サードアイ

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早朝に目が覚めたまま眠れなくなり、そのまま起きてぼんやりスマホを見ながらチャットやTwitterを楽しんでいた。ふと、頭上から誰かの声を拾ったような錯覚に陥ったが、数時間後に控えていた歯の治療の事で頭がいっぱいで、その声の主について余り深く考えないままアラームの残り時間ぎりぎりまで睡眠を摂ることにした。

 

歯の治療の日はいつも憂鬱で、前の夜から気持ちがざわついて落ち着かなくなる。特に痛みがあるわけではないと頭では理解してはいるが、もしかすると不意に神経に治療器具が当たって痛みがあるのではないか… 等と余計なことを考えると、なおさら深い不安に苛まれる。

 

数年前の治療中に一度だけ、予想もしないタイミングで治療器具が神経に当たって電気ショックにでも打たれたような激痛に悶え苦しんだ経験が、今でも深いトラウマとなったまま私の記憶の真ん中に突き刺さって思い出と化している。

だが実際に治療に行ってみると、不安で不安で仕方がなかった前日前夜のことが嘘のように、治療は呆気なく終わって行く。…その繰り返しが何年間も続き、今日に至る。

 

今日も治療は順調で、ドクターでさえ治るか治らないか予想のつかなかった箇所の患部の状態が劇的に改善し、ようやく神経の治療を終えて上を塞ぎ、次回はその先の治療に無事進む段取りに。

 

 

一旦帰宅し、今日のランチは自宅で何か作る予定でいたのだが、或る場所に呼ばれて本当に美味しいまかない飯を頂いた。

勿論まかない飯が美味しいことは言うまでもないが、私はそのお店のママの素顔を今日、初めて見たような心地好い錯覚に陥ったまま数時間が経過している。

 

その女性の写真を夫に見せたことがあったが、その時夫は「この人、開いているよね…。」とつぶやいた。その時のことがずっとあれから頭から離れず、一度私自身で女性の感覚にそっと侵入してみようと思っていたところだった。

今日がその時だったのかもしれない。

 

お店は比較的空いていて、女性に『ピアノのお姉さん、ナニ食ベル~?』と訊かれたので、私はいつもそこで食べたことのない豚肉のフードをオーダーすると、すかさず(多分私の為に作ってくれたであろう)牛肉の炒めものを前菜代わりに持って来た。
名前もない、メニューにもないフードでそれはそれは本当に美味しいお肉だった。

 

ママはいつも自信なさげに「どう?」と私に訊いて来るが、私の返事は決まっていた。

『美~味し~いっ!!!』

それ以外に返す言葉なんて、あるわけないでしょう?笑。

 

本来メニューにはない「温かいコーヒー」がテーブルに運ばれて来ると、ママが珍しく客用のシートに座って思い出話を始めた。

最近調子の好くない我が家のうさぎのことを気遣って尋ねてくれて、それに私が少しだけ答えを返した時にママが、「どんな生き物にだってみ~んな伝わるのよ、思いはね。」とカタコトの日本語で目ヂカラを込めて囁いた。
私は思わずママの額の真ん中にある第三の目を見付け、そして完全にお互いの第三の目と第三の目がぶつかり合った。

 

不意に先日夫がつぶやいた、「この人、開いているよね…。」と言う声が脳裏に響き渡った。彼女は次第に第三の目だけで会話を始め、私たちは直ぐに言葉を失った。その間、繊細なテレパシーととてもデリケートなふたつの心の声が、まるで今日の雨のようにそっと私たちを包み込んだ。

 

ママは最近会えなくなった人たちの思い出や、認知症とかアルツハイマーとかその他複合的な病気で長期入院している御主人のお義母様の話等を、止まることなく一気に話し始めた。

どんなに意識が遠のいた人でも、その人が待ち続けている相手の存在を感じるといきなり夢から醒めたように体が動き始めたり、いきなり(それまで何カ月間も意識が朦朧としていたにも関わらず)喋り始めた人のことを、彼女は美しい笑みをたたえて一気に話して行く。

 

もう私とママは店員と客の一線を、完全に超えてしまったと感じた。色々な事情でそうそう頻繁には通えないそのお店に最近私は、まるで重要な客人或いは家族か親戚のように度々招かれ、まかない飯を盛り沢山頂いて彼等にしか分からない会話の輪の中に混じり、大声で笑ってひたすら食べて帰途につく。

幸せな時間はいつも一瞬にして過ぎて行き、その度に私は、世界から時間が消えてしまえばいいのに… と軽く舌打ちしながら、ぎゅっと唇を結んで自転車を漕ぎ出す。

 

 

帰宅してから本当は別の仕事をする予定だったが、どうしても今日のことをそっと記録しておきたくなり、このページに書いておくことにした。

 

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