My Petit Ship

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魂を何処かに運んで行く舟。そんな舟にそっと乗り合わせていることを最近、強く感じながら生きている。

それは「」と言う個の意識が始まった時から既に在る話。まるで私鉄から地下鉄、地下鉄からバスへ、或いは特急列車のドアが時々目の前で開くこともあり、ヒトの意識で思うよりも素早く魂がその扉に飛び移って行く感覚。

最早その瞬間の「私」は「私」と言う意識を完全に喪失し、私以前の魂のレベルでものを考え、思い、どこか見知らぬ世界へと繋がるレールを運ばれている。

 

最近、と頻繁に会話をする。

樹はとても長い時間を超えて生きており、神木ともなるとそれは数百年数千年の時間の流れを既に知っている。それは人間である今の私の想像を遥かに超えた意識の一つであるが、ものの意識にはある一定のリズムや呼吸のスパンが存在していることに気付かされる。
私もそのリズムや呼吸の中に在り、それは一個のヒトの思考を超えたもっと大きな流れを形成しているように思えてならない。

勿論この世界に「今の私」が誕生してからは53年と半年と言う月日が経過し、命のカウントは一先ずその法則の中で行うわけだけど、私は自身がJ.S.Bach以前のもっともっと古い時間の中に在った時からの微かな記憶に基づいて今世を生きているようにも感じている。

それを言葉で表現することはとても難しいし困難だが、聴き手を「人間」に限定しなければ縦横無尽なテレパシーとしてもっと別の生命や魂に、この難しい思考や感覚を伝えることが出来ることを確信している。

 

 

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街を行けばその都度樹に呼び止められる。それは会話と言うより「風のささやき」に似た音声が脳の中に直接語りかけて来るような感じに似て、その些細な音声は私の心が乱れていたり怒りで気が荒れている時には殆ど届かなくなる。

樹はそういう時の私に「少し落ち着きなさい」と言って道々の樹々を伝って風を利用しながら私に直接触れようとし、細い小枝が皮膚に触れた瞬間に私は彼等の思いに気付くこともある。

 

最近人の世界が本当に嫌になって来た。
樹々が静かで広いコミュニティーを形成しているのは、お互いの心情や心音に敏感だから。その敏感さは人間世界では「過敏症」だと受け取られ、私が放つ一言一句を大雑把に、まるで新聞紙にゴミでもくるんで捨てるように一部の人たちが私を揶揄する。勿論本人たちにはそれが揶揄だと言う認識は全くなくて、まるで広い心で物事を俯瞰する達人のような形相で私を諭しにかかって来る。

それらの大半が間違った諭しである為、とてつもなく気持ちが悪い(笑)。

 

私の生い立ちや血筋の話を未だ、殆どの人たちは知らない。おいそれと、それを口にすることには大きな恐怖心と躊躇があるけれど、視える人にはそれが視えると分かると私はやはり「視える」人たちとだけ関わって生きて行く方が何かと自由でのびのびと振る舞えるのではないか、とも思う。

但しこれは物質世界に対する嫌悪ではなく、あくまで一部の(いえ、多くの)ヒトの退化の現象を私がかなり間近に感じ取っている証しでもあり、視えない人に「視てね」と願っても無駄だし、感じない人たちに「もっと敏感に感じ取ってね」と言うことも出来ない大いなるもどかしさの中で若干、私は空回りしてもがいているのかもしれない。

 

Didier Merahの作品を聴いて頂ければ私が、どのような感覚で常日頃生きているのかについては私の文字を視るよりも明らかだ‥ と言いたいところだけど、その感覚を鎖しているものが人の「強欲さ」や「承認欲求」の一種であるとするならば、多分私は人間の中の「異種」に相当し、結局のところ私は「ただの異種」として扱われているに過ぎない、とも言えそうだ。

 

宇宙人とヒトとの会話がきっと難しいように、私もそれなりの不満や不服をしっかりと相手に伝えつつ、そこには感覚の大きな壁が在ると言うことも重々認識しながら人里からもっともっと遠くに離れて生きて行くことを選択した方が、きっと何かと衝突が起きないだろうし(双方に)行き違いや不満も生まれずに済むのだろう。

時に、寂しさが災いし、ニンゲンと深く会話を試みたくなる衝動をむしろ私の方が抑え込まなければならない辺り、ヒトと言う箱に生まれ付いた厄介さを今頃、さらに痛感している。