純白の河

これ程何もやる気の起きない木曜日は珍しい。そういう時は心身を労わるに尽きる、と思いながらも折角の木曜日、しかも快晴。
勿体ないな…。ふと口を突いて出た言葉が余りに呆気なく、風に連れ去られて行った。

これでもかと言う程照りつける太陽が、早朝の凍えるような空気を一瞬にして甘く、熱い夢に変えて行く。
木曜日。何かしなきゃと思い、13時を過ぎた頃ようやく布団から這い出して熱いシャワーを浴びて支度を始めた。

今日のランチはもう決まっている。時間を気にする飲食店のランチを避けて、フレッシュネスバーガーのクラシックマッシュルームチーズバーガーのセットのクーポンを押さえてあった。


2020年11月3日、無事に、本当に無事に56歳の誕生日を迎えた。本当に無事だったかと訊かれたら決して無事だったとは言えない程、ここのところ色々と、目には見えない圧力との戦いに明け暮れていた私と夫。
だから無事だったと言えば嘘にはなるけれど、でも怪我をしたわけでもなく事故に遭ったわけでもないからやっぱり無事だったと言う他に言葉を思い付かない。


人生は小説のようだと言うけれど、小説が人生のようだと言う人に私は未だ出会ったことがない。でも私の人生はきっと、何かが逆転したまま進んでいると言っても良いかもしれない。
私は未来からここに戻って来たようでもあり、この世の始まりからの記憶の多くを霊体に保有したまま転生を繰り返しているから、過去から未来にタイムスリップしながら生きているようでもある。普通の人が基準としているものが、私の中では全くあてにならない。

これまで何人の人達に私の生い立ちや、私の魂の長い長い物語について語り尽くしただろう。今の夫以外の殆どの知人の同意や共感は得られることなく、今でも私は大きな疎外感の中で呼吸を続けている。


疎外感で繋がって行くのがこの小説「ミッドナイトスワン」の二人の主人公、凪沙一果、そして一果の親友のりんかもしれない。

私は未だ映画を観ていない。本当に手が届く程近くの映画館で上映されているのに、新型コロナウィルスの感染を避けるべく暫くは密閉空間には行かないと決めている。
なのでノベライズとも言うべき書籍を先に読了した。


紙の中に時間の河が流れていることを、今日まで微塵も信じていなかった。そんな私が物語が後半に進むにしたがって壊れ始め、遂には物語が巨大な生き物のように涙腺に襲い掛かり私を完全に崩壊させた。
頬を涙が伝うように、Kindleの白い画面の中に深くて熱い河が溢れんばかりに流れて、ともするとありきたりのまま過ぎてしまいそうな木曜日を全て呑み込んだ。

まるであの日の洪水のようだと思った。その日、その瞬間まで笑顔を交わして生きていた人たちと、二度と会えなくなる瞬間の苦悩。この物語りは地震とは何の関係もないのだけど、クラシックバレーに魅入られた三人が次々とその荒々しい波に呑まれ、還らぬ人になって行く過程はまるで大きな運命の逆らえぬ波をもろに浴びる感覚に似ていた。


普段私はここまで書籍にのめり込むことがないのに、この本は特別だった。勿論ジェンダーとは何か‥ とか、芸術とは何か‥ と言うあらすじに惹かれてこの書籍を何気なく手に取ったにも関わらず、これまで私の中にモヤモヤしていたものまでが気付くと綺麗さっぱりと洗い流された代わりに、そこには二度と消えぬ痛々しい私自身の魂の古傷が今にも血を吹き出さんばかりに露わになった。



何を隠そう、私も遠い昔に母親からの虐待を受けながら育った人間である。人はそんな私を見て見ぬふりをして、「それは愛の鞭よ。」等ときわめて無責任な言葉で私を諫めようとするばかりで、誰一人私を痛みの谷底から救い出してはくれなかった。


「ミッドナイトスワン」の主人公・一果は、現実逃避をしたい時になると歯型が付く程深く腕の肉を噛む。次第にそれはリストカットと言う別のやり方に変わり、最終的にそんな一果をクラシックバレーと言う芸術と彼女に生まれ付いて備わった才能とが救い出して行くようにも見える。

だが一度心に付いた傷は、永遠にそこに留まり続けるのだ。私もそう。そしてきっと先立った私の弟の胸中も、それに近いものではなかっただろうか…。


一果同様、私の半生も凄まじいものだった。その凄まじさが余りに凄くて、誰にその話をしても話半分に聞くだけで真剣に取り合い向き合ってくれた人は誰も居なかった。
最初の結婚相手も最後には愛想を尽かし、最終的には離婚を渋っていた私をその気にさせる為に生活費を殆ど入れてくれなくなったりもした。だが私はそんな苦境の中に在っても、音楽から離れることだけは考えなかった。
まるで「ミッドナイトスワン」の一果のようだと、物語を読み進めながら私は主人公の各々を自分の人生と照らし合わせていた。そして久し振りに心の底から泣いた。


絶対に泣かないと決めて生きて来た私が、過去の自分に向かって初めてと言って好い程真剣に涙を流した。



瞬く間に夕暮れが終わり、夜が来た。日に日に驚く程、夜が早く訪れる。

そして誰もがマスクの内側から、本音の悪魔を覗かせながら口では違う言葉を話している。そんな状況が無期限で継続し続けるこの世界で、一体どのくらいの人達が本音で生きているのだろうかと考える。


私は人の心を聴くことが出来る。これは悲しい能力で、実際に話している言葉とは全く違うその人の本心を、まるで同時通訳のように私は第三の鼓膜で聴き取りながら生きている。
だから最近、私は人と会わなくなった。表向きは「コロナ禍が終わるまでは人に会わない。」と言って人を遠ざけているけれど、本当は違った。


心の中に北風が吹き荒れる。それは次第に大きく強さを増して行き、今にも私自身や私を刻む時間までをも奪い取りそうな勢いだ。
でもどんな荒波に在ろうと、私は夫と共にここまでやって来た。幾つもの、色々な次元からの呪詛が私を体ごと、内臓ごと引き裂こうとしても、夫が力ずくで私を守ってくれる。

そんな私の魂の物語を共有出来る友人が、私には一人も居ない。
その時々の相手によって私は、私をカスタマイズしながら向き合い、それなりの自分を演じることが出来るだけに、気付くと私をありのままさらけ出せる相手を完全に失ってしまったようだ。

もしもそれが夫にとっての私、私にとっての夫だけならば、私は夫と時間軸を完全に合わせて同じタイミングで次の旅に向かえるよう、上手に長く生きなければならないと思っている。

少なくとも「ミッドナイトスワン」の凪沙のように、大きな手術をした後に自暴自棄になるようなことだけはしたくない。


折角自分の望む自分になれたのに、何故… 凪沙は自分の意思で「死」に向かって生き始めたのだろう。読了後に何が悲しかったって、与えられたもの全てを自分の意思で手放してしまった凪沙の描写が余りにも痛々しかったのだ。


人間は何と弱い生き物だろう‥。

かつての私もそうだった。だから凪沙の気持ち、りんの気持ちは痛い程よく分かるけど、ここに生かされていることの意味を深く、深く考えると私は死んでなど居られない。
だから映画館にも行かないし、長時間人混みの中に身を晒すようなこともしない。じっと耐えて引き籠って、自分と言う舟を丁寧に丁寧にメンテナンスしながら次のステップに進んで行くだけだ。

ここから始まる第二の人生の全てを私は、芸術と夫に捧げようと気持ちを新たに、帰途についた。