弟・山田大輔の虚像と実像 – 前編 –

この記事の記載を予告した日時からは既に一ヶ月が経過しましたが、この記事を書くには多くのエネルギーを消耗するでしょう。
御周知のように我が家は今、目下の遺産整理の最中に在ります。その合間を縫って私は、第三の人生の立て直しと魂の休養を継続しています。
 

 
圧は毎日のように揺り返しを繰り返しますが、抗わず受け容れず、そして巻き込まれぬように細心の注意を払いながら日々、魂を磨き、夫婦共に覚醒の手を緩めぬ努力は怠っていません。
 

弟(山田大輔)夫婦に対して、今現在も様々な思いが駆け巡ります。特に気になっている点の一つとして、弟の真の死因が何だったのか‥ と言うことが挙げられ、妻・りえさん(仮名)の周囲で弟と母の二人が(恐らく)似た状況で亡くなっていたことを考えると、彼等の死因の真相が一体何だったのか‥ について姉としてとても気掛かりではあります。
 

私は親族二人の死因に於いて、既に一つの仮説に到達しています。
ですがその仮説についてはこの記事での明記は控え、弟・山田大輔の表と裏の顔と彼の魂の真実について、私の知る限りをここに記載したいと思います。
ここでは死後の大輔の魂から直接聞いた話も含めながら綴って行こうと思いますので、心してお読み下さい。
 

弟・山田大輔: 2014年11月 結婚式の写真

 
私の知る限りでは、弟・山田大輔の魂の大元が摩利支天を名乗る忍びだったとのこと。

摩利支天を名乗っていた忍びは妖術使いとして一時その名を広め、過去世で私が「くのいち」だった一つの時代の私の最期を仕留めたと記憶しています。
私は何者かに背後から、首を右側から斬られて命を落としています。それはとても壮絶な最期だったので、転生した今世でも私は当時の記憶を忘れることが出来ません。
 
当時の私の首斬りを命じたのが忍び「摩利支天」であり、実際に私の首を斬り落としにかかった人物二人は、忍び「摩利支天」に命じられた部下の忍びたちでした。
(後に私は当時の私の首を斬り落としたであろう、忍びの「摩利支天」の部下の二人の生まれ変わりの男女ともリアルで会っています。)
 

切っ掛けは全く別件ではありますが、私は小学校3年生の夏に首の右側を起点として頸椎捻挫を患っています。元々体のその方向が弱い為首の右側にだけ発作が起きたと記憶していますが、あの瞬間に妙なビジョンが過ったのが何故だったのか‥。今にして思えばそうした魂の変遷は続いており、今世の私に誰かが「体の右側」に対する注意喚起をしてくれたのかもしれません。
 

同じ家にヨハン・セバスティアン・バッハと摩利支天の二人の魂が姉弟として転生した‥ 等と言う話は確かに前代未聞ですし、唯物主義者からは一笑に付されて終わってしまう話かもしれません。ですがこれは紛れもない事実です。
 

 
幼少期、特に未だ小学校に入学する前の弟はとても純粋で、姉思い、母思いの優しい人でした。
時折無鉄砲な行動に走るところはありましたけど、彼の言動の全てには彼なりの美学や哲学があり、子供だったにも関わらず大輔はそれを一貫させて生きていました。
 
私が小学校3年生の夏にYAMAHA JOC(ジュニア・オリジナル・コンサート)の作曲競技のイベントに急遽出演することが決まった時も、大輔は合歓の里までついて来てくれました。
その時に、私が練習しているスタジオの近くで途中から虫捕りに夢中になって迷子になる‥ と言う大珍事を起こしてくれましたけど、翌日私がステージで本番の即興演奏を演っている最中もハラハラしながら客席で私を応戦していてくれたのを、今でも憶えています。

そんな大輔が最初の挫折を味わったのは、おそらく彼が桐朋学園「子供のための音楽教室」に入室し、姉と同じピアノを勉強し始めた頃に母が放った一言が原因だったと、死後の大輔が話してくれました。
そもそも姉がヨハン・セバスティアン・バッハ、即興と作曲と空間音響の名手だったわけですから、誰もが私のようにその場その時々で瞬時に作曲が出来る筈が無いのです。弟も楽譜の譜読みと暗譜にはかなり苦戦し、その度に母が「美樹(私の本名)にだって出来るのよ!貴方に弾けない筈がないでしょ!」と言って、ピシャリ!と弟の腕や手の甲を引っ叩く音が、私の居る隔離部屋にまで響き渡りました。
 

その度に弟・大輔の気持ちは凹み、どうやっても姉の技術を超えることが出来ないのは自分の怠慢のせいだと思って頑張ってはみたものの、中学受験を表向きの理由に彼は桐朋の子供のための音楽教室もピアノも、つまり音楽に於ける一切合切から身を引きました。
ですがそれはただ単に大輔がピアノや音楽を辞めるのとは異なり、大輔の魂に「この世の超えられないもの」と言う実績と記憶を刻印したことになりました。
それを機に弟・大輔は日に日に変貌を遂げて行き、自分自身の本音を周囲に一切吐かなくなって行ったように思います。
 
その連続が後に私が綴る、弟・山田大輔の虚言癖に基づく「虚像」の原点と直結しているのではないかと、私は思っています。
 

そもそも弟・大輔は、音楽そのものが大好きでした。他の同じ世代の子供たちのように、モテるから‥ とか目立つから‥ と言う理由ではなく彼は、心から音楽が好きだったと私も思います。
特にトランペット等の金管楽器の音色に触れると、どこかハードボイルドな中に漂う一種のロマンティシズムに敏感に反応を示し、時折涙目になりながらその音色を追い掛けていたのを今でも記憶しています。
 

 
私はテレビを観ることを母に強く禁じられていましたが、母が外出した時等に大輔が「一緒に観ようよ‥。」と言って度々私をテレビの前に駆り出してくれて、その時に観ていた番組が「愛の戦士レインボーマン」や「宇宙戦艦ヤマト」、「ルパン三世」等だったなぁ~と、振り返れば懐かしい話も沢山あります。
 

大輔は子供の頃から超能力や霊界等に強く憧れており、母の持つ強大な霊力に対しては微かな嫉妬と敵対心を抱いていただろう‥ と言うことが、姉の私にもひと目で分かる瞬間がありました。
ですが姉の持つシュールな力に対して弟・大輔は、ライバル心や敵対心を持つことはありませんでした。その純真な性格が激変した切っ掛けが上に書いた「音楽を巡る母の叱咤と暴力」であり、その酷い現場を既に姉の私と母との真に間近に見ていた彼が、せめて自分自身の心身だけは守りたいと願ったとしても、私にはそんな彼を責めることなど出来ません。

その(弟・大輔が両親の暴力や暴言等から身を守る為の)手段が「両親には絶対に本音と真実を語らないこと」だったとしてもそれしか方法がなかったことぐらい、姉の私だからこそ今ならば容易に判断が付きます。
一般的に言うところの「正しい判断基準」が当時の私達、「山田家」には一切通用しないことを、言うまでもなく当時の彼も骨身に染みて感じていたことでしょう。
 

大輔の真剣で純粋な目が段々と濁り始めたのは、彼が一浪の末に東大の法学部に入学した直後からでした。
私が大輔と暮らしたのは(私の計算が合っていれば)丁度彼が東大の2年生になった頃で、私はその年の秋頃に実家を出ています。私と弟の年齢差は4歳、私が家を出たのが24歳の秋の終わりでした。
 

私は母親に、早々に家を出て行くように‥ と毎日のように言われ、無謀とも思える手段を経て何とか結婚(初婚)相手を見つけて、母にその人と会わせる段取りまで漕ぎ着きました。
ですが母は当時の私の初婚の相手との喫茶店面談の時、「あなたのような下品な人に美樹は相応しくないわ。あなたみたいな人に娘を、本当は渡したくなんかないんですよ‥。」等と思ってもいないことを口走る、いわゆるマッチポンプで私と当時の初婚の相手との仲を引き裂こうとしました。
 

ですが私は這う這うの体(ほうほうのてい)を駆使してでも、あの毒気の強すぎる実家を離れたかったのです。
実家を出る最後の夜、弟は私に何か言おう言おうとしては母や父に発言を遮られ、最終的には私が何故段ボール箱を4~5個だけを持って実家を追い出されなければいけなかったのか、その本当に理由を知らぬまま寂しそうに私に手を振ってくれた、あの時の弟・大輔の手が妙に小さく視えた瞬間が今も脳裏を過ります。
 

大輔はその後、急激に変貌を遂げて行きます‥。
 

後編に繋げます。‥

K-Pop “Heize”と音楽のソコヂカラ

以前から大好きでウォッチしていた韓国のシンガー・ソングライター “Heize” が、新曲『일로 (Undo)』をリリースした。
『일로 (Undo)』シングル曲アルバムタイトルの両方で更新され、特にシングル曲の『일로 (Undo)』は楽曲として秀逸と言っても過言ではないだろう。
 
タイトル『일로 (Undo)』は和訳すると、どうやら「なかったことに」と言うような意味になるようだ。
偶然アメブロに和訳を見つけたので、歌詞の意味を日本語で読みたい方は是非そちらを参考にして頂けたらと思う。
 

https://ameblo.jp/sullun114/entry-12751060771.html
 

 
PVを見ると一瞬「ルックス主義」のカワイ子ちゃん系韓流歌手かと勘違いしそうになるが、それは間違いだ。
さり気なく正確な音程に依存せず、細やかな表現を随所で巧みに使い分けながら、尚且つそれをけっして売りにはしないのは彼女がそれ以上の潜在的な能力を秘めているからだ。
 

多くの歌手や表現者が現れては消えて行くその境界線は、「自ら作品を生み出せる者」と「既に誰かの手によって生み出された作品を再現する者」。そこには大きな段差があり、後世に自身の名と作品を共に残せるのは前者一択と言って良いだろう。
 

私が度々「ライブ」を否定している理由も、ここにある。
勿論「生み出せる人」が奏でる再現音楽は、「生み出さない人」の再現音楽とは全く質が違う。なので私は前者「生み出せる人」があえて挑む再現音楽に於いては、一切否定も拒絶もするつもりはない。
だが作品が生まれるエネルギーは出産時の赤子同様に、羊水から空気の世界に旅立つ瞬間にのみ放たれる特別な力を持つ。なので厳密には作品がレコーディングされた時のエネルギーを、後のライブが超えることはほぼ皆無と私は思っている。

その意味で「ライブ」、いわゆる再現音楽を私は特殊な例を除き、殆ど否定し、拒絶するスタンスを今も変えていない。
 

 
Heizeは新曲『일로 (Undo)』と言うある種のダンス系要素の高い作品を、マイク一本「歌のみ」で勝負に挑むように様々な番組で歌唱している。
勿論バックバンドは打ち込みだが、声は生声で、その都度都度でエフェクトも演出も変えてパフォーマンスに挑んでいる。
 
ダンス・ミュージックをあえてダンスで魅せない、ある種の勝負心を彼女の中に感じる度に、私の評論家魂に呆気なく火が着いて行くのを感じる。
 

 
「生み出せる人」は表現に於いて、いつも限りなく自由で居ることが出来る。
何が正解で何が不正解なのか‥ と言う枠にがんじがらめに囚われることが無いから、いつ、どのタイミングでアドリブを仕掛けようが全ては自分自身の気分でどうにでも料理が可能だから。
 
さながらモーツァルトがコンツェルトの最後の「カデンツァ」の音列を楽譜上では指定しなかったように、モーツァルトは常にその時々の気分や状況に応じて内容の異なるカデンツァを自由に演奏していた。
‥つまりそれこそが即興演奏の醍醐味であり、そうした完成度(創作性も失わない)と即興性の高いライブこそが価値のあるライブだと言うのが、私のライブ美学だ。
つまり完成度も即興性も、まして創作性のどれもが全く当てはまらないライブは、存在価値すらないと言っても過言ではない。
 

 
誤解して欲しくないのは、ここで私がある種「ライブ」の存在価値の有無を説いている真の理由についてである。
 
最近「音楽とビールは生が一番だ」等と言う人達が増えており、どんなにアレンジが悪くても、どれだけ歌唱力が酷くても、それが「生演奏(Live)」であると言うだけで視聴者が勝手に脳内変換で目の前の質の良くないパフォーマンスのグレードを過大評価してしまう。
そういう視聴者の脳内誤動作を出来る限り少なくする為、良いものとそうではないものの理由と境界線を明示する必要を私は強く感じて、こうした記事を書き続けているわけだ。
 

 
さて、この記事の最後に、私が大好きなHeizeの2017年リリースの作品You, Clouds, Rainの美しいLive動画を貼っておきたい。
動画冒頭がその作品である。

どこか小田和正にも通ずるノスタルジーを感じさせる、とても美しいメロディーラインとパフォーマンスを是非ご堪能頂ければ幸いだ。
 

 

内容を限定し、お仕事の依頼も承っております。
音楽配信を目的とした楽曲作成のオーダーの他、音楽評論、レビュー or ライナーノート執筆、ラジオ番組用のBGM選曲、雑誌連載執筆及びYouTube出演や対談等、諸々用件・案件は、Twitter のDMないしは 📨[info@didier-merah.jp] ⇦ までお寄せ下さい。

音楽評論に関しては、世界中(演歌とヘヴィメタル以外)の音楽を分析・検証し、語り尽くします。
オーダーを遥かに上回るクールで奇想天外な記事を、筆者の豊富な脳内データから導き出して綴ります!

バッハ (J.S.Bach) と言う過去生の自分

私が過去世 ヨハン・ゼバスティアン・バッハ であることは、あくまで私の過去の魂の履歴に過ぎません。
何故自分がその人であることを確信するに至ったか‥ と言うご質問はこれまでにも何度か投げ掛けられていますが、それは簡単に言えば「あなたは何故自分が人間であると確信するに至ったのですか?」と言う質問と、内容はほぼ一緒です。
なので答えるまでもありません。
 

他人事としてバッハの偉大さを挙げるとすれば、例えば以下のようなことになるでしょうか。
 

  1. 教会音楽、或いはゴシック様式の礎を築いた最初の人であること。
  2. 対位法と言う前人未踏の音楽理論を確立した、最初で最後の人物であること。
  3. 即興演奏の名手であったこと。これが後のサロン音楽文化の基礎となった点は見逃せません。
  4. 空間音響学の基盤を構築した最初の人物であること。
  5. 何より音楽全般の父として、作品や生き様、音楽理論に於ける彼の多くの実績が後世に受け継がれていること。


挙げればきりがないのですが、現在私が次世代の音楽の基盤を新たに構築している点を理解出来る人であれば、私がその人 ヨハン・ゼバスティアン・バッハ であったことに於いては矛盾を感じない筈です。
ですが全てはあくまで、私の過去世の魂の変遷でしかありません。私は私、Didier Merahでありそれ以上でも以下でもないと同時に、現在に至るまで私のような人物が二人と存在しないことも又事実です。
 

 
Didier Merahは現在、自身の半生のお片付けの真っ最中です。未だ手の負傷も完治していないながら、新作のメモだけは日々湧き出て困っています(笑)。
人生の大掃除中にて、暫くは音楽評論や音楽紹介、音楽鑑賞にエネルギーを注ぎながら次の自分に備えて準備中です。
 
作品のみならず生き様を含む全てを次世代のサンプルとして確立しようと試みている最中なので、これからの私の言動はきわめてシンプルできわめて歯切れの良いものに進化して行くことになるでしょう。
 

一見優しい音楽を生み出している私ですが、言葉はとても辛辣でストイックです。
付け焼刃な甘ったるい同情は、一切しないことをポリシーとして生きています。私に何かしら話し掛ける時は、「歴史上の音楽の父」として、そして「次世代の音楽の母」を目の前にしていると言う気概と覚悟をもって接して下さい。
以後、このルールに反する内容(言葉遣い含む)のDMやメールには、返信はしないつもりです。

礼節は尽くして下さい。お願い致します。
 

 

山下達郎とシティー・ポップ [前編]

2022年6月22日、かねてから大々的に告知されていた山下達郎のニューアルバム『SOFTLY』がリリースされた。
通常版は特典なしで3,300円から、特典付きになるとさらに価格が跳ね上がる。

 

 
勿論この人は昭和スタイルの販売ルートのみのアーティストなので、サブスクでのリリースは当然なし。なので当初私はこのアルバムを購入する予定だったが、紆余曲折を経て購入を取り止めた。
正直物理CDが手元にあっても邪魔になるだけで、当然のこと音楽として聴けるクオリティーではなかったので、このような結果に相成ったわけだ。
 

某動画配信チャンネルから(ほぼ)フルアルバムと言えるよう編集されたものが出ていたので、そちらを先ず聴いてみた。
恐らくラジオ等でオンエアされたものからのピックアップも含まれるであろう構成になっており、曲によってはMC(トーク)が楽曲のイントロに被ったままの状態にはなっていたが、中身が分かれば良いのでそのまま流して聴いて行く‥。
 

山下達郎と言えば真っ先に思い浮かぶのが「シティー・ポップ」と言う言葉だろう。勿論彼が老いた今もリスナーは、必ずそのエッセンスを期待する。私もそうだった。
だが実際に上の(ほぼ)フルアルバムが収録された動画を捲ってみると、正直内容は散々なものだった。
 
最近若手の韓国のYouTuberの中にも山下達郎そっくりで尚且つシティー・ポップのテイストを正確に、忠実に‥ と言うより原作以上のクオリティーでコピー(カバー)するアーティストも出現している。
 

 
このYouTuber、Tae Yoon Kimさんの山下達郎のカバー動画の注目すべき点は、ヴォーカルではなくバックバンドの再演のクオリティーだ。ほぼ全てのパートがTaeさんの手動で録音されているが、それが原作のクオリティーを軽々と超えている点は見逃せない。
 

ここで少しだけ話題を脱線。
「シティー・ポップ」の定義について、私はこう考える。

1. 日本の高度成長期の大都会(特に夜景)を彷彿とさせるサウンド感覚を持つ音楽。

2. オープンカーやスポーツカーを運転する男性ドライバーが目に浮かび、助手席にはハイヒールを履いた女性を同乗させている‥ と言う光景を想起させる音楽。

3. 程好くハードではないドラミングやリズム体、主にStepするような緩いスウィング感のあるリズム体が体を揺さぶる音楽。

4. ギターカッティング、或いは生ピアノよりもキーボードで「ピアノ」の音質を再現しそびれた感のある、どこか間違いがあるにも関わらずそれらしく聴こえて来る音楽。

5. ギリギリまで声を張り上げてはいるもののけっして高音域ではなく、中低音のマイルドさを誇張したヴォーカルが特徴的な音楽。

6. 何より「風」を感じる音楽であること。
 

私が思う「シティー・ポップ」とは概ねこんな感じであるが、この解釈については別の様々な解釈があっても良いと思っている。
そして若かりし頃の山下達郎のサウンド感が、上の全ての条件にマッチしていた。

さて話を山下達郎の新譜「Softly」に戻してみると、先に書いた全ての条件を見事に逸した、何ともドン臭いアルバム(表現含む)で本当にガッカリした。
 

 
私の音程の受信感度が狂っていなければ先ず、彼の音程が酷く劣化したと言うのが強い印象だ。そもそも曲の作りが機械的なので非人間的と言うか、絶妙に正確な音程を保持していないと歌えない楽曲が大半だが、その音程がこれ又絶妙にズレている。
さらにリズムが不正確で本来のアタック箇所にヴォーカルがアタっていない為に、後ノリでヴォーカルが若干遅れて聴こえて来る。そのせいで、どうしても演歌のコブシを効かせて歌っているようにしか聴こえない。
 

ノリノリだった「あの頃」の山下達郎の代表曲『Ride On Time』に見られるような、キラキラしたシティー・ポップの‥ これさえあれば何が来ても怖くないと思わせるような輝きも希望も一切見られない彼の新譜『Softly』の、楽曲の全てのメロディーメイクはただただ悲惨としか言いようがなく、長い時間聴いてはいられない。
まるで回顧主義の老人の独り言みたいで、先に「シティー・ポップ」を求めてこの人の曲を聴こうとしていただけに失望感がハンパない。
 

かなしいかな、人は誰しも年を取って行く。老いは多少なりとも表現の劣化へと直結するのだが、それをカバーする方法として人生の経験値や人間性、そしてインテリジェンスの成熟等が挙げられる。
そのどれ一つとして達郎の場合は機能しておらず、何かと「恋愛」とか恋愛の思い出を振り絞るようにして歌詞にしているから、聴いていて無理な重圧がどうしても後頭部を直撃して来る。
 
それを本人もおそらく気付いているのか、喉に異常なまでの力(力こぶし)が入っている。その影響で全ての発音の一瞬前に「‥ンガガガ‥」みたいな助走が掛かってしまい、音程もテンポもリズムも全てがタイミングと正確性を逸している。
 

勿論楽曲的にも「シティー・ポップ」感は殆ど失われおり、色褪せたセピアカラーの1980年代のフィルム写真を見ているような喪失感に苛まれる。
シティーもポップも失われ、さらには発声の全てに力コブシが練り込まれたこれらの音楽は、最早聴くに値しない。なので私はこのアルバムの一曲すら、フルサイズで聴くことが出来なかった。
 

 
残念なことに今、世界的に日本の「シティー・ポップ」系のカバーが急増している(笑)。特に山下達郎の奥方の竹内まりやが1984年にリリースした『Plastic Love』が今、最注目されいるタイミング。
恐らく夫・達郎はその流れを踏んで今、ここだ!‥ やっと来たビッグウェイヴに自分も乗ろうと試みた筈だ。だが、それは失敗に終わったのではないだろうか。
 
山下達郎と竹内まりやの結婚は当時音楽業界を賑わせ、それを機に妻・竹内まりやは一線を退いた。あくまで夫をたてる為に表舞台から妻・まりやは姿を消し、アイドル歌手に楽曲を提供する文字通り「作曲家」に転じたわけだが、それがある種の威厳や風格を長年に渡って培わせて来たように私は感じている。
ここに来て山下達郎は、妻・竹内まりやに首‥ いや、体一個二個分先を越された形になったようだ。
  

門脇 麦

 
山下達郎のニューアルバム『Softly』のラスト曲に収録されている『REBORN』は、映画『ナミヤ雑貨店の奇蹟』の挿入歌として既に女優の門脇麦が熱唱しているが、これが凄かった。
逆に原作者・山下達郎の原曲を聴いた時に、その余りの表現力の無さに愕然とした。むしろ門脇麦が歌唱した方の動画を視た時の感動が余りに大き過ぎたのか、何より「何も足さず何も引かず」の門脇麦の素直な表現が不幸にも、原曲(山下達郎)の不安定なメロディーラインに安定感を与えてしまった感は否めない。

この記事の最後に、圧巻の門脇麦の『REBORN』を掲載し、この記事を〆たい。
※尚この記事にはまだ続きがあるので、次記事へと続く‥。

 

山下達郎とシティー・ポップ [前編]

2022年6月22日、かねてから大々的に告知されていた山下達郎のニューアルバムSOFTLYがリリースされた。
通常版は特典なしで3,300円から、特典付きになるとさらに価格が跳ね上がる。
 

 
勿論この人は昭和スタイルの販売ルートのみのアーティストなので、サブスクでのリリースは当然なし。なので当初私はこのアルバムを購入する予定だったが、紆余曲折を経て購入を取り止めた。
正直物理CDが手元にあっても邪魔になるだけで、当然のこと音楽として聴けるクオリティーではなかったので、このような結果に相成ったわけだ。

某動画配信チャンネルから(ほぼ)フルアルバムと言えるよう編集されたものが出ていたので、そちらを先ず聴いてみた。
恐らくラジオ等でオンエアされたものからのピックアップも含まれるであろう構成になっており、曲によってはMC(トーク)が楽曲のイントロに被ったままの状態にはなっていたが、中身が分かれば良いのでそのまま流して聴いて行く‥。

山下達郎と言えば真っ先に思い浮かぶのが「シティー・ポップ」と言う言葉だろう。勿論彼が老いた今もリスナーは、必ずそのエッセンスを期待する。私もそうだった。
だが実際に上の(ほぼ)フルアルバムが収録された動画を捲ってみると、正直内容は散々なものだった。
 

最近若手の韓国のYouTuberの中にも山下達郎そっくりで尚且つシティー・ポップのテイストを正確に、忠実に‥ と言うより原作以上のクオリティーでコピー(カバー)するアーティストも出現している。
 

 
このYouTuber、Tae Yoon Kimさんの山下達郎のカバー動画の注目すべき点は、ヴォーカルではなくバックバンドの再演のクオリティーだ。ほぼ全てのパートがTaeさんの手動で録音されているが、それが原作のクオリティーを軽々と超えている点は見逃せない。
 

ここで少しだけ話題を脱線。
「シティー・ポップ」の定義について、私はこう考える。
 

1. 日本の高度成長期の大都会(特に夜景)を彷彿とさせるサウンド感覚を持つ音楽。
2.
オープンカーやスポーツカーを運転する男性ドライバーが目に浮かび、助手席にはハイヒールを履いた女性を同乗させている‥ と言う光景を想起させる音楽。
3.
程好くハードではないドラミングやリズム体、主にStepするような緩いスウィング感のあるリズム体が体を揺さぶる音楽。
4.
ギターカッティング、或いは生ピアノよりもキーボードで「ピアノ」の音質を再現しそびれた感のある、どこか間違いがあるにも関わらずそれらしく聴こえて来る音楽。
5.
ギリギリまで声を張り上げてはいるもののけっして高音域ではなく、中低音のマイルドさを誇張したヴォーカルが特徴的な音楽。
6.
何より「風」を感じる音楽であること。

 
私が思う「シティー・ポップ」とは概ねこんな感じであるが、この解釈については別の様々な解釈があっても良いと思っている。
そして若かりし頃の山下達郎のサウンド感が、上の全ての条件にマッチしていた。

さて話を山下達郎の新譜「Softly」に戻してみると、先に書いた全ての条件を見事に逸した、何ともドン臭いアルバム(表現含む)で本当にガッカリした。
 

 
私の音程の受信感度が狂っていなければ先ず、彼の音程が酷く劣化したと言うのが強い印象だ。そもそも曲の作りが機械的なので非人間的と言うか、絶妙に正確な音程を保持していないと歌えない楽曲が大半だが、その音程がこれ又絶妙にズレている。
さらにリズムが不正確で本来のアタック箇所にヴォーカルがアタっていない為に、後ノリでヴォーカルが若干遅れて聴こえて来る。そのせいで、どうしても演歌のコブシを効かせて歌っているようにしか聴こえない。

ノリノリだった「あの頃」の山下達郎の代表曲『Ride On Time』に見られるような、キラキラしたシティー・ポップの‥ これさえあれば何が来ても怖くないと思わせるような輝きも希望も一切見られない彼の新譜『Softly』の、楽曲の全てのメロディーメイクはただただ悲惨としか言いようがなく、長い時間聴いてはいられない。
まるで回顧主義の老人の独り言みたいで、先に「シティー・ポップ」を求めてこの人の曲を聴こうとしていただけに失望感がハンパない。
 
かなしいかな、人は誰しも年を取って行く。老いは多少なりとも表現の劣化へと直結するのだが、それをカバーする方法として人生の経験値や人間性、そしてインテリジェンスの成熟等が挙げられる。
そのどれ一つとして達郎の場合は機能しておらず、何かと「恋愛」とか恋愛の思い出を振り絞るようにして歌詞にしているから、聴いていて無理な重圧がどうしても後頭部を直撃して来る。

それを本人もおそらく気付いているのか、喉に異常なまでの力(力こぶし)が入っている。その影響で全ての発音の一瞬前に「‥ンガガガ‥」みたいな助走が掛かってしまい、音程もテンポもリズムも全てがタイミングと正確性を逸している。

勿論楽曲的にも「シティー・ポップ」感は殆ど失われおり、色褪せたセピアカラーの1980年代のフィルム写真を見ているような喪失感に苛まれる。
シティーもポップも失われ、さらには発声の全てに力コブシが練り込まれたこれらの音楽は、最早聴くに値しない。なので私はこのアルバムの一曲すら、フルサイズで聴くことが出来なかった。
 

 
残念なことに今、世界的に日本の「シティー・ポップ」系のカバーが急増している(笑)。特に山下達郎の奥方の竹内まりやが1984年にリリースした『Plastic Love』が今、最注目されいるタイミング。
恐らく夫・達郎はその流れを踏んで今、ここだ!‥ やっと来たビッグウェイヴに自分も乗ろうと試みた筈だ。だが、それは失敗に終わったのではないだろうか。

山下達郎と竹内まりやの結婚は当時音楽業界を賑わせ、それを機に妻・竹内まりやは一線を退いた。あくまで夫をたてる為に表舞台から妻・まりやは姿を消し、アイドル歌手に楽曲を提供する文字通り「作曲家」に転じたわけだが、それがある種の威厳や風格を長年に渡って培わせて来たように私は感じている。
ここに来て山下達郎は、妻・竹内まりやに首‥ いや、体一個二個分先を越された形になったようだ。
 

 
山下達郎のニューアルバム『Softly』のラスト曲に収録されている『REBORN』は、映画『ナミヤ雑貨店の奇蹟』の挿入歌として既に女優の門脇麦が熱唱しているが、これが凄かった。
逆に原作者・山下達郎の原曲を聴いた時に、その余りの表現力の無さに愕然とした。むしろ門脇麦が歌唱した方の動画を視た時の感動が余りに大き過ぎたのか、何より「何も足さず何も引かず」の門脇麦の素直な表現が不幸にも、原曲(山下達郎)の不安定なメロディーラインに安定感を与えてしまった感は否めない。

この記事の最後に、圧巻の門脇麦の『REBORN』を掲載し、この記事を〆たい。
※尚この記事にはまだ続きがあるので、次記事へと続く‥。
 

音楽から読み解く世界情勢 [2022.06.25]

関東地方はまさに雨季真っ盛りで、連日湿度が高く蒸し暑い日が続いている。個人的には色々な事が日々折り重なり、特に一昨日から昨日は気持ちが酷く滅入って落ち込んでいた。

世界はどこに向かって進んでいるのかと、日夜そのことばかりを思う。それはけっして良い方向とは言い難く、いつ、誰とはぐれてしまうか分からない不安は未明の悪夢を引き寄せる。
かなりの的中率で予感が現実になる今日この頃の私にとって、夢とは言え侮れない。だからと言って夢に「その人」が現れたからと言って連絡を取るわけにも行かず、色んなSNSからそっと先方の様子を伺いながら今日の無事を確かめるしか他に手段がないのがもどかしい。
 

私自身が音楽家でありながら、音楽業界関連の友人は殆ど皆無だ。と言うのも私が芸術家・作曲家でありながら、音楽評論家として旗揚げしたからに他ならない。


音楽家(作曲家・表現者)と音楽評論家はまさに敵対関係に在り、私はその両方を職歴に掲げたわけだから周囲が戦々恐々としても致し方あるまい。同業者とて、私の感性は妥協を一切許さない、良いものは良いし、悪いものは悪いと明言することが、音楽評論家の仕事なのだから。

現在の私が作るSpotifyのプレイリストのメインは、以下のシリーズ『Gentle Rain 2. (2022. ⑤)』になる。今週の更新は[M-92: Anema E Core”– Valentina Cenni e Stefano Bollani] から [M-115: Jilani” – V.B.Kühl, Rabii Harnoune] までになる。

 

 
更新分冒頭の “Anema E Core” は、私が未だ現役の和製シャンソン & カンツォーネの伴奏者だった時代に大好きだった一曲。このこの曲を聴くとどういうわけか泣きたくなり、その度に今世では未だ行ったことのないトスカーナの広大な風景が脳裏に現れて、過去世の幼い私がトスカーナの一戸建ての家でケーキを焼いている‥。

こんな時に名前を出すのもどうかと思うが、特に小松原るなさんの “Anema E Core” は素敵だった。勿論小さなシャンソニエで歌われるその曲のクオリティーを問われたら何と答えて良いのか分からないが、彼女の小声でささやくような “Anema E Core” の中に微かに流れるトスカーナの風に、当時の私は何度ロックオンされただろう。
 

そんな思い出の曲をプレイリストから外すわけがないのだが、だからこのテイクの [M-92: Anema E Core”– Valentina Cenni e Stefano Bollani] が良いかどうかと問われると確かに若干返事に詰まるのも又事実かもしれないが。
 

“Queen Of Sheba” (artwork)


今週はあの、パレスチナの大御所トランペッター(作曲家・プロデューサー)のIbrahim MaaloufAngelique Kidjoと組んでリリースしたアルバム『Queen Of Sheba』もお目見えしたが、個人的な感想としてはヴォーカルが鬱陶しくて尚且つ知性を欠いている為なのか、Ibrahimのトランペットと表現がバッティングしてしまい完成度は今ひとつと言った印象が強かった。
 

メインのプレイリストではないが、主にBGM仕様をテーマに作っているチルアウト・ミュージック系のプレイリストの方が、今週は更新出来た曲が多かった。
今週の更新は [M-14: “Another Like This” – Photay Remix] から [M-36: “Untouched Rainforest” – 小瀬村昌] までになるが、此方もメイン同様に全体的には小粒の作品が出揃ったように思う。
 

 

気になるアルバムがもう一つあるとすれば、”Summer Sol VII” が挙げられるだろう。
此方は王道のポップスとは一線を画し、アルバム冒頭の “Sat Nam” からも分かるようにSufiの音色が炸裂するが、王道のSufi Musicかと言われるとそうではなく、全曲に「エレクトロニック」寄りの加工が施され、アラビックなテイストにアイシングされた構成になっている。

アルバムのクレジットには Sabo 或いは Goldcap などの名前が挙げられているが、各曲異なるアーティストの作品がズラ~っと並んでいる。全編を繋げて聴いてもなかなかのクオリティーで異国情緒豊かなアルバムに仕上がっているので、個人的にはオススメのアルバムだ。
 

 

私 Didier Merah が作るプレイリストは他の音楽愛好家が作るそれとは一線を画した選曲になっており、いつの日かDidier Merahが監修したオムニバス・アルバムが世に出た時にはかなりの脚光を浴びること間違いなしの出来栄えと言っても良い筈。
それもこれも良いリスナーを増殖させることが私の第二の目的で、その為にはどの曲の何が良くて、どの曲の何が良くないのかについても辛辣に発信して行くことが必須だ。

多くの音楽愛好家たちは、周囲の同種の人たちが何を聴き、何を良いとするのが正解なのかについて戦々恐々としているのが現状だ。自分自身の感覚に今ひとつ自信が持てず悶々としているうちに、多くの賛同票を得ている楽曲に対し無難に加点しながら聴くことで満足しているように見える。

そんなことでは良質な音楽が日陰に追い遣られるのが目に視えているから、私はあえて損得抜きに多くの楽曲をジャッジメントする役目を買って出た。
それも含めて私の音楽人生のミッションと心得ながら、自信を持って世界の音楽をジャッジメントし、紹介出来れば本望だ。
 

 

音楽配信を目的とした楽曲作成のオーダーの他、音楽評論、レビュー or ライナーノート執筆、ラジオ番組用のBGM選曲、雑誌連載執筆及びYouTube出演や対談等、諸々用件・案件は、Twitter のDMないしは公式ホームページから、[info@didier-merah.jp] ⇦ までお寄せ下さい。
音楽評論に関しては、世界中(演歌とヘヴィメタル以外)の音楽を分析・検証し、語り尽くします。

オーダーを遥かに上回るクールで奇想天外な記事を、筆者の豊富な脳内データから導き出して綴ります!

グレイ星人の真実 その他 (Truth of Grey Alian)

【序文】
これは他の特定情報への内容訂正を含んだ、私が直接グレイ星人からテレパシーで受け取った情報です。全文日本語で記載しますので、それぞれ母国語にページ翻訳をした上で読んで下さい。

This article details the information I received telepathically directly from the Grey (Alien). The full text will be written in Japanese language, so please translate the page into your native language at reading.
 


このところ「銀河連合からの使者」と題し、地球上で多くのエイリアンが地球人の女性を介して「ハイブリッド種」の新しい人種を妊娠させているとの噂が出回っており、その一部のエイリアンとして「グレイ星人」が諸悪の根源であるように触れ回っている地球人が居るようです。
 
かねてからグレイ星人は「諸悪の根源」のように言われて来た長い歴史があるようですが、これは半分以上が間違いである可能性を否定出来ません。
又、そうしたハイブリッド種の妊娠に駆り出された地球人の女性の一部が「スターシード」であり、そうした役目を背負っている‥ と言うまことしやかな噂を吹聴している人も複数存在すると聞いていますが、そもそも「スターシード」とそうではない人とはミッションや存在意義に大きな違いがあり、ミッションを自発的に遂行しない人は「スターシード」とは何の関係もない普通の人なので、間違った噂にはくれぐれも翻弄されないよう各自気を付けて下さい。
 

Recently entitled “Messenger from the Galactic Union”, there are rumors on the planet that many aliens are pregnanting new races of “hybrid” through earthling women.
It seems that there are earthlings who have spread rumors that “Grey Alien” is the root of all evil.

On Earth, the Grey Alien has a long history of being described as the “source of all evil.” However, it cannot be denied that more than half of this may be wrong.
 

 

【グレイ星人の真実について】

グレイ星人には(私が知る限り)、二種類の人種が存在するようです。
①非常に高い知性と霊格を持つ、寿命の長い温厚なグレイ星人種。
②一方個体の多くが工場生産で増産された、必要最低限の臓器しか持たない冷酷なグレイ星人種。

There seem to be two races of the Grey Alien (as far as I know).
1. A mild-mannered race with a very high intelligence and spirituality and a long life.
2. On the other hand, a ruthless Grey alien race with only the minimum necessary organs, many of which have been increased in factory production.

 

前者が「ライトグレイ」、後者は「ダークグレイ」に分類されています。

The former is classified as “Light Grey” and the latter as “Dark Grey”. 
 
地球人にはテレパシー能力を駆使出来る人が少ないだけではなく、仮にテレパシー能力が使えたとしてもその人自身に霊格や人格、客観的な判断力等をフル装備している人が殆ど存在しません。
なので仮に地球人のごく一部の人が地球外生命体の誰かとコンタクトが出来たとしても、そこから得た情報を正確に、利他的に、広く平等に拡散出来る人材が存在しないに等しいです。
 


現在私の元には両方のタイプのグレイ星人からのアクセスが継続していますが、密にコンタクトを取っているのはどちらかと言うと前者の「ライトグレイ」になります。
私の元にアクセスして来る二人の「ライトグレイ」たちは非常に冷静で霊格が高く、慎重です。その分好奇心よりも警戒心が強いですが、思考はとても明晰です。
慈愛精神にも溢れており、主体は常に「自分たち」と言う認識で一貫しています。その分責任感も強く、行動出来るかどうかも分からない不確定要素の多い情報は出して来ません。

稀に精神的な混乱も起きますが、後から必ず自身の言動をリカバー(訂正)することを彼等は怠りません。
但し何れも人間社会の道徳観念や思考回路とはかなりかけ離れている為、私の側が先方の心理を監察しつつテレパシーを送ることが多いです。

 
彼等「グレイ星人」に限らずプレアデス星人等にもこれは通用しますが、最近言われている「地球上(太陽圏内)の上空に多くの援軍を送り込んで、今直ぐにでも地球人を救済する為の策を講じている」と言うような地球外生命体は、現状皆無です。
どの星の人々も、皆自分の母星のことで手一杯で、他のことに気を配る余裕がありません。
 
確かに地球内に一部の地球外生命体が存在し、その一部が暴徒化し幼い子供等を誘拐し危害を加えていると言う話を全て否定はしませんが、それと上に書いたような、ダークグレイが地球人の女性を妊娠させて新人種を増やしている‥ と言う噂とは出処が全く別ですので、怪情報には重々注意して下さい。
 

These are common not only to their “Grey Alien” but also to the Pleiades Alien, etc.
There is no extraterrestrial life form that has been said recently, “We are sending a lot of reinforcements over the earth (in the solar range) and are taking measures to rescue the earthlings immediately.” 
Everyone on every star is full of their their mother star. They can’t afford to pay attention to the events of other stars.

Certainly, I don’t deny the reality that some extraterrestrial life forms exist on Earth, some of them have become mobsters, and they have kidnapped and harmed young children.
However, the source is completely different from the rumor that dark gray is conceiving an earthling woman and increasing the number of new races, as I wrote above, so be careful about enigmatic information.
 

 
追記として。
「銀河連合からの使者」「宇宙のメッセンジャー」等と言う現実離れの言葉を多用し、穏やかな日常生活を営んでいる地球の人たちの日常をかき回そうとする一部悪質なメッセンジャーが、このところのコロナ禍を利用して幅を利かせているような状況も見られます。
彼等、メッセンジャーの一部に「他国の誰か分からない第三者からのインタビュー」等と称して、実在不詳の美しくエキゾチックな顔立ちの人物写真の静止画像を交えながらの、出処不詳のインタビュー動画等も多数確認しています。
 

注意すべきはそのインタビュアーの、その後のアクティビティーです。
例えばとても重要な情報の一部を動画等でチラ見せした後に、その人が自身の講演会等に動画閲覧者を誘導するような言動が見られる場合に於いては、先に出ている情報は釣りである可能性、もしくは全くの事実無根である可能性が非常に高いです。
ですので、先の魅力的な情報の「その後」をよく各自で観察し、くれぐれも悪質な情報には惑わされないよう各自注意して下さい。
 

本物の情報とは利己的な欲求や衝動を突き抜け、それらの情報の拡散はあくまで利他的な立ち位置で拡散される筈です。
又「スターシード」と言う非現実的な言葉を散りばめ、多くの人たちに特別なミッションが宇宙の彼方から与えられているような「甘いささやき」は、あくまで「甘いささやき」でしかありません。

Real information goes beyond selfish desires and urges, and the spread of that information should be spread in an altruistic position.
 

そもそも「ミッション」とは与えられるものではなく、自ら自発的に掴み取るものです。
現状生活に於いて「自ら掴み取ってまで他の人たちの為にそれを実践する」モチベーションを持たない人は、なにも無理にそう言う難易度の高いミッションを自身に課す必要はありません。
むしろご自身にとって現実的で手応えを感じられる、日々のささやかな生活にもっと集中すべきですので、是非そうして下さい。
 
In the first place, a “mission” is not something that is given, but something that you voluntarily grab. Those who do not have altruistic motivation in their current lives do not have to impose such difficult missions on themselves.
 

愛とタイ料理と古巣

少し日常に変化を求めたくなり、週末の金曜日の夕方から母校のある仙川へ足を運んだ。
未だ日のある時間に母校を覗く予定だったが、何となく気分が乗らなかったので、真っ直ぐに仙川の西友の裏路地にあるタイ料理店ヴィエンタイに直行した。

ずっと会いたかったオーナー、サカオラさんが優しく私を出迎えてくれた。昨夜遅くサカオラさんのLINEにヴォイス・メッセージを入れておいたので、今日私が店に行くことを彼女は既に知っていた。

その昔、我が家が今よりも経済的に厳しい状態にあった時代に、彼女には本当にお世話になった。ランチタイムを外した時間にサカオラさんは頻繁に私を(昔彼女が別の場所で経営していた)お店に呼び出しては、無料で店のまかない料理を私に沢山食べさせてくれたものだった。

それが数か月間続いた後にいきなりサカオラさんが「アタシ店ヤメル!」と言い出して、当時の店(ヴィエンタイ)がいきなり閉店。数か月間を経て今の仙川の別のタイ料理店の居抜きの場所に、サカオラさんが新しい「ヴィエンタイ」を開店したのがかれこれ、2019年某日のことだった。
(中略‥)
 
昨年末から私の生活環境が激変し、それと同時に食生活も味覚も変わった。以前よりも食が細くなり、それと並行して自然とウェイトも落ちて行った。
店に着くや否やサカオラさんが「アラ、少シ痩セタネ~!」と言ってにこやかに私を出迎えてくれたが、どこか少し元気が無くて心配になった。でも彼女が作り出す料理は今の私の体に、しみじみと‥ これでもかと言うくらいにしみじみと沁み渡って行く。

 

 
以前ならば何をどれだけ出されても生真面目に完食出来た私だったが、今は当時とは勝手が違う。私もコスパの良い体になっている分、胃袋の収納量には制約が生じる。そのことをサカオラさんに話すと、丁度良い分量の料理を盛りつけてくれた。

上の写真の牛肉煮込みヌードルのスープは、なんと漢方薬を使って出汁を取ったとサカオラさんが話してくれた。そうとは知らなくても、このスープからは何とも優しい味が醸し出されて心も、そして思い出までもじんわりと癒してくれた。
 

何となくもう一皿小皿料理が欲しくなり、フライドポークのようなエキゾチックな肉料理をオーダーした。付けダレに辛味の効いた調味料が付いており、それが又夏の暑さをポ~~ンと吹き飛ばしてくれる。
 

 
昨年夏の今日と同じ頃、私はヴィエンタイの常連客の一人とSNS上で酷い口論になり、人間関係が拗れ、それが原因で店に行くことを控えていた。私と拗れたその人は仙川の住人であり同時にヴィエンタイの常連でもあるので、迂闊に店に行けばどうしてもどこかでは対面せざるを得なくなる。

そうはならないよう私は先方のテリトリーには近付かないよう気を張っていたが、一昨日辺り‥ ふと、サカオラさんの顔が脳裏に過り、彼女にどうしても会いたくなった。なので昨日・金曜日は夫に外出の許可を得て、兎に角仙川に向かったのだった。
 

サカオラさんと何を話したのかについては、当然ここには書けない。表には出せない内容が多かったからだ。
私とサカオラさんとは「そういう話」を躊躇いなく話せる仲。どうして、いつからそうなったのかは正直私にも分からないが、普段頻繁に会っているわけではないのに逢えばナイショ話に花が咲くのが私達流だった。
昨夜もそうなったが店が意外に忙しく、彼女と多くを話すことは出来なかった。
 

 
2時間強をヴィエンタイで過ごし、会計を済ませて外に出た時に、厨房からサカオラさんが私を追い掛けて来てくれた。そのまま彼女は厨房を放り出して、10分程度ではあったけど立ち話を楽しんだ。
 

段々と日が長くなり19時を過ぎても外は明るかったが、一度日が暮れてしまうと辺りは独特な夏の静寂に包まれ、もの悲しい空気に心が押し潰されそうになった。
きっとそれは、その場所が私の古巣の「仙川」だったから‥ かもしれない。

サカオラさんと少し立ち話をして、彼女とハグをして「また来るからね」と言って彼女と別れると私は、そのまま仙川駅とは逆方向に歩き出した。確かめたいことが幾つもあって、その幾つかをこの目で確認したかった。
 

学生時代に足げく通ったアンカーヒアのある通りを真っ直ぐに、母校の校舎に向かって突き進んで行くとその場所はいつの間にか別の店舗に変わっていた。
Facebookでは2018年3月4日以降店舗の更新が止まっており、その後何度か仙川に行った時も店はずっと扉を閉めたままだった。もう一度だけあの「唐揚げランチ」と「トマトシチュー」が食べたかったので、仙川に行く度に機会を覗っていた。

昨年5月までは確かに、そこに「アンカーヒア」の店舗だけはあったが、今日は跡形もなく消えていた‥。
 

立ち止まれば涙が溢れ出そうだったので、そそくさとそこを立ち去った。その足で昨年の同じ時期には未だ建て替え工事中だった、夜の母校(桐朋学園音楽大学)を見に、歩を進めた。
 

桐朋学園の現在の学生ホール (2022.06.17 21:10頃)

 
「もぐら」の巣と呼ばれた昔の校舎とは違う立派な建物が、そこに聳え立つ。勿論私の知る、遠い思い出の中の懐かしい校舎はもう、そこには無い。

同じ場所なのに違う世界がそこにはあって、私は何度も過去の記憶をダブらせながら「今」を認識しようと努めたが、なぜかどうしても今日に限ってそれが上手く行かない。
恩師・三善晃氏と過ごした時間はもう、ここには流れていない。同じ時の末端に居る筈。だけど今と過去とはどこかで分断されてしまった、そんな気がしてならなかった。
 
どこからともなく届くトロンボーンの音色。そこに折り重なるように、さらに遠くから微かに風に乗って聴こえて来るオーケストラの音色‥。きっとこんなに遅い時間だけど、学生オケのメンバーが音を重ね合わせているのだろう。
 

前に進まねば。ここに長く居たら気が滅入りそうだ。
そう思ったので私は又、元来た道を引き返したらそこに、こんな日に限って懐かしいブティックに突き当たる。本当に何と言う日だろう‥。
 

 
学生時代、未だ(亡くなった)母の虐待が日常的に行われ、思うように衣服も買えずに居た頃によく通りがかっていたブティックだった。
当時、学生の私には未だ背伸びしなければ着れない服だったが、今夜の私ならばこんな服も似合いそうな気がした。

もう母もこの世を去り、私のファッションの妨害をする人はこの世に一人も居なくなった。
さっき「ヴィエンタイ」を出た時にサカオラさんが、「アト、4~5キロ痩セタラモット綺麗ニナルヨ~」と言ってくれたが、確かに私もそう思っている。
存分にお洒落がしたい。昔、あの5人組のアイドルのステージ衣装のアイディアを昼夜を問わず捻り出していた時とは、何もかもが違う。今は自分自身を綺麗に着飾らせてあげたい。
 

‥色んな思いを巡らせながら向かう21時半の仙川駅は、何ともエキゾチックだ。もうけっして若くはない私が、若い頃の感性のフィルターをそこに重ね合わせながら見つめる仙川駅の広場は、傷だらけの当時の私とその傷跡を今も少しだけ滲ませている数十年後の私が出会う、唯一の交差点だ。

 

 
買ったばかりのOladannceのイヤフォンにDidier MerahのNew Motherを開通させ、大音量で聴きながら私は足早に京王線の駅に向かった。

微かに背後から、恩師の気配を感じた。振り返れば電車を何台も乗り過ごしてしまうかもしれない不安に駆られながら私は、「今」と言う時間と風をぎゅっと手に握りしめ、下りの電車に飛び乗った。

 

音楽から読み解く世界情勢 [2022.06.12]

特にどこかの企業から依頼を受けているわけでもなく、雑誌の連載を抱え込んでいるわけでもなく、毎週末の世界の新譜チェックはもはや私のライフワークとなりつつある。
勿論需要と供給のバランス等考えるまでもなく、これは私の為の記録の作業であり執筆活動である。

私がSpotifyやAmazon Musicに作り上げて行く各シーズン毎のプレイリストを、実際どのくらいの人たちが求めてくれているのかなんて考えるまでもなく、私は私のスタンスで音楽を通じて世界を見つめる。
 

世界は新型コロナウィルス・パンデミックに続いて、次の新たなパンデミックの流れへと既にシフトし始めている。
丁度先週某日に私は、以下の記事を躊躇なく更新している。

 


この記事には予想以上に多くの来訪者が世界各国からあるようだが、だからと言って私の言わんとするところを読者層が掴み取ってくれたかどうかはまだ判然としない。
そんな折、今週の新譜チェックの中にあの大御所 Paul Winter が『Ukrine Spring』を堂々リリースした。

 

 
楽曲『Ukrine Spring』にはPaul Winterともう一人、Henrique Eisenmannと言うブラジルのジャズ・ピアニストが参加しており、クレジットは二人の連名で記録されている。

Paul WinterについてはWikipediaをご覧頂ければと思う。
私はもうかれこれ数十年間彼の活動や作品に触れているが、今こうして彼のWikipediaを読んでみて気が付いたことがあるとすれば、意外に彼が日本国内では余り広く知られていないのではないかと言うことだった。
 

私がかつてL.A.と東京を往復していた頃、まさに世界はニューエイジ・ミュージック全盛期だったが、その頃日本はと言えば小室哲哉をはじめとするダンス音楽真っ盛りで、その頂点にTRFや華原朋美等が君臨していた。

世界と日本はそれだけ大きく価値観がズレており、日本国内で若干流行し始めていたニューエイジ・ミュージックもどこか癒し系パロディー音楽のジャンルのように扱われ、レコード店に行ってもクラシックとかジャズの棚の片隅に小さく新譜が陳列されており、その中の一枚か二枚程度が新譜として試聴盤を出しているような状況だった。

 


話しを『Ukrine Spring』に戻そう。
遡ること約一ヶ月前に、坂本龍一がPiece for Illiaをリリース。ウクライナの若きヴァイオリニスト、Illia Bondarenkoをウクライナ国内に実在する被災地の瓦礫の上に立たせ、坂本自身が書いたとされるウクライナ民謡そっくりのオリジナル曲をIllia Bondarenkoに演奏させた。

問題の動画が世界的に物議を醸しだして間もないが一方で、その陰にひっそりと隠れるようにして世界に発信された大御所 Paul Winter & Henrique Eisenmann の二人が奏でる『Ukrine Spring』は、しっかりと感覚を研ぎ澄ませて聴けば誰でも分かるように、圧倒的な存在感を放っている。
 

坂本龍一のPiece for Illiaと、対する Paul Winter & Henrique Eisenmann の二人が奏でる『Ukrine Spring』。両音楽の決定的な違いは後者の祈りの思いが圧倒的であること。
前者の「ウクライナの若きヴァイオリニストを瓦礫の上に立たせ、そこで作曲者・坂本龍一の音楽を演奏させる」のとは違い、Paul Winter & Henrique Eisenmann の両者が共に「己」を完全に消し去り祈りに没頭している点は、リスナー各自が絶対に無視してはいけない点だと私は訴えたい。

祈る人が祈りに没頭する時、そこに祈る人の存在が一時的に消失する。
視覚的な祈りではなく、ただ脈々と祈る思いだけが辺りを全て包み込み、それが音楽家自身であればそこに音楽だけが静かに紡ぎ出されて行くのみだ。

 

Henrique Eisenmann


Ukrine SpringでPaul Winterの背景で静かなキーボードを奏でているHenrique Eisenmannだが、普段はとても騒がしく刹那的なジャズを演奏している人物である。正直この種のジャズは、私は悉く苦手である。
だがこの『Ukrine Spring』の中のHenrique Eisenmannは別人のように、オーソドックスなクラシックスタイルのバッキングに徹している。
  

どういうわけか上記の楽曲のHenrique Eisenmannが演奏している箇所の音質が全体を通じて歪んでおり、使用している楽器も然程状態が好くないことも垣間見える。
さらに時々大胆なミスタッチが連発している様が専門家の耳には一目瞭然だが、それを超えて無休の祈りが音楽全体を包み込んで行くので、音質の歪みやらミスタッチなどもはやどうでも良くなってしまうから音楽とは誠に不思議なものだと思う。
 

対する坂本龍一は若きヴァイオリニストを瓦礫の上に立たせたことを猛烈にアピールして来たが、むしろPaul Winter & Henrique Eisenmann の二人が奏でる『Ukrine Spring』のレコーディングのロケーションがどうなっていたのかの方に、私の興味は移って行く。
そのロケーションがどうであったとしても彼等にとってはむしろどうでも良いことで、ただただ寡黙な祈りだけを音楽に乗せて世界の空に飛ばして行ったところに、本物の音楽魂を感じるのみである。

 

『お茶』 – UA

 
ここまでこの記事のタイトルから大きく脱線して、先週末の世界の新譜の一曲にスポットを当てて綴って来たが、今週のメインのプレイリストは M-54: 『お茶』 – UA からスタートしている。

 

 

J-Popはここのところ作りが大雑把で音楽未満の新譜が乱立しているが、この作品お茶はなかなか良い作品だ。
UAのこれまでの印象として強かった「粘りが強くしつこい歌唱表現」が一掃され、どこか海外のチルアウト・ミュージックにありそうな小ざっぱりとした短いブレスのライトなヴォーカルが爽やかで、個人的に好みである。
 

そして前記事Laufey from Icelandでも紹介した曲LaufeyのFragileが、UAの次に並ぶ。
 

 

実際に更新出来た楽曲の数が少ないのは、おそらく私の感覚(感性)の感度がさらに向上したことによるもので、選曲がかなり厳しくなっているのを自分でも感じている。

新しい感染症が全世界に拡散し始めている今、これから何が起きるか分からなくなって来た。
今聴ける音楽に集中し、これからも出来る限り良質な音楽を紹介出来れば良いと思っている。

 

 

音楽配信を目的とした楽曲作成のオーダーの他、音楽評論、レビュー or ライナーノート執筆、ラジオ番組用のBGM選曲、雑誌連載執筆及びYouTube出演や対談等、諸々用件・案件は、Twitter のDMないしは公式ホームページから、📨[info@didier-merah.jp] ⇦ までお寄せ下さい。
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戦争と音楽と坂本龍一

Piece for Illia、この曲を聴いた時に「あぁ又やったんだな、この人は。」と言うのがファーストインプレッションだった。
彼が何を又やったのかと言えば、勿論インスパイア音楽のこと。特に坂本龍一の場合、楽曲中のインスパイア成分が95%、残りの5%が坂本龍一の成分だと言っても過言ではない。
 

Piece for Illia


彼(坂本龍一)の場合、この現象は(私が知る限りでは)今に始まったことではない。
その昔はラジオ番組内各所に「新人発掘」なる企画を立ち上げては多くのアマチュア・ミュージシャン等から毎週のようにデモテープを募り、もしかしたら坂本のプロデュースの元にデビューが叶うかもしれないと言う夢を抱いた若者たちの希望の灯を、坂本はどれだけむしり取って来たことだろう。
 
看板「世界のサカモト」は私達、音楽仲間の一部では「パクモトリュウイチ」と呼ばれている。(※その時の衝動で何の躊躇もなく、坂本龍一が他のアーティストの作品を堂々とパクることからこの名が付いたと言われている‥。)
昭和から現在に至る数十年もの間、坂本のある種卑怯な作曲スタイルを内緒話として嘆く声も多数聞こえて来たが、数の力で多くの人たちの嘆きが闇に葬られて来た。
 
実は先程Twitterにも投稿したが、私は音楽家として今、とてつもなく腹が立っている。
 

 
勿論パクモト、‥じゃなくて、坂本龍一が同じ国籍の同じ音楽家であることも腹立たしいが、それよりも現在進行形で戦火にあるウクライナの民謡『Verbovaya Doshchechka』の美しい旋律をパロディーのように切り崩し、メロディーの一部の音の配列と音域を1オクターブ移動しただけでその他の音楽の雰囲気等を原曲の民謡そのままの状態で残した楽曲に対し、「作曲: 坂本龍一」とクレジットし、あたかもウクライナの悲惨な状況を嘆く体(てい)の楽曲として世に輩出した彼の言動はもっと許せない。
 
この作品には坂本龍一ともう一人、ウクライナのヴァイオリニストのイリア・ボンダレンコ氏がクレジットされている。楽曲はイリア・ボンダレンコ氏の音色に触発されたことから生まれたように、坂本龍一の談として言い伝えられている。

だが幾ら何でもウクライナの村の民謡に楽曲を似せて作った坂本自身の作品と言われるものを、戦火の真っただ中にあるウクライナの若い演奏家を起用した上、ロシア製の爆弾で粉々になった学校と瓦礫の上でそのヴァイオリニストに演奏させ、それをプロモーションビデオとして配信して平然としていられる作曲者(?)・坂本龍一の感性が余りに卑劣極まりない。
 

 
そこで私は Piece for Illia の原曲として演奏されたYouTubeを先ず探し出して聴いてみた。それが以下の動画である。
 

 
音楽に精通している人であれば一目瞭然だが、このアンサンブルには余計な西洋コードが加えられていない。
せいぜい旋律が三音以内に制約され、ルートとなるベースが固定されていない為、どこか伴奏のない女性コーラスに似た不安定さが楽曲の魅力となって聴こえて来る。
 

上のYouTubeの楽曲は “Verbovaya Doshchechka”。邦題だとカタカナで「ヴェルボヴァヤ・ドシェチカ」と書かれてあり、この作品はウクライナの村の民謡(春の民謡)と言われるものだそうだ。
とても美しい曲なので気になって、スペルを調べてYouTubeで検索したら以下の動画がヒットした。
 


やはり東欧独特の音の韻を踏んでおり、そこはかとなくアルメニア民謡にも通ずる哀しい中にも芯のある音楽が心に沁み渡る。
パクモト‥ じゃなくて坂本龍一はヴァイオリニストのイリア・ボンダレンコ氏ではなく、実はこの民謡に触発され、楽曲のインスパイア成分95%(ほぼウクライナ民謡)の旋律とかなり不自然な西洋コードを複合させた音楽を、物マネすれすれであるにも関わらず自身の作品と称して世に出したと言っても良いだろう。
 
あえてこれを「盗作」と言わないのは旋律が全く同じではないからだけであり、音楽は旋律だけで構成されている訳ではなく、コードやモード、楽曲のニュアンスや全体の印象も含めて楽曲が完成する。
 
何より心からウクライナ国内の停戦を願い、ウクライナの未来を祈り、尚且つウクライナ民謡 “Verbovaya Doshchechka” に触発されたと言う坂本龍一の声が真実ならば、何故原曲の民謡をありのままカバーしなかったのかが私には理解出来ない。
「インスパイア」と言う言葉を使いながらも最終的には坂本龍一自身の楽曲として世に出したかった彼の強い欲だけが、楽曲の前面に泥のように散乱しており、それらがウクライナ全体を酷く汚しているように私には思えてならない。
 

坂本龍一「ステージ4」のガンとの闘病を語る

 
昨日 2022年6月7日、早朝から坂本龍一についての不穏なニュースが世界を駆け巡った。
彼自身が今とても苦しい状況に在りながら、それでも彼が「パクモト」から抜け出せないのはやはり、生まれ持った彼の「業」ゆえなのだろうか‥。
 
仮に何かを盗むのであれば、せめてそれが愛する人の為に‥ と言う美しい美談であればまだマシだが、(例えるならば)ルパン三世の物語の主役が時折嘆く美しいつぶやきのような噂が彼の周辺から聴こえて来ることは、おそらく今後二度と無いだろう。
せめてこれ以上坂本が日本人或いは日本の音楽家たちの誇りを汚さぬよう、心から祈るばかりである。