲載されている略歴を見るかぎり、多数のコンクール受賞歴があり、日本国内のTV番組にも多数出演する等、年齢と職歴が反比例するような状況だ。

だが気を付けなくてはならない点は、あくまで藤田真央は未だ演奏者としては未開の地であり、尚且つそうした学習を要しない程の突出した才能に恵まれているわけではないと言う現実を彼が抱えていることだ。
藤田真央はあくまで平凡な商品であり、それ以上でも以下でもないと言う点を的確に見抜く音楽評論家やマネージャーが付かない限り、あっと言う間に天狗になり、あっと言う間にこの世から消されることにもなりかねない。

余生は一部の熱狂的なファンに囲まれ、それなりに幸せな演奏家生活は全う出来るだろう。勿論それだけで満足であれば言うこと等何も無いが、そんな状況をみすみす放置しているだけでは、日本から音楽史や世界史に名を刻む芸術家は生まれないだろう。
 

普遍の表現、圧倒的なまでの音楽解釈力、美しい音色、そしてそれが音楽であることすら忘れさせるような圧倒的な演奏能力、最低でもこの4つの才能を持たなければ歴史に爪痕は残せないだろう。
尚且つ演奏家の宿命は、「再演を続ける」ことだけに忙殺され、没後50年も経過すれば殆どの演奏家はこの世から消えて行く運命を背負っていることである。

やはり歴史に名を刻む為には、演奏者(表現者)自らが音楽を生み出すことが必須である。身も蓋も無い話しだが、これは真理と言っても過言ではないだろう。

 
このところ私自身が公私共に多忙になり、今日はここで執筆を終わりにしたい。この記事の最後に正直言って「何てことをしてくれたんだ!」と怒りキレそうなまでに、私の大好きなこの作品(『亡き王女のためのパヴァーヌ』)を穏やかに崩壊させてくれた、藤田真央のこの音源を貼っておきたい。
 

 

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オーダーを遥かに上回るクールで奇想天外な記事を、筆者の豊富な脳内データから導き出して綴ります!

5. ピアノに於けるショパンの競演

【前書き】
前記事4. ピアノソロの楽曲から演奏者を読み解くでは私が今回印象に残った各演奏家等をピックアップし、それぞれの表現に深くメスを入れながら各々のショパンの表現についての音楽評論を展開した。中にはすべ辛い音楽評論も展開したが、ここは演奏家として、そして作曲家、比較音楽学の観点からありったけの評論に転じた。

本記事では「第18回ショパン国際ピアノコンクール」で使用された楽器について、Didier Merahが独自の批評を綴って行く。

(以上 前書きにて。)

 

FAZIOLI

 
「第18回ショパン国際ピアノコンクール」、特に[third round]からの戦いのもう一つの主役は楽器であると言っても過言ではないだろう。
本コンクールの演奏者にスポットを当てて感想を綴っているブログやSNSの記事には多く遭遇しているが、楽器を語っている人の著述には未だお目にかかっていない。それもその筈、多くのブロガーやアマチュア評論家等はどこか勝ち馬に乗った自己発信に浸っており、他の通りすがりの読者の敵意を避けるような著述が目立つ。
 
一つにはご自身が音楽の専門家ではないこと、二つには今回のショパンコンクールに日本ではかなり有名な演奏家が複数名エントリーしていたから‥等の理由が挙げられる。
先に散々誰かが好評を書いてそれが一種の市民権のようなものを得ていれば、いちリスナーは先の好評に追従するような何かしら評論めいたものを書いておけば、烏合の衆の一員として恐れを感じることなくSNSに参加出来るのだから、多くのアマチュア評論家やアマチュアブロガーの意見がほぼ一色になっていても不思議はないだろう。

「第18回ショパン国際ピアノコンクール」の[final round]では、以下の3社のピアノで競われた。

  1. FAZIOLI
  2. Steinway & Sons
  3. SHIGERU KAWAI

私がピアノメーカーの中で最も好きな[Bösendorfer (ベーゼンドルファー) ]は現在ショパンコンクールに楽器のエントリーはされていないので、今回ベーゼンドルファーのショパンが聴けなかったことはとても残念だったが‥。

 

Bösendorfer

 

[Bösendorfer (ベーゼンドルファー) ]の次に私が好きな楽器が FAZIOLI である。

過度な自己主張をせず、酒に例えるとブランデーのような深い味わいは、華美な装飾や虚飾を嫌うピアノ好きにはたまらない音色だ。
ショパンをこの楽器で表現し切るのはかなり難しい、と言うのも、俗に言われているショパンの中高音域の派手さを、この楽器は全力で軽減するからだ。
だがその不要不急の上品さがむしろショパンの心の内側に秘めた苦悩を、夜明けの雨粒のように静かに静かに吐露して行く。それは FAZIOLI でなければ成り立たない、ショパンの音色だと言えるだろう。
 
だが FAZIOLI の音色が優れているのは、フルコンに限定されるようだ。
私もいずれ自宅にグランドピアノを装備する予定で色々ピアノメーカーを研究している中で FAZIOLI が気になっていたが、どうやらフルコン以外の家庭用サイズの楽器には当たり外れがあるようだと分かって来た。
 
ハズレの楽器に当たる程、不幸なことはない。ピアノは直接指が触れて日々鼓膜を震わせる楽器であるから、自宅に備え付ける一台は自分にとって最高の楽器であって欲しい。その意味でも、当たり外れの見られる楽器は私なら敬遠する。
かと言ってフルコンを自宅でメンテナンスしながら維持するのは、湿度に影響される日本の家屋ではなかなか難儀である。
 
だが何れ FAZIOLI の音源ソフトがリリースされたら、真っ先に購入したい程好きなピアノだ。

 

Steinway & Sons

  

「第18回ショパン国際ピアノコンクール」の[final round]で に次いで大活躍したピアノが、Steinway & Sons である。
これはもう説明不要な楽器であるが、実は私はこのメーカーの楽器を余り好まない。
 
なぜかと言うと、Steinway & Sons はピアノ自体の音色の自己主張が強く、何を弾いても Steinway & Sons の音しか鳴らないし、上手下手を問わず同じ音色がキープされるクセがある。
ショパンを弾いてもベートーヴェンを弾いても、或いはジャズを弾いてもポップスの伴奏に用いても一度 Steinway & Sons を鳴らせばそこはもう Steinway & Sons だけの世界に変わってしまう。
ある意味楽曲や作曲家の個性を完全に打ち消す力を持つので、ピアノ初心者には悉く愛される。
 
「第18回ショパン国際ピアノコンクール」でも同様の事態が起きており、ショパンと言うよりは「コンクールスタイルのショパン」と言う、全くショパンとは別の音楽になり果てた感が拭えなかった。
音色はきわめて派手であり、特に中高音域の煌びやかさは全てのピアノに於いて群を抜いている。
それが私には「仇」となっているようにも聴こえ、営業楽曲としてのショパンの色合いを強く打ち出し過ぎて、ともすれば下品に聴こえて来る‥。

 

 
そして今回「第18回ショパン国際ピアノコンクール」で2位を受賞した ALEXANDER GADJIEV も使用した楽器 SHIGERU KAWAI だが、私はこのメーカーの音色を「飛び道具」と解く。
そもそも私は [KAWAI] の楽器を好まないが、SHIGERU KAWAI はある種意表を突く音色だと言えるかもしれない。

FAZIOLI の持つ中音から低音の渋みをそのまま残し、特に中高音域に行くに従って Steinway & Sons の華やかさを併せ持つ。それが会場でショパンを演奏するには酷く向いており、リスナーを困惑させる程の渋みと華やかさの両方で楽曲を翻弄しまくるのだ。
まさに「卑怯な楽器」であり、然程体力を使わなくても高音域のパッセージが強烈に鳴り響くので、これは果たしてコンクール向きの楽器なのかどうか少々悩みどころではあるが‥。
 
そして各音域の音色が他社のピアノのクセを持つので、アンサンブルにはとても有利だ。中音域に特徴のあるホルンにピアノの音色が打ち消されることもなく、弦楽器が背景に大音量で攻めて来たとしてもそれを SHIGERU KAWAI の音色の持つ華が完全に打ちのめして行く。
そしてある意味音色が上品なので、今後 SHIGERU KAWAI が楽器としてどのように進化して行くのか、ちょっと楽しみでもある‥が、多分私はこの楽器を買うことはないだろう(笑)。

  

 
実は先日ショパン本人に、上の三種の楽器の中でどれが最も好きかについて質問を投げてみた。とは言えショパンは現在存命しているわけではなく、私は彼の「霊体」に直接語り掛ける方法で質問をしてみた。
 
その結果、やはり私が危惧した通り、ショパンの回答は『SHIGERU KAWAI』一択だった。
彼は音楽の中では常に自由であり、自身の生い立ちや境遇を完全に忘れて音楽でゲームを楽しむ習性があった。それを考えると、夢のような、ある種現実味のない音色を彼が好んだとしても何等不思議ではない。
私としては悔しいけれど、ショパン本人がそう言うのだからそれが答えなのだ。
 
この記事の最後に(正直腹が立って仕方がないのだが‥笑)、 ALEXANDER GADJIEV のバラ4(Ballade in F minor, Op. 52)の動画を貼っておきたい。
私がショパンのバラードの中では最も好きなこの曲を、あり得ないような音色のピアノで華々しく、かつ上品に演奏されている。これを聴けば私が何故『SHIGERU KAWAI』の楽器に腹が立って仕方がないのか、少しはご理解頂けるかもしれない。
 

 

3. ショパンの表現についての評論

【前書き】
前記事2. アナザー・フォレスト – ショパンが本当に伝えたかったこと(表現手法・表現解釈について)ではショパンの内面に広がる「アナザーフォレスト(天界の森)」について綴ってみたが、この記事では「第18回ショパン国際ピアノコンクール」で熱戦を繰り広げた上位入賞者が奏でたショパン・ワールドをさらに噛み砕いて評論を進めて行く。

(以上 前書きにて。)

 

 
勿論私はショパン国際ピアノコンクールの審査員ではないので、全ての出場者の演奏を聴くことは出来ないがその上で、思うところを綴って行く。
 
先ず本コンクールの優勝者 BRUCE (XIAOYU) LIU 氏を始めとする殆どの出場者の中に、クラシック音楽演奏者が持つ悪い癖を感じ取ることが出来る。

①自身が強調したいセンテンスになると、やたら頷いたり首を小刻みに振って自己納得するような動作が見られ、それが音楽の根幹を明らかに破壊していること。

② [①] に見られる伏線として、それがある種の内面に湧き立つ自己顕示欲或いは権威主義の顕れである点に、演奏者本人が陶酔していること。

③旋律の起伏の頂点で音符通りの到達間を「殴打するような打鍵」で、乱暴に表現していること。

④過度なエモーションが見られ、コンクールと言う設定も原因なのか‥ 多くの出場者が「闘争心」を武器に演奏していること。

 
以上箇条書きではあるが、今回特に私が強く感じた表現手法の間違いについて並べてみた。
 
他のコンクールの審査員がどうなのかについてはここではあえて問わないが、私は演奏者の力量を、例えばピアノコンツェルト等の場合には「第二楽章」で判断すべきと思っている。
これは身体能力で聴き手を圧倒すると言う姑息なトリックに騙されることなく、その演奏者自身の本当に力量や能力を嗅ぎ分けるには必要な判断スキルだと信じているからである。
 
BRUCE (XIAOYU) LIU 氏の場合、解釈の個性を誇張する為の「表現手法のクセ」を随所に感じる。
唯一彼の長所を挙げるとするならば、それは大所帯のオーケストラを引っ張り込んで行く力とも言えるだろう。だがこれには気を付けなければならない点がある。

先ず、BRUCE (XIAOYU) LIU 氏は完全に自分の世界に引き籠ったままショパン或いはショパンのピアノ・コンツェルトと向き合っており、指揮者の鼓動もオーケストラの呼吸も全く聴いていない。文字通り、完全に自分だけの音楽になっており、時折癇癪を起こしながら鍵盤を殴打し、その間に瞬時的に美しいパッセージも現れるがこれはあくまでピアノ「FAZIOLI」の持つ音色のマジックであり、半分以上は彼自身の音色ではないとも言える。

特に動画『final round (18th Chopin Competition, Warsaw)』(第三楽章)でのBRUCE (XIAOYU) LIU 氏の演奏は強烈に一方的であり、頻繁にオーケストラのみならず自身の演奏の上下(左右)がずれており、最早自分の演奏自体を聴いていないのではないかと疑ってしまう。
だが際限なく続くBRUCE (XIAOYU) LIU 氏の波に最後は、指揮者: ANDRZEJ BOREYKO(アンドレイ・ボレイコ)氏も呑み込まれて行く‥(笑)。

 

 
一見「コンクール」と言う会場ではこの波が武器になるかもしれないが、その後行われた入賞者の再演では見事にそれがマジックであったことが露呈した(私の耳には‥)。

ここで本コンクールをしっかりと支え抜いた指揮者: ANDRZEJ BOREYKO(アンドレイ・ボレイコ)氏に少しだけ、スポットを当ててみたい。

 

 
ポーランド人の父とロシア人の母の間に生まれたANDRZEJ BOREYKO(アンドレイ・ボレイコ)氏は、ひじょうにセンシティブで少し闇のある音楽解釈が特徴的だ。
だがそれより何より、自身の解釈を時には完全に胸に仕舞い込み、その時々の音楽の流れに疑問や葛藤に悩まされながらも最終的にはソリストである主役に音楽の結末を委ね、花を添える力には天性を感じる。

同じ演目、同じソリストにも関わらず、『final round (18th Chopin Competition, Warsaw)』と『Winners’ Concert (18th Chopin Competition, Warsaw)』とでは別の人かと思う程、表現の幅、表現の質、構成と解釈のクオリティーを完璧に変えて挑んで来る辺りに彼の指揮者としての華を垣間見ることが出来るだろう。

 

 
Winners’ Concert (18th Chopin Competition, Warsaw)』の第三楽章の前奏からピアニストに主導権を渡して行く辺り(動画 31:40付近)に思わず、ANDRZEJ BOREYKO(アンドレイ・ボレイコ)氏は指揮者としての本領と優しさ、人間の器を見せて来るが、BRUCE (XIAOYU) LIU 氏がそれを上手く受け取ったようには見えない。
やはりBRUCE (XIAOYU) LIU 氏はここでも一方的で内向的であり、自身の内側に匿っている別のショパンを表現しているように私には視えて仕方がないのだ。
 
多くのリスナーはそれを「彼の個性だ」と言うかもしれないが、自身の作品ではない楽曲を表現するに辺り果たして演奏者が作り上げた第二の個性をくっつける必要があるのかと問われたら、私ならばやはり「No!」と声を大にして言うだろう。
 
そう、この間違った個性については他の殆どの演奏者に見られる傾向であり、中でも特に気になったのは自身を「サムライ」と位置付けている 反田恭平のそれだった。
 
勿論自身をどうインプレッションしようが個人の自由ではあるものの、ショパンを演奏する時の主役はあくまで作曲者であるショパンであり、それ以外の演奏者がショパンを超えて主役になることは許されるべきではない。
 

 
「サムライ」と自分を名付けた割には線がふくよかで、体型と言う意味ではなく持っている彼自身の感覚の緩さ、鈍さが演奏の随所に視て取れる。
本物のサムライとはこんなものではなく常にピリピリしており、眼光が鋭く、場合によってはサングラスを装着した方が人相が穏やかに視える場合もある筈。
 
過去世で「忍び」を生きた私は当時何十人、何百人もの本物の「侍」と接して来たが、誰もが明日の命等補償されない危険な環境下で生きており、命を賭けて日々を戦いながら生きていた。
なのでこの人 (反田恭平) に「ワタシハサムライデアル」等と言われてしまうと、此方の方が本気で刀を抜きたくなるほどの怒りが込み上げて来る‥。

 

それはそうと、今私は『KYOHEI SORITA – First Prize-Winners’ Concert (18th Chopin Competition, Warsaw)』に一旦動画を切り替えて聴いている。
本選ではピアノをSteinway & Sonsに指定して演奏した反田恭平だが、この動画では優勝者 BRUCE (XIAOYU) LIU 氏が楽器を「FAZIOLI」に指定した為だろう、反田恭平の「FAZIOLI」の演奏を聴くことが出来た。

それにしても何とも華のない演奏だ。
確かに誠実で真面目で、ある種の面白みのない彼の性格は一見質実剛健なショパンを繰り広げて行くが、これではプログラムにショパンをセレクトする必要性をまるで感じない。
ベートーヴェンやブラームスの方が反田恭平と言うピアニストには向いているだろう。
 
何度も言うが、ショパンは自身の内側に秘めた「天界の音楽」「アナザーフォレスト」を、音楽人生の全てをかけて余すところなく書き尽くした。そのショパンの本質が反田恭平のショパンでは殆ど描かれることはなく、あくまで彼自身が思うところの「サムライ・ショパン」が粛々と弾き進められて行く。それを個性だと反田恭平が信じ込んでいる以上、そこにショパンの霊体が降臨することはこの先永遠に無いだろう。

 

BRUCE (XIAOYU) LIU – First Prize-Winners’ Concert (18th Chopin Competition, Warsaw)』より

 

再度 BRUCE (XIAOYU) LIU 氏の動画『Winners’ Concert (18th Chopin Competition, Warsaw)』に動画を戻して聴いている。


ピアノ・コンツェルトが終わり、アンコールの『Waltz in A flat major, Op. 42』を演奏しているところだが、ワルツと言うには速度が速すぎるし、何とも言えない品の無さを感じて仕方がない。
もう少し優雅に弾けないものだろうか‥。シャカシャカと先に進んでばかりではなく、例えばワツルと言う舞曲を考えたならばパートナーと共に踊り進んで行く楽曲が先ず私ならば思い浮かぶ。
女性たちならば鯨の骨が入った重いドレスを着て、髪を重く大きくてっぺんからふわりと結ってしゃなりしゃなりと踊るワルツは、もっと厳かで優雅でドレスの裾を引きずりながらゆっくりと進んで行く筈だ。

まぁこの辺りは話し出すと止まらなくなるので、追々何かの機会にYouTube辺りでお話し出来ればと思いながら、この記事を〆させて頂くことにしよう。

 

※今BRUCE (XIAOYU) LIU 氏の『Waltz in A flat major, Op. 42』の演奏が終わり、拍手喝さいを浴びているようだ。まるでラグビーの試合を観戦した直後のような慌ただしさと汗臭さは、本来ショパンの音楽には不要であることを最後に付け加えておきたい。

 

2. アナザー・フォレスト – ショパンが本当に伝えたかったこと(表現手法・表現解釈について)

【前書き】
前記事シリーズ『ショパンを読み解く』 1. ショパンをリーディング(霊視)する – Spiritual Channeling of CHOPINでは先ず、ショパンと言う人物がこの世界に置いて行ったもの、そこから彼の霊体にまで触手を伸ばし、私なりのショパン像の実体に迫って行った。
 
この記事では前記事を起点とした「ショパンが本当に伝えたかったこと」を、作曲家目線で紐解いて行く。
 
(以上 前書きにて。)

 

 
「第18回ショパン国際ピアノコンクール」を私は、途中から観戦し始めた。コロナ禍の最中に於いて私はいかなるイベント、コンサートその他大音量の音声を放つ全ての演目に対し否定的な態度を通している。それは今も変わることがない。

だがそんな中、知人との食事中のテーブルで頻繁に同コンクールの予選の話題が尽きず、よくよく話しの中身を訊いてみると、今YouTuberとして活躍している若手ホープとも言われる角野隼斗(すみのはやと)氏、反田恭平氏、小林愛実さん等の、既に日本国内ではプロとして活動している面々があえての同コンクールへエントリーしている辺りに、どうやら注目が集まっていることを知り、色々な意味でこれは掴みどころ満載かもしれないと思い、観戦を開始した。

 

唐突だがここで、自分のことについ少々お話ししておきたい。

最初に付け加えておくと、私自身が学生時代に多種目で音楽コンクールには頻繁にエントリーして来た経緯がある。なので「競技向きの演奏解釈」と「そうではない解釈」との大きな差には、常に悩まされて来た。
 
同じ楽曲を数種類の解釈で弾き分けながら、さらに大先生の他に複数名の「下見の先生」に稽古に付けられ、各指導者毎に解釈を変えて弾き分けながらレッスンを進めて行くと、段々と自分自身の音楽を見失い演奏が迷走し始める。
精神状態が混沌とし始めた頃に夏が訪れ、概ね学生音楽コンクールの予選は夏の終わり頃に開催されると決まっているので、半ば深酒をして酩酊状態になった中年オヤジのような感覚に陥りつつ、その中でも自分の「芯」をしっかりキープしながら最初の予選に臨むことになる。
 
当然そんな精神状態で良い演奏など出来るわけがない。だが神様は時に皮肉な決断をするもので、そんな酩酊状態の私に次なる試練をお与えになる‥。
予選でバッハやツェルニー等を難なく弾きこなして二次予選に勝ち残ったとしても、日頃のレッスンで複数パターンの解釈を各指導者毎に弾き分けなくてはならない私は、最近流行りの言葉で言うところの「自分軸」ではなく「他人軸」の演奏をし続けていたことが災いし、どうにも本選に勝ち進むことが出来ないまま学生時代を終えることとなった。
 
(以下省略)

 

 
さて話をショパンに戻そう。
 
今回「第18回ショパン国際ピアノコンクール」にエントリーした(優勝者を除く)全ての演奏者について感じたことは、多くのショパン奏者が陥る、逃れることのきわめて難しいトラップに見事に足を取られてしまっている‥ ことだった。
 
これは解釈の一つと言われればそうかもしれないが、チャネラー及びコンタクティーである私が直接ショパン本人の霊体から語り掛けられたことを、ここに記したい。

 

彼はそれはそれは過酷な日常の中で音楽を生み出して来たが、その間だけは全ての現実の不毛や不条理を忘れることが出来たと言う。
遠くにたとえ大砲の爆音が轟く朝でも、ひとたびショパンがピアノや五線紙に向かうと彼を包囲している忌わしい日常は遠く彼方へと押しやられ、彼の部屋には深い緑の森が現れて神々が入れ替わり立ち替わり降臨した。
 
小鳥が囀り、それは彼の五線紙をあっと言う間に細かく鮮やかなアルペジオに姿を変えて埋め尽くして行った。小鳥たちは互いに会話を始め、そこに古い時代から森を司る精霊たちが現れてオーケストラを奏で始めた。
乾いた小枝を指揮棒代わりに、ショパンは自ら森のオーケストラの指揮者となり、時にはピアノをそこに重ね合わせて弾き振りを試みる。
そこでは何もかもが上手く行く。肉体から霊体だけが少しだけ抜け出しては、森のオーケストラの団員たちを一個に束ね、無重力の世界を心ゆくまで堪能した。
 
ショパンの霊体 談

 
作曲家の気質にもよるが、この時代の多くの作曲家たちが革命運動や戦争等の社会情勢に悩まされ続けて来た。その中で音楽と言ういわば非日常的な営みを続けている、それが作曲家である。
 
「第18回ショパン国際ピアノコンクール」にエントリーした殆どの競技者たちは、本当に勉強熱心でありショパンをとことん学習しようと試みた形跡も見られるが、その大半が仇となり表現の足を引っ張り続けていることをどのくらいの審査員やリスナーたちが感じただろうか。
 
ショパン ・・・・・
⇨ 華やか(派手) ⇨ 時折激昂して激しく荒ぶった殴打のような打鍵をする‥ ⇨ 当時の戦争を彷彿させるような表現解釈を信じて止まない‥

実際にそういう解釈で演奏されたショパンを聴いている人たちが、こんな表現法に救われる筈がない。だが「第18回ショパン国際ピアノコンクール」の競技者たちの多くがこの、癇癪持ちの表現解釈を過信しており、それを当のショパン本人が全く以て快く思っていない‥ と言う事をここに付け加えておきたい。
 
 

 
丁度今私がこの記事を綴っている間、上の小林愛実さんの競技の模様をヘッドフォンで追い掛けているが、やはり随所に殴打するような打鍵が見られ、そこに彼女の唸り声が挟まって来るので何やら聴いている私の方が拷問にでも遭っているような切迫感に苛まれる。
 
ショパンが描きたかった「アナザーワールドの森」はどこにも存在せず、音楽の背景にかつてのかなしいポーランドの風景が黒い煙のように立ち込めて来る。
小林愛実さんは「それ」を表現することが正しいと信じているようだが、それはあくまで「ショパン・コンクール」の競技中に仕込まれた瞬時のルールに過ぎない。
 
最後の最後で三回鳴り響く乱暴な重低音の「D」の後、いきなり会場からは喝采が上がるが、それはさながらよく跳べるフィギュアスケーターが何の色気もないトリプルアクセルを飛んで着氷した瞬間同様で、演奏と言うよりはスポーツ競技としてショパンと言う音楽を滑走しただけに私には視えて仕方がない。
 
概ねコンクールは「身体能力の有無」が審査基準になっており、一先ず運動性に対して評価をし、表現力は後から何とでもなると、多くの審査員たちがそう思っている点が、コンクールとして如何なものかと私は常々感じて来た。
結果として小回りが利くか、或いは力仕事の得意な競技者だけが本選に残る為、突出して豊かな表現力を兼ね備えてた競技者の大半が振るい落とされるコンクールに存在意義があるかと言われたら、私は声を大にして「No!」と叫びたい。

 

 
私の耳元でショパンがこうささやいている。

 森で遊ぼうよ。
 小鳥たちやリスたちが天使と集う森には、大きな木の神様がいてね‥。
 朝から晩まで音楽会が開かれるんだよ。
 
 僕はそこで小枝を操って、自由自在に音楽の輪を回すんだ。
 一度回り始めた音の輪は、僕が疲れて音楽を止めようと言うまで回り続けるんだよ。

 

シリーズ『ショパンを読み解く』 1. ショパンをリーディング(霊視)する – Spiritual Channeling of CHOPIN

【前書き】
2021年10月2日~10月23日までワルシャワで開催されたショパン・コンクールは、2度の延期を跨いだコロナ禍の開催と言うこともあり、各々が熱い思いで熱戦を見守ったことだろう。
そのショパン・コンクールをこのブログでは特設カテゴリーとして企画を組み、Didier Merah独自の音楽評論をシリーズ化して展開して行こうと思う。
 
Didier Merahが最も拘る「霊質」を起点に、この記事ではショパンの奥の奥まで覗き込み、ショパンが今現在何を思い、どこを目指してこの世界を視ているのかについての独自の見解を綴って行く。

(以上 前書きにて。)

 

 

ショパンが祖国ポーランドでどのような人生を歩んだか‥ 等については既に多くの文献で書き尽くされているので、本記事では割愛したい。
ここではショパンが切望し、尚且つ実現し得なかったショパンの世界観を、霊質学の観点から解いて行く。

 

厳しく過酷でかなしい現実の中で、ショパンはそこからの精神的な逃避を日夜試みたことだろう。だが満足の行く現実逃避はなかなか叶わなかった。
現実逃避にも集中力は必要だ。ショパンにはその集中力が圧倒的に欠けていた。一つにはもともと体が余り強くなかったことが原因だろう。もう一つの理由として、性格的な気の短さが挙げられる。

とても移り気で気の多いショパンは、一個のモチーフを思い浮かべている間に別のモチーフの展開を同時に考え始める。だがそうこうしている途中で、いきなりその世界観の探求に飽きてしまう。すると三つ目のモチーフに逃避先を移しながら、最初のモチーフから逃げ出そうとするが、それも結局は余り上手く行かない。

そうこうするうちにモチーフでも展開部でもない、全く違うメロディーを先に生み出した幾つかのモチーフから新たに産み落とし、それらをミックスしながら幻を追い掛けるようにして、心は次第に音楽から離れて行こうとする。その象徴として、彼の音楽に無意味な転調が多く見られるので、シュールな感覚を持つ人にはおそらく私の言わんとすることが直ぐに伝わるだろう。

 

常に集中力を欠いたショパンの作曲手法は良く言えば「即興的」であり、悪く言えば「気が散った子供のいたずら弾き」のようにも聴こえて来る。だが如何せん全ての彼の音楽がそれなりの形で黒玉の楽譜となって刻印されているので、それがショパンなのだと言われたら後世に生きている私たちはもはや頷く以外の手段を持たない。

 

陽のあたる世界を嫌い、夜を常に待ち続けながら生きていたショパン。全てが闇に包まれるその世界こそがショパンのもう一つの現実であり、そこでは自分の思うように夢を投影するひとり遊びが許された。
だがそこには具体的な風景や人物はなく、ショパンは常に「薄闇の黄泉の世界」を空想し続けた。誰もいない黄泉の世界に在るのは、永遠に少年で在り続けたいと言うショパンの強い願望だった。
白い馬に颯爽と跨り、呼吸を乱すことさえもなく、枯れない花々が乱れ咲く草原を駆け回る。馬の鼓動と自身の鼓動をピタリと合わせ、ショパン自身がそこでは人間から完全に離脱して行くのだ。
 
ショパンのハイテンポのパッセージは一見怒りを持つ精神性や心のほとばしりのように視えるが、それは彼の極一部であり、あのパッセージの滑走の中に私は、本当は馬の体を持ち無限に広がる草原を駆け回るもう一人のショパンが視えて来る。

  


多くの演奏家たちがショパンの作品を弾く時、言いようのない怒りや苦悩を表現しようとするが、正確にはそれはショパンが言わんとする世界からはほど遠い。
苦悩と言うより、不毛と言う方が近いだろう。望んでも望んでもその思いが叶わないことを、ショパンは生まれついた時から知っていた。そして彼の内面にある夢や理想が叶わぬことを又ショパン本人も受け容れて生きていたからこそ、そこには怒りや葛藤の欠片も生まれなかったとも言えるだろう。
 
だが、多くの演奏家たちが眉間に皺を寄せしかめっ面をして、さも‥ ショパンの葛藤を再現してる風な変顔の演出が途中から繰り広げられるが、それについてはショパンはけっして快くは思っていない。
かと言って訂正したり否定する気力も、もはや彼は持たない。

 

数年前からショパンは、この現実世界に舞い戻ったままそこを動いた形跡が見られない。なぜなら彼は、彼自身の霊体を保持しながら、本当に生きたい音楽家としての新たな自分を、もう一度やり直したいと思っているからだ。
それにはフレデリック・フランソワ・ショパンとしての自身ではない、別の構造を持つ肉体と別の感性を取得する必要がある。
その新たな宿主を長い間、ショパンは探し続けている。
 
出来れば男性ではなく、女性に生まれ変わりたいと願っているようにも見える。男性として生きた過去世の彼はこれでもかと言うほど辛酸をなめた為、似た構造の肉体に対し若干嫌悪感を持っているのを感じる。
もっと弱弱しい性に生まれ変わり、長い間望んでいた「夢の世界」を彼の思う最もやわらかくてあたたかい形で再現したいと願っているのだ。