主役は音楽

或る音楽ユニットのPVを観ている。カラグレに拘りを持っていて、確かに色彩センスは抜群だ。
‥だが皮肉なことに優れた色彩センスが音楽を完全に制覇している為、肝心な音楽が殆ど耳に入らない。 映像を観れば『あヾこの映像のバックにあの音‥』と想起出来るが、音楽が独立出来ないまま窒息している。

此れ、私がCMや映画音楽方面を敬遠した第一の理由に等しい。 映像を観れば音を思い出せるが、音楽を単独で聴こうと言う気になれないからだ。
 

少し話が脱線するが‥。上にも綴ったユニットの、新作のジャンルはLo-Fi Musicだ。
作曲者自身はアカデミックな音楽教育を受けているにも関わらず、自身のユニットのメインの方向性を「ポスト・エレクトリック」に傾ける一方で、最近はハードなEDMや映画音楽系のインストゥルメンタル等も増えている。
だがこの冬の新作はユニット名を変えながらのLo-Fi Musicで、Lo-Fiものに多い短編集のような短い楽曲が十数曲、軒を連ねる形になっている。
 
だがどの作品を取っても軸になるメインのメロディーが存在せず、さらに音加工に作為的に「汚し」を加えた「汚い音質」になっており、本来そのまま、素のままアウトプットした方が断然良さそうな楽曲が古着のジーンズのように汚し尽くされていて、聴いていて気持ちが塞ぎ込んで行く。

PV映像のカラグレが徹底的に美しいがゆえに、音楽の主役を全て映像に奪われた格好だ。音楽が自立出来ていないが、映像音楽としてはそこそこ成立しているので作者たちはきっと気分が良いのだろう‥。
 
話を元に戻そう‥。
毒親の実母は幾度となく、『何故人様に自分の音楽を使って頂こうと思わないの?』と耳にタコが出来る勢いでまくし立てて来たが、私は一切首を縦には振らなかった。
私は映像を主役に見立て、その補佐の位置に音楽を位置づけることを悉く嫌った。主役に相応しい音楽を助演に転落させてでも、自身が世に出たい‥ 等とは一度たりとも思わなかった。
 
当時作曲科の先輩の一人がPARCOのCM音楽でアタり、それを機にCMの人に変貌して行く様を傍で見ていた。
多くの母校の作曲科の後輩たちが「彼」に憧れ、中には用もないのに「彼」の取り巻きみたいな座に居座り満足している人たちも現れたが、それを見て私は「彼」に対して一気に萎えた。
PARCOのCMで大当たりした「彼」はほどなくしてピアノ科に所属していた冴えない女性を恋人にし、彼は多くのピアノ曲を書いては「彼女」に演奏させていた。
 
大義名分が出揃ったところで、二人は堂々と校内でつるんで歩くようになった。
「彼」が作ったピアノ曲を「彼女」が演奏するのだが、皮肉なことに「彼女」よりも「彼」の方が演奏の腕は上だった。
にも関わらず「彼」は「彼女」と何としてでも「音楽の繋がり」と言う大義名分を守る為に、自身が書いた現代音楽風のハチャメチャな楽曲を自分よりも圧倒的に技術の未熟な「彼女」に演奏させた。
 

「彼女」は元々(正直に書くが‥)女性としての魅力に欠ける人だったが、母校の優秀性でPARCOのCMで作品がアタり始めた「彼」との仲をアクセサリーのように着飾るようになったせいかそれ以前にも増して、自信と欺瞞の間を行ったり来たりする醜さを身に纏うと一気に汚れて行った。
あくまでこれは私が傍目から「彼女」を見た感想なので、実際にそうだったかどうかは定かではないが、年中生理用品の臭いを体じゅうから放つ汚物のようで、校内ですれ違っても絶対に近寄りたくない相手だった‥。
 

間もなく私はピアノ科を卒業し、作曲科に転科して母校の「研究科」に進学したが、余りの内容のつまらなさに満期(2年)まで終了することなく途中退学し、その足で実家を出た。
 
[中略 ─ ]
 

 
若くて尖った時期をマイナーな民族音楽やらシャンソン等に捧げ尽くす一方で私は、それとは真逆のアイドル業界で『お手伝い』みたいなことをやり続けていた。
メンズ・アイドルグループのシングル曲の選曲や、コンサートやポスター撮影の彼等の衣装のセレクトから買い付け等をサポートしていたが、そのことを当時の近しい友人知人だけが全く知らなかった。
 
メンズグループのとあるヒット曲を最後に私は、彼等の「お手伝い」を完全撤退した。その後から彼等の楽曲の質が低下の一途を辿り始め、段々と彼等の活動から華やかさが抜け落ちて行った。
だが肝心の私は彼等を通してやりたかったことの全てを達成し、皮肉にも彼等の活動とは逆に完全燃焼した感が強かった。
なので当時表向きにはまだ売れに売れていた彼等の傍を後腐れなく、むしろ潔く離れることが出来た。
 

2022年、58歳。ようやく私は『音楽家』『芸術家』を名乗れるようになった。
心の中、脳内から無駄な音、無駄なノイズの大半が抜け出た分、どこでどんな音楽に接しても全く惑わされずに自分自身の表現手法に集中出来るようになった。
 

思えば若かりし頃、毒親の呪いの言葉に足を取られずに済んで本当に良かった。 もしもあの時母の怒りを鎮める為だけの理由で映画音楽やCM音楽の制作者になっていたら、多分現在の私は存在しなかっただろう。
 
私の力量を真っ先に見出し私を芸術家に育て上げてくれた今の夫に、心から感謝を述べたい。
 

58歳 (58 years old)

昨年暮れから我が家は色々大変でしたが、何とか2022年11月3日、58歳の誕生日を無事に迎えることが出来ました。
正直ここまで生きて来られたことが不思議ですし、奇跡です。
 
もしも私が2011年の冬に以前の仕事(シャンソニエの伴奏業)を退いていなかったら、今頃私はこの世には居なかったと思います。
2011年の震災を機に色々思うところがあり、そこに夫の貴重なアドバイスが重なって、2011年の11月末に思い切って前の仕事を辞めて本当に好かったと、今だからそう思える自分がここに居ます。
 

 
私の実家の人たちはもう、誰もこの世に居ません。
 
私にとってはいわゆる「毒親」「毒弟」たちが集う場所。あれだけの毒が充満している家では、流石に長生きすることは難しいでしょう。
なので私は24歳で家を出て、そこから紆余曲折あったことには違いないですが、あの時の決断はけっして間違いではなかったと思っています。
 
家を出る最初の切っ掛けは略奪婚でしたが、ああでもしなければ私は「毒家族」たちにとことん身も心も搾取され続けたでしょうし、今日を迎えることなど出来なかったと思います。
 

 
2022年11月3日、都内のホテルコンチネンタル府中内の「レストラン Colt」を予約し、厨房からは総料理長と洋食の料理長、そしてパティシエその他の方々、そして総支配人まで駆け付けて下さり、可愛い女性スタッフのバースデーソングを聴いた時、正直泣きそうでした。
 
幸先の良い一日だったと、心から思います。
 
そして以前私が熱く関わっていた(皆さんもきっとご存じの)某5人組男性グループの育ての親(Jさん)の御霊もふっと現れ、その後ろには私が過去世「ファン・ジニ」だった頃の師匠が何故か仁王立ちの笑顔で控えておられました。
 
益々長生きして、そしてとことん利他的に、徹底的にストイックで辛辣な生き方(人生哲学)を今後も貫いて生きて行こうと心に決めました。
 

PS: LINE、TwitterのDM、Facebookのメッセンジャー等にお祝いのメッセージ(お祝いの品等もありました)を寄せて下さった多くの皆様に、この場をお借りして心より感謝を申し上げます❤
 

2022年10月7日 ツイートのまとめ

久々に恩師・三善晃氏にまつわるツイートや、私の過去世の断片を綴ったツイートが連発しました。
記録がてら、この記事に一旦まとめておきます。
 

 

 

 

 

 

 

Return to the Forest

先日私の住む町で大きなお祭りが開催され、町中がお祭り一色で塗り潰されて行きました。
数年振りの祭り開催で人々が賑わい集う一方で、街路樹の木々たちは次第に寡黙になって行きました。普段ならばむしろ私の方が「いい加減にやめて欲しい」と感じる程に大らかに歌を歌う木々たちが、町中で繰り広げられるお囃子やそれに群がる人々の喧騒に対して不快感を露わにする様子を、私はつぶさに感じていました。

お囃子と電飾を担いだ多数の山車で大通りが賑わい始めると木々たちは益々不機嫌になり、祭りが終わる時刻が近づくにつれ私は、その影響で全く起き上がれなくなる程の筋肉痛や強烈な頭痛に見舞われました。

 

 
この数年間で地球全土に広がった新型コロナウィルス・パンデミックの背景に自然神や地球上の精霊たちの思惑が潜んでいることに、どれだけの人たちが気付いているでしょうか‥。
 

色々な噂が陰謀論と抱き合わせに広がっては否定され、なじられたり揶揄されて来ました。ですが一つだけどこからどう攻めても崩れ落ちない事実があるとすれば、発祥不詳な前代未聞のウィルスとの闘いが現在も地球全土で続いていると言う事です。
 

最初は「グレートリセット」や大幅な「人口削減計画」等と言う言葉と共に否定されがちだった色々な噂が、次第に現実味を帯びて行く今日この頃。
段々と新型コロナワクチンの副反応(副作用)による危険な実態がSNS上でも明らかになり始め、これまで二度~三度とワクチンを接種して来た人たちでさえも「四回目は打たない」と言う密かな決断を選択しています。
 

問題はこのパンデミックが元々は自然神や地球上に点在する精霊たちの思惑の側であり、彼ら‥ 精霊たちは既に「人間」と言う生物を危険認定したと言う点にあるでしょう。
人類は数年間、生活に必要な必要最低限の活動のみに行動を制限し、兎に角人類全体が大人しくしてくれればその間に地球上の大気の汚染も改善され、さらには新たなウィルスの移動や拡散も防げただろうに、人間と言う生き物は群れて集って騒ぐことに躍起になり、地球各所でロックダウンが施行されても数か月とその沈黙を維持することが出来ませんでした。
 

たった数年間、人類が各々の場所で静かに生活を営むだけで良かったにも関わらず、多くのロックダウンは数週間から数か月間で解除され、その途端に上空をこれでもかと言う数の飛行機が移動し、地球の各所で大勢の人々が集う祭りやイベントが再開されて行く始末。
 

 
ヨーロッパの大半はその昔、全体が大きな森でした。その偉大な森を人間が無制限に開拓し、今の都会的なヨーロッパへと変えてしまいました。
今、木々たちや精霊たち、自然神等は人類の開拓によって失われた森を取り返そうと考えています。
 

そして心の中で、こう囁いています。
『どうしても私たちの願いを聞き届けてくれないのならば、人間どもよ、あなたがたが森になりなさい。』‥
これが何を意味するかを考えると、今現在起きているウィルス・パンデミックの真の理由と意味が必然的に明確になる筈です。

夫・天野玄斎の予言によれば、近い将来、特にヨーロッパの多くの都市が機能しなくなるとのこと。
つまりヨーロッパの大半が元々そうであったように、森に返るのです。多くの人々が強制的に土に返され、魂の一つ一つが木々として生まれ変わり、地球再生に手を貸すことが必須となるでしょう。
 

人類は先ず、群れて集って騒ぎ立てる生き方を止めなければなりません。
兎に角静かに、兎に角厳かに、自分の傍に常に小さな乳飲み子が眠っている時のように細心の注意を払い、大声を出したり大きな音を立ててはいけません。
今賛否両論を巻き起こしている「黙食」は、さしずめその人類に課された「寡黙の使命」の一つと思って間違いないでしょう。
 

人類が森や地球上の生き物の生態系を分断し破壊したのと同じく、次は木々や地球上の精霊たちが自らの意思で人間に同じミッションを課しているだけのこと。
人類は彼らの要求を先ず、完全に呑まなければなりません。
 

 

2016年7月2日、Didier MerahはSacred Forestと言うピアノ・アルバムをリリースしています。
 

 
このアルバムの冒頭の作品がReturn to the Forest

当初私はこの曲の本当の意味に、未だ気付いていませんでした。
ですが新型コロナ・パンデミックに数年間振り回された後の今、振り返ればこの作品Return to the Forestの本当の意味に気が付かざるを得ない状況に、自身が置かれているのを感じます。
 

これは単純に「森に帰る」と言う意味ではなく、精霊たちが、多くの森を奪った人間たちを全て地中に埋めて森を取り返そうとする意志を、無意識のうちに私が音楽に置き換えていたと言う意味に捉えて下さい。

勿論、皆様も既にご存じの通り、Didier Merahの殆どの音楽は予言と預言で出来ています。
当然不穏な予言に於いては、その予言を回避する旨も音楽の中に封印して配信しています。
 

危うさと凶暴性の共存 – Coexistence of danger and ferocity

表面的にはこの二か月間以上、「世界の音楽」の新譜チェックとプレイリストの更新を止めていますが、水面下では色々と動きが活発で若干忙しくなっている私です。
 
私自身の音楽の今後を見据えている時期と重なるように、各方面のタレント系或いはパフォーマンス系の裏方からのアクセスも増えています。
ですが私は自身の創作活動を最優先している為、今後「裏方」の仕事に絡む気が全くないことを、一先ずここで公言しておきたいと思います。
 

世界が負のエネルギーに強く揺さぶられ、明らかにマイナスの方向へと突き進んでいる現状に比例するように、ネット上に更新されて行く音楽も「負」の面を表にしながら後退しているように私には見えて仕方がありません。
特にピアノ・インストゥルメンタル系やLo-Fi系の新作の多くが音質及び楽曲構成に「歪み」を生じさせていて、何故そのような方向性に多くの同系統の音楽家たちが一気に突き進んで行こうとするのか、私はその状況に一種の恐怖を感じます。
 

 
最近知ったのですが、昭和のニューエイジ・ミュージックの先頭を切って走っていたカナダのアーティスト、アンドレ・ギャニオンが2020年12月3日にひっそりとこの世を去っていました。
残念なことに日本国内に、彼ほど良質なニューエイジ・ミュージックを生み出すアーティストが存在しません。
ですが類似品や模造品のようなものを作り続けているアーティストは若干居て、この「誰もが対等なスタンスで音楽配信の出来る」今の環境下で彼らは競うように切磋琢磨しながら、歪みの深い不可解かつ不快な音楽が多く配信されています。
 
特にアカデミックな教育を受けた人材が一度道を踏み外すと、ある種の自信や自負の念が悪い意味での拍車となりどこまでも転がり落ちて行ってしまうのは、傍から見ていて胸が詰まります。
自身が持つ「アカデミック」がつまらなく見えて来る瞬間があるのか、元々持っている秀逸な才能を破壊衝動の側に向けてしまう人たちが後を絶ちません。
 
ですが忘れてはいけないことを一つ挙げるとすれば、たった一曲の作品と百万曲の商材音楽とでは数の上では後者が有利だとしても、最終的に後世に受け継がれて行くのが圧倒的に前者であると言うことです。
その「たった一曲の芸術作品」を生み出す人の人間性もおそらく寡黙で頑固な故に、多くの商材音楽を生み出す人の「華」に圧されて負けてしまうような錯覚に瞬時的には陥るとしても、最後の最後は亀の速度で全ての小走りなうさぎたちを圧倒して行きます。
 

 
上の動画は亡くなったアンドレ・ギャニオンの作品の中で私が最も好きな一曲『Épilogue』ですが、原曲のリリースが古い為、サブスクリプションからの配信が遅れているようです。
 
アンドレ・ギャニオンのヒット作品と言えばめぐり逢い明日等が挙げられると思いますが、あくまで上に挙げた2曲は「商品」であり、「作品」と言うには出来栄えが悪すぎます。
にも関わらず、いかにも目立ってメディアや広告業界が推している作品の方へとリスナーを誘導して行く流れは相変わらず止まることが無く、いずれそれがどこかの時点で決定的な音楽文明の消滅の引き金を引く日が来ることを、私はとても危惧しています。
 
多くの人々は目に見える「滅び」に直面しなければ、のらりくらりとそれまでの物事の流れを維持出来ると思っているようです。

私自身、こうして自分以外のアーティストの作品を紹介したり評論したり‥ と言うアクティビティーで、衰退の一途を辿って行く音楽文化の維持に手を貸している一人なのかもしれません。
ですが少なくとも「正しい音楽」或いは「良質な音楽」の紹介や、それらの見分け方のヒントを丸ごと公開しており、少しでも良い感覚を持ったリスナーが自信を持って他の人たちに胸を張ってその旨を伝えられるよう、沈み行く音楽文化の下支えの一端を担えれば良いと考えています。
 

 
先日、少しだけプレアデス星のセムヤーゼ女史と「音楽」の話になりました。
彼女こそ地球上で当時最もヒットを飛ばしていたビートルズのロックンロールに傾倒した一人でしたが、或る件で長い長い眠りに落ちてそこから目覚めた時に最も聴きたい音楽がビートルズでも何でもなかったと、私に話してくれました。
先日崩御されたエリザベス女王に関してはと言えば、女王の中で今も生前の記憶として残っているものを挙げるならば「パイプオルガン」と「クラリネット」の音色だそうです。

両女性共に単旋律を聞き取る力は備わっているものの、コード(和声)やコード・プログレッションを聞き取るには至らないようです。
 
つまり人間の場合(プレアデス人も含む)、一個の音楽を聴く時に最初で最後に心と記憶に残るものは歌詞でもコードでも表現者の声色でもなく、単旋律の美しさのみだと言っても過言ではないようです。
 
いつか訪れるその日があるならば私は、是非プレアデス星のセムヤーゼに自身の音楽を届けたいと言う夢を抱いています。
それは私の創作の目下の課題の一つであり、今世で辿り着く可能性のある最終ゴールとなるかもしれません。
揺れる黄色いテープを目指し、これからも預言や予言、或いは自然神の声をそっと封印しながらの私の音楽作りの人生は止むことなく続いて行くでしょう。
 

小さな日記

とある出来事から生活環境が変わり、生活環境の変化が食生活の変化を生み出した。
食生活の変化はものの考え方の基本を根底から揺るがし、昨年まではただただ倹約(節約)に忙殺されていた暮らし方の根底が見事に変わった。
 
つまりそれまで観続けていた貧乏飯の動画を観る必要がなくなった。
 

 
何かと味の素を乱用している某YouTuber(リュウジさん)の動画に逐一キレていた日々を脱し、今はオテル・ドゥ・ミクニさんの動画から多くを得ている。
良い食事と食生活は時間のゆとりを生み出し、それが家庭で作る料理の質そのものを向上させて行く。
 
因みに前回の転居の理由はDidier Merahのアンチから夫婦二人の身を守る為の一種の避難行動だったが、今回はそれとは違う。
これまでの人生に必要だった荷物や生活必需品の大半が、要らなくなった。
新居に持ち込める荷物は限られている。教員免許と卒業証書以外、荷物は何も要らなくなるかもしれない📦
 

 
生まれて初めて大粒のルビーのペンダントを買った。これ、なんと2カラット。
 
他の石も少しずつ揃えて、アクセサリーBoxが少しずつ華やいで行く。‥するとそれまで身に付けていた天然石のブレスレットが、あからさまに釣り合わなくなった。
良いものを知るとは、こういうこと。
 
両耳合わせて4つのピアスホールを空けているので、ついでにダイヤモンドのピアスも買った。半年前まで付けていた複数カラーのジルコンのピアスを、遂に手放す時が来た。
身のこなしがどこか堂々として、それが新たな優雅さを醸し出す。
対人関係にも大きな変化を余儀無くされている。

だがここは注意すべきポイントで、私がどう変化しようがしまいが変わらず関わって行くべき人たちのことを、私は忘れてはいけないと思う。

※勿論私がみすぼらしい身なりだった時から私の本質を見抜いて、そして分相応の接し方をして来て下さった人たちに限る。

 

バッハ (J.S.Bach) と言う過去生の自分

私が過去世 ヨハン・ゼバスティアン・バッハ であることは、あくまで私の過去の魂の履歴に過ぎません。
何故自分がその人であることを確信するに至ったか‥ と言うご質問はこれまでにも何度か投げ掛けられていますが、それは簡単に言えば「あなたは何故自分が人間であると確信するに至ったのですか?」と言う質問と、内容はほぼ一緒です。
なので答えるまでもありません。
 

他人事としてバッハの偉大さを挙げるとすれば、例えば以下のようなことになるでしょうか。
 

  1. 教会音楽、或いはゴシック様式の礎を築いた最初の人であること。
  2. 対位法と言う前人未踏の音楽理論を確立した、最初で最後の人物であること。
  3. 即興演奏の名手であったこと。これが後のサロン音楽文化の基礎となった点は見逃せません。
  4. 空間音響学の基盤を構築した最初の人物であること。
  5. 何より音楽全般の父として、作品や生き様、音楽理論に於ける彼の多くの実績が後世に受け継がれていること。


挙げればきりがないのですが、現在私が次世代の音楽の基盤を新たに構築している点を理解出来る人であれば、私がその人 ヨハン・ゼバスティアン・バッハ であったことに於いては矛盾を感じない筈です。
ですが全てはあくまで、私の過去世の魂の変遷でしかありません。私は私、Didier Merahでありそれ以上でも以下でもないと同時に、現在に至るまで私のような人物が二人と存在しないことも又事実です。
 

 
Didier Merahは現在、自身の半生のお片付けの真っ最中です。未だ手の負傷も完治していないながら、新作のメモだけは日々湧き出て困っています(笑)。
人生の大掃除中にて、暫くは音楽評論や音楽紹介、音楽鑑賞にエネルギーを注ぎながら次の自分に備えて準備中です。
 
作品のみならず生き様を含む全てを次世代のサンプルとして確立しようと試みている最中なので、これからの私の言動はきわめてシンプルできわめて歯切れの良いものに進化して行くことになるでしょう。
 

一見優しい音楽を生み出している私ですが、言葉はとても辛辣でストイックです。
付け焼刃な甘ったるい同情は、一切しないことをポリシーとして生きています。私に何かしら話し掛ける時は、「歴史上の音楽の父」として、そして「次世代の音楽の母」を目の前にしていると言う気概と覚悟をもって接して下さい。
以後、このルールに反する内容(言葉遣い含む)のDMやメールには、返信はしないつもりです。

礼節は尽くして下さい。お願い致します。
 

 

Chouchou(シュシュ)と最果ての女神

かねてから私が個人的に注目している日本の男女(夫婦)のユニット Chouchou が、2年振りにニューアルバム最果のダリアをリリースした。
 

 

アルバムタイトル『最果のダリア』の「最果て」の「て」をあえて抜いている理由について、彼等は一言も語っていないが、日本語として「最果て」から「て」が抜けていると若干違和感を感じる。
私が実はコテッコテの日本人だからなのか、それとも否か‥。おそらく「最果て」から「て」を抜いたことには何か、彼等なりの理由があるのだろう。そう思うことにしよう。

今回のアルバムで注目すべき点は、さっと要約すると以下の3点に集約される。
 
juliet Heberle のヴォーカルが穏やかに、尚且つ無理のない発声になったこと。そして彼女の歌唱表現から承認欲求が、完全に抜け落ちた点。
 
②何より arabesque Choche のメロディーメイクがシンプル化し、これまでのアルバムに見られる過剰で不要な冒険欲が一切削ぎ落とされた点。
このことによってメロディー自体が普遍性を帯びたことは、他のJ-Pop系のライター陣の域を一歩二歩飛び出て、楽曲全体のクオリティーが格段に向上した。
 
③ゲストプレイヤーとしてギタリスト maya Kawadias が参加したことにより、これまでの「俺って凄いぞ!」的な、Chouchouの楽曲全般に横たわっていた嫌味が全て抜け落ちた点。
そのことにより、むしろユニット Chouchou のカラーが際立って来たことは皮肉とも言えるが、私は良いことだと捉えている。

 

juliet Heberle の真骨頂は「声」ともう一つ、独特な「詞」の世界。本作品最果のダリアでもそれは引き続き健在であるが、むしろ以前よりもシンプルで歌詞表現が控え目になった分、楽曲に詞が乗った時の音速が飛躍的に向上した点は見逃せない。
それでいて、歌詞だからゴロ合わせでしょ?と思われそうな随所随所であっても、その作品自体を散文詩としても読ませてしまおうと言うこれまでの意気込みは変わらない。
つまり完成した歌詞であると同時に、未完成(楽曲の余地を残したと言う意味)な散文詩として完成されている。
 

あえて一曲一曲の詳細の解説は、私自身の作品ではないのでここでは割愛するが、このアルバム全編を聴いた後にふと、岩崎良美の過去のアルバム『月夜にGOOD LUCK』の冒頭の『夏の扉』が心の中に現れた。

 

 

岩崎良美はこのアルバムをリリースした直後に或ることが理由で声を失い、一度芸能界から身を引いている。
この曲夏の扉(作詞: 長谷川孝水 / 作曲: Bobby Watson)で、岩崎良美はそれまでの楽曲全般に見られた、生まれ付きの「美声張り上げ系」の歌唱スタイルをガラリを変えて、出来る限り静かに静かに、静寂を壊さぬ声量と表現スタイルをキープしている。
今にして思えばこの頃から彼女のメンタル或いは体のどこかに変化があり、こういう歌い方になったのかもしれない‥ と憶測することも出来る。あくまで憶測の域を出ないが。
 

一方Chouchouのアルバム最果のダリアでヴォーカルと詞を担当している juliet Heberle の場合も声質の変化を私は見逃さなかった。
ここではあえて理由詳細の記載はしないでおくが、以前のアルバムと比べると彼女の声のホワイトノイズ系の成分が増している。
それが理由で、それまでの彼女が持っていた高音域のツヤ感が消えたことによりむしろ、彼女の声質の少女性から女性性への、声の変貌を感じ取ることが出来る。

聴く人によっては、それを「母性」と感じる場合もあるようだ。私の場合は「母性」と言うよりもっと広い意味での「女性性」を、彼女の声から感じて仕方がない。
 

彼等は自身の音楽を「エレクトロニック」とカテゴライズしているが、本来ならばもっと広いカテゴリーである「J-Pop」に分類しても良さそうだ。だがそのカテゴリーでは上に上がつっかえており、色々ブランディングの観点からもやりにくいのだろう。

だが arabesque Choche  の才能あふれるメロディーメイクの才能を、「エレクトロニック」や「ポスト・エレクトロニック」等のマイナー・ジャンルに閉じ込めてしまうことにより、そのジャンル・カテゴリーでは確かに首位に駆け上がれるのかもしれない。だとしても、arabesque Choche 自身の持つメロディーセンスがこの、地味なジャンルの彼方に追い遣られるのは、ただただ勿体なく感じてならない。
 

今回のアルバムで特に印象に残った作品は、『Sapphire』『Flashback』。そしてもう一曲、Orionである。本音を言えば、私が今現在「歌もの」のメロディーメーカーを辞めていて良かったと、胸を撫で下ろした。
楽曲Flashbackでは arabesque Choche のサブドミナント発車のメロディーに、 juliet Heberleのシンプルで洗練された言の葉ワールドが控え目なのに、大胆に炸裂して行く。

 

 
そしてM-7Orionを聴いた時、 juliet Heberle の背後に突如中森明菜が現れた。彼女なら、この曲を違う視点で見事に歌い込むだろう‥ と。
当時私が芸能界で何をやっていたかについては触れないが、ふと、中森明菜のJEALOUS CANDLEが蘇った。
 

 

名曲は時空を超える。私はそう確信している。
勿論両曲を比較することなど馬鹿げているが、名曲を論評する時はその対象として名曲を持ち込んで比較することが望ましい。

又、 arabesque Choche の編曲の随所に、どこか坂本龍一氏の「耳」の片鱗を感じるのだ。もしもこの楽曲に maya Kawadias が参戦していなかったら、もっとそれが露骨に感じられただろう。だがことある毎に maya KawadiasがChouchouの空間に茶々を入れるので、 サウンド全体が丸みを帯びて深みが増して行く。言ってみれば maya Kawadias はChouchou邸の座敷童のような存在に近いかもしれない。
上手に上手に二人を邪魔しながら、幸運の種を蒔いて行く不思議な人だ。
 

楽曲Lovers & Cigarettesの冒頭から、 juliet Heberle の声の背後にうっすらと男性のヴォーカルがかぶっている。この手法が妙に坂本龍一氏の「耳」を彷彿とさせ、何やら私は懐かしい。
そしてM-5Girlの中サビの、男性ヴォーカルがうっすらと顔を覗かせる瞬間、arabesque Choche の背後霊のように坂本龍一の「耳」が金粉を撒き散らす。

 

 
このアルバムの音楽評論を書くにあたり、私はこれまでの数十年間の新旧J-Popを引っ張り出して彼等のテイストと何が異なるかについて、丹念に紐解いて調べて行った。
そして何を比較対照として並べて行くべきかについても色々考えあぐねたが、殆どのJ-Popが Chouchou のその輝きに惨敗した。

佐野元春、松任谷由実、中島みゆき、椎名林檎、宇多田ヒカル、藤井風…、雑魚ではなく良質・売れている作家を比較してもっとゴリゴリ語り潰したかったが、Chouchouの音楽がそれを許さなかった。

音楽評論をする時、何が良くて何がいけないのか‥ を綴ることは必要最低限のルールである。なのでその為の音楽資料を探したが、むしろ比較することが罪であるかのように、arabesque Chochejuliet Heberleの二人の睨みに評論する側の私が推し潰されそうだった。
 

最近の多くのメロディーメイクは、佳境に差し掛かるとラップに逃げる傾向が強い。殆どのJ-Pop、K-Popを含むアジアのポップス全般にそれは見られ、全体を一個の音楽として魅せて行く音楽が激減した。
だが未だ、Chouchou が残っているではないか!
 

心に残る音楽、記憶に残るメロディーの最大の武器は、旋律の帯である。

ヴォーカルの癖に逃げ込むことなく、何があってもヴォーカルが最後の壁一枚で音楽や楽曲を守り抜かなければならない。その力が Chouchou にだけ備わっているのは、一体何故なのか。

常に音楽を「声」と言う壁一枚で守り抜く juliet Heberleの歌声には、何かとてつもない大きな悲しみや痛みが宿っている。それがどの楽曲であっても脈々と音楽を溶かし込み、聴き手にその一部を悲しみのトリガーとして刻み付けて行く。
だがそれはやがて、愛、優しさを湛えながら大河となって聴き手の心を上から下へと滑り落ちて行き、体や魂のど真ん中の「心」へと激しくたたみかける。
 

日本のメロディーメイカーがこぞって失ってしまったもの(大自然にも通じる何か)が、ここ Chouchou の世界には未だ、ほぼ手つかずのまま残っている。
フランスの名水Volvicが遂に今年、地球から姿を消してしまったがそういう事態にならないように、是非とも透明で澄んだまま Chouchou には生き続けて欲しいと願わずにはいられない。

 

 

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オーダーを遥かに上回るクールで奇想天外な記事を、筆者の豊富な脳内データから導き出して綴ります!

虹とシュールレアリスムとランチ

木曜日。本当ならば週一回の自由日、安息日の今日だが、予定では自宅で静かに読書でもする筈だった。
だがこういう日に限ってLINEがポンポン鳴り始め、私はAKB48全盛期の前田敦子のように、町の知人・友人達とランチのご相伴の取り合いになる寸前だった。

誰にも会いたくない日があれば、誰かと会ってこの瞬間を分かち合いたい日もある。
今日は後者だった。

少し眠って体力も戻っていたので、若干重たい話題でも何とか心身耐えられそうだと考えていると、その「重たい話題」をふんだんに持っている人物(A氏)からLINEが入り、「霊の話で申し訳ないのだが付き合ってはくれまいか?」とメッセージ。
他に二人からLINEが折り重なって届く中、最も話題が重たくなりそうな人物を私は選ぶことにした。

 

話題は重たいが、冗談抜きで財布はかなり軽くなっていたので、幾つか安い価格のランチをセレクトして現地に向かう。
第一候補の店舗にどうやら新型コロナ肺炎の陽性者が出たようで、その店舗は今月一杯臨時休業の看板が出ていたので、直ぐに先方に連絡して待ち合わせ場所を駅ビルに変更した。
そして第二候補の店舗がランチタイムに開店している状況を確認して約束の場所にむかおうとしたところで、申し合わせたように待ち人来たるでそのまま目的の店舗に直行した。

 

 

私はあいにく見逃してしまったのだが今日、早朝の空に圧巻の虹が出現したようだ。その様子を写真で見せてくれるA氏。

━ 最近やたらと虹が多く出るには理由があってな、コロナ禍で多くの旅人が出る時にあちらの世界へ行く橋が滞らないようにと、自然神が気を利かせるらしい。
それで空に、例年よりも多くの虹の橋が架かるそうだよ。


彼の話しも私に負けず劣らずシュールで、尚且つ生粋の霊能力が彼をそうさせるのか彼の話しには妙な説得力がある。

今朝、私も妙な時間にある珍事に振り回され、そのまま目が冴えて眠れずに居たところに窓からいきなり真っ赤な光が射し込んで来た。
いつもならばスマホを抱えて外に出て写真を撮りに行くのだけど、私は油断をしていない。どんな時にも新型コロナウィルスの変異株は身近にあることを意識しており、迂闊に外出はしないことに決めている。

無事に生き延びられれば、明日も来年も空を見上げる機会はふんだんに訪れるだろう。そう思い、軽く冷水を浴びて体を冷やして布団に入ったその後に、どうやら大きな虹が空に架かったようだ。

 

心眼が機能し始めると、途端に周囲の色々な現象の緩さを感じ、自分だけが少し秒針の早い時の流れの中に生きているかのような苛立ちに苛まれるようになる。
今朝起こった珍事も、そんな私の少し速い時の流れと相手との微妙な日常のズレ感が引き起こした事故のようなものだった。だが、今朝の私は「闇のカン」が異常に冴え渡っていた。

 
湧き上がる怒りを解き伏せることはせずに、私はその相手が二度と私に関われないよう、SNSの中の一個のネジをきつく締めてアクセス拒否を施した。

 


霊能者の彼も、そして芸術家の私も、各々の生活は実に慎ましいものである。
包み隠さず書くならば、今日のランチはコーヒー付きの中華で価格は650円だった。その650円を大の大人がそれぞれPayPayで支払い、それでもその瞬間会える奇跡を噛みしめ合っている。
 

年齢で言うならば私はもう、一般的には役職に就く年代に入っている。だが私は生粋の芸術家。
タレント活動もせず、スポンサーも付けず、日々を音楽と祈りと色々な世界の住人や神々との交信に、人生の全てを捧げ尽くして生きている。それはおそらく多くの人達には理解出来ない真の私の姿であり、それゆえに私は度々人に蔑まれ、差別を受け、偉そうに私の作品や生き方を批評(主に否定や拒絶)する輩も後を絶たない。

 
多くの音楽愛好家たちは、芸術家とアーティスト、アーティストとタレント音楽家の区別がついていない。それを彼等に教え諭す職に在る人達が、ある時期からごっそりと姿を消してしまったからだ。
だから私はそのようなおかしな常識(非常識とも言えるだろう)を正すべく、これからは自身のファンと言えども「ものの格」「ものの見極め方」をしっかり教育して行く必要性と危機意識を同時に感じている。
その為には先ず、私が手本を示さなければならない。
 

 

極力優雅に高飛車に、そしてクールに嫌味ったらしく相手をひざまづかせるまで、私は問い掛けの手を緩めぬことに決めた。

 

人の何倍もの人生を瞬時に生き、最近では色々な神々との交信に多くの時間を割いている。そしてその過程と経緯を全て含めて、自身の音楽に刻印している…、そんな作曲家が他に居るだろうか?
少なくとも私は未だ、そのような芸術家を見たことがない。
 

未だ誰も視たことのない、誰も知らない、誰も触れたことのない価値観や世界観を作品化する、それが私の今世の最大のミッションかもしれない。
理解出来ない相手には、とことん理解を促すか或いは互いの傷が浅いうちにそっと距離を置いて関わりを絶つか、何れかの二択である。
 

 


今朝の朝焼けは圧巻だった。
神々から人類への最後の執行猶予は、きっと人々の口元から言葉を全て奪い去って行く氷のような恩情に満ちており、それを感じ取った人々を静かにひざまづかせて行く。

それが神々の愛であり、人類は未熟ながらもそんな神々の「恩」を誠実な思いで受け取らなければいけない。

 
2021年8月某日、夫・天野玄斎と私は二人揃って「霊質学者」の称号を名乗ることに決めた。これは私達が… ではなく、プレアデス星団のJane女史が決定したことだ。
ありがたくその命にあやかりたいと思う。

そして同じくJaneは私に「比較音楽学者」を自ら名乗るべきだと言ってくれたので、その名に恥じぬよう今後ますますの精進を心に誓った。

 

初心に戻るのではなく、初心には戻らない進化を私は目指している。
リスタートやリセットは自ら決定して行くものであり、他者の胸先三寸やご機嫌に左右されたくはない。
なので今朝のSNS内での出来事のように私の実体や格を見極めず、私の作品や人生観を安直に批評し、偉そうにふんぞり返っているような相手に対しては、公衆の面前で言語を用いたフルボッコに処すこととする。

  

アルバム『Heaven』開放 (2021.07.04)

2021年7月4日、ニューアルバム『Heaven』がリリースされました。
製作期間中に手の負傷等も相次ぎ、そして新型コロナウィルスのパンデミックで世界中の空気がそこはかとなく陰鬱になる等の状況が続く中、それでも自らを奮い立たせながらレコーディングを粛々と続けて来ました。
アルバム企画、アートワーク作成その他(作曲・演奏以外)を、夫・天野玄斎が担当しています。
 

諸事情により、今回は音声による解説動画を省略させて頂くことにしました。その代わりにHPに特設ページを設け、アルバム解説を少しだけ掲載しました。

http://www.didier-merah.jp/musicindex/Heaven/

これを読めば、私が何故解説動画を配信出来なくなったか‥ と言う理由がきっとご理解頂けるかと思います。

 


 
オール・サブスクリプションからの開放とSNSでは綴っていますが、どうやら全各曲のTimeが10分を超えている為、[Amazon Music] のサブスクリプションからは開放されませんでした。
Amazon Musicで試聴されたい方は是非、AmazonのDL販売のLinkよりご購入下さい。

DL販売用のLinkを下記に貼っておきます。
 

iTunes Store:
https://music.apple.com/jp/album/heaven/1571238539

 

Amazon Music

 

本作品は合計3時間弱の超大作です。
是非全編を通じて、地球や宇宙、そして自然神の心の声に思いを馳せて聴いて下さい。