イタリアンポップスの名曲『ABBRACCIAME』を比較・分析する

2022年2月18日の未明から私は急々と、Spotifyの新譜チェックを開始した。すると上から3曲目に現れたのがこの作品『ABBRACCIAME』だった。
アーティスト表記は『MONICA SARNELLI feat. MAURO SPENILLO』となっている。
 

 
この作品は初演歌手が [Andrea Sannino] で登録されているが、作曲者が判然としない状態で色々なサブスクリプション内には [Andrea Sannino] が作曲者として記録されているものを私は多数見ており、この機会にあらためて調べてみたところ、上の動画「ABBRACCIAME – MONICA SARNELLI feat. MAURO SPENILLO」でキーボードを演奏している男性 Mauro Spenillo がどうやら正式な作曲者であることが判明した。
 

上記動画は再演(cover)にあたるが、私は原曲として公開されている [Andrea Sannino] の初演バージョンよりも此方の方が、作曲者の意図が強く表れているような気がしてとても好きである。
 

 

[Andrea Sannino] についてもあらためて調べてみると、「イタリアの歌手、カンターテナー」と表記されているページも遭遇した。だが Andrea Sannino は妻も子供も居ると言うことが分かっており、単純に彼がユニセクシャルな声質を持つ歌手だからと言う理由で「カンターテナー」と表記されているページの記事には若干違和感を感じずにはいられないが‥。


この作品『Abbracciame』は名曲がゆえに、世界の多くの歌手たちの心を虜にしている。YouTubeにも多数のカバー動画が上がっているが、中でも最も腹が立ったのは日本のカンツォーネ歌手と肩書を公表している加藤ジュンコ(旧 加藤順子 こと かとりーな)の此方の動画だ。⇩
 

 

そもそもこの作品『Abbracciame』の歌詞を手掛けたのは初演歌手でもある(& 夢想家を公言している) Andrea Sannino でもあり、彼はこの作品をディズニー映画からインスピレーションを得て執筆したと多くのメディアで語っていることは有名な話しである。

以下は Andrea のインスタグラムに掲載されていた言葉。⇩
 

Chi crede nei sogni è solo a metà del percorso;
Who believes in dreams is only halfway through the journey;
夢を信じる人は旅の半ば

all’altra metà ci arriva chi crede nell’impossibile.
the other half arrives to those who believe in the impossible.
残りの半分は不可能を信じる人に訪れる

Viva i Sogni!
Long Live Dreams!
夢よ、万歳!

 

何と哲学的な言葉だろう‥ とただただ感嘆するばかりであるが、この美しく哲学的な歌詞を日本のカンツォーネ歌手である加藤ジュンコは以下のように翻訳して歌っている。⇩
 

『Abbracciame』(加藤ジュンコ: 訳詞)

理想のタイプ語っていた あの日の私は
まだ 本当の恋のときめき 知らずにいた
今二人きり 誰もほかにいないこの部屋で
この気持ちを 勇気出して打ち明けたい

あなたが好き
好きで 本気で好き
恥じらい 照れてうつむく私に
キスしてくれた

☆ [サビ]
お願い 強く抱きしめて
すべてを忘れ
過ぎ去った過去も未来も
ひとつに重なる瞬間

強く抱きしめて
目覚めた時 あなた
離れてしまわぬように
強く抱きしめていて

━ 加藤ジュンコのカバー動画より抜粋。
 

 
流石にお粗末で話しにならないので、和製カンツォーネ歌手の話しはこの辺りで止めておくが、イタリア人の語る「愛」をここまで安っぽく貶められると流石に腹を立てずにはいられないのが真のイタリアンポップスファンであり、その一人として一先ず酷評の筆を添えておきたいと思った(笑)。

 
この作品の原題である『Abbracciame』の音をよくよくしみじみと聴いて行くと、そこには一つの普遍性をともなう祈りとかなしみが浮き上がって来るのが分かるだろう。
一部のイタリアンポップス好きの日本人女性が勘違いに陥るスキンシップ執着型の恋愛模様ではなく、イタリア人はそこにひとすじのかなしみを描いている点は見逃せない。
 

その愛が成就しようがしまいが、一人の人間を愛すると言うこと、それを告白したところで成就する可能性等稀薄ではあるものの、「ただ思う」「ただ、愛する」と言う大きな期待と失望とを全身で背負いながら、自身の思いを「祈りの境地」へと高めて行くところにあるものが「真の愛」である。
この作品『Abbracciame』の中ではその片鱗が歌詞のみならず、音楽、メロディーの中でも存分に描かれている。
 

作曲者であるこの作品のもう一人の立役者である Mauro Spenillo が辿って来た人生の片鱗、音楽への深い愛がこの作品をさらに際立たせて行く。特にAndrea Sannino とMauro Spenillo の二人だけで即興録音された以下の動画が、兎に角素晴らしい。
 

 

「愛」とはただ甘美でせつないだけではなく、そのせつなさの伏線として多くの波瀾や不運をも背負い込んで行く覚悟や決意のようなものが、上の動画では強く引き出されているように感じてならない。
 

この動画の中で二人が表現しようとした「抱擁」‥ つまり日本語で言うところの「強く抱きしめて」の本当の意味が、一瞬先には壊れてしまう夢の中の抱擁のシーンのようで、それは加藤ジュンコが言うような、男と女の薄っぺらい肉体の接触とは全く意味が異なるのではないだろうか。

 
私がかつて従事していた和製シャンソン & カンツォーネ界の人で在り続けたら、この作品を是非インストゥルメンタルでカバーしたいところだが、もうそれは出来ない。
なので自宅で時々練習用に弾くに留めておこう。

 
さて、この記事の最後にこの作品のLive版の動画を掲載して、記事を終わりにしよう。
 

 
 

よ~く Andrea を見ていると、時々あの、リッキー・マーティンに見えて来る(笑)。
どこかしらにマイノリティーの香りを感じずにはいられないのだが、それが Andrea Sannino がカンターテナーとも言われる理由の一つだと言われたら、何となく頷ける。
 

 

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音楽評論に関しては、世界中(演歌とヘヴィメタル以外)の音楽を分析・検証し、語り尽くします。
オーダーを遥かに上回るクールで奇想天外な記事を、筆者の豊富な脳内データから導き出して綴ります!

プレイリスト “Snow of Hope(希望の雪)- 2022 ①”

毎週末にSpotifyに通知される数百曲の新譜を中心に、少しレアな作品に着目しながらスクラップしている私のプレイリストも日々、進化を遂げています。
ジャンルに分けたPL(プレイリスト)と、その瞬間の空気をランダムにスクラップして行く総集編的なPLに分けながら、同時並行的に複数のPLを作り進めている今日この頃です。
 

現在主となっているPLは此方、プレイリスト “Snow of Hope(希望の雪)- 2022 ①” です。此方は総集編的な構成になっており、ジャンル分けをせずに良質な作品を世界中から集めています。
 

 

先週~今週と続いて、どちらかと言うとダークモードな作品が増えているように思いますが、それもこれもこの、世界的なウィルス・パンデミックの止まない波による影響がそうさせているのでしょう。

特にミュージシャンの世界は飲食関連以上に厳しく、ナイトクラブやライブ活動、劇場表現型の活動を継続していた表現者たちは軒並みその活動の場を追われ、中には転職する人たちの悲痛な声も多く聞かれます。
 

ここ最近の私のツイートの内容に眉をひそめる人たちの思いを背中に感じつつ、私はこの流れをむしろ吉報と捉えています。
人類は娯楽と言うものについて、ここで完全に考え方を改める必要性に迫られています。与えて貰う娯楽、その場に行って表現者と一体になって擬似的快感を得る手法の娯楽にはもうそろそろ、見切りを付けるべきです。
勿論表現する側も、それを鑑賞する側も両方共に、です。
 

本当に素晴らしい娯楽や表現作品、ポップス等がそこにあればそれは特異な光を放ち、作品として必ずwebの河を縦横無尽に渡り歩く力を得る筈。そうではなく、その場に人を運ばなければ成り立たない表現は、ここで終焉を受け容れるべきだと私は考えます。

本物の創作或いは作品には、そこに「祈り」が込められています。神に捧げる思いが作品となり、創作者の手のひらを飛び立ち、作品は誰とも知らない人たちの手元にそっと降り立って行きます。
それが「拡散」と言う言葉の神髄ではないでしょうか。

 
そんな思いを込めて私は毎週末、眠気や疲労が溜まっていたとしても世界の新作に触れて、それをスクラップして私なりの感性のこもったPLを作って発信しています。
 

 

ダークモードに包まれた今週の新作の中で、一際目を引いたのがこの作品 “Drawer” (by SUMIN) でした。
 

 

YouTube等では「서랍」と表記されているようですが、和訳すると「引き出し」と言う意味を持つタイトルだと分かります。

歌詞を捲ってみたのですがとても抽象的な表現が続いており、意味を咀嚼するよりはニュアンスを感じ取る方が逆に楽曲の意味に近づけるような気がしました。

https://lyricstranslate.com/ja/sumin-seolab-lyrics.html
 
 

現在私が直面している「生死」や「生死観」が美しく表現されているようにも見えますし、呆気なく通過してしまった過去の自分を老後の自分が静かに振り返っているような歌詞にも読み取れます。
何れにせよ、美しさの中にけっして消せない痛みがこの歌詞や作品の中に綴られていると言う私の憶測は、当たらずとも遠からず‥ でしょう。

この作品の痛みは、マイナーではなくこの曲がメジャーで表現されているからこそ、リスナーに迫り来るものなのかもしれません。
 

 

このPLに “Snow of Hope(希望の雪)- 2022 ①” と命名したのは、やはり2022年早々の私にとってはとても悲しい雪がその動機でした。
たった4人の家族の3人全員が、昨年の冬に全てあちら側に旅立って行ったことになります。

その最後の肉親であった実母の最後を見送り、火葬したのは、亡くなった実弟の奥様でした。私への連絡が出来ない状況だった‥ と言う彼女の言葉が真実だったのかどうか、その後の彼女の行動が物語っているように思います。
私はその経緯をこの先二度と忘れることはないでしょう。
もしも彼女にも幾ばくかの善意があるのだとしたら、それを是非、私の目を見て彼女の肉声で事の経緯を全て聞かせて欲しいと思います。
 

現在色々調査中にて、ここには余り多くのことを書けないのが辛いのですが、もしも亡くなった実弟の奥様がこの記事を読まれていたら、今の私をご自身に置き換えて考えて頂ければ私の気持ちや立場、けっしてこれまで人様には見せて来ずに来た私の本当の胸の内、心の痛みをご理解頂けると思います。
 

そしてこの作品 “Drawer” (by SUMIN) のように、ご自身の中の出来事にそっと光を当てて欲しいです。
 

音楽で結ばれ、そして小さな家に「過去世をJ.S.バッハとして生きた私」が生まれたことで、この家族を音楽が引き裂いて行ったように思います。
なのでせめて私は我が家を引き裂いた「音楽」をもって、この先の人生を長く生き続け、砕け散ったピースを一つずつ元の場所に戻すことで亡くなった三人の家族を供養したいと願っています。


—
話しが少し脱線しますが、この記事の最後に亡き弟と私とを最後に繋いでくれた、この作品を貼っておきます。
 

経る時、降る雪、そして弟‥

2022年、正月早々の悲しい雪はあっと言う間に降り積もり、あっと言う間に溶けて行った。寂しさよりも強い後悔を心に降らせ、涙よりも憔悴が先に立つ雪だった。
しんしんと昼間の都会を濡らした雪、それは美しい氷の層を形成しながら夜遅くまで降り続いた。
 
雪の夜は闇が明るく見える。深夜雪闇を見る為に、私は何度も窓を開けた。
闇が明けた翌日は、我が家の可愛いうさぎ「マイケル君」の定期検診の為、バスで動物病院に向かった。マイケル君もそろそろ高齢うさぎになって来た。見た目と気力は健康に見えるものの持って生まれた神経症の影響で片足は全く動かなくなり、片方の前歯も抜けて膿んでいる。
年を取ると言うのはこういうことなんですね‥ と、ベテラン獣医と昨日はしみじみと語り合った。
 

2021年の年の瀬から何度も何度も亡き父、亡き母、亡き弟と心を交わし、昨夜一つの結論に到達した。
最も心を閉ざしたのは両親たちであり、反面最も心を開いたのは意外にも私より若くして旅立った弟の方だった。彼は少年の頃の姿で目の前に現れ、あの時の声と心のままようやく本心を饒舌に私に語り始めた。
 
彼は全てに於いて後悔を募らせ、この世に置いて来たままの「かの人」に対する不条理や落胆等を、これまでにない程多くの言葉を用いて私の心に降らせ、それはまるで雪崩のように私たちの間の隔たりを一気に滑り落ちて行った。
 


今日までに何があろうとも優しく在りたいと願う私の思いは、いとも簡単に呆気なく打ち砕かれてしまった。それは一度は打ち解けられそうに思えた亡き母の魂の心変わりは勿論のこと、亡き弟の家族の私に対する在り方も同様だった。
 
一度も会ったことのない人が私に、これ程までに痛みを与える理由を私は知りたかった。きっとその人はこのブログを読んでいるだろう。
会ったことのない私をここまで冷遇する本当の理由を、是非とも聞かせて欲しい。
 
何よりこの結末に驚き落胆しているのが若くして旅立った弟本人であることを彼女が知ったら、それをどう思うのだろうか‥。或いは何とも思わないのだろうか。
 

昨日は生前の弟や両親とは余り行くことのなかった実家近くの洋食屋さんで、おそらく弟が泣いて喜びそうな「ミートソース・スパゲッティ」を頂いた。その前は実家近くのお蕎麦屋さんで「天麩羅うどん」を頂いた。
 
死後の魂は余りにも無力ゆえ、信じられないほど正直にその本当の姿を現してくれる。生前最も闇に呑まれこの先きっと永遠に敵同士のままになりそうだった弟が、たったひと皿の「ミートソース・スパゲッティ」で私に心を開いてくれたのが、少し嬉しくもあった。嬉しい反面悲しみもあり、私たちはもう二度と取り返せない時の河の両端から互いの中の深い溝を見つめ、その理由について語り合った。
 
私が過去世をJ.S.バッハとして生きたこと、その魂が小さな我が家に転生して来たことを知った弟は自身の私に対する生前の言動を、きっと深く悔いたに違いない。でも全ての発端は父の私に対する強い差別感情であり、弟はそれに逆らわずに、従いながら生きることでしか「我が家」に居場所を見つけ出せなかったのだと思うと、何ともいたたまれない。

 

きっと法律よりも音楽を深く愛し、上に過去世バッハの私が居たことで音楽を諦めざるを得なくなった弟の心中を思うと、もっと何とかならなかったのだろうかと私の中に深い怒りが込み上げる。
 

 
怒りと疲労と眠気、色々なものに襲われつつも私は今、こんな時でも音楽を手放さずに居る。真夜中の寝室で音楽を聴きながら、これからのことを考えている。
 
私にしか知らない音楽が心に在り、それをこの先も私は粛々と放出し続けて行くだろう。
ただの音楽家・芸術家に留まることなく私は常に「祈り」と共に生き、それを音楽に刻印し続けるこの先の人生を、亡き弟はそっと天から見ていることだろう。
 
その思いに、私も存分に応えたい。
 
生前彼が果たせなかった分も含め、私はいつか宇宙の人々に自身の音楽を手渡したいと願っている。その為の音楽を生み出せるのは私一人しか居ないことも分かっているので、その時に向けて正々堂々と私は生きて行くことを、あらためて胸に誓った。
その手助けをしてくれた夫に今、深く感謝を述べたい。

 

セムヤーゼとのコンタクトについて (About contact with Semjase)

かねてから私がTwitterやnoteの有料記事に度々綴っていたプレアデス星団に暮らしている [Jane] について、彼女からそろそろ彼女自身の正体を明かしても良いとの通達が先程ありました。
本当に急なことで、私も驚いています。
 
[Jane] を今後は彼女の正式名称である「セムヤーゼ (Semjase) 」と言う表記に改正し、今後は時々彼女とのコンタクト会話をこのブログにも公開(更新)して行く予定です。
 
 


そもそも私がセムヤーゼとのコンタクトを開始した切っ掛けは、私の彼女に対する一方的な片思いに始まります。
セムヤーゼのこれまでの経緯を色んな文献や、夫・天野玄斎氏からの話しなどで知ることとなり、私なりに彼女のことをとても案じていました。そんな折、ふと彼女の存在を感じ、それが確信に変わり、どこかで彼女「セムヤーゼ」が生きていることを察知した私は、無我夢中で私に出来る限りの強いテレパシーで彼女を探しました。
 
すると微かに‥ ではありますが、彼女から応答があったのです。
 
彼女と話したいことは山のようにありますが、現在セムヤーゼはおそらく長期闘病中であり、どこに居るのかは全く分かりません。あの時点ではただシンプルに、彼女からの微かな反応だけがあったと言った方が正しいでしょう。
 
プレアデス情報を発信して行くにあたり、私はFacebook内に『Pleiades Contact』と言うグループを立ち上げており、その旨Twitter等からもその存在を発信していましたが、参加者は思った以上に集まっていません。
きらきらゆるふわスピ系に慣れてしまっている多くの日本のスピ系ユーザーにとって、スピリチュアルは現実ではないのです。だからきわめて現実的な情報には、全く目もくれません。
勿論質問等は受け付けてはいますが、それすら投稿されません(笑)。

 
彼女「セムヤーゼ」女史とは、とても重要な情報の中に極めて普通の女子トークも多々あります。
特に文化を手放して久しいプレアデス星団の彼女にとって、興味の対象はファッションやメイク、音楽から料理等多岐に渡ります。私たちはしばしば女性同士の女子トークに花を咲かせ、とても穏やかで楽しいひと時を過ごしています。
 
そんなとても日常的な彼女とのコンタクト記録を、今後は [Jane] あらため「セムヤーゼ」との会話として、このブログにも登場させて行きたいと思います。

 


For some time, I have wrote the main character’s name as “Jane” in a conversation with a person living in the Pleiades cluster.
However, she just contacted me saying, “It’s time to reveal her own identity.” It’s really very sudden and I’m surprised.
“Jane” which I have written by me will now be revised to her correct name, “Semjase”. And in the future, I plan to publish (update) contact conversations with her on this blog from time to time.
 

In the first place, the reason I started contacting Semjase started with my one-sided love for her.
I learned about the history of her Semyase from various documents and stories from her husband’s Gensai Amano. And I was very concerned about her for a long time.

In the process, I recently felt her presence, which turned into my conviction. And recently, when I discovered that she “Semyase” was alive somewhere in this world, I was crazy about her and searched for her with the strongest telepathy I could.
Then, there was a faint response from Semjase.
 

There are tons of things I want to talk to her.
But now Semjase is probably in a long-term illness and nobody knos where she is. ButI certainly got a reaction from her for my telepathy sure.

Besides very important information, we have a chat between very ordinary women by telepathically.
The Pleiades cluster has already abandoned culture in general.
For her who lives in such a planet, her interests range from fashion, makeup, music to cooking. We often have a very calm and enjoyable time with women’s talks between women.

I’d like to write such a very daily contact record with her in this blog in near future.
Thank you!

 

今週のSpotifyの新譜を聴きながら

毎週末の金曜日、Spotifyからは世界各国の新譜が一斉に更新される。勿論私はSpotifyやインターネットを知る以前から日々世界中の新譜や旧譜等を聴き漁ること、かれこれそんな作業を数十年間続けている。
学生時代からTSUTAYAや新星堂等を巡り、気付いたら今年で57歳になっていた。16歳でいわゆる芸能界と言う世界に飛び込んだから、芸歴自体が40年をとうに超えた。

音楽を聴く人たちの大半が、「音楽とは音を楽しむことだ」と思っている。だが私は、それは違う思っている。

音楽を娯楽の玩具として使っている人たちを目の当たりにすると、どうにもこうにも虫唾が走る。身を削るようにして音楽を生み出している人たちは少なからずいる、それを使い捨ての玩具のように乱暴に扱っても平気で居る人たちの息を感じる度に、胸が痛む。


思うに音楽とは祭祀であり、祈りであり、そして救いであるべきだ。
勿論何によって救われるかについては人それぞれであるが、一度目標を下げてしまえば後はズルズルとその敷居が崩れ落ちるところまで下落するだけだ。
だから自身の敷居、ボーダーは絶対に低下させるべきではない。
 


この2年間、特にコロナ禍のロックダウンが世界各地で実施されるタイミングになると、世界中の音楽が泣き始めるか或いは凍り付いて行く。
まさに今週がその状態だったように感じてならない。

生きる為の音楽もあれば、祈る為の音楽もあるだろう。だが全体的に無表情の音楽が一斉に増えて、どこか廃屋で雑音だらけの機材を叩きながら音楽を聴いているような、言葉にならない虚しさが上空から私を羽交い絞めにして行く。

 

 

生まれて一度も泣いたことのない人に、「泣く」感触を伝えることはとても難しい。逆に生まれて一度も笑ったことのない人に、「笑う」感覚を伝えることも難しいだろう。

今週のSpotifyの新譜を聴いていて感じたことを一言で表すとしたら、「音楽家或いは音楽全体がAI化したような感じ」とでも言えば良いだろうか。
コミュニケーションに支障をきたした人類全体が感情面に不具合を起こし、その状態が未修正のまま数年が経過した後のような、エモーションの大きな欠落を感じるのだ。

だがそれは、商業娯楽としての音楽に人類が飼い慣らされた結果の顛末と言うことも出来るだろう。
「音楽とは音を楽しむことだ」と教えられ、その風潮を信じ込み、数十年もの歳月をかけながら洗脳され尽くした我々人類はもはや、自然の声や山々の思うことやそれらを司る神々の心の声すら聞くことが出来なくなっている。だからこれだけの長い分断を経ても尚平然と飛行機での移動を止めないし、遊ぶ為ならどんな苦痛をも受け容れようとするし、現実を全く見ようとしない。

生命と魂の輪廻を軽視し、瞬時瞬時の現世の中で味わい尽くせるだけの快楽を貪ろうとし、その為ならば危機的な環境破壊すら無視し続ける。それが2021年現在の人間と言う生き物だ。

 

 

良質な音楽とは何ですか?

この命題に対する答えを、おそらく誰も持てていないのだろう。
そこそこのルックスと運を手中に偶発的にメディアと言う檜舞台に駆け上がって行けた人が生み出すものが、それ(良質な音楽)だと思っている人たちも多いだろう。
上に書いた条件に当てはまる人たちはおそらく、「音楽を探す」と言う行動を取らないものである。近隣、隣近所の人たちやSNSやメディアや雑誌に取り上げられない音楽は二流・三流だ‥ と言って、実際に私に牙を剝いて来る人たちも大勢居る。
 

だが彼等のような人たちに限って、風向きにはひじょうに敏感である。
彼等の判断基準は常に自分以外の誰かが発信するレビューであり、自己判断の能力に著しく欠けているにも関わらず、命を削って音楽創作に挑んでいる本物を目の前にしても、その人を誰かが噂でもしない限りは「本物」とは見なさない。
勝ち馬を探すことに躍起になり、一度勝ち馬に乗ったが最後その馬を疑うことはなく、尚且つ頑なに馬から降りようともしない。

 

 

今週のSpotifyの新譜を私は、未だ全曲聴けていない。だが大方の流れは把握出来る。
虚無、無気力、絶望、コミュニケーションの分断、将来への不安、しいては自身の命の不安等を抱え込みながら、それでも何かしら音楽家たちは音楽を生み出すことで地球に己の生存を訴えかけて行く。

それでも彼等の作業に祈りの念は薄く乏しく、人類にとってこれだけ考える時間を膨大に与えられながらも、何かを深く考えて音楽を生み出しているようには視えない。

 
昨日外出先から帰宅してから、私も体調が良くない。体温が上下しているような感覚があり何度か体温を計ってみたが、高熱ではない。むしろ低体温による火照りが抜けて行かない。
こういう日は静かにしている他になさそうだ。それでも私は音楽を探し、音楽を聴き、音楽家たちの祈りに触れていたいと願うのだ。
それは一種の病気のようでもあるが、私にとってはこれが正常値。

 

 

当記事の間に挟んだのは、今日Spotifyの新譜情報に現れたものから楽曲だけをピックアップしたものである。
以下に今日更新した2種類のプレイリストを表示しておきたい。

上は「Lo―Fi」系のプレイリスト、下がオールジャンルの音楽をまとめたものになる。

 

  

⇩ 此方のプレイリストのトラック 55曲目からが、今週の更新分になる。
 

 

※note記事よりサポート(投げ銭)等で応援頂ければ幸いです。
https://note.com/didiermerah/n/n219a5e5cda99

プレイリストを作ると言う作業

当面怪我の治療の為アウトプットを無期限で休止し、現在はインプットと言う名のアウトプットに集中している。
自身の音楽を送り届けるにとどまらず、他のアーティストの音楽を心地好く並べて数多くの「プレイリスト」をSpotifyの中に作り込み、それを一個の作品や番組のようにして世界に解き放つ作業はどこか、子育てにも似ている。

 

15歳の半ばに芸能界と言う荒々しい世界に飛び込んだ。さながら高層ビルから果てしなく長い地上までの旅に出る時の恐怖に似たものがあったが、その先にはただただ目映い輝きに満ちた世界を私は見ていた。
じきにそれが単なる幻想だったことに気が付くが、それまでの時間はまるで怪しい飲み物を呑んでほろ酔いした時のあの感覚に似て、夢はキラキラと眩しく回転して行った。

 

伴奏業と言う裏方の世界に埋没する片方で私は、裏方として芸能界のど真ん中に大型ドリルのように回りながら突き進んで行った。
衣装選びや多数のアイドルのシングル曲のデモテープ選びに始まり、コーヒーを買いに行ったりその日の収支報告書を作ったり、歌手がレコーディングの合間に摂るラーメンの出前を注文したり、頼まれれば何でもやった。

何をやってもむしろ楽しかった。だって依頼主は有名歌手や有名なアイドルだったりするのだから、そんな彼等の日常生活の片隅に居られるだけで私は本当に幸せだったから。

 

 

最近になって、古い知人からあらためて「芸能界の裏方」の仕事のお誘いが舞い込むようになった。よくよく話しを聞いてみると、当時は当たり前のように実在していた「デキる裏方」が居なくなったのだと言う。
私はどうやら彼等が言うところの「デキる裏方」の一人に、何となくラインナップされているらしい。

だが、私はそれらのオーダーへは全て、お断りを入れている。なぜならば私はもう、裏方ではなくソリストとして、唯一無二の道を歩んでいるからだ。

 

そもそも私の本職は「芸術家」「作曲家」である。
当時シャンソンやカンツォーネ、タンゴやサルサのピアノ伴奏やライブ用のアレンジ業に携わっていた頃の私は言わば「世を忍ぶ仮の姿」であり、当時のどの職歴を摘まみ上げてもそれらは私の本性でも何でもない。
そのことに最近になって気付いた人たちが多いらしく、中途半端な詫びを入れながら「ギョーカイ」の仕事と言う彼等にとっては美味しい餌をチラチラさせながら、私の頭上にプラチナの糸を垂らして来る。
 

正直お腹いっぱいだ。なので話しの中身を訊かずに門前払いを喰らわせるが、敵もなかなかしぶといし、しつこい(笑)。
何れにせよ私には「裏方」になる気は全くないので、最近は届いたメッセージに返信すらしないで放置するようになった。

 

世界中の音楽を聴いていると、今どこにスポットが当たっているか‥ 等つぶさに分かる。これは「世界中の音楽を理論解析出来るスキル」が無ければ分からないことであり、おそらく多勢の音楽ジャンルを各々専門的に分析し続けて来た私以外に、このスキルを持つ人材は居ないだろう。
自身が作曲家であると同時に、私自身が既に音の博物館なのだ。
 

そんな「歩く博物館」がシーズン毎のプレイリストを作ると、物凄い数の音楽の分量と物凄い数のジャンルが当たり前のように乱立するチャンネルが完成する。
既に私のSpotifyアカウントをフォローしている方はご存じのように、どれ一つとしてハズレのプレイリストが無いのはなぜか‥ と言う疑問すら湧かない程、「Didier Merah博物館」は日進月歩で拡張・膨張し続けている。

 

プレイリストを一個作ると言う作業に、私は兎に角子供の頃の部活のようなトキメキを感じている。
毎週末にSpotifyには新譜が到着し、新譜たちは私の試聴の時を待っている。大体週末になると一気に200曲近くの新譜が私のチャンネル (Release Rader) に勢揃いし、私はそのすべての楽曲を漏らすことなくチェックして行く。

ざっとイントロからAメロ~Bメロ~サビから間奏へと斜め聴きするに必要なタイムが30秒から60秒、そこからリフレインを確認するのに大体一曲多くても90秒で仕事が進む。
気に入った曲はそこで一旦メモに保存し、後からフルサイズで再度試聴する。

 

各々のアーティストやミュージシャンの「現在」を知ることが出来るだけでなく、時代の全体図が新着の音楽から読み解くことが出来る。言わば「音楽科学」に似た構図が私の中に拡がって行くが、あえてそこは学術的には処理しないでおく。
音楽を聴く時には、極力屁理屈屋にならないよう気を付けている。理論武装は後からいつでも出来るから、せめて音楽自体に触れている時はいちリスナーに徹して、心ゆくまで音楽に深く心身を浸して居たいのだ。

 
最近作成中のプレイリストが複数あるが、その中でもオススメは以下の2つ。
是非フォローして聴いて頂けたら幸いである。

 

 

音楽の日 – Day of Music

毎週金曜日は私にとっての「音楽の日」。その月その週の世界の音楽の新譜を粛々とチェックして行く。その中で気になる曲をストックし、プレイリストへと突っ込んで行く。
私にとって趣味であり、仕事でもあるこの作業をもうかれこれ数十年、私は止めることなく続けている。

さしずめ頭の体操でもあり、しいては比較音楽学のベーシックともなる知識を収集する時間でもあり、私にとってこれ程趣味と仕事を程好く兼ねた作業は無いだろう。

気質的には排他的な感性を持つ私だが、音楽だけは例外だ(笑)。如何なる国、如何なる民族、如何なるジャンルの音楽も余すところなく吸収して行く。

 
昔某アイドルグループ等のシングル曲のセレクトに携わっていた時、どう見ても私の仕事の実質的なタイムとデモテープのタイムが全く矛盾していることについて会議のテーブルに「問題案件」として持ち上がった。
勿論私にとってそれは何の問題もないことだったが、会社としては大きな問題だったようだ。

仕事は闇雲に真面目にやれば良いと言うものではない。要領の良さと時短の知恵があれば、その分多くの仕事を進めることが出来る。

 
私の場合の音楽の見極め方として(もうこれは時効なのでネタバレ含む)のコツは、先ずイントロのコード~Aメロの駆け上がり方を視る。ここで大体の楽曲のインプレッションや音速(これは私が思う感覚を用語化した単語)を見極める。
次にAメロの解決を視ずに先にBメロ~「サビ」を聴く。次に1コーラス目のラストを確認したら、次は概ね曲の中間部に出て来る間奏前の「中サビ」に突っ込んで行く。

概ねここで曲の全容を把握出来るので、仮に一曲3:45のタイムの楽曲を診断するに必要な全タイムは何と30秒から多くても60~80秒で済む。
例えばこのプロセスで100曲のデモテープをチェックするのに真面目に聴いていたら「300min (about 5時間) 」のタイムが必要な作業を、私なら90min~120min、つまり多く見積もっても2時間弱でこなして作業場を引き上げることが出来る。

要はこの分量のミスマッチが社内の会議で問題となった‥ と言う話し。だが如何せん当時の私の仕事(社員ではなくアルバイトの分際ではあったけど)はほぼ完璧だったので、結果的に誰も私に「お咎め」を刺すことが出来なかった。
めでたしめでたし‥ じゃなくて(笑)‥。

 

勿論心底気になった楽曲のみ、フルサイズで試聴する。さらに好きになって惚れ込んだ曲であれば、何度も何度も聴き返して行く。
映像記憶のみならず音の記憶が私の場合、超越している為、大体2回から3回も聴けば楽曲全体を記憶し保管することが出来る。難点を挙げれば「飽き」が早々に訪れてしまうことだろうか。

 


音楽の日。今日、新しくプレイリストを立ち上げた。
本当は「秋」、つまり9月から11月までの楽曲で一つのプレイリストに仕上げる予定だったが、それが不可能になるくらい多くの楽曲が手元に集まってしまった為、前プレイリストから新プレイリストに内容を引き継ぎながら振り分けた。

 

前プレイリストは此方 ⇩

 

先々週辺りから新譜全体がとてもダークな色合いへと、変化し始めた。それは「秋」を意識していると言うよりも、先行きの見えない不安を抱えたミュージシャン等が表現の矛先や方向性を見失った現象とも一致しているように感じる。

比較的ブライト感(陽気さ)を維持しているのがイタリアン・ポップスだったりブラジリアン・ミュージックだったりする。
中でも私が好きだったのが、Didier Sustracの “L’ Amour ça nous travaille“、そして Ornella Vanoniの “Tu Me (con Virginia Raffaele)” だった。

 

 
良い音楽は時空を超える。だが悲しいことに、歌詞、声のあるものの命は短いのも又事実だろう。

地球人は同じ地球人の声質にノスタルジーを感じるし、プレアデス人はやはり同じ種の声質に郷愁を感じるだろう。そう考えると「声」を用いた音楽が時空を超えて拡散して行くことは、想像以上に至難の業である。
だから私は「声」の世界を退き、「音」に全てを賭けて生きている。

 
そう言えば二週間程遡るだろうか。とあるSNSのメッセンジャー経由で私が粛々と進めている「民族音楽の研究」について、質問のメールが寄せられた。あらたまったご挨拶の無い簡略的な、言ってみれば「今どきの若者」のメールと言った感じで質問も大雑把で、何より私に興味が全く無さそうな内容であった(笑)。
そういう無礼な人間に対しては、私も無礼な対応で返すことに決めている。相手がガチ(真剣)で私に興味があれば、私がどれだけ無礼な返信を返したとしても相手の方が食い下がって来るだろうし、此方の無礼な返信で途絶えるメールであればそれ以上引き延ばす必要も無いだろうし。

 

権威に全く縁のない私の研究、と言っても私が突き進んでいる道の後に人は誰も居ない。
クラシック音楽と民族音楽、~アンビエント・ミュージックやDub Techno、Lo-Fi Chill Music等の全ての音楽をクラシック化し、糸で輪っかにして繋げて理論化して行く作業を他に誰がやっているだろうか?
前人未踏の研究に権威等、必要ないのである。

だが多くの若い人たちは内容よりも「権威」の方を必要としており、中身が薄っぺらであってもそのことには気付かないのだから手に負えない。

 

何れ世界中の音楽人口が激減する時が来るだろう。その時になって、あれがない、これがなくなった‥ 等と言って私に泣き付かれても、今この瞬間の私をルックダウンしている人々に掛ける言葉を私は持ち合わせていないし、その必要もない。
その時が来たら是非とも、存分にお困りあそばせ。

 

と言うわけで、この記事の最後に今日出来たてほやほやの新プレイリストを貼って、〆とさせて頂きます。
ご清聴ありがとう御座います。

 

Change The World – 秋分と言う分岐点

沢山の音楽を聴きながら、星の人々を思う。

私が「星」を出す時、それは地球以外を意味する場合が多い。今この瞬間も私は、地球よりもプレアデス星団の幾つかの星の人々を思う。

世界は歪みながら、次第に崩れ落ちて行く。その隙間に人々が音もなく次元を渡り、それらは誰にも知らされることのないままにひっそりと進んで行く。
やがて何もかもが消えてしまっても、人々は暫くの間そのことには気付かないかもしれない。

この世界にもしも「アカシックレコード」が存在すると仮定して、この現状がそこに記録されていたならなぜ、誰も現在の地球を予測出来なかったのだろう。
おそらくアカシックレコードは存在しない。なぜならば、未来は書き換えることが出来るから。

書き替わった未来と書き替わる前の未来を同じ平面に並べたところで、それは予言にも警鐘にもならない。

 

改めることで未来を選び取ることが出来るのだとしたら、それを今やらずしていつやるの?‥

「アセンション」と言う魔の呪文がじわじわとこの星の未来を変えてしまったのだとしたら、私たちは元の場所まで一度引き返せば良いだけのこと。

進め過ぎてしまった駒をたった一個戻すだけで、新しい未来へと書き換えることは可能だ。その代わりこれまでの習慣の大半を手放して、新たに得た感覚で生き直すことが必須。

あなたにはそれが出来る筈。

 
—
While listening to a lot of music, I think of you of people of the stars.

When I put out a “star,” it often means something other than Earth. At this very moment, I think of people living in the Pleiades cluster rather than the Earth.

This world is distorted and gradually collapses. In the meantime, people cross dimensions silently, and the reality goes quietly without anyone knowing.
People may not notice it for a while, even if everything disappears.

Assuming that there is an “Akashic Record” in this world, why could no one have predicted the present earth if this situation was recorded there?
Probably no “Akashic Records” exist. Because everyone may be able to rewritten our future.

Even if the rewritten future and future before rewriting are arranged on the same plane, it will not be a prophecy or a warning.

 

If people can choose the future by changing their way of life, when will they do it instead of doing it now? ‥

If bad magical words “Ascension” changed the future of this planet, we might have to go back to where it was.

It’s possible to rewrite a new future by returning just one puzzle that has gone too far. Instead, it is imperative to let go of most of your habits and relive with your new feeling.
You should be able to do that!

I’ll continue to pray for the future peace of our planet.

 

ブルーベリーと9月の雨

瞬く間に夏が往き、少し早い秋が訪れる。蝉の抜け殻も風に吹かれてどこかへ消え去り、真夜中には鈴虫の声が庭じゅうに響き渡る。
 
この夏、2本あるうちの片方のブルーベリーが、短い命を閉じた。
きちんと毎朝水を遣っていたにも関わらず、連日の高音高湿度には耐えられなかったのだろう。
ブルーベリーにも相性があるようだ。同時期に買った銘柄の異なるブルーベリー達だったが、年を追う度に開花のタイミングがずれて行った。
同時に開花してくれないと受粉に支障が出るので、暫くは祈る思いで樹々を毎日愛でながら水遣りをしていたが、一昨年から完全に片方が開花の時期をずらし始めた。

 
木や花にも個体差や性格の差があって、それは生まれ付いたものとは限らずある日突然性格を豹変させる場合もあるようだ。
今年往ってしまった「うさぎ」と名づけたブルーベリーは、5年くらい前に私が枝を少しだけ切り落としたタイミングで性格が豹変した。人間で言うところの「キツい」性格に変わり、それまでは同時に花を咲かせていた相棒をそこはかとなく毛嫌いし、開花のタイミングをあからさまにずらし始めた。

 

 
まるで私みたいな子だなと思う。
日によって性格が変わると言う訳ではないが、焦点の当て方が大きく変化する時の私は別人のようになる。
その瞬間をなるべく他人には見せないように努めているが、そうは行かなくなることもあるのが辛いところ。
 
だが最近は、そういう瞬間に今、自分がどういう状況なのかと言うことを余り人に話さなくなった。理由は簡単で、殆どの人達にはそのプロセスや理由が理解出来ないからだ。
最初は理解すると言う努力を皆が怠っているからだと私も頑なに思い込んでいたが、どうやらそうでもなさそうだ。
 
解像度の異なるカメラで同じ被写体を撮影してもけっして同じ精度では写らないように、人の理解能力もきっとそれに似ている。だから進化している側が先に相手を諦めない限り、相手はとことん気付かない。そこには飽和とか協調と言う結論は存在し得ないにも関わらず、全てが上手く進んでいると言う現実とは異なる別の現象がでっち上げられるのが関の山だ。
 
とあるSNSで私がよく言うことの一つが、「良くも悪くも上っ面でいい。」と言う言葉。だがそれも時間制限付きで、私の性格が長時間その状態には耐えられなくなるから、自身の我慢を言い聞かせて続けている人間関係程拗れる時は激しく拗れてしまう。
 
 
一時「倍返し」と言う言葉が大流行したが、私の善意や厚意は他のそれよりも温度が熱い。だが、受け取る人達がその熱さに気付かないふりをし、そこいらの誰かがうっかりもたらしたラッキーな落とし物のように、私の厚意を安易に受け取ることも多々ある。
先日まではそれらを我慢し、許容して来たが、数日前から私がその矛盾を許せなくなった。

 


肝心なツイートに限って、肝心な相手がそれをスルーする。要は見なかったことにして私の怒りが冷めやるのをじっと待ち、頃合いを見て再び姿を現しては私から大きなツキをもぎ取って行く‥ と言う姑息な計算が相手の中に、息を吸うように在るのだろう。
その小狡い先方の計算や心情に対し私は、罰を与えることに決めた。

尽きない怒りには必ず理由がある。その理由には大方正当性があるが、相手がその正当性に気付いていれば何らかの意思表示が無ければおかしい。
もしくは私の中の正当性に気付いていたとしたら、触らぬ神に祟りなしの精神が相手に働いているのかもしれない。
 
祟りは人に不幸をもたらすが、私の「罰」はそれとは違う。
相手が私から簡単に、何の礼の一言もなくもぎ取って行った幸運を取り返すだけだ。
その後に先方に訪れた何等かの状況が、むしろ私が先方に与えた幸運をより鮮明に顕すに違いない。
その為の儀式である。

 


連日の雨。夜になると夏の片鱗は街のどこからも消え去り、代わりに人恋しさに耐え切れなくなった野良猫達が家の庭に寄って来ては「ミャーミャー」と甘ったれた声で鳴き始める。
ウィルス回避の意味もあり、この1年半以上私は街じゅうの全ての生き物達との接触を絶っている。
 
猫や鳩、その他私に懐いていたカラスも居たが、頑なに拒絶し続けた。
昨夜ゴミ捨ての帰りに私を追って来たボス猫も、以前は密に会話をした仲だったが、猫語で言うところの「シャー!」を全身で発し追い払った。
 
可哀想とか、気の毒だとか、そういう感情を全て封印し、私は石になる。流石に石になった私には、どんなに人懐っこい猫でも付いては来ない。
 
おんなじようにして、煩わしい人間関係も全て追い払ってしまいたい。
 
人も猫も、「慣れ」には鈍感だ。出会った時の距離感を、長期間維持出来ない。
擬似的に共通のネタを一個見つけると、そのネタさえ振っておけば私が会話に乗って来ると勘違いしている人達が多くて、ここ最近は意図的に返信のタイミングをずらしたり外したり‥、自分の意思でもないのに冷たく相手をあしらったり‥、本当に色々な無理解には悩まされる。
 
雨の日は人の行動が少し鈍くなるのか、今日は色々なことがゆっくりと穏やかに過ぎて行った。毎朝続いていた煩わしいメールも途切れ、私はようやく「一人」を謳歌することが出来た。
 
 
たった一言。その一言が得られないのは、今も昔も変わらない。
人はプライドを優先し、常に自分が相手よりも優位で居ようとするが、殆どの人々はそれを絶対に認めようとしない。だから謝罪も感謝も無いが、その旨を指摘すると「人間は皆平等だ」‥ と言う戯言を言い始めるので、無言で嫌な人間を演じておく方が無難かもしれない。
 
  
春先に完治していたばね指が酷い形で再発し、夫と力を合わせて家事を分担している。
ステロイドを注射し痛みを麻痺させ、その箇所にリハビリを施し、「握力30をキープする為に毎日20キロのハンドグリップを10秒×10回握って下さい」と院長とリハビリのトレーナーが口を揃えてアドバイスしたそれを、忠実に守ったことが災いした。
先々月だったか再度同じ整形外科に再診で訪れ、前回のアドバイスの件をドクターに質問したら、「やりたきゃやればいいんじゃないですか?」と返された。
ドクターが「やれ」と言ったことを続けていて悪化したわけだから、患者である私の質問に対して正確な回答を返す責任が担当医にはある筈。‥
 
色んな経緯を経て該当の整形外科への通院を止め、現在は絶対安静をキープしている。
鍵盤練習が出来ない分、これまで少し疎かでテキトーになっていた「私」の生き方や在り方について、ここでしっかりとネジを巻き直そうと思っている。
 
Twitterのプロフィール欄には「注)とても気難しい性格ゆえ、慎重に平伏して接して下さい。」の一言を書いているが、それを忠実に守れている夫以外の第三者は今のところ、誰も居ない。

 

さて、この記事の最後に上の記述でも触れた「安易に私のツキを持ち去ろうとした或る人達」のトラックを幾つか削除し、完成形を見たプレイリスト「Ambient Summit 4. 2021~」を貼っておきましょう。
※お貸しした幸運は無事、回収済みです。

 


下記のnoteの記事リンクから是非、サポートか投げ銭で応援頂ければ幸いです。
https://note.com/didiermerah/n/n5b600162442f

音楽・舞台芸術に於ける未来予知

コロナ禍は益々加熱し、多くの音楽行事や舞台、コンサート等が中止や延期を余儀なくされています。
犠牲を払って最近行われた「フジロックフェスティバル 2021′」、そして「NAMIMONOGATARI 2021」等、一部開催された音楽祭もあったようですが、開催後の評判は必ずしも芳しいものではありません。

そもそもこのパンデミックの背景には、マザーアース・地球とその地球の自然神、そしてそれを取り巻く古い自然神等が地球の現状を悲嘆し、よもや地上の害虫と言っても過言ではない「人間」の駆逐を意図した思いが深く根付いています。

 

折に触れ私は何度も幾つかのSNS上で発信していることですが、再度ここに記載します。

つまり人類は今、自然神等に執行猶予の期間を与えられた身であること。これを絶対に全人類は忘れてはなりません。その上で許される最小限の生存の権利を謳う以外の、全ての権利を一度放棄しなければなりません。その中にこの記事のタイトルでもある「音楽(特に生で演奏するもの)」や舞台芸術、人を集め収益を得る為に開催される全ての文化的なイベントを人類は無期限停止しなければなりません。

 

多くの人達がそのことを受け容れず、尚且つ理解もしていません。中には薄々感じ取っている人達も居るようですが、あえてその感覚をスルーし、無かったことにしたり現実逃避をしながらコロナ以前の生活習慣を継続する道だけを模索しています。

 

それを自然神は絶対に許さないと決めています。
その証拠に、例えば東京都で感染者数が少し右下がりになったところで又元のようにバーやライブハウス等を再開し始めた途端に、再び新型コロナウィルスの新規感染者数が急増し、結果的にはデフォルトの営業形態を再度修正し、店舗を休業したり時短営業にシフトしたり‥ と言った具合に大勢の人を一ヵ所に集め、呑んだり聴いたり歌ったり出来ない状況を自然神が必然的に突き付けて来る‥、このいたちごっこになっているのが現状です。

 


必ずしもプレアデス星団の各星の政策や政治が良いとは言えないところもありますし、現在のプレアデス星団には文化が存在しません。
それを踏まえながら、あえてプレアデス星団出身のJaneの予知と私の予知とをすり合わせると、未来の娯楽や音楽業界、音楽形態や舞台芸術を含む地球上の多くの娯楽はVR化して行くことになりそうです。
あくまで予知ですが、様々な現状を未来へと視野を広げて考えるととてもしっくり来ます。

 

これまで昭和の後期から平成と長く続いたのは、音楽を手段(武器)にしたアイドルタレントのオプション商法でした。
CDを色分けし、同じ曲目なのにジャケットを変え、シングル曲以外の楽曲を一部入れ替えたバリエーションCDを作り、そこに握手券を封入して販売する商法は主にAKB48等の大人数のアイドルグループ達の台頭によって平成の音楽営業の主流になって行きました。
思うにこれは音楽に対する冒涜の一種であり、これについては自然神「ゼウス」もけっして良くは思っていないようでした。

 

似たような営業形態を堂々とやってのけていたのは、韓流のガールズグループないしはボーイズグループも同じでしたが、それでも日本の音楽業界が続けて来た悪質な商法よりはまだましな方だったでしょう。
何故ならば、ベースとなる音楽商品(楽曲や歌詞、編曲を含む)のクオリティーが圧倒的に高いからです。
 
 
話を戻しますと、一ヵ所に多くの観衆を集めて行われる爆音コンサートに対し自然神も地球もうんざりしていると言う話しです。
これは大小を問わず小規模なライブハウス等で絶叫したり、或いは音楽とは言えないような稚拙で体たらくな音楽を毎晩演奏する夜店の演目等にも十分に当てはまります。

 

それがこのコロナ・パンデミックの延長によって完全に営業をセーヴされ、とどめの一発は「禁酒法」とも言われる「アルコール類の提供禁止条例」でした。
この通称「禁酒法」を現・都知事が声に出して打ち出した時は、私も珍しく歓喜しました。

そもそも「祈りのない音楽は絶滅すべき」だと私はずっと思っていたので、それが一歩実現に近づいたわけですから。

  


自宅にコンサートを持ち込む。
とても良いコンセプトです。

これまでのコンサートやライブハウスは照明や過剰な音響効果等の空間のマジックによって成り立つ要素も多く、お金を払って決まった空間に足を運んだ人は自らの出費を後々嘆きたくらはないからレビューとして、極力良い印象を公言したがります。
ですが、実際には思っていたものではなかったことの方が多いと言う話しもあります。私も実際にそういう経験をしたことが、何度もありました。

 

それが自宅に居ながらにして実現するコンサートや生演奏のライブとなれば、その音質やクオリティーを深く各自が問うようにならざるを得ません。大切なことはこの、条件の変化です。
そこには惰性や誤魔化しが一切挟まりませんから、その瞬間演目がつまらないからと言う理由でVRホールから黙って退室しても誰にも文句は言われません。そしてそのような思いをした同じ会場に二度足を運ぶことも少なくなり、観衆は無言のうちに自らの言動や感情に正直に向き合わざるを得なくなります。

これは音楽形態に於ける、大きな変化の要因になり得ると私は思っています。

 

歌舞伎等も上記のような手法での配信となれば、時折舞台でかかる掛け声やそれに強引に誘われる「さくら」の拍手等に惑わされることが激減し、視ている人本人がその演目をどう思うか‥ と言う素朴な感覚が何より優先されることで、つまらない営業型伝統芸能の舞台も必然的に減って行くことになるでしょう。
良いことだと思います。

  


私も昔はその日暮らしの音楽を奏でていた分際でしたけど、いつかその世界を必ず抜け出すことを心の中で決めていました。
ものの実現にはタイミングが重要です。なのでそのタイミングが来た時にいつでも泥船を抜け出せるよう、私は常日頃から準備を怠りませんでした。そしてその機は、2018年の早い春に到来しました。

 

でもそれよりも、今は誰もが「サブスクリプション」からの配信が出来る時代です。なのに多くの音楽家やミュージシャン等は、配信よりも「生演奏」と言う名目の「その一瞬を観客と共有する」スタイルの演奏形態から出ようとはしません。
そんなことを毎日やったところで、百年後の地球の音楽史に残る音楽等実現する筈も無いのに‥。

 

人類に必要なことは、何を置いても承認欲求をかなぐり捨てることです。

多くの娯楽や芸能、音楽や舞台芸術等に関わる人達に抜け落ちているのは、この、「承認欲求をかなぐり捨てる強い意志」の方かもしれません。

例えば歌手や女優等、多くの彼等の職業に在る人達はその職に就く理由として「スポットライトと拍手を生涯浴び続けていたい」と掲げます。これがいけないのです。
マザーアース・地球や自然神が切望するものがあるとすれば、祈りを持つ音や創造物の方。

元来「祈り」は人目には触れない空間で執り行うものです。なので、上に書いたようなカテゴリーの職種やその職種に関わる(堂々とふしだらな職業意識を掲げている人達)には、まとめてごっそり消えて貰った方が良いのです。

 

私もかなり辛辣なことを綴っているなぁと思っていますが、私は芸術家であり音楽評論家、比較音楽学者でもあり、尚且つ「チャネラー」「コンタクティー」さらには「霊質学者」の職歴を同時に掲げて生きていますので、私が言わなければ他に誰も言える人が居ないことを身をもって知っています。
なのでSNSではなく、ブログから発信し続けて行くことに決めました。

 

将来的にはプレアデス星団の誰か、その他の宇宙の誰かがこの地球に降り立った時の状況を踏まえ、その時にこのブログを彼等の中の誰かが見つけられるようにここに、ありのままの現状を記載しておきます。